[29]
部屋に着くと、啓太郎はまっさきにエアコンとコタツの電源を入れ、慌てて湯も沸かし始める。裕貴はその間、啓太郎のコート
を羽織ったまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。さきほどの博人とのやり取りで、すべての気力を使い果たしたようだ。
二
人分のカップを出したところで心配になった啓太郎は、裕貴の肩を抱いて促し、コタツに足を入れさせる。
「大丈夫か?」
裕貴の髪を優しく撫でながら問いかけると、どこか焦点の定まらない目をこちらに向けながら裕貴がこくりと頷く。
「うん……」
とてもそんなふうには見えないが、裕貴としてもこう答えるしかないのだろう。啓太郎もあえて問い詰めよう
とはせず、そうか、と応じる。
「お茶を飲んだら、すぐに横になれ。今夜はもう、何も考えずに休んだほうがいい。俺も……、
蛮勇を奮いすぎたというか、気が抜けた。お前がこうして俺の部屋にいるということが、まだ信じられないぐらいだ」
正直
な啓太郎の言葉に、裕貴はやっとちらりと笑みを浮かべ、肩に額をすり寄せてきた。
「……兄さんにはっきり言ったときの啓
太郎、かっこよかったよ。あそこで飛び出してくるまでどうしていたかは、考えないでおいてあげる。きっとマヌケな姿だったん
だろうなー、と思うから」
「減らず口」
啓太郎は、裕貴の髪に唇を押し当ててから立ち上がる。
湯が沸くのをキ
ッチンで待ちながら、あれこれ考えそうになる自分をなんとか押し留めていた。これからの裕貴の生活をどうしようか。裕貴と博
人の関係はどうなるのか。何より、自分と裕貴の関係はいままでのように続けられるのか――。
どれも、考えると不安が押
し寄せてくる。自分の選択は間違っていたのではないかと、自信がなくなってくるのだ。それを裕貴にだけは悟られたくなくて、
なんとか啓太郎は自分を保つ。
今の裕貴が頼れるのは、啓太郎だけなのだ。この世の中で裕貴にとってもっとも安全なはず
の博人の腕の中から、当の裕貴を攫ってきたのだから、相応の責任は負わなければならない。それは、裕貴にとって、博人の存在
以上に安心できる存在になるという責任だ。
カップを手に部屋に戻ると、裕貴がじっと見上げてくる。まるで、啓太郎の不
安を見通すように。啓太郎は何事もなかったように笑いかけ、裕貴の前にカップを置いた。
「寒いなら、風呂に湯を張ってや
ろうか? ここに来るまでに湯冷めしただろうしな」
「一緒に入る?」
思わず啓太郎が返事に詰まると、裕貴はニヤリ
と笑った。
「冗談だよ」
「……お前は、本当に……」
「おれの減らず口も、久々だと可愛くてたまらないだろ?」
何か言い返そうと唇を動かした啓太郎だが、結局言葉は出てこず、諦めて裕貴の頭を抱き寄せた。
「――お帰り、裕貴」
啓太郎の囁きに、裕貴は何も言わず、ただぎゅっとしがみついてきた。
つけたままのテレビの明かりが、室内をぼんやりと照らす。音量は抑えているため、どんな番組をやっているかさえわからない
が、それでもぼそぼという声だけは聞こえてくる。
部屋の電気は消したが、テレビだけは裕貴が消すのを嫌がったのだ。仄
かな明かりと、微かな物音がないと落ち着かないのだという。
確かに、啓太郎が一晩中、子守唄を歌ってやるわけにもいか
ない。
啓太郎の腕の付け根辺りに頭を落ち着けた裕貴は、一緒にベッドに入ってから、何を考えているのか一言も話さない。
気力を使い果たしたような少し疲れた顔をして、啓太郎に身を寄せ続けていた。
啓太郎は腕の中のしなやかで温かな感触を
味わいながら、ようやく裕貴が戻ってきたのだという現実を、いまさらながら実感する。もう二度と戻ってこないのではないかと
