[30]
きちんとした形で同居すると決意してから、二人は計画を立て始めた。そしてすぐに問題にぶち当たる。
実家から連れ去
ってきたため、裕貴は自分の荷物を何も持っていない。着替えぐらいなら買ってしまえばいいのだが、引っ越すとなると、そうも
いかない。裕貴自身、啓太郎に金銭的な負担はかけたくないと頑なに言い張るため、最低限、キャッシュカードなどは手元に置い
ておかなくてはならない。
結局、まず最初に二人が出した結論は――。
「家に、荷物を取りに行かないと……」
ため息混じりに裕貴が洩らした言葉に、渋々啓太郎も賛同する。
「そうだな」
「鍵も置いてきたから、兄さんに家を開け
ておいてもらわないと」
啓太郎が軽く眉をひそめると、こたつテーブルにあごをのせた裕貴が、またため息を洩らす。
「避けたい気持ちもあるけど、これから啓太郎と同居生活を送るなら、きちんと兄さんと向き合わなきゃ、という気持ちもあるん
だ。それは、対決するという意味も含めて。……おれの保護者でもない他人の啓太郎が、おれのために兄さんと対決してくれたの
に、肝心のおれが何もしないわけにいかないよ」
裕貴の決意は歓迎するが、それより啓太郎は気になることがあった。
「――……他人って言われると、きついな。まあ、事実なんだけどな」
大人げないことを言ってしまったと、口にした瞬間
に後悔したが、裕貴はちらりと笑って啓太郎の頬をそっと撫でてきた。
「他人だからいいんだよ。少なくともおれ、啓太郎を
好きでいることにも、一緒にいることにも、後ろめたい気持ちはないし。啓太郎が、血の繋がりなんて関係なく、おれを大事にし
てくれからだよ」
優しい眼差しを向けられながらこう言われると、正直照れてしまう。啓太郎は裕貴の手を握り、自分の頬
に押し当てた。
「なんかお前、ちょっとの間に大人になった気がする」
「忘れてるようだけど、おれとっくに成人してる
んだよ」
「でも、子供みたいなところがあったぞ、お前」
ふーん、と裕貴が意味深に声を洩らす。何かロクでもないこ
とを言い出すぞと啓太郎が身構えると、案の定、裕貴は期待を裏切らなかった。
「じゃあ、啓太郎、その子供相手にいけない
ことしまくってたんだ」
「バッ……、バカ。し、しまくってはないだろっ」
「してることは認めるんだ」
ニヤニヤと
笑いながら裕貴に指摘され、律儀に啓太郎はうろたえる。そんな啓太郎の姿を見てますます裕貴が喜ぶ。
わざとらしく咳払
いをしてから、啓太郎は逸れた話題を強引に元に戻した。
「……それで、いつ荷物を取りに行くんだ。とりあえず最低限のも
のを持ち出すとして、そのときついでに、大きな荷物に関しても、どれを持ち出すかチェックしておいたほうがいいだろう。業者
に頼んで荷物を運び出すとき、スムーズだ。それに――新しい部屋を探すときの参考にしたいしな」
「部屋、本当に探すんだ」
「当たり前だ。どうしたって、俺の通勤を考えた場所になるだろうけど、それ以外ではお前のわがままを聞いてやるよ。美味
いケーキ屋やパン屋の近くがいいってのも、OKだぞ」
急に裕貴がこたつから這い出し、電話の子機を手に戻ってきた。
まさかと思い、啓太郎は目を見開く。
「お前、まさか――」
素早くダイヤルボタンを押した裕貴が、人さし指を唇の前
で立てる。慌てて啓太郎が口を閉じると、数秒の間を置いてから裕貴が電話に向かって言った。
「――もしもし、兄さん?」
啓太郎がまばたきもせず見つめる前で、裕貴は電話の相手である博人に、明日の午前中、荷物を取りに行くことを告げる。
顔を合わせたくないなら、家族だけがわかる場所に鍵を隠しておいてくれれば、あとは勝手にするとも。
どうやら博人は、
日曜日ということもあり、家で待っているということになったようだ。
裕貴としては、博人が家にいないほうがありがたか
ったのかもしれない。わずかに見せる複雑そうな表情が、それを物語っているようだ。
「それと、おれだけじゃなくて、啓太
郎も行くから」
突然自分の名が出て、反射的に背を伸ばす。もちろん裕貴に付き添うつもりだったが、博人に知らせてお
