槙瀬と再会の約束を交わしてから一か月、昭洋は精神的に少しずつ落ち着きを取り戻していった。
睡眠薬の服用の回数もずいぶん減った。
一方で、高畠が昭洋につけた尾行は相変わらずだ。だが、どんなにつかず離れずの距離を取って
いても、一か月も尾行をされ続けていると、元々人より鋭い感覚を持っている昭洋は、尾行者の姿
を視認できるようになっていた。
羽織ったシャツの裾が風でなびく。手で押さえた昭洋はごく自然な動作を装って 車道脇に停め
られた車のサイドミラーを覗く。目を凝らすと、通りを行く人たちの中に紛れるように、中肉中背
の中年の男の姿がある。まばたきした次の瞬間には、風景に溶け込んでしまうような平凡な男だ。
「――……今日は、三番目か」
口中で小さく呟く。この一か月の間に昭洋も学習した。
外での昭洋の尾行には三人の男たちが交替でついており、その男たちの年齢はバラバラだ。ほぼ
二日のサイクルで尾行者は変わっている。その度に男たちは服装などの雰囲気を変えており、印象
を覚えられないように気をつかっているようだ。
おそらく、そういった仕事を専門で引き受ける人間を雇ったのだろう。高畠の人脈をもってすれ
ば、難しいことではない。実際社内では、高畠の息のかかった人間が、それとなく昭洋の行動を目
で追っているのだ。
当の高畠は多忙なのか、ずっと資料室にも顔を見せないし、ホテルの部屋に昭洋を呼び出すこと
もない。それを寂しいと感じる心情は、昭洋の中にはなかった。むしろ、高畠が自分に飽きたのか
もしれないと、淡い期待すら抱いていた。
尾行者が不審を感じないよう、サイドミラーを覗き込んだ姿勢で目を擦るふりをする。
現金なもので、尾行者の顔が見えてしまうと、昭洋の中にあった怯えは消えてしまった。ただ、
自分の行動に気をつけなければならない不愉快さや煩わしさは、相変わらずだが。
「どうかしたのか?」
一緒に歩いていた布施が、昭洋がついてきていないことに気づき、慌てて引き返して声をかけて
くる。
ラフな格好の昭洋とは違い、午前中は仕事だったという布施はワイシャツ姿だ。しかし仕事から
解放された今は、アタッシェケースを片手に、ネクタイは緩めて袖も捲り上げている。
日曜日の今日、昭洋は布施に呼び出されて、これから食事に出かけてるところだった。
たとえ布施からの誘いでも、尾行に気づいたばかりの頃であったなら断っていただろうが、その尾行に
慣れてしまった今、高畠が姿を現さないどころか、沈黙していることに安心し、誘いに乗ったのだ。
昭洋は自分の片目を指さして答えた。
「目にゴミが入ったんだ。でもすぐ取れた」
「大丈夫か」
布施が心配そうに顔を覗き込んでこようとしたので、昭洋は何事もなかったように歩き出す。
「平気だ。それで、予約入れてある店ってどこだ」
隣に並んだ布施が、腕時計に視線を落としてから、手で示しながら説明してくれる。
「この先の大通りを左に曲がって、ちょっと行ったところにあるビルの二階。フレンチの店で、ラ
ンチのコースがうまいって、女の子たちが話してたんだ。本当は当日に予約入れたほうがいいんだろ
うけど、その日は俺も忙しいからな」
「お前、行ったことないのか? だったら、せっかくだから女の子を誘えばよかっただろ。相手が
いないわけでもないのに、わざわざぼくを呼び出すなんてさ。――それで、『当日』とか、『その日』って、
どういう意味だ?」
呆れ気味に苦笑する昭洋に、布施のほうが呆れたような表情を向けてくる。昭洋は首を傾げた。
「……なんだよ。何か言いたそうだな」
「いやあ。これでわからないところが、お前らしいと思って」
「はっきり言えよ」
「思い出す努力をしろ」
布施が笑ってさっさと先を歩き、意味深な言動が気になる昭洋はあとを追いかける。
