心地の良い場所 −ZERO− 
3。 



 高畠と別れ、ホテルをあとにした昭洋は、気だるいという生易しいものではなく、ただ重い体を 引きずるようにして自宅のマンションに戻った。
 ハンガーにジャケットをかけながら、このままワイシャツ姿でベッドに潜り込みたい心 境だが、シャワーを浴びなければならないという義務感に突き動かされる。
 ホテルの部屋では、行為の最中に言われた通り高畠に体を洗われたが、今はその高畠の痕跡を洗 い流してしまいたい。いつまでも高畠のコロンの匂いが自分につきまとっているようで、落ち着か ないのだ。
 時間をかけて入浴を済ませたあと、ようやくミネラルウォーターのボトルを手にベッドに腰掛け る。サイドテーブルに置いた紙袋を手にして、錠剤のシートを取り出した。
 昭洋が病院で不眠を訴えると、意外なほどあっさりと、胃薬の他にこの睡眠薬も処方してくれた のだ。
 ただし、最初に処方された薬は体質に合わなかったらしく、飲んで三十分後には洗面所に駆け込 んで吐いていた。以来、軽めのものを数日分だけ出してもらっているのだ。飲むのは、よほど気が 高ぶって眠れそうにないときだけ。
 昭洋も、薬に頼って眠るのが癖になるのはよくないと、頭ではわかっている。ただ、翌日の仕事 を思うと、眠らないわけにはいかない。
 睡眠すら拷問の一つだ。
 自嘲気味に考えてから、睡眠薬を口に放り込み、一気に水で流し込む。
 部屋の電気を消してベッドに潜り込んでも、テレビだけは消さない。物心ついたときから、テレ ビをつけたままで眠ると安心できるのだ。
 めまいにも似た眠気がやってくるまで、昭洋は意識しないまま、今日の高畠の愛撫の手順を思い 出す。
 体の芯で、洗い流すことのできない欲情の欠片がひっそりと、ほのかな熱を放っていた。




 足早に会社のロビーを歩いていた昭洋は、腕時計に視線を落として時間を確認する。午後からの 打ち合わせは、もう始まっている頃だ。人目を気にしている余裕もなく走り出していた。
 急に地元に戻ることになったという代議士に呼び出され、本来は三日後の約束だった書類を受け 取ってきたところだった。他にも外回りの用があったせいで、昼食をとる時間もなかった。
 もっとも、今朝から胃の調子が悪いので朝食すらとっておらず、肝心の食欲がない。打ち合わせ の合間に、胃薬ぐらいは飲んでおきたかった。
 少し走った程度で息が切れるが、かまわず、たまたま扉が開いていたエレベーターに駆け込む。 次の瞬間には、注意力が散漫になっていた自分を恨んだ。
 エレベーターには先客がいた。よりによって、高畠を目の敵にしている各地区の部長たち数人だ。 それでようやく、今日は本社で部長研修が行われているのだと思い出した。
 高畠の計算高さと怜悧な手腕は、ある種のカリスマめいたものがあるが、それは一方で敵を作り 出す。若くして次長の地位にあるというだけで、嫉妬を買うのは十分なのだ。また本人も、そうい った感情を逆撫でる言動を取ることがある。
 高畠自身は図太い神経をしているので気にも留めていないだろうが、部下たちはいい迷惑である。 特に、高畠から目をかけられていると密かにうわさになっている昭洋は。
 扉が閉まる前に遠慮してエレベーターから降りようとしたが、部長の一人から高圧的な言葉をか けられる。
「――わたしたちの顔もまともに見られないほど、後ろめたいことでもあるのかね」
 内心でため息を吐き、エレベーターから降りるのを諦めた昭洋はボタンを押そうとする。しかし 一瞬早く、横から伸びた手に押されてしまった。
 顔を上げると、見覚えのない男が傍らに立ってい る。
 男がちらりと昭洋を一瞥する。反射的に背筋を伸ばしてしまうほど、鋭い目だ。見覚えがないの は当然で、胸ポケットには外部者であることを示すプレートをつけている。打ち合わせのため会社 を訪れたらしい。
 年齢は四十代前半から半ばといった感じで、高畠よりわずかに年上に見える。ただし、外 見から受ける年齢の印象よりも、老成したものが滲み出ているようだ。
