心地の良い場所 −ZERO− 
11。 



 庭の木陰に置かれたテーブルに藤島と向き合って座っていると、ときおり吹く風によって、紅茶の柔らかな芳香が昭洋の鼻先にまで運ばれてくる。
  見慣れた庭の落ち着いた雰囲気もあり、強張っている心が解きほぐされていくようだ。
「――事態は思ったより、物騒なことになっているようだね」
  いつもと変わらない穏やかな口調で、藤島はそう切り出した。背筋を伸ばしてイスに腰掛けていた昭洋は無意識に、ジャケットの上から自分の左腕に手をかける。昭洋のその様子を見て、藤島は苦笑に近い表情を浮かべた。
「君が、困ったことがあっても素直にわたしを頼ってくれるとは思っていなかったが、どうやらまだ、認識が甘かったらしい。……君がどんな目に遭ったか知ったときは、驚いたよ」
  携帯電話に連絡をくれた藤島に招かれ、昭洋は今、藤島の自宅を訪れていた。
  本来であれば、すべてが片付くまで藤島とは会わないつもりであったし、藤島もまた、昭洋を見守るという立場をとり続けるつもりであっただろう。事情が変わったのは、昭洋が暴漢に襲われ、なおかつ怪我を負ったためだ。
「まさか会社の人間が、こうもわかりやすい恫喝の手段をとるとは、思ってもいなかった。わたしも衰えたものだね。こんな事態を予測できなかったなんて」
「いえっ……、藤島さんはまったく悪くありません。状況を甘く見ていたのだとしたら、ぼくのほうです。会社の事情で利用されることはあっても、直接危害を加えられるとまでは考えてもみませんでした。ぼくの気が動転していて、すぐに藤島さんに報告できなかったために、ご心配をかけたと思います」
「わたしが変な条件をつけたから、気をつかって連絡できなかったんだろう。……君の連絡を待っていればいいと思っていたから、事態の把握に時間がかかったんだ。できることなら、もっと早くに君に連絡を取りたかったよ」
  昭洋はそっと笑みをこぼして礼を言う。
 詳しいことを直接会って聞きたいと言われたときは戸惑ったが、今は、やはり藤島とこうして顔を合わせてよかったと思える。槙瀬に対するものとは違う安らぎを覚えるのだ。
  その槙瀬は、昭洋を車で送ってくれて、外で待っている。やはり、まだ会社から調査を請け負っている最中のため、藤島と会うわけにはいかないのだろう。藤島には藤島の、槙瀬には槙瀬の、社会的な立場がある。
「会社が退職を認めてくれるまでが正念場だと思っています。そのために、いろいろと動いてはもらっているんですが、なかなかうまくいかなくて」
「自分の部屋には戻ってないみたいだが、今は、ホテルかどこかに身を隠しているのかね」
「ある人が、ぼくを部屋に置いてくれているんです。少し前に知り合ったばかりだというのに、よくしてもらっていて――……」
  答えながら昭洋は、声に特別な感情が混じらないよう気をつける。藤島は槙瀬と顔を合わせていないが、調査会社の所長と行動をともにしていると知って、いい顔をするとは思わない。何より、昭洋が槙瀬に寄せる特殊な感情を悟られたくなかった。
  ようは、藤島に余計な心配をかけたくないのだ。
  昭洋の複雑な心境を知ってか知らずか、藤島は嬉しそうに目を細める。
「この前わたしが言った、『塚本くんを、この世に繋ぎとめてくれる人』だろうか」
「……はい」
  昭洋は小さく頷く。確かに槙瀬のおかげで、昭洋の世界は一変した。執着という感情が芽生え、自分の内の熱を感じられるようになった。生きていると実感できる熱だ。
「きれいなお嬢さんかい?」
  藤島が大きな誤解をしているとわかり、昭洋は慌てて首を横に振る。
「そういう人じゃないんですっ。男の人で、ずっと年上で……、保護者みたいにぼくを守ってくれているんです。襲われたときも、腕を少し切られる程度の怪我で済んだのは、その人のおかげです。怖くてたまらなくて、何をどうすればいいのかわからなくて、動けなくなっても不思議じゃなかったのに、こうして毎日を過ごせるのも……」
「彼のおかげだと?」
  槙瀬のことになると雄弁になる自分に恥じ入りながらも、昭洋は肯定する。
「こういうことをあまり言いたくはないが――その人物は、大丈夫なのかね?」
「えっ」
  思いがけない藤島からの問いかけに、反射的に声を洩らした昭洋は目を見開く。いつの間にか藤島は、厳しい表情を浮かべていた。
