Sweet x Sweet

[1]

 今週もよく働いている――。
 エレベーターの中で半分眠りながら、羽岡啓太郎はそんなことを考える。周囲にいる人間 が同じような過酷な労働に従事しているので、当然のことのように受け止めているが、それ が危ない。
 明らかに自分たちは働きすぎなのだ、と声も高らかに啓太郎は主張したい。
「……会社じゃ、口が裂けても言えねーけどな」
 パソコンのモニターを睨みつけながら独り言を言う癖が染み付いてしまったのか、一人で いるとつい気を抜き、思ったことを声に出してしまう。
 今取りかかっている本体構築がようやく今日出来たので、明日からは在庫情報に関する構 築の手伝いにまわり、検索プログラムの構築については、外注先に進捗度を電話で問い合わ せなければならない。
 眠気を上回る空腹と疲労に苛まれながらも、啓太郎の頭の中ではずっと、明日の仕事がグ ルグルと駆け巡り続けていた。心なしか脳みそが熱い。もっとも、脳みそが沸騰する前に、 おそらく神経が焼き切れるだろう。
 啓太郎は、ソフトウェア開発会社に勤めるSE(システム・エンジニア)だ。とはいって も、開発会社にいることはほとんどなく、大半は、ソフト開発を依頼してきた会社に出向い て常駐している。
 現在常駐しているのはサービス系企業で、毎日、ショッピングサイトのオープンを目指し て、ひたすらシステム構築の日々だ。
 二十八歳にしては、SEとして評価され、信頼もされているが、それだけに任される仕事 の規模がでかい。そのうえ、よその会社に出向くという勤務形態のため、周囲は「お客様」 ばかりの環境で、神経と気をつかう毎日だ。
 生活に潤いが欲しいとまでは言わないが、せめて睡眠欲と食欲ぐらいはまともに満たせる 生活であってほしいと啓太郎は祈っている。ついでに性欲も。
 実は啓太郎がマンションの自分の部屋に戻るのは、三日ぶりだ。常駐先の会社のビル近く にあるサウナでシャワーを済ませ、デパートでワイシャツや下着を買い込む日々も、さすが に今日は限界を迎えた。
 仕事がキリのいいところにきたので、とにかく無理して帰宅したのだ。
 エレベーターの扉が開き、前のめりとなって降りる。啓太郎は足を引きずるようにして歩 いていたが、ある異変に気づいて足を止める。
 通路で一人の人間が、箱のようなものを抱えようとして四苦八苦していた。
 啓太郎の部屋がある五階には六世帯が入っており、大半が朝出かけ、夕方や夜帰宅すると いう、いわゆる一般的な時間帯で生活をしている住人がほとんどだ。例外は、啓太郎の隣の 部屋の住人だった。そもそも、角部屋に住むその人物を見かけたことすらない。
 とにかく、宅配業者がよく訪れるわりには、本人が出かける気配を感じたことがないのだ。 非常に静かに暮らしているため、部屋から物音が伝わってくることもない。啓太郎も人に誇 れるほど不規則な暮らしをしているが、隣人は夜中でも明け方でも、室内の明かりが消えた ことはなかった。
 なんの仕事をしていて、老若男女どんな人物が暮らしているのかすら、すべてが謎の住人。 その住人が、とうとう啓太郎の前に姿を現したのだ。
 幽霊じゃないのよな? と自分に対して念押ししながら、啓太郎は目を凝らす。蛍光灯の 明かりの下で隣人はどうやら、部屋の前に置かれた発泡スチロールの箱や段ボール箱を部屋 に運び入れようと奮闘しているらしい。
 初めて知ったが、隣人は二十代前半ぐらいに見える青年だった。少々肌寒くなってきた時 期のため、トレーナーの上からやたら大きなカーディガンを羽織ってはいるが、痩せた体つ きなのが見て取れる。無駄に長身の啓太郎ほどでないにしても、身長はあるようだ。
