Sweet x Sweet

[2]

この日、引きこもり青年からメシを食わせてもらっているという啓太郎の境遇に神様が同情してくれたのか、思いがけない幸運が訪れた。
 常駐している会社で仕事をしていると、その会社のシステム開発部の社員からポンッと肩を叩かれたのだ。
 外注に任せていたプログラムのテストをしていた啓太郎は、顔をしかめたまま振り返る。そんな啓太郎の顔を見て、同い年の男性社員は苦笑を浮かべた。
「なんだか渋い顔してるねー、羽岡さん」
「今、プログラムのテストをしてるんだが、弾き出されるバグの数に、恐れおののいている最中だ」
 パソコンのモニターを覗き込んだ社員が、うわっ、と遠慮なく声を上げる。
「何、このバグ、今日中に潰すわけ?」
「そのつもりだったけど、やめた。今日はもう、やる気をなくしたから帰る」
 すると、男性社員がにやにやと笑みを浮かべる。
「おー、それはちょうどよかった」
「何が。デバッグを手伝ってくれるのか?」
 そんなわけないでしょう、とあっさり返され、いささか啓太郎は傷ついた。しかしその傷心も、次の言葉を聞いてすぐに癒されることになる。
「商品部の子たちと、システム開発部で、今日は一緒に飲み会をすることになってるんだよ。それで、向こうからの要望で、羽岡さんの参加も決定した」
「……参加って、俺は初耳なんだが……」
「行かない? 女の子、たくさんいるけど。なんといっても商品部」
 この会社のシステム開発部は、不毛の地と言われるほど女性社員に恵まれない部署だが、商品部は反対だ。キャリアウーマンから可愛い新人まで、さまざまなタイプの女性社員が働いている。
 啓太郎は忌々しいモニターを睨みつけてから、即答した。
「――行く」
 満足そうに頷いた社員にさっそくメモ用紙を渡される。あらかじめ準備していたのか、そこには飲み会の場所と開始時間、会費が書きとめてあった。
 絶対出席するようにと念を押して、社員が行ってしまう。啓太郎はメモを眺めつつ片手を上げたが、手を下ろした途端、顔が緩む。
 おかげで、いまだに弾き出されるバグに対しても、寛容な気持ちになれた。

 ようやく仕事が一段落つくと、この瞬間を待ちかねていた啓太郎は、テストを終えたプログラムを保存してから急いで帰る準備を整える。
 明日、バグだらけのプログラムは外注先に送り返し、啓太郎は何事もなかったように仕事を続けるだけだ。納期はギリギリなので、結合テストのとき、どれほどの恐怖に見舞われるか、あえて考えないようにする。
 今の啓太郎にとって、メシだけでなく、女性と話せる状況というのは、非常にありがたかった。
 そもそも、まともに女の子と会話を交わすのはどれだけぶりだろうかと、指折り数えてはみたが、途中から猛烈に悲しくなったのでやめておいた。
 最近、女の子と知り合いたいという衝動より、食欲を優先させてばかりなので、自分でもこれはマズイと思っていたのだ。
 せめて今日の合コンで、可愛い子の携帯番号かアドレスを交換しておきたい。ここのところ、そんなものを交換した相手といえば――。
 ふいに啓太郎の脳裏に、裕貴の顔が浮かぶ。やたらきれいな顔立ちをしているが、精力的といった言葉とは無縁そうな青白い顔色をして、そんな顔を隠すような野暮ったく不揃いに伸びた髪形。挙げ句に、引きこもりときている。
 しかも啓太郎は、メシを食わせてもらう代わりに、その引きこもりの青年のパシリ――ではなく、買い物を任されているのだ。
 こんなことは、口が裂けても誰にも言えなかった。
「潤いのない生活も、彼女ができれば……」
 呟きながらコートを羽織ると、教えてもらった居酒屋に向かうため会社を出る。啓太郎を誘ってくれた社員は、先に行っているということだ。
 飲むことになるのは確実なので、車はひとまず会社に置いて行くことにして、電車で最寄の駅に行き、そこから五分ほど歩く。
 カウンターで社名を告げると、二階の座敷にいるということで上がってみる。
