心地の良い場所 −ZERO− 
6。 



 いつになく、資料室の居心地が悪かった。一度でもここが安寧の地などと感じたことはないが、 それでも、今日感じる圧迫感とうそ寒さは強烈だ。
 キーボードを叩く手を止めた昭洋は、自分の体を抱くように両腕を回して身震いする。
 資料室の空気が変わったわけではなく、自分自身の感じ方が変わってきているのだと、よくわか っていた。早くこんな場所から抜け出せと、もう一人の自分が心の底で訴えているのだ。
 昨日の槙瀬との抱擁を思い出し、今度は甘い疼きを感じて、昭洋はもう一度身震いする。
 槙瀬さえ味方になってくれていたら、現状から抜け出すのは難しくはないかもしれない――。 昭洋は昨夜からずっと、そう考え続けている。
 本当は、ことがそんなに単純でないのはわかっているのだ。昭洋はあまりにしがらみに縛られ続 け、一人の男に縛られ続けた。爪先どころか、頭の先まで『汚れ』に浸りきっている。それでもだ。
 この世の中で、槙瀬という男が味方についてくれたことが、こんなにも嬉しくて幸せなのだ。
 我に返り、嫌な仕事は早く済ませてしまおうと、キーボード上で指を滑らせる。そのとき、滅多 に鳴らない資料室の内線が鳴った。
 瞬間的に嫌な予感を感じた昭洋だが、取らないわけにはいかない。内線をかけてきた相手も、資 料室に昭洋がいるとわかっているはずだ。
「――……はい、資料室です」
『塚本くんか。曽我だ』
 相手が管理室長とわかり、昭洋は昨日のやり取りを思い出す。何かあったのだろうかと、内心で 緊張する。切り出された用件も、何かを匂わせるものだった。
『ついさっき、委員会の会議が終わったところなんだが、悪いが、今から委員会室に来てくれない か。相談したいことがある』
 昭洋の中でけたたましく警報が鳴る。藤島の動きを昭洋が知っていると悟られたのだろうかと思 ったのだ。急速に芽生えた危惧感から、昭洋は思わず質問を口にしていた。
「……何か、あったんでしょうか……」
『行けばわかる』
 曽我の口ぶりからして、曽我本人は委員会室にはいないことになる。ますます警戒を強めながら も、断る権利は昭洋にはない。
「すぐに向かいます」
 受話器を置き、強張った息をゆっくりと吐き出す。
 パソコンの電源を落とし、CD−Rとファイルを金庫に入れる。資料室から出ようと したが、感じるものがあってデスクに引き返すと、文房具の類しか入っていない引き出しを開 ける。ある物を見つけ出すと、そっとジャケットのポケットに滑り込ませた。
 幼い頃から、嫌な予感だけは外れた試しがない。
 頭の後ろがチリチリとひりつくような感覚を味わいながら、中庭を横目に、昭洋は足早に委員会 室へと向かう。委員会関係の部屋は他にもあるが、委員会室と言われれば、たいていは委員の会議 のためだけに使われる会議室を指している。
 エレベーターを降り、特別なフロアであることを示す絨毯敷きの廊下を踏みしめる。会議が終わ ったというのは本当らしく、廊下には人気はない。もともと、普段は使われることのないフロアな のだ。
 本当に人がいるのだろうかと思いながら、奥まった場所にある会議室の前で立ち止まる。重々し い扉をノックするが、返ってくる声はない。
 扉には、関係者以外の立ち入りを禁止する札がかかっているため、一瞬どうしようかと思った昭 洋だが、呼び出されたのは事実だし、と思い直して慎重に扉を開ける。
 一筋の光さえ拒むように、しっかりと遮光カーテンが引かれた室内を覗き込んだ次の瞬間、昭洋 の心臓がドクンと大きく鳴った。恐怖という冷気で、足が絨毯に張り付いて動けなくなる。
 顔を強張らせる昭洋を見て、たった一人、会議室の上等なイスに腰掛けた高畠が口元に笑みを浮 かべた。残酷な笑みだと、咄嗟に昭洋は思った。
「立ち尽くしてないで、入ってこい」
 声をかけられ、いまさら逃げ出すわけにはいかない昭洋は、ぎこちなく手足を動かす。
 閉めた扉に背が当たる。気がつかないままに、重々しい扉に体を預けていた。そうしないと、足 元が震えて、その場にへたり込んでしまいそうなのだ。しかし高畠は容赦なかった。
