Sweet x Sweet [Extra 01] clap  





 大学から戻ってきた博人は、玄関のドアを開けた途端、息を止めた。足元から急速に、冷気が――いや、恐怖が這い上がってくる。
「裕貴っ」
 八つ歳の離れた弟の名を呼び、持っていた荷物を三和土に落とした博人は靴を脱ぎ捨て、廊下に倒れている裕貴を抱き起こす。骨格が完全に出来上がっていない、いかにも脆そうで華奢な体だ。その体が苦しげに震えていた。
「裕貴、大丈夫か?」
 ハッ、ハッと独特の速く浅い呼吸を繰り返しながら、裕貴がわずかに目を開く。いつからこの状態なのか、目の焦点が危うく、顔から血の気が失せている。
 どこが苦しいのかは一目瞭然で、裕貴は胸に手を押し当てていた。
 頭で考えるより先に博人は裕貴の軽い体を抱き上げ、一階の奥の部屋へと向かう。そこが裕貴の部屋だった。
 体の弱い裕貴を夜間、病院に連れて行くことはたびたびある。そのたびに、一階と二階を繋ぐ階段を裕貴を抱いて駆け下りるのは危ない。博人自身はどうなってもかまわないが、ガラスで出来たような弟を落とすわけにはいかなかった。
 その辺りの博人の思慮が働いた結果、一階には裕貴と博人の部屋が、二階には、滅多に帰って来ない父親の仕事部屋と書庫という配置になったのだ。
 博人は裕貴の体をベッドに横たえると、制服のジャケットを脱がせ、イライラしながらネクタイを抜き取ってワイシャツのボタンを二つ外す。それから、常にベッドの枕元に置いてある酸素ボンベを準備する。
 裕貴にチューブをつけて酸素を吸入させるまでの博人の手つきに、無駄は一切なかった。慣れているということもあるが、一秒でも速く裕貴から苦しみを救ってやりたいという気持ちが勝っている。
 博人はベッドの傍らで、じっと裕貴の顔を見つめ続けた。中学生になった裕貴は同年代の少年たちに比べると、ずっと大人びた物腰をしている。ただ顔立ちそのものは、無邪気な子供そのものだ。
 男の子だとか女の子だとか、そういった性別の区別すら必要としない、不安定でありながら純粋な存在感を持っている。この年代特有というわけではなく、おそらく裕貴だからこその印象だろう。
 友人たちからはよく指摘されるが、他人に言わせると博人は、親バカならぬ、兄バカ、なのだそうだ。
 何よりも、誰よりも、弟の裕貴が可愛くて、特別――。それは事実だ。
 家を出ていった母親似の容貌をした裕貴だが、博人にしてみれば、裕貴のほうがよほど繊細で整った顔立ちをしている。その顔が苦しげに歪むさまは、痛々しくて見ていられない。
 裕貴の心臓は、普通の人間に比べて構造に多少の欠陥がある。手術を必要とするほどひどいものではないが、日常生活でも気をつける必要があるし、今のところ、運動も制限されている。裕貴もそれがわかっているので、今日のような状態になることは最近はあまりない。
 何があったのかと思いながら、博人は片手を伸ばした裕貴の柔らかな髪を撫でる。すると裕貴がゆっくりと目を開き、わずかに顔を動かして博人を見た。
 まだ苦しいのか、物言いたげな眼差しを向けてきながら、浅い呼吸を繰り返している。ただ、顔には赤みが戻ってきていた。
 ここで博人は、自分がまだコートすら脱いでいないことを思い出し、慌てて脱いですぐにまた裕貴の髪を撫でる。
 さまようように裕貴の右手が動き、意図を察した博人はしっかりとその手を握った。博人がそういうふうにしてしまったのだが、裕貴は甘えたがりだ。――博人に対してだけ。
 裕貴が大きく息を吐き出し、呼吸が整うのを待ってから、博人はできるだけ優しい声をかけた。裕貴にしか聞かせない、特別な声だ。
「もう大丈夫か?」
「平気。楽になった。……本当は自分で準備しようと思ったんだけど、間に合わなかった」
 裕貴が鼻に当てたチューブを外そうとしたので、その手を止める。呼吸が楽になっても、
念のためだ。
「何があった。普通にしていたら、あんなところで倒れ込まないだろう」
「……兄さん、勘がよすぎるよ」
 小学生の頃までは『お兄ちゃん』と呼んでくれていた裕貴だが、中学に入った途端、それが恥ずかしくなったのか、『兄さん』と呼ぶようになった。それはそれでいいのだが、博人はときおり、甘えた声で裕貴に『お兄ちゃん』と呼ばれていた響きが懐かしくなる。
「勘もよくなる。お前は中学に入ってから、あまり学校のことを話してくれなくなったから、俺が察するしかないだろう」
「別に……話すようなこともないし」
 体のことがあってか、裕貴は中学校に馴染めない。父兄参観で行ったことがあるが、博人は学校内での裕貴の異変に気づいていた。窮屈そうで、居心地が悪そう。それに、周囲に対して神経を張り詰めていた。あの状態が心臓にいいはずがない。
 小学校のときは仲のいい子が何人もいたが、中学校では大半の子が別の中学に行ってしまったのだ。
「――裕貴」
 低く名を呼ぶと、裕貴が上目遣いに博人を見上げる。自分に都合が悪いことがあると、裕貴はよくこんな顔をする。
「走って帰ってきたんだ。ただ、それだけだよ」
「違うだろう。お前は小さい頃から走らないように言われている。つまり、走らざるをえない状況にあったということだ。肝心な部分を誤魔化そうとするな」
 博人の言葉に、裕貴は表情を曇らせる。それで十分だった。
「追いかけられたんだな。お前の心臓が悪いと知っているのに――」
「ぼくにすぐ追いつけるはずなのに、絶対に捕まえたりしないんだ。息が切れて座り込んでも、待ってるんだ。早く走れって言って」
「……いつもの奴らだな」
 少し間を置いて裕貴はコクリと頷く。裕貴に見えないよう、博人はベッドの下で拳を握り締めていた。
 裕貴を目の敵にしてイジメている少年たちがいる。博人はすでに学校には報告しているが、なんの手も打ってないらしい。もしくは、教師が注意したところで関係ないというところか。
 それならそれで、方法はあった。相手が子供だと思わなければ、博人はいくらでも容赦ない手段が取れるのだ。
 博人の怖い部分を感じたように、裕貴が一瞬怯えた目をする。安心させるため、博人は笑いかけた。
「お前は明日から一週間ぐらい学校を休め。その間に、俺がなんとかする。勉強なら、五十嵐に頼んで見てもらうようにするから」
 大学の後輩の名を出した途端、裕貴は顔をしかめた。誰の影響か、裕貴は『女』に対して極端に嫌悪の感情を見せる。おかげで家に通っていた家政婦も辞めさせることになった。
「兄さんは見てくれないの?」
「俺も見てやる。だけど彼女は家庭教師のバイトをしていて教え方が上手いだろう? それに俺ばかりついていると、お前を甘やかすだけだからな」
「……自覚あるんだ」
 そう言ってやっと裕貴が笑い、博人も同じ表情で返す。ただし腹の中では、弟を危険な目に遭わせた相手に対して、凍えそうに冷たいものを抱えながら。









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