■ BUSYなカンケイ ■




10

 自分を連れてきてどうするつもりだろうかと、朋幸は息を潜めて隣のウォーカーを見つめる。ハンドルを握るウォーカーの唇に は煙草が挟まれ、一見すると機嫌はよさそうに見える。だが、サングラスをかけているため、目の表情は見えない。
 も っとも朋幸からすると、仮にウォーカーが笑みを見せたとしても、不気味としか映らないだろう。
 間違いなくウォーカーは、笑み を浮かべたまま人を傷つけられる種類の人間だ。
 左足首が熱と痛みを交互に発し、それでなくても神経がずっとざわついて いる。忌々しく感じながら朋幸は、自分の足元に視線を落とす。
 抱き上げられたままウォーカーの車に乗せられたあと、病 院に連れて行かれて診察を受けた。診断は、捻挫だ。
 すでに足は真っ赤に腫れあがっており、湿布を貼っている。
 一 週間分の湿布と痛み止めを処方してもらったあと、自分で出すと朋幸が言い張ったのだが、ウォーカーが診療代を払った。
  そのあとまた車に乗せられ、今のこの状態だ。
 うかつなことに、携帯電話を持ってこなかったので、桐山と連絡を取るのも ままならない。ウォーカーと一緒にいるなどと知ったら、桐山は藤野を放って朋幸を探すのに奔走するだろう。
 朋幸がそっ とため息をつくと、待っていたようにウォーカーが口を開いた。
「――見えてきた」
「えっ?」
「俺たちが宿泊して いるホテルだ。スイートを取っているから、君を休ませるベッドの心配もいらない。ただ、他に人間がいるのは、我慢してくれ」
「ホテルの前からタクシーに乗せてもらえれば、ぼくは帰る。病院でもそう言ったはずだ」
「君の体は俺が預かった…… と、俺も言ったはずだが」
 一度唇を噛んだ朋幸は、吐き出すように答えた。
「車から飛び降りてやる……」
「君が そんなことをして、困るのは誰だ?」
 朋幸は再び唇を噛み、ウォーカーを横目で睨みつける。ウォーカーは煙草の煙の吐き ながら笑った。
「そう。困るのは桐山だ。俺としては、あの男が困るのは嬉しいが」
「どうして――」
 桐山を敵視 する、と言いたかったが、その前に車はホテルの駐車場に入り、エンジンが切られる。
「さて」
 そう洩らしたウォーカ ーが煙草を揉み消して車を降りる。嫌な予感を感じた朋幸も慌ててシートベルトを外すと、自分でドアを開けて降りようとしたが、 素早く助手席側に回り込んできたウォーカーが腰を屈めて朋幸の顔を覗き込んでくる。
「行こうか、御曹司」
 朋幸はピ シャッとウォーカーの頬を平手で殴ってやったが、表情も変えずにウォーカーに再び抱き上げられる。
「離せっ。抱き上げな くてもいいだろっ。一人で歩ける」
「俺の気分がいいんだ。丹羽グループだけでなく、あいつにとっての至宝が、今は俺の手 の中にあって、壊すことすら簡単だと実感できて」
 ウォーカーは日本語が堪能だが、ロベルトとはまったく逆で、悪意に満ち た言葉しか吐き出さない。だから朋幸も、この男を心底嫌悪して、警戒してしまう。
 言葉が人格すべてを表すとは言わない が、ウォーカーの言葉は、心の中にある毒を滲ませているように感じるのだ。
 朋幸がじっと身を硬くすると、鼻先で笑った ウォーカーは大股で歩き出す。抱え上げられている人間の負担などまったく考えていない、乱暴な歩き方だ。おかげで足の痛みに 響き、かえって自分の足で歩いたほうがマシだと思える。
 ロビーでは、利用客や従業員たちから派手に注目を浴びるが、一 向に気にかけた様子もなくウォーカーを前を見据えて歩き、さすがに朋幸も周囲を見回す勇気もなく、顔を伏せる。
 おかげ でエレベーターに乗り込んで二人きりになったときは、相手がウォーカーとはいえ安堵の吐息を洩らしていた。
 視線を感じ、 ウォーカーを睨み上げる。ウォーカーは、冷えた眼差しを朋幸に向けていた。
「……なんだ」
「その庇護欲で、桐山を骨 抜きにしたのかと思って、感心していた」
