心地の良い場所 −ZERO− 
8。 



 翌朝、昭洋は目が覚めても体を起こせなかった。
 ケガのせいだけでなく、溜まりに溜まった肉体的・精神的疲労が一気に限界を迎えたらしい。身に覚えだけは、嫌というほどある。
  熱が下がらないばかりか、絶えず襲いかかってくる吐き気と眩暈に、昭洋は布団の上にぐったりと横たわっているしかなかった。絶えず胃も痛むため、昨日から水分以外、何も口にできない。
 ただ、苦しい一方で、昭洋の心は気持ちはひどく安らいでもいた。もしかすると熱のせいで意識が朦朧としているだけなのかもしれないが、頭を空っぽにしていられる状態は楽だ。
 単なる現実逃避だとしても――。
  熱っぽい息を吐き出してから昭洋が目を閉じようとしたとき、静かに襖が開く気配がした。ハッとして襖のほうを見ると、槙瀬が部屋に入ってくるところだった。
「もうぬるくなっただろう」
 枕元に座った槙瀬がそう言って、昭洋の頭の下の氷枕を入れ替える。ひんやりとした感触に、ぼやけていた意識が少しだけクリアになったような気がしたが、頭を上げられるような状態でないのは変わらない。
「何か飲むか?」
 頷いた昭洋は無理やり体を起こそうとしたが、すぐに槙瀬に肩を押されて止められる。まだ眩暈が治まっていないとわかったのだろう。すかさず口元に、ペットボトルに挿したストローが持ってこられた。昭洋は促されるまま、スポーツ飲料を飲む。
 熱を出した昭洋のために、槙瀬が深夜、買い出しにでかけたのは知っているが、水を飲むのも苦労している姿を見て、このストローも一緒に買ってきたのだろう。
 そう思うと、ストローから口を離した昭洋は小さく笑みをこぼす。
「どうした?」
「……手がかかるなと思ったんです。槙瀬さんのところに転がり込んできたうえに、こんなことまでしてもらって……。ぼくは、子供みたいに手がかかっていますよね」
「こうなることは織り込み済みで、君をここに連れてきた。気にしなくていい」
 たっぷり水分をとると、今度は額や首筋の汗をタオルで拭われる。昭洋はただ、仰向けで横になっているだけでよかった。求める前に、すべて槙瀬がやってくれる。
 申し訳ない反面、世話を焼かれることが心地いい。
 考えてみれば昭洋は、子供の頃から誰かに世話を焼かれた経験があまりなかった。育ててくれた祖父母には大事にされたが、だからこそ手を煩わせてはいけないという気持ちが強く、体調を崩しても、一人でさっさと病院に出かけて、あとは部屋に閉じこもっていた。
 誰かに頼るのも甘えるのも苦手だと思い込んでいたが、実は、そうでもなかったのかもしれない。
 面倒をみてくれる槙瀬の気配を感じていると、昭洋はそう思えてくる。
「腹が減ったら遠慮せずに言え。病人の胃に負担にならないようなものを、適当に買ってあるから」
「すみません……」
  一度目を閉じて眩暈をやり過ごしてから、ゆっくりとまた目を開く。槙瀬は、じっと昭洋を見下ろしていた。優しさ以上に、もっと深い感情を秘めた眼差しだと思う。どんな存在に対して、こんな眼差しを向けるものなのだろうかと考えたが、昭洋には想像もつかない。
 ただ、迷惑がっていないということがわかるだけでも、ありがたい。
「……今、何時ですか?」
「九時過ぎだが、どうかしたのか」
「槙瀬さん、仕事に行くんじゃ――……」
 ああ、と声を洩らした槙瀬が、壁にかけた時計を見上げる。
「今日はここにいる。こんな状態の君を一人におけないし、連れて行くわけにもいかない」
「ぼくは一人で大丈夫です」
「頭も起こせないのにか」
 反論の言葉もなく、昭洋は唇を引き結ぶ。すると槙瀬に、少し雑な動作で前髪を掻き上げられた。その感触に、昭洋の心臓の鼓動が一度だけ大きく鳴る。
