昼前のホテルのティーラウンジは、抑え気味のざわめきと静けさが混在した、心地のよい空間を作り出している。
あちこちのテーブルから聞こえてくるのは、英語で交わされる理解できない会話だったり、堅苦しい商談だったり、気楽な雑談だったりして、耳を傾けていて飽きない。普段であれば――。
今の有理には、人の会話に聞き耳を立てている余裕はなかった。
クライアントである企業が、参考資料として提出してきたという商品パンフレットを眺めながら、有理は呻き声を洩らす。
「ユーリ、どうかした?」
バッとパンフレットを閉じた有理は、隣のイスに腰掛けた澄川に視線を移す。人柄そのままの温和な表情が、有理を見つめていた。
「……いや、なんでもない」
「もしかして、緊張している?」
有理は目を丸くしてから、一拍置いて仕方なく頷く。
「ユーリでも緊張することあるのね。ふてぶてしさの塊のような子だと思っていたけど」
「それ、澄川さん以外の人が言ったら、二度と口利かないからね」
怖いなー、と言いながら、澄川はノンキに笑う。
澄川は、有理が所属しているモデル事務所が付けてくれたマネージャーの女性だ。
三十代前半ながら、おっとりとした性格と童顔のせいで、有理と同年齢にしか見えない。
が、仕事の管理能力においては信頼できる。
ロベルトが日本支社長を務める『アニョーナ』という化粧品製造メーカーのイメージモデルになってから、わがまま・扱いにくいと評判だった有理のモデルとしての評判も急上昇で、今では仕事が引きも切らない状態なのだ。そのため、専属のマネージャーがつく事
態となったわけだ。
売れっ子になれば、わがまま(仕事にこだわっているだけなので、この評価はけっこう不本意だ)なのも許され、扱いにくさも神秘的と取られる辺りに、有理としては業界の不条理さを痛感している最中だ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。今回はもう、CM出演はユーリに決まっているんだから。今日はメーカーさんとの単なる顔合わせだから、肩から力を抜いてね」
「……あー、うん、わかってる」
歯切れ悪く返事をした有理だが、次の瞬間には今度は深刻なため息を洩らす。
誰にも言えない危惧が、今回の話を聞いたときから有理の中にはあった。もちろん、ロベルトにも言えない。いや、ロベルトにだけは知られたくないのだ。
もう一度パンフレットを取り上げ、漫然と眺める。
昨夜、ベッドの中でロベルトにも言ったが、今回のCM出演の話は、わざわざ有理を指名してきたものだ。
モデル冥利に尽きる出来事で、有理も最初聞いたときは喜んだのだが、クライアントである企業の名を聞いた途端、喜びも萎んだ。
クライアントというのは国内有数の家電メーカーで、企業そのものには問題はない。
問題があるとすれば――。
「……あの人、出世してるか、逆に、どっかにトバされてるかしてればいいんだけどなあ」
澄川がギョッとするような不穏当な発言をした有理は、ソファに深く体を預け、足を組む。
「ユーリ、行儀が悪い」
すかさず澄川に、容赦なく膝を叩かれた。見た目によらず、澄川は手が早い。
はいはいと適当な返事を返しながら有理が姿勢を直していると、澄川が勢いよく立ち上がり、深々と頭を下げる。
何事だと有理が視線を向けた先には、ちょうどロビーを歩いてきているスーツ姿の男たちがいた。まっすぐティーラウンジへと向かってきている。
先頭を歩くのは、顔見知りの広告会社の担当者で、ようやく有理は、待ち人たちが現れたのだと知る。
澄川に、羽織っているジャケットの肩の辺りを引っ張られたので立ち上がる。
「お待たせしました」
「いえいえ、わたしたちが早めに着いていただけですから」
有理も慇懃に頭を下げ、頭上で交わされる澄川と広告会社の担当者の会話を聞く。はっきり言って、クライアントたちの顔ぶれを確認するのは勇気がいる。
男たちがテーブルを挟んで正面に立ったのを足元で確認すると、いつまでも頭を下げているわけにはいかず、そろそろと頭を上げる。
真正面に立っている男の顔を見るなり、有理は自分が感じていた危惧が、杞憂で済まなかったのを知った。
危うく出そうになった舌打ちを、寸前のところで堪える。
「――初めまして」
