■ BUSYなカンケイ ■




08

 朝一番で水をやったらしく、窓際から眺める庭は水滴が陽射しを反射してきらめいている。
 食事を終えた桐山は湯のみに 手をかけたまま、目を細めて庭に見入っていた。こんなにも緩やかに時間が流れる朝はずいぶん久しぶりで、正直戸惑ってもいる。
 このとき微かな食器の音が耳に入り、桐山は視線を自分の正面の席へと向ける。箸を置いた朋幸が、湯のみをてのひらで包 み込むようにしてお茶を啜っていた。思わず桐山は口元を綻ばせる。
 朋幸の膳に置かれた食器を確認するが、どれもきれい に空になっている。普段は食が細く、朝食は滅多にとらない朋幸だが、旅先だと食欲も旺盛になるらしい。
 いいことだと、 桐山は心の中で頷く。
 ふいに朋幸が上目遣いに桐山を見上げてきた。
「どうかされましたか?」
「お前今、『しっ かりご飯を食べたな。よしよし』とか思っただろ」
 桐山は小さく笑い声を洩らす。
「そこまであなたを、子供扱いして はいませんよ」
「似たようなことは思ったんだろう」
 笑みを浮かべたまま答えないでいると、朋幸はそっと照れた表情 を見せてから、顔を背けた。おそらく、他人にはほとんど見せないであろう朋幸の無防備な表情を、このままずっと眺めていたい 気がする。
 実行するのは容易いが、朋幸は許してはくれないだろう。
 背けていた顔を、再び桐山に向け直して朋幸が 言った。
「――朝からのんびりする時間はないぞ。午前中のうちに観光を済ませて、午後からのんびりするんだ」
 この 人には逆らえない――。くすぐったい思いで口中で呟いた桐山は、さっそく提案した。
「では、片付けてもらってから、お風 呂に入りましょう。温まってから動くのも、悪くないでしょう」
「でも……」
 朋幸が、浴衣の上から丹前を羽織った自 分の体を見下ろすような仕種をする。朋幸が何を気にしているのかわかった桐山は、苦笑を洩らさずにはいられなかった。
「申し訳ありませんが、大浴場については我慢なさってください」
「……わっ、わかっている、そんなことっ。お前に言われ なくても……」
 またたく間に顔を真っ赤にしていく朋幸を、桐山は目を細めて見入ってしまう。しかし朋幸は、桐山の視線 に気づき、逃れるように隣の部屋に駆け込んでしまった。
 桐山が仕えているその人は、怜悧な見た目とは裏腹にとにかく照 れ屋なのだ。


 朝から部屋の露天風呂で温まるという贅沢な一時を過ごしてから、着替えを済ませた桐山は朋幸を伴ってロビーへと向かう。
 フロントで鍵を預けたついでに、ホテルの人間にどこかにいい観光場所はないかと尋ねる。だいたいのところは昨日のうち に見て回ったので、今日はどこに行くと特に決めているわけではない。外を出歩きたがっている朋幸にしても同じだ。とにかく、 外の空気を満喫したいらしい。
 地図で場所と行き方を聞いた桐山が隣を見ると、最初は一緒に地図を覗き込んでいた朋幸の 姿がない。ロビーのどこにも朋幸の姿がなく、礼を言ってフロントを離れた桐山は周囲を見回す。すると視界の隅に白い人影が入 る。朋幸だった。
 今日は朋幸は、Tシャツの上から白いシャツを羽織っている。昨日は白のパーカーだったことから、朋幸 は白いものを羽織るのが好きなのだ。
 本人に言わせると、服の組み合わせはよくわからない、ということだったが。
  朋幸は一足先に建物の外に出て、気持ちよさそうに朝の陽射しを浴びている。このとき風が吹いて朋幸のシャツがはためく。シャ ツの白さが、桐山の目にはまぶしく映った。
 桐山は朋幸を追って建物を出ると、声をかける。
「――朋幸さん」
  髪を掻き上げながら振り返った朋幸が笑いかけてきた。
「行き先は決まったか?」
「あなたが気に入るかどうかは保証し ませんが。今日はタクシーではなく、バスで移動してみますか?」
「構わない。お前と一緒なら、なんでも」
 さらりと、 桐山の胸の奥をくすぐるようなことを言ってくれる。
「それでは、参りましょうか」