「――ここまで来い」
 手招きされ、冷たい感覚が背を駆け抜ける。操られるようにふらりと動き、高畠の傍らに立つ。
 本当に自分の嫌な予感はよく当たると、半ば自嘲しながら昭洋は頭の片隅で思う。震えを帯びた 息を吐き出し、開き直りに近い気持ちで高畠を見据える。
 内心の昭洋の葛藤を見透かしたように、高畠はニヤニヤと笑っている。
「……何か、ご用ですか。わざわざ委員会室にぼくを呼び出すなんて」
「資料室には当分は近寄らないでくれと、曽我に釘を刺されたんだ。そうなると、社内でお前と逢 引するとしたら、こういう場所しかないと思わないか?」
 カッとした昭洋は、高畠に背を向けて立ち去ろうとしたが、すぐに腕を掴まれる。
「離してくださいっ。あなたの冗談につき合うほど、ぼくは暇では――」
「調査会社の男の事務所にのこのこと出かけて行って、逢瀬を楽しむ暇はあってもか?」
「槙瀬さんとはそんな関係じゃありませんっ。あなたなんかと一緒にしないでくださいっ」
 ムキになって反論した昭洋だが、すぐに自分の失言に気づいて口を噤む。高畠は、これまでの人 を食ったような笑みではなく、冷笑を浮かべて昭洋を見上げてきていた。
「槙瀬さん、か……。お前は一度でも、そんなふうに親しみを込めてわたしを呼んでくれたことは ないな。――で、その調査会社の男とは、もう寝たのか?」
 どんな侮蔑の言葉をぶつけられるよりも、昭洋には耐えがたかった。きつく高畠を睨みつけると、 腕を掴んでいる手を鋭く払いのける。
「あなたみたいな下種と一緒にしないでください。……あの人は、ぼくを救ってくれる人なんです。 堕とすだけのあなたとは、違う」
 高畠の冷笑が凍りつく。一見人当たりがよさそうな目に、はっきりと苛立ちと怒りの色が浮かん だ。従順な飼い犬に歯向かわれたのが気に食わないらしい。
 瞬く間に笑みを消して、冷酷な男の顔をした高畠に言われた。
「何日か前に言ったな? わたしに対して従順でいろ。誰にも関心を向けるな。お前の主は――わ たしだ、と」
「……そんな戯言、すぐに忘れました」
「だったら思い出させるだけだ。槙瀬という男をどんなふうに潰してほしい?」
 一瞬、心が揺らぐ。だが昭洋は、きっぱりと言い切った。
「槙瀬さんは、そんな脅しに屈したりしません。あの人は、強い」
 高畠が表情で苛立ちを露わにする。常に悠然とした男が、昭洋の前で感情をこんなに表すのは初め てのことだった。
 勝ったかもしれない。昭洋がそう思ったとき、急に高畠が立ち上がり、昭洋は再び腕を掴まれて 引き寄せられる。後頭部にも大きな手がかかり、あっという間に高畠に唇を塞がれる。
 反射的に抗いながら昭洋は、ジャケットのポケットに片手を突っ込み、資料室のデスクの引き出 しから持ってきたものを掴む。咄嗟に取り出していた。
「――なんのまねだ」
 高畠が冷静な声を発して、視線を自分の胸元に向ける。昭洋は、刃を出したカッターを高畠の厚 みのある胸元に突きつけていた。
 高価そうな高畠のジャケットの前では、カッターの薄い刃はあまりに頼りなく見え、カッターを 突きつけている昭洋の手も小刻みに震えている。本能とはいえ、ここまでの行動に出た自分自身に、 内心で驚いていた。
 一方、カッターを突きつけられている高畠はいつもの余裕を取り戻しており、この状況を楽しん でいるように薄い笑みを浮かべている。
「修羅場らしくなってきたじゃないか。わたしはいままで、抱いてきた人間と刃傷沙汰になったこ とがないのが、密かな自慢だったんだがな。よりによって刃物を突きつけてきたのがお前だという なら、むしろ勲章だ」
 おもしろがるように言って高畠は胸を張る。
「本気なら、かまわん、刺せ」
 昭洋の手は震えたまま動かせなかった。高畠はそんな昭洋を、鼻先で笑う。
「一突きで殺してしまわないと、その報復はお前にではなく、槙瀬という男にするぞ。知っての通 り、わたしは執念深い男だからな」
「……そんな……」