「急ぎの仕事は入ってないし、もともと俺一人でやっている事務所だ。休むにしても、気楽なものだ。だから、余計な気はつかわなくていい」
 そこまで言われてやっと頷くと、槙瀬の眼差しが柔らかくなる。
 この眼差しの意味はわかった。
 昭洋を、子供扱いしている眼差しだ。




 しばらく意識がはっきりしない状態が続いた。熱に浮かされながら、何度か目が覚めたが、常に傍らに槙瀬の姿があり、そのことに安心して昭洋はまた目を閉じるということを繰り返す。
 なんとか意識が少しだけ覚醒したとき、槙瀬の手を借りてやっと体を起こせた。一日中横になっていただけだというのに、体のあちこちの機能が落ちたようで、とにかく腕を動かすだけでも息が切れる。
「汗でTシャツが濡れている。俺ももっと早くに気がつけばよかったんだが、気持ち悪かっただろう?」
 槙瀬の胸に体をもたれさせながら昭洋は首を横に振る。肩に回された槙瀬の腕の感触が心地よかった。だが次の瞬間、思いがけないことを言われて昭洋はうろたえた。
「着替えるついでに、体を拭いてやる」
「……いい、です……。自分で、やります――」
 答えた途端、槙瀬が体を引いたので、昭洋は倒れ込みそうになる。すかさず、左腕を庇われながら槙瀬に抱きとめられた。
「これで、自分でできるのか?」
「でも、あんまり槙瀬さんの手を煩わせるのは……」
「こういう会話を交わすこと自体、俺を煩わせている。だったら、素直に言うことを聞け」
 おずおずと槙瀬の顔を見上げてると、さらりと髪を掻き上げられた。いいな、と念を押すように言われると、昭洋も逆らえない。
 すでに槙瀬は洗面器に汲んだ湯とタオル、着替えのTシャツを用意しており、昭洋が着ているTシャツに手をかける。
 一瞬、猛烈な抵抗感が昭洋を襲い、身を捩ろうとしたが、意外な力強さで押さえられて脱がされた。素肌に槙瀬の乾いた感触の手が触れ、鳥肌が立ちそうになる。
 槙瀬が何の事情も知らない人間であれば、こんなに抵抗は覚えない。だが、槙瀬は知っているのだ。昭洋が、高畠と体の関係を持っていたことを。
 槙瀬が昭洋の体をどう感じているか、想像するだけで怖くなってくる。軽蔑され、嫌悪されているのかと考えるだけで――。
 首筋からうなじを拭われ、少しあごを上げさせられて喉元にもタオルが当てられる。このとき槙瀬と目が合ったが、昭洋のほうから視線を逸らした。
 肩から腕にかけて、そして背中も、槙瀬は丁寧にタオルで拭いてくれる。タオルの温かさと肌を撫でる優しい刺激、何より、体を預けてもびくともしない槙瀬の胸の感触が、麻薬めいて気持ちよかった。
 上半身すべてを拭いてから、新しいTシャツを着させてもらう。ずいぶんさっぱりしたが、昭洋としては、体から槙瀬の手が離れる瞬間の不安感のほうが大きかった。
「ズボンや下着は自分で――」
 槙瀬が布団から離れようとした瞬間、昭洋は反射的に槙瀬にすがろうとする。
「うっ」
 痛み止めが効いているせいもあり、怪我をしていることを忘れて左腕を思い切り動かしてしまう。瞬間、呻き声を洩らすほどの痛みが左腕に走った。
「昭洋っ……」
 すかさず槙瀬に抱き寄せられ、宥めるように肩や頭を撫でられる。
「大丈夫か? 油断して、腕を動かすな。傷口が開いたら大変だ」
「――どうして、ぼくを名前で呼ぶんですか」
 唐突な昭洋の問いかけに、槙瀬が表情を強張らせる。その表情の意味は、昭洋にはわからない。
「嫌じゃ、ないんです。むしろ、自然な感じがして、好きです。だけど……どうして、槙瀬さんはそんなふうにぼくを呼ぶのか、気になって」
「……ずっと調査していたから、知り合いのような気持ちになっているんだろうな。何より、君は若い。荒っぽい人生を送っていると、ずいぶん年下の人間を『くん』と付けて呼ぶのは、気恥ずかしいんだ」