 すでに飲み会は始まっている時間なので、さぞかし盛り上がっているだろうと思ったが、襖の向こうからは控えめなざわめきしか聞こえてこない。
 靴を脱いでから襖を開けると、さほど広くない二間を繋げた座敷には、ぎっしりと社員たちが座っていた。見事に男女混合で席についてはいるのだが、その表情は飲み会という名の合コンを楽しむというより、まるで通夜だ。
 一体何事かと不審に思った啓太郎だが、すぐにその理由がわかる。
 若手が集まっての合コンだと頭から思い込んでいたが、そうではなかった。なぜか中年の女性社員に男性社員、そのうえシステム開発部の部長の姿まである。若い社員もいることはいるが、実に居心地悪そうな顔をしていた。
 来たくて来たわけではないと、表情が語っている。
「羽岡さん、こっち」
 啓太郎を誘った男性社員に呼ばれ、狭い隙間を通って隣に行く。男性社員の反対隣には、見かけたことのない三十代後半の女性が座っており、澄ました顔でビールを飲んでいる。
「……誰?」
 近くのコート掛けにコートを引っ掛けてから座りながら小声で尋ねると、男性社員も声を潜めて教えてくれた。
「商品部の係長」
 目の前には鍋が用意されているが、肉は食われてしまったらしく、皿には野菜や豆腐しか残っていない。酒を飲みたいというより、とにかく腹が減っている啓太郎は、仕方なく野菜を次々に鍋に放り込む。
「で、何がどうなってるんだ」
 凄味を帯びた声で尋ねると、男性社員はとぼけた顔を見せる。
「なんのことだ?」
「飲み会じゃなかったのか」
「飲み会でしょ。商品部とシステム開発部合同の」
「合コンじゃなかったのかっ」
 ここで男性社員がニヤリと笑った。
「俺は、合コンなんて一言も言わなかったと思うぜ、羽岡さん。どう解釈するかは、あんたの勝手だけど」
 騙された――。ようやく気づいた啓太郎は、ガクリと肩を落とす。一気に一日の労働の疲労が押し寄せてきて、同時に嫌な虚脱感に襲われていた。
「うちの部長が好きなんだよ。部下たち集めてイベントするの。前回なんて、ボーリングだぜ? 今日の飲み会に巻き込まれた商品部も哀れなもんだが、まだ、男だけでボーリングするのに比べれば、遥かにマシだ」
「……この状況をマシだと感じる、君たちの感性はおかしい」
「逃げられるものなら、逃げたいけどねー。さすがに上司が楽しそうにしている中、そういうわけにはいかないし」
 啓太郎は顔を上げると、男性社員に詰め寄る。
「俺を巻き込むなっ。最初から騙す気満々だっただろ」
「人聞きが悪い。ずっとがんばっている羽岡さんも、俺たちの仲間ですよ、という感謝の意味を込めて――」
 込めるな、と断言して、啓太郎は半ば自棄気味に豆腐をお椀に取り、息を吹きかけながら貪る。
 上司の手前、会話が弾むわけでもなく、気をつかい合う若手社員たちは、実に窮屈そうだった。黙々と鍋を突き、顔を寄せ合って話している。もしかすると、この場から抜け出すタイミングをうかがっているのかもしれない。
 啓太郎も、いつ席を立とうかと頭の中で算段していた。豆腐や野菜ばかり食べていて、腹が膨れるとは思えない。
「まあまあ、そんなに肩を落とさないでよ」
 そう言って男性社員にポンポンと肩を叩かれる。調子のいい奴だと思いながら啓太郎は軽く睨みつけたが、わざとらしく怯えたふりをしながら、男性社員は言葉を続けた。
「女の子たちが、羽岡さんに参加してもらいたがってたのは本当なんだって。だから、この飲み会はアレだけど、このあと若手だけの二次会があるから、そこで楽しむのが今回の本当の目的だと俺は思ってるんだよ」
「……本当に、若手だけだろうな?」
「本当。これは信じて」
 仕方ないので、今だけ我慢するかと啓太郎が頷きかけたそのとき、ジャケットのポケットに入れてある携帯電話が鳴る。メールを知らせる着信音に、啓太郎は思わず顔をしかめる。
 無視もできず携帯電話を取り出して見てみると、思ったとおり裕貴からだった。
