Sweet x Sweet

[24]

「結局、あなたの望みはなんですか? 裕貴に何を望んでいるんですか」
 博人に対する猛烈な反発をなんとか抑え込み、啓太郎は努めて感情を排した低い声で問いかける。意識していないと、すぐに声が大きくなってしまうのだ。下手をしたら、席についたばかりの隣のカップルに会話が聞こえてしまう。
 たとえ、テーブルについた互いの姿が見えなくても、こんな会話を他人に知られるわけにはいかなかった。この場にいない裕貴の尊厳のために。
 ここで、啓太郎は自分の気持ちにはっきりと気づく。
 裕貴が、実の兄と体を重ねていたことを責めるつもりはない。だが、博人のことは嫌悪していた。偽らざる、啓太郎の気持ちだ。
「望み……」
 そう呟いた博人はテーブルの上で両手を組むと、思案するように視線を遠くに向ける。このとき博人が浮かべた表情は優しかったが、裕貴に思ってであろうその優しい表情が、どんな感情からくるものなのか、啓太郎にはわからない。
 弟に対する愛情からか、もっと別の『何か』に対する愛情からか――。
「わたしが裕貴に望むものは、簡単ですよ。わたしの側にいてほしい。大学に戻りたいというなら、そうすればいいし、しばらく家から出たくないというなら、それもいい。ただとにかく、わたしの側にいてさえくれれば」
「今の状態がいいと言えば?」
「悪い虫抜きなら、考えてもいいでしょう」
 にこやかな表情で、強烈な皮肉を放たれた。啓太郎はイスに座ったまま仰け反りかけたが、両足にぐっと力を入れ、膝の上で拳を握り締める。ムキになれば、博人の思う壺だ。
 奥歯を噛み締めてから、啓太郎は唇の端だけで笑ってみせた。
「ご自分が、その悪い虫だとは考えないんですか」
「わたしが?」
 博人が本気で驚いたように軽く目を見開く。その反応に、博人の怖さを感じた。
 自分の存在は裕貴に悪い影響を与えないと、絶対の自信があるのだ。そこに、世間の価値観や道徳観念が入り込む余地はない。すべては、博人によって判断される。
 啓太郎は、料理と一緒に運ばれてきたお茶で口を湿らせる。食欲はないが、やけに喉は渇いていた。ぬるいお茶なら、いくらでも飲めそうだ。
「わたしが悪い虫だとして、わたし以外、誰が裕貴を守ってやれるんです。子供の頃から、あの子を大事に慈しんできたのはわたしです。実の親ですら、できなかったことだ」
「だから、好き勝手に扱ってもいいんですか。あなたの大事な弟を」
 ここまでの会話で、博人を不快させる言葉はだいたい見当がついた。現に今、啓太郎の言葉を聞いた博人が、刃のような鋭い眼差しを向けてくる。
「君はさっきから、挑発的ですね」
「少なくとも、友好的ではいられません」
「それは、こちらが言いたい。君はわたしにとって侵略者であり、略奪者だ」
「あなたにとってそうだとしても、俺は、今の裕貴を守ってやれる。いや……、守るつもりです」
 皿の上に置いた箸を、博人は指先で軽く弾く。男にしてはすらりと長くて、形がいい指だった。
 その博人の指が、裕貴の指に似ていると気づいた途端、啓太郎の胸は痛んだ。顔立ちや体つきが似ていなくても、ほんの些細な部分で、裕貴と博人の共通した部分を見つけられる。探せば、もっといくらでもあるだろう。
 なのに目の前の男は、そんな共通した部分を持った――血を分けた弟を抱いていたのだ。そしてまだ、関係を続けようとしている。
「……君に何ができるんですか。一時、裕貴にのぼせているだけの『他人』の君に。裕貴は難しい人間ですよ。理解できるのは、わたしだけだ」
 啓太郎は強い視線を博人に向ける。ほとんど睨みつけているといってもいいだろう。そんな啓太郎の視線を真正面から受け止めて、なおかつ博人は余裕たっぷりの表情を浮かべた。
「君はそんな目でわたしを見るが、ずっと裕貴の側にいると約束できるんですか? あの子が強く求める愛情を、ずっと注いでやれるんですか?」
 他人同士で、男同士で、と言葉を続けられると、さすがの啓太郎も咄嗟に反論できなかった。『ずっと』という単語の重さが、わかっているからだ。
 啓太郎の反応に、自信を深めたように博人は笑う。