結局布施は、店に入って注文した料理が運ばれてくるまで、もったいぶって教えてはくれなかっ
た。
落ち着かない気分で昭洋は店内を見回す。女性が好みそうな内装のデザインのせいか客は女性が
多く、カップルもいることはいるが、男同士で向き合っているのは運悪く、昭洋と布施だけだ。
普段布施と食事する店とは、なんだか勝手が違う。
「――それで、一体なんなんだよ」
野菜のポタージュを一口飲んで、優しい味にほっとしながら、昭洋は上目遣いとなる。布施はじっと昭洋を見ていた。この
ときの眼差しは、ハッとするほど真摯だ。
目が合うと、穏やかな笑みを向けられた。友人に対するとものいうより、まるで保護者の笑みだ。
向けられた昭洋は内心くすぐったくて仕方ない。
「……なんだよ。いきなり笑って」
「まともにメシ、食うようになったんだと思って。ここのところ、体重も戻ってきてるようだな。
会社で遠目に見ていて、ちょっと安心してたんだ」
布施の言葉に、昭洋は申し訳なさを覚える。ずっと尾行が気になり、それ以外の人間の視線に意
識を向ける余裕もなかったのだ。
自分の身に起こっている異変を布施に悟られないため、昭洋は表面上は苦笑で応じる。
「お前はぼくの保護者か」
「危なっかしいからな、お前は」
肩をすくめた布施は、すごい勢いでポタージュを飲んでしまう。朝早くから出社して、空腹でたまらなかった
のだという。
頷いて聞いていた昭洋は、すぐに布施に詰め寄る。
「おい、いい加減教えろよ。お前がさっき言ってた、当日とか、その日っていう意味を」
ニヤニヤと笑った布施が、次の料理が運ばれてきてから、ようやく口を開いた。
「――もうすぐ、誕生日だろ」
「……誰の……」
言いかけて昭洋はハッとする。
「ぼくの、誕生日だ……」
布施が、もったいぶった手つきで軽く拍手する。思いきり脱力した昭洋は、イスの背もたれにべ
ったりと体を預け、前髪に指を差し込む。大きく息を吐き出していた。
「お前、その様子だと、本当に今のいままで忘れてただろ」
「当たり前だろ。自分の誕生日なんて……」
もう四日もすると二十五歳になるのだと、妙な感慨が昭洋の胸の奥に生まれる。他人の勝手や思
惑のみによって流されてきながらも、ずっと生きてきたのだ。
自分の誕生日を迎えて嬉しいと思ったことは、実は一度もない。祖父母は何かと祝ってくれたが、
かえって負担をかけているようで、申し訳なかった。子供心に、両親の不始末を押し付けていると
感じていたのだ。その感覚を、いまだに引きずり続けている。
自分ですら忘れてしまっている誕生日を友人が覚えているという事実に、嬉しいのか恥ずかしい
のか、昭洋もよくわからなかった。
ひとまず、ペコリと頭を下げる。
「おい、よせよっ」
慌てる布施に、昭洋はわざと意地の悪い表情を浮かべて言う。
「男のぼくの誕生日を祝うために、わざわざフレンチの店を予約した、お前の度胸に頭が下がる。普
通は、恥ずかしくてやれないぞ。まさか、プレゼントまで用意してあるとか」
「バッ、バカかっ。あるわけないだろ。だいたい俺は、絶対お前は自分の誕生日なんて忘れてるだ
ろうから、からかってやろうと思って――」
昭洋はもう一度頭を下げる。今度は苦い表情を浮かべた。
「今のところ世の中で、ぼくなんかの誕生日を覚えてるのは、お前ぐらいだろうな」
「塚本……」
布施は、昭洋の家庭の事情を一切知らない。また布施も、自分の家庭のことは口にしない。最初
は昭洋に気をつかっているのかもしれないと推測もしたが、どうやらそれだけではないようだ。
本来は苦手なはずの陽性の性格の布施とつき合っていけるのは、布施が心の奥底に隠した部分が、
自分と共通しているせいかもしれない。ときおり昭洋は、そう思う。
