[25]
機能の決定だけで、こうも手間取るとは――。
ぐったりとデスクに突っ伏したた啓太郎は、大きなため息をつく。
「あのシステムコンサルタント、余計な提案ばかりしやがって……」
小声で毒づいてから、勢いをつけて体を起こすと、煮出したような濃すぎるコーヒーに口をつける。わずかな仮眠しかとっていないため、まだ寝ぼけている頭と胃を乱暴に叩き起こすには、ちょうどいいまずさだ。
思いきり顔をしかめる啓太郎の前を通りかかった同僚が、何事かと腰を屈めて顔を覗き込んできた。
「まだ午前中だっていうのに、やけに疲れた顔してるな、羽岡」
「……あのシステムコンサルタントのアドバイスに従って、ハードの管理構成システムを見直すことになったんだが、社内ネットワークに繋がっているマシンのことで、いろいろあってな」
「ほお」
「結局、泊まりだ。明け方まで仕事してた」
苦々しく告げると、ぶほっと噴き出された。本格的な機能設計にも入らないうちに、ほいほいと泊まり込みで仕事をした『お人好し』の啓太郎がおもしろいのだろう。自分でも思うのだ。いまさらなぜ、社内インフラのことで、こんなに振り回されなければならないのかと。
「まあ、一応片付いたから、今日は昼で帰る。さっき課長に報告したら、さっさと帰れと言われたしな。結局俺は、何時間残業したことになるんだ……」
「いいじゃねーの。その代わり、昼間から恋人とイチャイチャできるんだから」
何げなく言われた言葉に、数秒の間を置いてから啓太郎は、眠くて空ろだった目を剥く。
「なっ――、何、言ってる……」
「それだけわかりやすく動揺しておいて、とぼけるなよ。うちの課の人間は大半は気づいてるぞ。羽岡啓太郎は只今、色ボケ期に突入中だって」
「……もっとロマンティックな言い方はないのか。俺はサカリのついた猫かよ」
怒った口調を装いながらも内心では、そんなに浮かれて見えていたのだろうかと、啓太郎はいままでの自分の言動を思い返していた。
自覚がなかっただけに、他人に指摘されると、非常に恥ずかしい。
裕貴と知り合ってから、忙しいだけだった生活は充実しているし、楽しい。何より――。
啓太郎は、スラックスのポケットに入れてあるキーケースをまさぐる。ここには、裕貴から渡された、裕貴の部屋の合鍵が収まっている。部屋は隣同士なのだから、わざわざ持ち歩く必要もないのだが、常に持ち歩きたかった。
きっとこの状態のことを、浮かれているというのだろう。啓太郎はそっと笑みを洩らしたが、目敏い同僚に気づかれ、またからかわれる。
昼まで雑務をこなしつつ時間を過ごし、昼休みを目前にして、そわそわしながら帰り支度を整え立ち上がる。
エレベーターホールに向かいながら、携帯電話を取り出してメールを確認する。今日はまだ、誰からもメールは届いていなかった。
一番最近のメールは、昨日の昼間、裕貴から届いたものだ。
実家のリフォーム工事の引き渡しが無事に終了したことを知らせる、『終わったよ』という短い文面のメールだったが、そのメールを読んで、啓太郎は安心して仕事に集中できた。
実家に戻り、リフォーム完了の確認書類にサインをする程度のことを、裕貴ができないとは元から思っていない。博人も出張でいないのだから、何も心配することはない。
頭ではわかっていても、裕貴が自分の目の届かない場所に行くというのは、心配だった。啓太郎が過保護になっているということもあるが、裕貴の存在感は、ひどく危うさを感じさせる。
だからこそ、裕貴から届いたメールの威力は大きかった。
裕貴の実家のリフォームが終わったのであれば、二人の生活もある程度の落ち着きは取り戻せるだろう。裕貴が啓太郎の隣人である限り、互いに面倒を見て、見られてという、生活感漂う甘い日常に戻れるのは容易い。きっと。
