Sweet x Sweet

[27]

「――お前は、あの部屋から無理やり引き離されたんじゃないのか」
 裕貴は困ったような顔をして、啓太郎の肩にあご をのせてきた。啓太郎は柔らかな髪を優しく撫でてやる。
「リフォームの件で実家に戻ったとき、兄さんもいたんだ。そ れで、全部わかった。実家のリフォームは、おれを実家に誘い出すための口実だったんだって。最初は腹が立ったよ。騙され たんだから。ただ、マンションの部屋から、おれの荷物を全部運び出したと言われときは、頭の中が真っ白になって、話もで きなかった……。けど、すごく納得もしていた。兄さんなら、動くとなったらそこまで徹底するだろうし」
 裕貴にとっ て嫌だったのは、博人と千沙子の夫婦の家で生活することだったという。啓太郎が実家にやってくることを警戒しての博人の 対応だと、裕貴はわかっていたが、それでも啓太郎に連絡を寄越さなかったのだ。
 啓太郎の感触に安心したように、柔 らかな声で裕貴は説明を続ける。戸惑いや後ろめたさのない、無邪気な声だと啓太郎は思った。
「……兄さんに、何度も 言われた。おれとずっと一緒にいてやれるのは、血の繋がった自分だけだって」
「でもお前は言ってたはずだ。誰かのも のを奪うことはできないって。今、博人さんは結婚している。お前以外の人のものだ」
「うん。おれもそう言った。だけ ど兄さん――」
 裕貴が顔を上げ、ドキリとするほど強い眼差しを向けてきた。
「この家で、また二人で暮らしてい こうって言うんだ」
「二人って……、あの人には、千沙子さんがいるだろうっ」
「別居、するって。……離婚を前提 に」
 ゾクリと、啓太郎の背筋に寒気が走る。博人の裕貴に向ける執着に対してもだが、そんな博人の想いを受け止めて いる裕貴が、得体の知れない存在のように思えた。
 これまで、啓太郎の隣室に住んでいた引きこもりの青年と、今目の 前にいる青年は、見た目は同じでも、中身が入れ替わってしまったのではないかと疑いたくなる。
「……お前は、どうし たいんだ? お前が博人さんとの関係を断ち切ったのは、嫌いになったとかじゃなく、千沙子さんと結婚したからだろう。他 人のものになった博人さんと、関係を持つことはできないと……」
 兄弟で肉体関係を持つことはできても、不倫は嫌。 裕貴の中にある独特の倫理観を、啓太郎は完全に理解することはできない。だが博人が、裕貴のために現状を具合よく変えよ うとしているのはわかる。
 博人は、この家に戻ってきた裕貴を手放すつもりはないのだ。裕貴を守るための家庭を作り、 その裕貴のために、作った家庭を――千沙子を切り捨てる。
 博人を好きだと言いきる千沙子が、裕貴に頼まれたとはい え、博人を裏切るような行動を起こしたのは、このことを感じ取ったのかもしれない。
 裕貴が首を傾け、真摯な表情で 囁いてきた。
「――……啓太郎は、どうしてほしい?」
「裕貴、それはお前が考えて、決めることだ」
「おれ、 啓太郎が好きだよ。啓太郎がおれに、何か望んでくれることが嬉しいんだ。こうして会いに来てくれたことも、すごく嬉しい。 だから……啓太郎の言うとおりにする」
 それではダメなのだと、啓太郎はぐっと拳を握り締める。
 かつて、裕貴 は言っていた。拒まれるのが怖いから、自分からは望まないと。求められて応えることに、幸せを感じる人間のだ。
 こ れは、博人が教えた裕貴の処世術なのかもしれない。仮に博人にそんな意図はなかったとしても、絶えず博人は裕貴を求め、 それに応じる心地よさを覚えさせた。結果として作られたのは、臆病でありながら、求められることに貪欲な生き物だ。
 博人にありったけの愛情を注がれながら、一方で、無邪気な顔をして啓太郎にも求められ、応じたがる。それが裕貴だった。
 返事を聞きたくないのに、啓太郎はこう問いかけずにはいられない。
「博人さんも、好きか……?」
 途端に 裕貴は困ったような笑みを浮かべた。