「わたしは、できる。裕貴が生まれた瞬間から、無意識のうちにその覚悟はできていました。今もそれは変わらない」
 博人の自信は、傲慢さに通じている。その傲慢さをめちゃくちゃに踏み荒らしたい衝動を啓太郎は抑えられなかった。そうされて当然のことを、博人はしたのだ。
 甘え上手でわがままなくせに、一方で壊れ物のように繊細でもある裕貴を、苦しめた。その自覚が博人にあろうがなかろうが関係ない。
 博人にとって裕貴がかけがえのない存在だというなら、それは啓太郎にとっても同じなのだ。傷つける人間は、誰であろうが許すわけにはいかない。
 スッと表情を消した啓太郎は、淡々とした口調で告げた。
「――少なくとも今の俺は、裕貴だけの側にいてやれます」
「それはわたしも同じですよ」
「裕貴が、どうしてあなたと距離を取り続けていたのか、その理由を知っていますか?」
 啓太郎が向けた言葉の刃は、確実に博人の心を抉ったらしい。一瞬、痛みを感じたように整った顔を歪めた。
「……結婚の意味は、裕貴に何度も話しました。会社や近所、親戚といった人間から奇異の視線を向けられないために、最大の効力を発揮するのは結婚です」
「偽装結婚ですか?」
「千沙子はわたしにとって、大事な女性ですよ」
 意味がわからず啓太郎が首を傾げると、博人はわずかに苛立ったようにテーブルを指先で叩く。
「裕貴は、家を出た母親に関して周囲からあれこれ吹き込まれたせいか、女性嫌いの傾向が強い。そんな裕貴に慣れさせるために、わたしが大学時代から、裕貴に千沙子を引き合わせてきたし、家庭教師もしてもらった。多分裕貴が、母親以外では一番接してきた女性でしょうね、千沙子は」
 いまさらながら、博人の裕貴に対する執着の強さを痛感する。博人はずっと、自然な形で裕貴を手元に置ける環境について考え、しかも実行したのだ。
 予想外だったのは、博人の結婚についての裕貴自身の反応だったのだろう。
「結婚相手として、千沙子は理想的です。だからわたしも大事にしている。わたしたちの家庭を守るために必要な人間なんです」
「裕貴も含めた家庭?」
「正確には――」
 博人は冷ややかな微笑を浮かべ言い切った。
「裕貴を守るための家庭、ですよ。わたしにとっては、何より裕貴が最優先なんです。昔も今も、これからも」
 裕貴は、自分の兄の冷徹なまでの考えを知っているのだろうかと、ふと啓太郎は思う。
 裕貴の口から語られる博人は、過剰で異常なほどの愛情を弟に降り注ぐ兄、というもので、これについては異論はない。ただ啓太郎はそこに、裕貴以外の人間に対する薄情さを付け加えたかった。
「……裕貴は、他人のものとなったあなたとは一緒にいられないそうです。あなたの言い分と矛盾しませんか?」
「わたしは他人のものじゃありません。裕貴のもののままです。そして裕貴は――」
 博人の傲慢さは、堅固だった。多少のことでは傷一つつけられない。そのことを悟った瞬間、啓太郎は同時に、これ以上の話し合いの無意味さも知る。それがわかっただけでも、こうして話した甲斐はあったといえるのかもしれない。
 裕貴は、結婚のことについて博人と話し合ったとき、どんな心境になったのだろうかと、徒労感を味わいながら考える。
 ふいに啓太郎は、生意気なくせに憎めない、正直にいえば愛しくてたまらない、そんな裕貴の顔が見たくなった。そうすれば、胸に抱えたどうしようもない重苦しさが、少しはマシになりそうな気がする。
 博人が腕時計に視線を落とし、それがきっかけとなって啓太郎もやっと肩から力が抜ける。昼休みの終わりも近く、そろそろ会社に戻らなければいけない時間だ。
 ネクタイを締め直してから財布を取り出そうとしたが、すかさず博人に言われた。
「けっこうですよ。わたしが出します」
「しかし――」
「裕貴がお世話になっているんだから、これぐらいさせてください」
 ムッとした啓太郎は、素早く伝票を掴み寄せる。
「俺が、裕貴に世話になっているんで、ここは俺が払います」
 あとになって大人げなかったと反省したが、博人の何もかも見透かしたような薄い笑みを目にすると、どれぐらいの人間が冷静でいられただろうかとも思う。
