Sweet x Sweet

[5]

 ほぼ部屋の中だけで生活している裕貴だが、外に出て陽射しを浴びた途端消える――ということは、当然なかった。
 心底嫌そうにマンションから出た裕貴は、まず眩しそうに目を細めて空を見上げた。
 風は冷たいが、だからこそ降り注いでくる陽射しが貴重なものに感じられる。啓太郎はそう感じるが、裕貴の感想は違った。
「……久しぶりに日光に当たったから、頭がクラクラする……」
「感動もへったくれもないな。お前の言葉は」
 苦笑した啓太郎は、裕貴の背を軽く押して一緒に歩き始める。
 裕貴はゆっくりとした歩調で、うつむきがちに歩き、いつもはせっかちに早足で歩く啓太郎も、このときばかりは調子を合わせる。
 考えてみれば、今は仕事のために歩いているわけではなく、散歩なのだ。ゆっくり歩いて当然の状況だ。
「まっすぐケーキ屋に向かうのもつまらんから、少し回り道するか」
 こう提案すると、少し顔を上げた裕貴が露骨に嫌そうな表情を浮かべる。しかし、外に出た啓太郎は強気だった。ここぞとばかりに、にんまりと裕貴に笑いかける。
「一人で帰るか?」
 返事の代わりに裕貴に足元を蹴りつけられた。
 車や人の通りが多い道を避け、大きな公園に沿うようにして造られた並木道を通る。ジョギングや、啓太郎たちと同じような散歩をしている人たちの姿はあるが、それでもさきほどまで歩いていた通りに比べれば、遥かに静かだ。
 裕貴は道に落ちた枯れ葉をときおり蹴りながら、気ままに歩く。急に早足になったかと思えば、立ち止まったりと、まるで子供を連れ歩いているような気分になる。
 しかし、意外に散歩を楽しんでいるらしく、青白かった頬にわずかな赤みが差している。
 柵から身を乗り出し、人工的に造られた小川を覗き込んでいる裕貴を、足を止めて啓太郎は眺め、無意識に口元を綻ばせる。
「たまにはいいだろ、外の空気に当たるのも」
 啓太郎がこう声をかけると、裕貴がちらりと視線を向けてくる。そして、可愛げのないことを言った。
「羽岡さんに、久しぶりのデートの気分を味わわせてあげてるんだから、感謝してよね」
「……ありがたくて涙が出そうだな」
 少しは表情を和らげた裕貴だが、傍らを高校生らしい一団が通りすぎるときは、さりげななく啓太郎の陰に入って隠れようとする。このときにはもう、顔を強張らせていた。
 外が嫌いというより、他人が苦手なのだと、裕貴の様子を見ているとよくわかる。惰性で部屋に引きこもっているわけではないのだ。
 並木道を通り抜けて少し歩くと、裕貴にとって最大の難関が待ち構えていた。
「ここ……通るの?」
 商店街の入り口を見た裕貴が顔をしかめ、啓太郎を見つめてくる。
「ああ、商店街を抜けたすぐ近くにあるんだ」
「だったら、別の道通っていこうよ。何もこんな、人通りの多いところ通らなくても……」
「大丈夫だって。俺が一緒なんだから」
 裕貴は何度も、啓太郎の顔と商店街のほうを見てから、渋々といった様子で頷く。
 商店街に入ると、目に見えて裕貴は体を強張らせ、表情が見えないほど顔を伏せてしまう。これでは前が見えないだろと啓太郎は思うが、どうやら啓太郎の足元を見て歩いているらしい。おかげで、何度も人にぶつかっては、立ち止まる。
 見ていて痛々しくなってきて、無理やり連れ出すのではなかったと、啓太郎は後悔した。
 裕貴に悪いことをした。そう思いながら裕貴の背にてのひらを当てると、ちらりと啓太郎を見上げた裕貴が片手を伸ばし、しっかりと啓太郎の腕を掴んできた。
 人目がある場所で恥ずかしいという感情はなかった。それより、腕を掴んでいる裕貴の手を見ていると、啓太郎の中で不可解な感情が湧き起こり、胸が詰まる。