 桐山は朋幸の背に手をかけて促す。 バス停は本館の玄関から出てすぐだと教えられたので、建物の周囲をぐるりと周って本館へと移動する。確かに、本館の建物の近 くにバス停があった。
「あそこです――」
 隣を歩く朋幸に声をかけていたそのとき、すぐ背後からクラクションを鳴ら される。何事だと思って振り返った桐山は、自分たちに併走するようにぴったりついてきている車の存在にまず驚かされる。次に 驚いたのは、運転席に乗っている人物の顔を見てからだった。
「桐山?」
 桐山が立ち止まっていることにようやく気づ いたように、朋幸も振り返る。続いて、桐山と同じ反応を見せた。
「やあ、おはようございます。朝からおでかけですか」
 愛想よく言いながら、路肩に停めた車から嶋田が降りてくる。桐山は反射的に睨みつけていた。
「……わざわざ声をか けてくるな」
「そう邪険にしないでくださいよ。今は協力関係にあるわけだし」
 ヌケヌケとそんなことを言った嶋田は 無視して、朋幸の様子をうかがう。せっかく朋幸の機嫌がいいというのに、この男の登場で損ねてしまうのは避けたかった。
 しかし桐山はここで、朋幸の異変に気づく。桐山が知っている朋幸の嶋田に対する反応は、敵意や嫌悪感を隠そうともしないも のだったが、今は違った。朋幸は戸惑ったように嶋田を見ている。
 その理由を嶋田が口にした。
「昨夜はどうも、朋幸 さん」
 馴れ馴れしく名を呼んでも、朋幸は目を吊り上げたりはしない。ぼそぼそと、ああ、と答えた。
『昨夜』という 単語に、桐山はピンとこない。訝しむ桐山に対して、朋幸はぶっきらぼうな口調で説明してくれた。
「昨夜、ぼくが飲み物を 買いに部屋を出ただろ」
「ええ」
「そのとき本館まで行ったんだ。そこで捕まって――話を聞いた」
 桐山は、昨夜 部屋に戻ってきた朋幸の様子を思い返す。おかしかった、というほどの異変はなかったはずだ。
 思わず朋幸に尋ねずにはい られなかった。
「……それだけ、ですか?」
 言った途端に朋幸に背を殴りつけられた。それを見た嶋田がおかしそうに 口元に笑みを浮かべる。
「一緒に旅行されるぐらいですから、いまさらですが、お二人は仲がよろしいですね。まるで――兄 弟みたいで」
 嶋田が何を言い出すのかと、無表情は保ったまま内心で身構えていた桐山だが、ゆっくとり肩から力を抜く。 ふと視線を感じて隣を見ると、朋幸から物言いたげな眼差しを向けられていた。
「どうかされましたか?」
「余計な心配 をするなよ。……お前の気持ちはわかったつもりだ。どういうつもりで、彼――この男と関わりを持っていたか」
 嶋田は軽 く肩をすくめて笑う。
「まあ、無視されるのに比べれば、『この男』扱いのほうがマシですかね」
「勝手に納得していろ」
 素っ気なく言い放った朋幸だが、ふと思い出したように嶋田に尋ねた。
「それで、そっちこそ、こんな時間から何をし てるんだ」
 嶋田がちらりと桐山を見る。へらへらと笑って朋幸の相手をしていた嶋田だが、この瞬間だけは眼差しが険しく なった。
「朝早くに連絡がありましてね。WB社の本社の人間が、成和製薬の本社工場に入ったと。昨日、桐山さんが言って いた連中ですよ。ここまでは目立つのを避けるため、日本人の仲介者を動かしていたんですけどね」
「……わたしが昨日言っ た、というと、エリックのことか?」
 朋幸に続けて桐山が問いかけると、嶋田は首を傾げる。
「名前までは……。ただ、 昨日こちらに着いた外国人という話です」
 ここまで言って嶋田が、意味ありげにニヤニヤしながら二人を交互に見つめてき た。桐山は眉をひそめる。
「なんだ。言いことがあるなら、言ってみろ」
「いえ、お二人とも、WB社の動向というより、 エリック・ウォーカーという人間を気にかけているようですから――どうです、これから一緒に行きませんか、その工場まで。運 がよければ、顔ぐらい見られるかもしれない。それに、昨日の行動についても興味があるでしょう。俺と一緒にくれば、俺の連れ の奴が持っている、これまでのWB社の日本での行動報告書をお見せしますよ」
