心地の良い場所 −ZERO− 
5。 



 行き先も告げないまま槙瀬は車を走らせ続け、昭洋は無警戒で助手席に身を落ち着けていた。会 話はほとんどないが、気まずい思いはない。むしろ、静かな空気が心地いい。こんな相手は槙瀬が 初めてだ。
 数十分走り続け、ようやく車が、中小企業が多く集まっているオフィス街の中にある、駐車場の一つ に入った。
「ついてこい」
 エンジンを切った槙瀬に言われ、急いで昭洋もシートベルトを外すと、ブリーフケースを抱えて 車を降りる。
 さっさと先を行く槙瀬の背を追いかけながら、この人は敵なのだと、実感の伴わない言葉が頭の 中を駆け巡る。だが、それだけだ。
 敵なら敵でもいいし、これが昭洋を誘い込むための罠だというなら、驚きもしない。
 一方で昭洋は、槙瀬が自分などを敵と見なしていないことを肌で感じていた。槙瀬のような男が 策略を巡らすには、昭洋はあまりに物足りない相手だろう。それに、どうにかするつもりなら、チ ャンスはこれまでにもあったのだ。
 ふいに槙瀬が立ち止まり、振り返る。つられて昭洋も立ち止まる。考えていたことを読まれたか と、そんなはずもないのに緊張する。
 軽く槙瀬に手招きされ、歩み寄る。するとまた槙瀬は歩き出す。今度は、速かった歩調がいくぶ ん緩められており、昭洋のペースでも槙瀬の隣を歩くことができる。
 女性か子供に対するような気遣いだが、なんだか嬉しかった。
 少し歩いて、槙瀬がある小さなビルの前で立ち止まった。三階建ての雑居ビルで、一階以外は電 気がついている。
「……あいつら、来てるのか」
 槙瀬が小さく言葉を洩らす。煤けた感じの建物を仰ぎ見ていた昭洋は、隣の槙瀬に視線を移す。
「あの、ここ……」
「言っただろ。調査事務所の所長をしていると。二階が俺の事務所だ。――行くぞ」
 そう言われて、昭洋はもう一度、今度は二階を見上げる。事務員か所員がいるらしく、歩道に面 した窓から、電気がついている様子が見える。雑居ビルの二階には小さく古びた看板が出ており、 そこには確かに槙瀬調査事務所と書かれてある。
 槙瀬が雑居ビルの狭く薄暗い階段を上り始めたので、慌てて昭洋もあとに続く。
 二階には槙瀬の事務所しかなく、ドアには『槙瀬調査事務所』と素っ気なく書かれたプレートだ けがかかっていた。
 槙瀬が一気にドアを開けて部屋に入り、昭洋はおずおずと中を覗き込む。
 デスクが三つに、壁に沿って書棚とキャビネットが二つずつ並び、窓際には応接セットが置かれ ている。槙瀬が言っていたように、一応事務所に見える。
 そして、さほど広くない事務所には、槙瀬以外に二人の男の姿があった。
 一人は三十代前半ぐらいで派手なシャツを着ており、もう一人は四十代半ばといった感じで、こ ちらは 対照的に地味なスーツ姿だ。街中に出てしまえば、特に目を引くことのない男たちだ。
 男二人は応接セットのソファに腰掛けて何か楽しそうに話していたが、槙瀬の姿を見るなり立ち 上がり、頭を下げる。槙瀬は軽く頷いた。どうやらこの事務所の所員らしい。風体から見ても、事 務員ではないだろう。
 派手なシャツの男が、ドアの陰から顔を出している昭洋に気づき、大仰に目を丸くする。派手で 軽薄そうな格好はしているが、知的な顔立ちをしており、隙のないたたずまいの男だ。それはスー ツ姿の男も同じだ。
「――槙瀬さん、新しい事務員の子ですか? えらくきれいな子を見つけてきましたね。違う方面 の顧客の確保に乗り出したとか?」
「度胸はありそうですね。所長におとなしくついて来たんなら」
「誰がだ。彼は――」
 昭洋について好き勝手に言う二人に、槙瀬が苦りきった表情で説明しようとする。しかし槙瀬の 言葉も聞かず、派手なシャツの男は昭洋に声をかけてきた。面くらい続けていた昭洋は思わず返事 をする。
「……なんでしょう」
 派手なシャツの男がにこやかに言った。
「冷たいお茶入れてきてもらっていいかな。記念すべきこの事務所での初仕事。給湯室は隣の部屋 だから」
「あっ、俺もお願いします」
 地味なスーツの男にまで言われ、昭洋は槙瀬の表情もうかがう間もなく、事務所の隣の給湯室に 駆け込む。
 なんだかよくわからない展開だが、不愉快ではなかった。
