Sweet x Sweet

[4]

 すぐには啓太郎は、裕貴の言葉の意味がわからなかった。
「はあ?」
「だからさ、今の羽岡さんの言葉を聞いてると、おれってけっこう条件にぴったりじゃないかと思ってさ。今だって金もらってメシ作っているんだから、時給について考慮してもらえるなら、いくらでもオプションをつけてあげるよ?」
「オプションって、お前な……」
 どう見ても、裕貴は男だ。
 啓太郎は身勝手な『時給制の恋人』について、前提として『彼女』と言ったはずだが、裕貴はあまりその点について重要視していないらしい。そうでなければ、男の裕貴が自ら名乗りをあげるはずがない。
 啓太郎の視線は無意識に、裕貴の胸元に向けられる。トレーナーの上から見ても、当然だが柔らかそうな膨らみなどない。それに、さきほどベランダで倒れ込んだときに下に敷きこんだ裕貴の体は、細身ではあったが骨格は男のものだった。
 間違っても、女の体と錯覚できるものではない――。
 ここで啓太郎は我に返る。まじめに分析するまでもなく、ありえない話だと思ったのだ。そもそも、裕貴と女を比較すること事態、間違っている。
「あまり俺をからかうなよ」
 苦笑した啓太郎に対して、裕貴は挑むような強い眼差しを向けてきた。まるで、啓太郎の心の奥底の動揺を見抜いたかのような目だ。
「からかってないよ。それに羽岡さん、おれ以外にアテがある? 仕事が忙しくて出会いがないだろうし、羽岡さんが今いる部署って、男の人ばかりなんだろ。しかも、ずっと部屋にこもったままでの作業だ。そうなると、会社で女の人と親しくなる暇もない。やっとの休みも、疲れているから外に出たくないって前に言ってたよね」
「……俺の置かれた境遇がいかに厳しいか、実感できるな。お前の口から言われると」
 裕貴はニヤリと笑う。
「その点おれは、楽だろ。羽岡さんの都合次第で会いにきて、用がなければ顔を出さなければいい。おれは引きこもりだから、外でばったり出くわして気まずい思いをすることもない。料理については、いまさら説明するまでもないし、性格はいたって温和」
「温和?」
 啓太郎が露骨に眉をひそめてみせると、テーブルに身を乗り出してきた裕貴が自分の顔を指さす。
「温和だろ。ついでに甘え上手」
「お前が甘え上手というのも初耳だ……」
「上手に甘えてみせるけど。そういうのが羽岡さんの好みなら」
 試すような流し目を寄越され、啓太郎の心臓の鼓動が大きく跳ねる。流されまいとしながらも、裕貴の言葉が巧みに心の中に入り込んでいた。
 冗談として聞き流せと思いながらも、うまい切り返しが思い浮かばず、意味なく唇だけを動かす。啓太郎はすっかり混乱していた。
 裕貴にからかわれていると身構えていたはずなのに、すっかり裕貴の言葉の術中に陥った
ような状態だ。
「――……お前、大事なことを忘れてるぞ」
 やっと出た啓太郎の言葉にも、裕貴は余裕の表情を崩さない。
「何?」
「俺の恋人は、これまでずっと女だった」
「それは、羽岡さんがどこまで許容できるかだよ。これまでおれと一緒にいて、なんか不都合あった?」
 それは問題のすり替えだ。頭の中で反論はできたが、いざ啓太郎の口から出たのは、違う言葉だった。
「お前……本気で言ってるのか?」
 裕貴は返事をしなかった。唇だけのやけに印象的な笑みを浮かべて立ち上がると、カーディガンを脱いでトレーナーの袖を捲り上げてから、キッチンで洗い物を始めたのだ。
 啓太郎は機械的にプリンを口に運びながら、ひたすら裕貴の後ろ姿を見つめる。