食事を続けながら、昭洋は気になったことを布施に尋ねた。
「でも布施、よくぼくの誕生日なんて覚えてたな。去年は――ああ、お前、研修でいなかったんだ」
布施は水の入ったグラスに口をつけていたが、昭洋の問いに、思いきり視線をさまよわせた。
「……他の日だったら、覚えてなかったかもしれないな」
「なんだよ、それ」
「お前とは、新人研修で一緒になったときに知り合っただろ。席が隣同士で」
ああ、と昭洋は頷く。初対面ながら、やたらと明るく親切だったのが、布施だ。部署が違うのに
その後も社内で何かと声をかけてくれ、いつの間にか友人同士になったのだ。
「書類書いているときに、お前の生年月日が見えたんだ。……一緒だったんだよ」
「誰と」
視線をさまよわせたまま、布施が短く答えた。
「――……そのときつき合ってた彼女と」
悪いと思いつつも、昭洋はうつむいて小さく噴き出す。ヤケクソ気味の布施に、笑うなと怒られ
るが、とうとう声を上げて笑ってしまう。
「よっぽど好きだったんだな、その彼女のこと。そうでなきゃ、覚えてないだろ」
布施は大きくため息を吐き、芝居がかった仕種で視線を遠くに向ける。
「ひどい振られ方したからな。ありゃ多分、一生忘れられないな」
「お人よしな奴だな。そんな彼女と同じ誕生日の友人を、食事に誘って祝ってくれるなんて」
昭洋としては冗談のつもりで言ったのだが、布施は口元に苦い笑みを浮かべた。
「ここんとこお前、元気なかったからな。顔色も悪いし、かと思えばどんどん痩せるし。いくら相
談に乗るって言っても、簡単に話してくれるような性格でもないしな」
ズキリと胸が痛む。他人との関係の煩わしさを思い、同僚たちとはなるべく深入りしないように
してきたが、こうして布施の思いを知ると、自分の薄情さを痛感せずにはいられない。布施の友情
に報いられるだけのものを、昭洋は持ち合わせていない。
「まあ、お前を外に誘い出せたら、理由はなんでもよかったんだ。お前もここのところ、秘書課の
仕事で忙しそうだから、会社が終わってから気軽に声をかけられなかったし」
「……そう、忙しいわけじゃない」
布施が不安そうに見つめてくる。何が言いたいのかわかったので、昭洋は曖昧な笑みで返す。
「大変なんじゃないのか? 秘書課の仕事がどうこうっていうより、高畠次長に目をかけられたり、
委員会の人間と会ったりしていると、会長と社長派の人間につらく当たられたりして」
「そうでもない。ぼくなんて、責任があるような仕事を任せてもらえるわけでもないし。存在が目
につくようなこともないだろ」
これ以上、この場でうそは言いたくなかった。
唇を引き結ぶと、昭洋の気持ちを察してくれたらしく、布施は納得した素振りを見せ、話題を変
える。昭洋は、友人の気遣いに内心で深く感謝した。
何事もなかったように、屈託なく世間話に笑い合いながら昭洋は、久しぶりに当たり前の日常を
堪能する。
楽しいという感覚がまだ自分の中に残っていた事実に、昭洋は笑いながら切なくなった。
いつ訪れても、落ち着く庭だった。
昭洋はゆっくりと静かに息を吐き出してから、目の前に広がる見事な日本庭園を眺める。この風
景だけなら、どこかの自然公園の一角のようだが、これでも個人宅の庭だ。
立派な樹木を植え、よく手入れしているからというだけでなく、所有者の庭に対する想いも伝わ
ってくるから居心地がいい。この庭で癒されたいという、純粋な想いだ。
ここだけは街中の暑さとは無縁で、木陰も多いせいか優しく吹く風もひんやりと涼しい。
「――塚本くんは若いのに、この庭が好きだね」
傍らからふいに声をかけられ、庭の木陰の下に出されたテーブルについていた昭洋は慌てて立ち
