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鼻先を掠める煙草の香りに、すうっと滋之の意識は浮上する。
目を開くと、ベッドの上にうつぶせで横たわっていた。しかも、ふかふかとして肌触りのいいバスローブを着ている。隣にはもう一つベッドがあり、ここがホテルのツインルームだと知る。
認識するものどれもが記憶にないことばかりで、滋之の頭は混乱する。同時に軽いめまいと、口腔に残るアルコールの味を感じた。
そう、パーティー会場で思い切り悪酔いしてしまい、吐いてしまったのだ。しかも、被害は最小限に、国府のスーツに包まれた胸元へ――。
ここで滋之は勢いよく頭を起こす。ようやく、自分の身に何が起こったのか思い出したのだ。
「――ようやく起きたか。酔っ払い」
うなるような声をかけられて、ビクリと身をすくめた滋之はゆっくりと振り返る。カーテンを開いた窓から夕日が差し込み、まぶしさに数秒目を閉じる。
窓際に置かれたソファに、やはりバスローブを着た国府が足を組んで腰掛けていた。長い指には煙草が挟まれており、細い煙が立ち上っている。
どうして自分と国府が同じバスローブ姿なのかと思う。まだ頭の混乱は完全に去っていない。パーティー会場からの出来事を順を追って滋之が思い出していると、その間に国府は煙草を灰皿で揉み消し、静かにこちらに歩み寄ってくる。
急に自分の格好に気恥ずかしさを覚え、バスローブの乱れた裾を直して体を起こそうとする。すると国府にぶっきらぼうに言われた。
「横になってろ。まだつらいだろ」
枕元に国府が腰掛けた見下ろされ、滋之はおずおずとまた横になる。仰向けになるのも抵抗があったので、うつぶせとなってクッションを抱え込み、そこに片頬を埋める。このときになって、自分の髪が半乾きであることに気づいた。理由を国府が口にする。
「お前が気持ち悪いって連発するから、洗面台に頭を突っ込ませて吐かせたんだ。吐いたもので髪も胸元も汚れたから、ついでにまとめて洗ってやった。……おかげで俺もずぶ濡れだ」
滋之はこくこくと頷く。
「ごめん……。国府さんのあの高そうなスーツも、汚したんだよね」
「あれならホテルのクリーニングに出した。今日の夜か、遅くても朝にはきれいになって返ってくるだろ。ついでにお前のスーツも出しておいてやった」
自己嫌悪からため息をついた滋之だが、すぐにもう一つ気になって尋ねる。
「じゃあ、この部屋――」
「気にするな。編集部が押さえていた部屋の一つで、空いていたから使わせてもらった。明日のチェックアウトまでのんびりできるぞ」
飲みすぎて卒倒してから、国府に迷惑と面倒をかけ通しだ。
落ち込んでクッションに完全に顔を埋めた滋之の髪に、そっと国府が触れてくる。体が不自然に強張りそうになるが、滋之はどうにか自然なふうを装う。
「……悪かったな。水割りなんて飲ませて。人にも酔ったんだろ」
こう言った国府の口調は、不器用な優しさに満ちている。滋之は切なくなり、同時に、岡崎という女性編集者と国府が親しげに話している様子がおもしろくないと感じたことが、むしょうに申し訳なくなってくる。
スーツを汚してしまった滋之を怒りもしない国府は大人の対応を見せているのに、対して自分は、子供だとも思った。
とにかく、国府が知らない人と――女性と親しくしている姿が、おもしろくなかったのだ。
どうしておもしろくなかったのだと問われれば、もう滋之には答えようがない。ただ本能で、国府に近づかないでほしいと思った。それは子供の駄々のようなものとは種類が違う。もっと生々しくて激しい、大人の独占欲とか嫉妬に類するものだ。いや、そのものだ。
普段は傍若無人で自分勝手で皮肉屋で、手荒に滋之を扱うというのに、今髪に触れてくる国府の手つきは、まるで宝物にでも触れるかのように慎重だ。
もっと荒々しく触れてほしかった。クラブハウスでキスしたときのように、激しく掻き乱すように――。
「……おい、なんとか言えよ。それとも、気持ち悪いのか?」
国府の言葉に首を横に振ろうとすると、部屋のベルが鳴る。頭から国府の手が離れ、寂しい。
大きく息を吐き出した滋之は、再び顔を横に向けてクッションに頬を押し当てる。姿は見えないが、国府の声が聞こえてきた。
「――どうかしたのか?」