いたほうがいいのかまでは考えていなかった。
覚悟を決めてしまうと、裕貴のほうがよほど行動力がある。
「……うん、
じゃあね」
電話を切った裕貴がほっと息を吐き出す。啓太郎と目が合うと、照れ臭そうに笑った。
「啓太郎、ものすご
く心配そうな顔してる」
「いや、まあ……、実際心配だったしな。なのにお前は、さっさと電話かけちまうし」
「こうい
うことは、思い立ったらすぐに行動したほうがいいんだよ」
「つい最近まで、近所に買い物に行くのすら、半日ウンウンと悩
んでいた奴の言葉とも思えん。人間は成長するもんだ」
こたつの中で足を蹴りつけられた。啓太郎が笑うと、裕貴はまたこ
たつを出て子機を置きに行き、なぜか啓太郎の隣に座った。
「狭いぞ……」
「がんばった恋人に対して、肩を抱き寄せる
ぐらいしなよ」
強気なわがままに苦笑を洩らしつつ、啓太郎は裕貴の肩を抱き寄せた。すかさず裕貴がコトンと肩に頭を預
けてくる。素直に、裕貴が愛しいと思った。
「――……明日、頼りにしてるからね、啓太郎」
裕貴の細い声での呟きに、
啓太郎は何も言わず、ただ柔らかな髪に唇を押し当ててやった。
実家に向かう車中で、裕貴はいつもと変わらない様子で話していたが、やはり緊張しているらしい。ときおりふっと顔を強張ら
せ、息を吐き出す。
よく眠れなかったことを物語る、白い顔に、くっきりと目立つ隈も相まって、啓太郎としてはそんな裕
貴が気の毒で仕方ないのだが、だからといって役目を替わってやることもできない。裕貴は裕貴なりに、苦しみながら今日という
日を迎えたのだ。しっかりと見届けてやるのが、恋人としての役目だ。
信号待ちの瞬間を見計らって、ほっそりとした手を
ぎゅっと握り締めてやると、裕貴は驚いたようにこちらを見たあと、照れたような笑顔を浮かべた。その表情に、啓太郎のほうが
勇気をもらった気がする。
黒井家に着き、ガレージの空いているスペースに車を停めたが、二人はすぐに降りようとはしな
かった。
「……変だよね。自分の家なのに、こんなに緊張するなんて。ちょっと荷物を片付けて、引っ越しの準備をするだけ
なのに」
ようやく裕貴が口を開く。啓太郎は片手を伸ばして、裕貴の頭を抱き寄せた。
「大丈夫だ。俺が一緒にいるん
だから。何があっても、お前を――、俺の部屋に連れて帰ってやる」
「うん」
裕貴が肩に額をすり寄せてきたので、頭
を撫でてやる。やっと覚悟を決めて車を降りると、裕貴が先を歩き、インターホンを鳴らした。
だが、応答はない。振り返
った裕貴が小首を傾げ、何げなくといった様子でドアノブに手をかける。すると、ドアは開いた。最初から鍵がかかっていなかっ
たのだ。
「やっぱり兄さん、おれたちと顔を合わせたくないのかな……」
ぽつりと洩らして裕貴が玄関に入り、現金だ
が、啓太郎は心の中でわずかに安堵しながら、あとに続く。今の裕貴の言葉ではないが、実は啓太郎も、博人とは顔を合わせづら
い。
しかし、二人はすぐに顔を強張らせることになる。ドアを閉めて初めて、リビングのほうから聞こえてくる物音に気づ
いたからだ。急いで靴を脱ぎ捨てた裕貴が、足早にリビングに向かい、ドアを開けた。
「――兄さん……」
裕貴が、今
にも泣き出しそうな顔をする。啓太郎も遠慮しつつ靴を脱ぐと、裕貴の側に歩み寄り、肩に手を置いた。
リビングを覗き込
むと、スーツ姿の博人がソファに座り、つけたままのテレビをじっと見据えていた。一見、熱心にテレビに見入っているようだが、
この状況でそれはありえない。博人の意識は、しっかりと裕貴を認識しているはずだ。だが、こちらを見ようとしない。
啓
太郎は何も言わずに裕貴の背を押し、自分の部屋に行くよう促す。裕貴はぎこちなく啓太郎と博人を交互に見てから、小さく頷い
て廊下を歩いていく。啓太郎もあとに続こうとしたが、経緯はどうあれ、挨拶をしないのも気が咎めた。
博人がこちらを見
ていないのを承知のうえで頭を下げる。
「お邪魔します。……裕貴を手伝ったら、すぐに引き上げます」
それだけを言