上がる。目の前に立っているのは、一見、好々爺とした風貌の藤島(ふじしま)だ。
「あー、いいよ。立たなくて」
笑って促され、藤島がイスに腰掛けるのを待ってから、昭洋も倣う。すぐにお手伝いの女性がお
茶を運んできて、昭洋の前のグラスが取り替えられ、藤島の前には熱いお茶が置かれる。
それを待ってから、昭洋はさっそく仕事に入るため、アタッシェケースから大判の封筒を取り出
し、中から出した書類を藤島の前に置く。老眼鏡をかけた藤島は、穏やかな表情を崩さないまま書
類に目を通し始める。
藤島は、会社に設置されている経営委員会の委員長を務めている。かつては豪腕を誇っていた大
物代議士だったのだが、数年前に突然、政界を引退した。しかし今でも、その影響力と発言力の大
きさは、昭洋の想像がつかない規模に及んでいるようだ。
ただ昭洋の前では、あくまで穏やかな物腰の老人でしかない。
一年前から、こうして書類を持って藤島の自宅に足を運ぶようになったが、どうやら昭洋は、藤島に
気に入られているらしい。昭洋も、生意気なようだが藤島に好印象を抱いている。
社会的に成功した人間ばかりが揃っている会社の各委員会の委員たちの中には、高圧的だったり
高慢な態度の人間が少なくない。それに多忙だということもあり、昭洋のような若い人間に対する
態度は概ね素っ気ない。
そんな委員たちの中にあって、もっとも力を持っているようにも見える藤島は、常に昭洋に対し
て丁寧に接してくれるのだ。
「なんだか顔色がよくなったね」
書類に目を落としたままの藤島に、柔らかな声で言われる。傍らの池に放たれている亀の動きを、
子供のように無邪気に眺めていた昭洋は、姿勢を正す。
「最近……よくそう言われます。食欲も出てきましたし、夜も、睡眠薬を飲まずに眠れるようにな
りましたから」
「何かいいことがあったかね?」
藤島の笑みにつられるように、昭洋もそっと唇に笑みを浮かべる。
「いいことというほどでは……。ただ、ある人と約束したんです。ぼくを助けてくれた人なんです
が、その人と、また会おうと」
「だとしたら、塚本くんを、この世に繋ぎとめてくれる人かもしれない」
藤島の言葉の意味がわからず、昭洋は微かに首を傾げる。
藤島は書類に目を通してしまうと、素早く万年筆でサインをする。頻繁に委員会を開くのは不可
能なので、会社側で提案があると、こうして書類に起こして委員会の人間にサインをもらうのだ。
その程度の手続きで済むなら、委員会の存在など必要ないというのが会長・社長派の意見だが、
表立っては何も言えないのが実情だ。そんな批判を抑えるために、藤島といった大物たちを委員会
に抱え込んだともいえる。
書類を受け取ってサインを確認した昭洋は、封筒に収める。本来ならこれで昭洋の仕事は終わり
だが、むしろこれからが、昭洋が藤島に求められている本当の仕事だといえる。
つまり、藤島の話し相手だ。
「……この世に繋ぎとめる、ですか?」
「初めて塚本くんを見たときからわたしは、漠然とした不安を感じていたよ。この子は、生きてい
ることそのものに執着していないと。……生い立ちを聞いて、なんとなくわかる気がしたがね」
昭洋は請われるまま、藤島に自分の家庭環境を話している。それは藤島が怖かったからではなく、
藤島が先に、いろんなことを話してくれたからだ。一番印象深く残っているのは、藤島がずいぶん
昔に、一人息子を病気で亡くしたということだ。しかもそのときの年齢が、昭洋の今の年齢と同じ
二十四歳だった。
「だから、その人のおかげで元気になったというのなら、塚本くんをこの世に繋ぎとめてくれる人
なんだよ。これから先、そんな人はたくさん現れる、君の前に」
だといいですが、と昭洋は本心からそう言葉を洩らす。