 こんなことを裕貴本人に言ったら睨みつけられるかもしれないが、他に頼るものがないといった裕貴の様子を、正直可愛いと思った。
 この、きれいな顔立ちをして、年上の啓太郎をからかうような言動を繰り返す裕貴を――。
 部屋の中に引きこもっていても不安定に感じる存在は、外に出ると、よりいっそう存在の不安定さが増して、放っておけないのだ。
「……そんなに嫌なら、引き返すか?」
 たまらず啓太郎が話しかけると、顔を伏せたまま裕貴が首を横に振る。
「このおれを外に引っ張り出しておいて、手ぶらで帰るなんて本気で言ってる?」
 やっぱり可愛くない……。心の中で呟きながらも、啓太郎は笑みを洩らしていた。
「はいはい」
 なんとか目的のケーキ屋についたが、裕貴は店内の女性客の多さを目にして、頑として中には入りたがらなかった。
 結局裕貴を店の外に待たせて、啓太郎だけが中に入ってケーキを買う。
「――もしかしてお前、本当に女嫌いか」
 帰り道、商店街を避けて違う道を歩きながら、思いきって尋ねると、裕貴は皮肉っぽく唇を歪めた。
「本当に嫌い。おれの周りは、ロクな女がいなかった。もっとも、ロクな男もいなかったけどね。母親も、父親も含めて」
 それは女が嫌い、男が嫌いというより、人間が嫌いなのではないかと思ったが、あえて啓太郎は指摘しなかった。わざわざ言わなくても、裕貴自身がよくわかっているような気がしたのだ。
 人の通りのない細い路地に入ったところで、裕貴が急に周囲を見回してから、啓太郎に体当たりをしてきた――と思ったら、腕を取られた。しっかり腕を組まれたのだ。
「おいっ……」
「今、こいつにもいろいろあって、引きこもっているんだなあ、と思っただろ。少しはこいつに優しくしてやろうって気になった?」
 腕を引き抜くことも忘れ、啓太郎はまじまじと裕貴を見つめる。人の行き来が多かった場所では強張っていた顔も、いつものように少しの憎たらしさと柔らかさを取り戻していた。
 裕貴が返事を促すように首を傾げる。啓太郎は苦い表情を浮かべると、裕貴の頭からニットキャップを奪い取り、髪をぐしゃくじゃと掻き乱してやる。
「俺はいつでも、お前に優しくしてやってるだろうが」
「というより、おれのほうが羽岡さんに優しくしてあげてると思う。むしろ、たっぷりの愛情を注いでいるというべき?」
「好きなように言ってくれ」
 軽く声を上げて笑った裕貴が腕を解き、啓太郎の手からニットキャップを取り返して被り直す。
「――……お前、どうして引きこもるようになったんだ」
 ずっと知りたくても、聞けなかったことだった。なんとなく、今なら聞ける気がしたのだ。裕貴は意味ありげな視線を啓太郎に投げかけてくる。
「おれのこと、知りたくなった?」
「まあ、いろいろと世話になってるからな」
「……理由は、おれが、外の世界と合わなくなってきたと感じたから」
「それで、二年も引きこもっているのか。大学も中退したんだろ」
「合わない、と感じるのは、それだけで苦痛なんだよ。世界のすべてから拒絶されたような気になる。まあ、おれの場合は自業自得かな……」
 具体的なことは実は何も言っていない。啓太郎としては、裕貴に何があったのか想像を巡らせるしかないのだ。
 すべてを話せるほど、まだ信用してもらってないのだろうかと考えると寂しいので、あえてその考えは頭から追い払った。
 裕貴はさらに何か言いかけようとしたが、我に返ったように口を閉じる。次の瞬間には、何事もなかったようにニッと笑いかけてきた。
「足が疲れたから、おんぶして」
「金取るぞ」
 負けずに啓太郎が言い返すと、裕貴は唇を尖らせる。
「ケチ」