 メールのタイトルは『至急』となっており、本文は、買い物を頼みたい品目がズラリと書いてあった。さりげなく、有名なケーキ屋のプリンまでリクエストされていることに気づき、啓太郎は小声で呟く。
「あいつ、こんなものまで頼むかっ……」
 啓太郎は慌てて、アタッシェケースを手に一度座敷を出る。廊下に屈み込んでアタッシェケースを開け、裕貴に持たされた雑誌のページを繰る。有名所のスイーツの店が網羅された雑誌らしく、何かあれば、この雑誌を見て買いに行けと言われた。
 ご丁寧に雑誌には、店の開店・閉店時間や住所だけでなく、地図そのものまで載っている。啓太郎はケーキ屋の住所を確認すると、素早く移動時間を弾き出す。今から店を出て電車で移動すれば、間に合う。売り切れてなければの話だが。
 髪を掻き毟りながら唸った啓太郎は、店の住所を頭に叩き込むと、雑誌をアタッシェケースに仕舞う。それから襖をわずかに開けると、自分をこの飲み会に誘い出した男性社員に声をかけた。
「俺、急用ができたから、帰るぞ」
「えっ、まだ来たばかりなのに。というか、あと三十分も待てば、二次会に流れると思うんだけど」
「また今度な」
 ここで男性社員は、啓太郎の手にある携帯電話を見て、ニッと笑った。
「ああ、そういうことか」
「……何が、そういうことか、なんだ」
「彼女から、早く帰って来いとか言われたんだと思って」
「違っ……」
 必死に言い訳しようとしたが、そんな時間すら惜しいことに気づく。襖の隙間から手を伸ばしてコートを取り上げると、適当な挨拶を残して店を出た。
 啓太郎はアタッシェケースを抱えて必死に駅まで走り、普段乗らない電車に乗って移動する。
電車に揺られながら、なんで俺はプリンごときでこんな苦労をしなければならないのかと思ったが、とりあえず今夜のメシは確保できたと思ったら、さほど怒りも湧かなかった。やはり鍋の野菜と豆腐を少し食ったぐらいで、腹が満たされるはずがない。
 デザートは、自分が買ってきたプリンだ。
「上等じゃねーか」
 低く洩らした啓太郎は、半ば自棄気味に笑みを洩らしていた。


「――買ってきたぞ」
 啓太郎が袋を突き出すと、今日はシャツの上からぶかぶかのカーディガンを羽織った格好の裕貴が、淡々とした表情でまずスーパーの袋を受け取り、中身を確認する。
「うん、OK。頼んだものが入っている。あとは……」
 もう一つ、ケーキ屋の袋を受け取った裕貴は、すぐに眉をひそめる。自分が頼んだ店の袋ではないと気づいたのだ。
「これ、違う」
「俺が行ったときには売り切れてたんだよ。だけどそんなこと言ったって、お前は納得しないだろうから、お前が付箋をつけていた別の店に行って、そこのケーキを買ってきた。これで文句ないだろうが」
 最初に行った店にプリンが置いてないとわかると、啓太郎は一度会社まで戻り、車を運転して二軒目の店にケーキを買いに向かったのだ。こいつのために。
「文句?」
 外の冷気よりも冷たい眼差しを向けられ、啓太郎はすかさず言い直す。
「……これで勘弁してください」
「仕方ないなあ。まあ、おれも鬼じゃないし」
 うそを言えと内心で突っ込みつつ、啓太郎は玄関に入り、さっそく靴を脱ごうとする。すると、何かに気づいたように裕貴が露骨に顔をしかめ、急に啓太郎に体を寄せてきた。
 肩の辺りに顔を寄せられたときは何事かと思ってしまい、反射的に両手を上げてしまう。
「どうか、したか……?」
「羽岡さん、先に自分の部屋で風呂入って、着替えてきて」
「へっ。いや、俺、腹減って――」
「どうせすぐに出来ないんだから、その間に入ってきたらいいだろ」
 一気に裕貴の機嫌が悪くなったことを察し、仕方なく啓太郎はレシートを裕貴に渡してから、自分の部屋に帰る。
 コートとジャケットを脱いでから、気になってコートに顔を寄せてみる。まず匂ったのは煙草の匂いだ。煙草を吸う啓太郎としては、これは当然の匂いだ。あとは、少しきつめの香水の香りだった。