いくら裕貴の兄とはいえ――兄弟で特殊な関係を持っていたとはいえ、もう、博人を自分たちの生活に立ち入らせるつもりはなかった。
啓太郎はエレベーター内で、『今から帰る』と素早くメールを打って送信する。
――マンションに戻るまで、返信はなかった。
大した用件ではないので、普段であれば返信がないところで気にもかけない。しかし、今日は違う。
駐車場に車を停めた啓太郎は、アタッシェケースを手に慌てて車を降りる。
会社を飛び出したときにはなかった不安な気持ちが、急速に胸に広がっていた。この感覚には覚えがあった。正月の三が日、裕貴が博人とともに家族旅行に出かける姿を見送ったときに感じたものと同じだ。
ひどく、嫌な予感がする――。
啓太郎はエレベーターを待ちながら、握り締めた携帯電話に視線を落とす。昨日裕貴からは、引き渡しが終わったことを報告するメールが届きはしたものの、マンションに戻ったというメールはなかった。
油断していたのだと思う。引き渡しさえ無事に終われば、それで大丈夫だと啓太郎は思い込んでいた。おそらく、裕貴も。
裕貴が当然のように部屋に戻ったものだと安心して、いままでメールをしなかった自分の迂闊さが恨めしい。
エレベーターの中で走り出したい衝動を押し殺し、扉が開くと同時に駆け出す。
啓太郎は急いで裕貴の部屋の前まで行き、通路に面したダイニング側の窓から、中の様子をうかがう。いつものようにカーテンは引かれているが、その隙間からうかがう限り、中の電気がついている様子はない。
気がつけば、心臓の鼓動が速くなり、胸が痛い。強張った息を吐いた啓太郎は、キーケースを取り出す。
やはり、合鍵を使って自分でドアを開けるより、インターホンを押して、裕貴にドアを開けてもらうほうがいいと、痛切に思った。面倒くさいと言って、裕貴は顔をしかめるかもしれないが、出迎えてもらえる喜びを、このときの啓太郎はむしょうに味わいたかった。
何事もなければ、それでいい。心配性だと言って、裕貴に笑われてもよかった。
だから――部屋にいてくれと願う。
玄関に足を踏み入れた啓太郎は、数瞬の間、いや、数秒なのか数分なのかよくわからないが、確かに意識が飛んでいた。
目の前の光景が、あまりに衝撃的だったからだ。
「……なん、だ、これは――」
事態は、啓太郎が考えている以上に最悪のものだった。
昨日の朝まで、確かにここに裕貴は住んでいた。啓太郎は出社する前に立ち寄り、裕貴の作った朝メシを食べたのだ。
一人暮らしのくせに、やたら食器がたくさんあって、料理が上手いだけあって、啓太郎が見たこともない調味料や香辛料がキッチンの隅に並べてあり、ダイニングにさりげなく置かれたボックスの中には、通販でまとめ買いしたというお菓子がたくさん入っていた。
ダイニングだけではない。啓太郎はふらふらと隣の部屋へと行く。
この部屋は、裕貴が充実した引きこもり生活を送るための道具が揃っていた。パソコンとモニターが並び、ゲームハード機も常に繋がれていたのだ。
そしてもう一つの部屋は、物置きのようになっていたスペースを片付け、ホットカーペットを敷いており、そこに二人してゴロゴロと転がり、寛いでいた。
裕貴がいたこの空間は、優しい生活感に満ちて、心地よかったのだ。昨日までは。
啓太郎は、ゆっくりと息を吸い込む。何もなくなった部屋の空気は、ゾッとするほど冷たかった――。
そう、何もない。
改めてゆっくりと部屋を見回す。裕貴の部屋は、空っぽだった。人が住んでいたという気配が完全になくなっている。
持っていたアタッシェケースを足元に落とすと、啓太郎は力なくその場に座り込んだ。
体中の血の気が失せ、指先から冷たくなっていく。目の前の光景に何も考えられなくなりそうだったが、懸命に思考を働かせ、現状を把握することに努める。