 洗った食器を傍らに置くたびに、不揃いに切った髪が揺れ、その髪の動きをつい目で追いかける。
 ぼんやりと、改めて裕貴という青年について啓太郎は考えていた。
 顔立ちそのものはきれいだと思うし、性格は掴み所はないが、年下なのにつき合いやすい。実は二人とも理工学系の大学に通っていた(裕貴は中退したそうだが)という共通点もあり、話が合うのだ。そのうえ作ってくれるメシが文句なしに美味いときている。
 裕貴が女であったなら口説いていたと、前に考えたことがあるが、本当は今も、その考えはあまり変わっていない。
 だが現実として裕貴は男で、その裕貴が、時給で『恋人』のような役割を務めてもいいと言い出した――。
 考えすぎて頭が痛くなってきた啓太郎は、プリンを食べてから立ち上がる。
 足音を抑えて裕貴の背後に立つと、気配に驚いたように肩を震わせて裕貴が振り返った。
「びっくりした……」
 あっという間に啓太郎の手から、スプーンとプリンの容器が奪い取られる。
 裕貴が洗い終えた食器を拭き始める頃に、やっと覚悟を決めた啓太郎は口を開いた。
「――おい、さっきの話、本気か?」
 そう問いかけた啓太郎の声はわずかに掠れていた。拭いていた食器を置いた裕貴が、体ごと振り返ってキッチンにもたれかかる。首を傾げるようにして言われた。
「試してみる?」
 いまだに裕貴が本気なのか冗談なのか、判断がつかない。迷いながらも啓太郎は足を踏み出し、裕貴にさらに近づく。
「試すって、何をすればいいんだ……」
「そりゃもう、恋人にするような、あれやこれや」
 必然的に啓太郎の視線は、裕貴の唇へと吸い寄せられる。さきほどまで甘いプリンを美味そうに食べていた唇に、同じくプリンを食べたばかりの自分の唇を重ねるのかと考えただけで、頭が沸騰しそうになる。
 できない、と言ってしまえばそれで終わりなのに、できるかもしれない、と頭の片隅――いや、頭の大部分で思い始めている自分がいるのだ。しかし、踏ん切りがつかない。
 とうとう啓太郎は、裕貴の肩に手をかけたまま動けなくなってしまった。
「羽岡さん、フリーズ起こしちゃったよ」
 裕貴がおもしろそうに声を洩らして笑う。やはりからかわれていたのだと思った啓太郎は肩にかけた手を引こうとしたが、それより早く、裕貴に手を掴まれた。
「キッチンじゃその気になれないって言うなら、こっちの部屋に行こう」
 寸前まで笑っていたというのに、急に真剣な顔になって裕貴が言い、啓太郎は逆らえなかった。
 パソコンやモニターがずらりと並んだ部屋に連れて行かれる。隣にもう一部屋あるのだが、ほぼ物置になっており、とてもではないがベッドまで置けないということで、どこかオフィス然としたこの部屋で寝起きしているのだという。
 促されてベッドに腰掛けた啓太郎は、正面に立った裕貴を見上げる。
「おい――」
「あっ、試すとは言ったけど、お金もらうからね」
「はあ?」
 声を上げた途端、頬に裕貴の両手がかかり、しっかり押さえられた。間近に腰を屈めた裕貴の顔が迫ってくると、啓太郎の体温は急上昇する。
「何、タダでいいことできると思ったわけ?」
「……『いいこと』かどうかは、まだわからないだろ」
 年上の男としての、精一杯の余裕を見せたつもりだった。しかし、この場の主導権は完全に裕貴に握られていた。
「――いいことだよ、きっと」
 裕貴の囁きが唇にかかった次の瞬間には、啓太郎の唇は軽く塞がれていた。くすぐったいような久しぶりのキスの感触に、あっという間に意識が高揚する。背筋がゾクゾクしてきて、小さく身震いしていた。
