昭洋の体を受け止めながら、槙瀬はわずかに目を細めて頭や背を撫でてくる。優しい感触に切なくなり、昭洋は槙瀬にしがみつきたくなったが、その気配を察したように窘められた。
「手を動かすな。怪我の治りが遅くなる」
「だったら――」
　昭洋は頭を上げると、槙瀬の顔を覗き込む。布団の上に仰向けになったまま、槙瀬はじっと昭洋を見上げていた。そんなに槙瀬の頬に、昭洋はそっと自分の頬をすり寄せる。
「……もっとキスしてください。さっきよりも、ずっと深いキスを」
「今日は何も考えずに休め。また熱が出る――というより、もう体が熱い。無理はするな」
　ポンポンと軽く頭を叩かれて、子供扱いされていると感じた。それがむしょうに腹立たしくて、昭洋は強引に、槙瀬の唇に自分の唇を押し当てる。しかし、両頬に大きな手がかかり、唇は引き離された。
　 槙瀬は少し怒ったような顔をしていた。一方の昭洋も、激しい眼差しを向ける。
　 今の自分は精神的にひどく不安定になっていると、自覚はあった。感情をコントロールできないのだ。まるで幼い子供のように、ストレートな感情を槙瀬にぶつけてしまう。
　 いままで、こんなことはなかった。常に抑圧的であろうとしてきたし、また、感情をぶつける相手が昭洋にはいなかった。だからこそ槙瀬の優しさは、昭洋の感情の箍を簡単に弾き飛ばしてしまう。
　 槙瀬なら、どんな自分であろうが受け止めてくれると、確信にも似たものがあるからだ。
「やっぱり、ぼくが……男の愛人なんてしていたから、汚いと思っているんでしょう？　そうですよね……。普通なら、男が男に触れようなんてすら、思わないのに。そのうえぼくは、平気で男に抱かれていた」
「……そういうことじゃないんだ。汚いとかきれいとか、汚れているとかいないとか、そういうことは関係ない。そもそも俺に、そんなものを判断する資格はない」
「だったらぼくが――嫌いですか？」
　 消えそうな声で問いかけると、槙瀬は衝撃を受けたように目を見開いたあと、昭洋の頭を抱き寄せてくれた。
「それは、絶対にない。今、俺にとって一番大事なのは、塚本昭洋という存在だ」
　 槙瀬はさらに何か言ったが、独り言のような言葉を聞き取ることはできなかった。
「理由が言えないなら、ぼくが望むことをしてください。ぼくは――槙瀬さんに触れてもらいたいんです」
　 槙瀬の逃げ道を塞いでいるようだと思った。こうやって言葉を重ねながら、槙瀬が行動を起こさざるをえない状況を作り上げている。
　 自分はこんなに賢しいことができる人間だったのかと、昭洋は自分の新たな一面に驚いてもいた。それもこれも、槙瀬の感触が欲しいからだ。
　 だからこそ、槙瀬に自分を受け入れてほしかった。ようやく、硬い殻で自らを覆うことをやめた、脆い自分を――。
　 必死に槙瀬の顔を覗き込んだ次の瞬間、昭洋はきつく抱き締められてから、体の位置が入れ替えられる。気がついたときには、昭洋が布団の上に横たわり、槙瀬を見上げる格好となっていた。
「槙瀬さん……」
「手は無闇に動かすな。また、病院に連れて行って、下手な言い訳をするのは嫌だからな」
　 槙瀬の言葉に、思わず笑みをこぼす。すると、昭洋のその笑みに誘われたように槙瀬の顔が近づいてきて、唇に息遣いが触れた。それだけで昭洋の全身に、ゾクゾクするような歓喜が駆け巡る。
「約束してくれ。勝手に一人でこの部屋から出ないと。動くときは、俺と一緒だ。『お前』を守るのは、俺の役目だ」
「……はい、と言ったら、ぼくに触れてくれますか？」
　 返事は、キスだった。
　 深く唇を塞がれたかと思うと、次の瞬間には、きつく吸われる。昭洋は喉の奥で小さく声を洩らすと、自ら求めるように唇を開き、槙瀬を迎え入れた。