 慣れない給湯室に立った昭洋はグラスを出したり、冷蔵庫の中を覗き込んだりして、どうにかト レーにグラスを三つのせて事務所に戻る。
 そこには、数分前まで昭洋が目にしていた雰囲気は微塵もなかった。ソファに膝を突き合わせて 腰掛けた三人の男が、真剣な表情で何か打ち合わせをしていた。それぞれが手帳やノートを広げて メモを取っている。
 昭洋は声をかけるのを控えて、邪魔にならないようテーブルにグラスを置き、辺りを見回す。槙 瀬が昭洋を気にかける素振りもないので、使われていない様子のデスクに勝手についた。
   聞かれたくない話なら、出ていくよう言うだろうと思ったが、予想に反して、昭洋をちらりと見 た槙瀬は唇をちらりと緩めただけで、何も言わなかった。
 拍子抜けしつつも、なぜか嬉しくなった昭洋は、所在なくデスクについたまま、洩れ聞こえてく る三人の男たちの会話に耳を傾ける。
 三人が話し合っているのは調査に関することではなく、スケジュールについてだった。だからこ そ、部外者の昭洋がこの場にいても気にしていないのだろう。記号のようにいろんな名が飛び交い、 昭洋は話の内容を深く理解することは早々に諦めた。
 話し合いはそれから十分ほどで終わり、派手なシャツと地味なスーツの男二人はすぐに立ち上が る。
 派手なシャツの男とまっさきに目が合い、にんまりと笑いかけられた。
「槙瀬さーん、本当にこんな子どこで見つけてきたんだよ。どう見たって、まともなサラリーマン でしょう。毛並みも良さそうだし」
「誰がうちの事務員にすると言った。単なる知人だ。途中で拾ったから、ついでに事務所に連れて きたんだ」
「……拾った。問題のある表現だなあ。槙瀬さんて、そういう趣味があったんだ。確かに、きれい な顔してるもんなあ」
 男の冗談交じりの発言に、昭洋は内心でドキリとする。条件反射で槙瀬の表情をうかがっていた。 槙瀬は無表情で、さっさと帰れと、派手なシャツの男を手で追い払っている。
 肩をすくめた男はドアに向かいながら、昭洋に向けてちらちらと手を振った。
「気をつけなよ。この所長さん、見た目通りに怖いおっさんだから」
「階段から蹴り落とすぞ」
 槙瀬の言葉に、男は派手な笑い声を上げながら事務所をあとにし、地味なスーツ姿の男も、槙瀬 どころか昭洋にまで頭を下げてくれる。咄嗟に昭洋も立ち上がって頭を下げ返すと、薄く笑った男 がぼそりとこう言って帰っていった。
「本当に毛並みのいい子ですね」
 まるで珍獣にでもなった気分で、昭洋はドアが閉められるのを見届ける。
「――この事務所は、今は一人でやっているんだ」
 ソファに座り直した槙瀬に、急に声をかけられる。正面のソファを示されたので、昭洋はためら いながらも腰掛ける。テーブルに置かれた三つのグラスは、それぞれ空になっていた。
「でも……さっきの人たちは……」
「個人で契約している。つまり、あの二人はフリーの調査員ということだ。まだ他に、そういう人 間を雇っているが、あれでも無害そうに見える部類だ。あまりまともそうな人間が出入りしないか ら、おかげで事務員がなかなかいつかない。だから普段は、この事務所で一人だ」
 昭洋は事務所内を改めて見回す。男が四人もいれば、少し窮屈に感じた事務所だが、こうして二 人になってしまうと、なんだか物寂しい感じがする。しかも普段は槙瀬一人だというのだ。
 昭洋はふと頭を過った疑問を、緊張しながら槙瀬にぶつけた。
「……槙瀬さん、奥さんは……」
 槙瀬の左手の薬指に指輪がないのは気づいていたが、結婚していてもはめていない人間はいく らでもいる。
 槙瀬が家庭の匂いが一切ない男なので、どんな私生活を送っているのか、一度興味を持つと抑え られなかった。もし結婚しているなら、この事務所の仕事を手伝っているのではないかと最初は考 えたのだが、素っ気ない事務所には、女性の手が入っている気配は微塵も感じられない。
 槙瀬は一瞬、完璧な無表情となる。機嫌を損ねるようなことを聞いてしまったのだと、体を強張 らせた昭洋だが、次の瞬間には槙瀬は苦々しい表情となった。
「―― 一人だ」
 返ってきた答えはその一言で、そこから先の質問をすることはできなかった。
 昭洋は小さく槙瀬に笑いかける。