 桐山は即座に返事ができなかった。必要も ないのにエリックに近づきたくないという思いもある反面、エリックが危険だからこそ、行動を把握しておきたいという思いもあ る。しかし今は、休暇で旅行中だ。
 断ろうと唇を動かしかけた桐山の隣で、朋幸がきっぱりと答えた。
「――行く」
「朋幸さんっ」
 驚いて桐山は朋幸を見る。朋幸は仕事中のような冴えた表情で桐山を見つめていた。
「WB社の動 きは、知っておいて損はないだろう? それにお前だけじゃなく、ぼくも気になっているんだ、あのエリック・ウォーカーという 男が。丹羽商事としても、無関係じゃないしな」
 朋幸がここまで言ってくれて、正直桐山は助かったと思っていた。桐山自 身が思っていたことを、朋幸がそのまま代弁してくれたのだ。
「話がまとまったところで、車に乗ってもらえますか」
  嶋田に声をかけられ、桐山は朋幸と顔を見合わせてから、後部座席に乗り込む。
 車が走り出すと、桐山は腕組みしてため息 を吐き出す。これでよかったのか悪かったのか、自分にもわからない。
 そもそも空港でエリックに出会ったりしなければ、 嶋田の話が気になりはしただろうが、車には乗らなかった。
「……そう、眉間にシワを寄せるな」
 朋幸の言葉に、桐山 は組んでいた腕を解く。朋幸がそっと笑いかけてきた。
「特にどこかに行きたかったわけじゃないんだ。行き先がちょっと変 わったぐらいに思えばいい」
「ちょっと、ですか……。あなたの性格が実は豪胆だということを、こういうときに思い出して しまいます」
 豪胆、という単語を使った途端、朋幸が今度は思いきり顔をしかめる。なぜか、ハンドルを握る嶋田が派手に 噴き出した。桐山には、二人の反応の意味がわからない。
「一体、どうされたのですか?」
「……豪胆というのは、褒め られているのか、けなされているのか、微妙だと思ったんだ」
 そんなことを言って、朋幸は唇を引き結んでしまう。嶋田は いつまでも笑っていたが、最後には朋幸が、うるさいっ、と怒鳴る。
 昨夜どんなことを話したのか、詳細まではわからない が、嶋田を毛嫌いしていた朋幸を知っているだけに、今の状態は打ち解けたと表現してもいいのかもしれない。
 これも、旅 行の副産物と思ってしまうにはしかし、多少桐山は複雑な心境だ。朋幸が心を許す人間は、一人でも少ないほうがいい。
 も ちろんこの気持ちが、自分の身勝手な独占欲からきているものだと、桐山はよくわかっていた。




 夕食を終えてから浴衣に着替えた朋幸は、座卓についたまま、手に取った用紙を睨むようにして見つめていた。
 嶋田が朝 言っていた、WB社の日本での活動報告書をコピーしたものだ。
 朝、成和製薬の本社工場に入ったというWB社の社員らし き外国人だが、昼過ぎまで車の中で待機していたが、結局エリック・ウォーカーではなかった。ただ、朋幸の見覚えのある男では あった。
 祖父と久坂とともにホテルのレストランで食事をしたとき、ウォーカーと一緒に行動していた男の一人だ。あのと き一緒にいたのは、WB社の社員と、日本で動いていた仲介者と見て間違いないだろう。
 そのことに確信が持てただけでも、 朝から昼まで車の中でじっとしていた甲斐はあるというものだ。
 それに嶋田は、約束通り活動報告書を見せてくれ、それど ころかコピーまでして渡してくれた。仕事に見合った報酬を払うと朋幸は言ったが、嶋田は笑って断った。あれはあれで、義理堅 い男なのかもしれない。だからといって信頼に値する男だと判断するのは、また別問題だ。
 物音がして顔を上げると、露天 風呂がある庭に出て風に当たっていた桐山が、部屋に戻ってきた。
 朋幸が何をしているのか知り、桐山は苦笑を浮かべた。
「また目を通されているのですか」
 朋幸はそっと唇を尖らせる。
「気になるだろ。……彼らがどんな動きをしてい るか」