 唇を触れ合わせるだけのもどかしいキスを、裕貴は数回繰り返してから、じっと啓太郎の顔を覗き込んできた。
「気持ち悪くない?」
 普段は生意気で皮肉っぽい話し方をするというのに、こう尋ねてきたときの裕貴はどこか不安げで、だからこそ啓太郎の理性を一瞬にして粉砕してしまった。
 裕貴の腕を掴んで強引に隣に座らせると、ぐいっと肩を抱き寄せる。あとは勢いだった。
 今度は啓太郎のほうから裕貴の唇を塞ぐと、すぐに下唇と上唇を交互にきつく吸い上げる。最初はされるがままになっていた裕貴だが、啓太郎の首に手をかけてキスに応え始めた。
 心のどこかで、実は裕貴は他人との肉体的な接触を知らないのではないかと思っていたが、啓太郎の予想は外れた。裕貴は十分に慣れている。
 高ぶる一方の興奮に歯止めをなくしかけ、強引に裕貴の唇を貪りそうになる啓太郎は、巧みにその裕貴に興奮を宥められていた。
 啓太郎がきつく唇を吸い上げると、反対に裕貴は、啓太郎の唇を甘やかすように啄ばんでから、唇を割り込ませてくる。下唇を甘噛みされたときは熱い疼きが腰の辺りに広がり、啓太郎は思わず、両手で裕貴の頬を包み込んでいた。
「おれとのキス、気に入った?」
 キスの合間に裕貴が言い、啓太郎は返事の代わりに苦い表情を浮かべる。素直に頷けるはずがなかった。裕貴は啓太郎の本音がわかったらしく、喉の奥から笑い声を洩らす。
「金払う価値はあると思ってくれたんだ」
 図星を指された啓太郎は、深く裕貴の唇を塞ぐ。啓太郎の求めがわかったのか、裕貴は素直に舌を差し出し、二人は互いの舌先を触れ合わせた。
 気持ち悪いどころか、抵抗すらない。それどころか、裕貴とのキスは気持ちよかった。
「……お前、抵抗ないのか? キス……とかで、俺から金もらうのって。メシ食わせて金を取るのとは、まったく意味が違うだろ」
 啓太郎の質問に、裕貴はまずペロリと唇を舐めてきた。内心うろたえたが、あくまで平静さを装う。これ以上裕貴に主導権を握られてはたまらないと、啓太郎の中で妙な危機感が働いたのだ。
 裕貴は一瞬、キスの最中とは思えない冷えた表情を浮かべ、視線を伏せる。
「金を取るのは罪悪感を感じないためだよ。おれじゃなく、羽岡さんが」
「俺?」
「これでおれ相手に、変な遠慮しなくていいだろ。おれは、金でどうにかできる相手で、本人も納得していることだ、って」
 裕貴の屈折した気持ちが透けて見えた気がして、啓太郎は一度体を離そうとしたが、それを察したのか裕貴のほうから唇を塞いできた。
 逆らえないどころか、啓太郎のほうから裕貴を求めて、差し出された舌を衝動のままに吸ってやる。
 こうされることを裕貴が望んでいるのだと思えば、確かに罪悪感を――それ以上に背徳感を薄めることができた。
「さっき、キス『とか』って言ったよね、羽岡さん」
「そうだったか?」
「言ったよ。つまり、キス以外のことをする気満々ってこと?」
 啓太郎は天井を仰ぎ見て考え込んだ挙げ句、正直に答えた。
「……わからん。こうして男のお前とキスしている自分自身すら、わからん」
 裕貴はベッドの上にひっくり返って大笑いしてから、妙に大人びた視線を向けてきた。
「まあ、自分の行動について考えるのはあとにして、時給決めようよ。おれが羽岡さんに尽くしていくらになるか」
 あからさますぎる言い方に、かえって啓太郎は開き直った。自棄になったとも言う。
「――おう。お前の言い値でいいぞ」
