Sweet x Sweet

[28]

 食器の音に重なり、裕貴と博人が交わす会話が耳に届く。
「父さんからまた電話あったよ。大した用もないのに、こっちは 日本よりも寒いとか、食べ物があんまり美味しくないとか」
「家に電話したらお前が出てくれるから、嬉しくて仕方ないんだ ろうな。人前じゃ孤高のジャーナリストを気取ってるけど、案外寂しがり屋だぞ、あの人」
「……あんなヒゲ面の大男のくせ して、何が寂しがり屋だよ。そういう顔じゃないだろ。どこから見ても、タフそのものだ」
「ヒゲを剃ったら、けっこうイン テリっぽい顔をしてると思うが……」
「父さんの昔の写真を見たら、兄さんと顔が似てるよね」
 博人がぼそぼそと応じ る声がしたあと、裕貴が楽しそうな笑い声を上げる。それを聞いていると、啓太郎は今すぐにでもこの場から立ち去りたくなるが、 意地だけで堪えた。ここで逃げ出してしまっては、おそらくもう二度と、この家を訪ねる勇気は持てないはずだ。
 啓太郎は 拳を握り締めてから、壁にもたれかかる。大きく鳴り続ける心臓の鼓動を落ち着かせるため、ゆっくりとした呼吸を繰り返しなが ら、兄弟たちの他愛ない会話に耳を澄ませる。
 あくまで、裕貴と博人が交わす会話は普通だった。恋人同士のような甘い会 話など聞きたくなかったが、日常の光景としてごく自然な会話をただ聞いているのも苦痛だ。
 少し前までは、自分が裕貴と、 こんな会話を交わしていたはずなのに――。
 外の街灯によって薄ぼんやりと照らされる天井を見上げながら、啓太郎は危う く壁を殴りつけそうになったが、寸前のところで今の状況を思い出す。
「――啓太郎、きちんと食べてるかな……」
 突 然、自分の名が聞こえてきて、飛び上がりそうなほど驚く。啓太郎は慌てて、わずかに開いている引戸に顔を近づける。
「… …気になるか」
「当たり前だろ。知り合ってから、おれがずっとメシの面倒見てきたんだ。あの人、よく食べるくせに、食生 活はいい加減なんだよ」
「そこがお前の母性本能をくすぐったか」
 不自然な沈黙が訪れ、二人の会話を聞いていた啓太 郎は一瞬、小声で会話を交わし始めたのかと思ったが、そうではなかった。本当に、不自然な沈黙が兄弟の間を流れていたのだ。
「裕貴……?」
「今の言葉、啓太郎との会話を思い出した。おれ、母性本能云々って言って、啓太郎のことからかってた から」
 裕貴は残酷だ。
 啓太郎の頭に浮かんだ言葉は、もしかすると今、博人の頭の中でも浮かんでいるかもしれない。 啓太郎の話題など聞きたくもないだろうが、そんな博人の気持ちを慮ることなく、屈託なく口にする裕貴を、無邪気で残酷だと表 現しても間違いではないはずだ。
「……あの部屋に、戻りたいか?」
 博人の問いかけに対する答えは なかった。聞こえてきたのは、作ったように明るい声だ。
「あっ、今日はデザート作ったんだよ。かぼちゃコロッケを作って かぼちゃが余ったから、かぼちゃプリン。新しいオーブンも使い込みたかったし」
「お前がこの家にいて、毎日料理を作って いれば、嫌でも使い込めるだろう」
 ここでまた沈黙となり、啓太郎まで緊張してしまう。裕貴と博人がどんな表情をしてい るのか見てみたいが、この静けさの中、客間から出ていくのはさすがに無理だった。
 小声での会話が聞こえてくるが、内容 はわからない。啓太郎に聞かれたくない話のときは、博人は小声で囁き、わけもわからず裕貴も合わせているのだろうかと考えて いるうちに、また兄弟の他愛ない会話が聞こえてくるようになる。
 準備ができて、これから夕飯のようだ。二人がキッチン からダイニングへと移動した気配がした。
 啓太郎は引戸の側に座り込み、壁にもたれかかる。こうしていると、キッチンよ りも、ダイニングで交わされる会話のほうがよりはっきりと聞こえるため、じっと耳を澄ます必要がなかった。
