缶ビールに口をつけながら、博人は隣のリビングを静かに覗く。客人など滅多に訪れないリビングは、ほとんど弟の別室のような環境になっている。
博人が次から次に買い与えたゲーム機が常にテレビに接続され、テーブルの上にはゲームの攻略本だけでなく、料理本も何冊か積み重ねられている。父親が購入した高価なスピーカーも設置されているのだが、ゲームの効果音に臨場感が増す程度にしか価値を見出されていない。とにかくリビングは、弟の――裕貴のためのスペースだった。
リビングの主である裕貴は、ソファにクッションを抱えるようにして座り込み、真剣な顔でゲームのコントローラーを握っている。
裕貴は昔からゲームが好きだった。普通の親なら眉をひそめていい顔をしないかもしれないが、子供の頃から心臓の欠陥のせいで外で遊べなかった裕貴を知っている博人にしてみれば、なんでもない、日常の光景だった。むしろ、裕貴のこんな姿を見ると安心する。
裕貴は中学三年生になった。心配していた心臓のほうも、裕貴を苦しめる原因であった心房の穴は少しずつ確実に塞がり、今はほとんど発作を起こさない。運動もある程度は許可されているのだが、博人は体育の授業は変わらず休ませていた。
それだけでなく、学校の野外活動も――。
自分の目の届かないところで、万が一裕貴が発作を起こして苦しむことに耐えられないのだ。いまだに心配でたまらない。
博人の裕貴に対する過保護は、おそらく死ぬまで治ることはないだろう。
ただ、他人にはわからないだろうが、裕貴は庇護欲を刺激する存在なのだ。もともとそういう資質を持っていたのか、博人がそういうふうに育ててしまったのか、博人自身にもわからない。もしかすると、その両方かもしれない。
博人はそっと目を細め、裕貴を見つめる。
身長はそれなりに伸びたが、高校生並みに成長した同級生の男子たちに比べれば、やはり少し見劣りする。何より、体つきが華奢だ。ただ、パジャマ代わりのタンクトップと短パンから伸びた手足は細いながらもしなやかで、ひ弱さはない。
ほとんど野外で活動しないため肌は白く、横顔の繊細さは、子供の頃よりも顕著になってきた。この先どれだけ成長しても、父親似だといえる特徴が出ることはないだろう。そのことに博人は安心している。裕貴に、父親のような男らしくアクの強い特徴が出ることは喜ばしいことではなかった。
「――なんでじっと見てるの?」
ふいに裕貴が口を開く。最初博人は、自分に向けられた疑問だと思わなかったが、裕貴がコントローラーを置いてこちらを見たため、やっと我に返った。
「見てたか?」
「見てたよ。可愛い弟だと、改めて実感してた?」
クッションを抱き締めながら裕貴に笑いかけられ、博人は苦笑を浮かべる。自分が兄から、底なしに可愛がられているとよく知っているからこそ、裕貴はこんなことを言うのだ。他の誰が言っても傲慢に聞こえるだろうが、裕貴は特別だ。
博人は大まじめな顔をして頷く。
「なんでこんなに可愛いんだろうと思っていた」
「やめてよー。兄さんが言うと冗談にならない」
「冗談じゃなく、本気で言ったんだぞ」
「……こんな会話している兄弟って、他にいないだろうなあ」
「どうだろうな」
そう応じながら博人は裕貴の隣に腰掛ける。すかさず裕貴が体を寄せてきて、もたれかかってきた。博人の過保護や溺愛ぶりを笑うくせに、裕貴自身も並外れた甘えたがりだ。もちろん博人は、口に出してそのことを指摘しない。
缶ビールを置いた博人は、片手で裕貴の肩を抱く。なめらかで薄い肩の感触がてのひらに心地いい。
「学校はどうだ?」
リモコンを手に、テレビのチャンネルを切り替えながら裕貴は淡々とした口調で答えた。
「なんか変な感じ。だって、授業受けてるのって、ぼくの他に、他のクラスの四人だけなんだよ?」
「それはまあ、みんな修学旅行に行ってるからな」
小学校のときもそうだったが、博人は中学の修学旅行にも裕貴を参加させなかった。理由はもちろん、心臓が心配だったからだ。
「でも病院の先生は、行っても大丈夫だって言ってたよ」
「行きたかったか?」
ここでパッと顔を上げた裕貴が、にんまりと笑う。
「まさかっ。行っていいって言われたときは、しまった、と思ったんだけど、兄さんが行くなって言ってくれて嬉しかった」
「お前は団体行動にとことん向かないからな。普通の学校生活ですら神経をすり減らしているのに、修学旅行で一日中みんなと一緒だったら、体調を崩すかもしれない」
「それはどうかわからないけど、ほとんど人のいない教室で勉強するのは楽しいよ。一緒にいる子たちも、おとなしい子ばかりだから、いつもより気楽」
それはよかった、と本当は言いたかったが、さすがに保護者としてはそれははばかられる。裕貴はいまだに学校には馴染めていない。博人が手を尽くしたおかげで早いうちにいじめはなくなったようだが、裕貴自身、人づき合いが苦手なことや、学校行事によく欠席することもあり、浮いた存在なのだ。