有理の正面に立った男は、深みのある声をかけてきてから、慣れた仕種で名刺を差し出してくる。有理は憮然として唇を引き結びながら、仕方なく名刺を受け取る。
わざわざ名刺を見なくても名はよく知っているのだが、視線を落とす。
男の名は百瀬修といい、年齢は今年四十歳になったはずだ。
広報部部長という役職は、変わっていない。
一年半前から、出世もしなかった代わりにトバされもしなかったようだ。もっとも、大企業の中、この年齢で部長ということは、順調に出世コースを歩んでいることの証明になる。
じっと名刺を見つめ続けた有理は、そっと百瀬をうかがう。
有理の存在など忘れたように、すでに澄川と名刺交換をしている最中だった。
その態度のままでいてくれよ、と有理は願わずにはいられなかった。
あまり、ロベルトとつき合う以前の、自分の発展的な交友関係については思い出したくはないのだが――。
有理はテーブルの下で、自戒と自省の気持ちを込めながら、そっと指を折る。
悪趣味だが、ロベルトの何人前に百瀬と寝たのか、指を折って確認しているのだ。
ロベルトには『前の前の前ぐらいに』寝た男と百瀬を紹介したが、正確には『前の前の前の前』だ。
パーティーの席で知り合い、落ち着いた物腰と頭のよさ、それに渋くて整った容貌が気に入ったので、誘われるまま体を重ね、それから数度つき合った。期間にすれば二か月にも満たない関係だ。
当然、有理が百瀬をふった。
何が気に食わなかったかといえば、尊大な態度が鼻についたのだ。社会的に成功している人間の驕りか、まるで有理を愛人のように扱ったのも許せない。おそらく本人は、何が原因で有理がキレたのか、見当もついていないだろうが。
人間を見る目がなかったよなと内心で苦々しく思いながら、有理は心の中でロベルトに謝る。
今は当然、ロベルト以外の人間など視界にも入らないし、興味もない。
だからこそ昨夜、ロベルトに百瀬と会うかもしれないと言えなかったのだ。それでなくてもロベルトは、百瀬と一度顔を合わせている。
まだロベルトとつき合うかどうかという曖昧な関係の時期に、ホテルのバーで。
百瀬と会ったあと、嫉妬したロベルトとの刺激的な行為を思い出し、場所が場所ながら体が熱くなってくる。
ここで澄川に腕を小突かれて、有理は我に返る。すっかり仕事の話を右から左の耳へと素通りさせていた。
顔を上げると、百瀬が楽しそうに唇を綻ばせて有理を意味深に見つめていた。
「退屈かい?」
単刀直入に尋ねられ、有理は強い眼差しで百瀬を見つめ返す。
「いいえ」
百瀬と別れるとき、今度偶然出会うときがあっても、まったくの初対面同士として接しようと約束したのだが、どうやら百瀬のほうはその約束を忘れてしまっているらしい。
もったいぶった態度はどう見ても、つき合っている頃のものと同じだ。
そうまるで、有理はまだ自分のものだと暗に言われているようで、正直鼻につく態度だ。
広告会社の担当者が説明を続けていたが、有理は前触れなく立ち上がり、テーブルについている人たちの視線を浴びる。
「ユーリ?」
どうしたのかという顔をした澄川に、有理は平然として答えた。
「トイレ」
絶句した澄川にヒラヒラと手を振って、有理はレストルームに向かう。
ラッキーなことにレストルームに人の姿はなく、有理は洗面台の側の壁にもたれかかって髪を掻き上げる。
このとき鏡の中で、有理が左耳だけにつけてあるピアスが光を反射して輝く。
イタリアでロベルトに買ってもらった、アメジストの小さな石がついたピアスで、最近の有理のお気に入りだ。
思わず鏡の中を覗き込み、左手でピアスに触れる。それでイライラも少しはマシになる。
「……やりにくいなあ」
小さくぼやいて、百瀬の笑みを思い返す。
「いるんだよなー。一回ヤッた相手は、ずっと自分のもの、って思い込んでる勘違いヤローが」
百瀬ほどの大人なら、そこら辺の割り切り方はきれいにでるかと思っていたが、過大評価していたらしい。
徹底無視だと心に誓ったところで、レストルームのドアが開いた音がする。
有理はぼやきを心の中に仕舞い込むと、仕事用の取り澄ました表情となり、水を出して手を洗う。
鏡越しに視界に入ったのは、有理のイライラの元凶である百瀬本人だった。おそらく有理を追いかけてきたのだろう。
鏡を通して目が合った途端、子供をあやすかのような甘い笑みを寄越された。