「ぼくと同じですね」
「……恋人ぐらいはいるんじゃないのか?」
「いないですよ」
 うそをついているつもりはなかった。体を重ねてはいるが、高畠は恋人とは対極にあるような存 在で、高畠も、昭洋を恋人などとは思っていないだろう。存在を繋ぎとめておくためだけに、体を 繋いでいるという、即物的な関係だ。
 何を思ったのか槙瀬がソファからわずかに身を乗り出し、まじまじと昭洋の顔を覗き込んでくる。 心の底まで見通そうとするかのような鋭い眼差しに、昭洋の鼓動は軽く乱れる。
「なんですか……」
「いや……。あいつらが言っていた通り、きれいな顔立ちをしていると思ったんだ。神様に気に入 られて、普通の人間より一際丁寧に作ってもらったんだろうな。君は」
 昭洋自身は、母親によく似た面立ちの顔は好きではない。体つきが細いこともあり、より一層、 男らしさや力強いという存在からかけ離れている気がするのだ。
 しかし今の昭洋が気になったのは、自分の苦手な容貌を指摘されたことではない。
「――槙瀬さんは、神を信じているんですか」
「信じていない。信じていたら、俺は自分の存在を恥じて、生きてなんていけないだろうな。自分 しか信じていないから、こうしてふてぶてしくやってられる」
 槙瀬も、自分とは比較にならないほど重いものを背負っているのだと、漠然とながら昭洋は想像 する。
 急に立ち上がった槙瀬が、事務所内を歩き回って片付けを始め、次に窓のブラインドを下ろして エアコンを切る。槙瀬を目で追い続けていた昭洋だが、振り返った槙瀬に声をかけられて立ち上が る。
「テーブルの上のグラスを片付けてくれ。今日はもう事務所を閉めて、メシを食いに行くぞ」
 三つのグラスをトレーにのせて急いで給湯室に向かい、手早く洗って片付ける。給湯室を出ると、 すでに槙瀬は事務所の電気を消して戸締りをしているところだった。
「好き嫌いは?」
 狭い階段を下りながら槙瀬に尋ねられる。
「ないです」
「だったら、俺の好みで選んでいいか?」
 もちろん、と答えると、振り返った槙瀬が目元を和らげる。
 雑居ビルを出ると、槙瀬は駐車場とは反対方向に歩き出し、昭洋は隣に並んで歩く。
 槙瀬が連れて行ってくれたのは、落ち着いたひっそりとしたたたずまいの和食料理屋だった。
 カウンターではなく、畳敷きの小さな部屋に通され、槙瀬と向き合って座る。
 注文は槙瀬に任せ、料理が運ばれてくるまでの間、昭洋は不思議な事態になったと、改めて実感 していた。
 たった三度しか会っていないというのに、昭洋は歯止めをなくして槙瀬に深入りしようとしてい る。また槙瀬も、それを許してくれている節がある。昭洋から専務派の動向を探ろうという思惑が あるのだとしたら、あの事務所にまで連れて来てくれた行為は意味がわからない。
「――どうした?」
 いつの間にか槙瀬の顔を見つめたままぼんやりしていたらしく、急に声をかけられた我に返る。 ジャケットを脱いだ槙瀬は、寛いだようにネクタイを少し緩めていた。
 警戒することに疲れていた昭洋は、思ったままを口にした。
「どうして……、こうやってぼくを連れてきてくれたのかと思って。だってぼくと槙瀬さんは、敵 同士なんでしょう?」
「君と親しくなって、懐柔して情報を引き出そうと企んでいる、と疑っているのか?」
「それは、まあ……」
 自分が何か情報を持っていると匂わせるようなことも言えず昭洋が返事に詰まると、槙瀬は低く 声を洩らして笑う。
「なんで笑うんですかっ」
「そうやってストレートに聞いてくるところが、無防備だと思ってな。危なっかしいとも言える。 見ているこっちの心臓がどうにかなりそうだから、こういうイレギュラーな事態になった。――誰 にも内緒にしておけよ。調査屋とメシまで一緒に食ったなんてこと」
 槙瀬の言葉に拍子抜けして、肩に入っていた力が抜ける。
「誰に言えっていうんですか。わざわざ報告する人なんていませんよ」
「高畠次長は?」
 さり気なく高畠の名を告げられ、昭洋は軽く槙瀬を睨みつける。槙瀬は飄然とした様子で煙草に 火をつける。すぐに昭洋は睨むのをやめ、ずっと抱え込んでいた気持ちを吐露する。
「――……ぼくは、あの人の犬じゃありません」