確かなのは、この部屋に裕貴の姿はなく、それどころか家財道具のすべても運び出されているということ。引っ越した、と何も知らない人間なら表現するだろう。だが、裕貴が突然、自らの意思で引っ越す理由がなかった。
『啓太郎の帰りを待っててあげる』。そう裕貴は言っていたのだ。
低く毒づいた啓太郎は、床を殴りつける。状況を甘く見ていた自分自身に、どうしようもなく腹が立った。同じぐらい、こんなことを考えつき、行動に出た人物に対しても。
博人が、裕貴を連れ去ったのは間違いない。
もう一度床を殴りつけたところで、啓太郎はハッと我に返り、携帯電話を取り出す。もどかしい思いで裕貴の携帯電話に連絡しようとしたが、電源は切られていた。
だったら、裕貴の実家に行くしかない。そう考えて立ち上がりかけた啓太郎は、次の瞬間には再び床の上に座り込む。
「……俺は、バカだ……」
啓太郎は、裕貴の実家の住所も、電話番号も知らなかった。知る必要がないと、今この瞬間まで思っていたためだ。
リフォームの相談のため、裕貴とともに住宅会社のショウルームに出かけたとき、啓太郎は裕貴の実家の住所を知る機会があった。博人が持っていた書類をちらりとでも見ればよかったし、それ以前に、裕貴にいつでも尋ねることができたのだ。
そうしなかったのは、啓太郎にとって裕貴は、この部屋にいて当然の存在だったからだ。どこに出かけようが、必ず戻ってくる。そう思っていた。
博人との関係を知ってからはなおさらだ。
裕貴と博人の実家は、兄弟の秘められた関係で満たされた禁断の場所だ。その場所を知ることは、裕貴の恋人である啓太郎には憚られた。
つまらない意地など張るべきではなかったと後悔するが、もう遅い。啓太郎は、裕貴の居場所を探る手がかりを失ってしまった。あまりにあっさりと。
強烈な喪失感に押し潰されそうになりながら、しばらく啓太郎は床の上から動けなかった。体を動かす気力も湧かず、必死に考えようとはしているのだが、思考が空しく空回りしている。
蘇るのは、この部屋で笑い、生意気なことを言いながらも、次の瞬間には甘えてくる裕貴の姿だった。
ふいに胸が詰まり、涙が込み上げてきそうになる。寸前で唇を噛んで堪えたのは、意地だ。涙を流せば、博人に負けたことを認めてしまう。
考えろ、と啓太郎は自分に言い聞かせる。なんでもいい。裕貴と再び会うための方法を考えなくてはならない。
このとき啓太郎の目に、床の上に放り出した携帯電話が映る。
のろのろと手を伸ばして取り上げると、半ば無意識で操作する。裕貴の携帯電話には繋がらないことはわかっているが、何かにすがりつくように着信履歴を確認したあと、発信履歴も漫然と眺める。
一分後、啓太郎は携帯電話を手に急いで立ち上がると、裕貴の部屋を飛び出していた。
エレベーターから降りた博人は、悠然とした様子でスラックスのポケットに片手を突っ込んではいたが、啓太郎を見る目は、わずかな驚きを含んでいた。
ロビーに置かれたイスに腰掛けて待っていた啓太郎は、ゆっくりと立ち上がる。
「――まさか、ここに来るとは思わなかったですよ」
目の前に立った博人の、開口一番の言葉はそれだった。
『ここ』とは、博人が勤めている銀行のビルだ。裕貴の部屋を飛び出した啓太郎は、その足でこの場所を訪れ、受付で博人を呼び出してもらったのだ。
本来なら今日も出張でいないはずの男が、こうして会社にいるということは、示す事実は一つだった。
博人はある目的のために、裕貴にウソをついていた――。
その可能性に気づいた啓太郎に、まず電話をかけて博人の様子をうかがうなどという余裕はなかった。少しでも時間を置けば、それだけ裕貴が手の届かない場所に行ってしまうような危惧を覚えたからだ。
