09
翌日、不安に感じながらも桐山は、朋幸を残してホテルを出た。藤野には、飛行機が到着した時間を見計らって、昨夜のうちに
連絡を入れてある。
桐山がこちらに滞在していると告げると、ひどく驚いた様子だったが、エリックに会ったという話を
したところ、桐山から切り出すまでもなく、自分たちがいるホテルに来てほしいと言われた。
桐山一人が合流したところ
で事態がそう動くとも思えないが、確かなのは、朋幸と二人きりで過ごす時間が減ったということだ。朋幸が自ら申し出てくれ
たとはいえ、桐山は感謝よりも、心苦しさを覚えずにはいられない。
それに、朋幸には過保護だと怒られるかもしれない
が、心配でたまらなかった。
藤野たちが宿泊しているホテルのロビーに入ると、ラフなジーンズ姿の見覚えのある男が所
在なげに立っていた。桐山の姿に気づき、頭が下げられる。生活産業統括室が統括している事業部の一つである薬品事業部の人
間だ。最近は契約の問題もあり、藤野と行動を共にすることが多いのだ。
「――旅行中だというのに、わざわざお越しいただ
いて、申し訳ありません」
手短に挨拶を交わしてすぐに、心底申し訳なさそうに言われる。
「構いません。申し出た
のはこちらのほうです。それに、近くですから」
実際、藤野たちが滞在することになったホテルと、桐山たちがいるホテ
ルは、さほど離れていない。移動すること自体は手間ではないのだ。
社員に促され、桐山はエレベーターに乗り込む。
「それで、藤野室長は?」
桐山の問いかけに、どういう意味か社員は苦笑交じりで肩をすくめる。
「契約書案の
練り直しなどで、結局一睡もされてません。今は、本社から送った荷物が届いたので、使えるようにしているところです。藤
野室長は、他の仕事もありますから」
「大変ですね」
「まあ、仕方ありません。うちがずっと交渉に当たっていたわけ
ですから。それをルール無視で横槍を入れられると、さすがに頭にきます。それに実際、成和製薬との契約がうまくいかないと、
今後のプロジェクトのいくつかが、影響を受けます。下手をすると、今度はWB社と契約交渉に乗り出さなければならない事態
にもなりかねない」
その辺りの事情は、桐山もよくわかっている。
エレベーターが目的の階に着き、藤野たちが宿
泊している部屋へと案内される。
ドアを開けた途端、慌ただしい気配が桐山にも感じられる。靴を脱いで襖を開けてもら
うと、広い和室となっている。その中央に座卓を四脚、合わせて並べている。座卓の上にはノートパソコン四台が設置され、フ
ァイルや書類が散乱している。オフィスの雑然さを、そのまま持ってきたようだ。
部屋の隅にはスーツケースやバッグが
置かれている。その数を見ただけで、どれだけの大荷物なのかよくわかる。
五人の男たちが室内を行き来しているが、一
人だけ、パソコンの前に難しい顔をして座り込んでいた。藤野だ。
しかし桐山と目が合った途端、ニヤッと笑いかけられ、
大きく手招きされた。桐山も思わず笑みを洩らし、藤野の側に腰を下ろして正座する。
「――お互い、まさかこんなところ
で顔を合わせることになるとはな」
言葉とともに藤野から片手を差し出され、一瞬戸惑った桐山だが、すぐに意図を察す
る。桐山も片手を出すと、藤野に握られた。儀礼的ではない、力のこもった握手だ。
「電話で状況を聞いたときは、まさか、
と思いましたよ」
「室長自ら、現場で陣頭指揮を執るとは思わなかった、か? 俺も、相手がWB社じゃなければ、ここま
でムキにはならないんだがな。しかし、WB社には何度か煮え湯を飲まされている。そろそろ、こちらのやり方ってものを教え
てやらないとな――」
座椅子の背もたれに体を預けて天井を仰ぎ見た藤野が、低い声で洩らした。
「丹羽商事どころ
か、丹羽グループを敵に回すというのが、どういうことか」
眼鏡の中央を押し上げた桐山も、藤野に倣って声を抑える。
「……まさか、上から……」
「社長から電話をもらった。徹底的にやれとな。うちとWB社を秤にかけている成和製薬
にも、かなりの不快感を感じているよう口ぶりだったな」
朋幸の父親――丹羽商事の社長は、血統だけで今の地位に上り
詰めたような、甘い人物ではない。おそらく、藤野が感じた通りなのだろう。