 とにかく、神経を逆撫でされる嫌な表情だった。
「これで失礼します」
 席を立った啓太郎は、足早にレジに向かう。一秒でも早く、博人の放つ毒気から逃げたかった。


 夕方、会社の出た啓太郎の足取りは重かった。徹夜したとき以上に、とにかく疲れ果てていたのだ。
 原因はもちろん、博人だ。
 昼食から戻ったあとも、交わした会話が絶えず頭の中を駆け巡り、とてもではないが仕事が手につかなかった。
 今日の話し合いでは、決して博人に負けなかったという自負が啓太郎にはある。一方で、博人に言い知れぬ怖さを感じたのは事実だ。
 執着の化け物と対峙した、という表現はひどすぎだろうか。少なくとも、対峙した相手は裕貴の兄だ。
 啓太郎は前髪をくしゃくしゃと掻き乱すと、車に乗り込む。
 まっすぐ帰宅して、とにかく何より先に裕貴の顔を見るつもりだったが、わずかなためらいを覚えていた。裕貴の笑顔を正面から受け止められる自信がなかった。
 裕貴が悪いのではなく、博人と会ったことで啓太郎自身の気持ちが揺れているのだ。
「……情けねーな、俺」
 博人に対して言った言葉にウソはない。裕貴を守ってやりたいし、大事にしたい。何より、狂おしいほど愛しい。
 だが裕貴の気持ちは、と考えたところで、啓太郎の思考は停止する。
 いつまでもハンドルを抱えているわけにもいかず、ため息をついて車を出した。
 まっすぐ帰宅するつもりだったが、つい、裕貴が気に入っているケーキ屋に立ち寄り、ケーキやプリンを買い込む。いつもは裕貴の無邪気に喜ぶ顔を見たいがために買っているが、今日に限っては、罪悪感を誤魔化すためだった。
 マンションに帰った啓太郎は、アタッシェケースとケーキ屋の箱を手に、裕貴の部屋の前で少しの間立ち尽くす。
 インターホンを押す踏ん切りがついたのは、外にまでいい匂いが漂っていたからだ。おかげで自分が空腹なのを認識できた。
 インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開けられる。裕貴と目が合い、次の瞬間には意識するまでもなく自然な笑みがこぼれる。それは裕貴も同じだ。
「ケーキだっ」
 啓太郎の胸の奥に広がる感慨深さを一蹴するように、裕貴が声を上げる。
「……お前、帰ってきた俺に対する第一声がそれかよ」
 苦笑交じりに啓太郎が言うと、裕貴はケーキの箱を抱え込みながら、きょとんとした顔をする。
「だって啓太郎、今は会社に泊まり込まなくていいんだろ?」
「いや、そうだけどな……」
「だったら、啓太郎が帰ってくるの当然じゃん」
 素っ気ないように聞こえて、意外に深い言葉だった。少なくとも啓太郎にはそう聞こえた。
「俺が、帰ってくるのは当然、か」
「なんのために、おれがせっせと餌付けしたと思ってるんだよ。だからこうして、土産まで買っておれの部屋に帰ってくるんだろ」
 ニヤッと小悪魔の笑みを向けてきた裕貴に腕を取られ、玄関に引っ張り込まれる。
 上機嫌でダイニングに向かう裕貴の背を見て、啓太郎もようやく柔らかな笑みを浮かべることができた。
 理屈抜きで、裕貴を大事にしたいと思う。とにかく、愛しくてたまらなかった。
 啓太郎もダイニングに行くと、裕貴はケーキの箱を冷蔵庫に入れたところだった。
「もう少し待ってね。今、ハンバーグ焼いてるから」
 フライパンの蓋を開けて覗いた裕貴が、次はオーブンの中も覗き込んでから、食器を出したり、テーブルの上を整えたりと忙しく動き回る。
 アタッシェケースを置いた啓太郎はコートとジャケットを脱ぐと、ネクタイに指をかけたまま、そんな裕貴の姿に見入ってしまう。
 気がついたときには、手を洗っている裕貴の背後に歩み寄り、細い体を両腕できつく抱き締めていた。裕貴は驚くでもなく、肩越しに振り返って笑う。
「何、新婚さんゴッコ?」
「……バーカ」
 啓太郎は短く噴き出してから、裕貴の首筋に顔を埋めた。
「――……お前のことが、すごく好きなんだ」
 身構えるでもなく、大事な告白がすらりと口をついて出る。水を止めた裕貴が、笑いを含んだ柔らかな声で応じた。
「おれも大好きだよ。啓太郎のこと」
「だったら――一緒に暮らすか」