 明らかに女物とわかる甘い香りは、少しばかり不快だ。どこでついたものだろうかと考えたが、居酒屋で脱いだコートを、女性もののコートの側にかけたときに香りが移ったとしか思えない。
「もしかして、これか?」
 独り言を洩らしながらワイシャツも脱ぎ捨てた啓太郎は、さっさと着替えを準備してシャワーを浴びる。
 鍋を少し食べたとはいえ、そのあとに動き回ったので、また腹が減っていた。
 シャワーを浴び、着替えを済ませてから、髪を乾かす間も惜しんで隣の部屋へと戻る。不機嫌そうな顔をした裕貴は、何も言わず部屋に上げてくれた。
 テーブルの上にはいつものように封筒が置いてある。この中には、啓太郎が頼まれて買ってきたものの代金が入っている。片付いた部屋を見ていてもわかるが、裕貴は律儀だった。
 キッチンに立ち、黙々と料理を作る裕貴の後ろ姿を眺めながら、啓太郎はついこう話しかけていた。
「なあ、もしかして、香水の匂いが嫌だったのか?」
「鼻がむず痒くなるから嫌いなんだ。いかにも女の匂いという感じで、吐き気もする」
 忌々しげな裕貴の口調は、単に苦手だという以上のものを感じさせた。まさか、と思いながら、啓太郎核心を尋ねた。
「――……もしかして、女嫌いか?」
 振り返った裕貴が無表情にこちらを見る。素っ気ない口調で答えが返ってきた。
「嫌い。そもそも、母親という女からして嫌いなんだ」
 予想以上に重い言葉に、啓太郎はすぐには声が出なかった。
 そういえば、と思い返す。何度もメシを食わせてもらっていながら、啓太郎は裕貴のことを何も知らない。引きこもりだということしか。
 たとえば、引きこもって生活するにしても、生活費はどうしているのか。家族に援助してもらっているのか、何かしら仕事をしているのかも知れない。ゲームをやっていて、金が入ってくるとも思えない。
「ということは、恋人は……」
「いたら、部屋が隣だけの他人に、甲斐甲斐しくメシなんて作ってやるはずないだろ」
 甲斐甲斐しい、という表現には疑問が残るが、裕貴の言うとおりだ。
 だいたい裕貴の部屋には、他人の存在を感じさせるものは一切ない。誰かと一緒に写った写真もないし、細々とした小物だって、異性を感じさせるものはない。だからといって、友人が遊びに来ているといった様子も皆無だ。
 妙にしんみりとした気持ちになり、啓太郎はそんな自分の気持ちを誤魔化すように、性質の悪い冗談を口にしてみた。
「女嫌いということは、もしかしてロリコンだったりして――」
 フライパンを手にした裕貴が振り返り、にっこりと笑いかけてくる。だが次の瞬間、大きく右足を動かしたと思ったときには、啓太郎の顔の横を何かが素早く通りすぎた。背後で音がして振り返ると、スリッパが床に落ちたところだった。
「――おれ、そういう冗談嫌い」
 左足のスリッパも脱ぎ捨てて、裕貴が言う。啓太郎としては、機嫌を損ねてはいけないと、テーブルに額を擦りつけるようにして謝るしかない。
「すみません。もう言いません」
 限りなく啓太郎の立場は弱かった。年下に頭を下げる屈辱に耐え切れないなら、自分の部屋に帰ればいいのだが、帰ったところでメシは食えない。そう思うと、頭を下げるぐらい安いものだ。それぐらい啓太郎のプライドが安いのかもしれないが――。
 再び背を向けた裕貴に、懲りずに啓太郎は話しかける。
「なあ、お前って生活費をどうしてるんだ?」
「何、そんなこと聞くなんて。おれを養ってくれるわけ?」
「……んなわけねーだろ」
 今日は魚料理らしく、いい匂いが啓太郎の鼻腔をくすぐる。たまらず立ち上がって冷蔵庫を開けると、飲み会では飲めなかった缶ビールを取り出す。ちなみにこの缶ビールも、まとめて酒屋に注文して配達してもらっているのだそうだ。
 冷蔵庫にもたれかかってビールを飲んでいると、そんな啓太郎を押し退けて、裕貴が冷蔵庫からネギを取り出す。
「株やってるんだよ」
 ネギを切りながら前触れもなく裕貴が言う。一瞬、なんのことかわからなかった啓太郎に、裕貴は言い直した。
