06
浴衣に着替え、丹前を羽織った朋幸は別館から本館へ通じる通路を歩きながら、腕を軽く振ってみる。丹前のゆったりとした
袖の感触が新鮮だ。
ふと視線を感じて隣を見ると、桐山が目を細めていた。朋幸はバスタオルなどを入れた袋を抱え直し
てから言う。
「子供っぽいとか思っているんだろう」
「いえ。あなたが楽しそうだと思って」
「お前は楽しくない
のか」
「楽しいですよ。あなたが楽しまれている様子を見ていられるだけで」
朋幸は思わず周囲を見回す。桐山の甘
い台詞が聞こえなかったかと心配したのだが、別館から本館に向かう人の姿はまばらだ。
「大展望浴場がいいらしいぞ。夜
景がきれいに見えるはずだ」
「よく調べてらっしゃいますね」
そんなことを話しながら本館のロビーを歩く。別館の
落ち着いた雰囲気とは対照的に、こちらは建物全体が大きく、ロビーも広くて明るい。行き交う宿泊客の姿も多く、にぎやかな
のが好きな人には、この本館のほうが合っているだろう。
エレベーターで大展望浴場があるフロアに向かおうとして、朋
幸が桐山の丹前の裾を軽く引っ張ったときだった。背後から突然、声をかけられた。
「――もしかして、本澤朋幸さんと、
桐山さん、ですか?」
条件反射のように朋幸は、桐山に体で庇われる。先に振り返った桐山の目元に、ピリッと険が宿っ
たのを朋幸は見逃さない。
桐山の変化にまず目を奪われてから、朋幸も自分たちに声をかけてきた相手を確認する。
「えっ……」
愕然として声が洩れる。
そこに立っていたのは、バッグを肩からかけ、だらしくなくネクタイを緩め
たスーツ姿の男だった。朋幸も知っている男だ。
「――……嶋田」
朋幸に代わって桐山が男の名を口にする。心に残
る傷ゆえに、朋幸は桐山の肩にしがみついていた。
朋幸にとって嶋田は、忌々しいとしか表現のしようのない存在だった。
丹羽商事に入社したばかりの頃、どのマスコミ関係者よりも執拗に朋幸を追いかけ回し、親の七光りだと叩いてきたのは、
当時、週刊誌の記者だった嶋田だ。あまりに容赦ない攻撃に朋幸が精神的に参ったとき、見るに見かねて父親や祖父が動き、嶋
田が記事を書いていた週刊誌を廃刊に追い込んだ。
それで終わりかと思っていたが、昨年の丹羽商事を巻き込んだ騒動が
片付いた直後に再び、朋幸の前に姿を現したのだ。
桐山が動いたらしく、特に朋幸に被害が及ぶことはなかったので、安
心していたのだが――。
薄い笑みを浮かべた嶋田の目が、桐山の肩にしがみつく朋幸の手に向けられる。慌てて朋幸は手
を離し、敵意を剥き出して睨みつける。すぐに桐山を促してその場を離れようとしたが、当の桐山に遮られた。
「……こん
なところで何をしている」
桐山が嶋田に問いかける。嶋田はおどけた仕種で肩をすくめた。
「俺が聞きたいね。丹羽
商事の化学品統括室室長とその補佐が、こんなところで何やっているんですか、と。まあ、ここでやることと言ったら、温泉に
入ることぐらいなんだが」
「朋幸さんは、休暇中だ。仕事は一切抜きだ」
「で、あんたはそのお目付け役か。大変なの
か、役得なのか――」
嶋田が、朋幸を頭の先から爪先まで、舐めるように見つめてくる。スーツを身につけているときは
気を張っているのでなんともないが、浴衣に丹前姿だと、自分がひどく無防備に感じられる。
「――桐山」
こんな男
など無視して早く行こうと、朋幸は桐山の丹前の裾をまた引っ張る。いつもなら、朋幸に危害が及びそうなことには近づかない
し、また遠ざける桐山だが、今は違った。
朋幸を見て、無表情に頷く。
「大丈夫です。今のこの男は、あなたにとっ
て害にはなりません。少し話を聞くだけです」
「……どういう意味だ?」
「桐山さんとは、仲良くさせてもらっている
んですよ」
答えたのは嶋田だ。桐山はキッと嶋田を睨みつける。
「語弊がある言い方をするな。わたしはまだ、お前
を信用しているわけではない」
「だが、俺の力を借りているのは事実だ」
嶋田の言葉に驚いた朋幸は、きつい眼差し