 裕貴は、今 食べている料理の作り方を説明し、博人は、その料理の味について褒める。かと思えば、博人が今日の職場での出来事を話し、兄 の職場での人間関係を把握している様子の裕貴が応じている。
 二人が交わす会話を聞きながら啓太郎は、ダイニングと客間 という違う部屋にいるというだけでなく、自分だけが違う世界にいるような距離感を覚え始めていた。まるで裕貴が、手の届かな い場所にいってしまうような気も――。
 やはりここに来るべきではなかったのかもしれない。今になってそんな後悔が啓太 郎の中に湧き起こる。
 片膝を抱えた姿勢で、無意識のうちに顔を伏せていた。その間も、裕貴と博人の話し声と、ときおり 笑い声が聞こえてくる。
 この場からいなくなりたいのに、啓太郎の体はその衝動を拒むように動かなかった。


 心を切り刻まれるような時間を薄暗い客間で過ごしながら、啓太郎は兄弟の会話と、生活音を聞き続けていた。
 ただ座っ ているだけなのに、ひどく疲れている。そろそろこうしているのも限界だと思い始めて、壁に後頭部を押し当てる。
 夕飯が 終わったのか、パタパタと軽やかなスリッパの音が響いたあと、食器を洗う音が聞こえてきた。それから、二人は交互に風呂に入 ったようだった。裕貴が風呂に入っている間も、博人は客間を覗きにきたりはしなかった。そのほうがありがたいと啓太郎は思っ ている。
 おそらく思い詰めているであろう自分の顔を、博人にだけは見られたくなかった。
 ここで啓太郎はあること に気づく。少し前までドライヤーの音がしていたが、いつの間にか聞こえなくなっていた。代わって、微かだがテレビかららしき音が している。
 体を起こし、引戸に顔を近づけた啓太郎はこのときになって、ダイニングの電気が消されていることを知った。 二人ともダイニングから移動したようだ。
 ようやく啓太郎は、客間から出る覚悟を決める。もちろん帰るためではなく、裕 貴の様子を見るためだ。本当は少し前まで、いつ帰ろうかと思っていたが、どうせ惨めな思いを味わうなら、今知ることができる すべてを受け止めておこうと考え直していた。
 音に気をつけながら引戸を開け、慎重に辺りをうかがってから客間を出る。 足音を押し殺しながらリビングに向かうと、思ったとおり明かりとテレビがついていた。
 そっとリビングを覗いた途端、ソ ファに並んで座った裕貴と博人の姿がいきなり目に入る。啓太郎の位置からは、二人を斜め後ろから見ることになり、振り返らな ければ存在を気づかれないはずだった。
 緊張のため、指先が冷たくなってくる。啓太郎は息を潜め、極限まで気配を押し殺 しながら、それでもリビングの光景を見つめ続ける。
 裕貴はすでにパジャマを着ており、両膝を抱えた姿勢でゲームのコン トローラーを握っていた。そんな裕貴の隣で博人は新聞を広げている。用事を済ませたらすぐにそれぞれの部屋に入るわけではな いようだ。
 一見、なんでもない普通の光景に見える。黙々とゲームをする裕貴に気をつかっているのか、博人は話しかけな い。それはそれで、当たり前の光景だ。
 だが啓太郎は、すぐに裕貴の異変に気づいた。コントローラーを持ち、テレビの画 面を見つめて熱心にゲームをしているようだが、実は画面の中では、裕貴が操作しているはずのキャラクターはまったく動いてい なかった。ただ同じ画面が映り、音楽が流れているだけだ。
 裕貴はテレビの画面を見つめているようで、実は意識は別のと ころにあるらしい。
 啓太郎が気づいたのだから、裕貴の隣に座っている博人がわからないはずがない。
「――……その ゲーム、何日も前から進んでないんじゃないか」
 新聞を畳んだ博人が裕貴に話しかける。傍から見ていてもわかるほど、裕 貴は大きく肩を震わせた。
「〈彼〉のことが気になるか。さっき、夕飯の準備をしているときもそうだっただろう」
