心地の良い場所 −ZERO− 
7。 



 緊張で強張った昭洋の顔を見ても、藤島はいつもの穏やかな表情を崩さなかった。
「仕事でもないのに、お時間を取っていただいてありがとうございます」
 座布団から下りた昭洋は、深々と頭を下げる。
「構わないよ。塚本くんとは、わたしが委員長の職を辞したら、気軽に食事の相手でもしてほしいと思っていたんだ。その機会が早くに訪れたというだけだ」
 個人的な相談に乗ってもらえないだろうかと、悲壮な覚悟で電話をかけた昭洋に、藤島は平日の昼間、わざわざ料亭に席を設けてくれた。しかも、座敷には二人きりだ。藤島の秘書たちは別の座敷で待っているのだという。
 仕事での会食の予定など入っていただろうが、こうして昭洋のことを優先してくれたことに、心から感謝するばかりだった。
 障子の向こうから声がかけられ、藤島が応じると、膳が運ばれてくる。
「まあ、食べながら話そうか。そのほうが君も楽だろ」
 昭洋はちらりと笑みを浮かべてから箸を取る。だが、すぐに料理に手をつける気にはならなかった。まずは、自分の覚悟を話すのが先だ。
「――ぼくは、会社を辞めようと思っています」
 ゆっくりと食事を進めていた藤島の手が止まる。一瞬だけ、昭洋の言葉の真意を問うような鋭い眼差しを向けられたが、次の瞬間には優しく笑いかけられた。
「本気みたいだね」
「いままでのぼくは、正直、自分がどうなろうが、誰に流されようが興味はありませんでした。いつだったか、藤島さんがおっしゃった通りです。生きていることに執着していませんでした。だけど今は……」
「変わったというなら、それはいいことだよ。君はすべてを諦めるには、まだ若すぎる」
 ほっとした昭洋は思わず笑みをこぼすが、本題はこれからだと思い直し、表情を引き締める。
「……ぼくの考えがどうあれ、会社が素直に辞めさせてくれるとは思えないんです。これから、会社内の対立は激しくなってくるはずです。そのとき、いろいろと知っているぼくは、誰に利用されても不思議ではありませんから」
「その通りだな。特に高畠くんは、簡単に君を手放したりはしないだろう」
 昭洋はピクリと手を震わせ、そんな自分の反応を誤魔化すように食事を一口だけ口にする。
 高畠のことを言われると、このまま黙り込んでしまいたい心境に駆られるが、今日はそんなわけにはいかない。覚悟があって藤島と会っているのだ。
「ぼくが会社を辞めるとき、もし何かあった場合は、藤島さんに力になっていただきたいのです。……本当は、こんなお願いをできる立場ではないと、よくわかっています。ですが、会社のことで相談できるのは藤島さんしかいなくて――……」
 いままでの昭洋なら、誰かを頼ることなど考えなかっただろう。しかし槙瀬に出会ってから、確実に昭洋は変わりつつあった。
 人間として弱くなった、甘くなった、感情的になった――。
 いくらでも自分の変化を責めることはできるが、あえて昭洋は、こう捉えてみたかった。
 自分のような人間でも、見守ってくれている人がいる。その人の力を頼ることは、決して悪いことばかりではないのだと。
 拒否されることは、最初から織り込み済みだ。
 持っている箸の先が微かに震えていた。それを見た昭洋は結局箸を置く。
「――わたしが君の後ろ盾になる、ということかね」
 藤島の言葉に、一呼吸置いてから昭洋は頷いた。
「そうです」
 藤島がどれほどの権力を持っている人間か、正確に把握していないにしても、昭洋はわかっているつもりだ。それに、何も持っていない自分が、藤島に頼みごとをするなど、どれほどおこがましいことかも。
 真剣な表情で昭洋の目をじっと見つめてから、藤島は怜悧な笑みを浮かべた。
「いいだろう」