 不揃いに伸びた髪が動くたびに揺れ、その拍子に隠れた顔が露わになる。ドキリとするほ ど、きれいな顔立ちをしていた。不健康に顔色は青白いが、だからこそ、繊細な目鼻立ちが 映えて見える。
 青年は不機嫌そうに唇を曲げ、ドアにぶつかりながらなんとか箱を一つ部屋に運び入れる。 このとき啓太郎と目が合ったが、青年は露骨に顔を背け、作業を続ける。
 都会での生活なんてこんなものだと思いながら、啓太郎が前を通り過ぎようとしたとき、 重々しい音がする。見ると、青年が発泡スチロールの箱を足元に落としたところだった。蓋 が外れて中が見えたが、ぎっしりと食品が詰まっている。
 青年は落ち着いた動作で屈み、蓋を閉め直してから、また苦労して箱を持ち上げようとし ていたが、頼りない足取りに見ていられなくなる。啓太郎は持っていたアタッシェケースを 置いてから、青年に歩み寄った。
「手伝おうか?」
 パッと顔を上げた青年が、不審そうに啓太郎を見る。長い前髪の間から、涼しげな切れ長 の目が覗いており、改めて、青年の顔立ちのよさに感嘆させられる。これで服装さえきちん としていれば、モデルだと名乗られても信じるかもしれない。
 啓太郎はそんなことを考えながら、できるだけ感じのいい笑顔を浮かべ続ける。
「俺、隣の部屋に住んでるんだ。だから怪しい者じゃない」
 自分の部屋を指さして見せたが、信じているのかいないのか、青年の表情が変わることは ない。
 啓太郎は、自分の外見が他人に不快さや警戒心を与えるものではないと把握している。
 ほどほどにハンサムで気安い雰囲気を漂わせ、これに穏やかな笑顔を付け加えると、さら に好感度が増す。これでも大学時代は女の子たちにもてたのだ。
 あの頃が、人生のピークだった――。
 思わずそんなことを考えた次の瞬間には、猛烈な空しさが啓太郎に押し寄せてくる。人目 がなければ、ひっそりと涙を流していたかもしれない。
 青年がじっと見つめているのに気づき、啓太郎は我に返る。慌てて他の箱を持ち上げた。 見た目よりずっと重い。だが、足元がふらつくほどではない。
「玄関に置けばいいかな」
 言いながら、青年が開けているドアに身を滑り込ませて玄関に入る。
 2DKのマンションで、一部屋ずつが比較的広い造りとなっているので、二人で住んでも 窮屈さはさほど感じないはずだが、玄関にある靴は、今青年が履いているスニーカーだけだ。 どうやら一人暮らしらしい。
 妙な仲間意識を感じつつ、啓太郎は箱を置き、次の箱も手にする。あっという間にすべて の箱を玄関に運び込んだが、箱の中身がすべて食料だとすれば一体何食分なのだろうかと、 つい余計なことまで考えてしまう。
 玄関に立ち尽くしていた啓太郎だが、青年から非難がましい視線を向けられ、急いで玄関 から出る。
「それじゃあ」
 軽く片手を上げると、青年から浅く会釈で返された。
 他人と話したがらない若者の相手は慣れていた。啓太郎の勤める開発会社に入ってくるプ ログラマーの中には、意外と多いタイプだ。
 青年があっさりドアを閉める姿を見送ってから、啓太郎もアタッシェケースを取り上げて 自分の部屋に帰る。
 三日ぶりの我が家は――悲惨だった。
 男の一人暮らしはこんなものだと思いながらも、物で溢れて散らかったダイニングを見る と、やはりげんなりする。
 なんとなく空気が澱んでいるように感じた啓太郎は、空気清浄機のスイッチを入れて、ス ーツからラフな格好へと着替えた。
 ゆっくりと風呂に浸かるのも魅力的だが、今の自分なら、確実に脳貧血を起こせる嫌な自 信があった啓太郎は、とりあえず血糖値を上げることにする。つまり、メシだ。