 顔立ちは、若い頃はどれほどのハンサムであったか容易に想像させるものがあり、そこに渋みが 加わっている。身長は高く、地味な色のスーツに包まれた体は引き締まっている。眼差しの鋭さと いい、男には張り詰めた空気が取り巻き、隙がない。
 この男の何かが、ひどく昭洋は気になった。
 不躾を承知で露骨に男を見続けていたが、背後からかけられた声に体を強張らせる。
「――高畠くんは、相変わらず元気にやっているのか」
 その質問が自分に向けられたものだとすぐに察し、振り返った昭洋の胃がキリッと痛む。それで も無表情を取り繕って頷く。
「はい」
「あまり喜ばしいことじゃないがね。彼が動くと、立たなくていい波風が立つ。自分中心の嵐を呼 び起こしたくてウズウズしている男だ」
「まったくだ。高畠くんが出世していくほど、うちの会社はおかしくなっていく」
 高畠に言わせると、もともと派閥争いの兆しはあったという会社だ。だが、昭洋が口を挟めるよ うな話題ではない。黙って正面を向き、目を伏せる。
 嫌な気分だった。高畠が悪く言われていることに対してではなく、自分がこんな生々しいやり取 りの渦中に身を置く一人だと実感したためだ。資料室にいる間は何も見聞きしなくて済むが、こう して社内の空気に触れると、自分の置かれた立場や状況がたまらなく怖くなる。
 急に胃から込み上げてきたものがあり、昭洋は口元を手で覆う。吐き気がしてきた。まだ背後で は部長たちが何か言っているようだが、それどころではない。体が小刻みに震え、足元の感覚まで 覚束なくなってくる。
 ちょうどエレベーターの扉が開き、目的の階ではないが降りようとする。このとき足がもつれ、 前のめりにバランスを崩して倒れそうになる。
 すかさず、強い力に腕を掴まれて引きとめられた。昭洋が何事かと思ったときには、すぐ隣に立 った人影に、体を半ば抱えるようにして連れて行かれる。
「……な、に……」
「顔が真っ青だぞ。気分が悪くなったんだろ」
 低く掠れ気味の声をかけられる。口元を手で押さえたまま昭洋が顔を上げると、さきほどエレベ ーターに同乗していた、印象的な男だった。
 男はまったく表情も変えないまま、淡々とした様子で昭洋を洗面所に連れて行ってくれた。社員 でもないのに迷いのない足取りは、会社内を熟知しているように思えたが、限界まできている吐き 気の前では些細なことだった。
 誰もいない洗面所に入り個室に押し込まれると、男の目の前だということも忘れて昭洋は軽く吐 く。もっとも、食事をまともにとっていないので、出るのは胃液ぐらいだ。
 苦しい呼吸の下で咳き込み、涙ぐむ。すると前触れもなく、強い力で背をさすられ始めた。驚い た昭洋は振り返ろうとしたが、頭を押さえられる。
「いいから、全部吐いてしまえ」
 とっくに立ち去ったと思っていた男の声だ。申し訳ないので拒もうとしたが、背をさすられる感 触に、思いがけず昭洋は安堵する。
 それから吐き気が収まるまで、男はただ背をさすり続けてくれ、昭洋がようやく落ち着いて大き な息を吐き出したとき、目の前にハンカチが差し出された。
 昭洋は緩く首を左右に振る。
「いえ、自分のが――」
「使え」
 嫌とは言わせない男の口調に、昭洋はペコリと軽く頭を下げてハンカチを受け取り、促されるま ま洗面台に移動する。
 水道の水で口をすすぎながら、上目遣いに正面の鏡を見た昭洋は、何かから守るかのように自分 の背後に立つ男に視線を向ける。すぐに男と目が合い、ドキリとして慌てて下を向く。それでも気 になり、再び顔を上げると、男はやはりじっと昭洋を見ていた。
 不思議な眼差しだった。鋭い目は決して冷たいわけではなく、むしろ優しい。初対面の男にこん な眼差しを向けられる覚えは、昭洋にはない。妙に居心地が悪くて警戒心が刺激され、それでいて 落ち着かないながらも、胸の奥がくすぐったい。
 昭洋の視線に気づいた男と、再び目が合う。にこりともせずに問いかけられた。
「少しはマシになったか?」
「……はい」
