元旦は、大晦日の夜更かしを帳消しにして余るぐらい惰眠を貪り、昼頃になってから、照れ笑いをしながら家族の前に姿を現す
――ぐらいでちょうどいい。
ベッドの中で、理想の元旦の過ごし方を夢想していた博人だが、頭の大半が眠っている状態と
はいえ、自分の家庭が理想から少し距離があることは、よくわかっている。
父親は仕事の関係で一年のほとんどを海外で過
ごし、基本的に子供のことは放任。母親は、そんな父親に愛想をつかし、子供を置いたまま出ていった。博人と家族らしい暮らし
をしているのは、現在のところ、八つ歳の離れた中学二年の弟だけだ。
しかし博人は、その弟さえ側にいてくれたら満足だ
った。あるだけの愛情を、弟にだけ注げる環境は満足とさえいえる。
もう一つ贅沢を言うなら、今日はこのまま一日中、ベ
ッドの中で過ごせたら、さらに幸せだ――。
博人がそんなことを考えていると、足元がひんやりとしたあと、もぞもぞと何
かが這い上がってくる。なんだろうかと薄目を開けた博人が見たのは、自分と、もう一人分の布団の盛り上がりだった。
プ
ッと短く噴き出した博人は、布団の中で動く正体を両腕で捕まえる。ズボッと布団から顔を出したのは、弟の裕貴だった。器用な
ことに、博人の足元からベッドに潜り込んできたのだ。
「――父さんが、雑煮が出来たから起きろって」
当然のように
博人の腕枕に頭をのせながら、いつになく機嫌よさそうな顔で裕貴が言う。そんな裕貴の顔を間近で見つめながら、博人は大きく
あくびをした。
「今、何時だ……」
「八時。当然、朝の、八時だよ」
「……昨夜夜更かししたくせに、早起きだな…
…」
博人は目を閉じながら、裕貴の頭を抱え込む。
「お前も正月ぐらい、ゆっくり寝ろ。父さんの雑煮なんて、夕方で
も食えるだろ」
いつもとは立場が逆になっているのがおかしいのか、博人の腕の中で裕貴がクスクスと笑い声を洩らす。
「ダメだよ。朝ごはんを食べたら、初詣に行くって父さんが言ってるから」
クリスマス当日に家に帰ってきた父親はこ
のときとばかりに、可愛い末っ子を片時も離そうとしない。おかげで博人が、裕貴を甘やかせない。
「外に出ると寒いし、神
社は人が多いぞ。せめて今日ぐらい、ゆっくり寝ろ」
「えー、兄さんも行こうよ。父さん、すごく張り切ってるよ」
滅
多に家に帰ってこない父親に対して、素っ気ない言動を取る裕貴だが、なんだかんだと言いながらも、やはり父親と仲がいい。
父親と張り合うつもりはないのだが、博人は裕貴を抱き締め、からかうようにこう言っていた。
「俺も、惰眠を貪るた
めに張り切ってるぞ」
「うー、魅力的な誘いだけど、もう父さんからお年玉もらったから、これぐらいつき合わないと可哀想
だよ」
「……金に釣られたのか、お前」
失敬な、と裕貴から抗議の声が上がる。特に怒った様子もなく、大きな目が、
腕の中から博人を見上げていた。無邪気な顔を見せられると、簡単に腕の中から手放せなくなる。
自分はダメな兄貴だと思
いながら、博人は密やかな声で提案する。
「俺もお年玉をやるから、もう少しつき合え。お前の体温はちょうどいいんだ」
「どうしようかなー」
そう言いながら裕貴が、両腕を博人の背に回し、胸に顔を埋めてくる。そっと笑みをこぼした博
人は、こんな裕貴を父親に独占せておくのも悔しいので、自分も一緒に初詣に出かけようかと考え直す。
すると、ふと何か
に気づいたように裕貴が顔を上げた。
「どうした?」
「――兄さん、いつもより体が熱い。顔も赤いみたいだし、もしか
して、熱があるんじゃない?」
博人は眉をひそめて、自分の額や首筋に触れる。確かに熱いかもしれないが、よくわからな
い。ただ、やけにベッドから出たくないのは、眠いからというより、だるいからというのがある。
「熱、測ろうか?」