「本当ですかっ……」
「ただし、条件がある」
「会社を辞めたら、わたしの元に来なさい」
 どう答えればいいかわからず、昭洋は戸惑う。
「……ぼくは、政治のことはさっぱりわかりません」
「政治は関係ない。わたしの個人的な秘書になると思えばいい」
「でも――」
「わたしの身内になるとわかれば、君の会社も迂闊に口出しも手出しもできないだろう」
 藤島の言う通りかもしれない。しかし昭洋は、会社から解放される代わりに、今度は藤島のテリトリーに自分が囚われるような危惧を覚えた。藤島の後ろ盾は頼りになるし、その藤島の元で働けるとなれば、悪いようにはならないだろう。
 なのに素直に返事ができない理由は――。
「ぼくはまだ、先のことは考えてないんです。会社を辞めてから何をしたいとか、どんな仕事に就きたいとか。そういったことを含めて、よく考えたいんです」
「なら、こうしよう。この先、会社での面倒事を片付けるときに、わたしの名を使っても構わない。わたしも協力しよう。その代わり、一度でもわたしの名を使えば、君はわたしの下で働く」
 ハッとして昭洋は目を見開く。藤島は言葉を続けた。
「自分の道を自分で決めたいなら、君は自分で足掻いて会社を辞めるんだ。無事に辞められたなら、それでいい。揉めるようなら……」
 何事もなかったように藤島が食事を再開し、ようやく我に返った昭洋もぎこちなく箸を動かす。ただし、豪華な食事の味はほとんどわからない。食べ物を噛み締めているようでいて、実は心の中で何度も藤島の言葉を噛み締めていた。
 出した結論は、藤島なりの優しさを示されたのだということだ。
「……ぼくは、父親のことを知りません。どんな顔をしていて、どんな声なのか、名前すらも」
「うん?」
 昭洋は視線を伏せたまま話す。
「だから、父親がどんな感じなのか、想像もつかないんです。だけど――藤島さんと話していると、ほっとして安心できました。藤島さんのお宅にお邪魔するたびに、居心地がいいと思っていたんです。それはきっと、藤島さんかいたからですね。あなたはいつも、単なる使いでしかないぼくに優しかった」
「そうだったかな? 息子を亡くしてから、人に優しくする感覚なんて、忘れてしまったよ」
「優しくて厳しい。父親とは、そういうものじゃないんですか? そして厳しさが、優しさの裏返しでもある」
 藤島は口元に笑みを湛える。
「君はわたしを買い被りすぎている。ただ、仕事を引退して、やることがなくなって暇を持て余したじいさんだよ。だから君みたいな話し相手がほしいんだ」
「話し相手なら、いつでも」
 藤島には頼りたくないと思った。次に会うときは仕事とは関係なく、いろんなことを話したい。
それが、優しさと厳しさを示してくれた藤島に報いる方法だろう。
「……ギリギリまでがんばりたいと思います。流されるままにここまできたぼくの、それがけじめでしょうから」
「身の危険を感じたら、すぐに連絡してきなさい。会社は君が考えているほど、甘くはない」
 もう一度藤島の怜悧な眼差しで見据えられ、息を詰めて昭洋は頷く。
 本当は怖かった。目に見えない力へと、無謀にも抗おうというのだ。だが、会社から解放されること以上に、高畠から逃れるには命を賭けるしかないのだと、漠然と感じてはいるのだ。
 空っぽで何もないと思っていた自分の中に、確かに芽吹き、根付いたものがある。
 これが覚悟というものだと、昭洋は胸元に手を押し当てた。




 いつものように秘書課で仕事をこなしていた昭洋は、名を呼ばれて書類から顔を上げる。受話器を手にした男子社員が、指で内線番号を示した。
「管理室からだ」
 いつもの、資料室への呼び出しの電話だ。昭洋は保留ボタンを切り替えた昭洋は受話器を取り上げ、淡々とした口調で応対した。