すら思っていたものだ。狂おしいほど愛しくて、反面、怖くもあった。
実の兄との間であんなやり取りをして、裕貴の心が
壊れてしまうのではないかと。そして、壊してしまうのは自分なのではないかと。
まだ気が高ぶって、眠れそうになかった。
それでも横になったのは、トレーナーの裾をくいくいと引っ張られて、一緒に寝てほしいとせがまれたからだ。そんな裕貴を見て、
とてもではないが冷たいベッドに一人で寝かせられなかった。
「――……啓太郎」
ようやく裕貴が口を開き、啓太郎は
顔を覗き込みながら柔らかな髪を撫でてやる。
「どうした? いまさらベッドが狭苦しいとか言うなよ」
「……ごめんね。
おれの――おれたちの事情に巻き込んで」
か細い裕貴の声に胸が締め付けられる。啓太郎はぐっと奥歯を噛み締め、一気に
込み上げてきた感情をなんとか抑える。
「文句を言うつもりはねーよ。何もかもわかったうえで、俺はお前に会いに行って、
こうして連れてきたんだ。だから、お前が気に病むことはない」
今にも泣きそうな顔で裕貴が見上げてきて、そんな顔をさ
せたかったわけではない啓太郎は慌てる。
「お前っ……、泣くなよ。俺は別に無理はしてないからな。お前がこうしていてく
れて、何もかも報われた気持ちになってるぐらいだ」
「おれって、そんなに惚れられてるんだね」
「今わかったのか」
「……ううん、とっくにわかってたよ。啓太郎が、おれにベタ惚れで、骨抜きだってこと」
減らず口はいつものことだ
が、囁くような柔らかな声でこんなことを言われ、濡れたような目で見つめられると、啓太郎はうろたえてしまう。
今日は
いろいろありすぎて、とにかく疲れている。そのはずなのに、腕の中の裕貴の感触を意識して、裕貴の体臭を嗅ぎ、裕貴の声に鼓
膜を刺激されると、呆気なく理性が崩れていくのがわかるのだ。
そうなってしまうぐらい、啓太郎は裕貴に飢えていた。
裕貴の心と体を気遣いたいのに、止められない。啓太郎は何度も裕貴の髪を撫で、熱い吐息をこぼす。啓太郎の変化がわか
ったのか、裕貴がもぞりと身じろぎ、そっと唇を重ねてきた。
「お前……、俺を刺激するなよ。けっこう深刻にあれこれ考え
ているのに、集中できなくなるだろ」
「啓太郎の腕の中にいると思ったら、我慢できなくなった。……もう、啓太郎のことを
考えて、不安にならなくていいんだよね?」
子供のように素直な目を間近で見せられたところで、啓太郎は限界となる。
裕貴の上にのしかかると、荒々しく唇を塞ぐ。甘い舌と唾液を貪りながら、裕貴の下肢をまさぐる。パジャマのズボンと下
着を余裕なく引き下ろし、裕貴のものを手の中に握り込む。
「んっ……」
裕貴が微かに声を洩らし、眉をひそめる。か
まわず啓太郎は、裕貴のものに手荒い愛撫を加え、性急に反応することを要求する。裕貴のものは素直だった。
口腔に差し
込んだ啓太郎の舌を甘えるように吸いながら、裕貴が腰を揺らす。てのひらの中で裕貴のものは次第に形を変え始め、背に両腕が
回されてきた。
乱暴に裕貴の下肢を剥いてから、湧き起こった熱情に従って啓太郎はきつく裕貴を抱き締める。
「け、
たろ……、啓太郎っ――」
切ない声で呼びながら、裕貴もしがみついてくる。二人は布団の中で抱き合い、獣じみたい欲望
を高め合っていた。
裕貴のしなやかな体に丁寧な愛撫を施してやる余裕すらない。啓太郎は自分のものを引き出すと、裕貴
のものともどかしく擦りつけ合う。生まれる感覚は快感というには物足りないものだが、今の啓太郎にはたまらなかった。
パジャマの上着をたくし上げ、薄い胸を撫で回してから、ささやかな尖りを指先で抓るように刺激する。裕貴は喉の奥から小動物
のような鳴き声を洩らし、焦れたように腰を擦りつけくる。