「そのことに関しては、わたしから藤野室長に報告しておきます。あなたはもう、気になさらないことです」
 桐 山にお茶を飲むかと聞かれ、頷く。ふっと息をついた朋幸は、勢いよく用紙を掻き集めてまとめると、封等に入れて仕舞う。
 確かに桐山の言う通りで、WB社に――ウォーカーに関わるのはこれでやめようと思ったのだ。
 急須にお湯を注いでいる 桐山をじっと見つめる。朋幸には気にするなと言いながら、実は桐山も、ウォーカーを気にかけているだろう。つい最近、ほんの 短な言葉を交わしただけの朋幸とは、ウォーカーに対する思いは比較にならないものがあるはずだ。
 だからこそ桐山は、朋 幸を近づけたくないのかもしれない。あの、やけに冷淡そうに見えながら、反面、抑えきれないような獰猛さを秘めた男に。
 朋幸は座卓に身を乗り出して、腕を伸ばす。ハッとしたように桐山が顔を上げるが、構わず引き締まった頬にてのひらを押し当 てる。
「お茶を飲んでから、ホテルの周囲を散歩してみますか? いろいろとみやげ物屋もあるようですし」
「うん」
 渡された湯飲みを受け取って唇をつけようとしたとき、前触れもなく携帯電話の呼出音が鳴り響く。すぐに桐山が立ち上が り、隣の洋室へ向かう。朋幸が目で追っていると、桐山はサイドテーブルの上に置いた携帯電話を取り上げる。
 今回の旅行 には、桐山はプライベートで使っている携帯電話しか持ってきていない。番号を知っている人間はごくわずかで、仕事関係でかか ってくることはほとんどない。だからこそ、かかってきたときは大事だということになる。
 電話に出た桐山は、あっという 間に難しい表情となり、二言三言と言葉を交わしていくうちに、それは驚きの表情となる。テレビから流れてくる音と、桐山が声 を抑えていることもあり、何を話しているのか朋幸には聞き取れない。
 急なトラブルで旅行が中止になるのではないかと、 咄嗟に朋幸は危惧する。自分や桐山に関しては、それが充分にありうる立場だ。
 息を詰めて朋幸が見守っていると、視線に 気づいたように桐山がこちらを見る。安心させるように穏やかな笑みを向けてくれたが、次の瞬間には厳しい表情となった。
 五分ほど話してから電話を切った桐山は、眉をひそめたまま朋幸の元へとやってくる。膝をついて目線を合わせてきた。
「……何か、あったのか? 仕事のトラブルで――」
 不安な気持ちがそのまま声に出て、自分でも驚くほど細い声が出る。 桐山は朋幸の頬に触れてきながら、緩く首を横に振った。
「その点は、ご安心ください」
「なら、一体……。電話は誰か らだったんだ?」
「葉山です。仕事に関する連絡は久坂に任せてありますが、葉山にはあることに関しての連絡を任せていま した。あなたには無関係なことだと思って、お知らせはしていなかったのですが……」
 朋幸にはピンとくるものがあり、考 えるより先に言葉を発していた。
「エリック・ウォーカーのことかっ?」
「そういうことになります。海外事業部やイギ リス支社に、あの男に関する情報収集を頼んでいましたので、その件でわたし宛に連絡があったときは、すべて葉山が受けるよう 指示を出していました。久坂の耳に入るということは、あなたの耳に入るということですから」
「否定はできないな……」
 朋幸が苦い表情で返すと、桐山はさらに言葉を続ける。
「――それと、藤野室長から連絡が入ったときも、知らせるよ うに言っておきました」
「で、葉山の電話は、何を知らせてきたんだ」
 一息ついた桐山は、畳の上に座り込む。
「藤野室長から連絡が入ったそうです。時間がないので、今夜の最終の飛行機で部下たちとともに出発すると」
「……出発っ て、どこに……」
 問いかけながらも朋幸には、なんとなく答えはわかっていた。桐山も、朋幸の声の調子から察したように 頷く。
「あなたが今、お考えになった通りですよ、きっと。――成和製薬との最終交渉や、WB社に対する牽制と、直接対決 という場合に備えて、この地に来られるそうです。宿泊するホテルもわかっています。そこを前線基地にする、と。藤野室長から わたしへの伝言です。もちろん、わたしたちがここにいるということは、藤野室長は存じません」