 ウォーカーの言葉に、内心で朋幸はドキリとする。自分たちの関係を悟られたの かと思ったのだ。だが次の言葉を聞いて、考えすぎだと知る。
「俺が知っている桐山は、子守りの仕事などで収まる男ではな かった」
「――お前に、桐山の何がわかっていたというんだ」
 朋幸が声を抑えて言うと、射殺されそうな目つきでウォ ーカーに睨まれた。本気で床に叩きつけられるのではないかと、咄嗟にそう思ったぐらいだ。
 エレベーターを乗り換え、 ウォーカーたちが宿泊しているという部屋の前まで連れてこられる。ウォーカーはベルを鳴らさず、いきなり爪先でドアを軽く蹴 った。少ししてドアが開けられ、同時に英語でのぼやき声が聞こえてくる。
「エリック、ドアは蹴らずにベルを鳴らせと言っ てるだろ――」
 中から顔を出したのは、外国人の男だった。朋幸が昨日、成和製薬の本社工場から出てくるのを見かけた男 だ。つまり、WB社でのウォーカーの同僚というわけだ。
 男は、ウォーカーの腕の中にいる朋幸を、まじまじと見下ろして くる。
「……どうしたんだ、エリック、彼は……」
「拾った」
「わたしは日本に来たのは初めてだが、こんなきれい な男の子が落ちているものなのか?」
「たまにな」
 真顔で答えたウォーカーを、朋幸は睨みつける。唇の端を動かすだ けの笑みを浮かべたウォーカーは構わず部屋に入る。
 リビングとして使われている広い部屋を見て、朋幸は目を細める。そ こにはパソコンやプリンタ、FAXといった機材が持ち込まれるだけでなく、丸テーブルは部屋の隅に押しやられ、会議室などで 使われる長テーブルが運び込まれていた。
 イスに腰掛けているのは外国人もいれば、日本人もいる。この場にいる人間だけ で七人はいた。
 携帯電話を手に話す者や、パソコンと向かい合っている者、絶えず用紙を吐き出し続けるプリンタの前に腕 組みして立っている者から、談笑している者まで。思い思いに行動している。
 室内の様子はまるで――。
「ここは、俺 たちの仮のオフィスだ」
 朋幸の考えを読んだように言ったのは、ウォーカーだ。そして、一人の男に声をかけた。
「今 使ってない寝室はどれだ」
「使ってないのは――」
 答えながら男がウォーカーを見て、ぎょっとしたように目を丸くす る。
「おい、それ……」
「拾ったんだと」
 答えたのは、ドアを開けた男だ。
 ウォーカーはズカズカと奥の部 屋へと向かう。薄暗い部屋で、広いキングサイズのベッドの上に朋幸は下ろされた。
 窓に歩み寄ったウォーカーが勢いよく カーテンを開く。外の陽射しに目がくらみ、朋幸はきつく目を閉じて顔を背ける。
 まばたきを繰り返してから、なんとかし っかり目を開けられるようになると、ウォーカーは窓にもたれるようにして立ち、煙草を咥えていた。
「――……仮のオフィ スって、どういう意味だ」
 ウォーカーに尋ねてから、ベッドの上に靴を履いたまま座っているのに抵抗を覚え、仕方なく朋 幸は靴を脱いで床に落とす。
 左足首にそっと触れると、湿布の上からでも腫れているのがわかる。
「WB社は、日本に 支社を置くことにした。今はオフィスを探している最中だ。だから隣の部屋の様子は、社員ごと移動して仕事しているというわけ だ。他に聞きたいことは、御曹司?」
 朋幸は手近にあったクッションを思いきりウォーカーに投げつける。ウォーカーは片 腕で簡単に阻み、冷たい笑みを唇に浮かべ続ける。
「聞きたいことがないなら、しばらくこの部屋で休んでいてくれ。それと、 水を持ってくる。足首が痛むんだろ? 医者から痛み止めを飲んでおけと言われたはずだ」
「電話を貸してくれ。桐山から連 絡が入るようになっているんだ。ぼくが出ないと、桐山が心配する」
 なぜかこの部屋には電話が置いていなかった。あらか じめ朋幸を閉じ込めるために準備していたとも思えないので、隣の部屋に持っていって使っているのかもしれない。