 納得できるようなできないような、そんな説明だった。ただ、あまり追及して、槙瀬が名前で呼んでくれなくなるのも嫌なので、納得して頷いておく。
「さあ、まだ本調子じゃないんだから、横になったほうがいい」
 昭洋は首を横に振り、注意されたばかりなのにもかかわらず、左腕を動かす。槙瀬のシャツの胸元を握り締めた。
「槙瀬さんのせいで、甘え癖がつきました。あなたが、あんまり優しいから……」
 槙瀬は困ったような顔で笑った。思いがけず優しい表情で、昭洋の胸は締め付けられる。一瞬、切なくなるような懐かしさが胸を過った気がしたが、淡い余韻を残してすぐに消えてしまった。
「体が熱い。また熱が上がったんじゃないか」
  槙瀬の片手が背にかかり、さすられる。その感触に促されるように昭洋は、槙瀬の肩に顔を埋める。
 そんなことが起こるはずもないのだが、両腕でしっかり抱き締めてほしいと願ってしまう。槙瀬が優しいせいで、昭洋はどんどん貪欲になっていく自分を抑えきれない。
 自由に動く右腕を必死に槙瀬の背に回し、体温を求める。すると、背をさすっていた槙瀬の手の動きが止まった。体を押し戻されるかと覚悟したが、そうではなかった。
 何かを確かめるようにゆっくりと慎重に、槙瀬の両腕に抱き締められる。昭洋は目を見開き、間近から槙瀬の顔を見つめる。だが、見るな、という意味か、片手が頭にかかり、肩に引き寄せられた。再び、今度はしっかりと抱き締められる。
「槙瀬さん……」
 カッと昭洋の体はさらに熱くなる。きつく体に巻きつく力強い腕の感触が、快感だった。
 少しの間、槙瀬はただ昭洋を抱き締め続けた。息苦しくなるほどの抱擁に昭洋は酔い、わずかに息を喘がせる。
 昭洋の背を何度もてのひらで撫でてから、ようやく槙瀬が言った。
「――……大人の男の体だな。少し痩せているが、それでも、きちんと健やかに育っている」
 優しい声だった。胸に走った痛みに唇を噛んでから、昭洋は槙瀬の肩に額を擦りつける。
「健やかに育っていたら、男の愛人になったりしません……」
 どういう意味か、手荒く頭を撫でられる。その感触すら、昭洋には心地いい。
 もっと、と思ってしまう。もっと強く激しく、狂おしい感触を与えてほしいと、浅ましく渇望してしまう。
「なぜ、なったりした。高畠に気持ちがあるわけじゃないんだろう」
 昭洋は左腕も動かしてしがみつこうとしたが、それに気づいた槙瀬に止められ、代わって腰を引き寄せられることで、より二人は密着した。
「ふっ……」
 槙瀬の体温が熱くて、のぼせそうになる。それとも昭洋自身のせいなのか、判断がつかなくなるぐらい、二人の体温は混じり合っていた。
 このまま眠ってしまいそうだったが、槙瀬に軽く体を揺すられる。
「どうしてだ」
「……誰かに必要とされる実感が欲しかったんだと思います。体だけでも、仕事で利用されるだけにしても。ぼくは、自分に興味がありませんでした。親にも捨てられた存在だと知ってから、生きていくことにも興味がなかったんです。何もかも、どうでもよかった」
 ふいに槙瀬にあごを掴み上げられ、眼前に険しい目が迫ってくる。
「どうでもよかったから、身を差し出したのか」
 昭洋は視線を逸らしながらも、あごにかかる槙瀬の指の感触を意識していた。
「――よくも悪くも、高畠次長はぼくから、生きているという実感を引き出してくれるんです。空っぽだと思っていたぼくにも、きちんと欲情というものが存在すると、あの人が教えてくれた……」
「欲情、だけなのか? 君が生きていると実感できる感情は」
「他のものは、なくしてしまいました。教えてくれる人もいない」