「向 こうの部屋にいるときは、こんなふうにぼんやりすることなかったのになあ。……啓太郎の仕事って、何日も会社に泊まり込むこ とがあるし、帰ってくる時間だってめちゃくちゃだから、待っていると疲れるんだよ。だから、適当にユルユルと過ごして、おれ のメシのときに、ついでに啓太郎の分も作っておく感じだったんだ。そんなふうに過ごしていても、啓太郎は絶対に会いに来てく れるってわかってたから」
 肩を落とした裕貴は、テーブルにコントローラーを置く。そんな弟を慰めるように、博人が肩を 抱き寄せる。
「手のかかる相手がいないと、生活に張り合いがないか」
「それってなんか、おれが〈お母さん〉みたいだ し、兄さんは手がかからないって、自分で言ってるようなものだよ」
「実際俺は、手がかからないだろう。お前を甘やかすだ けだ」
 博人が裕貴の耳元に顔を寄せて何事か囁き、くすぐったそうに裕貴は首をすくめる。博人は愛しげに裕貴の髪に唇を 寄せた。
「……今の生活にすぐに慣れる。いや、元に戻るだけだ。お前はもともと、こっちの生活のほうが性に合ってるんだ。 寂しがりで、甘えたがりだからな。絶えずお前の欲求を満たせてやれるのはこの俺で、この家の環境だ」
 博人のこの言葉は、 裕貴に囁いたというより、啓太郎に聞かせるために言ったように思えた。無意識に啓太郎は、てのひらに爪を立てていた。
「でも兄さん、あの人と結婚して、この家を出ていっただろう」
「結婚して、お前にとってさらに最善の環境を整えるつもり だったんだ。だけどお前は家を出ていった。……お前がいなくなってつらかった反面、俺は少し嬉しかった」
 裕貴が身じろ ぎ、博人を見上げる。こちらを見るのではないかと危惧し、啓太郎は反射的に身を潜ませ、二人の会話に耳を澄ませる。
「お 前が極端な行動に走るほど、俺はお前に想われていたのかと、初めて実感できた気がしたんだ」
「そう、だね……。最近まで は、確かにそうだった。おれは、兄さんが側にいないとまともに外にも出られない。兄さんだけが、外の世界とおれを繋いでくれ てたんだって、実感してた。だからこそ、兄さんがあの人と一緒にいるのは嫌だ。でも――」
 裕貴の言葉が不自然に途切れ、 艶かしい息遣いが聞こえてくる。ドキリとした啓太郎は、再びリビングを覗き込み、目を見開いた。
 裕貴の髪に唇を寄せて いた博人が、今度は裕貴の首筋に顔を埋めていた。裕貴は軽く眉をひそめながら博人の肩に掴まっているが、その表情は、裕貴が 快感に乱れる様を知っている啓太郎でも、愉悦を覚えているのか、苦痛を感じているのか判断がつきかねる。
「……お前は何 も心配しなくていい。俺が全部、お前にとって具合がいいようにしてやる。ただお前は、俺の側にいれくれたらいいんだ。二年前 まで俺たちはうまくやっていた。その生活を再開するだけなんだから。何も変わらない」
 博人の手によって裕貴のパジャマ の上着が脱がされていき、白い肩が露わになる。その肩先に顔を伏せた博人に向けて、裕貴は静かな表情で問いかけた。
「違 うよ、兄さん……。二年前とは違う。だっておれ、今は――啓太郎が好きなんだ」
 裕貴がこう言った瞬間、啓太郎の背筋に 強い電流のようなものが駆け抜けていた。萎んで固くなりかけていた気持ちが瞬く間に息を吹き返し、熱くなる。爪を立てていた てのひらの痛みを、このときになって認識していた。
「いままで誰と仲良くなっても、それでも兄さんと比べることなんてで きなかった。だけど啓太郎は違う。おれ、啓太郎と会えなくなるのは嫌だ」
「会えばいいだろう。外で会ってもいいし、ここ に呼んでも――」
「そう言って、おれの知らないところで、啓太郎をおれから引き離すために動く? ……いままでみたいに」
 博人が顔を上げると、裕貴は笑いながら言った。
「兄さんは、外でおれが特別な人を見つけるのが嫌なんだよね。おれ も、同じだった。兄さんが他人のものになったと思ったら、悲しいなんてものじゃなかったよ。もう、おれが誰かを好きになるこ ともないとすら思ってた。啓太郎と仲良くなったのも……最初は、寂しさが紛れればいいかな、ってぐらいにしか考えてなかった。 だけど、違うんだ。啓太郎は違う」