「今だって似たようなものだろ」
 啓太郎としては真剣な気持ちで告げたのだが、あっさり受け流された。冗談だと思われたのかもしれない。
 冗談のつもりはなかったが、急ぎすぎかもしれないと啓太郎は反省する。
「まあ、この状況は、半同棲みたいなものだな。……確かに反論できん」
「おれに反論する気だったなんて、生意気」
 すみません、と口中で謝った啓太郎だが、次の瞬間には声を洩らして笑ってしまう。つられたように裕貴も笑い出し、とうとう二人で爆笑していた。
「なんか今おれたち、初々しい恋人同士みたいだったよね」
「いや、実際そうだろ」
 さんざん笑い合ってから、裕貴をもう一度抱き締めようとしたが、寸前のところで腕の中から逃げられた。
「ハンバーグが焦げるっ」
 ハンバーグを引っ繰り返して確かめている裕貴を目を細めて眺めながら、啓太郎は穏やか
な口調で語りかけた。
「お前が楽しいなら、それでいいんだ。それで俺も、楽しくなる」
「お手軽」
「惚れてるからな、お前に」
 こちらに背を向けている裕貴からの返事はなかったが、心なしか首筋の辺りが赤く染まった気がする。
 裕貴の顔を覗き込みたい衝動を、啓太郎はぐっと堪えた。
 不思議なもので、仕事をしている間はまったく頭から離れなかった博人との会話を、裕貴と一緒にいる間は、一切忘れていられた。




 難しい顔をして腕組みする啓太郎を、裕貴が上目遣いで見つめてくる。
「――心配だ」
 呻くように呟くと、その言葉に込められた啓太郎の複雑な気持ちを察したのか、裕貴は困ったように苦笑する。いつものように軽口で返さないのは、自分たちにとって深刻な問題だとわかっているからだろう。だからこそ啓太郎も、心配だという気持ちを隠さない。
 ため息をついて天井を見上げると、一度コタツから出た裕貴が、這って啓太郎の隣にやってくる。甘えるように身を寄せられ、啓太郎は片腕で肩を抱き寄せた。
「……博人さん、電話で俺のこと、何か言ってなかったか?」
「啓太郎のスケベ、とか……?」
「違うわっ」
 啓太郎が目を剥いてみせると、裕貴は屈託なく笑う。この様子を見る限り、一週間前、啓太郎と博人が会って話したことを知らないようだ。博人としても、裕貴の反発をおそれているのかもしれない。
 このまま博人が、裕貴と距離を置いてくれれば、と願っていたが、ムシがよすぎたらしい。裕貴の実家のリフォーム工事が終わり、明日はその引き渡しに裕貴が立ち合うことになったのだ。
 啓太郎はまっさきに、別の人間に頼めないのかと言ってみたのだが、当の裕貴も困惑した顔で説明してくれた。
 家主である裕貴の父親はいまだ海外に行ったままで、兄である博人は昨日から出張中。その博人の妻は――裕貴が実家に入れるのを拒んでいる。そうなると必然的に、実家に行けるのは裕貴しかいないのだ。
「……妥協できないのか。一応、お前の義姉さんだろ。ちょっと実家に入って見てもらって、業者の書類にサインするぐらい――」
 途中まで言いかけたところで、啓太郎は口を噤む。裕貴が義姉である千沙子を嫌っているのは、博人の口からも聞かされたことだ。気が合わないとか、そういう程度の問題ではない。千沙子が実家に足を踏み入れるのを嫌がるのも、裕貴にとっては当然の反応なのだ。
 裕貴の視線を感じ、啓太郎は柔らかな髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫じゃないと言ったら、啓太郎、ついてきてくれるわけ?」
「できることならついていきたいが、よりによって今日から、新しいシステムの設計に入ってな。また帰りが不規則になると思う。しかも明日は、深夜から打ち合わせだ」
「啓太郎、早く出世しなよ。そうしたらもっとマシな生活送れるんだろ」
 一瞬情けない顔となった啓太郎は、裕貴の頬を両手で包み込む。
「だったらいっそのこと、お前が俺を養ってくれるか?」
「家事ができないダンナはいらない」
「……つめてーな」
「何、二人して引きこもり生活したいわけ?」
 それも楽しいかも、と思った啓太郎だが、ニヤニヤと笑っている裕貴に気づいて首を横に振る。
「やっぱり、がんばって働いてくるわ……」
