信号待ちで車をゆっくりと停めたとき、助手席で物音がする。博人が視線を向けると、裕貴が抱え持っていた袋が足元に落ちていた。さきほどまで機嫌よさそうに話していたが、眠気には勝てなかったらしい。
中学校を卒業して、無事に希望高校に合格した裕貴の春休みは、比較的のんびりしている。家庭教師はつけたままなので、予習もきちんと進んでおり、おかげで高校での勉強については心配ない。問題があるとすれば、裕貴自身が退屈していることぐらいだ。
心臓が悪かった頃は、家でじっとしていることが苦にならなかったらしいが、すっかり心臓もよくなり、健康になってしまうと、やはり外の空気が恋しいのだという。
それでいて、裕貴は一人では外出したがらない。
どこかに連れて行って、と休日に裕貴にせがまれては、博人としては嫌とは言えない。それに高校に入って忙しくなれば、一緒に遊びに出かける機会は少なくなるはずだ。
そこで、裕貴の意見を聞いて遊びに行ったのが、水族館だった。さすがに日曜日だけあって家族連れやカップルが多く、じっくり魚を見るというより、人を見に行ったようなものだ。
それでも裕貴は楽しんだらしく、あちこちの店でグッズを見て回り、魚のフィギアやグラスなどを買い込んでいた。
博人が、大きなイルカのぬいぐるみを指さして買ってやろうかと言ったときの、裕貴の微妙な表情はなかなか見ものだった。結局、魚の可愛いイラストつきのクッションを買ったのだが、ぬいぐるみとクッションはどう違うのか、博人の感覚ではわからない。
思い出し、唇を綻ばせた博人は片手を伸ばすと、微かな寝息を立てている裕貴の柔らかな髪をそっと撫でてやる。
成長するごとに顔立ちは男の子らしくなってはきたが、それでもやはり、繊細さのほうが勝っている。女の子みたいに可愛い、と近所の人間はよく裕貴を褒める。しかし博人は、その褒め方が好きではない。
授業参観には毎回顔を出している博人だが、同級生のどの女の子も、裕貴ほど繊細な顔立ちはしていないと感じるのだ。
滑らかな頬も軽く撫でてから、再び車を走らせる。
裕貴が眠っているのは都合がいいと思いながら、博人はもう一つの目的地に向かっていた。
博人が店で品物を受け取って駐車場に戻ると、目を覚ました裕貴が、不安そうに車の中から周囲を見回していた。
車に近づく博人を見て、裕貴はほっとしたように笑みをこぼす。
「ひどいよ、ぼくだけ置いてどこかに行くなんて」
ウィンドーを下ろした裕貴に非難がましく言われ、後部座席のドアに手をかけようとしていた博人は苦笑する。
「お前、寝ていただろう。起こすのが悪いと思って、俺一人で行ったんだ。それに、すぐ済む用だったしな」
博人は後部座席のドアを開け、抱えていた箱を置く。振り返った裕貴は目を丸くしていた。
「もしかして、それ――……」
頷いた博人はドアを閉めると、すぐに運転席に乗り込む。
「ここ、この間来たよね? ということは、出来たんだ」
言いながら裕貴はまだ振り返り、箱に手を伸ばそうとしている。博人は笑いながら柔らかくたしなめた。
「こら、帰ってから開けろ。それに、きちんとシートベルトを締めろ」
素直に従った裕貴を確認して、博人は車を出す。
「――制服が出来上がると、いよいよ高校生って感じだね」
また後部座席を振り返りながら、楽しげな口調で裕貴が言った。
箱の中は、裕貴が言った通り、もうすぐ通うことになる高校の制服が入っている。既製品ではなく、指定された店でオーダーメードしたものだ。裕貴のほっそりとした体にしっくりくるものを着せてやりたいという博人の希望だった。もちろん、カッターシャツも何枚か一緒に作ってもらった。
体が成長してきつくなったら、また仕立てればいい。裕貴のために、手間と金を惜しむつもりは博人にはなかった。
「俺は、お前の採寸に立ち合っているときから、実感していたけどな。あの、体の弱くて、しょっちゅう病院に運び込んでいた裕貴が、元気に高校に通えるところまで来た、って」
「……兄さんてさ、うちの父さんより、立派な父さんだよね」
何げない裕貴の言葉に、博人は即座に返事ができなかった。それぐらい複雑な心境になったのだ。
父親がいなくても寂しい想いはさせなかったつもりだが、ときどき、自分は裕貴の父親役であることに、心の奥底で不満を抱いているのではないかという気がする。兄でありながら、父親役以上の価値を裕貴に認めてもらいたくなるのだ。
それは多分、裕貴にとっての『かけがえのない存在』というものを指している。
「父さん、お前の入学式には戻ってこられないそうだ」
「えー、最初から期待してないよ。いつもそうだもん。それに、兄さんが来てくれるほうがいいよ」
「……学校でお前と並んで歩くと、俺はさらに老けて見られるんだよな……」
博人のぼやきに、裕貴は声を上げて笑う。今日は本当に機嫌がいい。朝からずっと、気持ちいいぐらい裕貴はよく笑っていた。
「違うよ。渋い、って言うんだよ、兄さんのこと」
「褒めてくれたから、途中でケーキを買ってやる」
そんなやり取りを交わしながら、博人は帰り道を急ぐ。制服を受け取ってしまうと、どうしてもある衝動が抑えられなくなっていた。
途中、ケーキ屋に立ち寄って裕貴のためにケーキを買ってやり、自宅に帰り着く。
荷物を抱えて急いで家の鍵を開ける博人を、裕貴はケーキの箱を手に不思議そうに眺めていた。
博人はリビングに入るなり、制服の入った箱を裕貴に押し付ける。