「なら、こうしていてもおかしくないというわけだ。たまたま知り合って、気が合ったから、一緒 にメシを食おうとしているだけなんだから。堅く考えるな」
 槙瀬なりに、昭洋が負担を感じないよう気遣ってくれたのだと知り、ムキになった自分が急に恥 ずかしくなる。謝ろうとしたが、別の言葉が咄嗟に口をついて出た。
「……ぼくたち、気が合ったんですか?」
「まじめな顔して、そういうことを聞くな」
 顔をしかめた槙瀬がおかしくて、つい昭洋は顔を伏せ、小さく声を洩らして笑う。
 ようやく笑い収めて顔を上げると、煙草を咥えた槙瀬が優しい目をして昭洋を見つめていた。胸 の奥がギュッと締め付けられたような気がした。
 ここでようやく大事なことを思い出した昭洋は、ブリーフケースの中から、きれいに包装された 薄い箱を取り出す。両手で持って槙瀬に差し出した。
「ハンカチ、ありがとうございました。槙瀬さんが気に入ってくれるかどうかはわかりませんが、 受け取ってください」
 下手な遠慮などせず、槙瀬はあっさりと受け取ってくれた。しみじみといった様子で箱を眺めて から、唇を綻ばせた。
「なんだか悪いな。君の誕生日なのに、俺のほうがプレゼントをもらうなんて」
「プレゼントなんて……。お世話になったお返しです。それに、こうして食事にも誘ってくれたん ですから」
 ここで料理が運ばれてきて、テーブルの上に並べられる。時間が時間なので、なるべく胃の負担 にならないようにと考えて、槙瀬はこの店に連れてきてくれたのだろう。魚料理が主なので、昭洋 も気楽に箸をつけられる。
 食事の合間の会話は、他愛ないものばかりだ。
「――毎日、楽しいか?」
 唯一、昭洋が返事に詰まった質問だった。
 箸を置き、お茶を一口啜る。その間に槙瀬は、自分が質問した内容など忘れたように刺身を口に 運んでいる。昭洋はいくぶん硬い声で答えた。
「楽しい、というほどではないですけど、不満はないです。それなりに世間で名の通った会社に入 って、仕事を淡々とこなして……。相談に乗ってくれる友人がいて、いろいろと親身になってくれ る仕事の得意先の方がいて――。上司が関わっている派閥争いなんて、些細なことです」
「そうか。ならいいんだ」
 さきほどまで楽しい気分で食事をしていたというのに、今はもう、胸に重苦しい何かがつかえて 食事が喉を通らなくなる。槙瀬にうそをついたという罪悪感のせいだと、すぐにわかった。
 そんな気分を引きずったまま食事を終えて店を出ると、来た道を引き返す。
「どうした。急にしゃべらなくなったな」
 歩きながら槙瀬に指摘され、無理に笑みを浮かべた昭洋は首を横に振る。抱えた罪悪感を槙瀬に 知られたくない一心だった。
「そんなことないですよ」
「……そうか」
 雑居ビルの前に差し掛かったところで、槙瀬と別れるつもりで昭洋は歩調を緩める。しかし当の 槙瀬は、どうした、といった様子で昭洋を見た。
「あの、もうここで……」
「送っていく。どこに住んでいるんだ。尾行のこともあるから、少し離れた場所で降ろしてやる。 余計な心配はするな」
「いえっ、いいです。食事までごちそうしてもらったのに、そこまで甘えられません」
 頑なに断ると、槙瀬は軽くため息を吐いた。一瞬、槙瀬が機嫌を損ねたのだろうかと、ヒヤリと した感覚を味わった昭洋だが、そうではなかった。
 前触れもなく槙瀬の片手が伸ばされ、反射的に首をすくめる。大きな手が頭にのせられ、くしゃ くしゃと髪を乱されながら頭を撫でられた。
 子供扱いされているようだが、それでも昭洋の胸の奥がじんわりと熱くなる。馴れ馴れしさとは 違う槙瀬の行為が、実は嬉しかった。
「あ、の――……」
 頭を撫でられ続けながら、上目遣いで槙瀬を見上げる。不自然に槙瀬が手を引いた。昭洋は、寂しいと思う。
「君も事情があるだろうから、無理に送っていくつもりはないが――、気をつけて帰れよ」
 昭洋は笑みをこぼし、深々と頭を下げる。
「今日はありがとうございました。……楽しかったです」
 返事の代わりに、もう一度の槙瀬の手が頭にのせられた。




 第二秘書課の自分のデスクにつき、電話で営業部の社員と打ち合わせをしていた昭洋は、決まっ た要件を手早くメモに書き記すと、受話器を置く。