「これみよがしに、テーブルの上に貯金箱を置いて、俺から金を取り立てているお前にだけは、言われたくねーよ」
「あれは、勤労に対する当然の報酬だろ」
「背負ってやるから金払え」
「おれを背負うのは、奉仕って言うんだよ」
「よし、わかった。マンションまで仲良く歩くぞ」
 啓太郎が足早に歩くと、聞こえよがしに文句を言いながら裕貴もあとをついてきた。

 マンションに戻ったところで、啓太郎はついでに自分の部屋に来ないかと誘いたかったが、裕貴はさっさと自分の部屋に入り、当然のように啓太郎を振り返った。
「ケーキ、食べるんだろ?」
 ケーキを買ったのは啓太郎だが、もちろんそんなことは言わない。頷いて、裕貴の部屋に入る。
 何より先に裕貴はエアコンを入れ、室内を暖め始めた。ダッフルコートも脱がず、ニットキャップすら取らないでキッチンに立つと、さっそく皿とフォークを準備し、お湯を沸かす。
 啓太郎は手持ち無沙汰にケーキの箱を手に立ち尽くしていたが、振り返った裕貴にからかうように言われた。
「座れば。用なしだから帰れなんて言わないから」
「当たり前だ。誰がケーキを買ったと思ってるんだ」
 啓太郎がブルゾンを脱いでイスに腰掛けると、裕貴は隣の部屋に行き、ニットキャップを取って軽く頭を振る。不揃いの髪がふわりと揺れ、なんとなく啓太郎は裕貴の行動を目で追っていた。
 ダッフルコートとダウンベストを脱いできちんとハンガーにかけると、いきなりTシャツも脱ぎ捨てる。再び目にした白い背に啓太郎は動揺してしまうが、肩甲骨や背骨のラインに視線を奪われていた。女のように魅力的な括れはないが、ほっそりとした背から腰にかけてのラインに目がいくと、自然に鼓動が速くなっていた。
 トレーナーをすっぽりと着込んだ裕貴は、大きめのカーディガンを取り上げて羽織る。
 自分を誘っているのだろうかと一瞬の疑念が啓太郎の中で浮かび上がるが、それにしては裕貴の動作は素っ気ない。
 難しい顔をして考え込む啓太郎を見て、振り返った裕貴が目を丸くする。
「どうかした、羽岡さん。怖い顔して」
「い、や……」
 すると裕貴が、納得したように大きく頷く。
「あっ、おれが食べる分のケーキ代払えって思っているんだろ」
「俺はそんなに心は狭くねーぞ」
「おれも狭くないよ。常に寛大」
 自分が食べるケーキを楽しそうに皿に取りながら、裕貴がうそぶく。ちなみに選んだのはイチゴのタルトだ。ケーキ屋のショーケースで眺めていて、なんとなく裕貴が好きそうだと思って選んだのだが、正解だったようだ。
 一方の啓太郎は、容易に味の想像がつきそうなチョコレートケーキを選んだ。生クリームより、チョコレートクリームのほうがいい。
 裕貴がコーヒーを淹れ、さっそくケーキに手をつける。
 室内は急速に暖かくなっていき、そこにコーヒーのいい香りと、ケーキの甘い香りが混じり、目の前では裕貴が嬉しそうな顔でイチゴをフォークで突いている。
 こういう空気はいいなと、啓太郎は思った。
「美味いか?」
「労働のあとだから、なおさらね」
「……労働って、ちょっと歩いただけじゃねーか」
「でもあんなに歩いたの、二年ぶり」
 啓太郎は絶句したあと、じっと裕貴の顔を見つめながらこう言う。
「――俺に時間があるときは、連れ出してやる」
「えー、いいよ」
「体力つけておけ。何かあったときに困るぞ」
 半分に切ったイチゴを食べてから、裕貴が妙に艶かしい笑みを浮かべた。条件反射で啓太郎は身構える。
「なんだよ……」
「何か、って、何かなあ、と思って」
 意味深なことを言って裕貴がイチゴを摘まみ上げ、啓太郎のほうに差し出してくる。何も言われなかったが、裕貴が何を求めているか察し、イチゴに顔を近づけた。