　 涙ぐむほど槙瀬とのキスは気持ちよかった。口腔の感じやすい粘膜を丹念にまさぐられ、唾液を交わす。興奮のままに舌を絡め始めると、咄嗟に槙瀬にしがみつきそうになったが、そんな昭洋を宥めるように、槙瀬に髪を手荒く撫でられる。
「もっと、触ってください。たくさん、ぼくに――」
　 キスの合間に訴えると、槙瀬の手にＴシャツをたくし上げられ素肌に触れられる。一瞬体に走った電流のような痺れに体を震わせ、昭洋は小さく喘いでいた。
「大丈夫か？」
　 槙瀬の問いかけられて頷くと、さらにＴシャツが押し上げられて、胸元を露わにされる。
　 丹念に慈しむように、乾いた感触を持つてのひらが肌に這わされ、くすぐったいような心地よさに、昭洋は軽く身を捩る。
　 もっとはっきりとした快感が欲しいとも思うが、反面、ぬるま湯に浸ったようなこの心地よさも手放しがたい。
　 昭洋が顔を向けると、求めがわかったように槙瀬にキスを与えられる。
　 今この瞬間は――、ようやく槙瀬から与えられたこのキスの感触と、優しく肌を撫でるてのひらの感触だけで満足できるかもしれない。
　 頭を抱き寄せられ、吐息を洩らした昭洋は槙瀬の肩に額を押し当てる。
「眠いんだろう」
　 笑いを含んだ声で槙瀬に指摘され、つい昭洋も笑ってしまう。
「今日は……疲れました」
「もう休め。――時間はいくらでもあるんだから」
　 槙瀬の言うとおりだった。焦らなくても、槙瀬は側にいてくれる。そしてきっと、昭洋が望むものを与えてくれる。それがわかっただけでも、今日は満足しておくべきなのかもしれない。
　 急速に思考の動きが緩慢になってくる。一気に燃え上がった情欲が、今度は一気に冷めてきた。代わって体を満たすのは、眠気を誘う穏やかさだ。
「……ぼくの側に、いてくださいね」
　 昭洋の呟きに、槙瀬は短く応じてくれた。
「ああ」




　 このときの出来事は、二人の関係を決定的に変えた。
　 おそらく初めて会ったときから、昭洋と槙瀬は互いに、庇護される者と庇護する者という役割を与え合っていたのだ。そしてそこに、昭洋から槙瀬への、否定できない欲情が介在するようになった。
　 ただ、槙瀬のほうは――。
　 右手を慎重に動かすと、痺れるような痛みがじんわりと手首に伝わってはくるものの、なんとか力は入る。一方の左腕の傷も順調に塞がりつつあった。
　 治療を終え、ジャケットを手に診察室から出た昭洋が待合室に戻ると、他の患者たちに交じり、槙瀬の姿があった。昭洋の姿を見て、すぐに立ち上がる。
「どうだった？」
　 槙瀬に問われ、昭洋は右手を差し出して見せた。こちらはもう、湿布を貼っておらず、見た限りでは普通の状態と変わらない。
「右手のほうは、無理に動かさない限りはもう大丈夫だそうです。左腕のほうは、次に診察に来たときに、抜糸すると言われました」
「傷口も落ち着いてきたということか。だからといって、調子に乗って動かすなよ」
「はしゃいで手を動かすほど、ぼくは子供じゃありませんよ」
　 昭洋は笑って応じたが、槙瀬は物言いたげな顔をしたあと、厳しい横顔を見せた。その表情の意味を、まだ警戒しているせいだと昭洋は理解する。
　 高畠に襲われかけてから、昭洋は決して一人で槙瀬の部屋を出ないようにしているし、槙瀬もまた、昭洋を一人で出歩かせようとはしない。こうして病院に来るときも、わざわざ仕事を抜け出して付き添ってくれる。
　 会計を終えてから、駐車場に向かいながら昭洋は、ちらりと槙瀬を盗み見る。このあと、昭洋をマンションまで送って、槙瀬は事務所に戻るだろう。そうなると、昭洋は夜まで一人きりだ。
　 この先の一人の時間を思うと、ひどく寂しかった。槙瀬があまりに優しいので、他人からそうされることに免疫のない昭洋は、簡単に甘え癖がついてしまったようだ。