「コースごとに決めようよ。軽めコースとか濃厚コース、甘々コースに、あとは……ハードコースも入れておく? で、今日は何コースでやってくれ、って羽岡さんが注文するわけ」
 からかわれているとわかっていながらも、啓太郎は頭を下げて訴えずにはいられなかった。
「それは勘弁してくれ……」
 寸前まで、年下とは思えない巧みなキスを施してくれていた引きこもり青年は、しばらく腹を抱えてベッドの上で笑い転げていた。




 パッと目が覚めた啓太郎は、すかさず脳裏に蘇った夜更けの光景に、朝からベッドの中で身悶えそうになる。
 恥ずかしさと、居たたまれなさと、妙なくすぐったさと――。
 唇にはまだ、裕貴とキスした生々しい感触が残っていた。それだけでなく、抱き寄せた骨っぽく薄い肩の感触も、手は覚えている。
 実はあれは夢だったのではないかと、今になって思う。普通に考えてみれば、隣の部屋の青年が、あんな突拍子もない提案をしてくるはずがない。
 そうだとすれば、自分の欲求不満はとんでもないところにまで来ているのかもしれないと、啓太郎は空恐ろしくなった。
 もう一度頭から布団を被ろうとして、我に返る。今は何時だと思い、サイドテーブルに手を伸ばす。目覚まし時計代わりの携帯電話を取り上げ、時間を確認した次の瞬間、啓太郎は飛び起きた。
「マズイっ」
 いつもなら、とっくに部屋を出ている時間だった。
 どうしてベルが鳴らなかったのかと、危うく携帯電話に八つ当たりしそうになる。だが、よく考えてみれば、裕貴との出来事ですっかり動揺した啓太郎は呆然としてしまい、目覚ましをセットし忘れたのだ。
 自分自身を罵る言葉を呟きながら、急いで身支度を整えて部屋を飛び出す。
 裕貴の部屋を横目に見つつ一度は通りすぎたが、どうしても気になった啓太郎は腕時計で時間を確認しつつ、引き返す。
 裕貴の部屋のインターホンを乱暴に鳴らすと、いきなりドアが開いた。
 さすがに裕貴は眠っていたらしく、足元がふらついており、長い前髪の間から覗く目も半分閉じている。
「……今日は、朝メシは抜きで行ってよ、羽岡さん……。眠くて、作るの無理――」
 ドアに寄りかかりながらそんなことを言う裕貴の姿が、どうしても啓太郎の中では、深夜の巧みなキスの相手と一致しない。
 やはり昨夜のことは夢だったのだ、と思いつつも、啓太郎は急に体の奥から突き上げてきた衝動に勝てなかった。
 強引に玄関に押し入り、後ろ手でドアを閉めると、持っていたアタッシェケースを足元に置く。驚いたようにやっと裕貴が目をはっきり開いたときには、啓太郎は有無を言わせず裕貴の頭を引き寄せた。
「羽岡さんっ……」
 裕貴が何か言いかけたが、かまわず唇を塞ぐ。キスしながら啓太郎は、今この瞬間すら夢なのではないかという思いが拭えなかった。
 頑なに引き結ばれていた裕貴の唇がいきなり開き、啓太郎を迎え入れてくれる。朝だというのに、眠気など簡単に吹っ飛ぶような強烈な欲情が押し寄せてきた。
 さすがにマズイと思い、最後の理性で啓太郎は唇を離す。こちらも眠気が覚めたのか、裕貴がしっかり意思を宿した目で啓太郎を見つめていた。
「……悪かった」
 気まずくて、ぼそぼそと小声で謝る。裕貴は何も言わないので、仕方なく啓太郎は言葉を続ける。
「夜中のことが夢じゃないかと思って――、ああ、俺の見た夢なら、お前に言ってもわからないか」
「わかるよ」
 裕貴の答えに、啓太郎は目を見開く。すると裕貴の片手が首の後ろに回されて引き寄せられ、柔らかく唇を吸われた。