 水をとめた昭洋は、男が貸してくれたハンカチで口元を拭う。ハンカチからは、わずかに煙草の 匂いがした。おそらく、男が普段吸っているものだろう。
 煙草の匂いに誘われたように、一瞬、昭洋の意識は記憶の底へと飛びかける。
「大丈夫か?」
 再び男に声をかけられ、昭洋は我に返る。昨夜飲んだ睡眠薬が残っているはずもないのだが、今 日の自分はおかしいと感じていた。
「……大丈夫です。すみません」
 昭洋の言葉が信じられないらしく、男から露骨に疑いの眼差しを向けられる。
「本当に大丈夫です。吐いて楽になりましたから」
 軽く息を吐いた男が背を向け、洗面所を出て行こうとする。慌てた昭洋は、鏡越しに声をかけた。
「あのっ……、ハンカチは新しいものをお返しするんで、連絡先を教えてください。それか、また 会社に見えられるのなら、ぼくの携帯の番号を――」
「ハンカチはいい。それと――君とはまた会える。必ずな」
 男が振り返り、断言する。鏡を通して、数十秒、いや本当は数秒かもしれなかったが、見つめ合 っていた。男の鋭い目に心の奥底まで突き通される。
 正面を向いた男があっという間に洗面所を出ていく。一人残された昭洋は、自分が緊張して、鼓 動が速くなっているのに気づく。ふいに、男を追いかけていきたい衝動に駆られたが、吐いたばか りで体が言うことをきいてくれない。
 男の後ろ姿が消えたドアを見つめたまま、昭洋はハンカチを再び口元に当てる。やはり男の煙草 の匂いに何かを刺激される。
 少しの間、男が残した余韻に浸っていた昭洋だが、急に正体の掴めない不安に駆られて身震いす る。自分の知らないところで何かが急に動き出したような気がした。
 熟知した様子で社内を移動していた男の正体を探るべきだったと、今になって重苦しい後悔がの しかかってきた。


 昭洋は、なくなってしまった睡眠薬と胃薬を処方してもらうため定時で会社を出ると、かかりつ けの病院に立ち寄った。
 薬を受け取って外に出たときには、外は陽が落ちかけていた。それでも、普段の 帰宅時間からすると、かなり早いといえる。もっとも、早く帰宅したところで、昭洋には特別やり たいことがあるわけではない。ただ、一人の時間を持て余すだけだ。
 歩きながら、ジャケットのポケットに片手を入れる。そこには今日、正体不明の男からもら ったハンカチが入っている。
 即座にこれからの自分の行動が決まった。
 この時間ならまだデパートは開いているので、男に返す新しいハンカチを買いに行こうと思った。
 それだけのことなのに、なんだか気持ちが軽くなる。考えてみれば、誰かのために何かを買おう と思ったのは、ずいぶん久しぶりだ。自分が人間らしい感情を取り戻した気になる。
 あの男にいつ会えるとも、再会できる保証もないというのに――。だが男は、必ずまた会えると 言った。その言葉に賭けてみたかった。
 電車を途中で降り、デパートに立ち寄る。夕方で混雑している店内で、人に紛れながらハンカチ を探す。
 男の雰囲気に見合ったハンカチを一心に選びながら、昭洋の意識には欠片ほども、高畠のことは なかった。高畠の分も買おうと思えるほど二人の関係は甘いものではないし、体と仕事以外のもの で繋がりを持つのは抵抗があった。おそらく高畠も、昭洋にそんな細やかな心遣いなど求めていな いだろう。
 高畠はあくまで、昭洋を支配している側の人間だ。
 ようやく三枚のハンカチを選び出して買い求める。シンプルな包装をしてもらい、似合わないこ とをした自分にいまさらながら気恥ずかしさを覚えつつ、昭洋は足早にデパートを出る。
 外は薄闇に包まれていた。だが一向に、昼間から気温が下がる気配もなく、息苦しさを感じるほ どの熱風に髪を揺らされる。
 再び駅に向かい、今度こそ帰路につく。
 買ったばかりのハンカチが入ったブリーフケースをしっかり脇に抱え、立ったまま電車に揺られ ていた昭洋だが、ふと感じるものがあって混み合う電車内を見回す。デパートの売り場にいたとき から誰かの視線を感じ、今もチクチクと肌を刺激してくるのだ。