どんな状況でも快感に対して貪欲な裕貴が、残酷な衝動に駆ら
れそうなほど愛しかった。
テレビからの音以上に、二人の荒い息遣いが大きく部屋に響き渡る。
「舐めてやろうか?」
裕貴のものを再びてのひらに包み込みながら啓太郎は問いかける。裕貴の肌に触れていない間が惜しくて、半ば脱げかけた
パジャマの上着の下から露わになっている胸元に唇を這わせる。すでに裕貴の肌は汗ばんでいた。
「んっ、いい……。早く、
啓太郎が欲しいよ」
その言葉を受けた啓太郎は、しなり始めている裕貴のものから手を離す。柔らかな膨らみを優しく揉み
しだきながら、裕貴の唇にキスを与える。
「あっ、あっ、あぁっ……」
裕貴が間欠的な声を上げ、甘えるように啓太郎
の唇を吸ってくる。キスに応える合間に、啓太郎は自分の指を舐めて濡らすと、裕貴の内奥をまさぐった。
「んうっ」
首をすくめた裕貴がビクビクと腰を震わせる。あやすように裕貴の顔中に唇を押し当てながら、ゆっくり慎重に繊細な場所に指を
含ませ、相変わらずのきつい収縮に啓太郎は安堵する。裕貴は、啓太郎を求めていた。
内奥に指の付け根まで挿入すると、
いつもより性急に蠢かして解していく。
「はあっ……、あっ、ん――、あんっ」
内奥の浅い部分を強く押し上げてやる
と、裕貴が体をしならせる。包まっている布団の中は熱いほどだが、狭い中で絡み合っての行為はひどく興奮する。とにかく一刻
も早く繋がりたいという欲望の前では、布団を跳ね除けるという行動さえ惜しかった。
指に再び唾液を絡めた啓太郎は、裕
貴の内奥をできる限り湿らせてやる。
「――裕貴」
濡れた内奥が、啓太郎の指を物欲しげに締め付けてくる。我慢でき
なくなった啓太郎は、何度目かのキスを裕貴に与えてから、大きく体を動かした。
とっくに高ぶり、充実した硬さとなった
自分のものを、裕貴の内奥に押し込む。
「うっ、うぅっ……」
啓太郎は自分の欲望を優先した。裕貴を貪り、裕貴を堪
能し、裕貴に溺れたいと――。
裕貴の体を乱暴に揺さぶりながら、啓太郎は自分のものを内奥深くへと収める。切なげな声
を上げて裕貴がすがりついてきた。
「つらいか、裕貴?」
「どうして、そんなこと聞くの。啓太郎、つらいことなんて、
おれに一度もしたことないだろ」
「……あー、いや、今の俺は、少々箍が外れているというか、加減ができんというか……」
啓太郎の首筋をチュッと軽く吸い上げて裕貴が顔を上げる。テレビの明かりだけでも、裕貴の目が濡れて艶を帯びているの
がわかった。誘われるように裕貴の瞼に唇を押し当てた啓太郎は、ぐうっと内奥を突き上げる。
「あっ……ん」
啓太郎
の下で裕貴の体が跳ねた。一つに繋がった部分では、啓太郎のものは痛いほど締め付けられながら、同時に内奥の粘膜と襞にしっ
とりと包み込まれて舐められる。中は淫らに蠕動を繰り返し、啓太郎を歓喜へと駆り立てる。
「啓太郎、啓太郎っ――……、
気持ち、いい?」
「ああ……。お前は――」
啓太郎が裕貴の前に手を這わせると、裕貴のものはさきほどよりもさらに
反り返って熱くなり、先端からはしずくを滴らせていた。先端を擦り上げてやると、小さく悲鳴を上げて裕貴が身を捩る。その瞬
間を狙い澄まして内奥深くを抉る。
「あっ、あっ、あうぅっ」
啓太郎は夢中で腰を動かし、裕貴を味わう。内奥の感触
も締め付けも、肌の熱さも汗の匂いも、絡みつく腕の力強さも。裕貴は裕貴で、啓太郎を味わっているだろう。
切羽詰った
ような声を上げながら、裕貴の表情は愉悦に満ちていた。ひたすら快感だけを追い求め、何も考えられなくなっていると思わせる。
正確には、そうであってくれという啓太郎の願望だ。
意識して下腹部で擦り上げていた裕貴のものが震え、絶頂の証を噴き