 口を開けると裕貴がイチゴを食べさせてくれ、甘酸っぱい味が舌の上に広がる。
「生地に入っているクリームはなんだ?」
「カスタード」
 答えた裕貴は指先でカスタードクリームを掬い取り、再び啓太郎の口元に持ってくる。フォークを使えと、野暮なことを言うつもりはなかった。
 カスタードクリームのついた裕貴の指ごと口腔に含み、舌で舐め取る。
「……甘いな」
「羽岡さんのチョコレートケーキは?」
 裕貴に倣い、啓太郎も指でチョコレートクリームを掬って差し出す。顔を寄せた裕貴がペロリと舌先で舐めてから、ゆっくりと指を口腔に含んだ。
 ゾクゾクとするような興奮が背筋を這い上がり、啓太郎は小さく身震いする。指にまとわり吸い付く裕貴の口腔の感触は熱く濡れて、指に心地いい。ゆっくりと指を吸いながら、裕貴が舌を擦りつけてくる。
 何度も味わった裕貴の唇と舌、口腔の粘膜の感触は、指で感じても魅力的で官能的だった。
 やっと指を解放した裕貴が、挑発するように啓太郎に笑いかけてくる。
「羽岡さん、キスしたそうな顔してる」
「お前がそう仕向けたんだろ」
「どうかなあ」
 怒りたいのに、怒れない。
 啓太郎は乱暴にイスを引いて立ち上がると、裕貴の腕を掴んで立たせる。隣の部屋に連れていってベッドに突き飛ばした。
 ベッドに腰掛けた裕貴が見上げてきて、その眼差しに啓太郎は抗えない。乱暴に隣に腰掛けると、裕貴の肩を抱き寄せて唇を塞いだ。
 出かける前にキスはしているが、今のキスは少し違う。裕貴の唇は甘酸っぱく、それにさきほど舐めたチョコレートクリームの味が少し交じっていた。
 舌を絡め合いながら、啓太郎は両手を裕貴の着ているトレーナーの下に這わせる。さきほど見た白い背や、肩甲骨や背骨の艶かしいラインが頭から離れないのだ。
 互いに荒い呼吸を繰り返しながら唇を離し、間近で見つめ合う。その状態で裕貴に囁くように言われた。
「羽岡さん、キス以外のことしてる」
 裕貴の滑らかな背にてのひらを這わせると、肌がゆっくりと熱を帯びてきている。生々しい変化に啓太郎は、冷静ではいられなかった。
「――唇以外にキスしても、それはキスなのか?」
「キスはキスだろ。唇で触れるなら」
 唇を裕貴に軽く吸われ、その行為が啓太郎の背を押すことになる。
 余裕なく裕貴のトレーナーを脱がせようとしたが、嫌がるように裕貴は体を引き、啓太郎に背を向けた。
「どうした?」
「おれの体、前から見ないほうがいいよ。男の体だと認識した途端、冷めるんじゃないかな、羽岡さん」
 そんなこと、思いもしなかった。啓太郎は驚きながらも、裕貴の言葉を否定できない。自分でも、裕貴の体を正面から見て、どんな感想を抱くか想像できなかったのだ。
 ただ、裕貴が啓太郎と同じ構造の体を持っていることは確かだ。そして、向けられている裕貴のほっそりとした背に触れてみたいのも確かだった。
「……なら、お前の体を前から見ない。後ろから、お前に触れる」
 裕貴に語りかけながら、背後から抱き締める。啓太郎は柔らかな髪に唇を押し当ててから、裕貴のトレーナーを脱がせ、露わになった白い背にてのひらを這わせながら、骨ばった華奢な肩に唇を押し当てた。
「あっ」
 裕貴が微かな声を上げて背をしならせる。
 肩から首筋へと熱心に唇を這わせる啓太郎に、裕貴は笑いを含んだ声で言った。
「キスコースだけでこんなことまでできるんなら、料金見直そうかな」
「好きにしろ」
 頭だけを動かして振り返った裕貴と、差し出し合った舌を絡める。
 腰を撫で上げると、裕貴は背を反らして吐息を洩らした。啓太郎は背骨のラインを指先でくすぐるように辿り、うなじを吸い上げる。