「――久しぶりだな」
「四か月ぐらい前に会ったじゃん」
「そのときのお前の男込みでな。えらくハンサムな外人だったな」
百瀬の物言いにカチンときて、有理は鏡越しに睨みつける。
「外人なんて言い方、しないでくれる」
「なら、支社長さん、か?」
目を丸くした有理は素の顔を晒して百瀬を振り返る。
百瀬は相変わらず口元に余裕たっぷりの笑みを浮かべ、有理の隣に立って鏡を覗く。二人は直接お互いを見ることなく、鏡を通して視線を交わし合う。
有理は気が立った猫のようなきつい眼差しを。百瀬は神経に障る甘やかな眼差しを。
「……なんで、知ってるんだよ。ロベルトのこと」
「最近、有名人だぞ。お前の男――元、男か?」
「期待に副えなくて悪いけど、今も立派につき合ってるよ。ラブラブだよ、おれたち」
ケンカ腰で答えた有理だが、すぐに話を元に戻す。
「それで、ロベルトが有名人ってどういうこと?」
「たまには経済誌も読んだほうがいいぞ、ユーリ。お前の男はイタリア人で、名前はロベルト・ルスカ。歳は二十六だったか。丹羽商事を後ろ盾にして、イタリア製の化粧品を日本で販売させるのに成功した男、だ。……若いのに、やり手だ」
その辺りの経緯はいろいろあるのだと、ロベルトは苦笑交じりに言っていた。現在の成功と、ロベルトのある人物への失恋はリンクしているのだ。
「ロベルトが聞いたら喜ぶよ」
有理なりの皮肉はヒットしたらしく、百瀬がようやく余裕たっぷりの笑みを消し、わずかに不快そうに眉をひそめた。
ハンカチで手を拭いた有理は、簡単に髪を整えて鏡の前から退こうとしたが、すかさず百瀬に腕を掴まれた。
「何?」
有理は不快さを隠そうともせず百瀬を睨みつける。すでに百瀬は、自信に満ちた笑みを取り戻している。
「――今夜、メシを一緒に食わないか?」
本来の目的が透けて見えてきそうな誘いだった。
「あんたと二人で?」
「もちろん」
「なら断る。あんたと二人でメシを食う理由もないし」
「クライアントのそれなりにお偉いさん、というだけで、お前がメシを一緒に食う理由にはなると思うが? それに、お前が今CMに出ている『アニョーナ』の支社長とは、メシを食うどころの仲じゃないだろ。ラブラブ、だったか?」
有理としては、さきほどの即答を翻さざるをえない。百瀬のこの強引さなら、澄川を抱き込んででも、有理と今晩夕食を一緒にとるよう持ち込むはずだ。
澄川に余計な心配をかけたくはなかった。
「……わかったよ。たっぷり接待してもらうからな」
答えながら有理は、今夜はロベルトの帰りが遅くて助かったと思った。
唯一気になるのは、家に置いてきたアビだ。
昼に自宅を出たときに餌は置いてきたので、少しぐらい有理の帰りが遅くなっても、餌の心配はない。ただ、あの小さな生き物を寂しがらせるのは気がかりだ。
百瀬が名刺の裏に待ち合わせ場所と時間を書き記して寄越してくる。
いまさら、何が楽しくて百瀬の名刺を二枚ももらわなくてはいけないのかと思いながら、有理はひったくるようにして百瀬の手から名刺を受け取ると、足音も荒くレストルームをあとにした。
グラスに入った水を一口くちに含んだ有理は、腕時計に視線を落とす。
「――六度目だ」
ふいに声をかけられて、有理は挑発的な視線を正面に座っている百瀬に向ける。
昼間、クライアントとして顔を合わせたときとは違い、夜、こうして向き合っている百瀬は、幾分砕けた雰囲気を漂わせていた。
対照的に有理は、憮然とした表情のままで、いくらホテルのレストランでおいしいものを頬張ろうが、その表情は変わらない。
本当は、あんたと一緒にいたくないのだと、全身で示し続けているのだ。
そんな有理に、さきほど百瀬は、おもしろがるように言った。
『まるで、毛を逆立てた猫だな』と。
今のところ、有理を猫扱いしていいのはロベルトだけだ。ムッとして百瀬を睨みつけただけで、返事はしてやらなかった。
「何が、六度目だよ」
「こうしてメシを食い始めてから、お前が腕時計で時間を確認した回数」
「……時間が気になるんだから仕方ないだろ」
百瀬がふっと笑みを消す。
皿が取り替えられ、運ばれてきたのは分厚いステーキだ。百瀬を目の前にしていると、多少胃にもたれる。
「お前の男は、門限でも設けているのか?」