「人に刃物を向けるなら、何かをなくす覚悟はしておくべきだ。お前の場合は、あの男か?」
 自分のせいで槙瀬に危害が加えられるのは、避けたかった。今の昭洋にとって、槙瀬は唯一の支 えだ。その支えを目の前で傷つけられ、もしくは奪われるようなことになったら――。
 昭洋は、自分がこの場で取るべき行動を迷わなかった。
 高畠の胸元に突きつけていたカッターの刃先を、目を閉じて自分の喉元に突き立てようとする。 だが強い力で止められ、まったく手を動かせない。
「――……怖い奴だな。本気で喉を突つ気だっただろう」
 呻くような高畠の声を聞いて、昭洋は目を開く。そして、悲鳴を上げそうになった。
 高畠は刃の部分を自分の右てのひらで包み込むようして押さえていた。無傷で済むはずもなく、 血が滴り落ちている。
 血の赤さよりも、高畠の行為そのものに衝撃を受けた昭洋は、カッターを手放す。ゆっくりと手 を下ろした高畠は、カッターの刃をしまって自分のジャケットのポケットに入れてしまった。
 昭洋は呆然として一連の高畠の行動を見つめていたが、傷ついていないほうの手で引き寄せられ て、激しく身じろぐ。
「離してくださいっ。もう、こんなのは嫌なんです」
「ダメだ。お前は、わたしのものだ。わたしが見つけ出して、手元に置いたんだ。誰にも渡さない。 覚えておけ。お前自身はお前のものですらない。わたしのためだけに存在しているんだ」
 これ以上ない、醜悪なほどの独占欲と執着を、高畠は言葉として吐き出す。呪いでもかけられた ように、昭洋は動けなくなっていた。不思議だが、怖気を感じるほどの嫌悪感があるというのに、 胸の奥が妖しく熱くなってくる。
 狂おしげに高畠の唇が耳元に這わされながら、寸前までの強気なものとは一変して、哀願に近い 口調で囁かれた。
「わたしには、お前しかいないんだ。お前を堕とすのは、わたしがすでに堕ちている人間だからだ。 お前ならわかるだろう。一人でいる苦しみもつらさも空しさも。根底では、わたしとお前はよく似 た人間なんだ。だから――離れられない。どんなに嫌がってもな」
 高畠の言うことなど、何一つ信用できないと骨身に染みている。なのに、この言葉だけはすんな りと昭洋の心に届いた。
「……ぼくは、あなたを嫌っています。軽蔑すらしています」
「だがわたしは、お前を必要としている。お前は、必要とされたがっていたんだろう?」
 カッターの刃よりも脆く、昭洋の覚悟は折れた。
 自分のハンカチを取り出すと、高畠の傷ついた手を取って包む。
「これからすぐ、病院に行ってください。……うわさになりますよ。スマートに遊ぶ高畠次長が、 刃傷沙汰で怪我をしたと言って」
「名誉の傷だ」
 楽しげに笑った高畠が、ハンカチの上からてのひらに軽くキスする。そして、こちらが本番だと いわんばかりに、昭洋の唇を塞いできた。昭洋のすべてを吸い尽くさんばかりの激しく濃厚なキス で、最初は抵抗していた昭洋も、結局高畠の腕の中でじっとするしかない。
「――わたしを傷つけた罰は、受けてもらうぞ」
 ようやく唇を離したとき、高畠に残酷に囁かれても、もう昭洋には抵抗する気力すら残っていな かった。


 自分が高畠をどう思っているのか、昭洋はわからなくなってきた。利害だけ、仕事だけで繋がっ ているわけでないのは、確かだ。感情の交流があるのも、認めよう。
 だがその感情は、決して愛情ではない。
 なのに今こうして昭洋は、高畠に会うためホテルの廊下を歩いている。会社が終わって高畠から 直接携帯電話に連絡が入り、来るように言われたのだ。
 来たくないなら来なくていい、とも言われたが、会社からまっすぐ自宅に帰るという選択肢は、 昭洋の中にはなかった。
 最初に昭洋の存在を認めて必要としてくれた男だ。
 引きずられたくない反面、見捨てられない存在となったのかもしれない。そう結論を出してから、 指定された部屋の前で立ち止まる。
 周囲を見回して人影がないのを確認してから、ドアを開けてもらう。ネクタイを外し、ワイシャ ツのボタンを上から二つ外した格好の高畠が立っていた。