 啓太郎は、ベッドに横になり、うつ伏せとなった裕貴の背に何度もてのひらを這わせた。そうするたびに裕貴の肌が汗ばみ、しっとりと濡れてくる感触に、愉悦を覚える。
 この瞬間、冷静になってはいけないと、啓太郎は自分に言い聞かせていた。
 金を払って青年の体に触れているのだ。裕貴と出会う前までの啓太郎なら、思いもしない行動だ。嫌悪感すら示していただろう。
 今のこの状況は、自分がおかしくなったのか、裕貴が特別なのか、よくわからなかった。とにかく啓太郎は、裕貴に触れたい。
 まだ少年のようにも、肉付きの薄い女のようにも見える裕貴の背を丹念に撫でてから、啓太郎はそっと唇を押し当てた。
 ピクリと体を震わせた裕貴が両手でシーツを握り締める。裕貴の反応をうかがいながら、体重をかけないよう気をつけて背に覆い被さり、思うに任せて何度も背にキスの雨を降らせていた。
「くすぐったいよ、羽岡さん」
 そう言って裕貴がクスクスと笑い声を洩らす。啓太郎も唇に淡い笑みを浮かべてから、裕貴の肩に軽く噛みついた。裕貴が首をすくめ、短く息を吸い込む。
「……追加料金、もらうから」
 ボソリと裕貴が言った言葉に、もう一度肩に噛みついてから啓太郎は応じた。
「何回噛んだか、数えておけよ」
 流し目を寄越した裕貴と、同じタイミングで噴き出し、二人は笑い合う。この瞬間から、どこか緊迫していた空気がフッと緩む。まるでじゃれ合うように、啓太郎は裕貴の体に触れ、裕貴も自ら望むように積極的に受け入れ、求め始めた。
 ベッドに両手を突いて上半身を起こした裕貴の、浮き上がる肩甲骨のラインを教えるように啓太郎は唇で吸い上げてやる。一方で指先を裕貴の唇に擦りつけ、すぐに熱く湿った感触に包み込まれて吸引される。
 どんな顔で指を舐めているのか見たい気もするが、裕貴の背後にいる啓太郎には、表情を見ることは叶わない。あごを掴んで振り向かせるのも野暮なような気がした。
 背後から片腕で裕貴を抱き寄せながら、うなじや首筋に熱心に唇を這わせる。
 再びベッドにうつ伏せに横にさせる頃には、裕貴の背は赤く染まっていた。背以外の場所にも触れたいという欲望が啓太郎の中で芽生え、背骨のラインを舌先でなぞり上げながら、ジーンズのウェストに手をかける。すると柔らかな声でたしなめられた。
「ダメだよ、羽岡さん。おれを男だと目の当たりにしたら、こんなふうに遊べなくなる」
 啓太郎は手を止める代わりに、裕貴の肩に強く吸い付いてくっきりとした跡を残す。
 体を離すと、裕貴は片手を伸ばして毛布を引き上げ、自分の体を覆い隠してしまう。そのうえで寝返りをうち、啓太郎を見上げてきた。
 普段は生意気で皮肉屋だからこそ、自分の体を見せまいとする裕貴の気づかいが啓太郎には健気に思え、だからこそ狂おしい欲望を刺激される。
 裕貴の両手が伸ばされて頭を引き寄せられ、二人は唇を吸い合う。
「……お前、自分が男の体だっていうことに、こだわっているんだな」
 キスの合間に啓太郎が言うと、裕貴は痛みを感じたように視線を伏せた。
「当たり前だろ。羽岡さんは女好きで、おれはあくまで、金をもらって気晴らしをしてやってるんだから。お互い納得しているとは言っても、羽岡さんが男のおれの体見て冷めていく様子なんて、気分悪いから見たくないよ」
 本当にそれだけの理由かと思ったが、あえて突っ込んで尋ねなかった。裕貴が言わないということは、本当の理由は言いたくないということだ。無理やり聞き出す権利は啓太郎にはない。
 キスを続けながら何度も裕貴の髪を撫でてやっていると、うっとりしたように裕貴が目を閉じた。
「――久しぶりに運動したから、眠くなった」
