サプライズ


[6]


 デスクに頬杖をついた大橋は、もう片方の手で書類を摘まみ上げ、一応目を通しているふりをしていた。
 移転推進実行プロジェクトなどと大層な名称がついているが、ようは引っ越しの準備をするだけだろう、と嫌味を言われることが多い大橋だ。そのたびに、顔で笑いながら、心の中では盛大に毒づいている。
 荷物の移動は業者に任せればいいだろうが、とりあえずの拠点となる東京支店のビルや、大手不動産会社と賃貸契約を交わすことになっている高層ビルに入るとなると、新たな部署の配置を考えなければならない。
 それに伴い、備品などを購入する必要もある。購入は別部署の仕事だが、プランを作るのは、オフィス企画部の仕事だ。
 今、大橋の元には、あらゆる会社から提出してもらった膨大な数の見積書が集まってきていた。そこに商品カタログも加わると、わけがわからない。
 それでなくても、移転に関する入札会を開催するために、準備で忙しいのだ。
 そう、忙しいはずなのだが――。
 大橋は書類を摘まみ上げたまま、視線を窓の外へと向ける。新機能事業室のオフィスには、さきほどまで席を外していた藍田が戻ってきており、冷ややかな横顔を見せてパソコンの画面を見ていた。
 いつもと変わらない端然とした佇まいの藍田を、大橋はニヤニヤしながら眺める。どんなに澄ました顔をしていても、藍田が着ているスーツは、大橋が選んだものなのだ。
 着心地が悪いと思っているのだろうなと、藍田の心中を想像するだけで、声を洩らして笑ってしまいそうになる。
 冷静で生意気な後輩を従わせたというささやかな事実に、大橋は浮かれていた。藍田本人は嫌がらせだと感じているかもしれないが、大橋としては感謝してほしいとすら思っている。
 なんといっても、普段とは違う色合いのスーツを身につけた藍田は、やたらオフィス企画部内で評判がいい。おそらく、新機能事業室でも密やかに盛り上がっているはずだ。
「……俺に感謝しろよ」
 当人の前で言ったなら、射殺されそうな眼差しを向けられるであろう言葉を呟き、大橋は相変わらずニヤニヤする。
「何、藍田副室長をいやらしい目で見ているんですか」
 突然かけられた言葉に、大橋は摘まみ上げていた書類をはらりとデスクの上に落とす。
「ああ?」
 顔を上げた先には、旗谷が人の悪い笑みを浮かべて立っていた。今日は扇情的なノースリーブ姿で、露わになった白い肩が眩しい。
 しかし大橋が気を取られたのはそちらではなく、旗谷の発言のほうだ。
「旗谷、お前の表現はおかしい。それとも、目が悪くなったか」
「いいえ、目がいいから、そんなふうに見えたんです」
「そんなふう……」
「――いやらしい目」
「……それはいい」
 決まりが悪くて、書類に視線を落とすふりをして旗谷の好奇に満ちた眼差しから逃れようとしたが、無理だった。
 旗谷は窓に歩み寄ると、新機能事業室のオフィスのほうを眺め始める。
「……あんまり見てると、藍田に睨まれるぞ。あいつ、こっちをまったく見てない素振りを見せてるが、絶対気づいてるからな」
「なんだか藍田副室長、今日は色気がありますね」
「おーい、俺の話を聞いてるのか」
「スーツのせいですか。藍田副室長らしくない色合いですよね。いつも、野暮ったいぐらい地味な色のものばかり着ているのに。でも、今のほうがいいですよ。華やかで。もともと、すごくいい男なんだから」
 これだけ近くにいて聞こえないふりもできず、仕方なく大橋は応じる。
「あいつにそう言ってやれ。もしかして、喜ぶかもしれんぞ」
「でも……、あのスーツ、どこかで見た記憶があるんですよね」
 旗谷から意味深な流し目を寄越され、大橋は苦い顔となる。
 事情を説明するのはかまわないが、それを知った藍田が嫌な顔をするのは目に見えていた。藍田としては、大橋と親しいなどと思われるのは、甚だ不本意だろう。
 しかし、何か話さないと、旗谷の追及から逃れるのは不可能だ。
「あいつが着ているスーツ一式は――」
 仕方なく口を開いたとき、タイミングよく大橋あての電話がかかってくる。旗谷を見上げてにんまり笑いかけると、ため息をついて旗谷はデスクを離れた。
