心地の良い場所 −ZERO− 
9。 



 高畠に引きずられてベッドに突き飛ばされても、昭洋は反応できなかった。ただ目を見開き、ジャケットを脱ぎ捨ててのしかかってくる男を見上げることしかできない。恐怖と痛みで、体の自由を奪われていた。
「うっ、あ……」
  首筋に顔が埋められ、熱い息遣いが肌にかかる。この瞬間、生理的な嫌悪感から、鳥肌が立っていた。全身が、全神経が、高畠を拒絶しようとしているのだ。
「タクシーなら、行ってもらった。これで安心して、楽しめるだろう」
  Tシャツがたくし上げられて脇腹を撫で上げられる。抵抗できないまま昭洋が体を強張らせているのをいいことに、高畠はスウェットパンツに手をかけ、下着ごと引き下ろしてしまう。しかし下肢を剥き出しにされても、昭洋は羞恥を感じる余裕すらなかった。
  体を検分するように高畠に両足を立てて開かされ、内腿に指先が這わされる。肌に残っている愛撫の痕跡を探しているのだとわかり、ゾッとする。
  本能的に腰を捩ろうとしたが、わずかな抵抗すら許さない容赦のなさで、高畠に敏感なものを掴まれていた。
  鋭く息を吐き出した昭洋は、掴まれたものを擦られることで這い上がってくる感覚に、心底吐き気を覚える。高畠が触れている部分から毒が染み渡り、体を汚染されていくようだ。
「……やめ、て、ください……。もう、こんなのは、嫌です」
「わたしは嫌じゃない」
  思わず高畠を睨みつけると、薄い笑みで返された挙げ句に、あごを掴み上げられて唇を塞がれる。高畠の手が、包帯から滲み出た昭洋自身の血で汚れており、昭洋のあごにもべたつく不快な感触が残る。
  口腔内を、深く差し込まれた舌で舐め回されながら、掴まれたものを絶えず刺激される。心は高畠を拒絶していても、体は忌々しいほど高畠の愛撫に慣れ親しんでいる。恐怖に強張っているはずの体の奥から、熱い感覚が込み上げてきた。
「ひいっ」
  再び左腕を掴まれ、痛みに悲鳴を上げる。
「お前のために、ホテルの部屋を取ってある。そこに連れていく前に、医者にも見せてやる。切りつけられて、縫ったんだろう? この様子だと、また縫い直さないといけないかもな」
  切りつけられたことをどうして高畠が知っているのかと、痛みに喘ぎながら視線を向ける。昭洋の言いたいことを察したらしく、高畠は悪びれたふうもなく答えた。
「言っておくが、お前を傷つけるようけしかけたのは、俺じゃない。専務派の誰かが、脅しのつもりで人を使ったんだ。俺もあとで聞かされた。……これでも、そのときは逆上したんだぞ? お前を傷つけるのは、誰であろうが許せない」
「……あなた以外の人間が傷つけるのは、でしょう」
  返事のつもりか、また傷口を押さえつけられ、昭洋は呻き声を洩らす。必死に右手で高畠の顔を殴りつけようとしたが、その手を掴まれて、容赦なく捻り上げられた。
「うああっ」
  手首の骨がどうにかなったのではないかという痛みが、昭洋を襲う。右手が痛みで痺れてしまい、力が入らなくなった。
  目を見開いて声を上げる昭洋にかまわず、高畠は愛撫を再開する。Tシャツを押し上げて露わになった胸元に唇を押し当てながら、あくまで優しく、昭洋のものをてのひらで擦り上げるのだ。
  痛みと嫌悪に苛まれ、昭洋の目から涙が溢れ出る。
「助け、て……。槙瀬さん、助けて――……」
  うわごとのように何度もそう口にしていると、高畠が無表情で昭洋を見下ろしてくる。左腕を掴んで指先に血をつけると、その指先で昭洋の唇を擦ってきた。
「――お前は一度でも、そんな声でわたしを呼んでくれたことはないな」
  両手を動かせない昭洋は、今自分にできる精一杯の攻撃を高畠に与えた。
  必死に高畠を睨みつけ、こう言い放ったのだ。
「ぼくの中で、あなたと槙瀬さんが同じ位置にいるはずがないでしょう」
  この瞬間、高畠の目に激情が走り、頬を平手で殴られた。意識が吹っ飛びそうな衝撃に目がくらみ、霞む視界で高畠を見上げ続ける。