今回、契約がまとまったとして、あとでど
んな形での報復に出るか――。しかしそれは、また別の話であり、桐山や藤野たちが心配する義理もない。
桐山は持って
いた封筒を藤野に差し出す。
「これは?」
「知り合いのフリーライターから渡された、WB社の社員のここでの行動記
録です。成和製薬の誰と通じているか、分析する材料になるかもしれません」
「助かる」
ここでお茶が出され、桐山
は藤野に言われるまま足を崩して座り直す。
「お前には、今日はちょっとつき合ってほしい。旅行中、わざわざ陣中見舞い
にきてくれたのに申し訳ないが。俺もやることが山ほどあってな、こっちのことにかかりっきりにはなってられないんだ。万が
一という場合に備えて、シナリオはいくつか作っておいたほうがいい。たとえば、WB社と交渉する場合になったときの、提示
条件とかな」
「室長にも、そう言われて参りました。今日一日でしたら、おっしゃっていただければ、なんでもいたします
よ」
「……言い方を変えるなら、一日しかお前を貸さない、というわけか、本澤室長は」
桐山には答えようがなく、
曖昧な表情で返す。
「まあ、旅行中なのに手伝ってくれるだけでも、ありがたいがな」
「室長に伝えておきます」
ちらりと笑った藤野は、しかし、と洩らす。
「大胆だな」
「何が、ですか……?」
「御曹司を連れて旅行なんて。
何かあったら、と考えると怖くないか? 丹羽グループの至宝なんて言われてる人物だぞ。本人は、気にかけてなさそうだが。
だからこそ、周りが冷や冷やする」
確かに、藤野の言う通りだ。だが唯一訂正するなら、朋幸は自分の出自や立場につい
ては、やはり強く自覚しているのだ。
「仕事でも私生活でも、あの方をお守りするのがわたしの使命です。室長は、子守り
だろ、とからかうようにおっしゃられますが」
「そういうことが言えるということは、気持ちに余裕があるということだな。
いいことだ」
なぜだか自分が褒められた気持ちになり、桐山はつい唇を綻ばせた。
「――……あの方がそう感じてら
っしゃるなら、嬉しいですね」
くあぁ……、とあくびを洩らした朋幸は、座椅子の上で膝を抱えて座り、ぼんやりとテレビを観ていた。桐山にはあんなこと
を言ったが、正直、一人の時間を持て余していた。だいたい、何をして、どこに行けばいいのかわからない。
もうすぐ昼
だが、あまりお腹は減っていない。しかし食べなければ、桐山はうるさい。いつも、何を食べたか細かく質問してチェックして
くる。
仕方なく、テレビを消した朋幸は立ち上がり、財布をパンツのポケットに入れる。少しホテルの周囲を散歩してか
ら、どこかで昼食をとろうと考えたのだ。
フロントに部屋の鍵を預けてホテルを出た朋幸は、どちらの方向に行こうかと
数秒迷ってから、左の方向へと歩き出す。この近くに桜の木が多く植えられた寺があると聞いたので、立ち寄ってみようかと思
ったのだ。もう桜の花は無理だろうが、葉桜を眺めるのもいいかもしれない。
朋幸はそんなことを考えながら、途中にあ
るみやげ物屋を覗く。誰かにみやげを買って帰るつもりもないので、本当にただ見るだけだ。
他の観光客たちに混じって、
小さな飾り物を手に取っていると、突然、背後から声をかけられた。
「――この辺りのみやげなら、漆器がいいらしいとい
う話だ、御曹司」
聞き覚えのある声に、朋幸はハッとして振り返る。そこには、スーツ姿のウォーカーが立っていた。片
手をスラックスのポケットに突っ込み、唇には薄ら笑いを浮かべている。指には火のついた煙草を挟んでいた。
紺碧の瞳
が、値踏みするように朋幸を見ている。相変わらず、傲慢で鼻持ちならない雰囲気を漂わせている男だ。
朋幸はキッと睨
みつけると、手にしていたみやげ物を置いて足早に歩き始める。しかし、三歩も歩かないうちに強い力で手首を掴まれた。
「離せっ」
朋幸は必死でウォーカーの手を押し退けようとするが、力は増すばかりだ。骨を折られそうな危機感を覚え、
呻き声を洩らして体から力を抜く。すぐにウォーカーを力を緩めた。
「細い手首だ」
そう言ってぐいっと手首を掴み
寄せられる。次の瞬間、朋幸は目を見開く。ウォーカーが朋幸の手の甲に軽く唇を押し当てたのだ。
