Sweet x Sweet [Extra 04] clap  





「――裕貴、そろそろ寝ろよ」
 ベッドに仰向けになった博人は片手で文庫のページを捲りながら、弟に声をかける。返ってきたのは、なんとも気のない声だった。
「うーん……」
「うーん、じゃない。聞こえているのか?」
 文庫を枕元に置いた博人は、隣で寝ている裕貴に視線を向ける。当然のように博人の片腕を腕枕にしており、さきほどからコロコロと寝返りを打っては、携帯ゲームをしていた。
 博人が柔らかな髪を撫でてやると、やっとゲーム機の画面から顔を上げた裕貴が、上目遣いに見上げてきた。
「腕、痺れた?」
 さんざん人に腕枕をさせておいての無邪気な問いかけに、博人は思わず唇を綻ばせる。
「お前が小さな頃から、腕枕で鍛えてあるから、平気だ。それより、あんまり夜更かしを続けていると、いざ学校に行くときに、起きられなくなるぞ」
「……学校さぼっていいって言ったの、兄さんだろ」
「そんな露骨なことは言ってない」
 澄ました顔で答えると、裕貴に軽く胸を殴られた。だが次の瞬間には、笑い声を上げながら裕貴が胸に額を擦りつけてくる。博人は腕枕をしたほうの手で、そんな裕貴の華奢な背を引き寄せた。
 もともと博人に甘えてくるのが好きな裕貴だが、ここ数日はまるで子犬がじゃれつくように、大学から帰ってきた博人にまとわりついて離れない。
 どうやら、学校を休んでいるせいで、人恋しくて仕方ないらしい。そのくせ裕貴は、他人に対して警戒心が強く、なかなか親しくなることはないのだ。つまり、裕貴の人懐こさが発揮されるのは、今のところ博人に対してだけだ。
 一般的な中学一年生の男の子が、どんなものなのか博人は知らない。ただ裕貴は、反抗期らしいものもなく、無邪気に無垢に、屈託ない感情を博人に向け続けている。
 この世で自分を守ってくれるのは博人しかいないと、信頼してくれているのだ。
 八つ違いの弟のそんな気持ちに報いるため、自宅を一歩出た博人は、活発に動き続けていた。
 あくびをした裕貴がようやくゲーム機を手放し、ごそごそと身じろいでから博人に体を寄せてくる。笑みを浮かべた博人は、眠りを促すように背を何度も撫でてやる。
「――あと少しで、安心して学校に行けるようになる。退屈だろうが、それまで我慢してくれ、裕貴」
 博人が話しかけると、裕貴が伏せていた顔を上げる。ときどきドキリとするほど強い光を放つ目が、じっと見つめてくる。どれだけ裕貴が成長しても、この目だけは変わらないでほしいと、博人はずっと願い続けている。
「ぼくが追いかけられて、心臓が苦しくなったこと、学校に言ったの?」
 まるで内緒話をするように、小声で問われる。その声には、多少の不安が混じっていた。
 中学校に入学してからすぐに、同級生の一部による裕貴のいじめが始まり、博人は数回、担任に相談してみたのだが、無駄だった。
 しかも今回は、心臓が弱い裕貴を追い掛け回し、命の危険に晒すようなことをしたのだ。自分の帰宅が遅く、裕貴が廊下に倒れたままだったらどうなっていたか、今考えてもゾッとする。
 この出来事は、あることを博人に決断させた。
 いじめをやめさせるための手段を選ばない、という決断を。
 中途半端が一番いけないとわかっているので、今回は徹底してやっている。その過程を知られないために、だから裕貴を休ませているのだ。
 週明けに裕貴が登校したとき、何事もなかったように学校生活を送れるのが理想だった。
 博人は、安心させるように裕貴の頬を撫でる。
「お前は何も心配しなくていい。大丈夫だから」
「……兄さんがそう言うと、怖いなあ。昔から、少しやりすぎることがあるから。小学校のときだって、ぼくの担任とケンカしたことあっただろう?」
「あれは――あんまりお前の病気のことに無理解だからだ。ケンカじゃない。論議だ」
「物は言いよう」
 そう言って裕貴はクスクスと笑い、博人の背に腕を回してくる。
「でも、兄さんがそう言ってくれるってことは、絶対大丈夫ってことだ。だから、ぼくは安心して、学校をさぼれるよ」
 裕貴に悪びれた様子はなく、博人としては、それでいいと思っている。裕貴が負担や後ろめたさを感じる必要はまったくないのだ。
 博人は絶えず裕貴の髪や頬を撫でながら、間近にある小さな顔を見つめ続ける。博人に見つめられ慣れている裕貴も、照れた素振りもなく見つめ返してきて、博人と裕貴の兄弟独特の空気を共有する。
 そのうち、裕貴の目の焦点がぼんやりと合わなくなってきて、瞼がゆっくりと落ちてくる。薄く開かれた唇からは、深くゆっくりとした息遣いが洩れてきた。
 博人は慎重に裕貴の頭を抱き寄せ、柔らかな髪に唇を埋める。
 生まれたばかりの裕貴を初めて抱いたとき、世の中にこれほど愛しい存在があるのかと思ったが、いまだにその感覚は薄れることなく、博人の胸にしっかり息づいている。だから、裕貴のためになんでもしてやろうという気になるのだ。
 このまま、二人の生活を送れるなら――。
 そんなことを考えながら、腕の中の裕貴の感触に浸ろうとしていた博人だが、部屋の外で物音がして顔を上げる。
 この家には、今のところ博人と裕貴の二人しかいない。なのに物音がするということは、あることを示していた。
「……いつものこととはいえ、帰ってくるなら、当日でもいいから連絡を入れろよ……」
 呆れて呟いた博人は、裕貴の頭をそっと枕の上に移動させる。一方で部屋の外からは、夜中だというのに大声で、裕貴を呼ぶ声がする。
 あの人は、自分には息子が二人いるという事実を忘れている――。
 博人は苦笑を洩らすと、裕貴の体に布団をかけ直してベッドから出ようとする。すると、指先を握られた。裕貴が薄く目を開けて、寝ぼけた声で問いかけてきた。
「父さん、帰ってきた……?」
「ああ。嫌というほど頬ずりされるから、覚悟しておけよ」
 裕貴は顔をしかめて、頭から布団を被ってしまう。
 兄である博人だけでなく、父親にまで溺愛されて、裕貴は裕貴で苦労しているようだ。
 笑いを噛み殺しながら博人は部屋を出ると、父親を呼ぶ。
 多忙で留守がちな父親と、たまには家族三人で暮らすのもいいだろう。どうせ、半月も続かない生活だ。
 その間、父親から濃厚な愛情を注がれる裕貴には気の毒だが、博人は、父親に不器用に甘える裕貴を眺めるのも好きだった。









Copyright(C)2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[03]  Sweet x Sweet  [05]