ここで藤島が穏やかな表情を消し、いくぶん厳しい表情となる。何か機嫌を損ねるようなことを
言っただろうかと昭洋は緊張する。
「実は――ある結論を出したんだ。まっさきに君に、そのことを話しておきたかったんだよ」
「……なんでしょうか」
顔を強張らせる昭洋を安心させるように、藤島は目元を和らげる。
「君自身にとっては、そう大したことではない。むしろ、気兼ねなく、この家に遊びに来てもらえ
ると思っているよ」
「もしかして……」
「そう。来月をもって委員を辞めようと思っているんだ。体力的な問題というよりも、この歳にな
ってもまだ、名誉職にしがみついているのがみっともなく感じてね。それに――」
藤島が不自然に言葉を切り、かつての豪腕ぶりを垣間見せるような鋭い眼差しを空に向ける。
「それに?」
昭洋の問いかけに、はっきりとした返答は避けた藤島だが、代わりに忠告をされた。
「君の会社の……高畠くんといったかね」
「はい。次長です」
「切れ者らしいが、深入りしないほうがいい。特に、社会的に力を持っていない、君のような若者
は。上に言われて、どんな仕事でも引き受けさせられるのに、守ってはもらえない立場なんだから
ね。――君みたいな子は、誰よりも鋭い感覚を持って危機を避けなきゃいかん」
藤島は、昭洋が秘密裏にこなしている仕事を知っている。知ったうえで、忠告してくれているの
だ。
ひんやりとした風に首筋を撫でられる。鳥肌が立つ感覚に一瞬襲われた昭洋は、顔色を変えて藤
島に尋ねる。
「高畠次長が、何か……?」
そこに、二人に近づいてくる気配がある。見ると、藤島の秘書だ。
秘書に一礼された昭洋は、気をつかって藤島から少し距離を取る。すると秘書が素早く藤島に歩
み寄り、耳元に何か囁く。顔をしかめた藤島は、ぞんざいな仕種で手を振った。
「追い返せ。約束もしてない奴と会うほど、わたしもヒマではないと言ってな」
「承知いたしました」
短く会話が交わされ、もう一度秘書は昭洋に頭を下げて屋敷のほうに戻っていく。その背を見送
った昭洋は、手招きされて藤島の元に戻る。
「よろしいのですか? ぼくなら、すぐにでもおいとましますけど……」
「かまわんよ。わたしは今は、君と話したいんだ。それより、さきほどの話の続きだが――」
息を呑んで昭洋は頷く。
藤島が話してくれたことは、とうてい聞き流せる類のものではなかった。
「直接委員会が関わることではないのだが、ある政治家からの情報でね。公取委が君の会社に目を
つけつつあるそうだ。わかるね? 公正取引委員会だ」
どの件だろうかと、昭洋の頭の中でめまぐるしく、会社の裏の部分が駆け回る。高畠とのつき合
いで、会社の商行為の中で法律に抵触する事柄がどれだけあるか、だいたいは把握している。その
中には、いつ公取委の勧告どころか、行政処分を受けても不思議ではないものもある。
「それ自体は、まあ珍しくもないことだ。どの会社も表に出ないだけで、きれいな体質とはいえま
い。だが君の会社は、他とは違う特徴を持っている。わかるね?」
経歴に、ささいな傷でもつけてはいけない人間たちを、委員という形で抱えているということだ。
公取委に目をつけられた会社に名を連ねているのは、あまり名誉なこととはいえない。大したダメ
ージを受けなくてもだ。
「公取委の勧告を受けたとき、一部の委員は動揺するだろう。万が一、これをきっかけに警察や国
税局辺りに目をつけられるようになったら、と。後ろ暗いものを持つ人間は、常に最悪の状況を考
えるものだよ。……わたしも歳を取って、警戒心だけは強くなった」
昭洋はじっと、池で悠然と泳ぐ鯉を視線で追いかける。藤島の言葉は衝撃的だった。ただの、何