「兄さんは、兄さんだよ。啓太郎に対する好きとは違う。……兄さんは、側にいて 当たり前の存在で、いままでどれだけ避けていても、一緒にいるとあっという間に存在が馴染むんだ。そうなることが嫌だか ら、ずっと会うのを避けてた。啓太郎は、どれだけ一緒に過ごしていても、ドキドキする。一緒にいるのが不思議で、だけど 嬉しくて、楽しかった」
「……頼むから、楽しかった、なんて、過去形で言うな」
 目を丸くした裕貴が両腕を伸ば し、首にしがみついてくる。啓太郎はしっかりと抱き締めてやった。
「おれ、こんなつもりじゃなかったんだ。もう兄さ んとは、そんなことをする気はなかったし、冷たく接するつもりだった。本当は、すぐに啓太郎のところに戻るつもりだった んだ」
 今にも泣き出しそうな声で裕貴が言う。啓太郎は裕貴の背を撫でながら、思わず目を閉じていた。
 言外に、 裕貴は博人と再び、合意のうえで関係を持ったことを告げているのだ。薄々感じてはいたが、こうも直接的に匂わされると、 怒りや空しさももちろんあるが、裕貴をこんなふうに育てた博人に対して、嫉妬する。
 悪いと思いつつも、啓太郎と博 人が注ぐ愛情に応えようとする裕貴は、無邪気で残酷で、性悪だ。だからこそ啓太郎は狂おしいほど追い求めてしまうのかも しれない。
 裕貴の持つ倫理観に、次第に啓太郎は、何がよくて悪いのか、何が正しくて間違っているのか区別がつかな くなり、世間の物差しから乖離していく。
 裕貴と博人が築き上げた倫理観に、呑み込まれそうだ。
「――……おれ がいなくなっても、兄さん、ここで一人で暮らすって言ってた。ずっと二人で暮らしてきて、ときどき父さんが帰ってくるこ の家に、一人でいるのは……寂しいよ、きっと。おれも兄さんも、一人でいることに慣れてない……」
「なら、俺が一人 取り残されるのはいいのか?」
 博人に対する対抗心から、そう口にすると、裕貴は慌てた様子で首を横に振る。
「違うよっ。啓太郎と二人でいたいよっ」
「なら、今から俺と帰ろう」
 スッと裕貴の顔から表情が消える。目に見 えてうろたえていた。その反応を見た瞬間、啓太郎はカッとする。
「裕貴っ」
 咄嗟に裕貴の腕を掴んで引っ張ろう としたが、怯えたような表情を目にして、すぐに冷静になった。
 力ずくで裕貴をこの家から引きずり出したところで、 啓太郎のほうが部屋に裕貴を閉じ込める立場に追いやられてしまう。博人ですら、裕貴を家に軟禁したりはしていなかったと いうのに。
「……裕貴、お前に自覚はないかもしれないが、俺と博人さん、どちらも好きで、どちらとも一緒にいたいと いう気持ちは、お前の中できちんと区別はついているのかもしれないが、他人にはその理屈は通用しない」
 言いながら 啓太郎は、裕貴の滑らかな頬をそっと撫でる。
「お前は、好きだという相手から、美味しいところだけをもらおうとして いるんだ。人によっては、それは〈ずるい〉と言う。……俺は、お前と博人さんの過去については受け止めたつもりだ。だが、 現在進行形となると話は別だ。無理やりだというなら、博人さんを殴ってでも、お前を連れ出すが、そうじゃないんだろう?」
 泣きそうな顔をして裕貴は視線を伏せる。その様子がたまらなく愛しくて、啓太郎は裕貴の頭を引き寄せ、軽く唇にキ スする。すると裕貴のほうから、甘えるように唇を吸ってきた。
 キス一つで、情欲に火がつくのは簡単だ。今すぐソフ ァに押し倒して、思う存分裕貴を貪りたいし、裕貴も拒みはしないだろう。だが、実行には移せない。こんな形で裕貴に応え てもらいたいわけではないのだ。
 唇を離してから、もう一度だけ裕貴を抱き締めた啓太郎は、ゆっくりと体を離す。
「今日はもう帰る。お前が元気だとわかったから、それだけは安心した」
「啓太郎……」
 啓太郎の口調に含ん だものを感じたのか、裕貴が不安そうな目をする。博人は、裕貴がこんな目をしたとき、どんなふうに慰めてやるのだろうか と、ふと考えてしまう。きっと、一人にはしないだろう。
 なら、自分は――。