「ロベルトはそんなことしないよ。おれが早く帰りたいから、時間を確認しているんだ」
「お前みたいなのを放し飼いにしていて、平気な男なのか?」
「――……お前みたい、ってなんだよ」
「快感に弱くて尻が軽い。他人が――特に男が放っておかない、お前みたいな男の子を、って意味だ」
顔に水をひっかけておいてやろうかと思ったが、ぐっと堪える。少なくとも百瀬には、このレストランの支払いをしてもらわなくてはいけない。
なるべくタダメシを食う、というのは有理のポリシーだ。
「……なんとでも言えよ。でも、メシを食ったら、あんたとはさっさとバイバイだ」
わざと食器の音を立てながら、ステーキ肉を切り刻み、ポイポイと口に放り込んでいく。
せっかくの高級な肉も、一緒に食事する相手が変わるだけで、こうも味気ないものになるのかと、憮然としながら有理は思う。
これは、うまい食い物に対する冒涜だ。
ムカムカしながら最後のデザートであるケーキも平らげ、グビッとコーヒーも飲み干すと、有理はナプキンをテーブルの上に放り出す。
そんな有理の様子を、百瀬はおもしろがるように眺めていた。
「んじゃ、約束通りメシにもつき合ったから、おれはこれで帰るから」
「まあ、そう慌てるなよ。どうせ門限なしの放し飼いなんだろ」
前につき合っていたとき、この男の不遜さがこんなにも鼻についただろうかと、有理は眉をひそめる。
人をとんでもない尻軽のように言うのは、有理に対してはともかく、そんな有理と一緒に住んでいるロベルトに対して申し訳ない。
席を立つ前に、猫らしく後ろ足で砂を引っ掛けておくかと、有理は密かに企む。このまま言われたい放題では、溜飲が下がらない。
赤い唇でにんまりと百瀬に笑いかける。
「門限はないけど、帰るよ。他のオス猫と一緒だったと知ったところで、おれを疑うような狭量な飼い主じゃないんだけど、心配かけたくないしね」
あんたも所詮、同じレベルだろうと、有理は挑発的な眼差しを百瀬に向ける。
さすがにというべきか、百瀬は苦笑を浮かべただけだ。
一応クライアントの『お偉いさん』なので、本気で怒らせるわけにはいかない。これぐらいの反応でちょうどいいのだ。
澄ました顔で立ち上がろうとした有理だが、すかさず百瀬に手首を掴まれる。これには有理は驚き、ハッとして百瀬を見る。
百瀬が、してやったり、といった感じで、ニヤリと笑った。
内心の動揺を押し隠しつつ、有理は憮然として問いかける。
「……なんだよ」
「ホテルに部屋を取ってあるんだ。久しぶりにつき合わないか?」
頭の芯がスッと冷たくなる。屈辱感から、一瞬息ができなかった。
邪険に百瀬の手を払い除けると、自分の財布を取り出し、中にあったお札すべてを掴み取ってテーブルに叩きつける。
「――金を払ってもごめんだね。あんたと寝るのは」
低く囁くと、有理はすぐにその場をスマートに歩いて立ち去る。
もっとも、レストランを出て数歩あるいたところで、絨毯敷きの足元を踏み鳴らして怒り狂った。
「あんの、腐れスケベじじいっ。偉そうに抜かすほど、テメーはテクニシャンだとでも思っているのかっ」
実際テクニシャンだったらいいというものでもないのだが――。
ホテルの客たちから奇異の視線を向けられているのに気づき、有理は我に帰る。
急いでエレベーターに飛び乗ったが、ここで自分の失態に気づく。
帰りのタクシー代まで、叩きつけてきたのだ。
「あのっ、くそオヤジーっ」
悔し紛れに、有理はもう一度、今度は遠慮がちに毒づいた。
ニャーという甘えてくるような鳴き声に、うつぶせの姿勢で眠っていた有理は目を開く。
頭から爪先まで、すっぽり毛布を被っているのだが、その有理の体の上を、軽い感触がポンポンと通っていく。そしてもう一度、ニャーという鳴き声が上がる。
寝起きでぼーっとしたまま、有理はごそごそと身動いで、毛布から頭だけを出す。乱れた髪が目の前に被さっているため、視界が利かない。しかし髪を掻き上げるのも億劫だ。
毛布越しに、アビが体の上を飛び跳ねる感触が気持ちいい。
有理はもう一度うとうとし始めていたが、そのアビがハシッと頭に飛びついてきたので、驚いて目を開く。
「……こら、何してるんだよ、お前」
有理の頭からずり落ちないよう必死なのか、アビが髪にガシガシとしがみついてくる。
とてもではないが、二度寝できる状況ではない。