「……何が、違う……?」
 じっと二人の会話を聞いていた啓太郎は、こう問いかけ た博人の声が微かに震えを帯びていることに気づいた。弟との関係を、恥じることも動じることもなく啓太郎の目の前で語ってい た男が、当の弟の訥々とした言葉に動揺しているのだ。
「啓太郎は、おれのことを〈ずるい〉と言ったんだ」
「俺たちの 関係のことで、責められたのか?」
 首を横に振った裕貴は、やっと気づいたようにはだけたパジャマの上着を直し、ボタン を留めていく。今は博人の愛撫はいらないという意思表示のようにも見えた。
「好きだという相手から、美味しいところだけ もらおうとしているって」
「それのどこが悪い。俺は、あるだけの愛情をお前に注ぐことが幸せなんだ」
「兄さんは、お れと体の関係がないと――何もくれないの? 弟だから、というだけじゃ、優しくしたり、甘やかす理由にはならない? 確かに おれは、兄さんにはこの家での世話ぐらいしかできないけど……」
 裕貴が、こんなに鋭い指摘をするのは、啓太郎にとって も意外だった。その指摘が、自分が裕貴に投げかけた言葉から生まれたものだとすれば、喜んでいいのかどうなのか複雑だった。 啓太郎が言わなければ、裕貴は博人からの愛情を甘受し続けていたかもしれないのだ。
「そうじゃない。俺はお前が生まれた ときから、何よりもお前を大事にしてきた。それはお前が、俺の弟だからだ。体の関係は、お前が愛しくてたまらないからこそ… …」
 明らかに博人はうろたえていた。裕貴の言葉に心理的に揺さぶられているということもあるだろうが、密かに家に招き 入れた啓太郎に、こんな話を聞かれているのではないだろうかという恐れもあるのかもしれない。
 博人としては、裕貴との 関係の決定的な何かを見せつける計画だったはずだと、容易に想像がつく。そうでなければ、博人がこんなリスクを冒すわけがな かった。
 一刻も早く、啓太郎の裕貴に対する執着を断ち切ろうと焦ったのか。
 さきほどまで冷たかった啓太郎の指先 は、興奮と驚き、目まぐるしい思考の回転によって、いつの間にか熱くなっていた。心臓の鼓動は息苦しさを覚えるほど速くなっ ている。
「……兄さんを責める気はないよ。おれだって、嬉しかったし、気持ちよかった。ずっとこのままでいられたらいい とも思ってた。けど、そんなことはありえないと、二年前にわかった。おれと兄さんの関係を、今でも悪いことだとは本当は思っ てない。でも、そんなおれでも受け止められることはある」
「裕貴、何を言って……」
「自覚はなかったけど、おれは啓 太郎と知り合って、変わった。大事にされたいだけじゃなくて、大事にしたいものができたんだ」
 啓太郎は静かに息を吐き 出すと、込み上げてくるものをぐっと堪える。一方の裕貴は、歯止めをなくしたように続けた。
 博人にとっては残酷な言葉 を。
「――おれ、啓太郎を苦しめたくないよ。兄さんとの関係で、啓太郎につらい思いをさせたくない。家に来たときの啓太 郎、本当につらそうだった。いつも、仕事でへろへろになっていても、あんな顔してなかったのに。それでも、また来るって言っ てくれたんだ。おれに惚れてるとも言ってくれた。おれも、すごく啓太郎のことが好きだよ……」
 次の瞬間、危うく啓太郎 は声を洩らしそうになった。
 懸命に言葉を紡ぎ続ける裕貴を、突然博人が抱き締めたからだ。さすがに裕貴も驚いたように 目を見開いている。
「兄さん……」
「もう、こんな話はやめよう。今夜はお前も少し様子がおかしいから、また休みの日 にでもゆっくり話せばいい」
「今言っておきたいんだ。今なら……言える気がする。いつもは兄さんの顔を見ると、困らせる ようなことは言えないのに」
「だったらもう、たっぷり言っただろう」