  この状況で昭洋は、不思議な感覚に囚われていた。昭洋が知っている高畠は常に悠然としてクールで、皮肉屋だ。感情的に手を上げる片鱗など、少なくとも昭洋の前で見せたことはなかった。
  漠然と、今の高畠は必死なのだと思った。必死に昭洋を屈服させ、連れ去ろうとしているのだ。
  こんな男でも、必死になることがあるのだ。しかも、自分などのために。
  ぼんやりとした意識で昭洋は、高畠に対して奇妙な感情が湧き起こりつつあるのを感じていた。その感情がなんであるか理解する前に、もう一度殴られる。
  高畠の激しさに殺されるかもしれないと、刹那の恐怖に襲われた次の瞬間、状況が一変した。昭洋の上から、ふっと高畠の重みがなくなる。次の瞬間、床に何かを叩きつけたような大きく鈍い音がした。
  昭洋は天井を見上げたまま動けず、何が起こったのか理解できない。それでも耳には、慌ただしい物音と、低く抑えた声が届いた。
「――昭洋に、二度と近づくな」
  槙瀬の声だとわかり、ハッとして目を見開く。このとき、目に溜まっていた涙がこめかみを伝い落ちた。
  殴られた衝撃が去っていないため体を起こすことができず、懸命に頭だけを動かす。
  槙瀬が、倒れ込んだ高畠の上に馬乗りになり、襟元を掴み上げていた。猛々しくも荒々しくもないが、槙瀬から漂う凄みのような鋭い殺気は、空気を通して伝わってくる。触れれば切れそうな刃そのものだと思った。
  怖さか、それ以外のものを感じたからか、ゾクリと身震いをした昭洋は、自分の体の異変に気づいた。高畠の愛撫によって引きずり出されかけていた熱い感覚が、槙瀬の殺気を感じたことによって完全に呼び覚まされたのだ。
  狂おしい、欲望という感覚だ。
  昭洋の異変に気づくはずもなく、男二人は体勢的に決着がついているにもかかわらず、対峙し合っていた。床に体を押し付けられ、襟元だけを掴み上げられた高畠が、唇を歪めるようにして笑う。
「昭洋、か……。どうやって手なずけたのか、教えてほしいものだな。俺がどれだけ時間をかけて、手間もかけてやっても、少しも懐かなかったというのに、あんたは短期間で、昭洋の心を手に入れた」
「懐かせたい相手を痛めつけるのが、お前の趣味か。――それで理由は明白だろう」
  高畠が槙瀬を殴りつけようとしたが、槙瀬は容赦なかった。眉一つ動かさず、さらに襟首を掴み上げたかと思うと、浮かせた高畠の頭を床に打ちつけた。
「俺に引きずり出されたいか、自分の足で出ていきたいか、選べ。一分だけ待ってやる」
  そう言って槙瀬が高畠の上から退き、少しの間を置いてから、高畠が緩慢な動作で起き上がる。軽く頭を振ってからこちらを見たが、ベッドの上に横たわったまま、昭洋はただぼんやりと見つめ返していた。どういう顔をすればいいのかわからなかったのだ。
  高畠は激情が去ったのか、唇の端を動かして皮肉っぽい笑みを浮かべると、ふらつきながらも自分の足で立ち、壁に手をつきながらゆっくりと部屋を出ていった。すぐに槙瀬があとに続き、ドアの鍵をかける音がした。
  自分の身に一体何が起こったのか、現実味が乏しかった。そのくせ体から発する痛みは、現実を嫌というほど突きつけてくる。
  昭洋の腰から下にタオルケットをかけて、ベッドに腰掛けた槙瀬が顔を覗き込んでくる。まだ殺気立っているらしく、いつになく眼差しが険しい。
「――……ひどくやられたな」
  そんな言葉をかけられた途端、また涙が溢れ出してくる。
  槙瀬は涙を拭ってくれてから、殴られた頬にてのひらを押し当て、血で濡れた包帯にも触れ、不自然に投げ出したままの右手の指を軽く握ってきた。
「顔は……殴られたんだな。右手首もどうしたんだ。赤くなっている。それに、腫れてきているぞ」
  答えようと昭洋は唇を動かしたが、なかなか声が出ない。すると槙瀬の指が唇に触れてきた。高畠が唇に擦りつけた血が気になったのだ。
「この血は、殴られて唇を切った……いや、腕の血か。――胸糞の悪くなることをする男だ」