「はい、塚本です」
『管理室長の曽我だ。ここ一週間の処理が溜まっているぞ。至急資料室に行くんだ』
「……今から、ですか?」
『当然だ。一体どうしたんだ。いままで、わたしがこんな電話をしなくても、スムーズに処理をこなしていただろう。高畠次長も心配している』
 そういえば、この一週間高畠と接触していない。昭洋に構っている暇もないのか、あえて距離を置いて様子をうかがっているのか。
『もしもし、塚本くん、聞いているのか?』
「ええ、聞いてます」
『だったら――』
「申し訳ありません。その仕事については、別の方にお願いしてください。まだそちらに連絡はいってないようですが、ぼくは今日、辞表を出しました」
 電話の向こうで管理室長は絶句していた。
 今昭洋が言ったことはうそではない。一週間の間に、自分が抱えている仕事に目算をつけ、今朝になってやっと上司に辞表を提出したのだ。もちろん、すぐに辞められるとは最初から思っていない。仕事の引き継ぎを終えるまで、一か月は見なくてはならないだろう。
 その一か月の間、何事もないはずがない――。
 辞表を提出したときの心境は、まさに見えない相手に挑戦状を叩きつけたような気分だった。
 高畠はどう動くだろうか、頭の片隅で昭洋はちらりと考えていた。
「そういうことですので、よろしくお願いします」
 素っ気なく告げて受話器を置くと、会話が聞こえてきたらしく、電話を回してくれた同僚から控えめな視線を向けられる。昭洋は無理やり笑って見せてから、仕事に戻った。
 しかし三十分もしないうちに、今度は管理室の別の社員からミーティング室に呼び出されることになる。
 資料室でないなら、と思い、昭洋は仕事を中断する。それに、歯向かうなら秘書課に押しかけるとまで言われたのだ。
 ミーティング室には管理室長の曽我以外に、昭洋が辞表を提出した上司、専務派に属している財務部の担当役員まで顔を揃えていた。危うく、豪華な顔ぶれですね、と皮肉を言ってしまいそうになり、寸前のところで唇を引き結んで堪える。
「――これは、本気かね」
 昭洋が席につくと、テーブルの上に朝提出した辞表が置かれた。
「もちろんです。こんな大事なもの、冗談で出せるはずがありません」
「だったらなおさら、受け取るわけにはいかんな」
 ぞんざいに辞表が目の前に投げ置かれる。なぜ、と昭洋も問わない。静かに辞表を押し返した。
「受け取っていただかないと困ります」
「困るのは我々のほうだよ。こんなわけがわからないものをいきなり提出されて、どうしろと言うんだ」
「書いてある通り、辞表願です。ぼくは会社を辞めます」
 きっぱりと昭洋が告げると、目の前で三人が顔を見合わせる。応じたのは、担当役員だった。
「わたしは、高畠次長の代理としてこの場にいる。高畠次長はどうしても外せない用があって出かけているが、くれぐれも君のことは頼むと言われているんだ。……何があっても説得して引き止めてほしいと」
 高畠と聞いて、意識しないまま肩が震える。怯えに近い感情が芽生えたが、本人が目の前にいるわけでもないのにと、必死に心を奮い立たせる。
「誰に説得されても、ぼくは考え直す気はありません。もちろん、高畠次長が出てきても同じです。……とにかくぼくは、秘書課の仕事の引き継ぎに入ります」
「そんな一方的な理屈が通るはずないだろっ」
 ここから、三者三様に非難の言葉を口にし始め、昭洋はまるで嵐が過ぎるのを待つように、ただひたすら沈黙を守る。こんな反応があるのは、ある程度覚悟していた。何を言われようが、ひたすら耐えるしかない。
 一時間近く、拷問に近い言葉の暴力に耐えていた昭洋だが、やっと室内に沈黙が訪れると、伏せていた視線を上げ、三人の顔を見つめる。