 さっそく冷蔵庫の前に屈み込んでドアを開けたが、すぐに啓太郎はがっくりと肩を落とす ことになる。
 見事に冷蔵庫の中が空っぽだったのだ。
「そうだった……」
 家を空ける前、仕事で数日泊まり込む事態を想定して、冷蔵庫は空にしてしまったのだ。 もちろん、風呂上がりに愉しみにしていたビールもない。あまりに疲れていたため、帰りに コンビニに立ち寄ることを忘れていた。
 いつまでも空の冷蔵庫の中を恨みがましく眺めているわけにもいかず、大きく息を吐き出 してから冷蔵庫のドアを閉める。
 立ち上がり、テーブルの上に置いた財布に手を伸ばそうとしたが、啓太郎は一声唸ってた めらった。
「――面倒だ」
 マンションから五分ほど歩けば、弁当屋に定食屋、コンビニにスーパーといった店が立ち 並び、気力さえあれば食べることにはまったく困らないのだが、今の啓太郎にはそこまで出 かける気力が欠けていた。
 冷蔵庫が空という想定外の出来事に直面して、完全に気が抜けてしまった。
 仕方なく、財布の横に置いた煙草とライター、それに灰皿を手に取り、ベランダへと出る。 とりあえず煙草でも吸って落ち着けば、多少は空腹も紛れて外に出る気になるかと、啓太郎 は自分自身に期待したのだ。
 煙草に火をつけ咥えると、ベランダの手すりにもたれかかる。すでに日が落ちた辺りは薄 暗いが、少し視線を遠くにやれば、ネオンがまぶしい。どの店も、会社帰りのサラリーマン やOL、学生たちで、これからにぎわうのだ。
 こうして見れば、どの店もすぐ側だと実感できるが、いざ自分の足で歩くとなれば、これ がなかなか億劫だ。
 部屋のどこかに宅配ピザか弁当のチラシがあったはずだが、と思ったが、次の瞬間には啓 太郎は顔をしかめる。
「注文したとして、宅配されてくるのは何時だ? ちょうどこの時間は注文のピークのはず だ。そうなると、まず一時間内で宅配されてくるというのは絶望的だ。だとすると、俺は期 待して注文したのはいいが、すきっ腹を抱えて、いつ来るとも知れない料理を待つのか?  しかも、ご馳走なんかじゃなく、手軽に食べられる料理を。いいのか、それは」
 腹が減って気が立っているせいか、独り言も理屈っぽい。こんなことをブツブツ言う前に 注文すればいいが、とにかく煙草を吸ってからだ。
「こんなことなら、会社帰りに無理してでも、焼肉食ってくりゃよかった。カルビ……、カ ルビ食いたい。ああ、ハラミもいいな。にんにくたっぷりの。それにロース――」
 考えるだけでヨダレが出そうになるが、余計に腹が減っただけの気もする。焼肉のことを 考えたせいだけではなく、啓太郎の食欲を刺激するいい匂いがしているのだ。肉の焼ける香 ばしい匂いだ。
 どこから漂ってくる匂いかと思えば、どうやら隣の部屋かららしい。
「……世の中間違ってるよな。部屋に帰る暇もないぐらい忙しく働いている俺が、メシも食 えずに空しく煙草を吸って気を紛らわせているのに、気楽そうな学生みたいな奴が、悠々と 肉を焼いて食ってるなんた。……というか、俺の人生ってなんだ。手料理を作って待ってく れている彼女すらいないんだぞ」
「――あんた、うるさい」
 啓太郎の独り言が盛り上がってきたところで突然、冷ややかな声が割って入ってきた。驚< いた啓太郎が声がしたほうを見ると、隣の部屋との仕切りの横から、さきほどの青年がひょ っこりと顔だけ出していた。きれいな顔にあるのは、いかにも迷惑そうな表情だ。
 思わず青年の顔をじっと凝視した啓太郎だが、すぐにあることに気づく。
「もしかして……、さっきからずっと聞いていた、とか……?」
