バディシステム


−16−


 店でダイビングツアーのパンフレットを並べ直していた滋之は、ふとあるパンフレットの写真に手を止める。海外のツアーで、廃船の中をダイビングで探索するものだ。これは人気があり、すぐに予約がいっぱいになる。
 国府が喜びそうだな、と思った次の瞬間には、意識しないまま滋之は眉をひそめる。
 国府に会いたい気持ちはあるのだが、顔を合わせづらかった。一週間前のホテルの部屋でのやり取りで、確実に滋之と国府の関係は変わってしまったのだ。どんな顔をして、どんな言葉を交わせばいいのか、わからなかった。
 いいのか悪いのか、この一週間、国府は店には姿を現していない。もっとも、仕事が忙しい男なので、立て続けに姿を見せたかと思えば、ふっと間隔を空けて訪れないときもある。
 ホテルの部屋での別れ際の国府の態度を思い返す度に、国府はもうこの店に顔を出さないのではないかと危惧を抱く。
 それほど国府の態度は素っ気なく、最後まで滋之をまともに見ようとすらしなかった。
 服がクリーニングされて戻ってくると、あっという間に着替えた国府は、滋之に部屋に泊まっていくよう言い置いて出ていってしまったのだ。
 大きくため息を吐いて、パンフレットを全部整理し終えた滋之はカウンターの中に戻ろうとする。そのとき背後で、店の自動扉が開いた音がした。
 感じるものがあって振り返ると、サングラスをかけた国府が店に入ってきたところだった。
 軽く店内を見回した国府が、滋之に気づいて歩み寄ってくる。滋之の体は緊張のあまり硬直し、それでいて痛いほど心臓の鼓動だけは狂ったように脈打つ。
「――よお」
 いつものように不機嫌そうな声をかけられ、応じようとした滋之だが、言葉が喉に張り付いて出てこない。サングラス越しとはいえ国府の目を見つめ返すことすらできず、顔を伏せていた。
 不自然な沈黙が二人の間を流れ、国府のほうから用件を切り出してくれると思って口を閉じていた滋之だが、その気配もないことから、上目遣いにうかがう。国府はサングラスを外し、ただ静かな眼差しで滋之を見つめていた。
 目が合っても、何かを話し出す様子はない。どうにか気持ちを落ち着けた滋之は、仕方なく水を向けた。
「……今日は、講習ないけど……。それに天気が悪くて波が高いから、ダイビングにはつき合えないよ」
「ああ。今日は、お前に話があってきた」
 滋之はピクリと肩を震わせる。
「この間のことだ。お前にされた質問に、全部答えるつもりで来た。……もっと早くくるつもりだったが、仕事が入ってな。だけどもう、引き延ばす時間はない。――大事な話だ。俺も仕事の前に寄っているから、あまりのんびりできない。これから少し店を抜けられないか」
「無理だよ」
 頭で考えるより先に、返事が口を突いて出る。滋之は自分の言葉の冷たい響きに驚いた。わずかに目を細めた国府の表情の変化を気にしながらも、本心とはどこか切り離された言葉を続ける。
「急にやってきて、自分の都合ばかり言うなよ。ぼくだって仕事してるんだからな。それでなくても国府さんの個人講習で、店のみんなに負担かけてるんだから」
「だとしたら、お前に迷惑をかけるのはこれが最後だ」
 弾かれたように目を見開いた滋之は、国府の不吉な言葉を頭の中で反芻する。
「……国府さん、何言って……」
 国府の口ぶりはまるで、コースの受講をやめるような言い方だ。咄嗟に滋之が思いついたのは、一週間前のホテルでの出来事を国府が気に病んでいるのでは、ということだった。
 あんなことがあったとしても、国府と離れたくなかった。その理由は――。
 滋之は自覚したばかりの感情を心の奥底に押し込める。国府に対して恋愛感情を持っているなど、悟られたくなかった。滋之自身、まだ戸惑い、半信半疑の状態なのだ。
「お前の聞きたいことはわかる。だからその答えも含めて今すぐ話したい」
 滋之が返事をためらっていると、カウンターがある方向から陽気な声をかけられた。
「あれっ、国府さん、来てたんですか」