も知らない社員であったなら感じる不安も違うだろうが、昭洋の場合、そこに恐怖が加わる。
昭洋の立場を十分承知している藤島は、他の委員のことではなく、何よりも昭洋自身の心配をし
てくれる。
「他の委員会も、内情はきれいとは言いがたいが、せめて、経費委員会の仕事からは手を引いたほ
うがいい。あそこは、底なし沼と一緒だ。完全に入り込んでしまうと、二度と抜け出せなくなる。
君ならまだ、抜け出すのも可能だろう。だが――」
高畠の側にいる限り、抜け出す道はないと、はっきりと藤島に断言される。
「話を聞く限り、高畠くんという男は、多くのものを呑み込んで増幅しているようだ。権力も名誉
も地位も。そのうち、君すらも呑み込むだろう」
藤島の次の言葉が、昭洋には印象的だった。
「君は、何も捨てても、奪われてもいけないよ。今以上に何かをなくすには、まだ若すぎる」
これまで沈滞し、澱んでいると思っていたものが、ようやく緩やかながら動き始めたのかもしれ
ない。その動きに、これまでのようにただ流されるだけでいいのかだろうかと、ようやくながら昭
洋は疑問を感じ始めた。
藤島から聞いた話を誰にも――高畠にすら告げないまま、昭洋は自分の誕生日を迎えていた。
藤島は、教えてくれた重大な情報を他言するなとは言わなかった。昭洋の判断に委ねてくれたの
だ。そして昭洋は、結論が出せないままだ。
いつものように仕事を終えた昭洋は、終業時間を少し過ぎてから秘書課を出た。
実は布施から内線が入り、少し遅くなってもいいなら、夜、また一緒に食事をしないかと誘われ
たのだ。布施の過分すぎる気遣いを、昭洋は申し訳なく感じながらも断った。誕生日は一人で過ご
したいのだと言うと、布施は昭洋の心理を察してくれたようだ。明るい調子で電話は切られた。
感傷に浸る余裕はない。ただ、藤島の忠告をどうするべきか、じっくりと考えたい。
そう思いながら会社のビルを出る。夕方とはいえまだ強烈な陽射しが降り注いでおり、暑さに昭
洋は顔をしかめる。
この瞬間、ふっと何かを感じて振り返る。見覚えのある人物が、会社のビルに入って
いくところだった。
槙瀬だ――。
ドクンと昭洋の鼓動が大きく鳴る。ようやく会えた、と思った瞬間には昭洋は走り出し、
追いかけていた。
ロビーに飛び込み、辺りを見回して槙瀬の姿を探す。ちょうど、エレベーターの扉が閉まるとこ
ろで、槙瀬の姿がちらりと見えた。慌てて駆け寄りながら呼び止めようとしたが、このときには完
全に扉が閉まってしまう。
これまでの昭洋なら、ここで諦めて帰ってしまっただろう。だが昭洋の中では、確実に何かが変
わりかけている。これまでになかった強い感情が芽生え始めている証拠かもしれない。
昭洋は、来訪者との簡単な打ち合わせ用として置かれているイスに腰掛ける。何時間だろうが、
槙瀬が再び目の前に現れるのを待つつもりだった。
一心にエレベーターを見つめる昭洋の姿を、高畠の子飼いとなっている社員の
誰かが、おそらく観察しているだろう。そして、昭洋が誰をそんなに熱心に待っているか、気になっ
ているはずだ。そして外では、いつもの尾行者が昭洋が出てくるのを待っている。
わかっていながら、昭洋は自分の行動を止めようとは思わなかった。槙瀬と約束したのだ。再会
したら、新しいハンカチを渡すと。
もっとも、それは単なる言い訳でしかない。ただ単純に、昭洋は槙瀬に会いたかったのだ。
大きな窓ガラスの向こうの景色が、いつの間にか闇に染まっている。
ちらりと腕時計に視線を落とした昭洋は、唇に淡い苦笑を刻む。せっかくほぼ定時で仕事を終え
たというのに、こうしてビル内に留まっている自分がおかしく思えたのだ。
もう二時間近く、槙瀬を待っていることになる。