「そうそう。啓太郎はそれでいいんだよ」
 生意気な裕貴の唇をキスで塞いでやると、すぐに裕貴が目を伏せ、やけに艶めいた表情に誘われるように啓太郎はキスを深くする。
 キスの合間に、囁くように裕貴が言った。
「心配しなくていいよ」
「えっ?」
「兄さんは出張でいないし、実家に長居する気もないし。用を済ませたら、すぐに帰ってくるよ。啓太郎の帰りを待っててあげる」
 裕貴が両腕を背に回してきたので、啓太郎もしっかりと抱き締めてやる。
 いままでと変わらないようでいて、抱き合う二人の間には、ある事実が異物のように存在している。裕貴と博人の関係のことだ。
 知ってしまったことを、いまさら消し去ることはできない。受け入れて、認めるしかない。裕貴とこうして抱き合うということは、つまりはそういうことなのだ。
 裕貴は心のどこかで、啓太郎に対して引け目や遠慮を感じたままだろう。そういったものを取り除いてやりたいが、啓太郎には方法がわからない。
 裕貴が望むなら、なんでもしてやりたいという気持ちがあるだけに、もどかしい。
「――大丈夫だよ」
 ふいに裕貴が、腕の中でぽつりと洩らす。啓太郎は裕貴の髪に唇を押し当ててから、問いかけた。
「何がだ」
「兄さんとは、もう、そういうこと……しない。ちゃんと拒む――拒めるから」
「裕貴……」
「啓太郎に見捨てられたくないから、ね」
 胸を突き破りそうな愛しさを覚え、啓太郎はやや強引に裕貴の顔を上げさせる。裕貴は泣くきそうな目をして笑っていた。
 裕貴は裕貴で、啓太郎が気をつかっていると感じ取っていたのだ。
 啓太郎も笑い返すと、裕貴と額を合わせる。
「……俺はむしろ、お前に見捨てられないか、そっちのほうが心配なんだけどな」
「おれって可愛くて素直だからね。啓太郎の心配もよくわかるよ」
「あー、はいはい」
 胸が詰まったうえに上手い言葉が思い浮かばず、咄嗟に適当な返事で誤魔化す。裕貴に背を殴りつけられた。
 深刻な顔で話すことを避けたい気持ちは、どちらも同じということだ。
 あっ、と声を洩らした裕貴が体を離し、ジーンズのポケットをまさぐり始める。
「どうした?」
「何日か前の話じゃないけど、やっぱり半同棲というからには、こういうものも必要だと思ってさ」
 片手を出すよう言われ、啓太郎は素直に従う。すると裕貴がポケットから、隠すように何かを取り出した。
「これっ……」
 てのひらの上にそっと置かれたものを見た啓太郎は、大きく目を見開く。まだ新しい鍵だった。
「――おれの部屋の合鍵だよ」
 啓太郎は合鍵と、裕貴の顔を交互に見る。軽く頭が混乱して、情けない話だが合鍵の意味が即座に理解できなかった。
 裕貴は照れたように唇を尖らせ、視線を逸らす。
「啓太郎がインターホン鳴らすたびに鍵を開けるの、面倒なんだよ。だから……帰ってきたときは、その合鍵で勝手に入ってこい、という意味」
 ゴクリと喉を鳴らしてから、少し上擦った声で啓太郎は念を押す。
「お前、本当にいいのか?」
「そう言ってるじゃん」
 啓太郎は合鍵を取り上げ、じっくりと眺める。じわじわと胸に感動が広がっていった。
「……わざわざ、これを作るために出かけたのか……?」
「当たり前だろ」
 笑みをこぼした啓太郎は、裕貴の頭を抱き寄せると、ポンポンと軽く叩く。
「初めて口を利いたばかりの頃は、自分の買い物すら、外に出たがらなかったお前がなあ」
「感動して泣いていいよ?」
 上目遣いで見上げてきた裕貴が、子供のように無邪気な表情でそんなことを言う。啓太郎は意地悪く返してやった。
「俺が本当に泣いたら、お前困るだろう」
「見たいなあ、啓太郎の泣き顔。……今度は嬉し泣きのほう」
「――……期待を込めた眼差しを向けても、俺は絶対泣かないからな。こういうのは、一人で感動を噛み締めて、ひっそりと枕を濡らすんだよ」
「じゃあ、一緒に寝る」
 ぐっと言葉に詰まった啓太郎は、最初から分が悪かった勝負を放棄して、裕貴の頭をぐりぐりと撫で回して誤魔化した。









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