「宅配で料理を注文してから云々に始まって、焼肉でカルビやハラミが食いたいという言葉 に続き、隣の奴が肉を焼いているのが気に食わない、という発言までのこと? あっ、彼女 もいないんだよね」
「……丸聞こえじゃねーか」
 決まりが悪くて、啓太郎は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消す。つい言い訳のように説明し ていた。
「数日ぶりに部屋に帰ってみたら、冷蔵庫の中が空っぽだったんだ。食いに行こうにも、一 度部屋に入って着替えると、億劫でな。それで、こうやって煙草を吸いながらぼやいて、ど うしようかと考えてたんだ」
「だったら、お裾分けしようか? さっき荷物を玄関に運び入れてくれたお礼に。もっとも、 焼肉じゃないから、無理にとは言わないけど」
 すぐにできる、という言葉が決定的だった。啓太郎は即答する。
「食う」
 それだけ言って部屋に戻ると、啓太郎は玄関に向かう。もどかしくサンダルを履いて飛び 出し、隣の部屋のインターホンを鳴らす。少し間を置いて、顔をしかめた青年がドアを開け た。
「……すぐできるとは言ったけど、さすがにまだできてないよ」
「待つから大丈夫だ」
 そう言って啓太郎がサンダルを脱ごうとすると、青年は軽く目を瞠った。
「もしかして、おれの部屋で食う気?」
「面倒がなくていいだろ」
 悪びれない啓太郎の言葉に、仕方ない、という顔をして青年は部屋に上げてくれた。
 ダイニングにはさらに濃厚な肉の香りが漂い、派手に啓太郎の腹が鳴る。
「……腹が減りすぎて、腹が痛い……」
「うち、ビールしか置いてないけど、いい?」
 青年の言葉に啓太郎は頷く。まさかビールまでつけてくれるとは思わなかった。
 テーブルにつくよう言われ、素直にイスに腰掛ける。大家族の家にでもあるような大きな 冷蔵庫を開け、青年は缶ビールを二本取り出すと、グラスと一緒に啓太郎の前に置いた。勝 手に飲めということらしい。
 キッチンに立つ青年の背を眺めつつ、グラスに注いだビールを一気に飲み干してから、啓 太郎はやっと肝心なことを尋ねた。
「君――、なんと呼べばいいかな? 俺は、羽岡啓太郎。ちなみに、二十八歳のSE」
 菜箸を手に青年がちらりと振り返る。すぐに作業に戻り、新たな肉を刻んでボールに放り 込むと、味つけをつけてからフライパンで他の材料と一緒に炒め始める。
 手際のよさに見惚れていると、ぼそぼそと答えが返ってきた。
「黒井裕貴。二十三歳」
「ということは、社会人か? そんなふうには見えないけど。まだ学生みたいだ」
「どっちでもない、というところかな」
 裕貴と名乗った青年の言葉に、しまった、と啓太郎は眉をひそめる。地雷を踏んだと思っ たのだ。
 しかし当の裕貴は、淡々とした調子で続ける。
「ほぼ一日中、この部屋に閉じこもってる。さっき、あんたに運んでもらった箱だって、外 に出るのが嫌だから、食材をまとめて注文して配達してもらってる。まあ、引きこもりって やつかな」
 はあ、と声を洩らすしかなかった。その状態に近い人間とは仕事の関係で話したことはあ るが、こうして実際に会うのは初めてだ。
 テレビなどで観ていた先入観か、もっと鬱屈して、とにかく暗くて会話が成り立たない人 間が引きこもるものだと思っていたが、裕貴のイメージは微妙に違う。確かに陽気とは言い がたいが、こうして啓太郎と会話が成り立っている。
「……だったら、俺を部屋に入れてよかったのか? 嫌なもんじゃないか。自分の世界に他 人が入り込むっていうのは」
「何言ってるんだ。おれは部屋に来ていいなんて一言も言わなかったのに、あんたが一方的 に押しかけてきたんだろ」