「羽岡さん、そんなにキスが好きなら、キスコースっていうのも作ろうか? お得な定額コース。いくらキスしても、その日の金額は変わりません、っていう感じで」
「何、言って……」
 咄嗟に言葉が出ない啓太郎に、裕貴は唇だけで笑いかけてくる。
 こんな会話を、夜中交わした。確か、とんでもないコースがあったはずだ。少し考えればわかるはずだが、啓太郎は思い出したくなかった。
「あー、羽岡さんのせいで目が覚めたよ。仕方ないから、何か作ろうかな。……羽岡さんも食べる?」
「……いや、俺は、会社に行かないと……」
 ぎこちない動きで回れ右をした啓太郎はドアを開ける。すると背後から、弾むような声をかけられた。
「――いってらっしゃい」
 振り返ると、にこやかな表情で裕貴が手を振っていた。あからさますぎる演技に、プッと啓太郎は噴き出してしまう。
 あまりに裕貴に似合わないシチュエーションだと思ったのだ。本人もよく自覚しているのか、数秒後には不機嫌そうな表情となって啓太郎にこう言った。
「羽岡さん、新婚コースっていうのも作ってみる?」
「……お前、どんどんマニアックな方面に特化していってるぞ」
 苦笑を洩らしつつ、啓太郎は片手を上げた。口中で、『行ってくる』と呟きながら。




 ただでさえ風変わりだった啓太郎と裕貴の関係は、さらに妙なことになりながらも、比較的穏やかに続いていた。
 相変わらず啓太郎は、裕貴に昼メシ以外では食べること全般世話になっており、とうとう裕貴の部屋のテーブルの上には、貯金箱が置かれるまでになった。アクリル製のシンプルなデザインで、透明で中が見える貯金箱だ。
 裕貴に頼まれて啓太郎が買ってきたものだが、この貯金箱に、食事代――だけでなく、その他で裕貴の世話になったときに相応の金を入れている。いわゆる、『時給制の恋人』に対する対価というやつだ。
 透明な貯金箱に貯まっていく金を見るたびに、こんなにも裕貴に世話になっているのかと、啓太郎はやけに現実的な気分になるのだ。
 せめて、中身が見えない貯金箱を買ってくるべきだったと後悔しているが、一方の裕貴のほうは、この貯金箱を気に入っているらしい。
 昼メシである、ホタテの貝柱がたっぷり入った焼きうどんを食べながら、横目で貯金箱を見ていた啓太郎は、視線を裕貴へと向ける。
 せっかくの日曜日であっても、裕貴の日常に変化はない。相変わらずパソコンの前に座り、片手でキーボードを叩きつつ、思い出したようにもう片方の手で箸を動かし、焼きうどんを食べている。ネットゲームで忙しそうだ。
 それでもしっかり昼メシを作ってくれるのだから、偉いというべきか。
 ゲームが一息つくと、いきなり立ち上がり、素晴らしい速さで洗い物を片付ける手並みも、見事だ。
 二人分のコーヒーを淹れると、裕貴は自分のカップを手にパソコンの前に戻っていく。この間、啓太郎との間に会話はない。冷たいとかではなく、二人でいることにすでにどちらも慣れてしまったのだ。
 啓太郎は、裕貴の部屋に入り浸ることが多くなった。メシ以外にもいろいろと裕貴の世話になっているため、こちらの部屋にいるほうが何かと便利なのだ。それに、外に出たがらない裕貴に自分の部屋に来てくれとは、なかなか言い出しにくい。
 金を払っているとはいえ、啓太郎も気をつかっている。裕貴のほうが立場が強いとも言えるが――。
 頬杖をついてぼーっと裕貴の後ろ姿を眺めていると、ふいに本人が振り返って目が合う。笑った裕貴にからかうように言われた。
「羽岡さん、かまってほしそうな顔してる」
「……俺は犬か」
「いいね、それ。新しいコースに――」