 すぐに 電話をかけようと思っていた朋幸は本気で焦っていた。しかもウォーカーが、朋幸の焦りに拍車をかけるような返事をする。
「それは聞き入れられない」
 あっさりと言い放って、ウォーカーは大股で部屋を出ていく。乱暴にドアが閉められた音に、 朋幸はビクリを肩を震わせた。
 ベッドから立ち上がろうとしたが、やはり左足には力が入らず、支えなしでは前に進めない。 諦めて、ベッドに座り直す。
 せめて足首の痛みがもう少し和らぐまで、おとなしくしているしかないようだった。
 諦 めたわけではないが、覚悟を決めてしまうと、あとはもう落ち着くしかない、そして冷静に考える。
 あれだけ目立つ行動を 取っていて、ウォーカーが本気で朋幸を誘拐――拉致といってもいいが、したとは思えない。仮に本気だったとしても、隣にいる 他の人間たちが賛同しているようには見えなかった。
 とんでもない知り合いがいるものだと、桐山の顔を脳裏に描きながら、 朋幸は心の中でぼやく。
 ベッドの上に両足を投げ出したところでドアがノックされ、ウォーカーのものではない声が英語で、 水を持ってきたと告げる。
 軽く息を吐き出した朋幸も、入っていいと英語で応じた。




 部屋の隅で携帯電話を耳に当てながら、桐山は言いようのない不安を感じていた。
 さきほどから朋幸の携帯電話にかけて いるのだが、その朋幸が出ないのだ。仕方なくホテルのフロントに電話をかけ、部屋の電話に回してももらったが、結果は同じだ。 だいたい、部屋の鍵を朋幸はフロントに預けたままだという。
 朋幸には、何時に連絡を入れるか告げてある。もし携帯電話 を忘れて外出したとしても、時間までには携帯電話の前にいるよう、朋幸ならそうする。自分の立場がわかっている人だ。
「――どうした。怖い顔して」
 碗に盛ったご飯をかき込んでいた藤野に声をかけられる。桐山は携帯電話を耳から離して、 抑えた声で告げた。
「室長が……、電話に出ないのです」
「出かけているんじゃないのか」
「ええ、ですが携帯もあ りますし、万が一お忘れになっていたとしても、昼に電話することは告げています。部屋にもいらっしゃらないようですし。こう いうことはきちんとされた方なので、気になります」
 うなり声を洩らした藤野は碗を置き、食事をしている他の社員たちに 視線を向ける。
「なんなら、うちの連中をホテルに向かわせようか?」
 桐山は即座に首を横に振った。
「いえ、ま だそこまでは……」
 藤野は、桐山の反応を過保護だとは言わなかった。それどころか、表情は険しくなっている。
 桐 山は眉をひそめて少しの間考え込んだが、携帯電話で今度はある人物へと連絡を取る。
 こちらのほうは、一分ほどコール音 を聞き続けはしたものの、なんとか電話に出た。
『……あんたか。どうか、したのか……』
 電話に出たのは、眠くてた まらないといった感じの声の嶋田だった。自分の内心での焦りもあり桐山は、のんびりとした様子の嶋田に八つ当たりに近い怒り を覚えたが、ぐっと堪える。
「寝ていたのか」
 意識せずとも非難がましい声となる。
『朝まで仕事していて、温泉 に入ってやっと寝入ったところなんだ。知ってるだろ。俺がここに遊びに来たわけじゃないって』
「――ということは、今ホ テルにいるんだな」
『うん? ああ、そうだけど……』
 桐山は軽く息を吐き出してから、藤野を見る。箸も置いた藤野 は、じっとこちらの様子をうかがっていた。
「なら悪いが、今からホテルの中や周囲で、朋幸さんを探してくれないか」
 電話の向こうで嶋田が飛び起きた気配がする。
『探してくれって……、いないのかっ?』
「それがわからないから、探 してくれと言っている。連絡を入れる約束をしていたのに、携帯に出ないんだ。部屋の電話も同じだ。わたしもこれからホテルに 戻るから、それまで――」
 頼む、と言った桐山の声が微かに震えを帯びていたことを、果たして藤野と嶋田は気づいただろ うか。頭の片隅でちらりと思ったが、今は自分の体面などどうでもいい。