 他人から注目を浴びるのが苦手な分、昭洋は他人の視線には敏感だ。高畠に言わせれば、昭洋の 容貌は人目を引くものらしいが、視線に込められるものが単なる好奇心かそれ以外か、大まかな判 別はつく。
 さきほどから昭洋を付け狙っている様子の視線は、好奇心という軽いものではないようだ。
 慎重に自分の周囲を見回した昭洋だが、乗客の数人とうっかり目が合ってしまい、結局、視線の 主を電車内で特定するのは諦める。かえって昭洋自身が不審者に思われそうだ。
 電車が停まると他の乗客たちと共に降り、足早に構内を歩く。人の合間を縫うようにして、ほとんど 小走りとなって駅を出る。
 一瞬、タクシーで自宅まで帰ろうかと考えたが、すでにでき ているタクシー待ちの人の長い列を見て、次の瞬間には諦める。それに、本当に視線の主がいる のかどうか、確かめる必要もある。
 歩き出しながら、昭洋は嫌なことを思い出していた。
 前夜、ホテルの部屋で高畠と別れるときに言われた言葉だ。
『――社長の取り巻きたちが、腹を決めたらしいぞ』
 ベッドに横になったままだった昭洋は、高畠の言葉を半ば聞いていなかったが、それでも高畠は 言葉を続けた。
『多少のダメージは覚悟で、邪魔者を排除する気になったらしい』
 高畠が喉の奥から洩らした低い笑い声が、今も耳にはっきり残っている。
 このときは、高畠が何を言おうとしているのか考えもしなかったし、自分には関係ないと思って いた。
 だが、今この瞬間は――。
 幸いにも、駅から昭洋が住むマンションまでの道のりは常に人や車の通りがあるので、いきなり 襲われるという可能性は限りなく低いだろう。
 それでも昭洋は視線をさり気なく、通りにある大きなショーウインドーに向け、飾られている家 具を、歩きながら眺めるふりをする。自分の後ろを歩いている人の姿が、ガラスに反射してぼんやり と映っていた。
 サラリーマン風の男性も数人いるが、誰がデパートから自分を見つめ続けているのかはわからな い。
 気のせいかもしれないと思いながらも昭洋は再び歩調を速め、信号が点滅している横断歩道をギリギリ のところで渡りきる。振り返って、信号待ちの人たちの姿を確認すると、走り出していた。
 背後から誰もついてきていないとわかっているのだが、ヒタヒタと足音がついてきているようだ。
 これが単なる思い込みによる錯覚であってほしいと、昭洋は強く願っていた。




 パソコンの画面上の数字がぼやけて見える。大きくため息を吐いた昭洋は、用意しておいた濡ら しタオルを閉じた両瞼の上に押し当てる。目の奥が燃えるように熱く、頭が重い鈍痛を発し続けて いる。
 睡眠不足のせいで、これ以上なく昭洋は憔悴していた。
 デパートで誰かに見られている視線を感じてから三日経つが、被害妄想であってほしいという昭 洋の願いとは裏腹に、確かに誰かに見張られていた。会社と家の間を往復する間、ずっとだ。
 実害はないといえばないが、昭洋は精神的に追い詰められており、睡眠薬の力を借りても、眠れ ない。ようやくうたた寝を始めても、意識下で視線の圧力を感じて、すぐに飛び起きてしまうのだ。
 会社内でもときおり視線を感じるが、その視線から確実に逃れられる場所がこの資料室だという のも、皮肉な話だった。
 ふいに、ドアの外でセキュリティーカードを使う気配がする。
 昭洋は瞼の上に置いたタオルを退けることなく、じっとしていた。相手が誰であるか尋ねる必要 はなかった。
「――頭でも痛いのか」
 耳に馴染んだ声がかけられ、あっという間に人の気配が傍らに移動してくる。聞こえなかったふ りをしていた昭洋だが、タオルを押さえている手を握られたので口を開く。
「……大したことはないです」
 タオルを外すと、高畠の顔が意外なほど間近にあって内心で驚く。すかさずあごを掴み上げられ、 しっかりと顔を覗き込まれる。高畠の眉が険しくひそめられた。
「どうしたんだ。すごいクマだな。顔色も悪い」
「単なる寝不足です」