上げる。息も絶え絶えになっている裕貴をさらに追い上げるように啓太郎は律動を速めていた。
「裕貴、もう少しだけ……」
「いや……、もっと、して。もっと欲しいよ、啓太郎が」
裕貴の甘く掠れた囁きを、啓太郎は嬉々として受け入れる。
まずは、最初の欲望を遠慮なく裕貴の内奥深くに注ぎ込んだ。
パッと目を開いた啓太郎は、自分が両腕にしっかり抱え込んだものがなんであるか、ぼんやりと考える。だがそれも一瞬で、す
ぐに、昨夜の出来事を一気に思い出した。
「ああ、そうか……」
無意識に声に出して呟いてから、視線を落とす。ほと
んど本能的なものなのだろうが、啓太郎は一晩中、しっかり裕貴を抱えて眠っていたようだ。胸に顔を埋めている裕貴の顔を見る
ことはできず、しっかり見えるのはつむじだけだ。
安堵の吐息を洩らした啓太郎は唇に笑みを浮かべると、寝乱れてぐしゃ
ぐしゃになっている裕貴の髪にそっと唇を押し当てた。このまま二度寝をしたいところだが、そうもいかない。
啓太郎は今
度はため息をつき、片手を伸ばして目覚まし時計を取り上げる。そろそろ仕事に行く準備をしないと間に合わない。こんなときぐ
らい、溜まっている有休を使ってもいいようなものだが、今日は大事な打ち合わせがあり、すっぽかすわけにはいかない。
「……会社に行きたくねー……」
小さくぼやいてから、慎重に身じろいでベッドから出ようとしたが、いつから起きていた
のか裕貴にギュウッとしがみつかれた。
「お前、起きてるのか?」
啓太郎が問いかけると、裕貴がやっと埋めていた胸
から顔を上げる。まだ完全に目が覚めているわけではないらしく、目の焦点が少々怪しい。それでも、ぼんやりとした顔で笑いか
けてきた。
「啓太郎の独り言癖って、相変わらずだよね」
「いつから起きてたんだよ、お前……」
内緒、と可愛く
言って、裕貴が胸元にグリグリと頭を擦りつけてくる。こういうところは相変わらずの裕貴だと思いながら、啓太郎は唇を綻ばせ
る。このままベッドの中で裕貴と戯れ続けたいという強烈な誘惑に襲われたが、泣く泣く我慢する。
裕貴の背を優しく撫で
ながら言った。
「……悪いな、裕貴。これから仕事に行かないといけないんだ」
パッと顔を上げた裕貴が唇を尖らせ、
露骨に不機嫌そうな顔となる。そんな裕貴の顔をまじまじと見つめていた啓太郎は、ムニッと頬を軽く摘まむ。
「そんな顔す
るなよ……。俺だって本当は、今日ぐらいずっとお前についていてやりたいんだ。だけど、どうしても俺じゃないといけない仕事
があってな――」
「おれも、どうしても今日は啓太郎に側にいてもらいたいよ?」
この反撃は見事に決まった。言葉に
詰まった啓太郎はうろたえながら視線をさまよわせる。今の裕貴の言葉に、思いきり心が揺れていた。
せめて半休なら、な
んとなるかも――と、まで妥協しかけたとき、裕貴が短く噴き出した。啓太郎の頬を撫でながら囁いてくる。
「ダメだよ、啓
太郎。そんなに簡単に心が揺れちゃ。社会人なんだから、がんばって働いて、お金稼がないと」
「――……お前なあ、大人の
男の純情を弄ぶなよ」
「だったら、おれが本気でせがんだら、いてくれる?」
冗談めかしてはいるが、そう問いかけて
くる裕貴の目は本気だった。啓太郎が口を開こうとした瞬間、素早く裕貴に頭を引き寄せられ、唇に軽く噛みつかれた。たったそ
れだけのことで、啓太郎の背にゾクリと甘い疼きが駆け抜ける。
「裕貴……」
「お仕事がんばって稼いできて、張り切っ
ておれを養ってください」
苦笑を洩らした啓太郎は、この言葉でようやくベッドから出る勇気を得る。そうなのだ。今後の
自分たちの生活について考えるために、とりあえず金は必要だ。
「覚えておけよ。ここに住んでいる間、お前にたっぷり食わ
せて、もう少し肉付きをよくしてやるからな」
