Sweet x Sweet

[3]

 今日も帰りが遅くなりそうだと思いながら、昼休みの休憩室に入った啓太郎は、ドカッとイスに腰掛ける。
 昼食を食べに行かないといけないが、今から外に出たところで、どの店もすぐには入れないだろう。だとしたら、もう少し時間を潰してから出かけたほうが楽だ。
 本当は、弁当を持ってくるのが一番楽なのだろうが――。
 さすがに、裕貴に弁当を作ってくれと言ったら、いい加減にしろと首を絞められるかもしれない。
 無意識に顔をしかめた啓太郎は、首筋を撫でる。
 煙草を咥えて火をつけたところで、誰かが忘れていったのか、テーブルの上に女性向けの雑誌が置いてあった。他の社員たちが雑談したり、テレビを観ている中、啓太郎は雑誌を手に取ってパラパラと捲る。
 表紙の『スイーツ』という言葉が目を引いたのだ。啓太郎自身は、甘いものは苦手ではないが、自分から積極的に買って食べるほど大好きというわけではない。ただ、裕貴は違う。
 裕貴の部屋の大きな冷蔵庫をしょっちゅう覗いているが、その一角には常に、甘いものが入っている。それはケーキだったりチョコレートだったり、プリンだったり。
 最近は、通販でもこれだけ見事なデザートを扱っているのかと啓太郎は感心しながら、しっかり味わわせてもらっている。
 食事に関しては、普通の定食屋での日替わりランチ程度の料金を取り立てるくせに、裕貴はデザートに関しては金を払えとは言わない。わかりにくいが、これが裕貴なりの微妙な優しさなのかもしれない。
 もっとも、啓太郎は仕事が終わってから、あちこちのスイーツの有名な店に買いに行かされているわけだが。
 たまには裕貴に言われる前に、何か買って帰ってやろうかと考えながら、啓太郎はいつの間にか真剣に、雑誌に目を通していた。
 このときふと目に止まったのは、あるパン屋の情報だった。有名なパン屋らしいが、通販はしていないというのが気に入った。つまり、裕貴はまだ食べていない可能性が高い。
「美味そうだな……」
 掲載されているパンの写真に、思わず啓太郎の腹は鳴る。さっそく帰りにでも寄ろうと考えたが、閉店時間を見て低く唸る。
 どうがんばっても、今日の帰宅時間――そもそも日付が変わる前に帰宅できる自信がないのだが――に間に合いそうになかった。
 啓太郎はいきなり立ち上がると、雑誌を手に休憩室を出る。一番近くにある部署のコピー機を借りて、パン屋が載っているページをコピーすると、すぐに雑誌を休憩室に戻す。
 腕時計を見て、システム開発部に戻った啓太郎は、自分が使っているデスクの上にメモを残し、風のように素早く会社を出た。


 インターホン越しに名乗ると、珍しくドアの向こうの相手は驚いた様子だった。
 警戒したようにそっとドアが開けられ、わずかに顔を覗かせた裕貴が目を丸くする。こういう表情もできるのだと、心の中で啓太郎はにんまりしていた。
「――よお」
「よお、って……」
 ドアを大きく開けた裕貴が、まじまじと見つめてくる。寝起きなのかまだパジャマ姿で、乱れた不揃いの髪をくしゃくしゃと掻き上げた。
「……おれ、曜日の感覚がさっぱりないから自信ないんだけど、今日って、平日、だよね?」
「しっかりしろよ。平日に決まってるだろ」
 啓太郎の答えに、わけがわからないといった様子で裕貴は眉をひそめる。
「だったらなんで、昼間のこんな時間に、羽岡さんがここにいるんだよ。まさか、会社をクビになったとか――」
「お前、さらりと不吉なこと言うなよ」
 思わず声を洩らして笑った啓太郎とは対照的に、裕貴はますます眉をひそめる。その理由を本人が口にした。
「まさか、昼メシまで食わせろとか言うわけ?」
 会社でちらりと似たようなことを考えたとは、口が裂けても言えない。
 啓太郎はできるだけ素っ気なく、後ろ手に隠し持っていた袋を裕貴に押し付ける。すると裕貴は、手にした袋と啓太郎の顔を交互に見てから、袋に鼻先を近づけた。
「いい匂い……」
「当たり前だ。焼きたてを買ってきたんだからな」