ゾクッと背筋に悪寒
が駆け抜ける。この男の言動は、とことん朋幸の神経を逆撫で、嫌な気分にさせられる。
「何をするっ」
朋幸はもう
一方の手で、ウォーカーの頬を鋭く打つ。顔を上げたウォーカーの目は獰猛で、理知的な雰囲気と相まって不気味だ。一度息を
呑んでから、低く抑えた声で言った。
「……ぼくを女扱いするな。それと、子供扱いもだ。桐山以外に、ぼくの『子守り』
をさせるつもりはない」
ウォーカーの手を振り払って朋幸は再び歩きだすが、悠然とした足取りでウォーカーが追いつき、
隣を歩く。
「どこに行くんだ」
「どこでもいいだろう。……それより、なんでお前がここにいる」
「観光だ」
ウォーカーの答えを聞いた途端、朋幸は踵を返して引き返そうとしたが、すぐにまた手首を掴まれて強引に引っ張られる。
「離せと言っているだろうっ」
「俺が怖いか、御曹司?」
バカにしたような口調で言われ、朋幸は即答した。
「お前が嫌いなだけだ」
「見た目によらず、気が強いな。しかし、思ったことをそのまま口にできるのは、自分が与え
られている特権のおかげだと思わないか?」
「特権? 嫌いな奴に嫌いというのに、どんな特権が必要だと言うんだ。こう
いうのは、特権じゃなく、自由というんだ」
ウォーカーを睨みつけると、冷めた眼差しで見つめ返される。
「――さ
っきの質問だ。どこに行く? それに、桐山は?」
朋幸は手首を掴まれたまま歩きながら、吐き出すように答えた。
「寺に、葉桜を見に行く。ぼくは一人だ。桐山は用があっていない。これで納得しただろ。さっさとぼくの前から消えろ」
「……葉桜?」
引っかかったのはそこかと内心で舌打ちしながら、朋幸はきちんと説明せずにはいられなかった。
「桜の花が散って、若い葉が出ている桜のことだ」
「なら俺も行く」
「好きにしろ。ただし連れが欲しければ、ぼく以
外の人間と行け」
「どうして俺がここにいるのか、その理由を教えるから同行させてほしいと言えば?」
朋幸は、ウ
ォーカーに負けない冷えた眼差しを向ける。
「――取引にならない。わかりきっている答えを聞かされたところでな」
「手厳しい」
構わず朋幸は足早に歩き続けるが、相変わらずウォーカーはついてくる。
ウォーカーは桐山に会いた
くて――もしくは様子をうかがうために、ここまで足を運んできたのだ。その桐山がいないというのに、自分についてくるウォ
ーカーの真意がわからなかった。
背後からウォーカーがついてきているという圧迫感から、とうとう朋幸は小走りとなる。
数分後、寺の存在を示した看板を見つけ、足を止める。見上げると、長い石段を登った先に、古いながらも立派な門があ
る。ここが目的の寺で間違いなさそうだ。
背後を振り返り、ウォーカーの目立つ姿がないのを確認してから、石段を上が
る。本当は、回り道をしてホテルに引き返してもいいのだが、なぜ自分がウォーカーのせいで行きたい場所を諦めなければなら
ないのかと、ムキになっていた。
ようやく石段を上りきったときには、朋幸の足はガクガクと震え、肩を上下させて呼吸
を整える。仕事の忙しさもあって、運動不足だ。
ふらふらになりながらも寺の敷地内に入る。思った以上に人の姿は少な
い。桜の花が満開なときならともかく、散ってしまえば興味を示す人は少ないのだろう。朋幸は額に浮いた汗を拭ってから大き
く深呼吸する。
まだ桜の花が散ったばかりらしく、何本も植えられている桜の木の枝は、まだほんのりと赤みがかってい
る。もう少し日が経てば、鮮やかな新緑となって眩しいぐらいになるのだろうが――。
朋幸は無意識に体を小さく震わせ
る。陽気がいいからと、長袖のシャツ一枚で出てきたのだが、汗が引いた途端、肌寒さを感じた。
前触れもなく、肩から
背にかけて温かな感触に包まれる。驚いて体を強張らせると、いつの間に近づいたのか、すぐ傍らから声をかけられた。
「――あんなに走ったあとで薄着でいると、風邪を引くぞ」
隣を見るとウォーカーが立ち、シガレットケースから新たな
煙草を取り出そうとしていた。ゾッとするものを感じ、朋幸は肩にかけられたウォーカーのジャケットを乱暴に突き返す。
この男を怖いと思った。威圧的な態度を取られるのも恫喝されるのも、朋幸は怖いとは思わない。朋幸にとっての怖さとは、