「わたしは、君よりずいぶん長く生きてきたし、いろんな種類の人間を見てきた。その中で君ほど、自分がいる世界や、他人に対して執着心を持たない人間は知らない。執着がないということは、何よりもの拒絶だと思う。だからこそ、そこが危ういと思うんだ」
「……危、うい……」
「何かを覆う殻が厚ければ厚いほど、その中身は柔らかくて脆いものだよ。それは塚本くん自身に当てはまる。君は人間や世界を知らない分、一度受け入れた人間に対しては素直だし、無防備だ。例えば、わたしのような者に対しても、信頼を寄せてくれる」
「それは、藤島さんはっ……」
「わたしが、君に対してだけ寛容であり、優しく装っているんだよ。そう、君にとっての理想の父親像を演じているのかもしれない。そうするのは、わたしが君を気に入っているからだがね」
  テーブルの上で両手を組んだ藤島は、顔を強張らせる昭洋に再び穏やかに笑いかけてきた。その表情に少しだけ安心する。昭洋が知っている藤島だったからだ。
  つまり、こういうことなのだろう。昭洋は、自分が求める藤島の姿しか目に入らないよう意識しているということだ。
  自分が受け入れている人だから――。
「君を匿ってくれている人物が、君を大切に思ってそうしているのなら、わたしの心配は杞憂だろう。だけど何か目的があるのだとしたら、気をつけないといけない。君とその人物が知り合ったばかりだというのが、どうしても気になるんだ。時期が時期だけに」
  昭洋は一瞬、槙瀬が調査事務所の人間で、専務派からの依頼を受けて社内の調査室に出入りしていることを説明したくなった。そうすることで、自分と槙瀬が出会ったことは、不自然な偶然からではないと証明したかったのだ。
  決して槙瀬は、目的があって昭洋と接触したわけではない。
  昭洋は自分に強く言い聞かせようとしたが、できなかった。本当にそうなのだろうかと、自分でもわからなかったからだ。
  初めて会ったときから、槙瀬は優しかった。甲斐甲斐しいと言ってもいい。昭洋からなんらかの情報を得るために近づいたのだとしたら、すでに行動を起こしているだろう。槙瀬に問われれば、昭洋はなんでも話すつもりだ。だが槙瀬は、そんな素振りを見せない。
  だとしたら、どうして昭洋を匿ってくれているのか。どうして、まるで宝物のように大事に扱ってくれるのか。
  昭洋は、自分が槙瀬から無条件の優しさを注がれるのに値する人間だと思えるほど、自惚れは強くないつもりだ。ただ、槙瀬の優しさに溺れて、何も考えないようにしていた。
  綻びに気づけば、そこで槙瀬との脆い関係が終わることを恐れていたのだ。
「……君の様子を知りたくて来てもらったのに、かえって君を困惑させるようなことを言ってすまないと思っている。だが、わたしは君の純粋さが、どうしても心配なんだ」
  相手が藤島でなければ、勝手なことを言って自分を不安にさせないでほしいと詰っているところかもしれない。しかし藤島は、本気で昭洋の心配をしている。そのことがわかるからこそ、かけられた言葉が重い。
  心がざわめき、小さな波紋が起こって広がる。
  昭洋を困らせたと思ったのか、藤島はおどけたような口調でこう言った。
「わたしの言うことは信用しないほうがいい。君に不安を抱かせて、こちらに呼び込む工作かもしれないからね。離れた場所で君を心配するより、身近に置いたほうが安心できるのは明々白々だ。――わかっている。年寄りのわがままだよ、これは」
「藤島さん……」
「何があろうが、わたしは君の味方だ。ずるい条件をつけてはいるが、助けがほしいときは、必ず助けてあげよう。このことをもう一度言いたくて、来てもらったんだ。それに、君の元気な顔を、この目で見たかった」
  昭洋はぎこちなく笑みを浮かべる。
「ぼくを、心配してくださっていたんですね。……今日まで、ぼくにそんな人がいるなんて、思い出しませんでした。ぼくなんて、会社での用がなければ、価値のない人間だと思ってましたから。こういうところが、ダメなんですね」
「何かを知りたいなら、落ち着いて、まずは自分の足元を。それから周囲を見回すことから始めなさい。身近なところから、一つずつ、丁寧に」
  波立つ心に、藤島の言葉はよく響いた。痛いほどに。教訓であると同時に、もしかするとこの言葉は、教唆だったのかもしれない。
  話題を変えた藤島とそれからしばらく話していたが、昭洋の頭の半分は、あることに占められてしまう。槙瀬が、自分と一緒にいてくれる理由を知りたいという、切実な願いだ。