 ノートパソコンに向き直ってキーボードを叩こうとしたとき、向かいのデスクで話す社員の声が 聞こえてきた。
「聞いたか? 昨日の臨時重役会議、そうとう揉めたらしいぞ」
 あまり誇れるものでもないが、重役会議が荒れるのはいつものことだ。気にせず作業に入ろうと した昭洋だが、次に聞こえてきたもう一人の社員の言葉に、完全に意識は向かいのデスクで交わさ れる会話に向いた。
「誰かまではわからないけど、ある政治家が、社長に何か耳打ちしたらしいんだと。それで社長が 震え上がって、重役を招集したってことだ。第一の連中が言ってたぞ。かなりピリピリしてて、重 役以外、誰も会議室に入れなかったらしい」
「専務派の重役が一斉に席を立ったせいで会議が流れたって、わたしは聞いたけど」
 女性社員まで加わり、会話に一層の熱と密やかさが加わる。
「……掴み合いに近いことはやってきたけど、会議の途中で席を立つっていう話は初めて聞いたな。 よっぽどのことを言われたのかな」
「政治家っていう辺りが、事が大きそうよね」
 交わされる会話から、何があったのか詳しいことはわからなかったが、それでも昭洋の不安を掻 き立てるには十分だった。
 藤島が話してくれた内容が、重みをもって昭洋の肩にのしかかる。
 重役会議でどんな議題が挙がったのか気になった。高畠に聞けば教えてくれるかもしれないが、 そうなると、藤島から聞いた話を告げなければならなくなる。
 もしかすると、昭洋にとって切り札となるかもしれない話をだ。
 知らないふりをしているしかない――。
 心の中でそう結論を出した次の瞬間に、昭洋は自己嫌悪に陥る。自分が明らかに、狡猾になって いると感じたからだ。
 保身に走ろうとしている考えがたまらなく嫌なのに、同時に不思議だった。少なくとも、保身に 走るということは、自分自身を大事だと思っている証だ。
 三日前、槙瀬と二人きりで一時を過ごしてから、昭洋の中で意識が変化しつつあった。
 どうなってもいいという投げ遣りな気持ちは少しずつ、現状をどう切り抜けようかという、ある 意味前向きなものになってきている。
 このとき内線が鳴り、反射的に昭洋が出る。
「はい、第二秘書課です」
『管理室長の曽我だが、塚本くんはいるかね』
 ピクンと体を震わせた昭洋は、無意識に背筋を伸ばす。硬い声で答えた。
「……ぼくです。何か――」
『聞きたいことがある。すぐに来てくれ』
 一方的に場所を告げられて電話が切られる。昭洋は隣のデスクの同僚に声をかけてから、指示通 りに秘書課を出て、階段を降りる。
 内線をかけてきた本人である管理室長がアタッシェケースを片手に、忙しく何度も腕時計に視線 を落としながら、階段の途中に立っていた。どうやら外出する前に昭洋を呼び出したらしい。
 ちなみに彼は、高畠の子飼いの部下の一人だ。三十代半ばにして室長なので、高畠のような特異 な例を除いて、順調に出世コースを歩んでいると言えるだろう。
 その管理室長が、昭洋の姿を見るなり大きく手招きしてくる。昭洋が小走りで駆け寄ると、強引 に腕を掴まれ、いきなり切り出された。
「君はよく委員会の仕事で、あちこちの委員の元に出入りしているな?」
 質問の意図がわからないながらも、昭洋の頭の中でけたたましく警報が鳴り響く。藤島とのこと で何か悟られたのだろうかと思いながらも、浅く頷いた。
「出入りといっても、書類の受け渡しをするぐらいですが……」
「――何か聞いてないかな」
「何か、とは?」
 昭洋が軽く目を細めて聞き返すと、途端に管理室長の視線が泳ぐ。薄々、何を聞きたいのか察し たが、管理室長から切り出してくるのを待つ。
 手すりに腕を預け、吹き抜けとなっている一階のロビーの様子を見下ろす。こんな場所で険しい 表情で向き合っていると、注目を浴びてしまうのだ。
「――……最近、委員会の一部の委員たちの動きが、少しおかしい。会社を通さず、会合を持って いるという話が流れてきているんだ。具体的に誰という名が挙がっているわけではないから、無責 任な噂かもしれない。しかし、看過はできないだろう」
 昭洋は淡々とした表情と口調で、内心の動揺を押し隠しながら答えた。
「残念ながら、ぼくは何も。なんでしたら、他の第二の人間にも尋ねてみます」