 事態が呑み込めたとき、 朋幸は軽い頭痛を感じた。誰も彼もが、この地に集結しているということだ。敵も味方も、そのどちらでもない人間までも。
 朋幸は心の底からの言葉を洩らしていた。
「……なんなんだ、一体……」
「エリックが動き始めたからこそ、こういう 事態になったと言ってもいいでしょう。あの男の強引なやり方は、確実に波を起こします」
 座卓に肘をつき、朋幸は熱いお 茶に息を吹きかけて啜る。桐山がためらいがちに声をかけてきた。
「――朋幸さん、大丈夫ですか?」
 朋幸は湯のみを 置いて小さく笑う。
「なんだ。ぼくが機嫌を損ねて怒り出すとでも思ったか。せっかくお前と、ぼくたちのことを誰も知らな い場所に旅行にきたのに、知っている人間が押しかけてくるって」
「いえ……」
 勢いよく立ち上がった朋幸は、裸足で 露天風呂がある庭へと出る。桐山もあとについてきた。
「――放っておけないと思っているんだろ」
 朋幸が言うと、背 後に立った桐山が身じろいだ気配がする。
「藤野室長たちがこちらに来ているのに、自分が優雅に旅行を楽しんで見て見ない ふりをすることを、心苦しいとも思っている。敵が、知らない人間なら放っておけたかもしれないけど、相手はお前にとって因縁 のあるエリック――ぼくが呼ぶと違和感があるな、……ウォーカーだ。本当は、お前自身がウォーカーと直接対峙したいと思って いるんじゃないのか」
 ひんやりとした風に首筋を撫でられ、思わず朋幸は首をすくめる。すると、そんな朋幸を暖めようと するかのように、背後から桐山に抱き締められた。
「あなたの側にいる前なら、そう思っていたでしょう。だけど今は、わた しの最大の仕事はあなたを補佐し、守ることです。それ以外のことに興味はありません」
「……またウォーカーに会ったら言 われるのかな。子守り、って」
「あの男は昔から無礼なのです。お気になさらないよう」
 お前が側についたときから陰 口で聞き慣れている言葉だ、と思いはしたが、口にはしなかった。代わって告げたのは、別の言葉だった。
「明日の朝、藤野 室長のところに顔を出しに行ってやれ。今が正念場だろ。室長自ら足を運んできたぐらいだ。嶋田から受け取った行動報告書をみ やげにするといい。お前が手伝えることがあれば、手伝ってくればいいし」
「しかし……、わたしが顔を出すと、必然的にあ なたの存在も……」
 桐山が何を危惧しているのか、朋幸にはわかる。桐山の腕に頬をすり寄せながら、苦笑しながら言った。
「休暇を取っている間まで、『子守り』をしているんだ、と思ってくれるさ」
「朋幸さん」
 窘めるように桐山に名 を呼ばれる。腕がさらにきつく体に巻きつき、朋幸は桐山の胸にそっともたれかかる。それぐらいでは、当然桐山はびくともしな い。
「……わたしが藤野室長の元に行っている間、あなたを一人にしてしまいます」
「一人でブラブラしているさ。子供 じゃないんだから。それとも、ぼくを一人にしておくと、誰かにさらわれるとでも思っているのか?」
 桐山の肩に頭をのせ、 朋幸は顔を仰向かせる。桐山に顔を覗き込まれ、瞼の上に軽く唇が押し当てられた。
「不安ですよ。あなたがわたしの目の前 にいないと。……誰かに手折られてしまうのではないかと」
「……そういうことを言っているんじゃなくて――」
 言い ながら照れてしまい、朋幸は結局口を閉じる。桐山に促されて向き合うと、引き寄せられて唇を塞がれる。
「明日は、藤野室 長の元からなるべく早く戻ります」
 唇を離してから桐山に囁かれる。朋幸は、桐山の腰に両腕を回してしがみつく。
「――少しだけ、藤野室長にお前を貸してやる」
 頭上から、桐山が洩らした微かな笑い声が降ってきた。








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