　 槙瀬に言葉をかけてもらい、眼差しを向けられないと、安心できない。一方で、もっと一緒にいたいとわがままを言って、嫌われたくもないのだ。
　 わざわざ助手席のドアを開けてくれた槙瀬が振り返る。沈んだ表情を見られたのではないかと焦った昭洋は、ぎこちなく笑いかけてから車に乗り込もうとする。
「……書類仕事が溜まってるんだが――」
　 急に槙瀬に話しかけられ、動きを止めた昭洋は首を傾げる。
「はい？」
「夕方まで、事務所でバイトをしないか。俺は書類を作るのが苦手なんだ。だから、手伝ってもらうと助かる」
　 槙瀬の言葉を理解して、思わず笑みがこぼれる。
「事務所に行っていいんですか？」
「どうせ外に出してやれないんだから、家も事務所も変わらないだろうがな」
　 昭洋は首を横に振ると、車に乗り込む。
　 途中のコンビニで昼食を買い込み、二人は事務所に移動した。
「今日は、誰もいないんですね」
　 促されるままソファに腰掛けて昭洋が口を開くと、窓を開けながら槙瀬が答える。
「この事務所に、誰かいることのほうが珍しい。いたとしても、簡単な打ち合わせを済ませたら、すぐに追い払う」
「他人がいるのは、嫌なんですか……？」
　 つい口調に不安なものが混じる。それを感じ取ったのか、こちらにやってきた槙瀬の手が頭にのせられた。
「あまり、健全とは言いがたい事務所だからな、ここは。出入りするのは、素性が怪しいような奴ばかりだ。そういう連中は、ここでじっとしていろと言っても無理なんだ。用があるときに呼び出すほうが、効率がいい」
「……ぼくも、素性が怪しいということになるんでしょうね。今は、会社員なんだか、無職なんだか、よくわからない状態ですから」
　 会社に辞表を提出してから、腕を切りつけられ、予定は大きく狂ったままだ。一般の社員であれば、とっくに辞表が受理されて、仕事の引き継ぎにもメドがついている頃だろう。
　 だが、いろいろと会社の事情を知りすぎた昭洋は、一般の社員とは違う。今のように会社に顔も出せない状況が続いている。
　 本来、無断欠勤が続けばクビになってもいいものだが、むしろ昭洋もそれを望んでいるぐらいだが、今のところ会社からはなんの連絡もない。一応、槙瀬が昭洋に代わって動いてくれているが、人事部のほうは曖昧な返事を繰り返すだけだという。
　 つまり、昭洋の処遇について、まだ会社も結論を出しかねているのだ。
　 怪我をして病院にかかっている現在、保険証の切り替えなどの手続きに煩わされないのはありがたくもあるが、それ以上に、自分の存在がさらに不安定になっているようで、複雑でもある。
　 唯一はっきりしているのは、昭洋はこうして、槙瀬の側にいるということだけだ。槙瀬の側にいるから、昭洋自身、自分の存在を強く認識できるともいえる。
「もう少し我慢してくれ。俺の調査の仕事ももうすぐ終了するから、そのときはおおっぴらに、お前のことで会社に対して働きかけることができる」
　 一緒に暮らしている間に、槙瀬から『お前』と呼ばれることにも慣れてしまった。まるで昔からこう呼ばれているように、耳に馴染んでいる。
「……本当は、自分でやらなきゃいけないことなんですけど……」
「それはいい。俺が好きでやっていることだ」
「このまま知らない顔で、会社を無視することもできるけど、それだと、見えない首輪がずっと自分の首についているような気がするんです。だから、会社を辞めたということを、はっきりさせたい。それに、いつまた襲われるかわからないと思うと、普通の生活なんてできません」
　 昭洋は無意識に自分の喉元に手をかける。隣に腰掛けた槙瀬に肩を抱き寄せられ、昭洋も体を預ける。