そこには、裕貴に過保護に接する博人が原因だといえる部分も多大にある。だからといって博人は、裕貴との接し方を変えようとは思わないし、裕貴もそれは望んでいない。学校での友人か博人か、という選択肢で、裕貴は博人を選び続けているのだ。
博人は口元を綻ばせながら、剥き出しの裕貴の腕を優しく撫でてやる。すると裕貴が、言いにくそうに切り出した。
「――修学旅行の件はそれでいいんだけど……」
「なんだ」
「家庭教師の件」
「はっきり言え。五十嵐のことだろう」
裕貴が睨むように上目遣いに見上げてくる。博人は胸の奥がざわつくいつもの感覚を心地よく感じながら、裕貴の髪を何度も梳いてやる。
「あの人、就職活動とかないの? 二年前の兄さんだって、今頃の季節は忙しくしてただろ」
忙しい、というなら、むしろ今だ。銀行に勤めている博人は、一切営業に関わることのない企業情報部に所属している。ノルマに追われることはないが、何かと神経を使う。ただ、自分の性に合っていると感じるし、やり甲斐もあるのは確かだ。
できるなら残業もあまりしたくはないが、こればかりはまだ博人の都合ではどうにもならない。
「お前はまだ、五十嵐が苦手なのか」
博人は、後輩の千沙子の顔を脳裏に思い描く。目を引く美人ではあるが、決して自己主張が激しいほうではなく、むしろ気性は穏やかで優しい。几帳面で神経が細やかなところに博人は好印象を抱いており、一方の千沙子のほうは、博人に恋愛感情を抱いている。いつも、伏せがちにした視線がその気持ちを語っていた。だけど、自分の口で告げることはない。
千沙子はいつも、博人の言葉や行動を待っているのだ。そういう受け身なところも、博人には好印象――都合がよかった。
「優しすぎて、なんだか苦手なんだ。『お姉さん』って呼んでいいのよ、っていうオーラが漂っているというか……。高校受験まで家庭教師は必要だけど、兄さんの後輩なら、別に男の人でも――」
「男はダメだ」
いつになく厳しい博人の口調に驚いたように、裕貴が目を丸くする。博人は心の中で舌打ちしてから言い直した。
「俺の後輩だから、お前にどんな悪さを教えるか、わかったものじゃないからな。それに、今さら別の家庭教師を探すにしても、お前、人になかなか慣れないだろう」
「でもさ……」
「五十嵐の実家はチェーン展開をしている花屋で、彼女はお嬢様だ。五十嵐は大学を出たら、実家を手伝うそうだから、就職活動は必要ないんだ。だから思いきり、勉強を見てもらえ」
露骨に嫌そうな顔をする裕貴だが、決して進学塾に通うとは言わない。学校以外の場所で、さらに人に囲まれることが嫌でたまらないのだ。
博人は裕貴の体を片手で抱き寄せ、顔を覗き込む。
「そんなに五十嵐が嫌だというなら、家庭教師を断るか?」
少し意地の悪い博人の問いかけに、裕貴は唇を尖らせ、拗ねた表情を見せた。この表情だけは、子供の頃からまったく変わらない。
「……いいよ。あの人で」
博人は軽くため息をつき、裕貴の柔らかな髪を撫でる。このときシャンプーの柔らかな香りに鼻腔をくすぐられた。裕貴の頭を抱き寄せて、博人は優しい声で機嫌を取る。
「夏休みに入ったら、どこか旅行に行こう。海外でもいい。父さんとどこかの国で会って、たまには顔を見せてやろう。それとも、国内でキャンプでもするか?」
裕貴は声を洩らして笑いながら、博人の肩に頭をすり寄せてきた。
「修学旅行はダメだっていうくせに、兄さんとの旅行はいいんだ」
「俺は、お前を無理させたりしない。誰よりも、お前の体のことはわかっているからな」
このまま、裕貴が甘えてくるのに任せて時間を過ごしたい衝動に駆られるが、時計を見ると、もう遅い時間だ。博人は軽く裕貴の肩を叩いた。
「おい、そろそろ自分の部屋に行け。明日も『楽しい』学校だろう」
仕方ない、といった様子で体を離して立ち上がった裕貴が、思いきり体を伸ばす。しなやかな体の動きに、博人は目を細めて見入っていた。
「兄さん、ご飯は?」
くるりと振り返った裕貴に問われ、博人は首を横に振る。
「食ってない」
「だと思った。冷蔵庫に作ったもの入れておいたから、好きなの温めて食べてよ」
博人はテーブルの上に置かれた料理本に目をやる。ゲームの攻略本以上に料理本の数は多く、そのうえすべて目を通していることを物語るように、走り書きつきの付箋がびっしり貼られていた。
意外な才能を発揮して、裕貴は料理が上手いのだ。今では食事全般を裕貴が担当しており、気をつかった千沙子が何か作ろうかと切り出しても、キッチンに立ち入らせない。
「――わかった」
博人の言葉に安心したように、裕貴はリビングを出ていき、二階へと上がっていく軽い足音が聞こえてきた。発作をほとんど起こさなくなってから、裕貴の部屋は二階に移動した。
ただし博人の部屋は、残業で帰りが遅いこともあり、物音を立てて裕貴を起こすのも忍びないため、相変わらず一階だ。
博人は片手で料理本の一冊を取り上げて、付箋に書かれた走り書きに視線を落とす。そこに、『兄さんが好きな料理』という文章を見つけ、無意識に唇が綻んでいた。
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