「彼、大丈夫かと思いまして。顔が真っ青でしたから」
もう一人聞こえてきた声に、顔が強張る。おぼろに記憶に残っているが、パーティー会場で酔っ払った滋之の世話を、国府と一緒に焼いてくれた岡崎だ。
「ああ、今は落ち着いてる。悪かったな、まだ二次会の最中なんだろ?」
「大丈夫ですよ。すぐに戻りますから。これ、可愛い彼に差し入れです」
「助かる。買いに行こうかと思っていたんだ」
ここで二人が沈黙する。岡崎が帰ろうとしているのかと思ったが、そうではなかった。いくぶん潜められた声で会話が再開される。
「今日は珍しいものをたくさん拝見できました」
「……なんのことだ」
「とぼけないでくださいよ。――顔色を変えている国府さんを見た人なんて、うちではそうそういないと思いますよ」
岡崎の密やかな笑い声に、鼓膜を震わされる。胸の苦しさに耐え切れず、滋之は体を起こしてベッドの中央にぺったりと座り込む。
国府と岡崎の会話を聞くうちに、滋之は大事な現実を思い出していた。バスローブの裾を握る手が、無意識のうちに小刻みに震えてくる。
「珍しくスーツで決めてらしたから、素敵な恋人が遅れて登場するのかと期待していたんですよ、わたしたち」
「わたしたち、か……。どうせ書籍の連中とおもしろがってたんだろ」
「そうとも言いますね。あんな可愛い青年がやってくるなんて、予想外もいいところでしたよ」
国府は何も答えない。だが表情は違ったらしく、岡崎はまた笑い声を洩らす。
「そう、邪魔だからさっさと出て行け、という顔をしなくても、お暇しますよ」
挨拶の言葉に続いて、ドアが閉められた音がする。そして、国府のため息が。
コンビニの袋を手に部屋に戻ってきた国府が、ベッドの中央に座り込んでいる滋之を見て、一度足をとめる。すぐに歩み寄ってきて、コンビニの袋を押し付けてきた。
「スポーツ飲料だ。飲んでおけ」
国府がベッドから離れようとしたので、咄嗟に手を伸ばしてバスローブを掴む。胡乱げに振り返った国府に、滋之は勢い込んで尋ねた。
「――国府さん、戦場に行くの?」
「岡崎がパーティーで言いかけたことを気にしてるのか?」
国府の鋭い眼差しに見つめ返され、滋之は視線を伏せる。岡崎が知っていて自分が知らないという現実が、耐え難いほど苦しかった。
「……だって、危ないんだろ。当たり前に銃の弾とかが飛び交うようなとこに、カメラだけ持って出かけるんだから。そんなところ、国府さんが行かなくたって――」
国府がベッドに引き返して腰掛ける。やけに穏やかな眼差しで、間近から顔を覗き込まれた。
「俺は、その戦場の写真を撮りたいから行くんだ。正しいものを見極めて撮るなんて、大層な気持ちはない。戦場にあるものを撮ってくるだけだ。だけど俺は、ただそれだけのことがしたくてたまらないから、志願した」
「だけど――だけどさ、もし何かあったら、そこで国府さんの命はなくなるんだよ? 人間の命なんて、簡単にどうにかなるんだからな」
一年前の事故の光景を思い出す。あのとき確かに、後藤の命は揺らいだのだ。二度と手の届かない場所に行きかけたのだ。
あんな思いはもう嫌だった。それが国府の命ともなければ、なおさらだ。
目の前で国府が驚いた表情となる。滋之は初めて、話しながら自分が涙を流しているのを知った。みっともないと思いはするが、涙は止まるどころかますます溢れ出てくる。
「くそー、国府さんのせいだからな」
言いながら手の甲で涙を拭うが、次から次に出てくる涙に間に合わない。
「――……俺の、せいなのか……」
どこか呆気に取られたような声で国府が洩らす。滋之は涙でぼやける目で国府を睨みつける。
「国府さんのせいだっ。なんでぼくが、泣かないといけないんだよ」
「そりゃ、悪かった」
気のない謝罪に、本気で腹が立った滋之は国府に掴みかかり、胸を拳で殴る。
「おいっ、お前は絡み酒か。こらっ、じっとしてろ」
手首を掴まれそうになるが躱し、体ごと国府にぶつかる。少しは動じるかと思われた国府だが、反対に滋之はあっさりと両腕で捕らえられてしまった。
「本当にお前は、人をハラハラさせる奴だな」
言いながら国府の胸に深く抱き込まれる。バスローブの胸元がはだけ、国府の胸に直に顔を埋める。途端に滋之は、逞しい腕と胸の中で身動きが取れなくなる。