 ハッと我に返った啓太郎は、裕貴 の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。すると裕貴は少しだけ笑ってくれた。
 啓太郎は、博人のように裕貴を愛したいわけで はなかった。大事で愛しい存在ではあるが、弟のようだとは思えないし、執着の鎖で縛りつけ、その束縛に慣らしたくはない。
「俺は俺なりに――」
 裕貴の額に軽く唇を押し当て、啓太郎は立ち上がる。
「お前を大事に思っているし、何 より、惚れてるんだ。だからこそ、お前の選択を尊重したいと思っている。……けどな、待っているのは忍耐がいるし、苦し くてたまらない。そんな想いを耐えられるのは、やっぱりお前に惚れてるからなんだ。すっかり餌付けもされてるしな」
 立ち去ろうとした啓太郎の腕に、腰を浮かせた裕貴の手がかかる。置いていかれる子供のような顔をしていた。
 安心 させるために笑いかけ、また来ると言い置いて、啓太郎は黒井家をあとにする。




 裕貴の前ではなんとか余裕があるふりを装っていたが、部屋に戻ってからの啓太郎は、ベッドに横になり、しばらく天井を 見上げる以外、何もできなかった。
 そんな状態に至って、自分が激しく落ち込んでいるのだと認識できたぐらいだ。と にかく頭の中は、裕貴のことで一杯だった。
 博人に連れていかれた裕貴がどんな状態なのかわからないのも不安だが、 わかってしまうと、今度はさまざまな感情に苛まれることになる。
 正直、この先どうすればいいのか、考えもつかなか った。
 裕貴と博人を引き離すということは、家族を引き離すということだ。裕貴の恋人ではあっても、他人である自分 にそこまでする権利があるのかと、啓太郎は自問を繰り返していた。だから、裕貴に答えを出してもらいたい。
 もっと も、それはそれで、苦しみを裕貴に押し付けて、自分が厄介事から逃げているような罪悪感もある。
「あー、わからんっ」
 低く唸った啓太郎がぐしゃぐしゃと髪を掻き乱していると、周囲にいた同僚たちから一斉に、奇異の視線を向けられた。
 考えに没頭してしまい、ここが会社であることをすっかり忘れていた。
「……お前、病み上がりなんだから、無理 しなくていいんだぞ」
 同僚の一人に肩を叩かれ、気遣う言葉をかけられる。曖昧な表情で返した啓太郎は、次の瞬間に はため息を洩らし、デスクに向き直った。
 困ったことに、仕事が手につかなかった。裕貴がいなくなってから保ち続け ていた糸が、プツリと切れたようになり、これまでの緊張感もあって、その反動が凄まじい。部屋に一人でいるとどこまでも 深く落ち込んでしまいそうなので、会社を一日だけズル休みした翌日から出社しているのだが、本調子から程遠い。
 一 昨日、裕貴に言った自分の言葉が、頭から離れなかった。ウソも、間違ったことも言ったとは思わないが、綺麗事すぎたかも しれない。
 本当は裕貴を無理やり連れ帰ってもよかったのだ。ただ、そのとき裕貴に、身を引き裂かれるような表情を 浮かべられるのが怖かったからだ。博人から離れたくないと、はっきり意思表示されることを、啓太郎は恐れた。
 こう 考える時点で、博人に負けているのだろうか――。
 再び髪を掻き乱そうとしたとき、デスクの上に置いてある携帯電話 が鳴る。誰だろうかと思いながら携帯電話を手にした啓太郎は、液晶の表示を見た途端、勢いよく立ち上がっていた。同僚た ちの視線も気にせず、オフィスを飛び出すと、人気のない一角へと移動する。
 それから慌ただしく、もう一度携帯の液 晶を確認した。裕貴の携帯電話からの着信だ。
「もしもし、裕貴、か……?」
 警戒しながら電話に出たが、その対 応は間違いではなかった。電話の相手は、博人だった。
『――裕貴に会ったか』
 博人はもう、啓太郎に対して敬語 を使わない方針に決めたらしい。吐き捨てるような口調に眉ををひそめながら、ぶっきらぼうに応じる。
「用件はそれで すか?」
『一昨日、わたしが仕事から戻ってきたときには、裕貴の様子がおかしかった。それまでは落ち着いていたんだ。 千沙子が実家に行って裕貴とケンカでもしたのかとも思ったが、違うようだ。そうなると、考えられるのは、君だけだ』