コツンと額と額を合わせて、裕貴が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ああ……」
博人はため息交じりに返事をした。
不覚だと、ベッドの中で博人は唸る。熱を測ったところ、高温というほどではないが、十分に風邪引きだと認識できる程度の熱
があった。おかげで、風邪薬を口に放り込んで、おとなしくベッドに横になっている状態だ。
裕貴は看病してくれている―
―わけではなく、父親とともに初詣に出かけた。看病がいるほど重症ではなく、また、裕貴が同じ部屋にいると風邪を移してしま
うかもしれない。だったら、初詣に出かけても同じことだ。このことを博人と父親の二人がかりで説明して、ようやく裕貴は納得
した。
看病すると言ってくれた裕貴の気持ちだけで、十分だ。
熱を帯びた息を吐き出して、博人は視線をテレビに向
ける。つまらない正月番組に興味はないが、何か音がないと、博人以外誰もいない家は静かすぎるのだ。
クリスマスの準備
で駆け回ってから今日まで、博人は家の大掃除や正月の準備、それにバイトと、やることが目白押しだった。疲れたと感じる余裕
もなく、風邪の引き始めもわからなかったのだろう。
だからといって、よりによって元日から寝込む羽目になるとは、間が
悪い。
今頃裕貴は、父親に手を握られて、初詣の人ごみの中でもみくちゃになっているだろうかと想像すると、知らず知ら
ずのうちに表情が綻ぶ。裕貴がもっと小さければ、父親はためらうことなく肩車をするだろう。
昔、父子三人で夏祭りに行
ったとき、まだヨチヨチ歩きだった裕貴を、父親は嬉しそうに肩に担ぎ上げていた。
熱のせいか、取り留めなく昔のことを
思い出して心地よさに浸っていると、突然、無粋な音が博人を現実に引き戻す。机の上に置いた携帯電話が鳴っていた。
電
源を切るつもりが、新年の挨拶をメールで友人たちとやり取りしたとき、つい忘れてしまったようだ。
無視しようかとも思
ったが、何度も鳴らされても迷惑だ。仕方なく、だるい体を起こして一度ベッドから出ると、机の上の携帯電話を取り上げる。相
手と手短に話してさっさと切ろうと思ったが、表示されている名を見て諦めた。
博人はベッドに腰掛けて電話に出る。
「――もしもし」
電話の相手は五十嵐千沙子だった。控えめでおっとりとした声で新年の挨拶をして、博人もそれに応じる。
大学の後輩だが、他の後輩の女の子たちに比べて、より親しい関係だといえるだろう。趣味の話はもちろん、博人の少しだ
け普通と違った家庭環境も知っている。
おっとりとして、世間知らず。男を強く警戒する反面、ちょっと個人的なことを話
しただけで、博人にあっという間に心を開いてしまった、恵まれた家庭で育ったお嬢様――。優しくて穏やかな千沙子の気質は、
一緒にいて博人は楽だと感じている。それは多分、好印象と呼べるものだろう。
だから博人は、千沙子には紳士的に優しく
接している。それなりに計画というものがあって、千沙子と裕貴を引き合わせ、家庭教師を頼みたいと考えているのだ。千沙子は
きっと、裕貴に害を与えたりしないはずだ、と博人は思っている。
起きているとさすがにつらいものがあるが、かまわず博
人は、千沙子と他愛ない世間話をする。わざわざ元日にしなくてもいいような話だが、千沙子が話したがっているのでつき合うの
だ。博人としても、千沙子がどれだけ自分に好印象を持ってくれているか、日々、気持ちを計測するような作業は気に入っている。
千沙子の声には、博人に対する好意がありありと滲み出ていた。
三十分近く話してから電話を切った博人は、一度部屋を出
て水を飲んでから、再びベッドに潜り込もうとする。すると、枕元に放り出していた携帯電話が鳴った。
今度の相手は――。