 啓太郎の言葉を受けて、裕貴が袋を開けて中を覗く。数秒の間、なんの表情も浮かべなかったが、ようやく顔を上げたとき、裕貴の顔にあったのは意外にも無邪気な笑顔だった。
「ここのクロワッサン、一度食べてみたかったんだ」
「美味いものを、俺だけ食うのも悪いからな。『お裾分け』だ」
「なんだ。それが言いたかっただけか。――はいはい、ありがたくいただきます」
 可愛くない、と危うく言いそうなったが、寸前のところで堪える。
「とにかく、俺の好意をありがたく味わってくれ」
 そう言ってかっこよく立ち去ろうとしたが、このとき最悪のタイミングで啓太郎の腹が鳴った。しまった、と思いながら裕貴を見ると、すべてを察したようにニヤニヤと笑っていた。
「……な、なんだよ」
 懸命に強気を装うが、裕貴の前では無駄だった。ポンポンと肩を叩かれ、しみじみとした口調で言われる。
「羽岡さんてさあ、なんで彼女できないんだろうね。こんなに優しいのに」
「やめろ。わざとらしい同情なんてするな」
 恥ずかしいというより、情けなくて、啓太郎は急いで逃げ出そうとする。いまさらながら、俺は何をやっているんだと我に返ったのだ。
 自分のメシの時間も潰してまで、わざわざ客で混雑している気取ったパン屋に行き、隣人の引きこもり青年のためにパンを買ってきてやったのだ。
 しかも啓太郎自身は、そのパンをまったく味わっていない。
「一緒に食べない? 美味しいコーヒーぐらいサービスしてあげるよ」
「時間がねーよ。急いで会社に戻らないと」
「ふーん、それでも必死に、おれに焼きたてのパンを届けてくれたんだ」
 慌ただしく通路を歩いていた啓太郎は、ピタリと足を止めて振り返る。ドアから顔を出した裕貴がひらひらと手を振っていた。
 もちろん、手を振り返すような恥ずかしいマネは、死んでも啓太郎はしなかった。
 裕貴の反応が妙にくすぐったくて、少しだけ嬉しかったのは確かだが。




 珍しく休日出勤のない日曜日、昼前に起き出した啓太郎は部屋の掃除をしてから、特にやることもなくパソコンに向き合っていた。
 これまでなら、面倒ながらも食料のまとめ買いに出かけるところだが、裕貴の部屋でメシを食うようになると、そこまでの切迫感もなくなった。
 わざわざインスタント食品の世話になったり、弁当を買ってきたり、仕事帰りにどこかの店に立ち寄らなくても、定食代程度の金さえ出せば、温かくて美味いメシが出てくる。
 それに、裕貴は生意気ではあるが、話し相手になってくれる。
 これまで考えたことなどなかったが、部屋で一人でメシを食っていると寂しいのだ。そのことを自覚したのは、裕貴がテーブルの正面に座り、他愛ないことを話すようになってからだった。
 誰かと――裕貴と向き合ってメシを食うのが、楽しかった。
「ヤバイだろ、この状況は」
 パソコンのモニターを見ているつもりが、いつの間にか裕貴のことを考えており、啓太郎は小さく呟く。
 ヤバイのは、短期間で裕貴と親しくなりすぎたことだ。隣人としてのつき合いをとっくに越えているだろう。
 なら友人かと言えば、それも微妙だ。裕貴に対して友情は感じない。冷たい意味ではなく、そんな感覚を飛び越えて、むしろもっと近しい感情を抱いているのかもしれない。
 不安定な存在である裕貴に抱く、不安定な感情。それはなんだか居心地が悪くて、啓太郎を落ち着かない気分にさせる。自覚した途端、目が逸らせなくなりそうだ。
「はあっ、やっぱり欲求不満かー? こんなことを悶々と考えるってことは」
 食欲は裕貴のおかげで満たされても、性欲だけは自分でどうにかするしかない。
 マウスに手をかけた啓太郎はブックマークを開き、あるサイトをクリックしようとする。すると、デスクの上に置いてあった携帯電話が突然鳴った。
 やましい気持ちの表れか、ビクリと体を震わせてから啓太郎は慌てて携帯電話を掴む。動揺してもたつきながら携帯電話の液晶を見ると、裕貴の携帯電話からだった。
 何事かと思いながら電話に出ると、ぶっきらぼうな声で尋ねた。