仕方なく片手でアビの体を髪から引き離すと、有理は仰向けとなって胸の上にのせる。
「あれっ」
今朝のアビの変化に、思わず有理は目を丸くする。
子猫の華奢な首には痛々しいため、家の中ではアビに首輪はつけていないのだが、そのアビの首に、今は赤いリボンが結ばれていた。
有理は指先でアビの喉元をくすぐりながら、リボンにも触れる。喉を鳴らすアビは、リボンを嫌がっている素振りはない。
リボンはプレゼントの包装などで使われているものではなく、きちんとした作りのもので、なんと、シルクだ。人間用のリボンとして売られているものを、結ばれているのだ。
こんなキザな、だけどおしゃれなことをするのは、当然ロベルトしかいない。わざわざ買ってきてくれたのかもしれない。
枕元の携帯電話を取り上げて時間を見ると、ロベルトはもう一時間も前に出社している時間だ。
有理は携帯電話を放り出すと、アビに視線を戻す。有理の胸の上に、澄ました様子で座っているアビが可愛い。
たまらずアビを両手で抱き上げると、きゅっと抱き締める。
「お前、男の子なのにな。こんな可愛いものつけられて、どうするんだ」
昨夜、百瀬から最悪の誘いをかけられ、ロベルトの帰りを待たずに嫌な気持ちのままベッドに潜り込んだことなど、あっという間に吹っ飛ぶ。
ロベルトに百瀬のことを言う気はなかった。
有理が無視していればいい話だ。ロベルトは百瀬と顔を合わせたことはあるし、有理との関係も知っているとはいえ、仕事でまたつき合いができたなど知られたくはなかった。
考え込む有理を心配するように、アビが頬に顔を寄せてくる。人懐っこい仕種に、有理は笑みをこぼす。
今日は仕事が休みなので、時間に終われる必要もない。
怠惰にベッドの上に転がったまま、有理はアビとごろごろと寛ぐ。
そのうち有理は空腹を感じるようになる。
一方のアビは、ロベルトがしっかり餌を与えてくれたらしく、特にねだってくる様子はない。
もう少し時間を置いて、朝食と昼食を兼ねてしまおうかとズボラなことを考えていると、ベッドの上に放り出していた携帯電話が鳴り始める。
アビが驚いたように飛び上がった。
その姿にプッと噴き出してから、有理は携帯電話に出る。
相手が誰であるかわかると、反射的に飛び起きてベッドの上に座り直していた。
目深に帽子を被った有理は、イスに深く体を預けながら、降り注ぐ春の陽気に大きくあくびを洩らす。
最近雑誌に取り上げられたせいか、有理が気に入っているカフェは、客で混雑している。
それでもテラスだけは、テーブルとテーブルの間がゆったりとスペースが取られているため、ゆっくりと寛げる。
このテラスで窮屈な思いをするぐらいなら、新たに居心地のいいカフェを探さなければならないだろう。
あくびのせいで滲んだ涙を指先で拭ったところで、カフェに入っていくスーツ姿の二人組に気づく。
有理は帽子を取ると、目印代わりの赤みがかった髪を陽射しの下にさらす。周囲の客たちの視線が一斉に自分に向けられたのがわかったが、まったく気にならなかった。
これからこのテーブルにやってくる二人組は、自分の存在感などあっという間に薄めてくれると確信しているからだ。
「――待たせたね」
落ち着いた柔らかな声がかけられる。
有理が顔を上げると、本澤朋幸が相変わらずのきれいな微笑みを浮かべて立っていた。その背後に、朋幸を周囲のすべてのものから守るように、桐山という秘書が影のようにつ
き従っている。
一見して怖い――いや、中身も十分怖いとロベルトは言っていたが、桐山が有理に軽く頭を下げる。
この手の男はからかうと楽しいと、有理は本能でわかっている。
有理はパッと立ち上がると、派手に朋幸に抱きつく。
「久しぶりっ、朋幸さん。昼メシに誘ってくれてありがとうっ」
大げさに喜んでみせると、有理の意図がわかったのか、朋幸の深い漆黒の瞳に悪戯っぽい光が宿る。家柄や社会的立場からして、とんでもないものを背負っている朋幸なのだが、茶目っ気は十分持ち合わせていると、有理は知っている。
年末年始にかけて、ロベルトや朋幸、桐山に丹羽商事の一部の社員たちとイタリア旅行に出かけたのだが、有理はそこで、一度は宿敵だと思った朋幸とすっかり意気投合したのだ。
有理の悪ふざけに乗って、朋幸も両腕を有理の背に回して抱き締めてくれる。
