サプライズ [3月期間限定/Extra 11]  



(2)

 今年もにぎやかだと、ビールを一口飲んだ大橋は口元に笑みを浮かべる。
 会社の恒例行事である花見は、部署ごと に日にちをずらして行われるのだが、それでもやはり大所帯となり、だからこそ楽しい。
「補佐、飲んでますかっ?」
 部下の一人である男性社員が側にきて、遠慮なく大橋の紙コップの中を覗き込んでくる。そして、溢れそうなほどビ ールを注いできた。
「補佐、これも食べてくださいね」
 すかさず反対側には女性社員が来て、オードブルが山ほ ど盛られた皿を置いていく。すでに大橋の前には、屋台で買ってきたさまざまな食べ物が置かれているが、目に入らなかっ たのか、大橋なら平気で食べると思われているらしい。
「……お前らなあ、俺には日ごろ、一人暮らしだからこそ食い 物は節制しろと言っているくせに、なんだこれは」
「あら、モテモテじゃないですか」
 背後からおもしろがるよ うな声をかけられて振り返ると、旗谷がクレープを手に立っていた。
「夜そんなもの食ったら、太るぞ」
 率直な 意見を述べると、すかさず背を叩かれた。
「相変わらず、すごい屋台の数ですよ。珍しいものもいろいろ出ていたから、 補佐も見に行きません? 何か買ってあげますよ」
 俺は子供か、と洩らして、大橋は首を横に振る。
「俺は動く より、飲んでいたい」
「……男はこれだから……」
「日ごろ一人でチビチビ飲んでいるとな、大勢で飲むと、涙が 出そうなぐらい楽しいんだ」
 大橋としては冗談で言ったつもりなのだが、なぜか旗谷だけではなく、周囲に座ってい る部下たちまで一斉に、同情するような視線を向けてきた。
「いや、お前ら……、冗談、だぞ?」
 この微妙な空 気をどうしようかと思っていると、タイミングよくというべきか、大きな声が割って入ってきた。
「おい、誰か来てく れっ。うちの女の子が、酔っ払いたちに絡まれてるんだ」
 それを聞いた大橋は、すかさず立ち上がる。
「補佐っ ?」
 驚いたように旗谷が声を上げ、肩に手をかけてくる。大橋はニヤッと笑いかけた。
「一応、俺が責任者だか らな」
「でも――」
「大丈夫だ。騒ぎにならないよう、収めてくる」
 あまり酔っていない男性社員数人を伴 って、女性社員が絡まれているという場所に出かける。
 運よく、絡んできているほうも会社の花見で来ている男たち で、すでに冷静な社員が何人か間に入っている。大橋はここぞとばかりににこやかに声をかけると、さりげなく女性社員を 自分のほうに引き寄せ、相手側と短く会話を交わしてから速やかに撤退する。
 戻ってきた大橋を見ると、旗谷は笑い ながら手を叩くまねをした。
「さすが、補佐」
「殴りかかってきたら、逃げようと思ったんだがな」
「照れな いでくださいよ。たまに見せる男らしい面に、女性社員一同、うっとりですよ」
 白々しい旗谷の言葉に、大橋はまじ めに頷く。
「だったら、お礼のキスでもしてもらうか」
「……補佐を尊敬する男性社員が、喜んでしてくれるんじ ゃないですか」
 思いきり冷めた表情を向けられ、少々大橋は傷つく。傷ついた心は、男性社員たちの輪に強引に入り 込むことで癒すことにした。