「……なんか用か? 隣同士なんだから、携帯にかけてこなくてもいいだろ」
『あれっ、ということは、今日はきちんと休みなんだ』
 あっ、そうか、と啓太郎は心の中で洩らす。日曜日といえど、仕事に出ることの多い啓太郎なので、おそらく裕貴もそのつもりでかけてきたのだろう。
「ああ。今部屋にいる」
『残念。日曜まで働いて大変ですねー、って慰めてあげようと思ったのに』
「お前、性格悪いぞ」
 ここでふと、モニターに表示されている時間を見る。そろそろ昼時だ。ちょうどいいと思った啓太郎は、いつものように言った。
「昼メシ、食いに行っていいか?」
『チャーハンぐらいなら作ってあげるよ。おれの分のついで』
「上等。なら晩メシは、和食がいいな」
 図々しいとでも言いたげに、裕貴が電話の向こうでため息をつく。
「おい、こら、俺は金払ってるだろ。リクエストぐらいしたっていいだろうが」
『――作るのおれだけどね』
 その一言で、啓太郎の強気などあっという間に潰えた。
「……作ってください」
『考慮しておく』
 ところで、と裕貴が言葉を続ける。
『日曜の昼間っから性欲持て余して、ネットでエロ動画なんて観るなよ。空しいなあ』
「観てないぞっ」
 咄嗟に啓太郎が答えた瞬間、窓の外から爆笑する声が聞こえてくる。ハッとしてベランダに出てみると、やはり裕貴の声だ。啓太郎は携帯電話を耳に当てたまま、そっと手すりから身を乗り出してみる。思ったとおり、裕貴もベランダの手すりから身を乗り出していた。
「やっぱり図星かあ。その慌てぶりだと」
 携帯電話を顔から放して、裕貴がニヤリと笑いかけてくる。途端に啓太郎は顔が熱くなっくるのを感じた。
 行動を見透かされたことが恥ずかしかったわけではない。その行動に至るまでに、裕貴のことを考えてしまった事実に、後ろめたさを覚えてしまったのだ。
 浅ましい欲情に、少なからず自分の存在も影響を与えていると裕貴が知ったらどんな顔をするか。そんなことを想像した啓太郎は、すかさずこう思った。
 裕貴に知られたくない。
 バカにされるとか、メシを食わせてもらえなくなるとか、そんな気持ちからではない。ただ、軽蔑されたくなった。
「バカ、そんなんじゃない……」
「誤魔化さなくていいよ。いいじゃん、男同士なんだから、おれだって羽岡さんの切ない事情はわかってるよ」
 裕貴がそんなことを言っても、まったく説得力がない。パジャマの上からいつもの大きめのカーディガンを羽織った裕貴からは、あまり男という性が感じられない。これが、啓太郎と同じようなごつい男なら、平気で際どい冗談でも交わせるのだ。
 しかし少なくとも裕貴は、啓太郎にとってそんな相手ではない。
 風が吹いて裕貴が寒そうに肩を竦め、乱れた前髪を掻き上げる。このとき形のいい白い額が露わになり、なぜか啓太郎はうろたえる。勘のいい裕貴が首を傾げた。
「羽岡さん、どうかした? ぼーっとして。もしかして、いいところで中断させちゃった?」
 からかうように言われ、一瞬カッと頭に血が昇った。気がついたときには啓太郎の唇は勝手に動いていた。
「――働いている人間をからかうな」
 自分でも意外なほど低い声が出ていた。裕貴もそれを感じ取ったらしく、驚いたように切れ長の目をわずかに見開く。
「お前はなんでもできる時間があるだろうが、俺は違う。毎日疲れて帰ってきても、ただ寝るだけだ。誰かとつき合いたいと思っても、仕事の疲れを癒すことのほうが最優先だ」
 そこまで一息に言ってから、啓太郎は大きく息を吐き出す。裕貴は何も言わず、ただ見つめてくるだけで、その静かな瞳にかえって啓太郎は苛立たされる。
 胸の奥でくすぶっている感情を引きずり出し、裕貴に突きつけるように、さらにひどい言葉を投げつけていた。
「こんなことを言っても、お前にはわからないだろうな。自分で買い物に出ることさえ嫌がっているぐらいだ。他人と目を合わせるのも、話すのも苦手なんだろ。俺の疲労と欲望をわかれってほうが無理な話だ。――引きこもっているお前にはな」