 ほっとしながら受話器を取り上げた大橋だが、すぐに微妙な表情となる。相手は、大阪本社の管理室からだ。
 この時期、管理部門から連絡があるとすれば、大橋にとっていい話ではないだろう。上の人間からの覚えがよくないと自覚があるだけに、どんな嫌味を言われるのだろうかと身構えてしまう。
 イスにふんぞり返りながら長電話に耐えようとしたが、意外なことに用件はあっさりしたものだった。
 今から管理室に来てくれ、と。
 憂鬱な気分になりながら受話器を置いた大橋は、無意識のうちに視線を向かいのオフィスに向ける。たまたまなのか、藍田もこちらを見ており、見事に目が合った。
 これまでの藍田なら、何事もなかった顔をして大橋を無視していただろうが、今は違う。明らかに大橋を意識した素振りで、露骨に嫌そうな顔をしてから、陽射しが差し込んでいないというのに、ブラインドを下ろしてしまったのだ。
「……可愛げのねー奴。泊めて、スーツを貸してやっただろ」
 酔っ払って藍田に迷惑をかけたことは、この際置いておく。
 呼び出された手前、いつまでも自分のデスクでのんびりしているわけにもいかず、億劫な動作で立ち上がった大橋は、少し席を離れることを部下に告げてオフィスを出る。
 エレベーターを待ちながら、管理室がなんの用なのだろうかと、いまさらながら考えていた。
 管理室とは、いわゆる社内の調整役だ。すべての部署の業務内容において矛盾が生じないよう、統一性と整合性を監督している。調整役とはいっているが、社員にとっては、口うるさい監視者と表現したほうが受け入れやすい。
 藍田がいる新機能事業室は、営業部門にとっては鬼門ともいえる部署だが、管理室は、全社員にとって近づきたくない部署といえる。
 今のところオフィス企画部は、管理室に睨まれるようなことはしていないし、大橋自身にも身に覚えはない。唯一の心当たりといえば、本社の移転推進プロジェクトだろうが、これはそもそも、上の命令で動いているに過ぎない。
 首を捻りながら管理室のオフィスに入ると、すでに待ち構えていた男性社員に促され、いきなり管理室室長の執務室へと案内された。
「――すみません、大橋さん。忙しいところをお呼び立てして」
 足を踏み入れた途端、そんな言葉に出迎えられる。
 管理室室長である宮園は、三十代後半の印象の柔らかな男だった。顔立ちそのものはいいのだが、それよりも一見穏やかな表情に目を取られる。ただし、中身は非常に切れ者で、穏やかな笑みを浮かべながら鋭い言葉を吐く。笑いながら、言葉を凶器にできる男なのだ。
 好印象を抱けるとすれば、相手が誰であろうが、丁寧な言動を崩さないという点だろう。だからこそ、敵か味方か掴みにくいともいえる。腹の中が読めないのだ。
 持っている発言力のわりには、手狭にも見える管理室室長の執務室は、膨大な資料でそのスペースの半分が占められていた。
 本社の移転日までに、少しは処分してくれるのだろうかと、大橋は頭の片隅でちらりと思う。
 宮園に言われるまま、質素な応接セットのソファに腰掛けると、向かいに腰掛けた宮園はもったいぶることなく、いきなり本題を切り出してきた。
「田山さんと、やり合ったそうですね」
 一瞬、田山とは誰だろうかと考えた大橋だが、すぐに、ホテルの正面玄関で顔を合わせた、東京支社の管理室室長の顔を思い出す。
「……一週間ほど前にうちで会議があったとき、なぜかホテルでお会いしましたが、そのことでしょうか」
「それ以外に田山さんと会ってないなら、そうでしょうね。わたしが電話で聞かされた限りでは、大橋さんと藍田さんに暴言を言われたとおっしゃってましたが」
「わざわざそんなことを、田山室長は電話されてきたんですか。宮園さんに……」
「定例報告の電話のついでに――いや、こっちがついでだったんでしょうか。どうせなら、会議でこちらに来られているときに、直接おっしゃってくれればよかったのに。とにかく、すごい剣幕でしたよ。あの二人はよからぬことを考えているとか、東京支社をないがしろにしている証拠だとか。あの口ぶりだと、東京支社のほうであなた方は、相当憎まれているかもしれませんね」