 花見ということもあり、今日は自宅に車を置いてきた大橋は、帰りは電車だ。
 別にタクシーでさっさと帰ってもよ かったのだが、たまには電車もいいだろうと思い、酔い覚ましもかねて乗った。
 女性社員に関しては駅前からタクシ ーに分乗させ、全員しっかり見送った。男性社員に関しては――知らない。他人に迷惑をかけるなよ、という言葉だけは贈 っておいた。あとはまっすぐ帰宅しようが、二次会に出かけようが、大橋の与り知らないことだ。
 さすがに花見シー ズンだけあって、電車内には足元の覚束ない男女の姿がいつになく多いように見える。
 つり革に掴まった大橋は、思 わず自分の足元に視線を落とす。一応自分では、まっすぐ立っているつもりだが、他人の目からはあんなふうに見えている のだろうかと、ふいに気になったのだ。
 多分、大丈夫なはずだ。
 軽く足踏みをして確かめたところで、電車が 停まる。大橋は顔を上げると、乗り降りする乗客の姿を一瞥してから、正面を向く。ガラスを通してホームの向こうが薄ぼ んやりと照らされていた。
 咄嗟に、看板照明か何かだと思ったが、違った。
「桜、か……」
 目を凝らした 大橋は、無意識に口中で呟く。
 満開といってもいい桜が、薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
 ついさ きほどまで、さんざん桜を眺めていた大橋だが、不思議とその桜に心惹かれた。ライトアップされることもなく、静かに咲 いている姿が、優しく誘いかけているように感じられる。
 酔いもあり、上機嫌であるというだけでなく、いつになく 理性が少々奔放になっていた大橋は、考える間もなく、気がついたときには電車を降りていた。自分で自分の行動に驚いた ぐらいだ。
 電車のドアが閉まるのを見て、前髪に指を差し込む。思わず声を洩らしていたが、次の瞬間には、まあい いか、と思って歩き出していた。
 どうせ帰宅したところで、誰かが待っている家でもない。
 ただ今夜は、みん なで騒いだあとだけに、自宅の静けさが際立つだろう。伊達に二度の離婚を経験して、一人暮らしをしているわけではない。 寂しいとか、静かとか、そういう単語には敏感なのだ。
 駅を出た大橋は、桜が見えた方向に向かって歩き出す。この 辺りの詳しい地図は頭に入っていないが、桜までさほど距離がありそうには見えなかったので、迷うことはないだろう。
 生来の大雑把さを発揮して、どんどん大橋は歩いていく。
 住宅街らしく、少し歩くと車や人の通りも途切れがちに なり、春の風だけが穏やかに通りを抜けていく。
 春の匂いだなと、大橋は軽く鼻を鳴らす。どんな匂いとはっきり言 えるわけではないが、柔らかな、妙にいい香りがする。例えば――。
「桜の花の匂いか……?」
 街灯の明かりと は違う、ぼんやりとした淡い光が視界に入る。大橋は歩調を速め、それが桜であることを確認した。
 小学校の校庭に 植えてある何本もの桜の木が、電車の中から見えたのだ。
 どれも立派な桜の木だった。小学校の周囲を塀で囲ってい るのだが、桜の枝は、その塀の上から覆い被さるような形で成長しており、おかげで小学校の外にいて、桜の恩恵に預かれ る。
 アスファルトの上に散った桜の花弁が、風が吹くたびに鮮やかに舞い上がる。
 その桜の花弁を目で追って いた大橋は、次の瞬間、ギョッとした。こんな場所で桜を眺める酔狂な人間は自分ぐらいかと思っていたが、違ったのだ。
 塀のすぐ側に立ち、桜の枝に向けて手を伸ばしている人間がいた。コートを羽織ったすらりとした後ろ姿は男のもの で、風になびいたコートの下はスーツだった。
 桜の枝を手折ろうとしている不埒な輩だろうかと思い、つい大橋は男 の行動を観察していた。何かあれば注意するつもりだったが、すぐに拍子抜けすることになる。
 男は、伸ばした指先 で桜の枝に触れているだけだった。無理に桜の花を散らすわけでもなく、ときおり、息が詰まるような慎重さで花弁を撫で ている。
 花を愛でるとはこういうことを言うのかもしれないなと、すっかり男の指の動きに目を奪われながら、そん なことを大橋は考える。
 桜だって、根元で派手に騒がれるよりは、こんなふうに大事に触れられるほうが嬉しいかも しれない。もっとも、大橋は桜の木ではないので、あくまで勝手な想像だ。
 桜の花より、男の手が動く様のほうに見 入ってしまう。
 だが、その時間も長くは続かなかった。大橋が思わず一歩を踏み出したとき、予想以上に大きな足音 を立てていた。さすがに男の耳にも届いたらしく、ピタリと手を止めたあと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「お前 っ――……」
 向けられた白い顔を見た大橋は、驚いて声を上げる。見知った顔だったからだ。
 数瞬、思考が停 止したが、なんとか声を絞り出す。
「よ、お、藍田」
 桜を指先で愛でていたのは、思ってもみなかった人物だっ た。
 大橋のオフィスとは、中庭を挟んで向かいに位置したオフィスの主でもある、新機能事業室副室長・藍田春記だ。
 大橋の中だけのあだ名は、『ツンドラ』だ。
 藍田は普段と変わらず、造り物めいて整った顔に表情らしい表情 も浮かべず、冷たい雰囲気を漂わせている。
 こんな男が、どんな顔をして桜に触れていたのかと思ったが、さすがに それは大橋の想像力を超えており、思いつかない。
 凍りつきそうな場の空気から逃れたくて、咄嗟にこんなことを言 っていた。
「いい、桜だな。ここの桜は……」
 そうだな、とでも返せば可愛げがあるものを、藍田は何も言わず 歩き出し、車道脇に停めた車に乗り込んだ。
 あ然とする大橋の目の前を、藍田が運転する車が走っていく。
「な んなんだ、あいつは」
 前々からよくわからない奴で、愛想がないのはわかっているつもりだったが、もう少し対応の 仕方があるのではないか。
 心の中で猛烈に文句を並べ立てた大橋だが、桜に目を向けると、尖りかけた気持ちもすぐ に和らぐ。
 あんな無愛想な男が、この桜をよく見るためにわざわざ車を停め、しかも手を伸ばして枝や花に触れてい たのだ。
 なんとなく、微笑ましさを覚えてしまう。
 もしかすると、見られたくない場面を大橋に見られて、藍 田なりに照れていたのかもしれない――。
 ふと、そんなことを思いついた大橋だが、思いきり首を傾げて呟いた。
「それはないか」
 塀に歩み寄ると、桜に向かって手を伸ばす。藍田の真似をして桜の花に指先で触れようとしたが、 寸前のところでやめてしまった。
 いかにも武骨そうな男の指で触れるには、あまりに桜の花は繊細だ。せめて、藍田 のように器用そうな指でなければ、散らしてしまう。
 柔らかく動く藍田の指の動きを思い出し、なぜか大橋はうろた えていた。
 きっと、酔いのせいだろう――。








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