 昭洋の答えに、高畠は複雑そうな表情をした。
「睡眠薬を飲むのをやめたのか。……だったら、喜ぶべきだな。若いくせに、あんなものに頼るの はやめろと、わたしは何度も言ってきたからな。ようやく言うことを聞く気になったか」
 高畠の物言いに、わずかな反発心を覚える。仕事上のことはともかくとして、私生活にまで口出 しはされたくない。またその権利を、高畠に与えた覚えはない。
 昭洋は素っ気なく、あごにかかった高畠の手を払いのける。
「――……睡眠薬は飲んでいます。ただ、効かないだけです」
「何があった」
 高畠の表情だけでなく、声にまで厳しさが増す。
 最初は話す気がなかった昭洋だが、高畠に威圧的に詰問されて、すぐに折れた。この体調で高畠 と対等にやり合うのは無謀すぎる。
「……三日ぐらい前から、誰かに見られているように感じるんです。会社だけでなく、会社と家の 往復の間も」
「お前の気のせいということは?」
 高畠の様子は、すでに平素のものに戻っていた。冷静に切り返され、ムッとした昭洋は自嘲に満 ちた皮肉を言う。
「そうかもしれませんね。この資料室でやっている仕事がどれだけ危険なものか知っていますから、 自責の念と罪悪感に駆られて、そんな被害妄想を抱くようになったんでしょう」
 話すのではなかったと後悔し、昭洋は何事もなかったように仕事を再開する。
 数分ほど、傍らに立ったまま黙り込んでいた高畠が、ふいにまた口を開いた。
「お前の敏感さは、賞賛に値するな」
「どういう意味です……?」
 顔を上げると、高畠は笑っていた。高みから下界を見下ろしているような傲慢さと、そこからの 景色を純粋に楽しんでいる、高畠独特の笑みだ。
「高畠次長――」
「お前に尾行をつけたさせたのは、わたしだ」
 あまりにあっさりと重大なことを言われ、昭洋はすぐに反応できなかった。目を見開く昭洋の頬 を、すっと高畠に撫でられて我に返ったぐらいだ。
 肌が粟立つのを感じながらも、高畠を睨みつける。
「……本当、ですか。それ……」
「そう睨むな。可愛い部下に危害が加えられないか心配するからこその、わたしなりの配慮だ。い ままで誰にも、ここまでしてやったことはない」
 高畠の指があごの下にまで這わされるようになって、たまらず昭洋は顔を背ける。頭が軽く混乱 していた。
「なんでそんなことっ。ぼくはてっきり、社長派の誰かだと思っていたんです。そうでなければ誰 が、ぼくみたいな社員を尾行するなんて思います?」
「お前はただの社員じゃない。わたしの大事な部下だ。だからこそ、会長や社長につく連中に目を つけられるのは、間違いない。正確には、もう目をつけられている」
 次の高畠の言葉で昭洋は、自分に向けられる高畠の執着の一端を垣間見た気がした。
「――三日前に、社内のエレベーターで外部の男と会話を交わしただろう」
 一瞬、高畠が何を言い出したのかわからなかった。
 無防備に首を傾げると、淡く笑んだ高畠にまた頬を撫でられる。昭洋はその笑みの酷薄さにゾッ としてから、高畠が誰を指して言っているのか察した。
 気分が悪くなった昭洋を助けてくれた、謎めいた男のことだ。ブリーフケースの中には、まだ渡 すことのできない新品のハンカチが入ったままとなっている。
 顔を強張らせた昭洋を見て、高畠は笑みを浮かべたまま頷く。
「その男と親しげに社内を歩いていたそうだな」
「親しげなんてっ……。初めて会った人です。ぼくが急に気分が悪くなったから、洗面所まで連れ て行ってくれただけです」
「その男の身元は確かめたか?」
 昭洋はぎこちなく首を横に振る。初対面の、しかも自分を助けてくれた人間の身元をまっさきに 確認するなど、できるはずもない。それでもやれというのが、高畠という男だ。注意深さは、若く して出世するためには必要なものなのだという。
 高畠は大げさに肩をすくめ、教えてくれた。
「受付に残された社名を調べてみたら、うちが顧客の信用調査を外注している調査会社の一つらし い。つまり、調査部が噛んでいるということだ。もっとも、その男が本当に、調査会社の人間かど うかまでは確認できなかったがな」