じっとエレベーターを見つめているつもりだったが、もしかすると一瞬の隙をついて裏口から出
ていってしまったかもしれない。そんな不安が昭洋の中を過る。
できるなら避けたいが、調査部があるフロアまで行ってみようかという気になり、イスから腰を
浮かせる。ここでタイミングよくエレベーターの扉が開き、槙瀬が姿を現した。
槙瀬はロビーを歩きながら、何気ないように昭洋に目をとめる。すぐに立ち上がった昭洋は声を
かけようとしたが、厳しい表情となった槙瀬が素早く視線を周囲に向ける。そして、昭洋を無視し
て通り過ぎて行ってしまった。
昭洋には、一瞬の槙瀬の行動の意味がわかった。おそらく、昭洋に張り付いている社内での視線
にも、尾行者の視線にも気づいているのだ。
緊張で体を強張らせながらも昭洋は、ブリーフケースを取り上げると、距離を置いて槙瀬のあと
を追いかける。
ビルを出た槙瀬は、会社の来客用の駐車場に車は停めなかったらしく、そのまま歩いていく。
槙瀬の後ろをついて歩きながら、昭洋は自分の背後の気配をうかがう。確かに、やはり距離を置
いて誰かがついてきている。昭洋が槙瀬のあとをつけていると知られているのかどうかはわからな
いが、この行動を高畠に報告されたら、と思わなくもない。
だが一か月にも及ぶ、尾行をつけられたままの異常な生活のせいで、昭洋の感覚は麻痺していた。
今はただ、槙瀬と話がしたかったのだ。
通りを歩く人たちの間を縫うように槙瀬は歩いていく。歩く速度が速い。昭洋はほとんど小走り
で追いかける。
数分ほど歩き続けた槙瀬が角を曲がり、昭洋も追いかける。
「あっ……」
思わず声を上げる。ぶつかりそうなほど間近に、槙瀬が立っていたからだ。
厳しい表情で見下ろされてから、次の瞬間には腕を取られて昭洋は強引に引っ張られる。すぐに
尾行を撒くため細い路地に引っ張り込まれ、走り出していた。
また通りに出ると、今度はさきほど歩いてきた道を引き返し、途中にあった有料駐車場に入る。
槙瀬は一台の車の運転席に回り込み、さっさと乗り込む。昭洋が戸惑っていると、助手席のロック
が外された。
考える前に助手席に体を滑り込ませる。
「――いいと言うまで、姿勢を低くして顔を伏せていろ」
すかさず指示され、昭洋は言われた通りにシートに座ったまま屈み込み、顔を思いきり伏せる。
槙瀬はエンジンをかけるとすぐに車を出した。
数分後、ようやく許しが出て、シートに座り直した昭洋はシートベルトを締める。外の景色は、
会社からいくぶん離れた場所のものに変わっていた。
昭洋はほっと息を吐き出し、槙瀬に尋ねる。
「ぼくに尾行がついているの、気づいていたんですか?」
「君が俺の前で失神したときにな。……誰が君に、あんな物騒なもの張り付かせているんだ」
答えたくはなかった。だが、槙瀬の機嫌を損ねて車から降ろされるのは、もっと嫌だった。
「会社の、上司です」
「悪趣味なことをする奴もいるもんだな。信用できない部下なら、使わなければいいだけだ」
「……そうですね。本当に、そう思います」
淡々とした槙瀬の口調に心のどこかで安堵する。尾行をつけさせたその上司と昭洋が性的な関係
を持っているなど、死んでも槙瀬には知られたくなかった。
「それで、わざわざ俺を追いかけてきて、何か用か?」
初めて会ったときよりも、二度目よりも、険しさを増しているように見える槙瀬の横顔をちらり
と見て、昭洋はうつむく。槙瀬が、一か月前のささやかな約束を忘れていると思い、舞い上がって
いた気分が沈み込む。
すると槙瀬が硬い口調で言葉を続ける。
「――……いい歳をして、ハンカチ惜しさに、一か月も前の約束を覚えていると思われるのも、情
けないものがあるからな」
パッと顔を上げた昭洋は、槙瀬が言ったことを頭の中でよく反芻してから、思わず笑