「ごめん。休みのところ呼び出したりして。――電話で君から子猫の話を聞いて、どうしてももっと話を聞きたくなったんだ」
「ううん」
まるで兄弟でじゃれ合うように、多少過剰すぎるスキンシップのあと、二人は体を離す。
有理と朋幸が揃って桐山の表情をうかがうと、眼鏡がよく似合うクールな秘書は、眼鏡の中央を押し上げつつ、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
朋幸と顔を見合わせて、くっくと声を押し殺して笑う。
「……妙なところで、二人で結託しないでください。客の注目を浴びていますよ」
確かに、カフェ中の客が有理と朋幸を見ている。しかしそんなことで恥ずかしいなどと思う有理ではなく、朋幸も澄ました顔で平然としている。
参りましょう、と桐山に声をかけられ、有理と朋幸はカフェを出る。このとき、朋幸はしっかりと有理のコーヒー代を支払ってくれた。
自分を口説いてくる男たちには平気で奢らせる有理だが、さすがにこれには殊勝に頭を下げる。
「かまわないよ。呼び出したのはぼくなんだから」
さらりと受け流す朋幸が、有理の目にはずいぶん大人に見えてまぶしい。昨夜の百瀬とは大違いだ。
今朝、携帯電話にかかってきた朋幸からの電話の内容は、会社の昼休みに一緒に昼食をとらないかというものだった。
アビを飼ったことは、すぐに朋幸に電話で報告しておいたのだが、犬・猫好きだという朋幸の好奇心を刺激したらしい。
駐車場に停めてある朋幸の車の後部座席に、朋幸と並んで乗り込むと、桐山が静かに車を走らせ始める。
有理は持っていたバッグの中からデジカメを取り出す。朋幸から電話を受けて、慌ててアビの画像を撮ってきたのだ。
朋幸が本当に嬉しそうに、花が開くような笑みをこぼす。
ロベルトはこの笑みにやられてしまったのだろうかと、頭の片隅で有理はちらりと考えてしまった。
「撮ってきてくれたんだ」
朋幸の言葉に有理は頷く。
「時間がなかったから、少しだけ。本当はアビを連れてこられたら一番よかったんだけど、昼メシ食うのにペットが一緒だと、店に断られて朋幸さんに迷惑かかると思ったんだ」
有理はボタンを操作してアビの画像を出す。
デジカメを朋幸に手渡すと、食い入るように画像を眺め、楽しそうに唇を綻ばせる。
こんな表情をしてもらえると、有理としても、遊んでもらっていると勘違いして部屋中を駆けるアビのあとをデジカメを手に、床の上を這いつくばりながら追いかけ回した甲斐があるというものだ。
「……本当にきれいな猫だね」
「おれが一目惚れしたぐらいだから」
「ロベルトは妬かない?」
真顔で問いかけられ、さすがの有理も返事に詰まる。すると運転席で桐山が咳き込む。
「――失礼しました」
朋幸がバックミラーを一瞥して、桐山に向けて言った。
「桐山、笑いたいときは笑ったほうがいいぞ。体に悪い」
桐山の唇に笑みが刻まれたのを、有理はバックミラーで確かに見た。
柄にもなく照れた有理は、朋幸と一緒にデジカメの画面を覗き込む。
やたらアビのお尻の画像が多い理由を有理が話すと、とうとう朋幸は声を上げて笑い出す。
「笑うけどさ、本当に子猫ってよく動くんだよ。男の子っていうのが関係あるかわからないけど、とにかく元気だし、だけどかまってやらないとすねるし」
「有理みたいだ」
ズバリと指摘され、有理は顔をしかめる。
アビのお尻の画像に続いて、今度は仰向けとなってお腹を無防備に晒している画像で、これは、アビをおとなしくさせようと有理が撫でると、すかさずお腹を出して甘えてくるのだ。
なんとも締まりのない画像が続いている。
「うっ……、まあおれも、かまわれないのは嫌だけどさ……」
朋幸だけでなく、ハンドルを握る桐山の肩も小刻みに震えているいるのを、有理は見逃さない。朋幸の言葉に従って、素直に笑っているらしい。
「あっ、これ――」
最後の画像を見た朋幸が声を上げる。
何事かと有理も覗き込むと、苦労してようやく撮れた、渾身の一枚だ。
ソファの上にちょこんと座り、青い瞳でじっとデジカメのほうを見て、そのうえ体の正面まで向けてくれている姿だった。
首には、ロベルトが結んでくれた赤いリボンがしっかりとアビの可愛らしさを引き立ててくれている。
親バカの心境だが、この一枚を引き伸ばしてパネルにしてもいいぐらいだ。