「ぼくはもう、『あの』仕事は――裏金作りなんてやりたくないんです」
「人聞きの悪いことを言うなっ」
 怒鳴られた瞬間、昭洋は皮肉っぽい笑みを投げかける。
「ああ、帳簿上は積立金、ですよね。国内だけじゃなく、国外の支社、関連子会社にまで損金補填の名目で積立金を課して、それを本社が管理。そして、その積立金がいつの間にか、使途不明金として消えていく……。見事な錬金術ですよね」
「使途不明金などではない。存在しているんだよ、帳簿上はきちんと」
「どんなに取り繕っても、ぼくはずっと、罪悪感を抱え続けているんです。許されないことをしていると、いつも誰かに責められている気になる……」
「それは君が、甘いだけだ」
 この人たちとどれだけ話そうが平行線を辿り、同じ感情を有することはできないと、昭洋は悟る。自分が抱える心の痛みがわかってもらえるなどと、甘いことを考えていたわけではない。
 ただ、自分の本気を知ってもらいたかっただけだ。
 昭洋は大きく息を吐き出して立ち上がる。
「塚本くん、まだ話は終わって――」
「ぼくの中で結論は出ています。会社は辞めます。誰がなんと言おうが、この気持ちを変えることはありません。……高畠次長にも、そうお伝えください」
 制止の声も聞かず、ミーティング室を出た昭洋は大股で歩く。一刻も早く、三人から離れたいという気持ちのままに。
 すぐに秘書課に戻る気にはならなかった。少しどこかで休んでから気持ちを切り替えないと、仕事が手につかないのは目に見えている。
 言いたいことを言ったというのに、すっきりなどしなかった。むしろ、自分がどれだけ深い闇に囚われていたのか痛感して、胸が悪い。
 誰かにすがりついて、何もかも吐き出してしまいたかった。なのに昭洋が求める相手は、近くにはいない。
 このことがひどく悲しくて、昭洋は前髪に指を差し込んで、小さく嗚咽を洩らしていた。


 会社を出た昭洋は、ふと足を停めてまだ少し明るい空を見上げる。今日は、いつ高畠から呼び出されるかと気になり、結局いつもより早めに仕事を切り上げて会社を出たのだ。
 辞表を提出したのはいいが、こんな調子で高畠と対峙できるのだろうかと、ふと弱気になる。
 再び駅に向けて歩き出しながら、人の波に紛れ込む。ぼんやりと考えるのは、まっすぐ帰らずに、このまま槙瀬の事務所に行こうかということだった。
 不安な気持ちが高まれば高まるほど、槙瀬の顔が強く脳裏をちらつく。いつも気を張り詰めているのは不可能に近く、せめて気を抜くなら、信頼できる人物の前がいい。
 出会ったばかりの槙瀬を信頼しているのだと思うと、無意識のうちに昭洋は口元に淡い笑みを浮かべていた。
 ふっと一瞬気が緩む。だがすぐに昭洋は、慎重に周囲を見回していた。今日も尾行がついているのかと思い、警戒したのだ。
 見知った姿を見つけることができなかったので、一度は安堵しかけた昭洋だが、感じるものがあって正面に視線を向ける。こちらに向かってくる人ごみの中に、まっすぐ昭洋を見つめてくる人の姿があった。
 中年のスーツ姿の男で、小脇にブリーフケースを抱えている。意識しなければ、見た次の瞬間には忘れてしまいそうな人間だ。しかし昭洋は、確信にも似た危険なものを感じ、ゾクリと寒気がした。
 男と目が合い、ニッと笑いかけられる。昭洋は弾かれたように背を向け、駆け出していた。
 人が多くて走りにくい。すぐに前をはばまれ、突き飛ばす時間すら惜しくて、脇道に入る。こちらの道はあまり行き交う人の姿もなく、走るのに支障はない。だがそれは、男も同じ条件だということだ。
 必死に走りながら振り返ると、いつの間にかサングラスをかけた男は、無関係を装う気もないらしく、昭洋を追いかけてきていた。