みをこぼす。
「覚えていてくれたんですね」
「あいにく俺は、嫌になるほど記憶力はいいんだ」
「だったら――」
ブリーフケースの中から、ハンカチが入った箱を取り出そうとしたが、槙瀬に止められた。
「慌てなくても、あとでいい」
現金なもので、槙瀬が約束を覚えていたと知っただけで、心が浮き立つ。
「会えてよかったです。……今日はぼくの誕生日なんですけど、一つぐらいは特別なことがあるも
んですね」
槙瀬がわずかに目を細める。それがどこか苦しげな表情に見えたのは、昭洋の気のせいかもしれ
ない。
「あの……、駅前で降ろしてもらえればいいですから」
本当は寂しいが、そう言うしかない。槙瀬と交わした約束は、再会したときにハンカチを渡すと
いう、ただそれだけで、このまま一緒にいる理由は何もないのだ。
「――煙草、吸っていいか」
ふいに問われ、昭洋は頷く。ウインドーを下ろした槙瀬がジャケットのポケットから煙草を取り
出し、唇に挟む。すぐに煙草の匂いに鼻腔をくすぐられる。
「……君は、煙草は吸うのか?」
「滅多に吸いませんけど、イライラした気分のときには、少しだけ」
吸うかと聞かれて、首を横に振る。槙瀬は浅く頷いた。
「なるべくなら、こういうものは吸わないほうがいい。体に毒だ」
「でも槙瀬さんは、けっこうヘビースモーカーじゃないですか」
ちらりと向けられた眼差しは、肯定している。
「……どうしてわかった」
「もらったハンカチに、しっかり煙草の匂いが染み込んでました」
一瞬槙瀬が、きまり悪そうな表情をする。
「俺ぐらいの歳になると、もう止められないから、いいんだ」
変な理屈だと思い、なんだかおかしくなる。昭洋は唇を綻ばせた。
「槙瀬さん、何歳なんですか?」
「四十三。君は――今日で何歳になったんだ」
「二十五歳です」
「そうか……。二十五か」
なぜか槙瀬は感慨深そうに、小さく何度も、昭洋の年齢を声に出して呟く。
「ぼくの歳が、どうかしましたか?」
「……いや。歳のわりに、落ち着いていると思ったんだ。達観とも、諦観とも言えるような、クー
ルな目をしているしな」
わかる人間にはわかるものなのだと、昭洋は自嘲気味に思う。
「そんなことを言ったの、槙瀬さんで三人目です。二人目の人には、つい一昨日言われました。仕
事でつき合いのある方なんですけど」
「一人目は?」
間髪いれずに尋ねられ、一瞬、答えることにためらいを覚える。藤島に言われた、高畠に関する
忠告が脳裏を過った。
押し殺せない不安は、昭洋の心を支配したままだ。その不安を忘れたいがために、今の昭洋なら、
槙瀬に聞かれれば、何もかも話してしまいそうだ。
「――……上司です」
煙草を指に挟んだ槙瀬の目がわずかに鋭さを帯びる。だが、何も言われなかった。
駅が見えてきて、昭洋はシートベルトに手をかける。頭の中では、次に会うときの口実はどうし
ようかと、必死に考えていた。
「あの、ここでいいです。車道脇で降ろしてもらえれば――」
しかし昭洋の言葉が聞こえなかったように、車は停まるどころか、かえってスピードが上がる。
「槙瀬さん?」
「これから、誰かと予定が入っているのか?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「だったら、もう少しつき合ってくれ。あとでメシぐらい食わせてやる」
驚いた昭洋だがコクリと頷き、ようやくシートに落ち着いて体を預けることができる。
どこに行くのかはわからないが、こうして槙瀬と一緒にいられるのなら、案外今日はいい誕生日
なのではないかと昭洋は思った。
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