 桐山は携帯電話を切ると、藤野に向き直る。
「大変なときに中座して申し訳ありませんが――」
「いいから早く行け。お前の心配しすぎだとしても、確認しておいて損は ないだろう」
 頷いた桐山は傍らに置いてあったジャケットを羽織って立ち上がる。
「――桐山」
 部屋を出て行こ うとしたところで藤野に呼び止められる。厳しい表情で藤野が言った。
「もし、人手が必要な事態になったら、いつでも連絡 してこい。駆けつける」
 桐山は強い眼差しを藤野に向け、藤野は落ち着いた表情で受け止める。
 藤野たちの手を借り るような事態は、できることなら考えたくない。
「……よろしくお願いします」
 それだけ言って素早く部屋を出ると、 桐山は廊下を駆けてエレベーターに飛び乗る。
 タクシーに乗り込み、自分たちが宿泊しているホテルに向かってもらう。
 シートにもたれた桐山は、膝の上でぐっと拳を握り締める。気持ちばかりが焦って仕方ない。
 朝、部屋を出るときに 見た朋幸の姿が、瞼の裏に鮮やかに蘇る。
 行ってこいと、素っ気なく言って軽く手を振ってくれた。今日の別行動を気にし ていないという、朋幸なりの表現の仕方だ。そんな朋幸の後ろ姿を見て、桐山はそっと笑みをこぼしたのだ。
「あの人に何か あったら……」
 気持ちが強すぎて、無意識のうちに喉の奥から声を絞り出す。
 ホテルの前でタクシーが停まり、急い で降りる。足早に門をくぐろうとして桐山を呼ぶ声が聞こえ、ハッとして足を止める。
 眼鏡を押し上げて目を凝らすと、こ ちらに駆け寄ってきているのは嶋田だった。
「はあっ、やっぱりそうだった。タクシーに乗っている人間が、あんたに似てい ると思ったから、追いかけてきたんだ」
 肩を上下させ、荒い息をつきながらそう言った嶋田に、すぐに桐山は詰め寄る。
「朋幸さんはっ?」
 驚いたように目を丸くした嶋田だが、次の瞬間には苦い表情となって首を横に振る。
「あんた からの電話を受けて、まずはホテルの周りをぐるりと歩いてみた。それに、ホテルの庭もな」
 桐山は一気に走り出す。
「おいっ」
「部屋を確認してみる」
 俺も行くと嶋田は言ったが、振り返る時間も惜しくて、走りながら怒鳴る。
「好きにしろっ」
 フロントで鍵を受け取ると、自分たちの部屋へと向かう。
 桐山はドアを開けて慌ただしく部屋に足 を踏み入れると、いないとわかっていながらも、部屋を行き来して朋幸の姿を探す。
 ふと目に止まったのは、座卓の上に置 かれた朋幸の携帯電話だった。
「……部屋に荒らされた様子はないな」
 室内を見回しながら嶋田が言う。桐山はその場 に立ち尽くし、朋幸の携帯電話を見下ろす。ようやく口を開くことができた。
「多分、ご自分で外に出て、何かあったんだろ う」
「――この辺りをのんびり散歩しているとは、考えにくいな」
 ふいに嶋田が声のトーンを変える。桐山は朋幸の携 帯電話をジャケットのポケットに滑り込ませて嶋田に目をやる。
「あんたも、もしかして、と思っているんだろ?」
「… …あいつは、朋幸さんの顔を知っているからな。素性も」
「なら、動くしかないな。……丹羽商事の人間がいきなり動いたら 事も大きいだろうから、先に俺が探りを入れるよ」
 嶋田は自分の携帯電話を取り出し、どこかにかけようとする。おそらく、 WB社の行動を一緒に追っているもう一人の男だろう。
 思わず桐山は問いかけていた。
「どうしてお前までムキになる。 フリーライターのお前にしてみれば、ネタとしてはおもしろい事態だ」
 嶋田は肩をすくめて笑う。
「他のことに関して は、そうだが、お坊ちゃまのことは別だ。早くから俺が目をつけていたあの人を、わけのわからない奴にキズモノにされたら、た まったものじゃない」
「……嫌な言い方をするな」
「それは失礼」
 ふざけているのか真剣なのか、いまいち掴み所 のない嶋田だが、とりあえず今は桐山と目的は同じだ。