 手招きされて部屋に入ると、まっさきに高畠の右手に視線を向ける。真っ白の包帯が丁寧に巻か れてある。
「……病院、行かれたんですか?」
「ああ。外せない会議が続いていたから、それが終わってからな。お前にあまり力がないおかげも あって、縫わずに済んだ」
 よかった、と意識しないまま呟く。大仰に目を丸くした高畠が、おもしろがるような口調で言っ た。
「光栄だな。心配してくれていたのか」
「理由はどうあれ、ぼくがつけた傷ですから……」
「そう。だから、しっかり償ってもらわないとな。今夜は、好きにさせてもらうぞ」
 頬が一気に熱くなるのを感じながら、昭洋は高畠を睨みつける。
「……いつも、好きにしているじゃないですか」
「今夜は趣向を変える。徹底的にお前を犯してやるというのも、おもしろいと思わないか?」
 卑下たことを言っているわりには、高畠の言動はいつもと同じでスマートで穏やかだ。そのせい で昭洋の中にもさほど危機感はなかった。
 肩を抱かれて部屋の奥へと向かうと、ダブルベッドの傍らのサイドテーブルの上には、グラスと薬の袋が 置いてあった。昭洋の視線が向いた先に気づき、高畠が説明する。
「痛み止めと、化膿止めだ。念のため、というやつだな」
 高畠に、持っていたブリーフケースを取り上げられ、テーブルの上に置かれる。立ったまま背後 から抱き締められるようにしてジャケットを脱がされ、肩から落とされる。
 スラックスからワイシャツを引き出されて、下からボタンを外されていきながらネクタイを緩め られる。うなじに柔らかくキスされ、ビクリと身震いした昭洋は、控えめにシャワーを先に浴びた いと訴えるが、あっさりと無視された。
 抜き取られたネクタイがベッドへと放り出される。なんとなくネクタイの動きを目で追っていた 昭洋だが、ワイシャツの前を開かれて素肌を、包帯を巻いた手でまさぐられるようになると、意識を 高畠に向けざるをえなくなる。
 ワイシャツも肩から落とされて脱がされ、耳から首筋、肩へと唇を這わされるようになる。立った ままの愛撫が続けられながら、一方でスラックスのベルトを緩められ、ファスナーを下ろされる。
 昭洋の足元が乱れたとき、急に高畠に背を突き飛ばされてベッドにうつぶせで倒れ込む。咄嗟に高 畠を振り返ろうとしたが、そのときには背に高畠が乗り上がってきて、昭洋は両手を取られて背に回 されていた。
「高畠さんっ、何をっ……」
「趣向を変えると言っただろう。それにお前の体で確認したいこともあるしな」
 振り返った昭洋が見ている前で高畠が、ベッドに放り出した昭洋のネクタイを手にしていた。片手 で掴み上げられていた昭洋の手首にそのネクタイが巻きつけられていく。
「高畠さんっ」
「お前に手荒なことをするつもりはなかったんだがな。事情が変わった。……痛い思いはさせない。 それどころか、よがり狂うほど感じさせてやる。この趣向を、多分お前は気に入るはずだ」
 どこか皮肉っぽい口調で言った高畠に、あっという間に両手首を背で戒められて動けなくなる。
 ひっくり返された昭洋は、スラックスを下着ごと脱がされていくが、両手が利かないためどうし ようもない。両足を閉じようと抗ってみるが、簡単に下肢を持ち上げられて剥かれる。こんなに屈 辱的な行為をされるのは初めてのことだった。
 全身を屈辱と羞恥で熱くしながら、それでも気丈に高畠を睨みつける。
「いい目だな……」
 顔を覗き込んできた高畠に片頬を撫でられる。首を左右に振って拒もうとしたが、あごを掴み上 げられて頭すら動かせなくなる。そして高畠が、意味深な言葉を続けた。
「惜しいな。抱いている間、この目が見られないなんて」
「……どういう、意味です」
 高畠が手にして見せたのは、もう一本のネクタイだった。昼間、高畠が締めていたものだ。その ネクタイが昭洋の両目を覆う。シルクの滑らかな肌触りにゾクリとしてから、昭洋は半ば恐慌状態 に陥りながら頭を左右に振ろうとする。
「嫌だっ、高畠さん。やめてくださいっ」