 物騒なことを言っているわりには、宮園の口調は柔らかなままだ。おかげで、田山の発言をどう捉えているのか、まったくわからない。
 大橋は無難に、頭を下げておくことにする。
「ご迷惑をおかけしました」
「別に迷惑だとは思っていません。むしろ迷惑をかけられているのは、大橋さんと藍田さんのほうでしょう。田山さんのほうから何かしら無理な要求をしたというのは、簡単に想像がつきますから」
 頭を上げた大橋は、思わず宮園の表情をうかがう。すでに宮園は笑っておらず、真剣な顔をしてわずかに身を乗り出してきた。
「――波風を立てるなとまでは言いませんが、あまり派手な揉めごとは起こさないよう、気をつけたほうがいいでしょう」
「それは……、できれば俺も、そうありたいと願っていますが、なにぶん、相手も同じ気持ちとは限りませんから」
 人を食った大橋の返答に、宮園は怒るどころか、ニヤリと笑みを浮かべた。普段は隠している切れ味鋭い刃が一瞬だけ姿を見せたように感じられ、大橋の首筋はわずかに冷たくなる。
「そういう物言いは、相手を選んだほうがいいですよ。田山さんのようにすぐに頭に血が昇るタイプには、あまり賢い対処とは言えませんから」
 大橋は腕組みをして少しの間考え込んでから、やっと自分がここに呼ばれた理由を理解した。
「……もしかして、心配されていますか?」
「本社移転が完了すると、東京と大阪にある管理室は一つにまとめられ、人員は整理されるでしょう。当然、現在二人いる管理室室長は、どちらかが外れることになります」
「経験の田山さんか、切れ者の宮園さんか――」
 切れ者という表現を否定せず、宮園は柔らかな表情で話を続ける。
「わたしは、何事もなければ本社の管理室室長のままでいられるでしょう。田山さんはそれがわかっているから、焦っています。だから、気をつけたほうがいいと忠告するんです。東京支社のほうは、いろいろと難癖をつけてくるでしょうし、本社内でも、若手のあなた方が一時的とはいえ権力を握ることをよく思わない人間もいます。そんな人間たちに付け入る隙を与えないのが懸命です」
 一応宮園は、大橋たちに敵意はないと示してくれているらしい。ただ言外に、自分の立場の安寧のために、失敗はするなとも言っているのだ。
 それでも、面と向かって忠告をくれたことには感謝すべきだろう。あえて大橋と関わらない方法も取れたはずなのに、そうしなかったのだ。
 宮園の意を汲み取り、大橋は素直に礼を言ったが、次の瞬間には、あることが気にかかった。
「――ところで宮園さん、藍田にも、同じ忠告をしたんですか?」
「藍田さんには必要ないと思って、言っていません。彼は慎重な人間です」
 おそらくこのとき、大橋は情けない顔をしていたのだろう。宮園はおもしろそうに唇を綻ばせた。
「大橋さんは、誰かが困っていると放っておけないタイプですね。理不尽な要求を突きつけられると、立場が悪くなるとわかっていながら、相手に向かっていかずにはいられない。社内でうまく立ち回る術も心得ていますが、そんな自分が嫌になることがあったりしませんか?」
「管理室は、怖いところですね。……おっしゃる通りです」
 宮園は満足そうに頷いてから、足を組むと、視線を窓のほうへと向ける。大橋は、そんな宮園を観察していた。
 相変わらず考えていることは読めないが、興味深い男だと思った。管理室という場に身を置いているので、社内のほとんどの部署に通じているはずだし、何より宮園自身が、東京支社の管理室室長である田山より、よほど切れ者ときている。
 味方にはできなくても、絶対敵には回したくない。ちょうど、今のような会話を交わせるぐらいの関係が程よい。
 ちらりと唇に笑みを刻んでから、大橋は宮園に問いかけた。
「で、藍田のことはどんな人間だと、考えているんですか? 俺と違って、あいつは優秀ですけど」
「――優秀で冷静。それが過ぎて、劣等感の強い人間の反感を買うタイプ。それに、他人からどう思われようが気にしない自己の強さと、プライドの高さも持っていると思います。そういう人にとっては、他人からの忠告は迷惑なだけでしょう」