 ウォーカーを罵倒する言葉を口中で呟いて、桐山は自分のてのひら に爪を立てた。




 ベッドに転がった朋幸は、広げていた雑誌を閉じて枕元に放り出す。苛立たしさを込めて、大きくため息を吐き出していた。
 部屋から出してもらえないので、テレビを観ているか、やけに愛想のいい男が持ってきてくれた新聞や雑誌を読むしかない のだ。
 格好のせいもあって朋幸が大人には見えないのか、ジュースやお菓子まで差し入れられているので、待遇は悪くはな い。だからといって、閉じ込められている事実に変わりはない。
 足がなんともなければ、ドアを蹴りつけるぐらいするのだ が――。
 朋幸はゆっくりと体を起こして床に慎重に足を下ろす。そこに、ドアがノックもなしにいきなり開けられた。
 パッと顔を上げると、無礼な男はウォーカーだった。手にはトレーを持っている。
「……ノックぐらいしろ」
 険を含 んだ声で朋幸が言うと、ウォーカーは唇を歪めるようにして笑う。
「それは失礼。御曹司」
 朋幸は雑誌を掴んで投げつ ける。雑誌はウォーカーの足に当たり、床に落ちた。つまらなさそうに自分の足元に視線を落としてから、サイドテーブルの上も 見る。手つかずのお菓子やジュースを置いたままなのだ。
「俺がいない間に、勝手なことをした奴がいるみたいだな」
「お前より気がきいているぞ」
 皮肉で応じながらも朋幸は、ウォーカーがさきほどまで隣の部屋にはいなかったのだと知る。 人を閉じ込めておいて、自分は悠々と出かけていたというわけだ。
「御曹司は、口が悪いな」
「御曹司と呼ぶな。ぼくは そんな名前じゃない」
「――朋幸」
 いきなりウォーカーに名を呼ばれ、朋幸はビクリと肩を震わせる。ウォーカーはさ きほどの仕返しか、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「これでいいのか?」
「ぼくの名前を呼ぶなといったはずだ。……鳥肌 が立つ」
「よほど俺が嫌いなんだな」
 言いながらウォーカーがサイドテーブルの上にトレーを置く。朋幸の昼食を運ん できたのだ。朋幸は小声で答えた。
「……嫌いに決まっているだろ」
「安心しろ。俺も君が嫌いだ」
 朋幸とウォー カーは、互いに敵意を込めた目で睨み合う。顔を背けたのはウォーカーが先だった。
「食事をしろ。飢えさせる気はない。あ る程度弱ってもらうと、抱き上げるときに便利ではあるだろうがな」
 ウォーカーに強引に手を掴み寄せられ、フォークを握 らされる。朋幸は必死に指を開こうとするが、ウォーカーにしっかりと手を握られる。
「食欲がないんだっ……」
「一口 二口ぐらいなら、入るだろ」
「食べたくないっ。それより、早くぼくをここから出せ」
 途端にウォーカーがスッと身を 引き、片手でドアを示す。ニヤリと笑いかけてきた。
「ドアまで行けるのか?」
「這ってでも帰ってやる」
 朋幸は 靴を履いて立ち上がると、慎重に左足を引きずる。一歩歩くだけで全身から冷や汗が噴き出してくる。歯を食い縛って数歩は歩い たが、結局その場に座り込んでしまう。
「――わかっただろ。まだおとなしくこの部屋にいろ」
 ウォーカーに手首を掴 まれて引き立たされそうになったが、朋幸は手を払い退ける。
すると突然、乱暴に抱き上げられてベッドに投げ飛ばされた。
 真上から顔を覗き込まれ、朋幸は体を起こしながらウォーカーを睨みつける。ウォーカーは鼻先で笑った。
「こんなに 強情な御曹司相手なら、桐山も子守りに苦労しているだろうな」
「お前には関係ないっ」
 言い放ったあとに、ウォーカ ーにあごを手荒に掴み上げられる。紺碧の瞳が憎々しげな色を浮かべている。本当に、朋幸を憎悪の対象としているかのように。
「――……君みたいな世間知らずの子供が、桐山ほどの男を支配して楽しいか? それとも、単なるステータスの証として、 連れているだけか」