「いや、迷惑なら帰るが……」
「別にいい。あんたのベランダでのぼやきを聞いたら、哀れに思えたから」
 引きこもっている人間にまで同情される自分は一体なんなんだ――。
 一瞬、泣き笑いたいような心境になった啓太郎だが、皿に料理が盛られる気配を感じると、 どうでもよくなった。
「自分一人だと思ったから、大したものは作れなかったけど」
 そう言って裕貴がテーブルの上に並べたのは、茶碗に山盛りのご飯に、たっぷりの野菜と ともに盛られた牛肉の味噌炒め、すり身団子の入ったスープだった。
「すげー……」
 多少まともなものが食べられればいいと思っていたが、まとも以上だ。完璧すぎる食事だ。
 さっそく箸を手にして、牛肉の味噌炒めを口に運ぶ。甘みのある味噌の味が舌の上に広が り、とにかく美味かった。
 勢いよく掻き込み始めると、裕貴は自分の分をトレーにのせて隣の部屋に向かおうとする。
「おい、一緒に食わないのか?」
「他人と向き合って食事するのは苦手なんだ。気にせず食べたらいいよ。おれはこっちの部 屋で食べるから。……そろそろ、パーティーメンバーも集まった頃だと思うし」
 謎の言葉を最後に呟いてから、裕貴は隣の部屋に通じるガラス戸を開けた。箸を動かしつ つ啓太郎は、隣の部屋の様子をうかがう。
 ダイニング同様、整然とした部屋だったが、だからこそ、デスクの上にずらりと並んだモ ニターのインパクトが大きい。
 パソコン二台にモニター四台が並び、普通のキーボードやマウスが装備されているのはも ちろん、プログラマブル・キーボードまである。
 デスクにトレーを置くと、やけに立派なイスに腰掛けた裕貴は、電源が入っているパソコ ンの前にイスごと移動し、すごい速さでキーボードを叩き始めた。
 どうやら、ネットゲームをしている最中のようだ。
 たかがゲームをやるだけで、こんなに立派なパソコン環境はいらない。SEとして普段か ら嫌というほどパソコンに触れ続けている啓太郎も、さすがにこの様子には圧倒される。
 オタクなのかもしれない。とりあえずこの言葉で納得することにしておく。今の啓太郎に とって大事なのは、美味いメシを平らげることなのだ。
 スープに入っているすり身団子も塩加減がちょうどいい。スープ自体は薄味だが、牛肉の 味噌炒めが味が濃いので、あまり気にならない。
 一人暮らしの青年が作るにしては、あまりに見事というしかない食事だ。
 きれいに平らげて満足の吐息を洩らした啓太郎は、ビールを飲みつつ裕貴をうかがう。マ ウスを動かし、キーボードを叩き、その合間に器用に左手で箸を動かし食事をしており、な んとも慌ただしいし、消化に悪そうだ。
 すっかりゲームに没頭して、もしかすると啓太郎の存在など忘れているのかもしれない。
 手を合わせてご馳走様をすると、啓太郎は遠慮しながら裕貴に声をかけた。
「おい、食べ終わったんだけど」
「食器は置いたままでいいよ。――さようなら、羽岡さん」
 裕貴の素っ気なさに苦笑を洩らしながら啓太郎は立ち上がる。
「じゃあな。美味かったよ」
 そう声をかけ、遠慮なく食器はそのままにして帰ろうとしたが、今度は裕貴から声をかけ られた。
「羽岡さん、SEって言ったよね?」
「んっ? ああ、そうだ。なんだ。何かのシステム構築でも頼みたいのか」
「そんなわけないだろ」
 冗談はあっさり足蹴にされた。
 啓太郎は引き返し、ガラス戸に手をかける。なんとなく、裕貴がいる部屋には足を踏み入 れにくかった。
「どうかしたか」
「おれがメシを食わせたこと、感謝している?」
 唐突な質問に面食らいながらも、啓太郎は返事をする。