うのが精一杯だった。もう一度頭を下げた啓太郎は一旦車に戻り、トランクを開ける。中には、平らに折り畳んだ段ボールが入っ
ており、それを抱えて家に引き返す。
一階の奥にある裕貴の部屋に行くと、すでに裕貴はクロゼットから出した服をベッド
の上に置いているところだった。
啓太郎は段ボールを組み立てると、服を次々に収めていく。
「とりあえず、外を出歩
くのに困らないぐらいの服だな。あとは部屋着も。帽子やバッグも忘れるな。俺が箱に詰めていくから、お前は他に必要そうなも
のをベッドに置いていけ」
「うん」
「メモ帳に、引っ越しのときに運び出すものも書き込んでおけよ」
そんな会話
を交わしながらも、二人は手を止めない。裕貴はどうかわからないが、とにかく啓太郎は、この家が息苦しかった。目に見えない
博人の想いが充満しているようだ。
服だけでなく、ノートパソコンもバッテリーとともにバッグに収めてから、裕貴が二階
を指さした。
「二階にも、おれの荷物を置いてるんだ。さすがに一人暮らしだと、いろいろと物も増えたから、この部屋だけ
に入りきらなくて」
「まあ、そうだろうな。この部屋に入って、やけにすっきりしてると思ったんだ。同居なら、電化製品な
んかは俺と共有で済むものもあるが、自分のものを使いたいというなら、新しい部屋に運び込めばいい」
今日、裕貴の荷物
を運び出したその足で、不動産屋に行くつもりだった。二人で暮らすために、どれぐらいの部屋の広さが必要か目処だけでもつけ
ておきたかった。いい物件があれば、見せてもらってもいい。
早くいい部屋を見つけて引っ越して、とにかく落ち着きたか
った。啓太郎はまだ、仕事に忙殺されることで、いくらでも気持ちを切り替えられるが、部屋にこもっている裕貴はそうもいかな
い。そんな裕貴のために、生活を仕切り直してやりたい。
「俺は先に、段ボールを車に乗せておく。貴重品は、お前が自分で
持っておけよ」
啓太郎は段ボールを抱えて家を出ると、車の後部座席にのせる。すぐに引き返したが、部屋に裕貴の姿はな
かった。二階に置いてあるという荷物を見に行ったようだ。
自分も様子を見に行こうかと思っているところに、啓太郎は不
穏な空気を感じ取った。
二階から、ガタッという物音に続いて、裕貴の声が聞こえたからだ。
「裕貴っ」
部屋を
飛び出した啓太郎は階段を駆け上がり、ドアが開いている部屋に入る。
書斎らしい部屋は、引っ越し業者の段ボールで半分
の空間を占められており、裕貴は、積み上げられた段ボールのほうに追い詰められ、揉み合っていた。自分の兄と。
「何して
るんだっ」
声を上げた啓太郎は、慌てて二人の間に割って入り、背に裕貴を庇う。
「いい加減、裕貴を苦しめるような
ことはやめてくれっ」
対峙した博人に向けて、思わずきつい言葉を投げつけていた。必死の形相で裕貴を引き戻そうとして
いた博人が、啓太郎のその言葉を聞くなり、虚脱したような顔となる。まるで、悪い憑き物が落ちたようだ。
だがそれも、
数瞬のことだった。凄まじい憎悪を込めた目で博人が睨みつけてくる。怯えた裕貴が、啓太郎のコートの袖口を握り締めた。
「……苦しめる、俺が、裕貴を……? 何を言ってる。いままで裕貴を大事に守ってきたのは、この俺だ。お前こそ、裕貴を返せ」
博人に襟元を掴み上げられ、啓太郎は顔をしかめる。
「兄さん、やめてっ」
悲鳴に近い声を上げた裕貴が、必死
に博人の腕にすがりつく。博人は、さすがに裕貴を突き飛ばすようなことはしなかったが、鋭い口調で言った。
「裕貴、自分
の部屋に行くんだっ」
啓太郎も、裕貴を心配する気持ちは博人と同じだが、口から出た言葉は違っていた。
「お前は先
に車に乗っていろ。……お前が心配するようなことにはならないから」
裕貴は顔を強張らせながら二人を交互に見て、ぎこ
ちなく後ずさる。博人がすかさず追いかけようとしたが、今度は啓太郎が博人の襟元を掴んで止める。
「離せっ」
二人
は掴み合いになるが、それでも博人は裕貴を追いかけようとする。啓太郎はとにかく裕貴を遠ざけようと必死だった。
「早く
行け、裕貴っ」