 話し終えたときには全身が熱くなっていた。だが、険しい表情となった裕貴からきつく睨みつけられると、スッと背筋に冷たいものが駆け抜け、全身の血が凍りつけような感覚に襲われる。
 裕貴を傷つけたとわかったときには、当の裕貴の姿はベランダからなくなっていた。
 乱暴に窓が閉められ、カーテンを引いた音がする。どんなに裕貴から怒鳴られたり、皮肉を言われたりするよりも、啓太郎には堪えた。
 ひどいことを言ってしまった――。
 やっと携帯電話を切って畳みながら啓太郎はうな垂れる。ひどい言葉を口にしてしまってから、本当に言いたかったのはこんなことではなかったのだと実感した。
 だが、言ったことを取り消すことなど不可能だ。
 ひどい自己嫌悪に陥りながら、しばらく啓太郎はベランダから動くことができなかった。その間、裕貴が窓を開けることはもちろんなかった。




 裕貴の怒りは、啓太郎の想像を遥かに上回って深かった。
 その日から、啓太郎がいくらインターホンを鳴らそうが、携帯電話を鳴らせようが、まったく応対してくれなくなったのだ。
 元の関係に戻っただけだと思いながらも、それだけでは、胸にぽっかりと空いたような虚無感を埋めることはできない。
 あまり疲れの取れていない顔を洗ってから、鏡を覗き込む。ヒゲを剃りはしたが、目が充血し、頬が少しこけたせいで、荒れた印象はあまり変わらない。
「たった一週間で、人相が変わっちまったな……」
 苦笑交じりに呟き、ダイニングに戻る。テーブルの上にあるのは、インスタントで入れたコーヒーと、夜中、仕事の帰りにコンビニで買ってきた菓子パンだ。これが啓太郎の朝食だった。
 一週間前までは、裕貴の部屋に寄って、夜だけでなく朝メシを食べることが当たり前になっていただけに、これまでならなんとも思わなかった朝食にわびしさを覚える。
 朝、今にもベッドに潜り込みそうな素振りを見せながらも裕貴は、コーヒーは豆から挽いて淹れていたし、最初こそ、冷凍したパンを啓太郎に解凍させたが、そのとき以外ではきちんと作ってくれた。
 作業的に菓子パンをコーヒーで流し込み、ネクタイを締める。ジャケットとコートを羽織ると、アタッシェケースを手にして部屋を出る。
 裕貴の部屋の前を通りかかると、新聞受に新聞は入っていなかった。
 息を潜めて生きているようなところがある裕貴なので、隣室とはいえ物音すら感じることは難しく、ときどき本当に部屋にいるのか不安になる啓太郎だが、こういうささやかなところで、裕貴の存在を感じることができる。
 インターホンで呼びかけることなく通り過ぎると、啓太郎は仕事に向かった。
 仕事は相変わらず忙しい。忙しすぎるといってもいい。
 必要なシステム構築はなんとか目安となる期限までに間に合ったが、突然、仕様書にはないがパッケージに必要だと言われた機能を搭載するため、奔走中だ。
「予算が下りなきゃ、こんなもん誰がやるかってんだよな」
 出勤した啓太郎は、朝から首っぴきになって他のシステムとの連動の道を探し、なんとかカスタマイズの可能性を見つけだした。
 予算計算書のコピーをデスクに投げ置いて、髪を掻き毟る。誰もいなければ、大声で叫び出したいところだ。
「おー、荒れてるな、羽岡さん」
 能天気そうな声をかけてきたのは、いつだったか啓太郎を、傍迷惑な飲み会に誘ってきた男性社員だ。
 前髪に指を差し込んだまま、啓太郎は顔をしかめる。
「オプションの予算が下りちゃったんだよ。君のところの会社が太っ腹なおかげで」
「いいじゃないの。羽岡さんのところの会社も儲かるんだろ」
「その代わり、俺の消耗率は跳ね上がるけどな……」
 苦々しく洩らすと、ふいに真剣な顔となった男性社員に顔を覗き込まれる。
「冗談抜きで大丈夫なのか? ここ最近、劣化が激しいけど」
「劣化と言うな。……適当な食生活のせいか、老化か、寝ても疲れが取れないんだ」
「最近まで肌艶よかったのにな」
 危うく聞き流そしそうになったが、男性社員の言葉に啓太郎は目を丸くする。