  少し待つよう言って、槙瀬が立ち上がる。戻ってきたとき、手には濡らしたタオルがあった。そのタオルで唇やあごを拭われてから、殴られた頬に押し当てられる。
「嫌な胸騒ぎがしたんだ。それで部屋に戻ってみたら、君の姿がなくて、置き手紙があった。……急いで駆けつけてよかった」
  それを聞いた昭洋の目からまた涙が溢れ出る。
「ごめ……ん、なさい……。ごめんなさい。……槙瀬さんに、迷惑をかけたくなかったんです。少しでも、自分でできることを、やりたくて」
「気にかける必要はなかったんだ。俺は、君が誰かに傷つけられるほうが、よっぽどつらい」
  可哀想に、と言って髪を撫でられる。この瞬間、昭洋の背筋に強烈な疼きが駆け抜けた。高畠に痛めつけられた体が、槙瀬に対しては快感を求めようとしているのだ。
  自覚はなかったが、昭洋の体は高畠によって開発されている。何も知らなかった体に、さまざまな快感を教え込んだのは他でもない、高畠だ。だからこそあの男は、我が物顔で昭洋を貪ろうとする。
  その高畠を拒絶したら、誰が自分に快感を与えてくれるのか――。
  まばたきも忘れて考え込む昭洋を不審に感じたのか、槙瀬が顔を覗き込んできた。
「どうした?」
  ハッとした昭洋は、浅ましい欲望を抱えた自分を恥じ、懸命に体を横向きにする。痛みで両手に力が入らないため、肘で支えながら起き上がろうとしたのだが、高畠に暴力を振るわれたショックか、そもそも体に力が入らない。そんな昭洋を落ち着かせるように、槙瀬に背をさすられる。
「痛いだろうけど、もう少し我慢してくれ。すぐに病院に連れて行ってやる。腕の傷も開いたみたいだし、手首のほうも、骨は折れてないようだが、ひどく捻られたみたいだ」
  槙瀬の言葉どおり、昭洋の右手首は急速に熱を持ち、腫れてきている。指先までズギスキと痛んでいた。
  昭洋を抱き起こそうと、槙瀬の腕が肩に回される。すぐに昭洋は身を捩って抵抗した。
「昭洋……」
  槙瀬はもう、昭洋を名前で呼ぶことにためらいを覚えてないようだった。だからこそ昭洋は、心苦しさを覚える。
「――……ぼくのことは、置いていってください」
「おい、一体どうした?」
  少し手荒く頭を撫でて、槙瀬が顔を寄せてくる。鋭い目を見つめ返すことができず、咄嗟に視線を伏せていた。
「今は、槙瀬さんと一緒にいられ、ません……」
「あの男とのことなら、いまさら俺に隠し立てする必要はないだろう」
「……違うんです。そうじゃないんです――」
  違うんです、ともう一度呟いたところで、昭洋の目から涙がこぼれ落ちる。その涙を指先で拭われ、頭を引き寄せられた。
「教えてくれ。どうしたんだ?」
  昭洋は、槙瀬の肩に額をすり寄せてから、どんどん高まっていく欲情に音を上げた。あまりに槙瀬が優しいからだ。
「苦しい、です。……とても、苦しい」
「高畠に殴られて――」
「そうじゃ、なくて……」
  羞恥のあまり、このまま消えてしまいそうだった。だが、槙瀬の感触から離れられる勇気は、今の昭洋にはない。
  まだ指先に感覚がある左手を自分の下肢に伸ばそうとして、腕に走った痛みに悲鳴を上げる。槙瀬が体を離して、ようやく状況を理解したように目を見開いた。
  槙瀬の視線から逃れるように、昭洋は痛みを堪えて背を向ける。
「……高畠さんに、ぼくたちはよく似ている人間だと言われたことがあります。今なら、わかる気がします。あの人は、見えない底に堕ちた人間で、ぼくもきっと、あの人と同じ場所に堕ちた人間なんです。だからこんなに……浅ましい」
「昭洋、こっちを見ろ」
  少し厳しい口調で槙瀬に言われたが、昭洋は頑是ない子供のように首を横に振る。
「行ってくださいっ……。こんなところ、あなたに見られたくない……」
  抱き上げられそうになっても、痛む腕を振り上げて抵抗する。シーツにしがみつくと、槙瀬の手が一度体から離れた。