「いやっ……。君は何もしなくていい。この件は我々で処理するから、君は今わたしが聞いたこと は忘れてほしい。もちろん、他言無用だ」
 昭洋が頷くのを見届けてから、管理室長は慌しく階段を駆け下り、ロビーを突っ切ってビルを出 ていく。昭洋はその場に立ち尽くして、その後ろ姿を見送った。
 管理室長が、高畠が目をかけている昭洋だから呼び出したのか、他の第二秘書課の社員にも尋ね ているのか気になった。
 昭洋だからこそ情報を握っていると思われるのは、困る。いざというとき、何も知らないまま危 険な仕事をさせられていたという立場を装えなくなるのだ。
 逃げなくてはいけない。昭洋の頭の中で、そう自分の声が反響する。
 一刻も早く、高畠の手の内から逃れなくては――。


 会社を出て駅に向かった昭洋は、自分の背に張り付いた視線を意識して、足を止める。今日、管 理室長と話してからずっと心の底に溜まっていた感情が、ふとしたことで掻き乱される。
 それは、水底に沈殿していた泥が舞い上がり、水が濁る現象に似ている。
 高畠に目をかけられたがゆえに、執着され、独占され、日常生活すら脅かされる。高畠は、昭洋 に何一つ安穏としたものをもたらしてはくれないのだ。愛情の欠片すら、昭洋自身は持ち合わせて いないというのに。
 急に槙瀬に会いたくなり、いつもとは違うホームに向かっていた。
 自宅とは逆方向に向かう電車に乗り込むと、当然のように尾行も ついてきていたが、かまわなかった。
 昭洋なりの、高畠に対する宣戦布告かもしれない。決して高畠に、自分のすべての支配を許している わけではないという。
 五つ目の駅で電車を降りると、周囲を見回してから歩き出す。まっすぐ、槙瀬の事務所に向かった。
 槙瀬には、また事務所に来ていいと許しをもらったわけではない。それどころか、お互いが置か れた立場からすると、槙瀬にとっては迷惑だろう。わかっていながら、昭洋の頭には引き返そうと いう考えはなかった。
 雑居ビルの前で立ち止まり、見上げる。今日は三階しか電気がついていなかった。
 調査という仕事に携わっていることを思えば、夕方のこの時間に事務所にいるほうが不自然なの かもしれない。
 かまわず昭洋は狭く薄暗い階段を上がり、二階の事務所の前まで行く。当然のことながら、中か ら人の気配は感じられない。
 ドアにもたれかかり、うつむく。
 まだ知り合って数回ほどしか顔を合わせていないというのに、こうやって槙瀬を待つのは二度目 だと思い、昭洋は唇に笑みを浮かべる。
 あれこれとどうでもいいことを漫然と考えているうちに時間は過ぎ、気がつけば一時間以上経っ ていた。
 今日はもう、この事務所に戻ってこないのだろうかと考えたところで、階段を上ってくる足音が 聞こえてくる。ハッとして顔を上げると、紙袋を手にしたワイシャツ姿の男が姿を現したところだ った。
「あれっ」
 男がこちらを見て声を洩らす。一瞬昭洋は、男が誰なのかわからなかった。しかし薄暗い中、よ く目を凝らしてみると、三日前、派手なシャツを着て事務所にいた男だ。
 男はクールな笑みを浮かべ、昭洋の前にやってくる。
「誰かと思ったら、君か。槙瀬さん待ってるの?」
「……はい」
「あのオヤジも、渋い面構えしていてやるよなあ。君みたいな子を事務所の前で待たせておくなん て」
「いえっ、あの、ぼくが勝手に来て、こうして待っているだけです……」
 おもしろがるような表情で昭洋を見た男は、スラックスのポケットからカギを取り出し、昭洋の 見ている前で事務所のドアを開け始めた。
「怖いもの知らずだな。好きこのんで槙瀬さんに近づくなんて」
「――怖いんですか? 槙瀬さんて」
 振り返った男は、肩をすくめてから事務所に入り、電気をつける。手招きされて昭洋も足を踏み 入れた。室内にこもった熱気のせいで息苦しさを覚えるが、男は慣れた様子でエアコンつけた。
 促されるまま、昭洋はソファに腰掛ける。男は一度事務所を出て、すぐに戻ってくる。その手に は缶ジュースが二本あり、一本を投げ渡されて咄嗟に受けとめた。
 男はデスクにつくと、さきほど持っていた紙袋の中から大判の封筒を取り出し、中身を確認し始 める。その作業の合間に問われた。