得体の知れなさ、だ。
おとなしくホテルに帰ればよかったと後悔しながら、朋幸は何も言わず、ウォーカーから離れるた
め、さきほど通ってきた石段とは反対方向に歩き出す。
「逃げるのか、御曹司」
からかうように背後からウォーカー
に声をかけられる。朋幸は前を向いたまま怒鳴った。
「ぼくは御曹司という名前じゃないっ」
「だったら――朋幸」
「馴れ馴れしく呼ぶなっ……」
嫌味なのか、ウォーカーの派手な笑い声が聞こえてきた。朋幸は振り返ることなく走
り、寺の建物の周囲を半周して裏へと周る。助かったというべきか、裏にも細い石段があった。ただし、表側の石段とは違って
あまり手入れはされておらず、桜の花弁や葉が降り積もってどす黒く変色しており、そのうえ苔まで生えている。
朋幸は
足元に気をつけながら階段を下りていく。方向からして、もしかしてホテルに帰るにはこちらのほうが近道かもしれない。
急な石段ながら、なんとか足を滑らせることなく、あと数段で下りきるというところまできたとき、つい朋幸は足元から注意
を逸らしてしまう。
「あっ……」
足が滑り、ガクンと視界が大きく揺れる。咄嗟に踏ん張ろうとしたが、このとき左
足を不自然に捻ったのを感じた。
石段から投げ出されるようにして道に座り込んでいた。助かった、と思ったのは一瞬で、
左足首が急にズキズキと痛み始め、顔をしかめた朋幸は小さく呻く。
痛みを発する左足首に手をかけると、頭上から声が
降ってきた。
「足を捻ったのか」
さすがにもう驚く気力もなく、朋幸はゆっくりと顔を上げる。おもしろがるような
表情をしたウォーカーに見下ろされていた。
「……なんなんだ、お前は……」
手を振り、犬を追い払うような動作を
取るが、ウォーカーには通じない。助けるわけでもなく――朋幸も助けてもらいたいわけではないが、ただ見下ろしてくる。
朋幸は地面に両手をついてから、足を引きずるようにして慎重に立ち上がる。なんとか立ち上がることはできたが、左足
を踏み出して地面につけると、ズキリと痛みが走った。
左足に力が入らず、再び地面に座り込みそうになったが、寸前で
腕を掴まれて支えられた。
すぐ側で、ウォーカーが酷薄そうな笑みを浮かべている。
「君たちが泊まっているホテル
を見つけ出せたから、姿でも見ることができたらラッキーだと思っていたが、まさか御曹司を手みやげにして帰ることができる
とはな」
ウォーカーの言葉に、朋幸はキッと睨みつける。
「手みやげってなんだっ。とにかく、ぼくを離せっ。ぼく
はここから動くつもりはないからな」
「けっこう。俺が動かす」
そう言ったウォーカーに、朋幸の体は簡単に抱き上
げられる。桐山にこんなことをされたら羞恥するだろうが、今の朋幸にそんな生易しい感情が湧き起こるはずもない。全身から
血の気が引くような感覚と怒りに身を震わせる。
「……下ろせ……」
「連れて帰る。――大騒ぎになるだろうな、丹羽
グループは。旅行先で君が行方不明になったと知ったら。そうなると、同行している桐山の失態ということになるか?」
顔を強張らせた朋幸は、ウォーカーの腕の中でもがきながら、手を振り上げて顔を殴りつける。ウォーカーはわずかに顔をしか
めてから、凄みのある声で囁いた。
「――これ以上暴れたら、道に叩きつける」
朋幸は反射的に動きを止め、ウォー
カーに鋭い眼差しを向ける。ウォーカーは、朋幸の軽蔑を含んだ眼差しに心地よさを感じたように、目元を和らげた。ただし、
口から出た言葉は冷酷そのものだった。
「普段どれだけ大事にされ、何不自由なく過ごしているか、君を見ているとよくわ
かる。だが、俺には関係ない。わかるのは、君を壊したら、どれだけの人間がショックを受けるかということだけだ。――俺は
やるといったら、本気でやるぞ」
ウォーカーの本気は、嫌というほど朋幸に伝わってきた。大声を発しようとすれば、ウ
ォーカーは容赦なく、朋幸の体をコンクリートの地面に叩きつけるだろう。
朋幸が体を硬くしたまま動かなくなると、満
足げにウォーカーは頷く。
「なら、行こうか。まずは足の治療が先だ」
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