「――……よかったか?」
「よかったな。いいもの食わせてもらってるんだなー、と密かに思っていたぐらいだ」
 いつもならムキになって否定できたかもしれないが、嫌というほど身に覚えがあったため、結局無言で肯定してしまう。
 すると、慰めるように肩をポンポンと叩かれた。
「馬力つけてもらうために、今日の昼は俺が奢るわ。大事なSEに作業途中で倒れられても困るしな」
 啓太郎は力なく笑みを浮かべる。
「遠慮しておく。……正直、食欲はないし、何食っても美味くないんだ。それでいいもの食わせてもらっても、もったいないしな」
「いや、そんないいもの奢るつもりはなかったけど――しっかりしてくれよ、羽岡さん」
 大丈夫だと、手をあげて応える。しかしその動きに力がないことを、男性社員にしっかりと指摘されてしまった。




 買ってきたプリンが入った箱を袋ごと目の前まで掲げ、啓太郎は大きく深呼吸を繰り返す。柄にもなく緊張しているのだ。
 他人が見たら、変質者だと思われるかもしれない。マンションの一室の前にさきほどからずっと立ち尽くし、何度もケーキ屋の箱が入った袋を眺めているスーツ姿の男がいるのだ。しかも、夜中に。
 通路の蛍光灯に照らし出される大きな男の図は、さぞかし気味が悪いだろうと啓太郎にも自覚はある。
 立ち尽くしているのは裕貴の部屋の前だった。インターホンを鳴らそうとして、何度も躊躇している最中だ。
 年上であるというプライドをひとまず置いて、とにかく謝って許してもらおうという気になったのは、この十日間、晩メシにカップラーメンを食べ続けているというのも関係あるだろう。
 裕貴と知り合う前までなら、この貧しい食生活になんの疑問も感じなかっただろうが、今は違う。とにかく、飢えていた。
 腹が満たせればいいというのではなく、五感すべてがきちんとした食事を求めているのだ。
 だが、食事以上に啓太郎が求めているのは――。
 よくわからないが、とにかく裕貴に会わなければいけないと、強い義務感と焦燥感に苛まれている。仕事をしていても気が気でなく、いつの間にか裕貴のことを考えているような状態だ。
 怒らせたままで、隣人同士として生活していくのは息苦しさかった。二度と顔を見せるなと、面と向かって言われてもいい。ケジメとして裕貴に謝りたかった。
 そのきっかけとして、裕貴が食べたがっていながら、啓太郎が買いに行ったときには売り切れて買えなかったプリンを、外回りに出るというシステム開発部の女性社員に頼んで、今日買ってきてもらったのだ。
 さすがに寒くなってきて、ブルリと身震いする。啓太郎はやっと覚悟を決め、インターホンを鳴らす。予測はしていたが、反応はなかった。
 かまわず啓太郎は何度もインターホンを鳴らし続け、裕貴が応じるのを待つ。
 しかし、普段引きこもって生活している裕貴の忍耐力は、啓太郎の予想を遥かに上回っていたようだ。五分ほど鳴らし続けても、ドアの向こうから気配すらしない。
 半ば自棄になって、指の感覚がおかしくなるほどインターホンを鳴らしていた啓太郎だが、視線を感じてそちらを見ると、いつからいたのか、同じ階の住人が目を丸くして立っていた。啓太郎と同じく、遅くまで働いて帰宅してきたところらしい。
 啓太郎がぎこちなく笑いかけると、相手は遠慮がちに会釈してから、急いだ様子で鍵をあけて部屋に入ってしまう。
 再び通路に一人取り残された啓太郎は、ドアを蹴りつけたい衝動をぐっと堪えると、ドアノブに袋を落ちないよう掛けて、自分の部屋に戻った。
 ただし、裕貴と会うことを諦めたわけではない。作戦を変えたのだ。
 啓太郎は素早くスーツを脱ぎ捨てて、動きやすい格好へと着替える。
 その格好でベランダに出ると、手すりから身を乗り出して裕貴の部屋の様子をうかがってみたが、カーテンは引かれているが思ったとおり、電気はついていた。
 あいつに限って、外出して部屋にいないということはありえない。