 男の足は速く、すぐに昭洋に追いつく。腕を掴まれて声にならない悲鳴を上げる。咄嗟に手を振り払おうとしたが、この瞬間、腕に鋭い痛みを感じた。
 近くでなぜか女の悲鳴が上がった。途端に昭洋の足がもつれ、地面に倒れ込む。
「あっ……」
 地面に手を突いた昭洋は、左腕のジャケットが裂けていることに気づいた。それに、腕を伝う濡れた感触にも。
 切りつけられた――。
 こう思ったのは、腕の傷を見たからではなく、男の手にあるナイフを目にしたからだ。ナイフの刃先に血がついているのが、やけに鮮明に視界に飛び込んでくる。
 昭洋は地面に座り込んだまま後退るが、簡単に男は追い詰めてくる。人目があっても、男はお構いなしだ。
 冷たい恐怖が昭洋の背筋を滑り落ちる。初めて、死というものを強く意識していた。
 このナイフに刺されたら、死に至るまでに痛みを感じるのだろうか、と頭の片隅で考えてしまったとき、男に素早く駆け寄る影があった。
 何をどうしたのか、影が男に触れたと思ったときには、男の体は宙に浮いていた。昭洋の見ている前で思いきり地面に叩きつけられ、低い呻き声が上がる。ナイフはいつの間にか地面に落ちていたが、影が蹴り飛ばしてしまった。
 それだけのことがあっという間に起こり、終わる。
「大丈夫か」
 影が声を発する。ハッとして昭洋が顔を上げると、目の前に立っていたのは槙瀬だった。
「槙瀬、さん……?」
「立てるなら、すぐにここを離れるぞ。警官が来るかもしれない」
 地面に転がったまま動かない男に視線を向けてから、昭洋は立ち上がろうとする。
「うっ」
 左腕にズキリと痛みが走り、再び地面の上に座り込もうとしたが、槙瀬に支えられる。
半ば抱えられるようにして、その場から立ち去る。
 指先から血が滴り落ちる感触があった。痛む腕を押さえようとしたが、寸前で思い留まってジャケットのポケットからハンカチを取り出して腕に押し当てる。
 大した傷ではないのかもしれないが、切りつけられたショックと痛みから呼吸が荒くなる。
「もう少し我慢しろ。車は近くだ」
 槙瀬にぐっと肩を抱かれて囁かれ、昭洋は頷く。本当は今すぐにでも座り込みたいが、槙瀬の力強さがそれを許さない。だからこそ、昭洋も自分を保っていられるとも言える。
 左腕を人目につかないよう隠しながら、なんとかパーキングにたどり着くと、槙瀬が助手席のドアを開けてくれて、身を滑り込ませるようにして乗り込んだ。
 昭洋は慎重に息を吐き出し、おそるおそる左腕を見る。ジャケットのせいで傷はよく見えないが、裂け目から血に染まったワイシャツが見え、思わず顔を背けていた。このとき、運転席に乗り込んだ槙瀬と目が合う。鋭い眼差しを向けられ、昭洋は動揺した。
「……あっ、すみません……。車のシート、血で汚して……」
「そんなこと気にしなくていい。すぐに病院に連れて行ってやる」
 シートに体を預けた昭洋は目を閉じる。その状態でやっとまともに話せる気持ちになった。
「ぼくのあとを、つけてたんですか?」
「ああ。――なんであんなことになったんだ。あの男は通り魔なんかじゃない。明らかに君に狙いを定めていた」
 こう言われて、昭洋はブルリと大きく身震いする。ふいに槙瀬の片手が伸ばされ、手荒く髪を撫でられた。その手の感触が、今は何よりも安心できる。
「今日、会社に辞表を出してきました」
 荒い呼吸の下から洩らした昭洋の言葉に、前を向いたままの槙瀬の横顔が緊張する。
「……それが、君なりの戦いということか」
「そんな大げさなものじゃありません。ただ、このままじゃいけないと思ったんです」
 槙瀬と知り合ったから――。
 言いかけた言葉はぐっと呑み込む。