「……それはいいけど、おれの抱き心地変わっても平気?」
真顔で問い
かけられ、啓太郎はムキになって反応する。
「お前は朝から、濃厚なことを言うなっ」
からかわれたのは明白で、裕貴
は布団に包まりながら笑い転げている。
これが裕貴なりの空元気だとしても、笑い声を聞かせてくれるだけで、啓太郎は安
心する。ベッドの傍らに立つと、裕貴の頭を撫でた。
「メシ代は置いておくから、好きなものを宅配で頼め。とにかくお前は
外には出るな。それと、誰が来ても鍵は開けるなよ。何かあったときや、買ってきてほしいものがあったら、いつでも電話かメー
ルしてこい」
「寂しい、ってメールでもOK?」
裕貴にニヤリと笑いかけられ、一拍間を置いてから、啓太郎は頷いた。
「――……OKだ」
打ち合わせを終えてから、啓太郎はすぐに席を立つ気になれず、イスの背もたれに深く体を預ける。頭の後ろで両手を組みなが
ら、天井を見上げていた。
考えることは、今回組まれたスケジュールの余裕のなさ――ではなく、部屋に一人残してきた裕
貴のことだった。何事もなければハラハラすることもないのだが、昨夜のことを思うと、やはり安心はしていられない。
来
週からは外注先で常駐する日々がまた始まるので、今のようにほぼ定時で帰宅できることはまずなくなるだろう。そうなると、ま
すます裕貴を部屋に一人残しておくのは心配だ。
過保護だと自覚はあるが、できることなら連れ歩きたいぐらいだ。
深刻な唸り声を洩らした啓太郎は、散漫ながら朝から考え続けていることを頭の中で整理する。
居候として裕貴を自分の部
屋に置いておくのは、物理的に問題はない。もともとあのマンションは、ファミリー向けとしては手狭だが、二人で暮らすには十
分な広さがある。できることなら、慣れ親しんだあのマンションで暮らすのが一番いいだろう。
しかしあの部屋は、博人に
場所を知られている。いつ、博人がやってくるかと身構えながら暮らすのは、いい状態とはいえない。
兄弟を引き離
したくはないが、特別な関係を結んでいたあの二人を、会わせたくはない。
これは、啓太郎の嫉妬心も大きく関わっている
本音だ。
難しい顔で考え込んでいた啓太郎だが、いつの間にか考えることは、今晩は裕貴にどの店のケーキを買って帰って
やろうかという一点に絞られていた。甘いもので機嫌を取る気はないのだが、パッと目を輝かせる裕貴を見ていると、嬉しいのだ。
いい加減仕事に戻ろうかと、啓太郎が姿勢を戻しかけたそのとき、ジャケットのポケットの中で携帯電話が震えた。いつも
ならデスクの上に放り出したままだが、今日はいつ裕貴から連絡がくるかわからないため、バイブに切り替えて持ち歩いていた。
何かあったのだろうかとやや慌てながら携帯電話を取り出した啓太郎だが、届いたメールを読んでから安堵の吐息を洩らし、
続いて口元に笑みを浮かべる。誰かに見られたのではないかと咄嗟に顔を上げたが、すでに会議室には啓太郎しかいない。
口元に手をやりつつ、メールを読み返した。内容は他愛ないものだ。帰りに、晩メシの材料を買ってきてほしいというもので、必
要なものが記されている。しかし、そんな何げないことが、ひどく嬉しい。
これまで通りとは言えないが、自分たちの日常
が戻りつつあると実感できる。
メールを眺めて啓太郎がニヤニヤしていると、再び裕貴からメールが届いた。
さっき
のメールに入れ忘れた、という一文に続いた文章を読んで、知らず知らずのうちに啓太郎の顔は熱くなった。
『寂しいから、
早く帰ってきてね』とあったからだ。当然のようにハートマークつきだ。
「……あいつ、これ打ちながら、絶対小悪魔の笑み
を浮かべてただろ……」