「ネットトレーダー。わかる?」
「ああ……。最近よく、テレビに出てるよな。一日中、パソコンに張り付いて、ネットで株の売買するんだろ」
「それだよ、おれがやってるのは」
 啓太郎は冷蔵庫の前から動き、隣の部屋を覗く。啓太郎が買ってきたキューブパソコンも鎮座しているこの部屋の意味が、やっとわかった。ゲームをやるだけにしては、モニターもパソコンの数も多いと思っていたのだ。
「儲かるのか?」
「引きこもり生活をできる程度には。おれは派手に儲けようとは思わないから、気が向かないときは一日中、ゲームしてたりする」
 はあ、とため息を洩らした啓太郎は、改めて室内を見回す。この生活を、一歩も外に出ることなく持続させているのだから、ある種才能といっていいだろう。
「そりゃあ……、大したもんだ」
 啓太郎の言葉に、振り返った裕貴は意外そうに目を丸くしていた。
「どうした?」
「楽して儲けていいな、と言われるかと思った」
「楽かどうかは、本人にしかわからんだろう。俺も一日中パソコンのモニターを睨みつけてるが、仕事でこれやってると、本当につらいぞ」
 笑った裕貴は、思いがけず――こういう表現も変だが、可愛く見えた。
 目がおかしくなったかもしれんと、啓太郎は自分の目を擦る。すでに裕貴は背を向けてしまい、本当に笑ったのかどうかももう確認できない。
 初めて裕貴の個人的なことに触れ、慎重にさらに探りを入れてみることにする。
「株は、誰かに教えてもらったのか?」
「父親が、自分の小遣いは自分でどうにかしろ、という人間だったんだ。最低限の小遣いはくれたけど、それだけだ。それでまあ、ネットトレードに行き着いたというか。高校時代からやってたけど、大学に通ってる頃からのめり込むようになった」
「……父親は、何も言わないのか。お前の今の生活……」
 裕貴は軽く肩を揺らして笑った。
「言うわけないな。自分勝手を絵に描いたような人だから。子供のおれをほったらかしにして、仕事で世界中を飛び回っていた。そんな父親に、母親は愛想を尽かして出ていったんだ。おれが小学校にも上がらない頃に」
 父親の仕事を尋ねたところ、ジャーナリストだという答えが返ってきた。
「子供の食事になんて気にかける父親じゃないから、必然的に料理は覚えたんだ」
「だったら俺が美味いメシにありつけるのは、お前の親父さんのおかげ、とも言えるな」
 平凡だが、両親揃った家庭で、姉二人のおかげで荒っぽく育てられた啓太郎は、裕貴の話にしんみりしかけたが、すかさず裕貴に指摘されてしまう。
「自分でイイ事言った、と思ってるかもしれないけど、引きこもりの男にメシの世話をしてもらっている自分の人生、少し省みたほうがいいよ。羽岡さんのために、あえて厳しいこと言わせてもらうけど」
 後ろ手に拳を握り締めながら、啓太郎は無理して笑顔を浮かべる。
「――ご忠告をどうも」
 もう一本の缶ビールを冷蔵庫から取り出して、テーブルにつく。それからさほど待つことなくメシの準備が整い、いつものように裕貴は、まず茶碗に山盛りのご飯を啓太郎の前に置いた。
 今日の献立は、ブリの照り焼きに、野菜たっぷりのけんちん汁、そして、裕貴が自分の晩メシのために作って残ったという、肉じゃがだった。
 脂の乗ったブリに箸を入れると、簡単に身が離れる。甘辛い醤油ダレの味も絶妙で、正直肉料理を期待していた啓太郎だが、すぐに不満は吹き飛んだ。
「羽岡さんてさー、美味そうに食べるよね」
 ガツガツとご飯を掻き込んでいると、傍らに立った裕貴が感心したように洩らす。啓太郎は上目遣いでニヤリと笑いかけた。
「作り甲斐と食わせ甲斐があるだろ」
「はいはい」
 おざなりな返事をした裕貴は、いつものように隣の部屋に行くかと思ったが、冷蔵庫とキッチンの間を行き来したと思ったら、啓太郎の正面のイスに座った。テーブルに置かれたのは、啓太郎が買ってきたケーキがのった皿と紅茶だ。