を桐山に向ける。桐山は軽く息を吐き出した。二人の間に微妙に流れた冷たい空気を感じ取ったように、なぜか嶋田が慌てた様
子で朋幸に切り出してきた。
「まあ、立ち話もなんなので、座りませんか。大丈夫。もう悪さはしませんよ。あなたのバッ
クも怖いが、この男はもっと怖くて容赦ないですからね。俺としても、あなたに嫌われ者として認識されたままなのはつらい」
嫌われるだけのことをしたのだろう。そう思いながら朋幸が傍らの桐山の表情を見ると、頷いて返された。
昨年の
件以来、桐山は個人的に嶋田と接触を持っているようだ。その辺りの事情が朋幸には気になる。
朋幸は一人でこの場を立
ち去ることもできず、結局、桐山と嶋田についてラウンジに移動する。
「――それで、二人はどういうつき合いなんだ」
ソファに腰掛けると、朋幸は口を開く。足を組もうとしたが、浴衣の裾が乱れることを考えて思い留まる。
「つき合
いというほどではありません。ときおり、嶋田から情報を提供してもらったり、人を紹介してもらっているのです」
「ボラ
ンティアじゃなく、仕事として」
嶋田が付け加え、桐山が鋭い眼差しを向ける。嶋田はテーブルを挟んで、朋幸のほうに
身を乗り出してきた。朋幸は露骨に仰け反ってソファの背もたれに張り付く。
「……傷つきますねー、その態度」
「当
たり前だ」
朋幸が返すと、嶋田は頭を掻いて笑みをこぼす。そうすると嶋田特有のシニカルな雰囲気が和らぎ、なかなか
憎めない表情となる。だが、朋幸は騙されない。
「誤解がないよう言っておきますが、俺はタダでいいと言っているのに、
桐山さんが口座に振り込んでくるんですよ。俺に借りを作るのが嫌らしくてね」
朋幸は桐山を睨みつける。
「どうし
てこんな男とっ……。この男がぼくに何をしたのか知っているだろう」
「承知しています。しかし、ときには嶋田のような
人間も必要なのです。我々には手に入りにくい情報も、知り合う機会のない人間でも、この男を通してなら――」
反論は
できなかった。桐山の口ぶりからして、嶋田から得た情報や人脈は、朋幸のためだけに有効に利用されてきたのだ。
ここ
まで何も知らないできた自分が、なんだか口惜しい。
大事なことを教えてもらっていなかった怒りともどかしさはあるが、
嶋田の前で痴話喧嘩のようなことをするわけにはいかない。
大きく息を吐き出して、朋幸はこう答えるしかなかった。
「――……わかった。この男との関係については、もういい。お前に考えがあることなら、ぼくは何も言わない」
「あ
りがとうございます」
にこりともせず桐山が頭を下げる。別に礼を言われたかったわけではない。桐山の慇懃な態度は今
に始まったわけではないが、この場ではなぜか神経に障る。
眉をひそめた朋幸に気づいた様子もなく、桐山はこれが本題
だと言わんばかりに嶋田に問いかけた。
「それでお前、なぜここにいる。ある人物の監視だと言っていただろう」
自
分以外の人間相手にも、似たようなことをしているのかと、朋幸は敵意を含んだ眼差しを嶋田に向ける。嶋田は悪びれるふうも
なく笑った。
「個人的な興味で追い回したのは、あなただけですよ。あとは、仕事です」
カッとした朋幸は腰を浮か
せかけたが、肩に桐山の手がかかって引きとめられる。同時に嶋田が告げた。
「――WB社の社員が日本で動いている、と
いう情報が入ったんですよ」
それを聞いた朋幸は、桐山と顔を見合わせる。
「その様子なら、把握済みのようですね。
WB社が、丹羽商事の仕事にちょっかい出しているということは」
「お前もその件で動いているのか?」
桐山の口調
が低くなる。返事の代わりなのか、嶋田は唇ににんまりと笑みを刻んだ。
「評判は最低ですからね、WB社は。だからこそ
日本での動きを知りたがる人間は多い。――丹羽商事が、この件で俺のスポンサーになるって話はないですか。俺の調査能力を、
そちらにはけっこう高く評価してもらっていると思うんですが」
嶋田から意味深に視線を向けられ、朋幸は断言する。