　 もし会社の問題が片付き、すべてのしがらみから解放されたとき、槙瀬との繋がりもなくなってしまうのだろうかと考えると、昭洋は叫びたくなるような恐怖に襲われることがある。槙瀬の温かさと優しさを感じるたびに、その恐怖は深まっていくようだ。
　 昭洋が小さく身震いして、さらに体を寄せると、槙瀬に頬を撫でられる。
「――あんまり不安を感じるなら、病院で安定剤でも処方してもらうか？　お前は少し……精神的に不安定になっている気がする。あれだけのゴタゴタに巻き込まれて、人間の嫌な部分を見せられたら、そうなるのも当然だろう。だから、無理はするな」
「薬は飲みたくないです。その代わりに――」
　 昭洋は、頬にかかった槙瀬の手の上に自分の手を重ねる。軽くその手を握り締めると、それが合図のように槙瀬の顔が近づき、目元に柔らかく唇が触れた。そのまま自然な流れで二人は唇を重ね、昭洋は口腔に槙瀬を招き入れる。
　 甘えるように槙瀬の舌を吸うと、この先の手順を心得ている槙瀬にジャケットを脱がされ、Ｔシャツの下に手が入り込んできた。
　 乾いた感触を持つ手に剥き出しの脇腹を撫でられ、昭洋は小さく吐息を洩らす。支えられながら上体をソファに横たえると、覆い被さってきた槙瀬の背に半ば夢中で両腕を回す。
「あっ……」
　 穿いているジーンズの前を寛げられて、期待から思わず声が洩れていた。入り込んできた指に敏感なものをまさぐられ、外に引き出される。羞恥を感じる前に、柔らかな手つきで揉みしだかれ、這い上がってくる快感に腰が震える。
「……昭洋」
　 槙瀬に呼ばれて唇を吸われる。昭洋がますます強くしがみつくと、反応しかけたものの先端を宥めるようにくすぐられた。
　 ソファの上で昭洋は、あっという間にしどけなく乱れる。Ｔシャツをたくし上げられて、胸元や腹部に丹念に唇が押し当てられる一方で、ジーンズと下着を引き下ろされ、解放されたものをてのひらを使って擦り上げられるのだ。
　 男からの愛撫による快感に馴染んだ体は、槙瀬から与えられる快感にはひときわ弱った。
　 怪我によって手や腕にかかる負担が減ったのをいいことに、頭上の肘掛けを必死に両手で掴んでいたが、ふいに顔を上げた槙瀬に窘められる。
「あまり、力を入れるな。あとで痛むかもしれないぞ」
　 乱れる昭洋とは対照的に、槙瀬はあくまで冷静だ。ただ昭洋に快感を与えることだけに集中して、自分のことはどうでもいいというふうにも見える。
　 実際、槙瀬は――、昭洋の欲情を散らすことはしても、己の欲情を散らすことはしない。そもそも槙瀬は、欲情を覚えていないのかもしれない。
　 一緒に暮らす間に、もう何度も槙瀬の手によって快感を引きずり出され、絶頂へと導かれているが、槙瀬が欲情したところを、昭洋は見たことがなかった。
　 ぬくもりや快感を欲しがる昭洋に対して、まるで精神安定剤のようにキスと愛撫を与えてくれるだけだ。
　 それが寂しいとも思うが、それすら与えられなくなったとき、昭洋は自分を保てる自信がなかった。
　 昭洋の顔を覗き込んできた槙瀬が、ふっと笑う。
「そんな顔をするな」
　 そう言って唇に軽くキスされる。そのくせ、完全に身を起こした昭洋のものを愛撫する手つきは少し荒くなり、だからこそ昭洋は翻弄される。
「……どんな、顔、してますか……？」
　 濡れた先端を爪の先で弄られ、背筋を駆け抜ける鋭い快感に、昭洋は一瞬息を止める。喉を反らし上げると、槙瀬の唇が羽毛でくすぐるように這わされて、快感の次に押し寄せた心地よさに頭の芯が揺れた。
「――大人に置いていかれそうな、子供の顔だ」
　 槙瀬の言葉に我に返る。昭洋は槙瀬の頬に手をかけ顔を上げてもらうと、夢中で舌を絡め合う。キスの合間に、忙しい息遣いの下、会話を交わす。
「もう、か？」
「もう少し、欲しいです。もっとあなたに、触ってもらいたい……」