 つい口元が綻びそうになったが、なんとか堪えてさりげなく問いかけた。
「向こうで食わないのか?」
「どこで食おうが、おれの勝手だろ」
 鬱陶しそうに前髪を掻き上げながらケーキを食べる裕貴をちらちらと見ていた啓太郎だが、いつの間にか箸を止めて眺めていた。
 髪を掻き上げるたびに露わになる裕貴の白い顔は、外に出て人と接すれば、嫌というほどモテるだろうにと、容易に思わせる。物腰の柔らかさや明るさはないが、そんなものは、つき合う相手によっていくらでもフォローしてもらえるし、引き出せるはずだ。
 啓太郎の視線に気づいたのか、手を止めた裕貴が顔を上げる。
「そんな恨めしそうな顔しなくても、羽岡さんの分のケーキはお裾分けしてあげるよ」
「……いや、俺が買ってきたケーキだろ」
「いらないならいいんだけどね」
 なんで俺はこんなに立場が弱いのだろうかと思いながら、啓太郎は『すみません』と頭を下げた。




 珍しく目覚ましが鳴る前に目が覚めた啓太郎は、のろのろと出勤の準備をしながら、コーヒーを飲むため湯を沸かそうとする。しかし、コンロに手を伸ばしかけたところで動きを止めた。
 普段はコーヒー一杯を飲むだけで朝は済ませるのだが、腹が減って仕方ないときは、常駐している会社の近くにあるコーヒーショップやファストフード店で朝食をとっている。
 今日もそうしようかと思った啓太郎は、ここで大事な隣人のことを思い出した。
 急いで身支度を整えると、アタッシェケースを抱えて部屋を出る。そして裕貴の部屋のインターホンを押した。
 実は、朝から裕貴の部屋に寄るのは初めてだった。まだいまいち、裕貴の生活の実態が掴めていないため、なんとなく避けていたのだ。しかし腹が減っている今、いい機会なのかもしれない。
 裕貴が聞いたら怒り出しそうな自分勝手な理屈を、啓太郎は頭の中で考える。
 インターホンを押してもすぐに反応がないため、さすがにこの時間は寝ているのかと諦めかけたとき、ドアの向こうで物音がする。
 インターホン越しのやりとりもなく、チェーンを外す音に続いて、薄くドアが開いた。
「……まだ、晩メシの時間には早いと思うんだけど……」
 これ以上なく不機嫌そうな声で裕貴が言う。啓太郎はすかさず、ドアが閉められないよう爪先をドアの隙間に突っ込んだ。
「寝てたか?」
「これからちょっと寝ようかと思っていたところ」
 玄関先で相手をするのが面倒になったのか、裕貴がドアを大きく開けてくれる。
 啓太郎が部屋に上がると、電気がついているのはパソコンがある部屋だけだった。朝だというのに一台のパソコンには電源が入っており、どうやらゲームをしていたらしい。
「で、用は?」
 羽織ったカーディガンのポケットに両手を突っ込みながら、素っ気なく裕貴が問いかけてくる。
「朝メシ食わせてくれないかと思って」
「今の時間なら、ファミレスでもコーヒーショップでも、どこでも空いてるだろ」
 そんなことで来たのかと言いたげに、裕貴が乱雑に前髪を掻き上げる。今にもベッドに潜り込みそうな気配に、慌てて啓太郎は口を動かす。
「うまいメシが食いたいっ」
「残念でした。今は店じまいです」
「そんなこと言うなよ……。なんか作ってくれ」
「やだよ。おれもう、朝メシ食ったんだから」
「残りもの――」
「一人分しか作らなかった」
 隣の部屋に向かおうとした裕貴のカーディガンの裾を咄嗟に掴む。すると、顔をしかめながら振り返った裕貴が、面倒臭そうに冷蔵庫を指さした。
「冷凍のパンがあるから、それを温めて食べてよ。あと、スープもあるし、コーヒーも勝手に入れて飲めば」
 取り付く島なくそう言った裕貴は、啓太郎の手からカーディガンを引き抜き、隣の部屋に行く。膝を抱えるようにしてイスに座ると、片手でマウスを動かしつつ、もう片方の手でカップを持ち上げた。
 仕方なく啓太郎は冷蔵庫の中を漁り、冷凍されたパンをレンジで温めながら、コーヒーを入れる。