「お前、マニア向けなコースばかり増やしていくが、俺は絶対選ばないからなっ」
 コースの料金表を作って壁に貼ろうかと言われたときは、精神的イジメだと思いつつも、それだけは勘弁してくれと啓太郎は頼んだのだ。
 完全に啓太郎は、裕貴のおもちゃになっている。
「羽岡さんは、キスコースばかりだもんね」
 歌うように裕貴に言われ、知らず知らずのうちに啓太郎の顔は熱くなる。
 まともな羞恥心を持っている人間なら、年下の青年にどんな顔をして、『今日は甘々コースで』などと頼めというのだ。
 もっとも啓太郎としては、羞恥心がないにしても、そんなコースを頼む気はない。
 固く心にそう誓いながらも、誘われたように立ち上がり、裕貴の背後に歩み寄る。
 ゲーム内でメンバーとチャットをしている裕貴は素早くキーボードを叩いており、その手の上に啓太郎は自分の手を重ねた。
「――……抱き締めるっていうのは、どのコースに入るんだ」
 低い声で尋ねると、裕貴が啓太郎を仰ぎ見た。
「それは、サービスにしておいてあげるよ」
 裕貴のこんなところに、啓太郎の気持ちは甘くくすぐられる。
 背後から裕貴を抱き締めると、すかさず裕貴の手が腕にかかり、シャツを軽く握り締めてきた。こんな仕種も計算してのことか、無意識のものなのかわからないが、やはり気持ちをくすぐられるのだ。
 柔らかな裕貴の髪に顔を埋めてから、耳元で熱い吐息を洩らすと、裕貴の手が伸ばされてきて、啓太郎は頬を優しく撫でられる。ついでに髪もくしゃくしゃと撫で回されたが、その手つきは、犬を撫でるのと大差ないように感じる。
「お前今、俺を犬扱いしているだろ」
「えー、してないよ」
 そう答えて裕貴が振り返り、結局啓太郎はいつもと同じコースを選んでしまう。
 裕貴のあごを持ち上げて、ゆっくりと唇を重ねていた。
「待っ……て、羽岡さん、今、ゲーム中。みんな集まって、これからイベントこなさないといけないんだから」
 モニターを見てみると、確かにアニメに出てくるようなキャラクターたちが集まって、思い思いにチャットで会話を交わしている。MMORPGだ。ちなみに裕貴は、獣人族の戦士の男という設定のキャラクターを使っている。
 現実世界の裕貴は線が細くてきれいな顔をした青年だが、ネットゲームの中では、筋骨隆々とした、強そうだがいかにも粗野な外見をしていた。
 集まっているメンバーも、まさかこんなキャラクターを使っている青年が、モニターを見ながら同性とキスしているとは思いもしないだろう。
 今この瞬間も、確かにネットゲーム内で複数の人間と世界が繋がっているというのは、傍で見ている啓太郎にとっても妙な感じだった。
 啓太郎と唇を吸い合いながら、裕貴が片手だけでキーボードを叩き、少し席を離れるとメンバーに伝える。
 裕貴の手がキーボードから離れるのを待って、裕貴の体の向きをイスごとこちらに向ける。裕貴も両腕を伸ばして啓太郎の首に絡めてきた。
 啓太郎が丹念に下唇と上唇を啄ばんでいると、合間に裕貴に言われる。
「羽岡さんて、本当にキスが好きだよね」
「……どうだろうな。いままで意識したことなかった」
「それとも、金払っているから、元を取ろうと必死だとか?」
 悪戯っぽい目が、長い前髪の間から覗いている。啓太郎は裕貴の前髪を掻き上げてやってから、額に唇を寄せた。
 一度裕貴とのキスの快感を覚えてしまえば、後ろめたさはさほど感じなくなった。この部屋には二人きりだし、裕貴に限って他言することはありえない。もちろん、啓太郎も。