千沙子からの電話が何かのきっかけになったように、友人たちから電話やメールが届き、さっさと電源を切ってしまえばい
いのに、律儀に博人は応対してしまう。
ようやく携帯電話の電源を切ったとき、博人の声は掠れていた。心なしか、喉が痛
い。
熱は確実に上がってきている。とろとろとまどろんでは目が覚めるが、そのたびに体が熱くなっており、息苦しさが増している。
なんだか体中の関節も痛んでいるようだ。喉の痛みは最悪だ。
こんな風邪を引いたのは、何年ぶりだろうか。博人はまどろ
むついでに記憶を探る。確か、まだこの家に母親はいたはずだ。しかし、看病をしてもらった記憶はない。
ひどく心細い思
いをしたからこそ、体の弱い裕貴には、同じ思いをさせたくないと心に誓ったのだ。その誓いに報いるように、裕貴は心臓の発作
を起こして苦しんでも、博人が側にいると、それだけで安堵したように微笑んでくれた。
自分にとって唯一の宝物。愛しい
存在。
自分が何か呟いているのはわかったが、何を言っているのかわからなかった。ぼんやりと目を開き、熱い吐息ととも
に、意識しないまま洩らす。
「裕貴……」
「――ここにいるよ」
思いがけずすぐ側で、裕貴の声がする。一瞬博人
は、これが夢なのか現実なのか区別がつかなかった。ハッと目を見開くと、ひょこっと当の裕貴が顔を覗き込んでくる。
「裕
貴……?」
「熱で、可愛い弟の顔を忘れた?」
この物言いは、本物の裕貴だ。ほっと笑みをこぼした博人は前髪に指を
差し込みながら尋ねた。
「帰ってきたのか」
「うん。熱があっても食べられそうなもの買ってきたから、何か欲しくなっ
たら言ってね。あと、これは初詣のお土産」
そう言って裕貴が目の前で見せてくれたのは、大吉と印刷されたおみくじだっ
た。
「……くれるのか?」
「うん」
「お前の運を吸い取りそうで、気が引けるな」
「ぼくはぼくで、大吉を引い
たから大丈夫。これは、最初から兄さんの分だと思っていたんだ」
そうか、と洩らした博人は大きく息を吐き出す。少し話
すだけで息が切れるのだ。
「つらそうだね」
裕貴の柔らかな手が額に押し当てられる。外から帰ってきて、体も温めな
いうちにこの部屋に来たらしく、裕貴の手はひんやりと冷たい。ただ、熱で火照っている博人にとっては心地いい。
「出かけ
る前より熱が上がってる。まさか、家の中をウロウロしてたんじゃない?」
ウロウロはしてないが、電話はしていた。
軽く咳をした博人は、裕貴の手を取って自分の頬に当てさせる。持て余している熱が、あっという間に吸い取られていくようだ。
いつまでもこうしていてもらいたいが、そういうわけにもいかない。
「……裕貴、そろそろ出ていけ。風邪が移るぞ。
お前が風邪を引いたほうが、俺にとっては堪える」
「心配でたまらない?」
「お前の甘えっぷりが倍増して、俺の手に余
るからだ」
「そういうことにしておいてあげる」
博人が、裕貴に甘えられるのが好きでたまらないということを、知り
抜いているような返事だった。実際そうなのだが。
ふいに裕貴が顔を近づけてきて、何事かと思ったときには、博人の頬に
ぴとっと自分の頬を押し付けてきた。裕貴の頬もやはり冷たい。
「――兄さんは、ゆっくり休んでたらいいよ。クリスマスの
前から、ずっと忙しくしてたんだし。今は父さんがいるから、家のことも心配しなくていいよ」
「父さんにお前を任せるのが
心配だ……」
意外に本気の博人の呟きに、裕貴はにんまりと笑った。風邪で弱った心と体に効く、何よりの薬だ。
「風
邪が治ったら、今度はぼくと兄さんの二人で行こうよ、参拝に」
「そうだな。……そうなるよう、張り切って俺の看病をして
くれ」
返事のつもりなのか、裕貴がさらに頬をすり寄せてきた。
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