  肩を震わせて嗚咽を洩らすと、背後でベッドが大きく揺れる。背に槙瀬の気配を感じ、次の瞬間には、昭洋の体は仰向けに押さえつけられた。
  苦しげな顔をした槙瀬が覆い被さってきて、まるで贖罪するような口調で言われた。
「――だったら俺は、高畠や君より、さらに深い場所に堕ちた人間だな」
「槙瀬さん……」
  どういう意味か問おうとした瞬間、昭洋は目を見開く。腰にかけられたタオルケットの下に槙瀬の手が入り込み、昭洋のものは大きなてのひらに包まれた。
「うっ」
  頭で何かを考えるより先に、体が与えられた感触に反応してしまう。低く声を洩らした昭洋は、ビクビクと体を震わせて首をすくめる。同時に、シーツの上に爪先を滑らせていた。
「あっ、あっ……」
  ゆっくりと槙瀬の手が動き、昭洋のものは優しく擦り上げられる。状況がまだ呑み込めないまま背を反らし、息を吐き出すと、腰から覚えのある快感が一気に這い上がってきた。
  反射的に右腕を伸ばして槙瀬にすがりつこうとしたが、ジャケットに手をかけた途端、ズキリと手首に痛みが走る。
「手を動かすな。楽にして、任せていればいい」
「やっ――……」
  腰を捩って槙瀬の手から逃れようとしたが、もう片方の手であごを掴まれ、真上から顔を覗き込まれる。槙瀬は厳しい表情を浮かべているが、対照的に、昭洋のものに加えられる愛撫は優しい。
  昭洋は小さく首を横に振る。
「やめて、ください……。槙瀬さんに、こんなこと――手が、汚れます」
「逆だな。むしろ俺が、君を汚している」
  その言葉に、ズキリと胸に狂おしい疼きが生まれた。抗いきれない、槙瀬に対する強い渇望と、与えられる感触に対する切望だ。何より、槙瀬自身に対する強い欲望も。
  くすぐるように感じやすい先端を撫でられ、息を詰めて喉を反らす。再び爪先をシーツの上に滑らせてから、両足に力が入らなくなった。
  丹念に擦り上げられた昭洋のものは、もう誤魔化しようがないほど身を起こしてしなり始める。括れを指で締め付けられて、昭洋は熱い吐息をこぼした。
「は、あぁ――」
  痛みで気を散らしたくないため、シーツすら握り締められない。もどかしさに腰を揺らすと、宥めるように槙瀬の片手に頬を撫でられる。小さく鳴き声を洩らしてから、昭洋はてのひらに自分から頬をすり寄せた。
「ど、して、こんなことまで、してくれるんですか……」
  喘ぎながら昭洋が問いかけると、槙瀬は苦しげに目を細める。
「……放っておけないからだ」
「誰に対しても、こんなに優しいんですか……」
「俺は優しくない。なのに優しいというなら、君に対してだけだろうな。特別なんだ」
  撫でられ続ける先端が濡れ始める感触があった。昭洋の体は、混乱しながらも歓喜していた。槙瀬に触れられることに。槙瀬が特別だと言ってくれたことに。
  昭洋の心がふっと緩む。槙瀬の優しさに甘え、思わずこうせがんでいた。
「――……キス、してください」
  一瞬、槙瀬の愛撫の手が止まりかけたが、何事もなかったように動きが再開される。その一方で、槙瀬は首を横に振った。
「それは、ダメだ」
  昭洋は唇を引き結び、傷ついた目で槙瀬を見上げる。自分でも薄々とながら、槙瀬が昭洋を傷つけまいと振る舞ってくれているのだと察し始めていた。槙瀬はまるで、宝物のように昭洋を扱ってくれる。
  それなのに今、こうしてくれているのは、昭洋が望むからだ。昭洋が望めば、槙瀬は応えざるをえないのだ。
  どういう理由からかはわからないが――。
「……キス、したいです……」
「昭洋」
  聞き分けの悪い子供を諭すように槙瀬に呼ばれる。昭洋は血の滲みが大きくなっている左腕の包帯に、痛む右手をかけた。包帯を外すため左腕を掻き毟ろうしたが、すかさず槙瀬に右手を握られ、シーツの上に押し付けられた。思ったとおり、昭洋が傷つくことを、槙瀬はよしとしない。例え、子供が癇癪を起こしたように、昭洋が自分を傷つけようとしても。