 ウォーカーの言葉に、目も眩むような怒りを感じながらも朋幸は、一方で奇妙な違和感を感じずにはい られなかった。
 ウォーカーは一体、何を言っているのか、と。今の言葉を聞いていると、まるで――。
「おい、さっき から一体、何を怒鳴り合っているんだ」
 睨み合う二人の間に、そんな声が割って入る。ドアのほうにちらりと目をやると、 二人の男が部屋の中を覗き込んでいた。
 朋幸はウォーカーに視線を戻し、嘲笑する表情で挑発的に言ってやった。
「あ の男は、ぼくのものだ。ぼくと桐山の間のことに、お前なんかが口を出すな。――なんの権利もないくせに」
 ウォーカーの 表情に激情が走る。手が振り上げられたのを見ても、朋幸は目を逸らさない。
「おいっ、エリックっ……」
 男たちが止 めに入ろうとしたが、構わずウォーカーが手を振り下ろそうとする。すかさず朋幸は鋭く叫んだ。
「何を敵に回そうとしてい るのか、わかっているんだろうなっ」
 頬に触れる寸前で、ピタリと手は止まった。ウォーカーは荒い呼吸を吐き出してから、 強張った笑みを浮かべる。
 朋幸は背に冷たいものが流れるのを感じていた。ウォーカーの動きが起こした風が頬に触れたが、 だからこそわかった。ウォーカーは本気で朋幸を殴ろうとしていたのだと。
 こういう恫喝は本来は唾棄すべき方法だが、こ うでも言わなければウォーカーは冷静さを取り戻さなかっただろう。それに、朋幸の頭にも血が上っていた。
「……君に救わ れた、というわけか」
 朋幸の意図がわかったのか、ウォーカーが英語で洩らす。男が二人の間に割って入ってきた。
「何をやってるんだ、エリック。怪我した子を殴ろうとするなんて、お前らしくない」
 もう大丈夫だと言いたげにウォーカ ーは肩をすくめ、男の肩越しに朋幸を見下ろしてきた。
「子? 彼はそんな甘いものじゃない。丹羽商事の社長の一人息子で、 丹羽グループ会長のただ一人の孫だ。彼本人も、丹羽商事史上最年少で執行役員になった幹部……」
 ぎょっとしたように男 まで朋幸を見下ろしてくる。この反応からして、朋幸の素性についてはウォーカーから本当に何も聞かされていなかったらしい。
「な、に……考えてるんだ、エリックっ。そんな人物を、連れてきたのか」
「無理やりな」
 ウォーカーは自分で言 った言葉に、おかしそうに声を洩らして笑う。
「――事情がわかったところで、ぼくを帰してもらおうか」
 朋幸の要求 の言葉に重なるように、隣の部屋で電話が鳴った。
 少しの間言葉もなく、朋幸とウォーカーは見つめ合っていたが、そこに 遠慮がちに声をかけられた。
「エリック、フロントから電話だ」
「フロント?」
 朋幸から目を逸らさずにウォーカ ーが応じる。
「ああ……。キリヤマという男が、自分の上司がそこにいるなら、ロビーに連れてきてくれと言っているそうだ」
『キリヤマ』と聞いて、朋幸はピクリと肩を震わせる。ウォーカーは一瞬表情を険しくしたが、次の瞬間には皮肉っぽい笑み を浮かべた。
「桐山が迎えにきたそうだ」
「――帰る」
 再び朋幸は立ち上がろうとしたが、その前にウォーカーに よって抱き上げられていた。
「おいっ……」
「あいつにとっての大事なものだ。大事に運んでやらないとな」
 朋幸 は抵抗しようとしたが、ウォーカーから冷ややかな眼差しを向けられると、体が動かない。ついさきほど激高したばかりの男だ。 何をしでかすかわからない。
 おとなしくなった朋幸を満足そうに見下ろして、ウォーカーは大股で歩き出す。
「エリッ クっ」
「俺が一人でやったことだ。WB社は関係ない――と、説明しておく。それと、サイドテーブルの上の湿布と痛み止 めを、彼に持たせてやってくれ」
 ウォーカーの言葉に男は従い、朋幸は病院の袋を二つ手渡される。必要ないと払いのける 意地は、今は無駄でしかない。朋幸は素直に受け取った。








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