「もう遅いかもしれないけど、今以上の深みにはまりたくないんです」
「普通の社員なら、それでいいかもしれない。だが君は、違うだろ。部外者の俺ですら、会社が君を簡単に辞めさせるとは思えない」
「その通りです」
 ここで二人は沈黙するが、おそらく同じことを考えていただろう。さきほど昭洋が襲われたのは、会社を辞めると言い出したことへの報復であり、脅しではないのかと。
 唇の感覚が麻痺してきて、指先から冷たくなってくる。昭洋は、腕に押し当てたハンカチが血に染まっているのを見て、貧血を起こしそうだった。
 脈打つような痛みに唇を噛むと、そんな昭洋の様子に気づいた槙瀬に言われた。
「もう話すな。……何も心配しなくていい。病院での説明は俺がやってやる」
 昭洋が頷くと、槙瀬はもう一度髪を手荒く撫でてくれる。胸の奥が甘く疼き、ほんのわずかな間だけ、昭洋は腕の痛みを忘れることができた。


 二人が病院を出たとき、外はすっかり暗くなっていた。
「あっ……」
 肩にかけたジャケットが落ちて昭洋が声を洩らすと、すぐに槙瀬が拾い上げ、肩にかけ直してくれる。
「さあ、行こう」
 槙瀬に肩を抱かれ、昭洋はその感触を強く意識する。精神的に少しは落ち着いてきた証拠かもしれない。それとも――。
 昭洋はそっと自分の左腕に触れる。ワイシャツの左腕は血に汚れてしまっていたので、ハサミで切ったもらった。どうせ誰かと会う予定はないし、ジャケットを羽織ってしまえば、行き交う人の視線もさほど気にならない。
肝心の怪我は、十針以上縫われてしっかりと包帯を巻かれ、鎮痛剤と化膿止めを処方された。神経には傷がついていないと言われ、怪我をした昭洋よりも、槙瀬のほうが安堵した表情を浮かべていたのが印象的だ。
 昭洋はそっと槙瀬の顔を見つめる。視線に気づいたのか、槙瀬も昭洋を見た。
「どうした?」
 ドキリとしてから昭洋は小さく笑みをこぼす。
「治療しているときの槙瀬さんの説明を思い出したんです。……無理がありましたよ、あれ」
「割れたガラスで切った、というやつか? 信用したのかしなかったのか知らないが、警察には呼ばれなかった。身元もうそをついたから、呼ばれたらタダじゃ済まなかっただろうな」
 保険証はあとで持ってきてもらえばいいと言われたが、出張中だから構わないと言って、槙瀬は全額負担で治療代を支払ったのだ。
「……帰りにどこかでお金を下ろして、立て替えてもらった分は払いますから」
 昭洋がこう言うと、物言いたげな顔をした槙瀬は首を横に振る。
「必要ない」
「でもっ……、槙瀬さんのせいじゃないんですから」
「俺がもっと早くに駆けつけていれば、君に怪我をさせなかった。だからその詫びだ」
「助けてくれたのは槙瀬さんです」
「だったら出世払いでいい」
「出世って……、ぼく、今日辞表を提出したんですよ」
 車の前まできて、二人の足は自然に止まる。すでに診療時間を終えた病院の駐車場には槙瀬以外の車はなく、しかも薄暗い。
 肩にかかった槙瀬の腕が離れようとした瞬間、咄嗟に槙瀬のジャケットを掴んでいた。驚いたように槙瀬が昭洋を見る。
「どうした? 心配しなくても、きちんと送ってやる」
 槙瀬と離れたくない。
 そんな強い思いが昭洋の口を突いて出ていた。
「――……部屋に帰りたくないんです。一人でいたくない……」
「昭洋……」
 思いがけず槙瀬に名を呼ばれる。昭洋が目を見開くと、しまった、と言いたげに槙瀬は眉をひそめ、不自然に硬い口調で『塚本くん』と呼び直した。
「辞表を出して、ただで済むとは思っていなかったけど、いきなり切りつけられるなんて思ってなかったんです。……怖くて、仕方ないんです。何があっても自分の考えを貫くつもりだったのに、今は不安で、怖くて……」