 あごを掴んでいた槙瀬の指から力が抜ける。次の瞬間には、大きくごつごつとした両てのひらが、まるで壊れ物にでも触れるように昭洋の頬を包み込んできた。驚いた昭洋が目を見開くと、対照的に槙瀬は、痛みを感じたように目を細めた。
「槙瀬さん……」
 槙瀬は何も言わず、ただ昭洋の顔に触れてくる。武骨そうな指が思いがけず繊細に動き、顔の輪郭をなぞられ、耳も丹念に撫でられ、額の形を指先でたどられていく。目元に触れられたとき、反射的に目を閉じたが、そのまま開けられなくなった。
 まぶたに触れられたときは、薄い皮膚を通して槙瀬の体温が伝わってくる。いつの間にか昭洋の鼓動は高鳴り、呼吸が速くなる。
 鼻の形も確かめられ、唇を軽く擦られたときは、ズキリと胸の奥が疼いた。
 キスしたい、と痛切に思ったが、昭洋のその願いが叶えられることはなかった。再び槙瀬に抱き締められたからだ。
「――あまり、悲しいことを言うな。君が平気だとしても、俺が悲しいし、つらい」
「どうしてですか。……他人、なのに。それに、知り合ったばかりです」
「それでも、だ」
 これ以上のことは何も聞けない響きが、槙瀬の言葉にはあった。
 槙瀬の抱擁から突き放されるのが怖くて、昭洋は唇を引き結ぶ。今は槙瀬から多くの言葉を聞かされるより、ただ抱き締められるほうが嬉しかった。




 丸一日を寝て過ごすと、熱もめまいも治まり、部屋の中を歩き回れる程度には昭洋の体調は回復した。
 テーブルについた昭洋は、バターを塗って置かれたトーストを見つめながら、何度も切り出そうとして口ごもる。だが、どうしても臆してしまう。
 槙瀬と離れたくなかった。襲われて怖いからというのもあるが、何より、ただ純粋に、この居心地のいい部屋で、もっと槙瀬と一緒にいたかった。しかし、その希望を口にする権利は昭洋にはない。
 知り合ったばかりというだけでなく、槙瀬の仕事上、利害関係の生じる昭洋を自宅に匿ってくれただけでも感謝しなければならないのだ。本来なら昭洋から、この部屋を出ていくと言わなければならない。
 何度か唇を動かしかけたところで、正面のイスに腰掛けている槙瀬が、カップを置いてから言った。
「食わないのか」
「……食べます」
「昼メシは、好きなものを宅配で注文すればいい。夜は――外に食いに行こう。美味いものを食わせてやりたいが、あいにく俺は、まともなものが作れない」
 槙瀬の言葉に、ほんのわずかに安堵を覚える。今日中にここを出ていくよう言われるのではないかと、内心身構えていたのだ。
「欲しいものがあれば、今のうちに言ってくれ。帰りに買ってくる。あとで携帯に連絡をくれてもいい。――着替えは、数日分あれば、当分着回せるだろう」
 昭洋はハッとして顔を上げる。槙瀬は、カップの中をじっと見つめていた。
「槙瀬さん、それって……」
「いまさら君を放り出す気はない。面倒を見る気がないなら、君を病院に置いてくれば済む話だったからな」
「なら……、ぼくはここにいて、いいんですか?」
「君がいたいなら」
 一気に肩から力が抜けた。安堵した途端、目が熱くなり、慌てて手の甲で擦る。
「――……帰るって、自分から言わないといけないと思って……」
「だから食欲がなかったのか」
 涙を拭いながら頷くと、宥めているつもりなのか、槙瀬の手が頭にかかり、手荒い動作で撫でられる。
「余計なことは心配しなくていい。すべてが片付くまで、ここにいたらいいんだ」
 昭洋はコクコクと頷く。
「俺も仕事があるから、日中は相手をしてやれないけどな」
「……ぼくは、一人遊びもできない子供じゃないですよ」
 なんとか涙を止めようと努力しながら笑って言うと、槙瀬が複雑そうな表情のあと、自嘲気味な笑みを返す。
「そうだな、君は子供じゃない……」