 裕貴が聞けば怒り出しそうなことを考えながら、啓太郎は辺りをうかがう。少なくとも自分以外、ベランダの手すりから身を乗り出している人間も、地上からこちらを見上げている人間もいないことを確認する。
 街灯の明かりで浮かび上がる地上がやけに遠くに見える。五階といえば、やはりけっこうな高さなのだ。
 いまさらながら、そんなことを実感した啓太郎はゴクリと喉を鳴らす。
 フッと短く息を吐き出してから、手すりに両手をかけて力を込める。体を支えてバランスを取りながら、なんとか片足を手すりにかけることができる。
 すかさず片手で手すりを、もう片方の手で仕切りを掴む。
「……何こんなことで、命かけてるんだろうな、俺は……」
 ぼやきつつも、もう片方の足も手すりにかけると、体がぐらつく。両手ですがりついた仕切りがガタッと大きな音を立てた。
 手すりの上に立つだけなら、まだ楽だ。だが啓太郎の目的は、ベランダの手すりを伝って裕貴の部屋へと行くことだった。
 最大の難関は、手すりにまでせり出している仕切りの横を通り抜けることだ。今は支えになっている仕切りが、今度は厄介な障害物になるというわけだ。
 数回ためらってから、仕切りの向こうにあるベランダの手すりを爪先で確かめる。感覚が鈍くならないようハダシになっているのだが、啓太郎はこの選択を少し後悔していた。
 気温が低い中、外にある手すりは、氷のようにつめたいのだ。おかげで、素足で触れているとかえって感覚が麻痺しそうだ。
「こんなところから転落死したら、俺は隣の青年の寝込みを襲おうとした変態男となるわけだな」
 呟いてから、落ちるわけにはいかないと、啓太郎は気持ちも新たにする。それに、裕貴には言いたいことがある。
 なんとか片足を隣のベランダの手すりにつけ、安定させる。あとは、素早く体を移動させられるかどうかだが、すでに啓太郎の足はガクガクと震えていた。
 早くしないと――。
 足に力を入れようとしたそのとき、裕貴の部屋のカーテンが揺れて一気に開かれた。窓の前に立った裕貴が大きく目を見開き、次の瞬間にはベランダに飛び出してきた。
「なっ……」
 咄嗟に言葉が出ない様子だったが、それでも裕貴は啓太郎の腰にしがみついてきて、こちら側に引き寄せようとする。
「うわっ、バカ、バランスがっ……」
 啓太郎は声を上げながら、ベランダに身を投げ出す。地上に落ちて叩きつけられるよりは、ベランダに叩きつけられたほうがマシだと、本能が判断したのかもしれない。
 しかし、思ったような痛みはなかった。その理由を啓太郎は、自分の体の下から上がった声で知ることになる。
「いったー……」
 ベランダのコンクリートに倒れた裕貴の上に、啓太郎は倒れ込んだのだ。
 慌てて体を起こした啓太郎は、裕貴の頭に両手で触れる。
「おいっ、頭を打ったのか? どこか痛くないか?」
 すると乱れた髪の合間から裕貴に睨みつけられた。
「全身痛いに決まってるだろっ。あんたみたいな大男を受け止めたんだから」
 当然のように手を差し出され、反射的に啓太郎はその手を掴んで裕貴を引き起こす。二人は冷たいコンクリートの上にぺたりと座り込み、向き合った。とりあえず裕貴は、どこかから出血している様子はない。
「……お前、本当に大丈夫か?」
「おれが羽岡さんに聞きたいね。頭がどうにかなったんじゃない。ベランダ伝って人の部屋に侵入しようとするなんて」
 ここで裕貴が何かを思い出したように立ち上がり、足元がふらつくのではないかと心配した啓太郎は体を支えようとしたが、裕貴はあっさり無視した。
 ベランダからわずかに身を乗り出して周囲を見回してから、呆れたような表情で啓太郎を見た。
「よかったね。騒ぎになってないみたいだよ。……泥棒に間違われて警察を呼ばれたって、おれは助けないからな」
「そのときは、お前に夜這いしようとして侵入したと言ってやる。そんな恥ずかしいことを言われたくなかったら、お前は嫌でも俺を庇わないといけなくなるだろ」
「――……今からでも遅くないから、ここから下に落ちてみる?」