 高畠は何も言わない。瞬く間にネクタイが頭に巻きつけられ、両目をしっかりと覆われる。昭洋 の視界はネクタイによって奪われ、ほのかな部屋の明かりだけをかろうじて感じることができる。
 衣擦れの音が少しの間続いてから、高畠がのしかかってくる。さきほどの衣擦れの音はワイシャ ツを脱ぐ音だったらしく、素肌同士が重なった。
 唇を塞がれ、昭洋は喉の奥から声を洩らす。その間、高畠の左手が体をまさぐってくる。目が見 えない分、高畠に何をされるかわからず、肌が敏感になる。これまでの経験で覚えた愛撫の手順を、 今夜はまったく無視しているのだ。
 唇が離され、昭洋は大きく息を吸い込む。いつもなら首筋にくるはずの愛撫が、今夜はいきなり 胸元に施される。
 貪る勢いで、まだ熟していない胸の突起を吸われ、荒々しく舌先で転がされる。痛いほど歯を立 てられて引っ張られると、昭洋は小さく声を上げて胸を反らす。
 もう一方の突起も指先で弄られながら、愛撫の合間に高畠に低く問われた。
「体に跡は残ってないな。槙瀬という男は、お前の体を可愛がってやらずに、いきなりお前の中に 入ってきたのか?」
「どういう、意味です……」
「そういう意味だ。昨日、その男に抱かれたんだろ?」
「違いますっ」
 ここで、指で弄られて凝った突起を口腔に含まれて、ねっとりと舌で舐られる。思わず昭洋は鼻 にかかった声を上げていた。手首を拘束され、目隠しをされるという初めての行為で、肌がざわつ いている。それに、この状況で槙瀬のことを思い出したことが、何よりも昭洋の体に変化をもたら していた。
 昭洋の心の内を、高畠が的確に言葉にした。
「――抱かれてはいないが、お前は、抱かれたいと思っているな。槙瀬という男に」
 カリッと突起を噛まれ、全身に駆け抜けた疼きに、昭洋は歯を食い縛って声を堪える。ふいに今 度は耳にキスされた。
「そんなに魅力的な男か? わたしがこんなに大事にしていても、お前は心の一片すら傾けてくれ ないというのに」
 囁かれながら、両足の間に片手が入り込む。昭洋のものは包帯に包まれた右手で優しく上下に擦 られる。ごわついた包帯の感触が、いつにない感覚を昭洋に与えてくる。
「槙瀬のことを思いながら、一人で慰めてやったか? あの男なら、どんなふうに自分に触れてく れるか想像しながら。……たとえば、こんなふうに」
 感じやすいものを手荒く扱かれ、たまらず昭洋は甘い悲鳴を上げる。再び胸の突起を執拗に愛撫 されながら、手は絶えず動かされ続け、昭洋は不自由な格好で身悶え、鼻にかかった声を洩らし続 ける。
「ふっ、んあっ……」
「お前は槙瀬相手なら、どんなふうに乱れて、甘えてみせるんだ? わたしの前で、同じ媚態を見 せてみろ」
 高畠の唇が腹部から腰へと移動する。
 すでに霞がかっている意識で昭洋は、どうして高畠が目隠しをしたのか、その理由がわかった気 がした。見えなければ、声を発しなければ、今昭洋を抱いているのが高畠だと認識はできない。
 ベッドの中で高畠を認識する基準は、愛撫だけだ。汗の匂いなど、高畠以外の他人の肌を知らな い昭洋には、区別がつかない。
 腿にまで唇と舌が這わされながら、ゆっくりと両足を立てて左右に開かされる。一度だけ抵抗し たが、いつもなら機嫌を取るように膝にまで愛撫してくる高畠に、強引に足を開かされた。
 丹念に内腿にまで愛撫され、ときおり強く肌を吸われる。
 不意打ちで、敏感なものの括れを擦り上げられて腰を浮かせる。自分でも気がつかないうちに、 昭洋のものはしなっていた。
「うっ、くうぅ……ん」
 熱く濡れた感触がまとわりつき、ぴちゃぴちゃとわざと卑猥な音を立てながら、舐め上げられる。 その度に昭洋は腰を揺らし、与えられる快感に反応する。先端を含まれてゆっくりと吸われながら、 根元から括れまでを何度も擦られる。左手で。
 包帯を巻いている右手では、昭洋が高畠だと認識すると思っているのだろう。実際その通りだっ た。
 次第に昭洋の中で現実と夢想の区別がつかなくなってきて、自分を抱いているのは高畠のはずな のに、頭の中では槙瀬の姿が浮かぶようになる。また高畠も、常にない手荒い愛撫を施してくるの だ。