 事務所に出かけると言って槙瀬が立ち上がり、昭洋は座ったまま見送る。槙瀬の見せた微妙な反応の意味を考えているうちに、立ち上がるタイミングを逃したのだ。
 慌ただしく槙瀬の姿は部屋から消え、外から鍵をかける音がする。
 一人になってしまった――。
 昭洋はため息をついてから、ガランとした部屋を見回す。槙瀬には、子供じゃない、などと言ったが、部屋に一人取り残されると、あっという間に寂しさに押し潰されそうになる。
 昨夜、ずっと抱き締めてくれていた槙瀬の感触が唐突に蘇り、昭洋はブルリと体を震わせる。身悶えそうな疼きが体の奥から生まれ、抑えきれなかった。
 熱は下がったはずなのに、熱っぽい吐息を洩らすと、右腕で自分の体を抱き締めるように回す。そうすると、何分の一かでも、槙瀬がくれた抱擁の感触を味わえるかと思ったのだ。だが、結局は空しい行為で、すぐにやめてしまう。
 早く帰ってきてくれないだろうかと、たった今、槙瀬が出かけたばかりだというのに、昭洋はそんなことを考えていた。


 片腕だけで出来ることはやっておこうと思い、洗濯と簡単な掃除を済ませたところで、昭洋は何もすることがなくなってしまう。
 自分が使わせてもらっている部屋に行き、槙瀬の本棚を眺めていたりしていたが、ふと、部屋の隅に置いた自分の着替えが目に入る。すべて、槙瀬が買ってくれたものだ。財布は持っているので、ATMで下ろして返すと言ったのだが、槙瀬は頑として聞き入れてくれない。病院で支払った治療費も、槙瀬が出してくれたままだ。
 部屋に置いてもらうだけでも面倒をかけているのに、金銭的な負担までかけるのは、正直心苦しかった。
 せめてお金だけでも下ろしてこようかと考えていたが、そのうち、だったら自宅に帰って必要最低限のものを持ってこようかという気になる。何回かは病院に通わなければいけないため、やはり保険証は必要だし、着替えも持ってきたほうがいい。
 槙瀬に言って、連れていってもらうのが一番いいのだが、きっと槙瀬は承諾しないだろう。それを許してくれるなら、最初から昭洋の部屋に連れて行ったはずだ。
 そうしないのは、危険だと感じているからだ。
 左腕に巻かれた包帯にそっと手をかけて、襲われたときの恐怖の思い返す。二度と、あんな思いはしたくなかった。本当は一人で外出するのも怖い。
 だが、槙瀬の負担になりたくないという思いも、急速に強くなっていく。
 さんざん考えた挙げ句、昭洋が出した結論は、とりあえずタクシーで出かけるというものだった。自宅マンションの周囲を走ってもらって、不審な様子がないようなら、タクシーに待ってもらった状態で部屋に行けばいい。あとは、必要なものを急いでバッグに詰め込み、またタクシーに乗り込んで立ち去る。
 尾行がついている想定もして、どこか適当なところでタクシーや電車を乗り継ぐのがいいだろう。絶対に、槙瀬のもとで世話になっていると知られてはいけない。
 考えをまとめてしまうと、行動に移すのは早かった。
 どうせタクシーで移動して、自宅で着替えを済ませればいいからと、昭洋はスウェットパンツにTシャツという格好のまま、ポケットに自宅の鍵と財布、携帯電話を突っ込む。
 念のため、テーブルの上に書き置きを残しておいた。
 部屋を出た昭洋は、一日中寝ていたせいで少し足が萎えているのを感じながらも、なるべく足早に歩き、マンションの前でタクシーを停めて乗り込む。
 ただこれだけの行動で、心臓が痛いほど鼓動が速くなっていた。途中、コンビニのATMで当面の生活費を下ろしてから、再びタクシーで移動する。
 何度か後ろを確認したが、同じ車があとをついてきている様子はなかった。