髪に国府の少し速くなった息遣いが触れる。国府のバスローブの襟元を握ったまま、滋之は勇気を振り絞っておずおずと顔を上げる。ごく間近に国府の顔があり、怖いほど真剣な表情で滋之を見下ろしていた。
心が、また国府にキスされるのを期待する。このまま痛いほどきつく抱き締められて、国府の熱を感じたかった。
滋之の願いが通じたように、国府の片腕に頭を引き寄せられ、手荒く髪を撫でられる。その間も見つめ合っていると、急に国府の顔が近づき、乱暴に唇を塞がれた。
「んっ、ふぅ……」
痛いほど唇を吸われ、強引に舌で歯列をこじ開けられる。口腔いっぱいに国府が満ちてきた。
煙草のきついフレーバーを感じ、眉をひそめる。だが苦いのはそれだけではない。国府の唾液も舌も何もかもが苦くて、だけど気分が高揚させられて気持ちいい。
舌先が触れ合い、ためらいながらも差し出すと、きつく吸われる。気が遠くなりそうなほど感じた滋之は、国府の両腕の中で震え、胸に身をすり寄せる。
無意識に示した媚態に国府は反応した。
抱き締められたまま一緒にベッドに倒れ込み、厚みのある国府の体がのしかかってくる。キスされながら押しのけようとしたが、頭上で両手首を一まとめにされて押し付けられた。
「国府さんっ――」
唇が離されて思わず国府を呼ぶと、何も言わず国府が見下ろしてくる。ぎらついた目をしていて怖いのだが、肝心な部分で危機感は乏しい。
国府の片手に頬を撫でられ首をすくめた滋之だが、その手が首筋に、そしてバスローブの襟元にかかったところで妖しい興奮を覚えた自分自身に戸惑う。襟元をゆっくりと大きく広げられていきながら、比例するように興奮は高まり、胸の奥に疼きを感じる。
国府は、同性である滋之の体を求めているのだ。
「あっ、や……、国府さんっ……」
国府が覆い被さってきて、首筋に顔を埋められる。熱い息遣いに続いて、さらに熱い唇が首筋に押し当てられる。ビクンと体を震わせた滋之は、喉をのけ反らせて息を詰める。すぐに、露になった喉元にまで国府の唇が這わされてきて、舌で舐め上げられた。
「んっ、くうっ」
思わず鼻にかかった甘い声が洩れる。国府に顔を覗き込まれ、涙ぐむほどの羞恥を感じるが、唇を啄ばむようにキスされると、それでいいのだと諭されているような不思議な気持ちになる。
完全にバスローブがはだけた胸元に大きなてのひらが這わされる。頭上で両手首を掴まれたまま、滋之は体を波打たせるようにして反応する。国府にてのひらを這わされると、鳥肌が立つほど気持ちよかった。
「い、やぁ。国府さん、そこ、嫌だ」
胸元を撫でられて、ビクビクと体を震わせながら訴えるが、国府のてのひらの動きは確実に愛撫のものとなり、肌をまさぐられる。
気がつけば、国府がじっと見下ろしている。滋之は問いかけずにはいられなかった。
「ど、して……、国府さん。こんなこと……」
「……俺がお前に、触れたいからだ」
滋之は目を見開く。そんな滋之を見下ろしてきながら、国府は自嘲気味に唇を歪める。
「髪に触れるだけで、我慢するつもりだったんだけどな」
国府の顔が近づいてきて、滋之は首をすくめる。すると、乱れた髪を手繰り寄せられ、髪に唇が押し当てられた。傍らでその様子を見て、自分の肌にキスされたわけでもないのに、滋之の背筋を甘い痺れが駆け抜ける。
髪から頬へ、そして唇へと再びキスされるが、このときには滋之はわずかに体の緊張を解いて受け入れていた。
片手で髪を掻き乱されて、頭を抱き寄せられる。たまらず滋之は、いつの間にか解放された両手をぎこちなく国府の肩にかけていた。すぐに、バスローブをきつく握り締める。
自分は国府が好きなのだと、滋之は漠然と感じる。それも親愛や敬愛などという種類のものではなく、はっきりいうなら、恋愛感情だ。
だから、国府と岡崎が一緒にいて親しげにしている姿を見て、嫌な感情を感じた。それで辻褄は合う。
眼前に突きつけられた自分の中の事実に、滋之の心は掻き乱される。いままで、同性に性的な興味を持ったことはないし、恋愛感情を持つなど想像したこともなかった。だが現実に、こうして国府の体の下で、体を強張らせながらも鼓動が高鳴り、興奮している。
そっと唇が離される。顔を覗き込まれるが、国府の目に心の中のすべてを暴かれてしまいそうでまともに見つめ返せない。
「――逃げ出す素振りぐらい見せろ。そうしないと……続きをやるぞ」