「その気はない」
「――WB社の人間を監視しているということは、エリック・ウォーカーという男のことも知ってい
るのか」
「外見の特徴は?」
「大柄な白人だ。濃いブラウンの髪に、瞳は黒っぽいが紺色に近い」
端的な桐山の
説明に、嶋田は自分のバッグからファイルを取り出して開いた。そこには、いかにも隠し撮りされたとわかる写真が雑に貼り付
けられている。朋幸は、自分が嶋田に尾行されていたときの嫌な気持ちを思い出し、顔をしかめていた。
ファイルに貼ら
れた写真の中の一枚には確かに、エリック・ウォーカーのものがあった。
「この男なら、成和製薬の東京支社に一週間近く
日参していたそうだ」
「そして、成和製薬の本社は――」
桐山の言葉を受けて、嶋田は指先で足元を示した。
「ここ、です。昔からこの一帯は、名水の地ですかね。製薬会社ときれいな水は切っても切れない」
エリックが、朋幸たちと
同じ飛行機に乗った理由が見えた。
朋幸と桐山は再び顔を見合わせる。桐山は軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。
こちらに本社があることを、すっかり失念していました」
「気にするな。元々、うちの統括室とは関係のない事案のことな
んだ。偶然が重なったことをとやかく言っても仕方ない。……ぼくは関わる気はない。藤野室長に悪いが、あちらで解決しても
らうしかないだろう」
それに自分たちは今、休暇中なのだ。仕事に関わることで振り回されるつもりはない。
朋幸
は心の中でそう決心する。しかし横目でうかがうと、桐山は何か考え込む表情をしている。エリックのことが気になっているの
だとすぐにわかった。
ここまで堪えていた怒りが急に込み上げてくる。自分のこと以外考えるなと言いたかったが、嶋田
がいるこの場で言えるはずもない。
朋幸は傍らに置いてあった袋を抱えると、乱暴に立ち上がる。
「朋幸さん?」
驚いたように桐山が見上げてくる。
「部屋に戻る。……まだ話があるなら、勝手にしろ」
桐山を見ることなく
告げ、朋幸は足早にその場を離れようとする。そのとき嶋田とは目が合ったが、含んだような微かな笑みを向けられて、ヒラヒ
ラと手が振られる。
朋幸は唇を引き結び、ぷいっと顔を背けた。
大人気ない態度だと自覚はあったが、このときの
朋幸にはどうしようもなかった。
朋幸が怒っている理由を推測するのは、桐山には造作もなかった。
嶋田と個人的に連絡を取り合っていたのを内緒にし
ていたことと、休暇中であるにも関わらず、桐山がエリックのことを気にかけていることだ。
特にエリックの件に関して
は、こんなときぐらい仕事のことは忘れてほしいという、朋幸の真摯な思いの表れだろう。
朋幸はあんなに楽しみにして
いた大浴場にも行かず、夕食にもあまり手をつけなかった。
ただ不機嫌そうな表情を崩さず、いくら桐山が話しかけても
答えるどころか、こちらを見てもくれない。こうなると朋幸は徹底している。
夕食が片付けられ、再び二人きりになると、
膝を抱えて座椅子に座っていた朋幸が急に動き、袋に入れたままだった洗面道具やバスタオルを出し始める。
「庭の露天風
呂に入られますか?」
「……部屋の内風呂を使う」
ぶっきらぼうにそう答えて、立ち上がった朋幸が桐山の横を通り
過ぎようとする。桐山は反射的に、朋幸の手首を掴んで引きとめていた。朋幸にきつい眼差しを向けられる。
「わたしの勝
手な行動に、あなたが不愉快な思いをされたのはわかります。特に相手は、あの嶋田です」
「わかっていて、連絡を取り合
っていたんだろう」
「あの男は利用できます」
朋幸が手を振り払おうとするが、桐山はさらに力を込める。痛みに朋
幸が眉をひそめる。普段の怜悧すぎるほどの表情を知っているだけに、朋幸のそんな表情に加虐的なものを刺激される。
「ぼくは……あの男は嫌いだ」
「好き嫌いだけでは、人間関係は成り立ちませんよ。利用できるできないでも判断をされな
いと――」