 大橋は声を洩らして笑うと、手を叩くまねをする。
「俺の知っている藍田そのものです」
「今回のプロジェクトの人選ですが、わたしは巧みだと思っています。大橋さんは気配りと目配りができて、いざとなると力業も使える。藍田さんは緻密な作業ができて、有能すぎて――統廃合された事業室の人間から、憎悪を集めやすい存在」
 スッと笑みを消した大橋は、さきほどの宮園のようにテーブルに身を乗り出すと、テーブルを指先で軽く叩いてから、声を潜めた。
「俺はね、宮園さん、俺たちを使い捨てにしようとする意志が働いているのだとしたら、相手が誰であろうが許せないんですよ」
「……俺たち?」
「俺と藍田です」
 宮園は軽く頷くと、組んでいた足を解く。
「わたしを利用できると思うのなら、連絡をください。管理室として、できる限りの協力はします。藍田さんにもそうお伝えください」
 意外な申し出に目を丸くした大橋は、すぐに首を傾げていた。正直、宮園がこんなことを言い出すメリットが思いつかなかったのだ。何もしなくても、宮園はかなりの確率で田山に勝てるはずだ。それ以外で宮園にメリットがあるとは思えない。
 大橋の戸惑いを読み取ったように、宮園は穏やかに微笑む。
「統一性と整合性を常に監督している身としては、実害のない範囲で、会社が目指すものとは逆の方向を見てみたくなるんです。特別な状況のときぐらい、イレギュラーな存在を認めるのもおもしろい。もちろん、田山さんの味方をする気もない――」
 やはり、食えない男だと思いながらも、宮園からその答えを引き出せたことに満足して大橋は立ち上がる。
「何かあれば、さっそく利用させてもらいましょう。藍田にも機会を見て伝えますが、あいつはまあ……、自分から直接、宮園さんに連絡してくる可能性は低いと思いますよ」
「どうしてです? わたしと彼は、けっこう話が合うと思うんですが」
 藍田と宮園が二人でどんなことを話すのか想像して、再び大橋の首筋は寒くなる。とてつもなく物騒なやり取りを、淡々と交わしそうだ。
 大橋はドアノブに手をかけて宮園を振り返ると、ニヤリと笑いかけた。
「――あいつは、ああ見えてシャイなんですよ」
 宮園は一瞬真顔となってから、すぐに、同じような笑みを返してきた。
 管理室からの帰り、廊下を歩きながら大橋はガシガシと髪を掻き上げる。まさかとは思うが、宮園が大橋の最後の言葉を、藍田に伝えないだろうかと心配していた。
 大橋があんなことを言ったと知ったら、おそらく藍田に――
「ぶん殴られるだろうな」
 ぼそりと呟いて、大橋は首をすくめた。




 健啖家らしい勢いで定食を掻き込んでいく大橋を、藍田はじっと見つめる。
 不本意だが、最近よく大橋と一緒にいると思う。別に藍田が願ってそうなるわけではなく、大橋に捕まってしまうのだから仕方がない。
 今日捕まってしまったのは、三日前に大橋から借りたスーツ一式をクリーニングしてから、オフィス企画部まで返しに行ったためだ。
 適当に誰かに言付けて帰ろうとしたのだが、呼び止めた女性社員が余計な気を使い、わざわざ大橋を呼んでしまったのだ。
 それでも、スーツを押し付けて帰れば済む話だが、たまたま昼休みだったこともあり、人の話を聞かない大橋に引きずられて、社員食堂に連れてこられたというわけだ。
 社員数の多さもあり、東和電器本社のビル内には立派な社員食堂がある。
 社員食堂というより、カフェテリアと呼んだほうがしっくりくるようなシャレた造りとなっており、メニューの豊富さと味のレベルの高さにおいて、この辺りの会社では抜きん出ているそうだ。
 食事は腹に溜まればいい、という考えしかない藍田にはどうでもいいことだが、人が多い場所で食事をするのは苦手だ。そのため、社員食堂も苦手な部類に入る。できれば一人で静かに食事したい。
 なのに気がつけば、大橋と顔を突き合わせて昼食をとる事態となっていた。
 決して自分は、他人の強引さに振り回される人間ではないはずなのに、と藍田は思う。