「まあな」
「だったら、おれの頼みを聞いてほしいんだけど」
「……俺にできることなら協力する」
 啓太郎の答えを待っていたように、振り返った裕貴がメモ用紙を差し出してきた。
 部屋に入っていいか確認を取ってから、啓太郎は裕貴の側に歩み寄り、メモ用紙を受け取 る。メモ用紙には、品番らしきものが走り書きしてあった。
「そこに書いたキューブPCを買ってもらいたいんだ。ハイエンドモデル。パソコンには詳 しいんだろ?」
「まあ、多少人より詳しいとは思うが……、キューブPCは扱ったことがねー」
「買ってくるだけだよ。SEやってる人なら、パソコン扱っているところも詳しいかと思っ てさ」
「心当たりはある」
 これが啓太郎の承諾の返事と取ったらしく、すかさず裕貴は今度は封筒を差し出してきた。
「お金はこの中。多分足りると思う。あっ、封筒に書いてある名前で領収書はしっかりもら ってきてよ」
 啓太郎はメモ用紙と封筒を交互に見てから、メモ用紙は封筒に仕舞った。
「……急ぐのか?」
「大至急とは言わない。羽岡さんがまたおれの作ったメシを食いたいと思うなら、それなり に善処してくれると嬉しい」
 なんとも遠回しな言い方だ。しかし啓太郎は、ある一言に反応した。
「その言い方だと、またメシを食わせてくれるのか?」
「羽岡さんが食いたいと言うなら、おれは拒まない」
 交渉は成立だ。啓太郎は裕貴に背を向けて歩き出しながら、軽く片手を上げる。
「俺、肉料理が好きなんだ」
 啓太郎のさりげない催促が聞こえたのかどうか、裕貴からの返事はなかった。




 仕様書の変更が少なかったことに気をよくして、啓太郎は久しぶりに定時に会社を出るこ とができた。システムのテストも順調に進み、会社を出る啓太郎の足取りは軽い。
 もっとも、こんな幸せが長くは続かないことを知っている。明日にはまた仕様書の変更や バグの嵐、外注先のプログラマが逃げ出すかもしれないのだ。
 それでも、今だけは――。
 ささやかな幸福感を味わいながら啓太郎が向かったのは、電気街だった。もちろん、一昨 日隣人である裕貴に頼まれたものを買いに行くためだ。大型量販店に行っても扱っていない のはわかりきっている。だったら最初から専門店に向かうほうが手っ取り早い。
 まずは馴染みのパソコンショップに足を運んでみたが、裕貴が希望しているパソコンはな かなか置いていない。かろうじて同じメーカーのものはあるのだが、どれもスタンダードタ イプばかりだ。
 別にスタンダードでもいいじゃねーかと思いはするが、メシを食わせてもらったうえに、 ビールまで飲ませてもらった身としては、最大限の努力をしなくてはならない。
 啓太郎はパソコンに詳しい友人に電話をかけ、売っていそうな店を教えてもらう。
 ようやく目的のパソコンを見つけた頃には、すでに夜になっていた。定時に会社を出た意 味など、この時点でなくなったのだ。
 空きっ腹を抱えて、コンビニを横目に見ながら、啓太郎はパソコン一式が入った箱を抱え 直して足早に歩く。
 あえてコンビニで弁当など買わなくても、裕貴が手の込んだメシを食わせてくれるのだ。
 やっと駐車場に停めた自分の車に乗り込んだときは、大きく息を吐き出して手を振る。さ ほど大きくないパソコンとはいえ、重量はなかなかのものだ。
 やっとマンションに帰り着くと、裕貴の部屋のインターホンを押す。少し間を置いてから、 うかがうように慎重にドアが開けられた。
 裕貴の姿を見た啓太郎は、おっ、と思う。
 引きこもっているので、服装は一昨日と同じだろうと思っていたが、予想に反して裕貴は、 クリーム色の薄手のニットにジーンズという格好をしていた。こうして見ると、至って普通 の青年だ。