 見ていてもわかるほど、博人は必死に裕貴を抱 き締めていた。裕貴も博人の背に両腕を回し、一見甘えるように肩に頬をすり寄せたが、話すことはやめなかった。
「……啓 太郎がいいって言ってくれるなら、おれは啓太郎といままでみたいに過ごしたい」
 裕貴のその言葉に対する博人の反応は、 いままで抑え込んでいたものが一気に溢れ出したかのように凄まじかった。
「今そんなことを言うなっ。あいつの耳に入るだ ろっ」
 そう怒鳴った博人が裕貴を引き離し、肩を掴んで乱暴に揺さぶる。その行動に裕貴が声を上げ、抵抗するように胸に 手を突くが、博人の行動を制止するには至らない。それどころか、裕貴をソファに押し倒そうとする。
 裕貴の上げる声が悲 鳴に変わる。カッと頭に血が上った啓太郎はリビングに飛び込んでいた。
「もうやめろっ」
 夢中で博人の体を押し退け、 裕貴の腕を掴んで引っ張り起こす。裕貴は、何が起こったのかわからないといった様子で、ただ目を丸くして啓太郎を見上げてい た。
 勢いよく突き飛ばしたためソファから落ち、床の上に座り込んだ博人もまた、切りつけてくるような目で、啓太郎を見 上げている。その目にあるのは、明確な憎悪と敵意だった。しかし啓太郎は、むしろ、悲しさのようなものを感じる。
 大事 なものが自分の手から離れると悟ったとき、人はこんな目をするのかもしれないと思ったら――。
「なん、で、啓太郎、ここ に……」
 ぽつりと裕貴が洩らす。そこに、博人の低い言葉が重なってきた。
「今、高笑いしたい気持ちだろうな。君に 惨めな現実に叩きつけるつもりだったのに、叩きつけられたのは、〈俺〉のほうなんだから」
「……この状況で高笑いなんて、 できるわけがない」
 啓太郎と博人のやり取りに、裕貴はまだ目を丸くしている。状況が把握できていないのだ。
 でき ることなら啓太郎は、自分がここにいる理由を裕貴に知られたくなかった。こうして顔を合わせてしまえば、理由を隠しておける はずもなく、惨めで醜い独占欲を刺激されたからだと告白せざるをえない。
「――約束が違うな」
 暗い凄みを帯びた声 に、啓太郎と裕貴は同時に博人のほうを見ることになる。
「君に言ったはずだ。あくまで、俺たちの生活を垣間見るだ け。君は完全に存在を消しておく、と」
「それは――」
「なんのつもりだよ、兄さんっ」
 声を荒らげたのは裕貴だ った。一気に感情が高ぶったのか、頬のあたりが紅潮してきている。
「啓太郎に変なことを吹き込んだろっ。おれたちの生活 を盗み見させるなんて、どうかしてる」
「そうすることを選んだのは、彼だ。だから、この場にいるんだろう」
「……だ ったら、啓太郎がいてくれたおかげで、おれは〈助けられた〉とも言えるわけだ」
 裕貴の口調に含まれた怒りや嫌悪を感じ 取ったのか、博人の顔がわずかに強張る。
「裕貴、怒っているのか……?」
「怒ってるよっ。こんなところ、啓太郎には 見られたくなかったっ……」
 裕貴が泣きそうな顔をして、啓太郎をちらりと見る。
「おれ、兄さんが好きだよ。兄弟で あんなことをしていても、誰にも知られなければ大丈夫だと思ってた。だけど、啓太郎は違うんだ」
 もどかしそうに口元に 手をやった裕貴は、言葉を模索しているのか、視線を伏せて考え込む表情を見せたあと、苦しげに言葉を洩らした。
「どうで もいい他人には、兄さんとの関係を責められるのが、煩わしくて嫌なんだ。でも啓太郎に知られたくないのは……、おれの気持ち を疑われたくないからだ。おれが、啓太郎を好きだという気持ちを」
 濡れたように見える目で、裕貴はじっと啓太郎を見つ めてくる。思わず手を伸ばした啓太郎は、乱れた裕貴の髪をぎこちない手つきで撫でていた。裕貴の眼差しが一瞬、不安定に揺れ てから、すぐに博人を見据えた。
「――兄さんは、おれがおれだから、あんなことをした? それとも、おれじゃなくても、 〈弟〉であれば、同 じようなことをした?」
 裕貴の問いかけに、衝撃を受けたように博人は目を見開いた。