 誰にも知られない秘密の行為だからこそ、大胆だったり、図々しくなれるのかもしれないし、モラルもひとまず忘れていられる。
 裕貴が言っていたとおりだった。行為の対価に代金を支払うということは、それだけで罪悪感が希薄になるし、免罪符を得たような気持ちにもなれる。
「お前、美容室とか行って、一度きちんと髪を切ってもらわないか? うっとうしいだろ」
「すっきりすると、落ち着かない。だいたい、人に顔を見られるのが嫌なんだよ」
「……きれいな顔立ちをしてるのにか?」
 欲目から出た言葉ではなく、実際裕貴は、十分に人目を惹く容貌をしているのだ。
 一瞬、裕貴の顔から表情が消える。機嫌を損ねたかと啓太郎はドキリとしたが、次の瞬間にはぶつけるような勢いで裕貴が唇を重ねてきた。
 啓太郎の唇が、裕貴の舌先でこじ開けられる。口腔に差し込まれた裕貴の舌をきつく吸い上げてから、二人は舌を絡ませていた。
 今度は啓太郎が裕貴に誘い込まれ、熱くしっとりと潤った口腔をたっぷり舌で舐め回す。刺激的で官能的なキスに酔い、いつまでも味わっていたい欲望に駆られていた。
 目を閉じてキスを堪能している裕貴の青白い頬は、少しずつ上気してくる。この反応は演技でできるものではない、と啓太郎は信じている。
 ふいに裕貴が目を開き、間近で見つめ合う。唇を触れ合わせたまま言われた。
「あまり……キスされている最中に顔を見られるの、好きじゃないな」
「俺は好きだ」
 きっぱり言い切ると、珍しく裕貴は折れた。
「金払ってるのは羽岡さんだしね。どんなマニアックな要望にも応えられるよう、がんばりますよ」
「……人を変態みたいに言うな」
 クスッと笑った裕貴が、モニターに視線を向ける。すると何かあったのか、小さく舌打ちして、イスを元に戻してパソコンに向き直った。
「おい?」
 啓太郎が呼びかけたが、裕貴は返事をしない。啓太郎も背後からモニターを覗き込むと、動かない裕貴のキャラクターに対して、青年の姿のキャラクターがしきりに話しかけていた。
 なんと話しかけているのか、文字を読もうとしたとき、急に裕貴が乱暴にマウスを動かし、あっという間にログアウトしてしまう。
「あれ――」
 誰なのか問いかけようとすると、淡々とした口調で裕貴が説明した。
「普通そうなキャラの外見に騙されちゃダメだよ。あれ、中の人間はとんでもないから」
「変なのか」
「まあね。いろいろ因縁ありで、出くわすと、よく絡まれるんだ。そういうときは、即ログアウト。あーあ、今日はもう、ログインできないな。待ち伏せているかもしれないし」
 本当につまらなさそうにぼやいた裕貴が、頭の後ろで手を組む。そんな裕貴の姿と、日中でも引いたままのカーテンの隙間から差し込む陽射しに、啓太郎は交互に目を向ける。
 上気していた頬が元の青白さに戻った裕貴と、まだ寒いとはいえ、天気がいい外――。
 この機会だとばかりに啓太郎はこう言っていた。
「――なあ、散歩行かないか」
 驚いたように裕貴が振り返ってから、眉をひそめる。
「もしかして、おれに言ってる?」
「お前以外、誰がいるんだ」
「……度胸あるよね。引きこもり相手に散歩に行こう、なんて。よりによって、日曜の昼下がり。一番人が出歩いてる時間帯じゃない?」
 思ったとおりの裕貴の反応に、啓太郎は笑うしかない。まるで子供を説得するように、腰を屈めて優しく言い諭す。
「別に、人ごみに揉まれに行くわけじゃないだろ。この近所なんだから、人が出歩いているにしたって、タカが知れてる。それに、俺もいる」
「おれ、人に会いたくない」
