[26]
そこに存在して当然だと思っていた大事なものが、日常の風景からごっそりと切り取られる苦痛は、実際にそうなって
みないとわからない。同時に、自分たちの日常は、なんとも不安定な場所のうえに成り立っていたのだと思い知らされる。
後悔という痛みとともに――。
エレベーターに乗り込んだ啓太郎は沈鬱なため息をつく。三日ぶりにマンシ
ョンに戻ってきたのだが、仕事から解放されたという意識はまったくなかった。むしろ、仕事を詰め込むことで、部屋に
帰ることを避けてすらいた。
さすがに今日は上司から深刻な顔で、自宅に帰って休めと諭されたため、デスクにか
じりついているわけにはいかなくなったのだ。
エレベーターの扉が閉まると同時に、力なく壁にもたれかかる。
裕貴が啓太郎の目の前からいなくなってから、もう半月が経っていた。その間に、状況は何一つ変わっていない。
隣の部屋は空いたままで、裕貴の実家がどこにあるのか、手がかりすら掴めていなかった。
努力しようにも、啓太
郎には動きようがない。半月の間に、博人が勤める銀行のビルにもう一度足を運んでみたのだが、博人が呼び出しに応じ
るどころか、警備員に素っ気なく追い返された。待ち伏せをしたら警察を呼ぶという言葉は、単なる脅しではなく、本当
だろう。惨めな気持ちを引きずったまま、啓太郎は帰るしかなかった。
博人という壁を突き崩すのは不可能だと、
思い知らされていた。怖気づいたのかもしれない。
裕貴の何もかもを知っていて、啓太郎からあっさり裕貴を奪い
取る行動力と執着心を持った男と対峙することに。
啓太郎は半月の間、憑かれたように仕事をする以外は、自分を
責め、卑下し続けていた。そうでもしないと、日常生活から裕貴がいなくなったという現実に、押し潰されそうだった。
自分を責め続けている間、いなくなった裕貴の存在を強く認識できる。
頭の芯にズキリと走った痛みに、顔をしか
める。睡眠不足と疲労で、この数日、啓太郎は頭痛に苛まれるようになっていた。
それとも――と、手にしたコン
ビニの袋に視線を落とす。裕貴がいなくなってから、食事は専ら、コンビニで弁当などを買って済ませていた。とにかく、
腹に溜まればなんでもよかった。荒んだ食生活のせいで、体調はここのところ優れない。
裕貴にしっかり餌付けさ
れたため、裕貴が作ったもの以外の食事には、味にすら興味が湧かなくなったことが、笑えるのか、泣けるのか。
いつの間にか停まっていたエレベーターの扉が、ゆっくりと閉まろうとする。もたれていた壁から体を起こした啓太郎
は、急いでエレベーターから降りた。
食うものを食って風呂に入ったら、さっさと寝てしまおう。
そんなこ
とを考えながらエレベーターホールから通路に出たところで、反射的に足を止める。裕貴の部屋の前に、人影が立ってい
たからだ。
「裕貴っ」
頭で考えるより先に、声が出ていた。弾かれたように人影が動き、啓太郎は駆け出す。
だがすぐに、人影が裕貴ではないと気づいた。
長いコートを羽織った人影が照明の下に立ち、はっきりと姿を見る
ことができる。女性だった。しかも、見知っている顔だ。一度、裕貴の部屋の前にいた彼女を見かけたことがある。
いつだったか聞いた裕貴と博人の会話から、博人の妻で間違いないだろう。
驚きよりも戸惑いが先に立ち、足を
止めた啓太郎は訝しみながら博人の妻――千沙子を見つめる。
初めて見かけたときと同じく、コートの下はスーツ
姿で、バッグを肩からかけている。髪もきれいに結い上げられている。優しげで儚かった印象も変わらないが、それより
今は、憔悴しきった様子のほうが強烈だった。
博人に大事にされているのだろうかと、ついそんなことが頭を過る。
裕貴がもうこの部屋にいないことを知っているはずなのに、それでもここに来た理由がわからなかった。
頭
痛のせいで思考の巡りが普段より鈍くなっている啓太郎は、挨拶をして通りすぎるべきなのだろうかと漫然と考えたが、