「今、そんな話は聞きたくないっ」
今度こそ手を振り払われ、朋幸が内風呂に向かおうとする。桐山はギ
リッと歯を食い縛ってから、たまらず呻くように洩らしていた。
「――……わたしがあなたに秘密を持ったことを怒ってら
っしゃるのだとしたら、わたしも、あなたに対して怒れる権利はあるということですね」
怪訝そうな表情で朋幸が振り返
る。
「何を、言っている……?」
桐山は目を細めてから、朋幸を厳しく見据える。
「あなたは隠されていたよう
ですが、あなたに関わる大事な話を、社長がわたしにお話にならないとでもお思いでしたか?」
ここまで言って、朋幸も
思い当たったようだった。怒りのため紅潮していた頬が、今度は見る間に青ざめていく。
「まさか――」
「社長に相談
されましたよ。あなたに、誰かおつき合いしている方はいないのかと。できれば、あなたの思う人と一緒にさせてやりたいとも。
ですが、会長のたっての願いで、見合いの席を設けなくてはならないかもしれないとのお話でした」
朋幸が物言いたげな
表情で、すがるように桐山を見つめてくる。切なげだが、やはり桐山の加虐的なものを刺激する。だからこそ、さらに言葉で朋
幸を追い詰めてしまう。
「あなたにとって、わたしはなんですか? 一生を左右するようなことも、相談してはもらえない
ほど、軽い存在なのですか。平然とした顔をされているあなたを側で見ていて、わたしは口惜しかったですよ」
「……ち、
がう……。違うっ。お前に相談するまでもないと思ったんだ。ぼく一人で結論は出せることだっ。ぼくは、誰かと一緒になる気
はない。お前が、いるのに、そんな……」
立ち尽くす朋幸が、手にしていたものを足元に落とす。迷子になった子供のよ
うな、あまりに頼りないその姿に、不埒だが桐山は、突き上げてくるような欲情を覚えた。
頭で考えるより先に立ち上が
ると、大股で朋幸に歩み寄る。ハッとして朋幸が目を見開いたが、そのときには乱暴に自分の胸元にしなやかな体を引き寄せ、
強引に唇を塞ぐ。
「んんっ」
朋幸が顔を背けようとしながら、全身で桐山を拒絶しようとする。それがさらに桐山の
興奮を煽り、欲情を駆り立てる。
朋幸の足を払い、軽く突き飛ばす。簡単に朋幸はよろめき、畳の上に倒れ込んだ。桐山
はすぐに朋幸の上に覆い被さり、手荒くあごを掴んでもう一度唇を塞ぐ。朋幸は必死に唇を食い縛り、顔を押し退けてこようと
する。
朋幸の指先に弾かれて桐山の眼鏡が飛び、畳の上に転がる。かまわず桐山は朋幸を押さえつける。体だけでなく、
思考も熱くなっていた。
「――嫉妬で狂いそうでしたよ。あなたに、わたし以外の人間が寄り添うのかと想像しただけで。
会長を恨みもしました」
暴れる朋幸を片腕で押さえつける一方で、桐山は浴衣の裾を割り開く。何をされるかわかったら
しく、朋幸は表情を強張らせ、睨みつけてくる。
「桐山っ……」
「あなたの側にいるのは、そんな男なのですよ。です
が、逃げ出すことは許しません。わたしはあなたから離れられない身となったのに、あなただけが逃げ出すなんて――」
露わにした引き締まった腿をてのひらで撫でる。朋幸は両足をばたつかせて抵抗するが、かまわず桐山は下着を引き下ろして、
取り去ってしまう。無防備になった下肢を隠そうとするかのように朋幸は身をよじり、うつぶせとなる。そこまでの行動は、桐
山も許した。
「嫌だっ」
今度は朋幸の背後からのしかかり、腰を抱え上げる。丹前と浴衣をまとめて掴んで脱がして
いき、両肩から背の中ほどまでを露わにする。朋幸の肌の白さが桐山の目を射抜いた。
朋幸の肌に触れるときは常に、初
めて触れるかのような興奮と悦びを覚えるが、今もその感覚は鮮烈だった。
年下で気位の高い主を、力で組み伏せている
という現実が、普段の理性的な桐山を別の男にしてしまう。またそうなることを、桐山自身、止めようとはしなかった。
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