 調査部の部長は、あくまで派閥争いでは中立を保っている。だからこそ高畠も、相手が不快に感 じるような行動は取れない。調査部を調査したことが知られたら、反発を買うのは必至だ。高畠は 作らなくていい敵を作ることになる。
「……どうしてそれで、ぼくが尾行を付けられることになるんですか」
 目の奥が激しく痛み始め、昭洋は力ない声で問いながら濡れタオルを手にする。今度は額に押し 当てた。
「私生活でも会社でも、お前に興味を持つ人間は、わたしの敵だ。――徹底して潰す」
「何を言ってるんですかっ」
 額に当てたばかりのタオルをデスクに叩きつけて、思わず昭洋は立ち上がる。高畠は涼しげに笑 い続ける。
「お前はただの社員ではない。そんな部下の身を陰から守るのは、わたしの役目だ。だから、尾行 をつけた。気になる人間がお前に近づくようなことがあれば、すべてわたしに報告が来るようにな っている。結果として、わたし自身の身を守ることにもなるんだ」
 しばらく我慢しろとも言われ、昭洋の中で保っていた糸が切れた。同時に、ずっと心の中で抱え ながらも口に出すことのできなかった思いが、一気に溢れだした。
「……そこまでしなければいけないというのなら、ぼくをもう、この仕事から外してください。別 の部署に異動になってもかまいません。だからぼくを――解放してください」
 一瞬、高畠の目が鋭さを帯びたが、それだけだ。ニヤニヤと笑いながら、ふざけたような口調で 言われた。
「秘書課以外にお前を異動させるつもりはない。どうしてもと言うなら、ホテルの一室にお前を閉 じ込めてしまおうか? わたしとしても、そのほうが何かと安心だし、楽しめる」
 カッと頭に血が昇る。気がつけばタオルを、高畠の顔に向けて思いきり叩きつけていた。もっと も、顔にぶつかる寸前で、高畠が片手でタオルを受け止める。
「危ないな。濡れタオルはある意味、凶器だぞ」
 あくまでふざけた物腰を崩さない高畠に対して、昭洋は声を荒げる。
「――ぼくに、囲い者になれと言うんですかっ」
「古めかしい言い方だが、そっちのほうが趣きがあるな。『愛人』と言うよりは」
「ふざけないでくださいっ」
「ふざけてないさ」
 笑みを消した高畠が静かな表情となる。咄嗟に、怯えた昭洋は高畠から離れようとしたが、すか さず伸ばされた両腕に捉えられて抱き寄せられる。次の瞬間には、強引に唇を塞がれていた。
「うっ、んんっ」
 乱れた足元にイスがぶつかり、派手な音を立てる。昭洋は高畠の腕の中から逃れようとするが、 後ろ髪を掴まれて仰向かされると、強引に口腔に高畠の舌が差し込まれてくる。
 たっぷりと唇を吸われ、引き出された舌を甘噛みされる。その頃には昭洋は抵抗を諦めて、ただ 体を硬くしていた。嵐が過ぎ去るのを待つように。
 高畠の執着心に歯向かうには、あまりに昭洋の中には何もない。高畠に対する憎しみも嫌悪も親 しみも恋情も。あるのは、恐れだ。
 この男は怖い――。昭洋が何かに執着を見せれば、ためらいもなくそれを破壊し尽くす、冷たい 激しさが高畠にはある。
 ようやく唇が離されて喘ぐと、濡れた唇を指先で丹念に拭われる。昭洋は顔を背けようとしたが、 あごを掴み上げられたのでできなかった。
「従順でいろ。誰にも関心を向けるな。お前の主は、わたしだ」
 ふざけるな。心の中で吐き捨ててから、昭洋は高畠の胸に手を突く。さきほどまでの堅固な檻の ようだった抱擁から、呆気ないほど解放された。
 結局、何が目的でやってきたのか明らかににしないまま、高畠は落ち着いた足取りでドアへと向 かう。昭洋は力なくイスに腰掛けた。
「本当にわたしに飼われたくなかったら、さっきの言葉を忘れるな」
 そう言い置いて、高畠の姿はドアの向こうに消えた。
 デスクに片肘をつき、重い頭を支えていた昭洋だが、空いているデスクの上に置かれた濡れタオ ルに気づいて取り上げる。高畠に貪られた唇をきつく拭っていた。