  怖い目をした槙瀬の顔が近づき、唇が重ねられる。ゾクリと背筋に痺れるような快感が駆け抜け、小さく呻き声を洩らしていた。
  槙瀬の愛撫の手が動きを速め、喘ぐ昭洋の唇は柔らかく吸い上げられる。
「くうっ……ん」
  思わず槙瀬の手を握り返した次の瞬間、昭洋は槙瀬のてのひらの中で達していた。


  槙瀬と知り合ってから、自分は得体の知れない生き物に変わってしまったのかもしれない。
  布団の上に座り込んだ昭洋は、ぼんやりとそんなことを考えていた。体のあちこちが痛く、殴られた頬は少し腫れて熱をもっている。痛みのせいで、意識はどこまでも散漫だ。
  視線を落とせば、ひどい有様だった。Tシャツの裾から出ている左腕には新しい包帯が分厚く巻かれている。高畠が容赦なく力を加えてきたことを物語るように傷口が開いたため、また縫い直した。
  そして右手首にも、湿布の上からしっかり包帯が巻かれて固定されている。高畠に捻られたとき、捻挫したのだ。
  あまりに昭洋がボロボロなので、ケンカに巻き込まれたという言い訳は、かえって医者に対して信憑性があったかもしれない。もちろん、その言い訳を告げてくれたのは、付き添っていた槙瀬だ。昭洋は、到底口がきける状態ではなかった。
  どんどん槙瀬に依存していく自分が怖かった。槙瀬の側は麻薬めいた心地よさがあり、そのうえ、誰よりも昭洋を大事にしてくれるのだ。
  だからこそ、なぜ他人の昭洋に対してここまでしてくれるのか、という理由がどうでもよくなってくる。
「――横になったらどうだ」
  ふいに声をかけられ、昭洋は緩慢な仕草で顔を上げる。いつの間にか槙瀬が、ダイニングに通じるドアを開けて立っていた。
  昭洋はぎこちなく笑みを浮かべると、首を横に振る。
「疲れているけど、気が高ぶって、横になれる心境じゃないんです。……半日で、いろいろありすぎて……」
「そうか。……そうだな」
  槙瀬の姿が一度消えたが、少ししてコーヒーの香りが漂ってくる。思ったとおり、カップを手にした槙瀬が再び姿を見せ、差し出してくる。ミルクのたっぷり入ったカフェオレだった。
「飲むのに難儀しないよう、ぬるめにしておいた」
  槙瀬の言葉にちらりと笑って返した昭洋は、左右の手を見比べてから、左手でカップを受け取る。手首を痛めたせいで、右手は少し動かすだけでズキリと痛むのだ。
  ぎこちなくカップに口をつけると、傍らに座った槙瀬にさらりと髪を掻き上げられる。
「……顔、腫れているな」
「誰かに殴られたのは、初めてです」
「あの男は暴力を振るうタイプには見えなかったが、こういう仕事を何年もしていても、人の本性を見破るのは難しいと思い知らされる」
  ベッドに昭洋を押さえつけ、顔を殴ってきた高畠の様子を思い返す。激情に駆られた高畠の姿を初めて見たとき、自分の中で湧き起こった不思議な感覚はなんだったのだろうかと考えてみるが、もうその感覚は、曖昧な余韻すら残っていない。
「あの人――高畠さんは、いままでぼくに手を上げたことはなかったんです。皮肉屋ではあったけど、少なくとも暴力的な人じゃなかった」
  返事の代わりに槙瀬は、頭を撫でてくれた。
「ぼくのことより、槙瀬さんにまた、仕事を休ませてしまいましたね」
「仕事はフォローがきくが、君に何かあったら、取り返しがつかない。気にするな」
  それより、と言葉が続けられる。
「今日のことでわかっただろう。会社を件が片付くまで、自分の部屋の回りはうろつくな。用があるときは、俺もつき合う」
「……はい」
「よし、いい子だ」
  槙瀬のその言い方が、昭洋の心をくすぐったい。ほっとして表情を和らげると、槙瀬もわずかに目元を和らげる。
  このときの二人の間には、つい数時間ほど前の、後ろめたくて艶かしい行為を匂わせるものはない。意図して、自然なふうを装っているのかもしれない。少なくとも槙瀬はそう見えた。ただ、昭洋は――。
  カップを畳の上に置くと、頭に置かれた槙瀬の手を握る。まだうまく力が入らないため、抜こうと思えば簡単に手を抜き取ることができるのに、槙瀬はそうしなかった。