「……すごく可愛い」
「でしょ? でしょ? 男の子だけど、美人なんだよ、この子」
「やっぱり有理みたいだ」
「面と向かって言われると、おれとしてもどう返していいかわからないけど」
ひとしきり声を上げて笑った朋幸が、本人に自覚があるのかどうかわからないが、なかなか際どいことを言ってくれた。
「アビもいいけど、有理が部屋に一人いてくれたら、退屈しないし、毎日うっとりして眺められるだろうね」
どういう意味か桐山がわざとらしく、今度は何かを訴えるように咳払いする。しかし当の朋幸は気づいていないようだ。
有理はしみじみと、朋幸と桐山を眺めて呟かずにはいられなかった。
「――薄々、そうかなとは思っていたけど、朋幸さんてもしかして、私生活だと、思いきり天然入ってるんじゃ……」
昼食においしい中華料理を腹いっぱいごちそうになり、有理は満足を通り越して気持ちが悪くなりかけていた。
「……調子に乗って食べ過ぎた」
店を出てビル内を歩きながら洩らすと、口元をてのひらで覆う。隣を歩く朋幸に顔を覗き込まれた。
「大丈夫か? 苦しそうだけど」
「最後に食べたマンゴープリンが喉まで来てる」
有理の冗談だと思ったらしく、朋幸は楽しそうに笑っている。
そんな二人の背後から、桐山がぴったりとついてくる。いつ、どんなときでも朋幸を守ろうとしている姿勢には、有理は素直に感心させられる。
世の中に、ここまでしても守ろうとする人がいるというのは、すごいことだ。
有理もロベルトは好きだが、守りたい、という感覚とは少し違う気がする。ロベルトにとって有理はどうなのか、聞いてみたい気もするが。
エレベーターを待っていると、朋幸がスッと隣からいなくなる。周囲を見回すと、ビルの案内板をじっと見つめていた。
「どうかされましたか?」
有理が尋ねる前に、桐山が口を開く。朋幸は、悪戯が見つかった子供のような表情となって、曖昧に首を動かす。
年上ながら、朋幸の何気ない仕種が妙に可愛いと有理は思う。
有理の元に駆け戻ってきた朋幸が、意味ありげに含み笑いを洩らす。
「どうかした? 朋幸さん」
「うん、ちょっとね」
扉が開いたエレベーターに乗り込むと、桐山が一階のボタンを押そうとしたが、それより早く、朋幸が三階のボタンを押す。
「朋幸さん?」
桐山が不審そうに首を傾げる。
「買いたいものがあるんだ。少しだけ時間をくれ」
「それは、かまいませんが……」
桐山がこちらを見たので、有理はヒラヒラと手を振る。
「おれもかまわないよ。どうせ今日は休みだから。アビにも餌をやってきたし」
「決まり」
上機嫌といった面持ちで朋幸が言う。
三人は三階でエレベーターを降りると、朋幸はきょろきょろと辺りを見回しながら先を歩く。さまざまなショップが入っている中、ようやく朋幸の視線が定まる。つられて有理
も朋幸の視線を追いかけ、次の瞬間には目を丸くした。
「あそこ――」
ペットショップだった。
振り返った朋幸が、側のベンチを指さして示す。
「すぐに戻ってくるから、二人はそこで待っていてくれ」
桐山が止める間もなく、朋幸は走ってペットショップに入っていく。
残された有理と桐山は顔を見合わせてから、ぎこちなく二人並んでベンチに腰掛ける。
どうも、このクールでかっこいい秘書と二人きりというのも落ち着かない。だいたい、何を話せばいいのか見当もつかないのだ。
一方の桐山のほうは、怜悧な横顔は何を考えているのかさっぱり読めない。
この男が、あの朋幸と恋人同士とは――。
二人きりのときはどんな甘い会話を交わしているのかと、自分とロベルトと重ねて考えてみるが、どうしても、ハチミツ並みに甘いロベルトのような台詞を言う桐山というのが想像できない。
「――今度は連れてきてくれないか」
ふいに桐山に、腰にくるようなバリトンで低く言われる。飛び上がるほど驚いた有理は目を丸くして、マジマジと桐山を見る。
「えっ?」
「君が飼い始めた子猫だ。次までに、ペット同伴でも大丈夫な店を見つけておく」
有理は、朋幸が入っていったペットショップと桐山を交互に見てから、にんまりと笑いかける。
「朋幸さんのため?」
「仕事柄、帰りが遅いことが多いから、ペットは飼えないんだ。寂しがらせるだけだからと。だからといって、他の息抜きがある方でもないし――」