次の瞬間、頭の中で何かが弾けた。裕貴と博人の実家の住所を、千沙子に聞けばいいことに気づいたからだ。
「あの
――」
口を開いたのは、啓太郎と千沙子、ほぼ同時だった。
ハッとしたように千沙子は口元に手をやり、視
線を伏せる。仕草の一つ一つが遠慮がちで、手を差し伸べたくなる風情が漂っている。知りたいことがある啓太郎だが、
用件を先に切り出す権利を千沙子に譲っていた。
「……裕貴の、お義姉さん、ですよね? どうかしましたか?」
水を向けると、ぎこちない微笑で応えられる。
「羽岡啓太郎さんですね」
「え、え……」
ふいに千
沙子から、決然とした眼差しを向けられドキリとする。強く訴えてくるものがありながら、どこか救いを求めるような必
死さがあった。
只事ではない。啓太郎の直感を裏付けるように、千沙子が震える声で言った。
「――裕貴くん
と博人さんを、引き離してください」
一人暮らしの男の部屋に、夜、同年代の既婚女性を招き入れるのは申し
訳なくもあったが、千沙子が誰にも聞かれたくない話だと言ったため、やむなく部屋に上がってもらった。
インス
タントコーヒーを入れながら啓太郎は、さきほど千沙子から言われた衝撃的な言葉を、頭の中で反芻していた。胸に広が
った動揺は、なんとか抑え込んだ。おかげで、勢い込んで千沙子を詰問する醜態は晒さずに済みそうだ。
二人分の
コーヒーを入れてテーブルに行くと、千沙子はコートを羽織ったままイスに腰掛けていた。まだ暖房が部屋を温めきって
いないということもあるが、コートを脱いでいないことも気にならないほど、あることに心が囚われているのだろう。
啓太郎は話を聞く前から、青白い顔色をした千沙子に同情的な気持ちを抱いていた。
『――裕貴くんと博人さ
んを、引き離してください』
こんなことを他人である啓太郎に言わなければならないほどの出来事が、あったのだ。
頭痛に加え、心臓を鷲掴みにされたような胸の痛みを覚えて、啓太郎は小物入れから鎮痛剤の箱を取り上げると、
再びキッチンに行く。手早く鎮痛剤を口に放り込み、水で流し込んだ。
ようやくイスに腰掛けたところで、ため息
をつく。すると、千沙子が顔を上げた。
「すみません……。こんな時間に、突然訪ねたりして……」
「あっ、い
や、あなたの訪問が迷惑というわけじゃなくて――ここのところずっと、裕貴の心配をしていたものですから……。あい
つの居場所を知る手がかりのあなたが現れて、肩から力が抜けたというか」
「裕貴くんの部屋の荷物、黒井家の実家に
運び込んだそうです」
そうですか、と応じた啓太郎だが、すぐに千沙子の言葉を確認する。
「……運び込んだ
そう、ということは、あなたは直接実家のほうには――」
「結婚してから一度も、わたしは黒井家の実家に招かれた
ことはありません。結婚する前までは、裕貴くんの家庭教師をしていたこともあって、遊びには行っていたんですけど、
裕貴くんがわたしと博人さんの結婚を反対して実家を出てからは……。博人さんとしても、裕貴くんが側にいなくなって
しまうと、二人の思い出に満ちた場所に、わたしを立ち入らせたくなかったんだと思います」
会ってすぐだという
のに、千沙子は夫婦間のことを話すのに抵抗はないようだった。その理由が、啓太郎にはわかる気がした。
多分、
啓太郎と千沙子は、同じ苦しみとつらさを味わっている唯一の人間同士なのだ。大事な前提を確認しなくても、話は通じ
る。
「荷物だけじゃありません。今は……裕貴くんだけでなく、博人さんも実家のほうに移りました」
一瞬息
を止めた啓太郎は、膝の上で拳を握り締める。考えたくはなかったが、ありうる状況だった。啓太郎が実家の住所を知ら
ないとわかった時点で、二人の実家は安全な場所になったのだ。
いや、博人にとっての安全な場所というべきだろ
う。