 やっと自分たちが、いままでと同じように話せていることに気づき、啓太郎は口元に笑みを浮かべながら立ち上がる。
 トレーナーの上からカーディガンを羽織った裕貴は寒そうに首をすくめてから、部屋へと入る。そして啓太郎を振り返った。
「命がけでおれに会いに来てくれたんだから、入れば」
 素っ気なく言った裕貴が背を向ける。啓太郎はその背を見て、激しい感情の高ぶりを感じた。部屋へ入ることを許してくれたことへの感動とか、嬉しさとか、そんな単純な感情ではない。なんだか始末に困るような感情だった。
 ありがたく部屋に上げてもらった啓太郎は、大事なことを思い出した。
「おい、玄関のドアに、お前が食いたがってたプリンを引っ掛けてある。保冷剤を入れてあるから、大丈夫だと思うが――」
 啓太郎の言葉を最後まで聞かず、裕貴は小走りで玄関に向かい、すぐにケーキ屋の箱が入った袋を手に戻ってきた。
「プリンがあるなら、そう言ってくれればよかったのに」
「何度もインターホン鳴らしても、お前出てこなかっただろ」
 恨みがましく睨むと、プリンを箱ごと冷蔵庫に入れた裕貴が澄ました顔で言った。
「――で、用はそれだけ?」
 ぐっと言葉に詰まった啓太郎だったが、ここでつまらない意地を張るわけにはいかなかった。なんのために危険なことまでして、裕貴の部屋に入ったのか。
 拳を握り締めた啓太郎は、覚悟を決めて深々と頭を下げる。
「この間は、悪かったっ。大人げなかった。疲れていたせいもあって、カッとしたんだ」
「なんのこと?」
 思いがけない裕貴の言葉に、啓太郎は顔だけ上げる。腕組みした裕貴が意味深な笑みを浮かべて目の前に立っていた。
「……お前、俺をからかって楽しいか?」
「楽しいに決まってるだろ」
 即座に返され、一気に啓太郎の体から力が抜ける。頭を下げたまま大きく息を吐き出すと、髪をくしゃくしゃと裕貴に掻き乱される。
「なんだか羽岡さん、ちょっと見ない間に、凄まじく生活に疲れた感が増したよね」
「あのな――」
 勢いよく頭を上げた途端、眼前に裕貴の顔が迫ってきた。
 男にしては線が細くて白くてきれいな顔を間近に見て、いまさらながら啓太郎は緊張する。よく考えてみれば、いままで裕貴と同じ空間にいて、こんなに接近したことはなかった。
 さきほどベランダで裕貴の体を下敷きにしたことといい、やむなくとはいえ、今日は一気に二人の距離感が崩れたようだ。
 力仕事など知らないような柔らかな手が頬に押し当てられる。ドキリとした啓太郎はまばたきもできず、裕貴を凝視する。
「なん、だ……」
「痩せたなあ、と思って」
「仕事が忙しいんだ。メシもロクなものを食ってないし」
 スッと裕貴の手が離れ、ほっとしたような名残り惜しいような気がして、そんな自分自身に啓太郎は戸惑う。
 言われるままイスに腰掛けると、裕貴がキッチンに立つ。その後ろ姿を見て、やっと啓太郎は許してもらえたのだと実感できた。
「――なんか作ってくれるのか?」
「この十日間、楽しませてもらったしね」
「何っ?」
 肩越しに振り返った裕貴がニヤリと笑いかけてくる。
 悪魔の笑みだ、と啓太郎は咄嗟に思った。
「あー、おれって羽岡さんに想われてるんだなあって、携帯の留守電を聞いたりするたびに思ったよ。それに、物言いたげな顔で、部屋の前に突っ立ってたこともあったよね。今日のインターホン連打は、さすがにちょっとムカついたけど」
 このとき啓太郎の脳裏を過ぎったのは、裕貴を怒らせたことに対する深い自省と後悔の日々だった。
 あの日々は、一体なんだったのか――。
「……まあ、楽しんだと言ってくれたほうが、俺も救われるか。お前を傷つけたってことだけが、気になって仕方なかったからな」
 気が抜けていくのを感じながら啓太郎は笑ってしまう。裕貴が怒っていないとわかったら、もう他のことはどうでもよくなった。
 包丁を手にした裕貴が体ごと振り返り、不思議そうな顔をして啓太郎を見つめてくる。
「羽岡さん、俺をからかうなって、怒らないわけ?」