 一気にまくし立てながら昭洋は槙瀬の肩に額を押し当てる。槙瀬が不器用な手つきで背を撫でてくれ、胸が詰まる。
 漠然とだが、槙瀬は他人に優しさを示すのが下手な人間なのだと思った。昭洋と同じだ。だが、槙瀬と一緒にいたいのは、そんな理由からではない。
「……槙瀬さんの事務所でいいから、置いてください。お願いですっ」
 必死に哀願すると、背を撫でていた槙瀬の手の動きが止まる。槙瀬はこう答えた。
「――……とにかく車に乗るんだ」
 落胆しながら昭洋は、促されるまま助手席に乗り込む。
 しばらく何も言わず厳しい顔で運転をしていた槙瀬だが、途中スピードを上げながら言った。
「事務所は何があるかわからないから危険だ。……俺の部屋に来い。大したことはできないが、守ってやることはできる」
 すでに諦めていた昭洋は、思いがけない槙瀬の言葉にすぐに反応することができなかった。目を見開いて槙瀬の横顔を凝視していたが、ゆっくりと胸に温かな感情が広がり、涙が出そうになる。
「ありがとうございますっ」
 なぜか槙瀬は、一瞬苦しげな表情を浮かべた。昭洋の訪問を嫌がっているというより、自分自身が痛みを感じたような表情だ。不安になり、昭洋は首を傾げた。
「槙瀬さん、何か……?」
「いや……。途中でどこかで買い物をしないといけないな。君の着替えに、食い物に――。一人暮らしの気楽さで、俺の部屋にはろくなものがないんだ」
 独身というのは本当で、誰かと一緒に暮らしているというわけでもないらしい。
 そのことに嬉しいのか安心したのかわからない気持ちのまま、昭洋は小さく頷いた。


 煙草の匂いがする、と昭洋は軽く鼻を鳴らす。そうやって何度も、ここは自分の部屋ではないのだと実感するのだ。
 カーテンの隙間から差し込んでくる薄ぼんやりとした明かりを頼りに、布団に横になったまま、昭洋は目を凝らして室内を見回す。
 初めてこの部屋に入ったとき、まず大きな本棚が目に飛び込んできた。きれいに片付いているというより、物に乏しい空間の中で、この本棚だけは槙瀬という男を語っているように思えたのだ。並んでいる本はよく見なかった。明日、明るくなってから観察しようと昭洋は考えている。
 病院で飲んだ鎮痛剤が切れてきたのか、ズキズキと腕が疼き、熱い。槙瀬の部屋に来る途中で買ったTシャツから出た左腕をそっと撫でると、左腕全体が熱を持っていた。包帯の下の傷は、もっと熱くなっているだろう。
 ナイフで切られたのだ。
 男に切りつけられたときの光景を思い出し、タオルケットの下で体を震わせる。クーラーの風はよくないからと、槙瀬は扇風機をつけてくれたが、ぬるい風に肌を撫でられると、その感触にすら鳥肌が立って、嫌な汗が出ていた。
 死を覚悟して、全身が冷たくなって無になる瞬間は強烈だった。しばらく夢に見るどころか、一生忘れないかもしれない。
 だからこそ、こんなときに側にいてくれる槙瀬の存在がありがたかった。そうでなければ、すぐに藤島に連絡していただろう。
 ひんやりとした畳の上に左腕を投げ出して、息を吐き出す。部屋と部屋を仕切る襖に視線を向けていた。隣の部屋で、槙瀬は眠っている。襖を閉めたのは槙瀬なりの気づかいだろうが、昭洋にとっては、自分と槙瀬を隔てる心理的な壁に感じられた。
 あまりにいろんなことがあって、いつまで経っても気が高ぶったままで眠れない。
 明日――もう今日なのだが、会社に行くのは無理だろう。怪我のせいで腕がうまく動かせず、仕事にならないということもあるが、それ以上に純粋に、会社が怖かった。
 会社の誰かが、男に自分を襲うよう依頼したと証拠があるわけではないが、証拠がなくても確信はある。昭洋が軽い怪我を負っただけだとわかっているはずなので、まだつけ狙ってくるとすれば、会社どころか、自宅にも迂闊には近づけなかった。