「仕事が忙しくなるから、しばらく実家から銀行に通うと言ってましたが、わたしにはわかります。博人さんは、
わたしを含めた裕貴くんとの三人の生活ではなく、実家での兄弟二人での暮らしを選んだんです。二年もの間、手元を離
れていた大事な〈弟〉が、やっと戻ってきたんですから……」
千沙子の口調には、皮肉と自嘲と悲哀が満ちていた。
啓太郎の中に湧き起こった疑問は、すぐに解消される。千沙子の話は、核心へと進んでいた。
「――……博人
さんは、わたしが大学に入った頃からの憧れの人だったんです。今の姿からは想像できないでしょうけど、人当たりがよ
かったんですよ、博人さん。後輩の面倒見もよくて、とにかくよくモテてました。でも、決して特定の誰かと深入りする
ことはなかったんです。見えない一線を引いているようなところがあって。そんな人に、実家に遊びに来ないかと誘われ
たときは、舞い上がりました」
かつて博人が、千沙子との結婚の意味について啓太郎に語ったことがある。博人に
とって千沙子との結婚は、愛情の結果としてのもの以上に、恐ろしく周到で、緻密な計算のうえに成り立った、裕貴との
生活を守るための〈籠〉として必要なのだと思った。
「紹介された裕貴くんは、女の子みたいに可愛かったんですよ。
だけど、わたしは嫌われているとすぐにわかりました。笑いかけて、甘えるのは、博人さんにだけ。博人さんも、裕貴く
んにだけは、外では絶対にしない優しい顔を見せていました。……裕貴くんの家庭教師をしながら、あの家に馴染んで、
博人さんと関係を深めて、わたしは、何もかも知ったつもりでいました。でも――違ったんです」
話を聞いている
うちに、頭が一度だけズキリと痛みを発する。啓太郎はコーヒーを啜ってから、こめかみを強く押さえた。
他人の
口から、裕貴と博人の関係を聞くのが嫌だった。自分が知らないあの兄弟の様子を聞いたところで、行き着く結論は、決
まっているのだ。
「……わたし、博人さんが裕貴くんに向ける愛情の種類を、見誤ってました」
「知って、いる
んですね」
千沙子は今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた。自分の妻にこんな顔をさせるなと、啓太郎は内心で博
人を罵倒する。もちろんそこには、裕貴を独占している博人への嫉妬も含まれていた。
「薄々感じてはいたんです。
何かがおかしいと。でも、博人さんが裕貴くんと二人で暮らすと聞かされたとき、確信しました。この兄弟が交わす愛情
は、兄弟の範疇を超えているのだと」
「博人さんを、問い詰めたりは……?」
千沙子は大きく首を横に振った。
「――わたし、博人さんが好きなんです」
「どうしてっ……、自分を裏切っていた男のことを、どうしてまだ、
そんなふうに言えるんですかっ」
瞬間的に湧き起こった怒りのまま、啓太郎は声を荒らげる。しかしすぐに、これ
は単なる八つ当たりだと反省した。
小さな声で謝り、イスに座り直す。千沙子は穏やかな声で再び話し始めたが、
それは、啓太郎に秘めた胸の内を明かしたことで開き直ったようにも感じられ、なんだか痛々しかった。
「バカな女
だと思うかもしれませんけど、本当なんです。わたしは、博人さんが好きです。どんな形でも、必要とされるなら嬉しい
んです。例えそれが、裕貴くんのためだとしても」
「ならさっき、外で言ったことはなんですか? あの兄弟を引き
離してほしいと。そもそも、裕貴の隣人でしかない俺に、どうしてそんな話――……」
啓太郎はここで言葉に詰ま
る。目の前で、千沙子が涙を流し始めたからだ。
「わたしには、できないから……。博人さんの前で、感情的に泣き
叫んだところで、きっと博人さんは迷惑そうな顔をするだけで、それ以前に、わたしにはそんなことができる勇気がない
んです。博人さんにとっての、面倒で、嫌な女になりたくないんです」
面倒で、嫌な女ではなく、博人の妻として
当然の反応ではないかと思ったが、そん