「それで今度は、俺がお前を無視するのか? どう考えたって、俺の分が悪いだろ。俺はお前に相手してもらわないと困るけど、お前は俺の相手なんてしなくても困らないんだから」
「おれの相手なんてしてくれる変わり者……、羽岡さんだけだよ」
 裕貴がちらりと苦い表情を見せる。初めて見る表情に啓太郎は目を見開いたが、視線に気づいたのか、逃げるように裕貴は背を向けてしまった。

 十日ぶりに裕貴が作ってくれたのは、ポテトグラタンに、チキンボールの入ったスープだった。そこにパンも添えて出され、啓太郎は感動しながら味わう。
 久しぶりのまともなメシだった。熱々のグラタンに息を吹きかけながら食べていると、裕貴は正面のイスに腰掛け、啓太郎が買ってきたプリンの蓋を開け始める。
「――……必死に食べてる姿見てると、ないはずの母性が疼きそうになるよ、羽岡さん」
 突然の裕貴の言葉に、危うく咳き込みそうになる。なんとか口の中のものを飲み込んだ啓太郎はムキになって言った。
「ないはずのものが疼くかっ」
「それもそうだ」
 にっこりと笑った裕貴がペロリとスプーンを舐める。不覚にも、裕貴のその仕種に動揺した啓太郎は、マカロニを探すふりをしてグラタン皿に視線を落とす。
 イスの上で片膝を抱えてプリンを食べるという、あまり行儀のよくない姿勢を取りながら、裕貴は前触れもなく尋ねてきた。
「――でも、羽岡さん、あのとき観てたんだろ、エロ動画」
 フォークにマカロニを突き刺したところで啓太郎は一瞬動きを止める。顔を上げると、際どいことを口にしたばかりとは思えない無邪気さで、料理の巧い『悪魔』はプリンを食べていた。
「お前なあ……、『でも』がどこから繋がっているのか、俺にはさっぱりわからんぞ」
「観てた?」
 人の話を聞けという抗議は、口中で消える。啓太郎はガシガシと髪を掻き毟ると、半ば自棄になって答えた。
「まだ、観てなかったっ。――これで満足かっ」
 大笑いするかと思った裕貴だが、大げさなほどの同情の表情を見せた。まだ、笑われたほうがよかったかもしれない。
「羽岡さんさあ、あんまりつらいようなら、そういうお店行きなよ。家がいいって言うなら、デリヘルだってあるし、精神的安らぎを求めるなら、家事を全部やってくれるメイドさんを派遣してくれるサービスだってあるんだよ。働きまくってるんだから、お金あるだろ?」
「……なんで俺は体と心の安らぎについて、お前からアドバイスを受けてるんだ」
「だって、つらいんでしょ」
 あまりに核心を突きすぎた言葉に、反論できなかった。
 それぞれグラタンとプリンを食べている男が顔を突き合わせて話すようなことだろうかと思いながら、啓太郎は黙々と食事を続ける。
 一方の裕貴も、自分の発した大胆発言など忘れたようにプリンを食べ、最後に満足そうに吐息を洩らした。その姿に、少しだけ啓太郎は笑ってしまう。
「――……俺は常々思ってるんだ」
 啓太郎の前から食器を片付け、デザートにプリンとスプーンを渡してきた裕貴に話しかける。目を丸くしてから裕貴は首を傾げた。
「何が?」
「時給でつき合ってくれる彼女はいないだろうか、と」
 啓太郎の大まじめな顔から、冗談を言っているのではないと察したのか、裕貴はイスに座り直した。
「風俗とは違うわけ?」
「違う。一緒にいる間は優しくしてくれて、ときには甘えてくれて、でもウザクない。それで美味いメシなんて作ってくれる。望めば望む間だけ、恋人としての時間を一緒に過ごせるんだ。そういう相手が欲しい」
「清々しいまでに、身勝手な話だよね」
 裕貴の指摘に、啓太郎はプリンをスプーンで掬いながら苦笑する。
「俺も、言いながら思った」
 ここで、そんなくだらない話は終わりかと思った。だが、そうではなかった。
 テーブルに肘をついた裕貴が、上目遣いに啓太郎を見つめてきながら、こんなことを言ったのだ。
「――時給次第で、おれが優しくしてあげようか?」









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