 啓太郎は苦笑を洩らしながら、裕貴の頬を撫でてやる。
「羽岡さん」
「なんだ」
「今日の料金はチャラにしてあげるから、おれの言うこと聞いてよ」
「とんでもないこと言うなよ」
 目を閉じたまま裕貴は小さく笑った。
「少し昼寝するから、おれが寝入るまでこんなふうに触ってて」
 ささやかなわがままに、ああ、と啓太郎は応じる。
「それから、テーブルに置いたままのケーキはあとで食べるから、冷蔵庫に仕舞っておいて」
「心配するな」
「おれが寝てるからって、変なことしないでよ」
「……するか」
 プッと啓太郎が小さく噴き出すと、裕貴も唇を綻ばせてから深い吐息を洩らした。
 啓太郎は何度も裕貴の髪や頬を撫でてやりながら、合間に、薄く開かれた裕貴の唇に優しいキスをする。
 初めのうちはそっと舌を吸い合っていたが、啓太郎がこめかみや額、頬にキスしてから、何度目かに唇を重ねたときには、その動きは緩慢になっていた。そしてとうとう、キスに応えることはなくなる。
 裕貴の唇から、ゆっくりと規則正しい寝息がこぼれ始めた。
 啓太郎は起こさないよう髪を梳いてから、毛布だけを巻きつけた格好の裕貴に布団をかけてやろうとして、手を止める。毛布越しに浮かび上がっている裕貴の体の線を眺めていた。
 自分は果たして、裕貴の体が男だからといって抵抗があるのだろうかと、つい考え込んでしまう。
 そもそも裕貴が男であることは最初からわかっていることだし、それを承知で、裕貴とキスしていたのだ。もっとも、それ以上の行為についてはどうなのか――。
 啓太郎は毛布の下に手を忍び込ませたい衝動を堪え、裕貴にそっと布団をかける。
 高ぶっていた欲望はゆっくりと鎮まっていき、代わって温かな感情が啓太郎の胸に広がる。こんな穏やかな気持ちになったのはいつ以来だろうかと考えていた。
 一度ベッドから立ち上がり、出したままのケーキにラップをかけて冷蔵庫に入れる。カップも洗うと、簡単にテーブルの上を片付けた。いままで、メシを食わせてもらったあとも、片付けはすべて裕貴任せだったので、せめてこれぐらいはしておこうと思ったのだ。
 再びベッドに戻って枕元に腰掛けると、啓太郎はしばらく裕貴の髪を撫で続けた。




 参った、と心の底から嘆息し、啓太郎は会社のプロジェクトルームで頭を抱えていた。
 進捗報告会議のため、朝のうちに常駐先の会社に顔を出してから、本来自分が勤めている会社にやってきたのだが、会議に顔を出した上司の顔を見たときから、嫌な予感はしていたのだ。
 営業畑一筋でやってきたという上司は、当然のようにプログラムの知識が皆無に近い。それでプロジェクトの進行を決めているのだから、SEやプログラマにしてみれば、迷惑以外の何者でもない。
「この状況で、どうやってサブシステムまで回せっていうんだ……」
 一人でぶつぶつと呟きながら、テーブルの上を片付けていく。とりあえず、二日後にまたミーティングでここを訪れなければならないので、そのときまでに提案書をまとめて提出しなければならないだろう。
 今のうちに手を打っておかなければ、システムと共に――。
「心中だな」
 啓太郎が洩らした不吉な言葉に、同僚が気づかうような視線を向けてくる。
 本来の自分のデスクに戻ると、必要な書類を掻き集めてファイルに突っ込む。それから外注先の会社に連絡して、スケジュールの確認を取る。必要なテスト要員を指名して、なんとか仕事を頼み込んで承諾してもらう。
 この際、予算が膨れ上がるとか言っていられないのだ。
 それだけのことを手早く済ませた啓太郎は立ち上がると、フットワークも軽く上司の元に行き、必要な決裁をもらいに行く。