「いいよ。おれも、朋幸さんにつき合えば、おいしいご飯が食えるし、朋幸さんのことも気に入ってるし。……あの人、年上なんだけど可愛いんだよね。普段はピシッとして近寄りがたいんだけど、親しくなっちゃうと、ガードが柔らかいっていうか」
素直な感想を言ったので怒るかな、と思われた桐山だが、口元に穏やかな笑みを浮かべる。
内心、おっ、と思った有理は、桐山の顔を凝視する。
クールな秘書は、朋幸には甘々らしい。
「――朋幸さんも、君のことを気に入っている。実際、一緒にいると兄弟みたいだ」
「それってけっこう嬉しいかも」
有理が笑みをこぼしたところで、羽織っているジャケットのポケットの中で携帯電話が震え始める。
桐山に背を向けて取り出すと、非通知になっている。
誰だろうと思いながら電話に出た有理は、すぐにこれ以上ないほど顔をしかめる。
『――ユーリか』
電話の相手は百瀬だった。百瀬と別れてから携帯の番号を替えなかったことを、有理は痛切に後悔するがすでに遅い。
できる限り、憮然とした声を発する。
「何かご用ですか」
『昨夜、どうやって帰ったんだ。有り金全部、俺に叩きつけて帰ったんだろう』
「……あんたに関係ないだろ。おれが王子様の乗った白馬に乗って帰ろうが、這って帰ろうが」
『そうツンケンするな』
百瀬の尊大な口調が気に障る。有理はイライラしながら赤い髪を掻き上げると、落ち着かなくて立ち上がる。
「それで、なんの用だよ」
『気が変わったかと思ってな』
百瀬の言葉の意味を理解したとき、有理は怒りのあまり数秒間、息ができなかった。
大きく肩を上下させてから、電話に向かって声を抑えながらも罵倒していた。
「そんなに男が欲しけりゃ、おれが叩きつけた金で商売やってる奴でも買えよっ。それと、二度とおれの携帯にかけてくるなっ」
怒りのあまり震える指先で携帯電話の電源を切ってしまうと、大きく息を吐き出す。
振り返ると、桐山から眼鏡越しの怜悧な眼差しを向けられていた。有理は唇を思い切り歪めて見せ、ジャケットに携帯電話を滑り込ませてからベンチに座り直す。
「――……今の電話のこと、ロベルトには言わないでよ」
「なぜわたしが、あの男と個人的に話さないといけないんだ」
それもそうだ、と思った有理は、つい苦笑を浮かべる。
「やだなー。後ろめたさの表れかな」
桐山が軽く目を細める。どういう意味だ、という表情だと勝手に解釈して、有理は説明する。
「一年以上前につき合ってた男なんだよ。今になって仕事で再会したんだけど、いい会社のお偉いさんになって、ちょっと勘違いしてるのか、一晩つき合えなんて言われてさ。怒って帰ったんだ。なのにまた、誘われて。……もてるって、人生においてプラスばかりじゃないね」
グチっぽくなったので、最後は冗談めかしてみたが、桐山は笑わなかった。
今も、誘われれば誰とでも寝る人間だとでも思われたのだろうかと、有理の心に棘が刺さったような痛みが走る。
何か言いかけた桐山の視線が、有理を通り過ぎてさらに向こうへと移動する。つられて有理も見ると、ペットショップから朋幸が出てきたところだった。
大事そうに大きな包みを抱え持った朋幸が、にこにこ笑いながら有理の前に立つ。
「猫用のおもちゃって、けっこうあるんだな。迷う時間が惜しいから、気になったのを全部買ってみたんだ。あと、おやつも」
そう言った朋幸に、大きな包みを押し付けられ、有理は反射的に受け取る。
「……もしかして、これ――」
「アビへのお土産」
「こんなにたくさん?」
「ありすぎて困るものでもないと思って」
「そりゃ、まあ……」
気になったものすべてを買ったということで、朋幸は満足そうだ。
有理も、朋幸の気持ちが嬉しくて、さきほどの百瀬からの電話も忘れて笑みを浮かべる。
「ありがとう、朋幸さん。アビも喜ぶよ」
「いいよ。代わりといったらなんだけど、アビが遊んでいる画像を、ぼくのメールアドレスに送ってくれたら――嬉しいな」
もちろん、という返事の代わりに、有理は抱えた包みを桐山に押し付けてから、ガシッと朋幸に抱きつき、朋幸もヒシッと抱き返してくれる。
朋幸との熱い抱擁は、声を荒らげた桐山に引き離されるまで続いた。
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