耳元で囁かれて総毛立つ。震え出しそうなぐらい体を強張らせていた滋之だが、覚悟を決めた瞬間、一気に体から力を抜いた。国府が息を詰めたのがわかる。
「どうして……?」
滋之は掠れた声で尋ね、すがるように国府を見上げる。滅多なことでは動じない国府がこの瞬間、怯んだような目をした。まるで、滋之を恐れたように。
「どうして国府さん、ぼくに……こんなこと、するんだよ。続きって――続きをしてもいいと思うぐらい、その気に、なってるわけ?」
滋之は必死に問いかける。自分でも、なんてとんでもないことを聞いているのかとわかってはいるのだ。だが、聞かずにはいられない。
「……軽い気持ちとか、冗談で、こんなことされたくないよ。ぼく、女の子じゃないけど、それでもやっぱり、こういう行為は、特別なものだよ。だから国府さんに、いい加減なことしてもらいたくないよ。だって国府さんは――」
自分にとって好きな人だから。
たった今気づいたばかりの正直な気持ちは、声となっては出てこなかった。その前に滋之の喉は塞がれたようになってしまい、うまく声が出せなかったからだ。代わりに、涙が溢れ出る。
滋之は慌てて手の甲で涙を拭う。
「軽い気持ちじゃなければ、いいのか?」
突然国府に言われた言葉に、手を止める。ハッとして国府を見上げようとしたが、その前に頭を胸に抱き寄せられ、国府の顔を見ることができない。
「な、に、国府さん……」
国府の言葉に、滋之の心臓は壊れそうなほどの勢いで鼓動を打つ。
まさか、と咄嗟に思ってしまった。
「何か言いたいことがあるなら、言ってよ、国府さんっ……。いつも、なんでもはっきり言うだろう? ぼくは、平気だから」
必死に言い募る滋之の言葉は、バスローブへと吸い取られ、くぐもった声となる。国府からの返事はなく、頭を引き寄せてくる腕の力も緩まない。
自分は何を期待しているのだろうかと思いながら、滋之は質問を変える。
「――……国府さん、どこにも、行かないよね? ううん。行ってもいいけど、危ないところには行かないでよ」
この瞬間、ふっと腕が外され、滋之は勢いよく顔を上げる。
「国府さんっ」
「お前の質問はストレートすぎる。……俺は今日は、なんの答えも用意してないんだ。ただ、お前と、楽しみたかっただけなんだ。結果として、お前をロクでもない目に遭わせたけどな」
国府の体がゆっくりと離される。滋之は仰向けとなったまま動けず、ただ国府を見上げ続ける。そんな滋之を見下ろして、国府は痛みを感じたように眉をひそめ、唇を引き結んだ。
髪を丁寧に撫でられて、心地よくて滋之は目を伏せる。
ふと気配を感じて視線を上げると、すぐ目の前に国府の顔がある。掠めるように唇にキスされ、このとき煙草の匂いを感じる。胸が締め付けられるように苦しかった。
「少しだけ時間をくれ。お前の質問に全部答えるから」
そう言って立ち上がった国府は、滋之を避けるように窓際のソファに戻って煙草を取り上げる。半身を起こして国府の動きを目で追っていた滋之に対し、国府が苦い表情を向けてきた。
「――もう何もしない。……しばらくは、俺と二人きりでいるのを我慢しろ」
苦いだけだった国府の表情に微かな笑みが加わる。
「何か飲みたくなったり腹が減ったら、勝手にルームサービスを頼め」
それ以上の会話を拒むように、煙草を咥えた国府は顔を窓のほうへと向ける。
声がかけられなくなった滋之はベッドに転がり、国府に背を向ける。
好きだと気づいた国府にキスされたというのに、少しも嬉しくなかった。むしろ自分の気持ちに気づいたからこそ、これまで漠然と抱えていた不安が強くなったようだ。
国府が、遠くに行ってしまいそうで。
その不安を少しでもなくしたくて国府に声をかけても、今の国府は答えをくれないだろう。本当に国府の中には、滋之のぶつける問いに対する答えがないのかもしれない。
だからこそ滋之の不安に拍車をかける。国府はそのことをわかっているのだろうかと、歯痒くて腹立たしい思いがある。少し前まで、素直に気持ちを言葉にしてぶつけていたというのに。
もう少し気持ちが落ち着いてから、今夜は帰れないと実家に電話しなければならないだろう。滋之はゆっくりと静かに息を吐き出す。
今何か言えば、声が震えを帯びているはずだった。
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