「――……『君』はやめてください。『昭洋』でも、『お前』でも、そんなふうに呼んでください」
「昭洋……」
「そう呼ばれるのが、一番いいですね」
  取った槙瀬のてのひらに頬を押し当てる。これは依存というより、槙瀬に甘えているのだ。あまりしつこくすると嫌われるとわかっていながら、それでも昭洋は自分に歯止めがかけられない。自分に与えられる感触が確かなものか、何度でも確かめたくなる。
「俺の頼みを聞いてくれるか?」
  ふいに槙瀬に切り出されて昭洋が目を丸くすると、真剣な顔をして、槙瀬の両手に頬を包み込まれた。
「会社にはもう行くな。……いろいろと手続きがあるだろうが、必要な手続きは出来る限り、こちらでする」
  昭洋は無意識に、左腕にてのひらを押し当てる。高畠が言っていた言葉を思い出したのだ。左腕を傷つけたのは、専務派の誰かから依頼された人間だ。つまり、昭洋に傷をつけることをためらっていないという証拠だ。
「……わかっています」
「それともう一つ、こちらのほうが重要だ」
  槙瀬の視線が、右手首に向けられる。
「――高畠と手を切れ」
  昭洋はビクリと肩を揺らしてから、唇を震わせる。槙瀬の口から高畠のことが出るたびに、身を切りつけられるような罪悪感を覚える。
「会社は、君が抱えた機密の漏洩を恐れているが、ただそれだけとも言える。機密を無効化する手段を取れば、君に手を出すことはない。だが、高畠は違う。塚本昭洋という人間そのものに執着している。そういう人間を相手にするほうが厄介だ」
  このときなぜか、昭洋の心は葛藤に晒されていた。高畠との関係を断ち切るという選択に、動揺したのだ。昭洋に、よくも悪くも人間らしさを吹き込んでくれた男だ。なんのためらいも覚えないわけではない。
「昭洋」
  返事を促すように槙瀬に呼ばれ、昭洋はおずおずと答えた。
「槙瀬さんが……、ぼくの側にいてくれるなら」
「側にいるだけなら、いくらでも」
「その言い方は、卑怯です。ぼくが何を望むか、わかっているんでしょう?」
  強い視線を向けると、槙瀬はじっと見つめてきてから、自嘲気味な、だけどひどく優しい表情を浮かべた。その表情を目にした昭洋は、自分が今、槙瀬を困らせているのだと強く実感する。だからこそ、槙瀬の中の自分の存在感について推し量ることができる。
「……困らせているのはわかっているんです。だけど、槙瀬さんが優しいから、ぼくはどんどん甘えてしまう。嫌なら、拒絶してくれてもいいんです」
  卑怯なのは、昭洋のほうだ。こんな言い方をして、槙瀬がそうできるはずもない。
  昭洋の必死な眼差しに応えるように、何度も槙瀬に頬を撫でられた。
「――情が強いな、君は。俺が知っている人間によく似ている」
  なんだか槙瀬が寂しそうに見えて、今度は昭洋が左手で槙瀬の頬に触れる。あまり動かすなと言いたげに、槙瀬の手がそっと左腕にかかったが、首を横に振って拒む。
「その人は、槙瀬さんの大事な人ですか……?」
「大事な人だった、だな。……結局、一度も大事にしてやれなかった」
  嫉妬と、微かな優越感が湧き起こった。少なくとも今、槙瀬に大事にしてもらっているのは、昭洋だ。
  昭洋は膝立ちとなって槙瀬の前に回り込むと、間近に顔を寄せる。
「ぼくは、槙瀬さんと出会えてよかったです。知り合ったばかりなのに、大事にしてもらっているんですから」
「どうだろうな……。そう、単純なものじゃない。俺はきっと、今こうしながら、君を――昭洋を傷つけている」
  そんなことないです、と囁いてから、昭洋は槙瀬の唇に自分の唇を押し当てる。槙瀬は軽く昭洋の肩を押し返そうとしたが、次の瞬間には腰に手がかかり、引き寄せられた。
  昭洋はゆっくりと槙瀬にもたれかかり、そのまま二人は布団の上に倒れ込んだ。




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