「――あっ、いっ、いぃ……」
 獣じみた舌使いで敏感なものを舐められながら、左手でその奥の柔らかな膨らみを乱暴に揉みし だかれる。普段の昭洋なら、羞恥のあまり泣いて嫌がる愛撫だ。
 だが、こんな淫らな愛撫を施してくれるのが槙瀬なら――。
「くうん、くう、ん。気持ち、い……。槙瀬、さっ……」
 槙瀬の名を小さく呼んだ途端、柔らかな膨らみをさらにきつく揉み上げられ、溢れ出すものがあ るのか、激しく先端を吸い立てられる。
「ふあっ、あっ、あぁっ……、も、う、許して、くださ、い」
 昭洋の掠れた声での訴えは聞き入れられず、熱い口腔に高ぶりきったものは深く呑み込まれて包 まれる。
 堪える術もなく、昭洋は甲高い声を上げて男の口腔で達する。なんのためらいもなく、放ったも のが嚥下されるのを感じ、羞恥よりも深い悦びを覚えてしまった。
 両足を抱え上げられて胸に押し付けられる。ベッドと背の間で重なり合った手首が痛むが、それ 以上に強烈な感覚が、絶頂を迎えたばかりでまだ息の整わない昭洋を襲った。
「あっ、ああっ」
 内奥の入り口に柔らかく濡れた感触が這わされる。ゾクゾクとする感覚に身震いした昭洋は、下 肢が甘く蕩けていくのを感じる。
 見えない目で、槙瀬の鋭い眼差しが内奥に注がれ、そのうえで淫らな愛撫を施されている光景を 見ているような錯覚に陥る。
「い、やぁ……。槙瀬さん、そこは、許して……。見ないで。お願いですから……」
 昭洋の哀願を拒むように、硬くした舌先が内奥に入り込んでくる。それに、指も。
 内奥の浅い部分を舐められながら、挿入された指が慎重に出し入れされる。昭洋は腰を揺すって 感じていた。
 昭洋の拒絶の言葉はすぐに甘い嗚咽となり、そのうち媚びを含んだ啜り泣きとなる。
 内奥に深く入り込んだ二本の指に掻き回され、くちゅくちゅと湿った音が昭洋の耳にも届く。
 指が引き抜かれそうになり、無意識にきつく内奥を収縮させて締め付ける。耳元で、荒くなった 男の息遣いを感じ、そちらのほうに顔を向ける。昭洋の求めがわかったらしく、すぐに口腔に熱い 舌が入り込んできた。
 槙瀬を求めながら、昭洋は舌を濃密に絡め合う。すると片手で抱き寄せられて、背に包帯を巻い た手が触れる。だが今の昭洋はもう気にならない。些細な、違和感だ。
 戒められていた手首が楽になる。ネクタイを解かれたのだ。昭洋は目隠しを取らずに、すぐに熱 い男の体にすがりつく。
 震える声で、昭洋は初めて言葉に出して男を求めた。
「――……槙瀬さん、お願いです。欲しい、です。ぼくの中に、あなたのものを……入れてくださ い」
 ぐるりと内奥を撫で回されて、喉を震わせて喘ぐ。指が引き抜かれ、代わって内奥の入り口に押 し当てられたのは、熱く滑らかな感触だった。
 焦らすように擦りつけられるのは高畠のやり方だが、『これ』は一気に、昭洋の内奥に押し入っ てきた。
「くううっ」
 張り詰めた男の欲望の硬さに、昭洋は苦痛の声を洩らすが、それでも内奥をこじ開けるように して侵入は続く。
「あっ、あっ、痛……ぃ」
 痛みに呻かされながらも、昭洋は必死に男の体にしがみつく。すると肩を押さえつけられて体 を離されると、侵入を続けながら胸の突起を口腔に含まれる。
 舌で突起を舐められ、転がされ、激しく吸われる。身をよじって感じると、腰を揺らされて内 奥を突き上げられる。内奥深くで熱いものが蠢き、ドクドクと脈打っている。
 槙瀬の欲望の高ぶりだと信じ、昭洋は下肢をもじつかせる。
「……槙瀬、さん、槙瀬さん」
 肌で、高ぶりのすべてを内奥に呑み込んだのを感じる。昭洋の内奥の深さを確かめるようにグ ンッ、グンッと突き上げられて、腰が奔放に弾む。
「あんっ、あんっ、奥、に、槙瀬さんの――」
 最奥を抉られて、内奥がビクビクと痙攣する。こんな反応は初めてだった。鈍痛があるのに、 それすら痺れるような法悦に変わり、シーツの上で昭洋はしなやかに乱れる。