なことは千沙子本人が自覚しているはずだ。それでもなお、博人が好きだと断言しているのだ。
啓太郎が千沙子に
感じるもどかしさは、他人が啓太郎に感じるであろうもどかしさと同じなのかもしれない。他人から、裕貴のような面倒
な相手を早く忘れろと、もう関わるなと忠告されてもおかしくないのだ。裕貴は、そんな厄介な人間であり、厄介な人間
関係を抱えている。
それでも啓太郎は、裕貴を――。
裕貴を抱き締めたくてたまらなかった。それぐらい、
愛しくて大事な〈恋人〉なのだ。
啓太郎が硬く拳を握り締めていると、そんな啓太郎の想いに背を押すように、千
沙子が言った。
「――……裕貴くんに頼まれたんです」
「えっ」
「実家の住所を、あなたに教えてほしいと」
意外な言葉に啓太郎は目を見開く。そんな啓太郎の前に、千沙子がメモ用紙を置いた。そこには見覚えのない字で、
確かに住所が書き記されている。啓太郎が知りたくてたまらなかった、裕貴がいる場所だ。
「本当は、もう何日も前
に頼まれていました。裕貴くんが、博人さんに連れられて実家に戻る前の日に。嫌いなわたしに頼むぐらいですから、よ
ほど切羽詰っていたんでしょうね。でも、わたしは今日までずっと迷ってました。わたしにとってどうするのがいいのか、
って。これをあなたに渡すということは、博人さんを裏切ることになります」
「……でも、あなたはこうして来てく
れた」
「あなたに、裕貴くんを博人さんから奪い取ってほしいのかもしれません。それに――わたしなりに、博人さ
んへ復讐したくなったんです。面と向かってあの人に何も言えないし、できないけど、でも、わたしだって気持ちを伝え
たい……」
「――俺を利用して」
自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。千沙子が顔を強張らせて啓太郎を見
つめてきたので、安心させるように小さく笑いかける。
「博人さんがあなたを利用して、あなたが俺を利用するとい
うなら、俺も遠慮なく、あなたを利用させてもらいますよ。正直俺は、動きようがなくて困っていたんです。こうしてあ
なたが訪ねてきてくれて、助かりました」
どういう表情を浮かべればいいのかわからないといった様子で、顔を伏
せた千沙子が首を横に振った。
千沙子の話はそこで終わりだった。啓太郎と話したことで、さらに憔悴したように
見えたので、啓太郎はマンション前にタクシーを呼び、千沙子を乗せる。
走り去るタクシーを見送りながら、啓太
郎は半ば呆然としていた。
事態が急転したことに、まだ実感が湧かない。ただ、心を支配していた絶望感が薄れて
きたのは確かだ。何も見えない闇の中、ひたすら空しく足掻いていたのは、つい一時間ほど前だ。それが今は――。
部屋に置いてくるという意識さえ働かず、握り締めたままのメモ用紙を手の中で広げる。ふいに込み上げてくるものが
あり、啓太郎は唇を引き結ぶ。
やっと手に入れた、裕貴へと繋がる糸だ。他人の思惑などどうでもいい。啓太郎は
ただ、裕貴を求めるだけだった。
翌日、啓太郎は会社を休んだ。
前日までの猛烈な仕事ぶりを知っている同僚は、体調が悪いという啓太郎の言葉
を疑いもせず、電話越しでもわかるほど心配し、差し入れを持って見舞いに行ってやろうかとまで言ってくれたぐらいだ。
啓太郎は、感謝しつつも断った。そうでないと、仮病がバレる。
逸る気持ちを抑えつつ、午前中のうちに部屋を出
た啓太郎は、メモに書かれた住所へと向かった。
黒井家は、すぐに見つかった。比較的新しい住宅が立ち並ぶ中に
あって、古いというより風格がある立派な建物だったからだ。
外観から広さを想像するのは容易く、こんな家に裕
貴は子供の頃から、兄の博人とほぼ二人で暮らしていたのだ。寄り添う二人の姿を想像してしまい、啓太郎は慌てて妄想
めいたものを頭から振り払う。