 自宅マンションが見えてくると、運転手に行って、速度を落としてマンション周辺を走ってもらう。昭洋は食い入るようにして、人影や、停まっている車の中の様子を確認する。昼間ということもあってか、あまり人気はなく、行き交うにしても、ごく普通に見える人たちだ。
 ようやく覚悟が決まった昭洋は、支払いを済ませてから、待っていてもらうよう運転手に頼んでタクシーを降りる。
 集合郵便受で郵便物を確認してから、辺りを警戒しつつエレベーターに乗り込み、自分の部屋がある階の一階下で降りる。
 できる限りの用心をして自分の部屋に入ったとき、昭洋の足元は極度の緊張のため、ガクガクと震えていた。
 鍵をかけてから思わず玄関に屈み込んだが、萎えた足を叱咤しながら、半ば這うようにして部屋に入る。
 昭洋の住むワンルームは、殺風景そのものだった。もともと物に執着がないうえに、趣味もないので、本当に必要なものだけを置いてあるという感じだ。
 クローゼットを開けてバッグを取り出すと、着替えを詰め込む。部屋を行き来し、他に必要なものを放り込んでいたが、スーツも一着だけ持っていこうと思い、再びクローゼットを覗き込む。
「――旅行にでも出かけるのか」
 突然、背後から思いがけない人物の声がして、昭洋は動きを止めた。動けなかったのだ。心臓を握り潰されそうな衝撃を受け、呼吸すら止まってしまいそうだ。それぐらい、驚いた。
「バッグにこんなに着替えを詰め込んで、よほど長期の旅行らしいな」
 揶揄するような、しかし隠し切れない冷ややかさと鋭さを持った声の主に、嫌というほど覚えがあった。
 手にしていたスーツを落とした昭洋は、恐怖に強張った体をなんとか動かして振り返る。いつからそこにいたのか、スーツ姿の高畠が立っていた。
 全身の血が凍りつきそうだった。昭洋は無意識のうちにクローゼットの中に逃げ込もうとしたが、その前に、大股で歩み寄ってきた高畠に肩を掴まれる。
「ど、して……」
 震えた声を洩らすと、高畠は手にした鍵を掲げて見せてくる。どうやら、昭洋の部屋の合鍵らしい。だが昭洋は、こんなものを高畠に渡した記憶はない。疑問が顔に出たらしく、高畠は薄い笑みを浮かべて答えた。
「お前の部屋の合鍵を作る機会なんて、いままで数え切れないぐらいあった。たまたま、使う機会がなかっただけだ」
 昭洋は肩にかかった手を払い除けようとしたが、笑みを消した高畠のもう片方の手に、今度は左腕を掴まれた。しかも、包帯の上から。
「うあっ」
 昭洋は苦痛の声を上げ、必死に身を捩ろうとしたが、それが高畠の加虐性を刺激したらしく、さらに力が加えられる。
「や、め……。あっ、あっ、いやあっ」
 鋭い痛みが左腕に走り、めまいがする。縫ったばかりの怪我なので、当然傷口は塞がっていない。高畠の乱暴な行為は、傷口を指で押し開こうとしているようなものだった。
 片手で必死に動かして抵抗していた昭洋の視界に、じわじわと赤く染まっていく包帯が飛び込んでくる。赤い色彩を見た途端、体から力が抜けた。痛みも気力も、あっという間に限界を迎えようとしていた。
 それぐらい、高畠の今の存在感は圧倒的で、不気味だ。
「――襲われてから今日まで、槙瀬という男に匿われていたんだな。……たっぷり抱いてもらったか? お前はあの男に抱かれたがっていたからな」
 高畠は昭洋の返事など求めていなかった。質問しながら、ただ左腕の傷に力を加えてくる。傷口が開くどころか、腕の骨そのものがどうにかなってしまいそうだ。
 痛みに喘ぐ昭洋の唇に、高畠の唇が押し当てられる。手荒な行為とは裏腹に、そのキスだけは、ひどく優しい。
「お前が誰のものなのか、今から教えてやる」
 紳士的なのに残酷な囁きが、抵抗する気力すらも昭洋から奪い去った。




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