 悔しくて涙が出そうだった。一方で、自分の身などもうどうでもいいという気にもなる。そうい う意味では、高畠の心理攻撃は巧みだ。
 心の底から他人を欲することも、他人から欲せられたこともない昭洋には、高畠の激しい執着は 一種の興奮剤だ。しかも、媚薬入りの。一度味を知ってしまうと、自らの意思で捨てる気力が奪わ れる。
 ノロノロとタオルを置いた昭洋は、何も考えない状況に身を置くため、仕事を再開した。


 昼休みとなり、資料室の鍵を担当者に返した昭洋は、その足で会社のビルを出ていた。ビル内の どこにいても、高畠の強烈な想いに取り囲まれているようで息苦しかったのだ。
 しかし尾行がつけられているのなら、どこにいても同じなのかもしれない。周囲を見回し、それ らしい人物の姿を探す気力もなかった。
 降り注ぐ強い陽射しと、足元のコンクリートから立ち昇る熱気のせいで、めまいに襲われる。そ れでもビル内に戻ろうとは思わなかった。食欲はないが、とにかくどこかの店に入ろうと、無理に 足を踏み出す。
 すぐに額に浮かんだ汗で、前髪が張り付く。そんな些細なことにすら苛立ち、乱雑に髪を掻き上 げる。歩道の先では陽炎が立ち昇り、その向こうの景色を歪んで見せる。
 次の瞬間、ハッとした昭洋は足を止める。途端に、行き交う人たちと体がぶつかったが、意識が そんなところに回らない。ただ、正面を見つめる。
 陽炎の中から、大勢の人たちに紛れるようにして一人の男が姿を見せた。特別変わったところの ないワイシャツ姿だが、昭洋は見間違えなかった。相手も昭洋に気づいたのか、歩調を緩めないま ま昭洋をまっすぐ見つめている。
 会社内で昭洋を助け、ハンカチをくれた男だった。
 昭洋の前で立ち止まった男が、わずかに唇を緩める。低く掠れ気味の声に言われた。
「――また会える、と言っただろ」
 ふっと男の声が遠のき、そこで一度、昭洋の意識が途切れる。
 気がついたときには、近くの公園のベンチに上半身を横たえていた。風が吹き、葉が生い茂った 枝が頭上でザワザワとなる。こんなに暑い日だというのに、木陰で感じる風は涼しいものなのだと、 漫然と昭洋は考える。
 ここでようやく、なぜ自分が、足を運んだ覚えのない場所にいるのか疑問に感じる。
 だるい体を起こすと、すぐ傍らで声がした。
「気がついたか」
 顔を上げると、ペットボトルのスポーツ飲料とお茶を手にした例の男が立っていた。
「ほら、飲め。脱水症状起こすぞ」
 言葉と共にスポーツ飲料を手渡され、昭洋はおずおずと受け取る。男は隣に腰掛け、美味そうに 喉を鳴らしてお茶を飲む。昭洋もスポーツ飲料に口をつける。意外なほど喉が渇いていることに、 このとき気づいた。
「……あの、ぼく、どうしてここに――」
 人心地ついたところで尋ねると、男はどこかとぼけた仕種で首を傾げた。
「俺の顔を見た途端失神したから、運んできた。……貧血じゃないのか。三日前に会ったときと同 じような、血の気のない顔色をしてたからな。今は少しはマシになったようだ」
 ふいに男に顔を覗き込まれ、昭洋はドキリとする。男の鋭い眼差しに、何もかも見透かされたよ うな気がしたのだ。資料室での高畠とのやり取りさえも。
 昭洋は改めて男の顔をまじまじと見つめる。楽しそうに男は唇を緩める。笑うというところまで はいかないが、いきなり倒れた昭洋の面倒を見ることに、不快さは感じていないようだ。
 見た目は迫力があるが、案外世話好きなのかもしれない。自分に都合よく、昭洋はそう解釈して みる。しかしすぐに、緊張感を持って周囲を見回す。他のベンチには昼食をとるサラリーマンやO Lたちの姿が多いが、この中の誰かが、昭洋を監視しているのだ。
「どうかしたか?」
 男に問われ、小さく首を横に振る。あとでどんな事態になるか想像するだけで寒気がするが、今 はまだこの場から動きたくなかった。それに正直に言って、男とも離れがたい。
「――名前、教えてもらえませんか」
 前置きのない昭洋の言葉に、男は今度は唇だけの笑みを浮かべた。だが酷薄な感じはしない。内 心で昭洋はほっとする。