一度家の前を通り過ぎ、少し離れた場所にある駐車場に車を停めて引き返す。ガレ
ージのシャッターが下りていたので、中に博人の車があるのかどうか確認しようがなかったが、平日の昼前に、銀行勤め
の男が在宅しているとは考えにくい。
もし仮に、博人がいるとしても、その場には裕貴もいる。話ぐらいはできる
はずだ。
自分を落ち着かせるように、啓太郎は行動のシミュレーションを頭の中で繰り返しながら、黒井家の門扉
の前で立ち止まる。
大きく息を吐き出して、インターホンを押す。しかし、少し待っても応答はなく、もう一度押
してから、なんとなく視線を巡らせる。ちょうど目に入った一階の大きな窓のカーテンが、微かに揺れていた。
誰
が来たのか、確かめたのだろうか――。ふとそんなことを考えた瞬間、玄関のドアがゆっくりと開いた。
姿を見せ
たのは、ジーンズに大きめのセーターを着た裕貴だ。
「……本当に、啓太郎……?」
頼りない声でまず問いか
けられ、最初に気遣う言葉をかけるつもりだった啓太郎は、一気に全身の力が抜ける。同時に、笑みをこぼしていた。
「見たらわかるだろ」
「うん……。その、日々の労働に疲れまくった様子と、漂う澱んだオーラは、確かに啓太
郎だ」
「日ごろの俺は、どれだけひどいんだよ」
考えていた以上に、普通の会話が交わせた。だが、いつもの
通りの二人を装えたのは、ここまでだった。
大きくドアを開けて、裕貴が出てくる。その顔は今にも泣き出しそう
で、そんな裕貴の顔を見た啓太郎もまた胸が詰まり、ぐっと奥歯を噛み締めて、涙を堪える。
サンダルを履いた裕
貴が側までやってきて、門扉を開けてくれる。腕を取られて引っ張られると、言葉もないまま、家の中に招き入れられた。
「啓太郎っ」
靴を脱いだところで、裕貴にしがみつかれる。啓太郎もほっそりした体を両腕でしっかりと抱き
締める。半月もの間、夢に見るほど求め続けていた感触だ。
抱き合えば、必然的にもっと裕貴を味わいたくなる。
啓太郎の様子から感じるものがあったのか、腕の中で裕貴がモゾリと身じろいでから、誘うように濡れた目とは対照的に、
恥じらいを含んだ表情で見つめられた。
「裕貴……」
裕貴の髪を撫でてから、啓太郎は顔を寄せる。ゆっくり
と裕貴の目が閉じられたのを合図に、唇を重ねた。
柔らかな唇を思う存分貪ってから、熱く潤った口腔を舌でまさ
ぐる。最初は控えめにキスを受け入れていた裕貴も、啓太郎の積極さに煽られたように余裕なく舌を絡めてきて、二人は
互いの舌を吸い合っていた。
こんなキスを裕貴は、博人とも交わしているのだと思うと、嫌悪感や抵抗感よりも、
狂おしい嫉妬と情欲を覚える。できることなら、このまま裕貴を押し倒し、苦痛も快感もすべて与えてしまいたかった。
激しい感情をぶつけるようなキスのあと、ようやく唇を離す。裕貴は息を喘がせながら、啓太郎の頬に自分の頬
をすり寄せてきた。暴走しかけていた欲情が、胸を突き破りそうな愛しさによって堰き止められる。
啓太郎は吐息
を洩らすと、もう一度しっかりと裕貴を抱き締めた。
わかってはいたが、実家で暮らしている間、博人は裕貴を虐
げてはいないようだった。腕の中の裕貴の体は、相変わらずほっそりとはしているが、極端に痩せてはいないし、どこか
を痛めつけられた様子もない。何より、顔色がいい。
「――……もう、啓太郎と会えないかと思ってた」
ぽそ
りと裕貴が洩らし、啓太郎は小さな顔を両てのひらで包み込んで覗き込む。
「なかなか会いに来なかったからか?」
「うん……。それとも、〈あの人〉がここの住所を、啓太郎に伝えてくれなかったのかなって」
そう言って裕
貴はひっそりと苦笑を洩らす。
「さんざんイジワルしてきたし、兄さんを――取り返したし」
啓太郎は裕貴を
抱き締めたまま、辺りを見回す。よく手入れされた、きれいな家だった。整然としているというには、こまごまとした置
き物が下駄箱の上に並べられ、中には子供のおもちゃのようなものまでさりげなく紛れ込んでいる。