　 括れを擦り上げられて昭洋が反射的に顔を背けると、首筋に槙瀬の唇が這わされる。槙瀬のもう片方の手を取って胸元に導き、触れられないまま凝っている突起をてのひらで転がされる。
「あうっ」
　 胸元に顔を伏せた槙瀬の唇に突起を捉えられ、ズキリと胸の奥が疼いた。
　 このまま槙瀬と一つになりたいと昭洋は願う。愛撫も何もいらない。下肢を剥かれ、乱暴に槙瀬に貫かれて、痛みを感じたかった。
　 甘く優しい愛撫だけを与え続けられていても、昭洋の中にある不安感は消えない。だったら槙瀬に満たされて痛みを感じれば、何かが変わるはずだった。そう、思いたかった。
　 槙瀬の側にいると、自分はどんどん貪欲になっていく。
　 強くそのことを実感しながら昭洋は、槙瀬の頭を抱き寄せる。甘やかすように舌先で突起を転がされ、強く吸い上げられる。
「んっ……、は、あぁ――。槙瀬、さん、槙瀬さん……」
　 うわ言のように呼び続ける昭洋の声から切迫した響きを感じ取ったのか、濡れそぼったものを扱く動きが速くなる。
　 あとは、槙瀬に任せておくだけだった。昭洋は目を閉じ、間断なく押し寄せてくる快感に身を任せ、喘ぎをこぼし続ける。
　 限界寸前のものはハンカチに包み込まれ、汗ばんだ肌にてのひらが這わされる。
　 小さな悲鳴を上げて絶頂を迎えた瞬間、昭洋の閉じた目から、強すぎる快感のため滲んだ涙がこぼれ落ちようとしたが、すかさず指先で拭い取られた。愛撫を加えながらも槙瀬は、ずっと昭洋の顔を見つめ続けていたのだろう。
「――昭洋、大丈夫か」
　 下肢の後始末をして、格好を整えさせてくれた槙瀬から声をかけられる。ようやく呼吸を整えた昭洋が目を開くと、眼前に槙瀬の顔があった。
　 昭洋に触れるたびに、槙瀬は苦しげな表情をしている。そのくせ、目が合うと優しい眼差しを向けてくれるのだ。
　 どうして他人の自分にここまでしてくれるのか、一方的な快感を与えられたあとにいつも昭洋は疑問に思う。この行為は、優しいとか世話好きとか、そんな言葉の範疇を超えている。
　 聞きたいけど聞けないのは、今の、苦しいけど心地いい関係を壊したくないからだ。
　 昭洋は自分のズルさを苦々しく感じながらも、せがむ前に与えられるキスの甘さに簡単に流されていた。
　 ようやく体を起こし、衝動的な飢えや不安が治まっているのを確認する。すべて、槙瀬のおかげだ。下手な安定剤を飲むより、よほど効く。
　 一度事務所を出た槙瀬が、濡れたタオルを手に戻ってきて顔や首筋を拭ってくれる。
「髪がぐしゃぐしゃになったな」
　 小さく笑った槙瀬の手に髪を整えられ、されるに任せながら昭洋も笑い返す。あんなことのすぐあとで、こんなふうに触れられると、罪悪感が疼く。
　 なんだか、槙瀬という人間を汚しているようだった。
「メシを食うか？」
　 槙瀬に問いかけられ、頷こうとした瞬間、静かだった事務所内に着信音が響く。昭洋の携帯電話だ。
　 一瞬、辺りを見回してから、いつの間にか床の上に落ちていたジャケットを拾い上げる。昭洋は、取り出した携帯電話の表示を見て、驚きに目を見開いた。
「昭洋？」
「……藤島さん、です……。元代議士の」
　 知っているという意味か、槙瀬が頷く。昭洋の調査もしていたのなら当然、昭洋が藤島の元に出入りしていたことも把握しているだろう。
　 藤島側から携帯電話に連絡が来ることは、滅多にない。会うときは大半が会社の所用だし、昭洋が気軽に連絡を取り合える相手でもない。
　 最後に藤島と会ったのは、会社を辞めると報告したときだった。あのとき、藤島からかけられた言葉は頼もしくもあると同時に、怖かった。
　 身の危険を感じたときは、すぐに連絡してこいという言葉を守っていなかったなと、今になって思い出しながら、昭洋は大きく深呼吸して電話に出た。