 声がしたほうを見ると、目黒がカウンターの奥の事務所から出てきたところだった。ここに来る前に講習を終えてきたらしく、髪が湿っているように見える。
「今日は、潜るのはやめておいたほうがいいですよ。潮が悪すぎる」
 言いながら目黒が二人の側にやってくる。だが、滋之と国府の間に漂う独特の空気に気づいたのか、しまった、という顔をして頭を掻いた。
「……ありゃ、もしかして、マズイとこに来ました?」
 滋之と向き直った目黒が、事務所のほうを指さす。
「おれ、事務所にいるから。終わったら声かけてくれよ」
 目黒が行こうとしたが、反射的に滋之は目黒の腕を取る。叫ぶように言っていた。
「いいよっ、目黒さん。もう用は済んだから」
 驚いたように目黒が振り返り、一瞬ではあったが国府も目を大きく見開いた。滋之はきつい眼差しを国府に向ける。
 何か、嫌なことを聞かされるのだと、滋之の直感が告げている。その『嫌なこと』がどんな用件なのか、薄々とながら察しはついた。
 そんな言葉を聞かされるぐらいなら、邪険な態度を取ってでも時間を稼ぎたかった。滋之の気持ちがわかったわけではないだろうが、国府はすべてを許容するような柔らかな苦笑を浮かべた。
 事情がまったくわかっていない目黒が、滋之と国府を交互に見る。
「あの……、本当にいいんですか? おれ別に、かまいませんよ」
「――ああ、俺ももう帰るところだったからな」
 国府が答え、滋之のほうに右腕を伸ばしてくる。思わず目を閉じて首をすくめた滋之だが、手荒く頭を撫でられる感触にそっと目を開く。そのときにはもう、頭から国府の手がのけられ、帰ろうとしているところだった。
 咄嗟に呼び止めそうになったが、ギリギリで唇を噛み締めて耐える。
「本当によかったのか?」
 国府が店を出ていき、姿が見えなくなってから目黒に言われる。滋之はきれいに整理したばかりのパンフレットを一枚手に取りながら頷く。目黒が小さく声を洩らして笑った。
「珍しいな。いつも派手に怒鳴り合ったあとでも、平気な顔してじゃれついてるのに」
 もう、国府には平気な顔をして触れられない。そんなことをして、国府に対しての気持ちを隠しきれる自信がなかった。
「……なんでもないんだ。本当に」
 目黒は、それ以上追及してこようとはせず、不自然なぐらいに話題を違うものに変えてくれる。目黒の気遣いが、滋之には切なかった。


 外が暗くなって、店から自宅に戻った滋之は、靴を脱ぎながらため息を吐く。今日、店で国府と嫌な別れ方をしてから、心は塞ぎ続けている。
 一年前までなら、嫌なことがあれば海に潜ればそれで大丈夫だったのだ。だが今の滋之は、心を晴れやかにする手段を持たない。
 自分はいつの間に、こんなにつまらない人間になってしまったのだろうかと、思考はどこまでもマイナスに働く。なんだか自分が惨めで情けなくて、発作的に涙まで出てきそうになるのだ。
 食欲もないので、このままシャワーだけ浴びて寝てしまおうと思っていると、物音に気づいたのかダイニングから母親がひょっこりと顔を出した。ここで、耳を疑うようなことを言われた。
「――後藤くんから小包が届いてるわよ」
「えっ?」
「だから、後藤くん。国際郵便で。電話もかかってきてたわよ。押さえつけてでも、中に入っているものを滋之に見せてやってくれって」
 呆然として玄関に立ち尽くしていた滋之だが、すぐに慌てて靴を脱ぎ捨て、ダイニングに駆け込む。テーブルの上に、見るからに厳重に梱包された小包が置いてあった。
 伸ばしかけた手を一瞬引きかけたが、すぐに小包を抱え込んで二階の自分の部屋へと駆け上がる。床の上にペタリと座ると、急いで小包の包装紙を破り、中から箱を取り出す。
 意識しないまま速くなっていた呼吸を、大きく肩を上下させて整える。それでも、箱を開けようとする指先は、抑えようがないほど小刻みに震えていた。何度となく手紙やメールをくれた後藤だが、電話をかけてきただけでなく、小包まで送ってきたのは初めてだった。
 だからこそ、何事だろうかと身構えてしまう。