玄関の天井
は高く、高い位置にある窓から陽射しが惜しみなく差し込んできて明るい。兄弟の関係はどうあれ、温かな家庭であるこ
とを感じさせるには十分だ。
「うちの中、見る? 兄さんは仕事でいないから、夕方までゆっくりできるよ」
なんだか間男になったようだと、複雑な心境になりながら啓太郎は首を横に振る。
「座って話せる場所に案内して
くれたらいい」
頷いた裕貴に手を引かれ、リビングに移動する。ほとんど裕貴のための部屋になっているのか、大
きな液晶テレビにはゲーム機が繋がれ、テーブルの上にはノートパソコンが置かれていた。ソファにはクッションと毛布
がある。
手早くテーブルの上とソファを片付けた裕貴に促され、啓太郎はソファに腰掛ける。裕貴の姿は一旦リビ
ングから消え、戻ってきたときには、客用らしいカップをトレーにのせていた。
裕貴が隣に腰掛けたのを機に、口
を開く。
「――昨夜、お前の義姉さんが来たんだ。それで俺は、ここを知ることができた」
「やめてよ。義姉
さんなんて。おれにとってはあの女は、いつまで経っても家族にはなれない他人だ」
裕貴がこんなに冷たい口調で
話すのを、初めて聞いた。目を丸くする啓太郎に、裕貴は取り繕ったように笑いかけてくる。
「結局、そんなあの人
に頼らないと、啓太郎とこうして会えなかったんだけど……」
ふと啓太郎の視線は、リビングに置かれた電話の子
機に留まる。裕貴はこうして家に一人でいて、軟禁されているわけではない。さきほど、啓太郎を家に招き入れてくれた
ように、自由に外に出ようと思えば出られるし、お
そらく電話も使えるはずだ。
まばたきすらしない啓太郎の異変に気づいたのか、裕貴も子機に視線を向ける。小さ
く声を洩らした。
「電話は、使えるよ。外にだって自由にいける。お金も渡されているしね」
啓太郎は思わず
裕貴の肩に手をかけていた。
「だったらどうして……せめて、連絡をくれなかった? 俺はずっと心配してたんだぞ
っ」
裕貴はひどく大人びた微笑を浮かべ、肩にかけた手を握ってくる。
「……啓太郎に判断を任せたかった。
おれのこと、もう見捨てたかもしれないと思ったら、自分から連絡を取るなんて、怖くてできなかった……。啓太郎が会
いにきてくれるか、待つしかなかったんだ」
「そんなことっ……、会いにくるに決まってるだろ。俺はこの半月の間、
ずっと落ち込んでいた。お前に会いたくても、実家の住所なん
てわからないしな。博人さんは、何があっても教えてくれないだろうし」
「兄さんは、ぼくのためなら、誰に対し
ても容赦ないから」
そう言った裕貴の口調には、微妙な響きがあった。嫌がっているわけではない。むしろ、どこ
か自慢げな――。
この瞬間、啓太郎の心に影が差す。感じたのは、不安だった。
「自由に家を出入りできたん
なら、俺に助けを求める必要はなかったということだな」
「うん……。兄さんは、絶対にぼくに乱暴なことはしない。
実家に戻って兄さんと一緒にまた暮らし始めたけど、嫌なことをされるから助けてほしいと思ったことはないよ」
裕貴の中で変化が起こっていると、啓太郎は直感した。今の裕貴は、一人で引きこもり、息を潜めるように暮らしてい
た青年ではなく、それ以前の――兄からたっぷりの愛情を注がれていた頃の、無邪気な弟に戻っている。だから今の生活
に、不満を持っていないのだ。これが裕貴にとっての、かつての日常だからだ。
啓太郎は、裕貴の手を握り返すと、
てのひらに唇を押し当てる。くすぐったそうに首をすくめた裕貴が、甘えるように顔を寄せてきて、軽く唇同士を触れ合
わせた。だがそんなことでは、啓太郎が抱えた不安は消えない。
それどころか、不安を煽る裕貴の話は、ここから
が本格的な始まりだった。
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