 博人は、千沙子が実家の住所を啓太郎に告げたことに感づいているのだろうかと考える。薄々察してはいるとしても、千沙 子を問い詰めたりはしないだろう。結局のところ千沙子の行動は、博人自身が原因だ。
「……裕貴は、なんと?」
『何も言わないから、こうして電話をした。とにかく、何か考え込んでいる。わたしが話しかければ笑いもするし応じるが、 心ここに在らずといった状態だ』
 啓太郎と話したあと、裕貴なりに思い悩んでいるのだ。何も疑問を感じず、無邪気に 博人と暮らしているのだろうかと、ひどい想像もしていた啓太郎だが、裕貴は決して、感覚が〈狂って〉いるわけではない。
「……裕貴に、注意をしただけです。あいつはあまりに、愛されることに対して無邪気すぎる」
『それは悪いことじ ゃないだろう』
「だけどそんなことは、あなたにしか通じない。裕貴の一生を、そうやって縛りつけて……潰す気ですか」
 さすがに言葉がきつすぎたのか、電話の向こうで博人が黙り込む。一方の啓太郎も、博人に一撃を与えられたと能天気 なことは思っていない。裕貴のことで、啓太郎も博人も、これ以上なく真剣なのだ。
『君は……、わたしと裕貴の関係を 誤解しているし、わかっていないな。もしかして、わたしが裕貴を洗脳して、実家から出ていかないようにしているとでも思 っているか?」
 返事をしないことで、啓太郎は肯定を示す。実際、間違ってはいないはずだ。
 何がおかしいのか、 電話越しに博人の低く抑えた笑い声が聞こえてきた。
『君には、もう二度と、うちに来るなと伝えようと思っていたが、 気が変わった』
「俺は、裕貴に会いたいんです。あなたに命令されるようなことじゃ……」
『――興味はないか?』
 えっ、と声を洩らし、啓太郎は耳を済ませる。この時点で、博人が何を言い出すのかという興味に引きずられていた。
『わたしと一緒にいるときの裕貴は、どんな様子なのか。君と一緒にいるときとは、何が違うのか。裕貴は本当に、わた しに縛りつけられているのか。そういうことを、自分の目と耳で、確かめてみたいと思わないか?』
「何を、言って……」
『わたしと裕貴が家でどんなふうに過ごしているか、実際に見てみるといい。もしかして、君と一緒にいるほうが、裕貴 は無理しているかもしれない――。そんなふうに考えてみると、わたしの提案は、君にとっても損にはならないと思うが』
 博人の提案をバカらしいと一蹴することはできなかった。肝心の裕貴は、今は博人と一緒にいるのだ。何より啓太郎は、 兄弟二人の暮らしが実際どんなものなのか、ほとんど知らない。裕貴は博人にひどく甘やかされ、大事にされてきたと、聞か されているだけだ。
 啓太郎は、博人の愛し方を倣う気はない。だが、博人の存在を無視することはできない。裕貴はい まだに、博人に何もかも囚われたままで、裕貴本人もそのことを嫌がってはいない。
 裕貴と博人の関係を、いよいよ真 正面から見つめる時期にきたのだ。ここで勇気を振り絞らなければ、自分は博人には勝てない。
 そんな嫌な確信 が、啓太郎にはあった。きっと、啓太郎がこんな気持ちになることを、博人は見抜いているだろう。そうでなければ、『悪い 虫』呼ばわりした啓太郎を実家に呼ぶ危険を冒したりはしない。
『裕貴に知られると、普段のわたしたちを見てもらうと いう計画が成り立たないから、家には招き入れるが、君は完全に存在を消すように。あくまで、わたしたちの生活を垣間見る だけ。――その約束が守れるなら、指定した時間に家に来ればいい。いい隠れ場所に案内しよう』
 博人が微かに笑った 気配を感じ、屈辱感からカッと体が熱くなる。
『君は、わたしたちの家に来ながら、一人でいた裕貴を連れ去りはしなか った。裕貴の様子に驚いたからだろう? 軟禁されてもいないのに、おとなしく家にいて、わたしの帰りを待っている。そし て、こうも思ったはずだ。……自分に、こんな裕貴を受け止められるのか、と』
「違うっ。俺は、そんな――……」