一人うろたえる啓太郎の姿を想像して、腹を抱えて笑い転げているかもしれない。だがそれでも、
啓太郎としてはそんな裕貴の姿を想像して、幸せな気持ちになれるのだ。
何があったとしても、やはり裕貴が愛しいし、大
事だった。たとえ、博人から裕貴を取り上げることになったとしても、一緒にいたい。
おとなしく待っていろよと返信して
から、携帯電話を畳んだ啓太郎はテーブルの上を片付けて立ち上がった。
スーパーの袋を手に啓太郎が玄関のドアを開けると、その気配を感じ取ったらしく、奥の部屋から軽やかな足音がパタパタと近
づいてくる。
「おかえりっ」
啓太郎がドアの鍵をかけると同時に、飛び出してきた裕貴が抱きついてくる。もう三日続
いている熱烈な出迎えだ。
あまりに勢いよく抱きつかれたため、よろめいた啓太郎はドアに背がぶつかる。危うく、卵が入
ったスーパーの袋も落としそうになったが、なんとか守りきった。
「……子供が、父親の帰りを待っていたって感じだな……」
裕貴の背を片手で撫でながら苦笑交じりに啓太郎が言うと、顔を上げた裕貴がにんまりと笑いかけてくる。
「お帰りの
キスをしてほしいなら、素直にそう言いなよ」
「口が裂けても言わねー」
「あっ、そう」
スッと体を離した裕貴が
さっさと一人でダイニングに向かい、本当に子供みたいだと思いながらも啓太郎は、そんな裕貴のあとを追いかける。
「頼ま
れていたもの買ってきたぞ。卵と牛乳とバターと――シュークリームは、俺の土産な」
「……甘いもので機嫌取ろうとしてる
だろ」
「機嫌を取るも何も、怒ってないだろ、お前」
スーパーの袋とアタッシェケースをテーブルの上に置いてから、
今度は啓太郎がにんまりと笑いかける。すかさず睨みつけてきた裕貴だが、それもほんの数秒ほどで、まるで猫のように身をすり
寄せてきた。当然のように啓太郎は受け止める。
「甘ったれ」
啓太郎は柔らかな口調でからかいながら、裕貴の頭を撫
でる。実際、この部屋に住み始めてから、裕貴はやたら啓太郎に甘えてくるようになってきた。
もともと甘え上手ではあっ
たが、それはどこか小悪魔めいて、媚態が滲み出ていた。しかし今の裕貴からは、そんなものは一切感じられない。まるで、保護
者の愛情を求める子供のようだ。
寂しいのだろうかと考えた瞬間、啓太郎はドキリとする。裕貴が、博人からの愛情に飢え
ているのだろうかと、咄嗟に思ってしまったからだ。
裕貴はまだ、博人との間にある愛情や、存在そのものとの距離の取り
方――普通の兄弟としての距離感に、苦しんでいるのかもしれない。しかも、何をするでもなく、この部屋に一人で長時間いるの
だ。考える時間だけは嫌というほどある。
何かのきっかけで、裕貴が博人を求める衝動に歯止めを失ったら――。
裕
貴との生活で浮かれていた啓太郎だが、ようやく少しだけ冷静になっていた。
「――……裕貴」
「うん?」
顔を上
げた裕貴があどけない仕草で首を傾げる。啓太郎は裕貴の頬を撫でながら、こう告げた。
「俺と、きちんと一緒に暮らすか?」
「……今だって暮らしてるだろ」
「そうじゃない。こういう、居候のような形じゃなくて、お前をきちんと同居の相手に
したいんだ。実家からお前の荷物を持ってきて、ここに運んで――。狭いなら、もう少し広い部屋を捜してもいい。家賃も生活費
も折半。俺がお前の面倒を見るんじゃなく、お前をきちんとした大人として、同居相手にしたい」
きょとんとして目を丸く
していた裕貴だが、ようやく啓太郎が言おうとしていることを理解したのか、ゆっくりと顔を綻ばせた。
「食費の管理はおれ
がするからね」
そんな言葉とともに、裕貴がしがみついてきた。
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