 指先で男の体をまさぐり、肩から腕へと指先を這わせて手を取ると、自分の胸元へと導く。男 の指先はすぐに突起を捏ねるようにして愛撫してくれ、それでは物足りなくなったのか、貪るよ うに口腔に含んで齧ってくれる。
「うっ、あっ、はうぅっ」
 内奥にある熱いものを懸命に締め付ける。そんな昭洋の内奥の狭さを堪能するように、乱暴に 抜き差しされて、快感に熱く爛れていく。
 気がつけば、昭洋の下腹部はぐっしょりと濡れていた。内奥からの刺激で、達してしまってい たのだ。そして、内奥にある高ぶりも限界が近いことを感じる。
 最奥を小刻みに突かれ、嬌声を上げながらも昭洋は必死に言葉を噤む。
「――……槙瀬さん、中に、あなたの証を、残して、ください。ほんの一瞬でもいいんです。あ なたが感じてくれた証を、ぼくの中で、感じたいんです」
 きつく抱き締められ、それが承諾の返事だと昭洋は受け止める。汗で濡れた広い背に両腕を回 して掴まる。
 一際大きく突き上げられて、しがみついた体が硬直する。次の瞬間、昭洋は内奥深くに叩きつ けられた熱い奔流を感じて、声も上げられずに大きく仰け反る。肉体的なものよりも、精神的な 快感が強すぎて、軽い失神状態となっていた。
 もっと昭洋の内奥に送り込もうとするかのように、緩慢に腰が動かされて何度も突き上げられ る。そうしているうちに、内奥で感じているものに、変化が現れる。
「んっ、ふぁっ……。槙瀬さん、また――」
 一度は力を失ったものが、再び欲望の兆しを示し始めたのを昭洋は感じる。
 再び力強く愛されるのを待ちかねていた昭洋だが、夢想の世界から引きずり出されたのは突然 だった。
 前触れもなく目隠しのネクタイを取られ、高畠のシニカルな表情が目の前にある。昭洋はすぐ には反応できず、ぼんやりと高畠を見上げ続ける。
「よがりまくっていたな。『わたし』が相手のときとは、大違いだ」
 皮肉を返す気にもなれず、一気に気だるさというより脱力感に襲われた昭洋は、顔を背ける。 そんな昭洋の首筋に、高畠の唇が這わされる。
「どんな気分だった。槙瀬に抱かれるのは? あいにくわたしはどんな男か知らないから、とり あえず荒っぽくお前を抱いてみたが……。合ってたみたいだな。今度から、優しくするのはやめ ようか?」
 囁かれながら、繋がったままの腰を揺すられる。注ぎ込まれた快感の名残りが、昭洋の内奥か ら溢れ出してくる。
「中に出してくれとせがんだときのお前は、ゾクゾクするほど色っぽかった」
「……聞きたく、ないです。さっきまでのぼくは、あなたに抱かれていたわけじゃありません」
 一瞬二人は、間近で鋭い視線を交わし合うが、すぐに高畠は薄く笑って頷いた。
「だったらこれからは、わたしたちの時間というわけだ」
 反論は許されなかった。深く唇を塞がれたからだ。
 昭洋はそっと目を伏せた。


 いつになく、体の奥でくすぶる情欲の炎の勢いは強かった。
 あんな抱かれ方をされたからだ――。
 高畠を残して先に部屋を出た昭洋は、廊下を歩きながら心の中で呟く。高畠の求めは執拗だっ たが、それ以上に、目隠しをされての行為は刺激が強かった。歩いてはいても足元の感覚は曖昧 で、気を抜くと絨毯に膝をついてしまいそうだ。
 エレベーターに乗り込むと、他の客の視線が気になって顔を伏せる。発情しきった顔をしてい ると、バスルームの鏡で自分の顔を見て思ったのだ。
 ロビーで降り、人のざわめきや気配を肌で感じて、さきほどまでの高畠との行為が、どれほど 背徳感に満ちていたのか痛感させられる。
 明日は会社に行けるのだろうかと、ぼんやりと考えながらロビーを歩いていたが、急に尾行の ことが頭を過る。今日は強烈な出来事があって、そこまで意識が回らなかった。高畠が自分との 逢瀬に尾行をつけるだろうかと考えたが、あの男を常識で計るのは不可能な気がする。
 ゆっくりと歩きながら、視線だけを動かしてロビー内をうかがう。
 そんな昭洋の視線に、ロビーに何本かある柱に隠れるようにして立つ人影に気づいた。普通で あれば、気にも留めない変化だ。だが、やけに神経が鋭敏になっている今の昭洋は、見過ごせ なかった。