 そっと箱の蓋を開けると、中には封筒一通とメモリーカードが入っていた。手に取ったそれらを交互に見た滋之は、まずは気になったメモリーカードの内容を確かめることにして、パソコンを起動する。保存されたデータは動画だった。
 再生してまっさきに映ったのは、海だった。しかも、海中だ。透明度の高い澄んだ水の中、日本では見かけることのない魚が群れをなして悠然と泳ぎ、珊瑚礁の間を通り過ぎていく。思わず滋之も見惚れるほど、きれいな海だった。
 画面のぶれもないことから、水中撮影に慣れているダイバーが撮っているのだろう。
 ダイバーはゆっくりと海中を進み、途中、ビデオカメラがぐるりと百八十度動かされて、撮影者であるダイバーの後方を映す。数人のダイバーがあとに続いていた。
 その中の一人が手を振り、まっすぐビデオカメラへとやってくる。体つきからして男だとはわかったが、年齢どころか顔すらわからない。
 目を凝らして観ていた滋之だが、次第に近づいてくる手を振った人物の、マスクを通した顔の造作が見えてくるにしたがって、整えたばかりの呼吸を荒くする。
「――……後藤……」
 滋之は思わず画面に入っている日付を確認する。ほんの十日ほど前の日付だ。
 マスクをしていても、はっきり後藤だとわかるところまで、後藤自身がビデオカメラの側に寄ってくる。
 後藤は、水中の中にいて、気持ちよさそうに笑っていた。
 滋之の脳裏にこびりついている海中での後藤の顔は、潮に引きずられていくときの目を見開いた恐怖に引き攣った顔だった。だからこそ滋之は、後藤はもう二度とダイビングをやらないだろうと確信していた。
 だが現実は、そうではない。
 後藤が短くジェスチャーで何かを伝えてくる。撮影者に向けたものらしく、画面の隅に、立てられた親指が一瞬だけ映った。あらかじめ、相談し合っていたのかもしれない。そう思わせる意思伝達の早さだ。
 後藤は、海中でも書ける小さなノートを開き、何か書き始める。その一連の動作は、ベテランダイバーを思わせるほど堂に入っている。昨日今日ダイビングを再開したものではない。
 何かを書き終えたノートがビデオカメラの前に突き出される。書き殴ったような字だが、読み取るのは十分に可能だ。
『きれいな海だろ?』
 ノートにはそう書いてあった。間を置いてから、後藤はまたノートに何か書く。今度は書くのに少し時間がかかった。
『滋之、お前に見せたかった。この海と、潜っているオレの姿を』
 ノートに書いた文章を見せながら、後藤は得意げに笑う。ノートを閉じた後藤は、仲間たちと悠然と泳いでいく。ビデオカメラはその後ろ姿をしっかりと捉えている。
 後藤の泳ぐ姿を見て、滋之もできることなら今すぐ海に入りたくなった。一年前の事故から初めて、ダイビングを楽しみたいと思った瞬間だったかもしれない。
 目が熱くなってきて、画面を一心に見つめることができない。このまま涙が溢れ出しそうだ。
 そこで動画を流したまま、今度は封筒の中から手紙を取り出す。
 素早く目を通し終えたときには、堪えきれず滋之は大粒の涙をこぼしていた。もう一度、今度はゆっくりと手紙を読み返すと、さらに熱い涙は溢れ出してくる。胸の奥から、これまで押し殺してきた感情が一気に突き上げてきたようだった。
 声を押し殺し、ただ滋之は涙をこぼし続ける。画面に映る海の青さが目に染みるだけでなく、心に染み渡った。
 しゃくり上げながら手の甲で何度も目を擦っているうちに、動画が終わる。滋之は自分のデスクに駆け寄り、引き出しから手帳を出す。急いでページを開き、そこに後藤がオーストラリアで滞在している部屋の電話番号を確認する。
 手帳を手に部屋を飛び出し、今度は階段を駆け下りていた。ダイニングに入ると、キッチンで夕食の準備をしていた母親が驚いた表情で顔を出すのも無視して、子機を取り上げ、電話をかける。
 しばらく鳴り続けた呼び出し音がふいに途切れた。
「――もしもし」
 緊張のためわずかに上擦った声が出る。それに寸前まで泣いていた余韻か、自分でもわかるほど震えを帯びていた。
 電話の向こうで数秒の間が空く。電話が遠いのだろうかと思ったそのとき、勢い込んだような後藤の声が返ってきた。