 それからすぐに、常駐先の会社へと向かう。結合テストが近いので、作業も何度目かの追い込みに入っており、正直、ただの進捗報告会議ぐらいで会社にやって来るのも面倒だ。
 もちろん、会社でこんな本音を洩らすことはできないが。
 なんにしても、これで今日、帰宅できないのは確実だろう。ハンドルを握りながら、啓太郎は深くため息をついた。

 サウナに行って、とりあえずさっぱりしてシステム開発部に戻ってきた啓太郎は、心底うんざりしていた。
 啓太郎と同じく、泊まり込んでいる社員の疲れきった顔を見ていると、心なしかシステム開発部全体の空気が澱んでいるように感じる。空調はしっかり効いているはずなのに。
「調子はどうだ」
 声をかけると、ワイシャツ姿となって袖を捲り上げた男性社員が、イスごと体の向きを変える。向けられた表情は、状況を雄弁に物語っていた。
「バグが千を越えた……」
「システムごと叩き壊したくなる状況だな」
 そもそも、設計そのものに無理があったのだが、上司命令で突き進むしかなかった。現場で調整を図るのは、啓太郎たち平SEしかいないのだ。
 サウナの帰りにコンビニでまとめ買いした飲み物や弁当にパンといったものを、テーブルの上に並べて置くと、啓太郎は缶コーヒーとお茶のペットボトル、弁当を手に、自分が使っているデスクへと戻る。
「余力がある人間は、リーダーが顔を出す前に、サウナに行ってさっぱりしてきておいたほうがいいぞ。あとになればなるほど、格好に構う余裕がなくなって……誰も側に寄らなくなる。臭うからな」
 啓太郎の言葉に、まだ若い社員数人がパラパラと立ち上がり、部屋を出て行った。
 ペットボトルに口をつけながら、すっかり深夜の闇に包まれている窓の外を眺める。外に出たときに気づいたが、いつの間にか雨が降り出していた。
 急に気温が下がり、雨がいつ雪に変わっても不思議ではない寒さで、明日からはさらに気温が低くなるという話だが、ここに閉じこもったままの啓太郎にはあまり関係ない。この状況では、明日もおそらく泊まり込むことになるだろう。
 腹は減ってはいるが、すぐにはコンビニ弁当に手をつける気にならない。SE生活の中で慣れ親しんだはずの味だが、今の啓太郎にとって恋しいのは、裕貴が作ってくれた温かなメシだった。
 裕貴は今頃何をしているだろうかと考える。この時間ならいつもは、ネットゲームをしているはずだ。
 早く寝ろとメールでもしようかと、隣のイスに置いたジャケットのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。そこで初めて、メールが届いていることに気づいた。サウナに入っている間に届いたらしい。
 メールを開いた啓太郎はすぐに笑みをこぼすことになる。裕貴からのメールで、ご丁寧に画像つきだ。
「あいつ……」
 画像は、ランチョンマットの上に並んだビーフシチューと温野菜の数々だった。そしてメールはたった一文、『美味しそうだろ?』とだけ書かれている。
 いかにも裕貴らしいメールに、啓太郎はしばらく笑いが止まらない。がんばれ、と書かない辺りが、いかにも裕貴らしいし、こんなメールをもらって楽しんでいる自分が、啓太郎にはおかしくてたまらないのだ。
 さんざん笑ったあと、やっとコンビニ弁当を食べる気になる。不思議なもので、食欲を感じた途端、仕事への威力も少しは戻ってきた。
 箸を手にしながら、もう片方の手で素早く返信のメールを打ち込む。
『俺にも食わせろ』
 このメールを見たら、裕貴の性格ならきっとニヤリと笑うだろう。









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