『今回のことは、君にとって大事なきっかけになる』
「きっかけ?」
『気持ちの踏ん切りをつけて諦めるか、さらに 意固地になるか』
 意固地、と口中で反芻する。博人としては、啓太郎が裕貴を求め続ける、という表現は口が裂けても したくないのだろう。あくまで啓太郎は、弟につきまとう『悪い虫』で、一刻も早く払い落としたい存在なのだ。
 博人 に挑発され、翻弄されてばかりだが、一歩も引く気はなかった。意固地だと言われてもいい。ムキになっているだけだと笑わ れてもいい。それでも啓太郎は、まっすぐに自分を見つめてくれ、屈託なく笑いかけてくれる裕貴を抱き締めたかった。
「――何時に、そちらを訪ねればいいですか」
 啓太郎が問いかけると、やはり来るのかと言いたげに、博人が軽くため 息をついた。




 結局この家には、滲めな気持ちを抱えながらも足を運ばずにはいられないのか――。
 あちこちの家に玄関照明が灯される 時間帯となり、啓太郎は重い足を引きずりながら黒井家へと向かっていた。
 これは、博人が仕掛けた罠なのだと、わか ってはいるのだ。きっと博人は、啓太郎の気持ちをズタズタに切り裂いてやろうと待ち構えている。そのためなら、裕貴と― ―実の弟とのいかがわしい行為すら見せ付けてくるかもしれない。
 そうなったとき、啓太郎の気持ちが踏ん張れるかど うかが、試される。裕貴に対して嫌悪感を持つかもしれない自分が怖いが、話を聞いただけではなく、二人の関係の現実を目 の当たりにしなければ、裕貴を受け止めるという言葉は、綺麗事になりかねない。
 腕時計に視線を落とし、歩調をさら に緩めながら黒井家の門扉の前で立ち止まる。指定された時間ぴったりだった。
 兄弟二人の生活は、特に几帳面な博人 に合わせて、ほぼタイムテーブルが決まっており、裕貴が夕飯を作り始めるのも今頃の時間からなのだそうだ。つまり、裕貴 がキッチンで夕飯作りにかかりっきりになっている間に、啓太郎を家に入れるのだという。
 門扉の前で立ち尽くして一 分も待たないうちに、静かに玄関のドアが開き、顔を出した博人に素っ気なく指先で呼ばれる。
 一瞬、ここに来たこと を猛烈に後悔したが、博人の薄い笑みを目にすると、腹が据わった。啓太郎は自分で門扉を開閉して、博人の元に歩み寄る。
 ドアが大きく開けられ、無言で玄関に入ると、博人は家の中の様子をうかがいながら、脱いだ啓太郎の靴を下駄箱に入 れた。
 ダイニングを覗き込んだ博人に手招きされて連れて行かれたのは、廊下を挟んだ向かいの客間だった。電気はつ いていないが、カーテンが開けられているため、外の街灯の明かりで室内の様子を把握できる。
「ここは普段使ってない から、裕貴も入ってはこないだろう。それに、一階で交わされる会話のほとんどが聞こえるはずだ。なんなら、部屋を出て様 子をうかがってもいいが、裕貴にバレないよう、気をつけてくれ。――何があっても」
 抑えた声での博人の説明を聞い ていると、まだ間男の立場のほうがマシかもしれないと、苦々しい感情で胸を塞がれる。
 それが顔に出たのか、博人が 皮肉っぽくわずかに唇の端を動かした。
「自分だけがひどい目に遭っていると思っているなら、今すぐ引き返したほうが いい」
「……あなたも、ひどい目に遭っていると? ああ……、『悪い虫』でしたね、俺は」
 博人は何か言いかけ たが、緊迫した男二人の元に、のんびりとした裕貴の声が届いた。
「兄さん、ソースの味見てよ。ちょっと甘くなったか もしれない」
 すかさず博人が応じた。
「俺に聞くだけ無駄だぞ。お前が作ったものなら、なんでも美味いとしか言 えないからな」
「頼りない舌―」
 博人がふっと優しい笑みを見せたのは一瞬だ。啓太郎を見据えたときには、怖い 顔をしていた。
「――帰りたくなったら、勝手に出ていってくれ。ただし、静かに」
 そう言い置いて、博人は客間 を出ていった。









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