「いままでおれ、こんなこと考 えたこともなかった。でも、啓太郎がこの家におれに会いに来てくれたときから、考えるようになったんだ。啓太郎は、どんなお れだろうが、惚れているって言ってくれた。兄さんは、そんなこと考えたことあるのかなって……。そうしたら、わからなくなっ たんだ。兄さんとの関係が」
 ここまで言って裕貴はソファから立ち上がる。
「兄さんを責めるつもりはないんだ……。 おれ、兄さんからたくさん大事にされたし、可愛がってもらってきたし。でも、他人に言えないようなことを続ける必要は、もう、 ないのかもしれないと思う……」
 裕貴はソファを回り込んで啓太郎のほうに歩み寄ってこようとしたが、まるで鞭で打ちつ けるように博人が鋭く言い放った。
「羽岡くん、わかるかっ? 裕貴の本質は、これだ。無邪気で残酷だろう? そういうふ うに、俺が育てた。この気質が、裕貴には――俺の弟には相応しいと思ったからだ。そんな裕貴を、多分誰も受け止められない。 受け止められるのは、兄の俺だけだ」
「兄さんっ、やめてよっ」
 裕貴が悲鳴のような声を上げたかと思うと、怯えるよ うに啓太郎を見て、今度は後退った。博人の言葉を受けての啓太郎の反応を恐れたのだとわかり、胸が詰まった。
 無邪気で 残酷であると同時に、裕貴は臆病だ。そんなことは、とっくに知っていた。だから裕貴は、二年も息を潜めるように生活していた のだ。
「熱っぽい言葉を囁かれたら、今度は別の人間にふらふらとついていくかもしれない。そうなったら、今の俺の立場に、 君が置かれるわけだ。……だが、それでいい。裕貴は愛されることに貪欲で、そんな裕貴を愛してやれるのは、俺だけだ」
  何かに憑かれたように博人は言葉を続ける。愛玩動物のように弟を溺愛していたわけではないのだと、博人の口調に潜む闇から、 啓太郎はそのことを感じていた。博人の中にあるのは、裕貴に対する愛情以上に、執着なのだ。
「今はただ、のぼせているだ けだ。いや……、勘違いしているのかもしれない。外の世界に出て、裕貴が初めてまともに接触した〈他人〉が君だ。インプリン ティングだよ。裕貴は、君という存在を刷り込まれただけだ」
 啓太郎はふっと息を吐き出すと、感情的になりそうな声をな んとか落ち着かせて、静かな口調で短く言い放った。
「――そう、信じたいんですね」
 この瞬間、博人の顔から一切の 表情が消えた。啓太郎の言葉がなんらかの衝撃を与えたのかもしれないが、今大事なのは博人の反応ではなく、裕貴だった。
 啓太郎が片手を差し出すと、裕貴はやはり怯えたような眼差しを向けてきた。
「啓太郎……?」
「これから、俺の部屋 に行こう」
 裕貴は微かに肩を震わせてから、博人のほうを見た。先日も啓太郎は、同じようなことを裕貴に言ったが、あの とき裕貴は目に見えてうろたえた。
 だが今日は、違う。博人から視線を引き剥がすようにして、啓太郎をまっすぐ見つめて きたのだ。
「……おれを、連れていって、いいの……?」
「ああ。俺は、お前に世話を焼いてもらわないとダメみたいだ からな」
 怯えた表情のまま、裕貴がおずおずと啓太郎の手を取る。ぎゅっと手を握り締められ、その手の温かさに啓太郎の 胸は熱くなる。
 裕貴の肩を抱いてリビングを出たが、もう博人から声をかけられることはなかった。
 本当は裕貴の荷 物を少しでも持って出たほうがいいのだろうが、今は一刻も早くこの家を出ることを優先する。裕貴の手を引いてまっすぐ玄関に 向かった。
 外に出ると、切りつけるように冷たい風が一気に吹きつけてくる。啓太郎は、裕貴がパジャマ姿で身を震わせて いることに気づき、慌てて自分のコートを脱いで羽織らせる。
「車まで我慢してくれ」
 そう声をかけると、コートの前 を掻き合わせながら、やっと裕貴は笑ってくれた。









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