「槙瀬(まきせ)、だ。槙瀬桐吾(とうご)」
「本名ですか?」
 咄嗟に口にして、自分の失言に気づく。昭洋は素直に頭を下げた。
「すみません。失礼ですね」
「変わった質問だな。いや、用心深いのか。――本名だ」
 一度沈黙して、二人揃ってペットボトルに口をつける。そこにまた風が吹き抜けていった。
「――槙瀬さんは、どうしてうちの会社に? 今日も、向かっていたんですよね」
 本当は高畠から聞いて知っているのだが、鎌をかけてみた。槙瀬を試したのだ。槙瀬はちらりと 横目で昭洋を一瞥してから、淡々とした口調で教えてくれた。
「ある調査で、君の会社の調査部に出入りすることになったんだ」
「だったら、調査会社の人ですか?」
「正確には、調査事務所の所長だ」
 昭洋が目を丸くすると、鋭い目元を和らげた槙瀬は名刺を一枚取り出して手渡してくれた。確か にそこには『槙瀬調査事務所』という名と、槙瀬本人の名が記されていた。
「少しは信じてくれたか?」
 名刺にじっと視線を落としていると、どこかおもしろがるような口調で槙瀬に言われる。上目遣 いに見ると、槙瀬は口調とは裏腹に自嘲気味な苦い表情をしていた。
「あっ……、そんなつもりじゃ……」
「いい。君の警戒心は正しい。今、俺たちがいる状況を単純化したら、俺は君の敵といっていいだ ろうからな」
 数瞬、昭洋は呼吸を止める。息を吐き出したのと同時に、やはり停止していた思考が緩やかに動 き出した。
「それは――つまり」
「調査部が俺に依頼したのは、顧客の信用調査なんかじゃない。専務派の動向だ」
 昭洋の顔を、槙瀬は痛ましげに見つめてくる。
「君は、専務派の高畠次長に目をかけられているらしいな。若いのに、なんで派閥争いになって 首を突っ込んだ? 血は流れないが、社内で戦争をしているとわからないわけじゃないだろ」
 槙瀬の口調に詰問の響きを感じ、反射的に昭洋は睨みつける。しかし槙瀬はまったく動じない。
「……部外者のあなたには、関係ないです」
「そうだな。だが、部外者だからこそ、わかることもある。君がどんな仕事をしているのか知らな いが、向いてないんじゃないか。今日といい、つい先日といい、顔色が悪くてふらふらしているじゃ ないか。自分の体を粗末にして心血を注ぐほどの、仕事か?」
 探りを入れられているとわかっていながら、槙瀬の声があまりに昭洋本人を心配しているように 聞こえ、心が揺れる。
 少し前まで、現状に怯えて逃げ出したいと考えていたのだ。すがるように槙瀬を見たが、すぐに 心は萎える。こんな状況すら、高畠がつけたという監視者に見られているのだ。高畠の耳に入った ら、どんな目に遭わされるか想像もできない。
 槙瀬に名刺を突き返し、視線を伏せる。
「仕事は仕事です。……ぼくは、生活しないといけないんです。頼る人もいませんから、一人でが んばらないと」
 名刺を受け取るかと思った槙瀬に、片手を強く握られる。昭洋の鼓動が大きく跳ね、飛び上がる 勢いで立ち上がる。
「何するんですかっ」
 槙瀬が射るような眼差しを昭洋に向ける。思わず引き寄せられそうな、力強さのある眼差しだ。
 槙瀬なら、高畠という檻の中から自分を出してくれるかもしれない。そんな危険な期待を抱いて しまいそうだ。相手は、今を含めてたった二度しか会ったことのない男だというのに。
 心から溢れ出しそうになった思いを、ギリギリのところで封じ込める。まだ、槙瀬が信頼できる と決まったわけではない。
 昭洋は深々と槙瀬に頭を下げる。
「助けてもらったことは、お礼を言います。ありがとうございました。……今度会ったときに、ハ ンカチはお返しします。新しいの、買ったんです」
 言外に込めた昭洋の言葉の意味を、槙瀬は汲み取ってくれたようだった。
「――ああ、今度会ったときに」
 返ってきた言葉に心底安堵した。
 昭洋は久しぶりに、微かながらも笑みを浮かべることができた。




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