 パンを皿にのせてテーブルについた啓太郎を、いつからなのか、裕貴がイスごと体をこちらに向けて眺めていた。
「――……羽岡さんさあ、早く面倒見てくれる彼女でも見つけたほうがいいよ。そんな姿見てたら、なんかこっちも物悲しい気分になるんだよね。いかにも貧相な男なら平気だけど、一応モテそうな見た目してるだろ羽岡さん。そんな人が、おれの家の冷蔵庫を漁っている姿が情けなくて」
「俺にそんな姿をさせたくなかったら、メシを作ってくれ」
 裕貴はにんまりと唇だけで笑った。もしかして目も笑ったのかもしれないが、長い前髪のせいでそこまで見えない。
「意外に隙を見せると、母性本能旺盛な女の人が引っかかるかも」
「甘いぞ、お前」
 啓太郎は社会人になってからの自分の恋愛遍歴を思い出し、朝からヘヴィな気分になる。
「これまでつき合ってきた女が言うことは、だいたい決まってるんだ」
「例えば?」
 啓太郎はパンを一口食べてから話してやる。
「SEってそんなに忙しい仕事なの? ずっと前から約束してたのに、なんでドタキャンなんてできるの? 顔が強張ってるけど、わたしといて楽しくない? 啓ちゃんて、夜はいつも携帯が繋がらないね――。あと、何があったかな」
 人が心の痛みを耐えながら話しているというのに、裕貴は腹を抱えて爆笑していた。
 眠気が吹っ切れたようで、けっこうなことだ。
「笑うなっ。全部実際に、俺が言われたことなんだぞ。仕事を任せていたプログラマーが夜逃げしたときですら、デートの約束をすっぽかさなかったというのに、顔が強張っているぐらい大目に見ろって言うんだ」
「だって、『啓ちゃん』って呼ばれてたのかと思ったら……」
「お前がウケるポイントはそこかっ」
 真剣に話しているのもバカらしくなり、啓太郎はパンにかぶりつくと、牛乳をたっぷり入れたカフェオレで流し込む。
「……俺だって、こんな彩りのない生活はマズイと思うんだ。悶々とだってするしなあ。なんとかできるもんなら、とっくになんとかしてる」
「悶々とするほうの処理なら、別に彼女相手じゃなくてもいいじゃん。風俗に行けば」
 単刀直入な裕貴の言葉に、大人の啓太郎のほうが怯んでしまう。一方の裕貴のほうは、口元に淡い笑みを浮かべて、じっと啓太郎を見つめていた。前髪の合間から、濡れたような目が覗いている。
 啓太郎の動揺を見透かしたような眼差しに、さすがにムッとして反撃に出る。
「そ、そういうお前はどうなんだよ。引きこもっているから、そういう店に行くこともない
だろうし、彼女もいないって話だよな」
「――おれ、淡白だから」
 何がどう淡白で、淡白だからどうなのか、肝心なことはさっぱりわからない答え方だった。しかし、啓太郎がこれ以上突っ込めないのは確かだ。
 片膝を抱えた裕貴は、その膝の上にあごをのせて笑っている。啓太郎と朝から生々しい会話を交わしているのが楽しいらしい。
 どことなく存在の不安定さを感じさせる繊細さが、裕貴にはある。こんなふうに笑っているところを見ると、その印象が強くなるようだ。
 その存在の不安定さが、啓太郎と裕貴の間にある距離感を微妙なものにする。たかが隣人に、毎晩のようにメシを食わせてもらおうとは、普通なら思わない。例えどんなに、作ってくれるメシが美味くてもだ。
 なのに裕貴は、一見近寄りがたく特殊な環境にいながら、妙に啓太郎を惹きつけるのだ。存在の不安定さに、見て見ぬふりができないのかもしれない。
 隣の部屋で、こんな存在が寝起きして、食事しているのだと知った瞬間から。
 裕貴が女であったなら、全力を挙げて口説いていただろう。
 そんなことをふっと考え、洩らした苦笑を啓太郎はカフェオレで飲み下す。バカバカしい考えだと思ったのだ。
 もしかすると、バカバカしいと思い込もうとしたのかもしれないが――。
 漠然と、自分が危ういことを考えていると啓太郎は感じていた。









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