本当は顔も見たくない男と、目的のためとはいえ、押しかける形で会わなくてはならないことは、啓太郎にとって苦痛だった。むしろ、屈辱的とすらいえる。
「……裕貴の部屋は、どうしたんですか」
「引き払う手続きは済ませました。一応、来月いっぱいで。しかし荷物は、昨日のうちに運び出させました」
現実を、博人の口から語られる衝撃は大きかった。足元から力が抜けてへたり込みそうになったが、意地だけで自分を支える。ただ、咄嗟に言葉が出てこず、唇を引き結んで博人にきつい眼差しを向ける。
「まあ、座ったらどうです。本来なら外で話したいところですが、仕事を抜け出してきたので、ゆっくりする時間はないんです」
「かまいません。俺も、聞きたいことを聞いたら、すぐにお暇します」
博人は唇の端をわずかに上げるだけの笑みを浮かべた。勝者の笑みだと、啓太郎は思った。啓太郎に対して優越感を持っていることを、博人は隠そうとはしていない。
イスに座り直した啓太郎は拳を握り締め、てのひらに深く爪を立てる。腹立たしく、悔しくてたまらないが、裕貴のことは博人に尋ねるしかなかった。
そんな啓太郎に追い討ちをかけるように、隣のイスに腰掛けた博人がさりげなく言った。
「――裕貴はもう、あの部屋には戻りません。いや、戻すつもりはありません」
「それは、裕貴の意思ですか?」
「君にのぼせている状態の裕貴に何を言っても、無駄でしょう。あの子は、友情だろうが愛情だろうが、誰かに夢中になると、それ以外の人間すべてがどうでもよくなるんです。あとになって、一人になって寂しがるのは自分だというのに」
「だから、裕貴に特別な相手ができるたびに、手を回して遠ざけてきたんですか?」
横目で睨みつけると、足を組みながら博人は軽く肩をすくめた。
「特別な相手、か……」
「君は違う、とでも言いたいですか?」
「いや、確かに君は、裕貴にとって特別な相手です。君がいたから、裕貴は変わった。そのおかげでわたしは、また裕貴を取り戻すことができたんです」
感謝している、と一切の感情もこもらない声で言われ、啓太郎の視界は怒りのあまり真っ赤に染まる。
博人の言葉は凶器だ。容赦なく、啓太郎の気持ちを言葉で傷つけてくる。どれだけ痛めつけられようが、啓太郎がこの場を立ち去れないことをよく心得ているのだ。
「……最初から、裕貴を連れ戻すつもりだったんですね。実家のリフォームというのは、裕貴を誘い出すためのエサですか?」
啓太郎は自分の靴の先を見据えながら、呻くように言葉を洩らす。
「父親がリフォームのことを言い出したのは本当です。ただ、確かに、裕貴を誘い出すにはいい口実でした。家族で旅行に行ったとき、裕貴の部屋の合鍵を作っておいたんです。それさえあれば、あとは簡単です。必要なところに手配を済ませておいて、昨日、荷物を運び出した。実家でわたしと顔を合わせたとき、裕貴はすべてを察した様子でしたよ」
「自分が騙されたと、理解したんですね」
「ことを上手く運ぶために必要なことです。事前に話したら、裕貴はあの部屋から出てこなかったでしょう。大事なのは、裕貴が外に出るということと、君があの場にいないということだった」
その二つの条件が揃ったからこそ、博人は裕貴を手元に連れ戻すことに成功した。
啓太郎は膝の上に置いた拳をゆるゆると開く。てのひらには、くっきりと深い爪痕が残っていた。
「――……裕貴は、実家にいるんですか?」
「その口ぶりだと、わたしたちの実家には行ってないみたいですね」
博人の口調に揶揄するような響きが加わる。バカにされたと思った啓太郎は鋭い視線を向けたが、博人は口元の皮肉っぽい笑みを隠そうともしない。
「裕貴が言っていたんですよ。……君は、わたしたちの実家の場所は知らないはずだ、と。ウソをついているのかと思って、裕貴を念のため、わたしの自宅に置いていたんですが、本当だったんですね」