そう叫んだ啓太郎は、あることに気づいた。博人が、裕貴ではなく、傍らのデスクの上に視線を向けている
のだ。
デスクの上に置かれているのは、裕貴が段ボールを開けるのに使っていたらしい、カッターナイフだった。啓太郎が
反応するより先に、駆け戻ってきた裕貴がカッターナイフを払いのけて床に落とした。瞬間的に啓太郎も動き、博人を突き飛ばし
たあと、裕貴の腕を掴んで部屋を出る。
やはり、博人がいる場で、裕貴の荷物を運び出すのは無謀だったのだ――。
痛いほどの後悔を噛み締め、啓太郎は唇を噛み締める。
「啓太郎……」
裕貴が目に涙を溜めて見つめてくる。啓太郎は
手荒に裕貴の頭を撫でた。
「話はあとだ。早く行こう」
足早に廊下を歩き、階段を下りようとする。
「待てっ、裕
貴っ」
追いかけてきた博人とまた掴み合いになりかけるが、思いがけない攻撃を受けた。掴もうと伸ばした腕を躱され、い
きなり胸を突き飛ばされたのだ。階段から足を滑らせかけた啓太郎だが、寸前のところで手すりにすがりつく。だが、博人はさら
に啓太郎を突き飛ばそうとする。
「兄さんっ」
裕貴の声の響きが変わったと、咄嗟に啓太郎は感じた。
ここから
先の光景は、すべてスローモーションのようにゆっくりと、そして鮮明に目の前で繰り広げられた。
手すりにすがりつく啓
太郎を突き飛ばそうと、博人が両腕を伸ばして迫ってくる。すると、裕貴が一切の表情をなくして博人にしがみついた。次の瞬間、
博人の体が階段から投げ出されるようにして、転がり落ちていく。裕貴が、博人の背を突き飛ばしたのだ。
大きな音を立て、
博人の体は一階の廊下に叩きつけられ、転がった。低い呻き声が聞こえた気がするが、啓太郎には、うつぶせの状態でピクリとも
動かなくなった姿のほうが衝撃的だった。
「――……ど、して……」
あまりに突然の出来事だった。なんとか姿勢を戻
した啓太郎は、今度は裕貴を見る。
裕貴は、紙のように真っ白な顔色となり、呆然としていた。自分で自分がしたことを信
じられない様子だ。啓太郎は裕貴の肩を掴み、乱暴に揺さぶる。
「裕貴っ」
怒鳴りつけると、ハッと我に返ったように
目を見開き、裕貴がこちらを見る。見る間に裕貴の目に涙が溜まった。
「兄さんっ……」
啓太郎の手を押し退けて、裕
貴は階段を駆け下りる。
動かない博人の体におずおずと触れ、まるで一人で置いていかれた子供のように頼りない声で、『兄
さん』と何度も呼びかける。裕貴のその声に、啓太郎は胸を引き裂かれたような痛みを感じた。
裕貴と博人の間に、どうや
っても断ち切れない絆を感じ取ったのだ。
「……啓太郎、どうしよ……。兄さんが……、兄さんが――」
すがりつくよ
うに裕貴が見上げてきたので、やっと自分を取り戻した啓太郎も、震える足を叱咤して階段を下りる。ただ、博人に触れて様子を
確認することはできなかった。
携帯電話で救急車を呼んだあと、裕貴と目線を合わせて、しっかりと言い含めた。
「い
いか。自分が突き落としたと言うな。ふざけ合っていて、博人さんが足を滑らせたと言うんだ」
「でも……」
ほとんど
無意識の行動なのか、裕貴は、投げ出された博人の手を握り締める。すでにもう目からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。啓太郎
は、その涙をてのひらで拭ってやる。
「博人さんに意識があったら、同じことを言うはずだ。この人は、お前が誰かから責め
られることを望まない」
「でも、おれが兄さんを、こんなふうにしたんだ」
「それでも、博人さんは望まない。この人
は――お前の兄貴だ。何があっても弟を守る人だ」
動揺している裕貴に、まともな応対は無理だろう。そうなると、啓太郎
がいかに真実味のある証言ができるかにかかってくる。
覚悟は決まっていた。裕貴のために、どんなことでもしてやると。
今、啓太郎が優先すべきは、自分の感情ではない。ひたすら、この兄弟を守ってやることだけだった。
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