 ただし、髪は相変わらず不揃いに伸びたままで、顔色も青白い。
「――買ってきたぞ」
 啓太郎は空いたドアからパソコンの箱を押し込む。受け取った裕貴は、思った通り、よろ めいた。次に釣りと領収書が入った封筒を受け取ったが、啓太郎の目の前で中身を確認しな かったのは、なかなか好印象だった。
 代わりに、いきなりその場に屈み込み、箱を開けてパソコンを取り出し始める。
「そうそう。確かにこれ」
「苦労したぞ。なかなか扱っているところがないから、探し回った」
「はい、ご苦労様」
 そう言って立ち上がった裕貴に玄関から押し出され、ドアが閉められそうになる。危うく 笑顔で見送りそうになった啓太郎だが、寸前のところで爪先を隙間に突っ込み、阻止した。
「ちょっと待てっ」
「何?」
「何? って澄ました顔して言うな。メシを食わせてくれる約束だろっ」
 裕貴はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
「おれ、約束した覚えはないけど」
 啓太郎は慌てて玄関に入り直し、裕貴に詰め寄る。
「だけどお前、俺がメシを食いたいと言うなら拒まないと言っただろ」
「……残念。覚えてたか」
 露骨に舌打ちされ、このガキ、と啓太郎は拳を握り締める。それでも、もうメシはいいと 吐き捨てて自分の部屋に帰ろうとは思わない。すっかりメシを食わせてもらう気になってい たのだから、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
 素っ気なく裕貴に手招きされ、部屋に上がる。すでにダイニングにはいい匂いが漂ってお り、キッチンを見ると、まな板の上には切りかけの野菜があった。
「作りかけでなかったら、本気で追い出したんだけどね」
 裕貴がさらりとそんなことを言い、キッチンに戻る。もう一度拳を握り締めてから、アタ ッシェケースをテーブルの足元に置いた啓太郎は、コートとジャケットを脱いでからイスに 腰掛けた。
「ビールは……」
「冷蔵庫の中から出して、勝手に飲んでよ」
 啓太郎は言われるまま、腰を落ち着ける間もなく立ち上がると、冷蔵庫を開けて缶ビール を取り出す。
 缶に直接を口をつけて飲みながら、今日はガラス戸が開いたままの隣の部屋を覗き込む。 今日もパソコンに電源が入っており、ゲームらしい画面が見えた。
「なあ、一日中ゲームしてるのか?」
「まさか。ゲームは夜の間だけ」
 なら昼間は、と尋ねようとしたが、肉を焼く音をさせながら裕貴が先に言った。
「羽岡さんさあ、こんなことしてたら、いつまで経ってもおれとの貸し借りがなくならない と思うんだけど」
「何がだ」
「おれは、他人にタダメシ食わせる気はないってこと。メシが食いたいなら、羽岡さんもお れのために何かしてくれないと」
 グビッとビールをもう一口飲んでから、啓太郎はキッチンに立つ裕貴の後ろ姿と、電源が 入ったままのパソコンに交互に視線を向ける。
「――俺にできるのは買い物か、システム構築ぐらいだぞ。あと、プログラム作成だ」
 振り返った裕貴が唇だけで笑いかけてきた。
「だったら、おれのパシリになる?」
「パシリはやめろ、パシリは。せめて、買い物を頼むという表現にしろ」
「じゃあ、これから羽岡さんに、買い物を頼んでもいい?」
 なんだか、初めてから結論は決まっているようなやり取りだ。内心そう思いつつも、啓太 郎は嫌とは言えなかった。
「……今日食うメシが美味かったら、頼まれてやる」
 啓太郎の言葉に対して、裕貴はしっかり料理で応えてくれた。