 こうやって、数少ない自分の居場所が奪われていくのかもしれない。
 乱れた前髪を掻き上げた昭洋は、ふと気がついて自分の額にてのひらを押し当てる。腕だけではなく、額も熱くなっていた。
 昭洋は畳の上に投げ出した左腕に視線を向ける。指先まで疼いて痛んでいる左腕の傷の熱が、とうとう全身に回り始めたのだ。
 熱さに喘いでいると、突然、襖の向こうから声をかけられた。
「――起きているのか?」
 驚いて体を強張らせてから、昭洋は応じた。
「え、え……」
 すると静かに襖が開き、槙瀬が部屋に入ってきた。昭洋の傍らに膝をつき、腕に触れてくる。次いで、額にてのひらをのせた。
「熱が出てるな。腕は痛むか?」
 昭洋が頷くと、すぐに槙瀬は部屋の電気をつけて出ていき、戻ってきたときには手にグラスと錠剤のシートを持っていた。電気のまぶしさに目を細めながら、昭洋は体を起こす。
「すみません」
 鎮痛剤を水で飲み干してから、つい昭洋はこう言ってしまう。空になったグラスを手に槙瀬は立ち上がるかと思ったが、昭洋の手から取り上げたグラスを畳の上に置くと、傍らに座り込み、枕元に置いたタオルで額や首筋の汗を拭ってくれた。
「眠れないなら、コーヒーでも入れてきてやろうか?」
 槙瀬の言葉に昭洋は首を横に振る。
 何もいらない。ただ、槙瀬が側にいてくれればよかった。
 しかし、そんなことを口にできるはずもなく、昭洋は顔を伏せる。槙瀬は汗で湿った髪を武骨な手つきで梳いてくれる。
「――痛々しいな」
 ふとそんなことを言って、槙瀬が慎重に左腕に触れてきた。槙瀬の指先の動きに昭洋の中で、傷が発する熱よりさらに高い熱が蠢く。紛れもなく、情欲の熱だ。
 内心でうろたえる昭洋に気づいた様子もなく、槙瀬は手にも触れてきた。取った昭洋の手をまじまじと見つめているのだ。
「槙瀬さん、どうかしましたか?」
「いや……。大人の手だと思ってな」
 どういう意味か、昭洋にはわからなかった。戸惑う昭洋に対して、槙瀬は微苦笑を浮かべる。
「なんでもないんだ。気にするな」
 手が離され、槙瀬が立ち上がろうとする。この瞬間、まだ側にいてほしいという気持ちが、昭洋に大胆な行動を取らせた。怪我をしていないほうの手を伸ばし、槙瀬にしがみついたのだ。
「昭っ――……、塚本くん」
「昭洋でいいです。槙瀬さんになら、そんなふうに呼んでもらいたいから」
 槙瀬は、昭洋を押し退けようとはしなかった。ただ、動揺のない落ち着いた声で問いかけてくる。
「……怖かったんだな。当たり前か。いきなり知らない人間から切りつけられたんだ。君はまだ、 冷静なほうだ」
 そうではないのだ、と言いたかったが、槙瀬がこうしてしがみつかせてくれるのなら、どちらでもいいような気がした。
 昭洋は必死に片手を槙瀬の背に回す。煙草の匂いと槙瀬の体温が、心地いいというだけではなく、昭洋の中から妖しい衝動を引き出していく。
 泣きたくなるほどの切なさが、昭洋の胸を塞いだ。
 自分はこの男を好きになっているのだと、漠然と自覚した。だが、衝撃はない。薄々、頭の片隅でわかっていながら、認めるのが怖かったのだ。
 不器用な手つきで槙瀬は髪や背を撫でてくれた。その感触を感じていると、きつく抱き締めてほしいなどとは、口が裂けても言えなかった。
 今この瞬間はまだ、この感触だけで救われる。だが明日には、自分が抱えた欲望は成長するかもしれない。
 見知らぬ男に襲われたことより、昭洋はこのことがひどく恐ろしかった。




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