『滋之だなっ。本当に、滋之なんだなっ?』
 感情的な後藤の声がなんだか気恥ずかしい。滋之はぎこちなく応じた。
「ああ……。電話してくれって、母さんに言ったんだろ」
『言った。お前の感想が聞きたかったんだ』
 後藤が興奮しているのがわかった。
『……動画、観てくれたんだな』
「手紙も読んだ」
 そうか、と声にならない、ほとんど吐息のような返事が返ってくる。
『お前の誤解を解きたかったんだ。オレは事故のことなんて引きずってない。慎重になりはしたけど、ダイビングが嫌いになったわけじゃない。そのことを、ずっとお前に伝えたかった。だけどお前は信じてくれなかったよな?』
 後藤の口調は穏やかで、これまでの滋之の態度を責めてはいない。こんなにじっくりと友人の声と口調を聞くのは、約一年前の事故のとき以来だ。
「――……お前がぼくに気をつかって、無理しているんだと思った」
『するわけないだろ。友人同士なのに。そんなことで気をつかってどうする』
「だけどぼくは、怖かった……。事故の――ぼくのせいで、お前が海に入れなくなったって言われるのが」
 すかさず大きなため息が返ってくる。
『だと思ってたんだ。こっちに来て、いろんな人間のダイビングを見てきたけど、だからこそ、お前のダイビングっていうのがよくわかったんだ』
「ぼくの、ダイビング?」
『お前はバディを大事にしすぎて、自分自身がダイビングを楽しんでない。慎重で細心で』
 そんなことはないと答えようとしたが、自嘲気味に後藤は言葉を続ける。
『つくづくオレは、お前に甘えていたと思う。お前と組んで泳ぐのは楽しくて、何より楽だった。だからこそ、あの事故はオレの自業自得だ』
「後藤っ」
 ここで後藤の笑い声が耳に届き、一瞬聞き間違えかと思ったが、確かに後藤は電話の向こうで笑っていた。
『一年も前に済んだことだ。手紙に書いてあっただろ? オレは、こっちに来てダイビングを楽しんでる。誰がバディであっても』
 自信に満ちた言葉に、後藤が滋之を安心させるためにうそをついているのではないかという疑心は、完全に断ち切られた。送られてきた動画を観てしまったら、もう納得するしかない。後藤はダイビングを好きでいてくれて、楽しんでいるのだという事実を。
『オレは大丈夫だ。だからお前も――ダイビングを楽しんでくれ。海の中は本当にきれいだ。お前が教えてくれたんだ。それを知るための手段を』
 一年にも及ぶ、自分自身にかけた呪縛が解けていく気がした。
 また涙が溢れ出そうになった滋之だが、心配そうにこちらをうかがう母親の前で涙を見せるわけにもいかず、必死に唇を噛んで堪える。脳裏にはこの瞬間、国府の顔が浮かび、心の中で国府を呼んでいた。
 感情を押し殺し、切れ切れに後藤に告げる。
「……今、組んでいるバディがいるんだ。ダイビングの初心者だけど、本当に、海に潜るのが好きな人なんだ」
 うん、と後藤が短い相槌をうち、話の続きを促される。
「人の言うことは聞かないし、年上のくせしてわがままで横暴で無茶をやる人だけど、その人のおかげで、いままでとはダイビングへの接し方が変わってきてるんだ。どこが、ってはっきり言葉では言えないけど……」
『よかったじゃないか。いいバディに出会えて。その人と一緒に、もっと楽しめよ。海の中の世界を。留学が終わってオレが日本に戻ったら、みんなで潜ろうぜ。いや、それより、お前らがこっちに来てもいいし』
「……潜る」
 素直にその一言が言えた。もう、自分自身が作り出した悪夢に怯える必要はないのだ。そんな思いが滋之の背を押してくれる。
 だからこそ、もっとも大事な言葉も気負うことなく口から出た。
「――後藤、ありがとう。それと……一年間ごめん」
『許してやるよ。友達だからな。それに、お前が頑固なのはよく知ってる』
 嬉しいのに、滋之はこの場で思い切り声を上げて泣きたい心境だった。









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