 テーブルには、一昨日と同じように茶碗に山盛りのご飯が、次におかずの皿が置かれる。 和風の一口ステーキだ。そして、あんかけ豆腐も並んだ。
 裕貴が正面のイスに腰掛け、伸びた前髪の間からじっと啓太郎を見つめてくる。
 さっそく箸を手にした啓太郎は、手を合わせてからまずはステーキを口に運ぶ。肉にはし っかりおろしにんにくがすり込まれ、少し濃い目の味つけも申し分ない。ステーキの下には きれいに千切りされた野菜が敷かれているが、ステーキのソースとよく絡んでいる。
 次にあんかけ豆腐はダシが効いてはいるが薄味で、油っこくなった口の中がさっぱりする。 ついでとばかりに置かれた野菜の酢みそも、白みその味が感動的だ。
 ガツガツと貪り食っていると、目の前で裕貴が笑う。
「――おれが頼んだもの、買ってきてくれる?」
 こんなメシを食わされて、嫌と言えるはずがなかった。
「引き換えに、メシを食わせろよ」
 交渉成立とばかりに裕貴は立ち上がり、自分の分の食事をトレーにのせて隣の部屋へと移 動する。
 向けられた後ろ姿を眺めながら、啓太郎は尋ねずにはいられなかった。
「なあ、俺に頼む前までは、買い物はどうしてたんだ? 気軽に買い物に出かける、というタイプじゃないんだろ」
「今は大抵のものはネット通販で頼めるからね。近所のスーパーは、お得意さんには配達も してくれるし、食材配達の会社と契約もしてる」
 一昨日の食材の詰まった箱は、その会社が届けたものらしい。
「だけど、今すぐ欲しいってものは、どうしても出てくるんだよ。そういうときは、渋々な がらも買いに行く。あくまで、近所にしか行かないけど。このときの葛藤がすごくてさ、半 日ぐらい悩むんだよ。欲しいけど、外に出たくない、って感じで。で、結局我慢したり」
 葛藤や我慢のレベルが、啓太郎と裕貴では格段に違うらしい。
 それではいかんと、つまらない説教をする気はなかった。人それぞれ、価値観も人生観も
違うのだ。何を苦痛に感じ、どんな対処をするのかもまた、人によって違う。
 裕貴にとっては、こうして引きこもっているのが、その対処の仕方というだけだ。
「……話を聞く限り、毎日買い物があるわけじゃないみたいだな。そうなると、俺がメシを 食いたいときとのタイミングが合わないんじゃ――」
「買い物がないときでも、食べに来ていいよ」
 一瞬喜びかけたが、裕貴は甘くはなかった。
「そのときは、金取るだけだから」
「金取るのかっ?」
 ちらりと振り返った裕貴が当然とばかりに頷く。
「別に、無理にとは言わない。近所の定食屋に行けばメシは食えるし、コンビニもスーパー もあるんだから」
 考えておく、と答えた啓太郎だが、きっとそのときになれば、迷うことなくここに来るん だろうなと、確信のようなものがあった。
 ジャケットのポケットから携帯電話を取り出して開く。
「おい、携帯のメールアドレス教えろ。買い物を頼むなら、メールが一番便利だろ」
 こう言ったあとで啓太郎は、裕貴が携帯電話を持っていない可能性に気づいた。引きこも り生活を送っているなら必要ないと思ったのだ。
 すると、啓太郎が考えたことがわかったように、裕貴は皮肉っぽい表情を浮かべた。
「使わないけど、持ってるよ。携帯電話」
 裕貴がアドレスを言い始め、啓太郎は慌てて打ち込み、自分のアドレスも教える。ついで なので、互いの携帯電話の番号も交換しておいた。
 とにかくこれで、啓太郎は隣人の引きこもり青年と、しっかりとした確かな繋がりを持っ たことになる。









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