 その姿勢を貫いてここまでやってきたのに、なぜか大橋は勝手が違う。気がつけば、大橋の意見を通されているのだ。
 藍田はきつい眼差しを大橋に向け続ける。そうしていれば、少しは大橋という得体の知れない男のことがわかる気がするのだ。
 大橋と知り合って、もう十二年経つ。
 それからここまで、頻繁に顔を合わせていたわけではない。
 大橋が大阪本社と東京支社を行き来している間に、藍田は地方支社を転々としていた。ただ、東京支社で一時期、同じ部署にいたこともあるが、あのときはまったく意識していなかった。
 つまり、大橋の存在が目につくようになったのは、ここ一年半ぐらいのことなのだ。
 十二年前、初めて大橋と顔を合わせたときから、大橋とは合わない男だと思っていた。今もその認識は変わっていない。
 なのに――、どうしても大橋の存在が目に入り、声が耳に届いてしまう。
 藍田は息を吐き出すと、うどんを啜る。
 ここのところ胃の調子があまりよくないので、大橋のように焼肉定食を食べる気には到底ならない。本当は、目の前で見るのも嫌だ。
「どうした?」
 ふと箸を止めた大橋が首を傾げる。何も、と言いかけた藍田だが、軽く周囲を見回してから答える。
「こうしていると、あんたと仲良さそうに見えるのかと思ったら、複雑だ」
「複雑も何も、実際仲良しだろう。俺とお前は」
 藍田は立ち上がろうとしたが、すかさず大橋に手首を掴まれて強引に座らされる。
「そうイライラするなよ。なんなら肉分けてやろうか? 素うどんなんかじゃ、味気ないうえに腹に溜まっても物足りないだろ。肉食え、肉。この肉をのせてやったら、肉うどんになって少しはマシになるぞ」
 藍田たちの隣のテーブルに座っている女性社員三人が、クスクスと笑い声を洩らしている。大橋の無駄に大きい声のせいで、会話が聞こえていたらしい。
 藍田はイスに座り直すと、黙ってうどんを掬い上げたが、やはり食欲がなくて箸を置く。
「もう食わないのか?」
「食欲がない」
「しっかり食えよ、お前。この間飲んだときも、焼きおにぎりと焼き魚をちょっとつついたぐらいだっただろう。次の日の朝も、牛乳一杯だったし。食が細いのか?」
「……人が何を食べようが、あんたには関係ない」
「――あるな」
 きっぱりと大橋に断言され、藍田はドキリとする。この一瞬だけ、のんびりとして陽気だった大橋の声が怖く感じられたからだ。
 顔を上げると、大橋は声に違わず真剣な表情をしていた。
「俺とお前は一蓮托生なんだ。プロジェクトの進行が本格的になる前に、お前にへばられると、俺のプロジェクトにまで影響が出る」
 そういうことかと、失望にも似た感情が藍田の胸の奥に広がり、思わず口元に冷笑を浮かべる。
「安心してくれ。あんたに迷惑をかけるなんて、死んでもしない」
 藍田はトレーを手に立ち上がろうとする。
「おいっ、お前まだ食い終わってないだろう。しっかり食えよ」
「午後すぐの会議の準備がある」
「こら、待て」
 大橋に呼び止められたが、藍田は無視して、さっさと食器を片付けて社員食堂をあとにした。
 歩きながら、みぞおちの辺りにかけて吐き気に近い不快さが広がる。ここ最近藍田を悩ませる、胃が収縮するような痛みとは、また別のものだ。
 みぞおちに広がる不快さに対してか、無神経な発言をした大橋に対してなのか、藍田はこのとき、ひどく腹が立っていた。


 午後一番に開かれた会議に出席して、藍田はいつになくぼんやりしていた。昼休みに食堂で言われた大橋の言葉が、なぜここまで、と自分でも思うほど心に引っかかっていた。
 大橋は嫌いだ。常に無風を保っている藍田の心に、強い風を吹き込んでくる。
 それによって藍田自身のペースが乱され、また、遠慮容赦ない風をどこかで心地よいと一瞬でも思う自分の変化が、疎ましい。
 それに、仕事上のつき合いしかない人間に心の中を踏み込まれるのは、藍田のプライドが許さなかった。
「――藍田くん、あとの説明をいいかね」
 ふいに声をかけられ、藍田はハッとして我に返る。隣のイスに座っている藍田の上司、つまり新機能事業室室長がこちらを見ていた。