「えっ?」
「着替えて見せてくれ。写真を撮る。それで父さんにメールで送ってやろう。入学式のときに、きちんと桜の木の下で撮ったものを送ってこいと言われているんだが、一足先に撮ったものを送ったら喜ぶだろう」
裕貴は苦笑したあと、照れたような表情で箱を受け取り、ぼそりと言った。
「……兄さんと父さんって、変なところで似てるよね」
裕貴がパーカーを脱ぎ始めると、博人は自分の部屋に行き、デジカメを取ってくる。リビングに戻ると、裕貴はちょうど上半身裸になり、カッターシャツを手に取っているところだった。
ほっそりとした白い背を目にした博人は、すぐにその場を離れ、キッチンに立って湯を沸かし始める。写真を撮ってから、裕貴がケーキを食べたいと言い出すのはわかりきっていた。
カップやコーヒーフィルターを用意したところで、リビングから裕貴の声が聞こえてくる。
「兄さん、着たよ」
博人がリビングに行くと、新しい制服に身を包んだ裕貴がはにかんだ笑みを向けてきた。中学の制服と似たようなデザインだが、それでも大人っぽく見える。
裕貴に歩み寄った博人は、雑に結ばれたネクタイを一度解き、きれいに結び直してやる。
「よく似合っている」
「制服なんて、誰が着ても同じだよ。……あっ、ぼくも自分の格好を見たいな」
「写真を撮ったものを、あとで見たらいいだろう?」
室内を見回してから、裕貴をソファの前に立たせて博人は写真を撮る。本当は家の前で撮りたかったのだが、恥ずかしがった裕貴が嫌がったのだ。
「――高校に入ったら、普通の学校を生活を送るんだ」
何回か写真を撮って博人がデジカメを下ろすと、ソファに腰掛けた裕貴がふいに言った。
「普通?」
「心臓も元気になったし、学校行事にきちんと出るってこと。中学のときは、楽だったからいいかな、と思って学校行事サボりまくってたけど、あれでけっこう、みんなと距離ができてたんだ。だけど高校に入るのって、そういうのがリセットできるだろ?」
そういうことを考えていたのかと、博人は内心ショックだった。自分が裕貴をさんざん甘やかしていながら、裕貴自身はこれではいけないと感じていたのだ。
裕貴のすべてを知り、わかってやっているつもりだったが、そうではないという現実を見せつけられた気がする。
裕貴のためにできることはなんでもしてきた。いつの頃からか博人は、そんな自分の中で裕貴に対する庇護欲が暴走しかけているのを感じていた。裕貴のためになんでもしてやり、裕貴のために自分は存在していたい――。
「兄さん……?」
博人の異変に気づいた裕貴が、首を傾げる。博人はぎこちなく微笑み返してやると、裕貴の隣に腰掛ける。
「――……もしかして、俺が過保護にしているのが重かったか?」
聞くつもりはなかったことが、思わず口を突いて出る。裕貴は驚いたように目を見開いた。博人は、しまった、と内心で舌打ちする。裕貴を困らせるだけの質問だったからだ。
裕貴は当然のように首を横に振る。
「そんなこと思ったことないよ。ぼく、兄さんにたっぷり甘やかされるの好きだよ。父さんが同じように甘やかしてきたら、鬱陶しくて逃げ出してると思うけど、兄さんは違う。ぼくは兄さんに過保護にされるのが気持ちいいんだ」
博人は大きく息を吐き出すと、裕貴の髪を撫でてから背を引き寄せ、薄い肩に額を押し当てる。
「俺は正直、お前の心臓が少しだけ悪いままでいてくれたらよかったと思っている」
「少しだけ?」
そう問いかけてきた裕貴の声は笑いを含んでいた。見た目は子供っぽいくせに、ときおり裕貴は、博人ですらドキリとするような大人びたところを見せる。今この状況で笑えることが、それだ。
「少しだけ。ひどい発作は起こさないが、激しい運動はできないだろう? 心臓を理由に、遠慮なく、お前を甘やかしてやれる。お前も、俺に甘えてくれる」
「今だって、同じだと思うけど」
「元気になったら、お前はどんどん俺の手を離れていく。高校に入ったら、現実にそうなるだろうな」
博人はリアルにその瞬間が想像でき、たまらず両腕でしっかりと裕貴の体を抱き締める。
昔は少し力を入れただけで骨が折れそうなほど頼りない体だったが、今は年相応のしなやかさに包まれ、多少きつく抱き締めても大丈夫だと思わせる。
「ぼくは、兄さんが銀行に勤め始めたときに、同じこと考えてたよ。兄さんは本当に大人になって、仕事が忙しくてぼくにかまってくれなくなる、って。でも、兄さんはいつまでもぼくに甘いままだ。だからぼくも、兄さんに甘え続ける」
「裕貴……」
博人は一度体を離し、裕貴の白く小さな顔を覗き込む。てのひらで頬を包んでやると、心地よさそうに裕貴は目を閉じた。
自分だけのかけがえのない存在の感触を、博人はてのひらで時間をかけて確かめる。
そのうち、てのひらだけでは飽き足らず、指先で裕貴のまぶたを軽く撫で、くすぐったそうに綻んだ唇を擦り、少年らしい輪郭を持つ頬に自分の頬を押し当てる。
このままの裕貴との世界が変わらなければいいのに、と願う博人だが、一方で、穏やかで甘いこの世界を、さらに心地のいいものに変えてしまいたい衝動もあった。
もしかしてそれは、衝動というより欲望という表現のほうが正しいかもしれない。
よくわからないが、意外に早く、世界が変わるその瞬間が訪れそうな予感があった。
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