 急に方向を変えて、その柱に――人影に駆け寄る。
「……どうして……」
 昭洋は愕然として声を洩らす。目の前に立っていたのは、スーツ姿の槙瀬だった。静かな表情だ が、昭洋自身の後ろ暗さのせいか、悲しげな表情をしているようにも見える。
 ここに槙瀬がいることを偶然で片付けられるほど、昭洋はお人よしではない。
「どっちのあとを、つけていたんですか?」
 昭洋は投げ遣りに笑いかけながら、ぞんざいな口調で問いかける。槙瀬の答えは、昭洋が想像し た以上のものだった。
「君だ。――高畠次長には、プライベートでつき合っている女性の影はない。私生活は、非常に淡 白な男といえるだろう。だが月に数度の割合で、ホテルに部屋を取っている。その部屋を訪れ、二、 三時間過ごしてから出ていく人物がいる。それが君、だ」
「……ずっと、つけて……」
「会社での君の重用の仕方といい、プライベートでの関わり方といい、それらから判断するのに、 君は高畠次長の愛人――いや、恋人と言うべきか」
 奈落の底に突き落とされたという、生易しいものではなかった。今ここにカッターを持っていた ら、昭洋はためらわず喉を切り裂いて自らの命を絶っていた。
 それぐらい、高畠との爛れた関係を、槙瀬にだけは知られたくなかった。
 カッターがないのなら、ホテルの前を走る車の前に飛び出しても、死ねるかもしれない。
 冷静な判断力を失った昭洋は咄嗟にそう考え、駆け出す。
 ホテルを飛び出したが、すぐに背後から槙瀬に追いつかれ、腕を掴まれて止められる。
「待つんだっ」
「離してくださいっ」
 振り返った昭洋は涙を滲ませた目で槙瀬を睨みつける。動じることなどないように思われた槙瀬 だが、このときうろたえたように腕の力が緩む。また走り出そうとした昭洋は、しかしすぐに腰に 片腕が巻きついて止められた。
「俺の話を聞け」
 槙瀬から逃れようとするが、両腕で捕えられると昭洋には抵抗のしようがない。毛を逆立てた猫 のように荒い息を吐き出す。
「……ぼくの味方のような顔をして、ずっと軽蔑していたんですね。高畠次長の男の愛人だと。そ のことをネタに、ぼくか高畠次長を脅すつもりだったんですか? 調査事務所って、そういう仕事 もあるんですね」
 話しながら涙が溢れ出してきて、昭洋は忌々しく感じながら乱暴に手の甲で拭う。そんな昭洋に 対して、槙瀬は容赦なかった。
「軽蔑されるようなことをしていると、自分で思っているのか?」
 昭洋は槙瀬を睨みつける。
「男の愛人なんて、誇れるようなことじゃないでしょう」
「恋人、ではないのか?」
「ぼくは、高畠次長に飼われているんですよ。自分自身に執着がないぼくを、あの人は使いやすい と思っているだけです。体の関係は、そのオプションですよ」
 言った途端、槙瀬に鋭く頬を叩かれた。
「――君はそんなに安い人間なのか」
 そう言った槙瀬に引きずられるようにして歩かされる。叩かれた頬を押さえながら、昭洋は槙瀬 を見る。
「……どこに……」
「俺の事務所に場所を移そう。その間に君も落ち着くだろう」
 強引に歩かされていた昭洋だが、腰に巻きついたままの槙瀬の腕を意識した瞬間、さきほどの、高畠と の行為が脳裏に蘇る。
 昭洋は、『槙瀬』に抱かれて歓喜していたのだ。
 強くそう意識した昭洋は、槙瀬の腕をなんとか振り解く。
「おいっ……」
「――もう、ぼくには構わないでください。ぼくは、誰かに利用されるのは疲れました。その中で も、あなたに利用されるなんて、死んでも嫌なんですっ」
 そう言って駆け出すと、背後からはっきりと槙瀬に呼ばれた。
「昭洋っ」
 ビクリと体を震わせた昭洋だが、足を止めることなく走る。
 途中で停めたタクシーに乗り込むと、昭洋は口元を覆って、洩れる嗚咽を必死に押し殺し続ける。
 自分も含めて何もかも壊れてしまえと、強く心の中で願いながら。




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