 今が会議中であることを思い出し、藍田は少々動揺する。
「……失礼しました」
 滅多に感情を表に出さない藍田が動揺を露わにしたことが、そんなにおもしろいらしく、室長が皮肉っぽく唇を歪める。それは、会議に出席している他の人間も同様だ。
 藍田が今出席している会議は、新機能事業室が半月に一度、各本部や事業室の責任者を集めて開いているものだ。
 各部署から検討のため上げられてきた資料を、藍田が中心となって新機能事業室で分析して、勉強会も兼ねているこの検討会議で、結果を報告するのだ。
 もっとも、その報告も藍田の役目だ。実質的に新機能事業室を動かしているのが藍田だというのは、周知の事実だった。
 室長としての役割は、あくまで他部署との管理職の年齢的な釣り合いを取るためだといわれている。藍田としてはどうでもいいことだが、室長の立場にある者としては、面子の問題もあって簡単には受け入れがたい現実らしい。
 普段は新機能事業室のオフィスにはいない室長に、藍田は何かとつらく当たられている。
 事業部統合に関する管理実行プロジェクトのリーダーに任命されてからは、その態度に拍車がかかったようだ。
「疲れているようだな」
 会議室中に響き渡るような声で室長に言われる。
「いえ、そんなことは……。申し訳ありません。説明を始めても――」
「まあ、そう慌てなくてもいいだろう。ここにいる皆も、君が任されているもう一つの仕事について、並々ならぬ興味があるんだ」
「……他人事ではありませんしね」
 出席者の中から、そんな声が上がる。確かに、この場にいる責任者が任されているどこかの事業部が、統廃合でなくなるかもしれないのだ。
 なくなるということは、不必要だと判断されたことになり、結果として、責任者たちの管理能力が問われる事態に繋がる。
 常に上からの評価に追われている立場としては、事業部の統廃合は切実な事態なのだ。
 藍田は静かに息を吐き出す。この検討会議で、よりによって一番避けたかった話題が出たことで、胃がまた収縮したような痛みを発する。
「――今は検討会議の場ですから、プロジェクトの話は別の機会にしていただけませんか。わたしとしても、今は資料を集めている最中ですので、はっきりとしたことは何も申し上げられませんし」
「藍田副室長は、資料集めと数字の組み立ては得意だからな」
 明らかな皮肉に応じるように、嘲笑が広がる。
 資料を揃えたうえで、何もかもを数字というデータに変える新機能事業室の仕事内容を揶揄しているのだ。
 自分たちの部署が、他部署に敵を作りやすいところだと理解はしているが、藍田の上司である室長までもが笑う神経が信じられなかった。
 一人が、もっともらしい口調で忠告してくる。
「しかし、人間の感情は数字で表すのは無理だ。藍田くんがデータのみを頼りに事業部を統廃合して、果たしてうまくやっていけるのかどうか……。大事なのは、部下を管理する我々に対して、どれだけ協力を求められるかだよ」
 当人たちが、その部下たちの特性をどれだけ把握しているのか、怪しいものだ。
 藍田は冷ややかに考えるが、もちろん、口には出さない。中傷に近い言葉を、藍田本人の耳に入るところで言われるのは、すでに日常茶飯事となっている。
 当たり前になったからといって、許容しているわけではないが。
 その証拠に、藍田の胸の奥からムカムカと吐き気が込み上げてきた。怒りとも、公の場で晒し者のように扱われることへの不愉快さとも取れる感情のせいだ。
「せいぜい、各事業部でうまく立ち回ることだよ。君のような人間は、それが一番難しいかもしれんがね。若いというだけで、君をよく思わない人間もいることだし」
「肝に銘じておきます」
 ソツなく答えて、藍田はいつものように、数字で示したデータの分析結果の説明を始める。
 完璧な冷静さを取り戻した藍田に、数人の顔に不満そうな表情が浮かんだのは気づいたが、徹底して無視した。









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