「俺は逆に、君に聞きたいね。怖くないのか、槙瀬さんが」
 昭洋は缶ジュースに口をつけてから、慎重に言葉を選びながら答える。
「あまり……。ただ、雰囲気が鋭いとは思います」
「ふうん。なら、君の前では極力、いいオヤジをやっているんだな」
「どうしてですか?」
 すかさず昭洋が問い返すと、男は苦笑を浮かべる。
「槙瀬さんに直接聞いてみたら。もっとも、あの人が素直に答えるとも思えないけど。まあとにか く、こんなに怪しくて物騒な事務所をやってるぐらいだから、煮ても焼いても食えないオヤジなん だよな」
 男の気安い雰囲気につられて、昭洋はまた質問をする。
「……物騒、なんですか? この事務所」
「まともな客は来ないね」
 そう言って男はにんまりと笑う。自分もまともでない人間の一人だと、案にその笑みが物語って いるようだ。
「個人や会社の信用調査を主にやっているけど、普通の客が気軽にやってくる事務所でないし、槙 瀬さんも、誰かの紹介がないと引き受けないんだ。そんなことやってると当然、客筋も限られてく るし」
「その事務所に、槙瀬さんが一人?」
 昭洋は事務所内を見回す。男もちらりと顔を上げてから頷いた。
「一人。一人が好きっていうより――、自分に罰を与えているように見えるな。自らを孤独に追い 込んでいるっていうか。だから、君の出現はイレギュラーだな。槙瀬さんにとっても、この事務所 にとっても」
 槙瀬が三日前に言っていた言葉を思い出した。
 神を信じていたら、自分の存在を恥じて生きてなんていけないだろうという、ひどく印象的な言 葉だ。
 男は封筒を紙袋の中に戻すと、その紙袋をデスクの上に置いたまま立ち上がる。
「じゃあ、俺は頼まれてたものを持ってきただけだから、これで帰るよ」
 昭洋も立ち上がろうとすると、手で制され、代わりに事務所のカギを投げ渡された。
「槙瀬さんが戻ってきたら、返しておいて」
「でもっ……、他人のぼくが一人でここにいたら、槙瀬さん気を悪くするんじゃ――」
「平気、平気。盗るものなんて、この事務所にはないから」
「……そうじゃなくて……」
 缶を手に事務所を出ていこうとしていた男が振り返り、またにんまりと笑いかけられる。
「信用できない人間をこの事務所に連れてくるほど、あのオヤジは甘くないよ」
 それを聞いて、昭洋は浮かせていた腰を再びソファに沈める。男は満足そうに頷き、まるで世間 話でもするような軽い調子で言った。
「留守番してくれるお礼に、外でウロウロしてる奴、締めてあげようか? あれ、君に張り付いて る奴だろ」
 気安い雰囲気を漂わせながらも、男もやはり、槙瀬と同類なのだと肌で実感した。昭洋はぎこち なく首を横に振る。
「そう。じゃあね」
 手を上げた男の姿がドアの向こうに消える。
 昭洋は大きく息を吐き出し、ソファにぐったりと体を預ける。一人にはなったが、落ち着かない。 男はああ言ったが、気持ちは不法侵入者のままだ。


 槙瀬が戻ってきたのは、男が出ていって三十分ほど経ってからだった。
 事務所のドアが開き、昭洋はソファに腰掛けたまま体を硬くする。階段を上ってくる足音は聞こ えていたので、その間に心の準備は整えたつもりだ。怒鳴られても、大丈夫なように。
 ドアを開けた姿勢のまま、槙瀬はソファに座っている昭洋を見て目を丸くする。昭洋はぐっと唇 を引き結び、槙瀬の視線に耐える。
 十秒後には、槙瀬は何事もなかったようにドアを閉め、デスクに歩み寄る。手にしたのは、男が 置いて帰った紙袋だった。
「――あいつ、カギは置いて帰ったか?」
 急に尋ねられ、すぐには反応できなかった昭洋だが、一拍置いてから弾かれたように立ち上がる と、槙瀬の元にカギを持っていく。
 昭洋の手からカギを受け取るときも、受け取ってからも、槙瀬は昭洋のほうを見ようとはしない。 勝手にこの事務所に入ったこと以前に、この事務所にやってきたことを怒っているのだと思い、昭 洋としてはうなだれるしかない。こんな反応を示されるのは、覚悟していた。
「……怒っていますよね」
 声をかけるが、槙瀬から返事は返ってこない。昭洋は一人で話し続けるしかなかった。