「会わなくていいから。ただ、日光を浴びて、外の空気を吸うだけ」
「だったら、ベランダでいいじゃん」
 手強い。裕貴が生半可な気持ちと事情で部屋に引きこもっているわけではないとわかっているつもりだったが、まだ認識が甘かったらしい。
 奥の手だと思いながら、啓太郎は重々しい口調で切り出した。
「ここから少し行ったところに、ケーキ屋ができたのを知っているか?」
 裕貴は少し警戒するように啓太郎を見る。
「……まずいケーキなら、食べないほうがいい」
「美味いみたいだぞ。有名なパティシエが作ってるらしくて、できて間もないっていうのに、いつも客でいっぱいらしい」
「じゃあ、買ってきてよ」
 当然のように言われ、さすがに啓太郎も拳を握り締める。言うまいと思っていたが、我慢できなかった。
「――俺は、お前と買いに行くつもりで、今日まで黙ってたんだっ」
 裕貴が目を丸くして、ムキになって怒鳴った啓太郎をじっと見つめてくる。
 大人げない自分が急に気恥ずかしくなった啓太郎は、今になって居たたまれなさを感じ、慌てて姿勢を戻そうとする。すると、裕貴の手が首の後ろにかかって止められた。
「羽岡さんて……」
「なんだよ」
「なんで彼女いないのか、本当に不思議だ。こうも母性を疼かされる人って、なかなかいないよ」
「……だから、お前にはないだろ」
 ニヤッと笑った裕貴に、チュッと頬にキスされる。これまでの人生の中で一番、意表を突かれて、気恥ずかしいキスだったかもしれない。
「お、前、何してっ――」
「あんまり羽岡さんが可愛くてさ」
 ぐっと奥歯を噛み締めた啓太郎は、裕貴の顔を指さして言い放つ。
「いいから早く準備しろ。俺も一度自分の部屋に戻って、着替えてくる」
 裕貴は不服そうに唇を尖らせたが、嫌だとは言わなかった。
 初めて啓太郎が裕貴に勝った、記念すべき瞬間かもしれない。
 もう一度裕貴に念を押してから啓太郎は自分の部屋に戻り、スウェットの上下から、パンツにハイネックのセーターに着替え、その上からブルゾンを羽織る。財布をポケットに突っ込んで室内を見回すと、家の鍵を手に部屋を出た。
 裕貴はまだ着替えている最中で、ダイニングに入ってすぐ、隣の部屋で長袖のTシャツを着ている姿が目に飛び込んでくる。
 目を射抜くほど白い背を見て、啓太郎の鼓動が大きく跳ねる。さきほど交わしたキスの余韻か、胸の奥が痺れるような欲情を覚えていた。
 すでにジーンズに穿き替えた裕貴が振り返り、乱雑に髪を掻き上げながら唇を歪めた。
「羽岡さん、外、寒い?」
「今時期なら、これぐらいの寒さは普通。というかお前、その格好は薄着すぎるだろ。どんどん着込め」
 裕貴はクローゼットから引っ張り出してきたダウンベストを着込むと、その上からダッフルコートを羽織り、仕上げにニットキャップをすっぽりと頭に被った。
 どこから見ても、外を歩いていれば普通に見かける青年らしい格好に、少しだけ啓太郎は感動する。
「……落ち着かない」
 小さな声で呟きながら、裕貴はニットキャップを引っ張って、顔を隠そうとする。その姿に思わず笑みを洩らしながら、啓太郎は手招きした。
「ほら、行くぞ」
 玄関まで行くと、スニーカーを履いた裕貴が啓太郎を見て言った。
「腕組んで歩く?」
「それはなんの罰ゲームだ……」
 無事にケーキ屋まで行って、この部屋に帰り着けるのか、少々不安になりながら啓太郎は玄関のドアを開けた。









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