「……裕貴を、あなたの奥さんと一緒にいさせているんですか?」
「仕方がありません。状況が状況で、用心のためでしたから。しかし――そうですか。君は、何も知らないんですね」
自覚があるだけに、確信を突く博人の言葉にカッとした。
「知る必要を感じなかったからですっ。裕貴は俺の隣にいて、実家の場所なんて関係なかった。もちろん、あなたのことも」
「そして今は、自分の認識を後悔している。知る機会があったのに、知ろうとしなかったんですから」
冷ややかな声で博人に言われ、反論できなかった。事実、その通りだからだ。自分の認識の甘さの結果が、裕貴は博人に連れ戻され、その博人の元に、屈辱感を噛み締めながらもこうして出向くこととなった。
「……後悔はしています。そして、納得もしていません。俺はもう一度、裕貴と会いたいんです。互いに納得して距離を置くならともかく、裕貴を騙すような形で俺と引き離すなんて、横暴すぎる」
「裕貴は納得しているとしたら?」
声同様、凍えるような眼差しを博人から向けられたが、啓太郎は怯まなかった、決然とした口調で応じる。
「だとしたら、なおさら俺は、裕貴に会わないといけません。俺は裕貴から、あの部屋の合鍵をもらったんです。あなたのように、裕貴の目を盗んで作ったものじゃない。外に出たがらない裕貴が、自分の意思で出かけて、作ってきてくれたものです。その想いを、俺は絶対に裏切らないと決めているんです」
このとき博人から憎々しげな眼差しを向けられたが、それもわずかな間だった。一瞬波立った感情を、すぐに抑え込んでしまったのだろう。そうできるだけの余裕が、博人にはあるのだ。
当然だ。切り札は博人の手の中にあり、啓太郎はただ足掻いているに過ぎない。その現実を、次の博人の言葉で思い知らされた。
「――君は交渉というものを覚えたほうがいい。頼る人間はわたししかいないのに、そのわたしを不愉快にさせてどうするんです。君は今、裕貴に繋がる一本の糸を、自分で切ったんですよ。わたしへの対抗心で」
啓太郎がゆっくりと目を見開く間に、博人はイスから立ち上がる。肩越しに振り返った博人は薄い笑みを浮かべていた。
「君とこうして会うのは最後です。また会いに来ても、取り次がないよう言っておきますから。それと、待ち伏せなんてしたら、遠慮なく警察に連絡します」
愉悦の光を湛えた博人の目を見て、啓太郎は確信していた。おそらく博人は、動揺している啓太郎の姿が見たいがためだけに、仕事を抜けて一階に降りてきたのだ。そして今の啓太郎の姿は、博人を満足させるものだったはずだ。
屈辱と怒りで体が震える。しかし、そんな感情を凌駕して、とにかく裕貴に会いたかった。こんなことで、裕貴との関係を終わるわけにはいかないのだ。これではまるで、お気に入りのおもちゃを取り上げられた、無力な子供だ。
立ち去ろうとする博人のあとを追いかけるように、啓太郎も勢いよく立ち上がる。
「お願いしますっ。裕貴に会わせてくださ――」
「先日言ったはずです。君は、裕貴にとって、『悪い虫』なんですよ。そんな君を、裕貴の兄であるわたしが会わせると思いますか?」
それが、博人の返事だった。振り返ることなく、低い声で告げた博人は、足早に行ってしまい、その姿はエレベーターの扉の向こうに消えた。
目の前に、漆黒の幕を下ろされたようだった。それがなんであるか、啓太郎にはわかっている。――絶望だ。
立っていることもできず、啓太郎は身を投げ出すようにしてイスに座る。
裕貴の部屋を飛び出してここに来て、そのうえ博人と話したことで、すべての気力を使い果たしてしまった。
啓太郎は、しばらくその場から動くことができなかった。
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