「わかってはいるんです。ぼくたちの状況も、槙瀬さんの迷惑になることも。だけど――会いたか ったんです、槙瀬さんに。会社で見かける機会もないし、見かけたからって声をかけられるはずも ないし。だから――」
「――今日も尾行がついてるとわかってたんだろ」
 頷くと、デスクに浅く腰掛けた槙瀬に頭を軽く叩かれた。すぐにくしゃくしゃと髪を掻き乱され ながら、頭を撫でられる。武骨な手つきなのに、その行為は優しく感じられる。
 うかがうように槙瀬を見ると、子供のわがままを許すような、柔らかな苦笑を向けられた。槙瀬 の表情の変化一つで、昭洋の胸の奥に切ない感覚が広がる。
「俺のことはいいんだ。君のほうが、状況は切実だろ。もし、俺の事務所に出入りしているなんて、 上司にでも知られたらどうするんだ」
 昭洋は小さく首を横に振る。頭で考えるより先に、素直な気持ちが言葉となって出ていた。
「もう……いいんです。知られたって。――他人のことで神経をすり減らすのは、疲れました」
「投げ遣りな気持ちになっているのか?」
 槙瀬の言葉がヒヤリとするような冷たさを帯びる。昭洋は強い眼差しで槙瀬を見つめ返した。
「違いますっ。……嫌なんです。他人にいいように利用されて、踏みつけられるのは。だから、自 分なりに、戦おうと思っているんです」
「俺の事務所に来たのは、その決意表明ということか」
 それもあるが、最大の目的はもった単純で簡単だ。
 ただ槙瀬に会って、顔を見て、声をかけてもらいたかった。
 もっとも、そんなことを言えるはずもなく、昭洋は頷く。すると、頭にかかっていた槙瀬の手が 動き、力を込められる。引き寄せられた昭洋は、気がついたときには槙瀬の肩に額を押し当ててい た。
「――……槙瀬、さん……」
「大したことはできないかもしれないが、力になる。君が頼ってくれるなら」
 かけられた言葉が、涙が出そうなほど嬉しかった。
 昭洋はおずおずと槙瀬のジャケットを掴み、しがみつく。槙瀬の手が肩にかかり、一瞬、ためら いがちに引き離されそうになる。反射的に昭洋はさらに強くしがみつく。次の瞬間、槙瀬の両腕が 体に回され、きつく抱きすくめられていた。
 槙瀬の体に染み込んだ煙草の匂いに、強烈なめまいを覚える。同時に、ゾクリとするような体の 疼きを感じた。昭洋は自分の体の浅ましさに唇を噛み、ためらいながらもジャケットを掴んでいた 手を槙瀬の背に回す。槙瀬の抱擁が緩むことはなかった。
 槙瀬という男に、この瞬間、独占され、支配されていると昭洋は感じる。そしてその事実に、こ れまでにない高揚感と官能を、心地良さよりも快感を覚えている自分の姿を認める。
 昭洋は、自分が槙瀬に急速に惹かれているのを止められなかった。磁石に吸い寄せられるように、 砂が水を吸い込むように、槙瀬という存在を心に取り込みたくて仕方がない。
 ようやく抱擁を解かれても、昭洋は酔ったような状態となり、ぼんやりとしていた。
「おい、大丈夫か」
 槙瀬に顔を覗き込まれ、強く頬を撫でられる。我に返った昭洋は、じっと槙瀬を見つめる。心の 奥底まで射抜くようだった槙瀬の眼差しがこのとき不自然に逸らされ、代わって頭を撫でられる。
「……送っていく。準備しろ」
 昭洋はソファに置いてあったブリーフケースを取り上げながら、そっと槙瀬の様子をうかがう。 槙瀬の突然の抱擁の理由はわからなかったが、やましい気持ちからの行為でないのは、確信してい た。昭洋に力を与えてくれようとした、純粋な気持ちからの抱擁だ。
 それだけに、高畠との関係で欲望に浸かりきっている自分の心と体が情けなくなる。昭洋は、槙瀬だけには高畠との本当の関係を知られたくないという思いを、改めて噛み締める。
「――また、来ていいですか?」
 すがるような眼差しを向けながら問いかけると、槙瀬はふっと表情を和らげた。
「今度から、来る前に携帯に連絡を入れてくれ。外で待たせるのも悪いからな」
 そう言って槙瀬は、自分の名刺の裏に携帯番号を書いて手渡してくれる。昭洋はほっとして、心 の底からの笑みをこぼす。
 視線が合うと、まぶしいものでも見たように、槙瀬がゆっくりと目を細めた。




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