  槙瀬を疑っているわけではない。ただ、心地の良い一方で、輪郭の掴みにくい槙瀬との関係に、明確な形が欲しかった。
  利用されているのだとしたら、それでもいい。槙瀬になら、そうされてもよかった。求められれば、昭洋は応えるだけだ。
  それぐらい、槙瀬を――。


  藤島の自宅を出ると、すぐ側に停められた車からわざわざ降りて槙瀬は迎えてくれた。昭洋はそっと笑いかける。
「お待たせしてすみません。すっかり藤島さんと話し込んでしまって」
「いや……。本当に、気難しいことで有名な藤島氏に気に入られているんだな。それとも、俺が聞いた噂のほうが間違っていたのか」
  槙瀬はわざわざ助手席のドアを開けてくれる。礼を言って乗り込もうとした昭洋は、つい槙瀬の顔に見入っていた。
  藤島の自宅に足を踏み入れる前と後では、槙瀬に対する認識がわずかに変わっていた。
  この男は何者なのだろうと、率直にまず感じたのだ。
  昭洋の異変に気づいたのか、槙瀬がわずかに目を細める。そうすると、剣呑な雰囲気が増し、知らない男にも見える。だが、こんな雰囲気の槙瀬が、昭洋は嫌いではなかった。
「昭洋?」
「……ぼくは、藤島さんから『毒』を吹き込まれたのかもしれません」
  槙瀬は表情を変えることなく、とりあえず車に乗るよう言い、昭洋もそれに従う。
「――何か言われたのか?」
  車を走らせてすぐ、槙瀬に問われる。昭洋は膝の上に置いた自分の手を見つめながら、どう切り出すべきか迷ったが、結局、藤島から言われて一番印象的だった言葉を告げていた。
「藤島さんに、言われたんです。槙瀬さんのことを、『その人物は、大丈夫なのかね』と」
「なるほど……」
  応じた槙瀬の声は淡々としていた。それがかえって、昭洋は怖い。沈黙を恐れ、早口で続ける。
「槙瀬さんのことは話してないんです。ただ、いろいろとお世話になっている人がいるとしか。藤島さんは、いままでのぼくを知っているから、知り合ったばかりの人と一緒に暮らしていることが不思議なんだと思います。……人見知りが、激しいですから、ぼくは」
「人見知りか。でも、俺に対してはそうでもなかったように思うが」
「……そう、ですね。不思議です。自分でも」
  自分が抱えた不安をすべて打ち明けるべきかと、昭洋が唇を動かしかけたとき、それより先に槙瀬が自嘲気味に洩らした。
「もしかすると藤島氏は、俺のことを調べているのかもしれないな」
「えっ?」
  思いがけない言葉だった。昭洋が目を見開くと、表情を変えないまま前を見据えた槙瀬は続けた。
「彼の目からしたら、俺がお前の側にいるのは相応しくないと思ったのかもしれない。実際、その自覚はある」
  昭洋は口元に手をやり、さきほどの藤島とのやり取りを懸命に思い返す。藤島が、槙瀬のことを知っているような素振りを見せただろうかと考えるが、対人関係が不得手な昭洋に何かを悟らせるほど、藤島は甘くはないはずだ。
  よほど必死な顔をしていたらしく、槙瀬の片手が伸ばされ、素早く頭を撫でられた。
「そんな顔をするな。可能性の問題として言っただけだ。あの藤島氏なら、自分が気に入っている人間のことを調べるのは造作もないし、それにお前は今、大きなトラブルに巻き込まれている最中だ。藤島氏は本気でお前の心配をして、忠告をしただけかもしれん。お前は危なっかしいからな」
  ここで槙瀬が苦々しげに唇を歪めた。
「――……性質の悪い人間につけ込まれても、不思議じゃない」
「そんなこと言わないでくださいっ」
  思わず感情的に怒鳴った昭洋だが、すぐに声を抑え、呻くように呟く。
「少なくとも、槙瀬さんは違います……。仮にそうだとしても、ぼくは、かまいません」
  気がつけば、槙瀬のジャケットを握り締めていた。運転の邪魔をしてはいけないと思い、ぎこちなく手を引いたが、本当は槙瀬に触れていないと不安で仕方なかった。
  この瞬間から、槙瀬が知らない男に変わっていくのではないかと思えて仕方なかったのだ。しかも槙瀬本人が、昭洋の不安に拍車をかけるようなことを言う。
「藤島氏の危惧は正しい。俺は確かに、大事なことを知っていて、それを隠したうえでお前と一緒にいる。――知りたいなら、話してもいい」
  槙瀬があまりに苦しげな顔をしているため、昭洋は言われた言葉よりも、槙瀬の表情のほうに気を取られてしまう。会社が、槙瀬に何かを命じているのだとしても、そんなことはどうでもよかった。槙瀬が恩人であるという事実は変わらない。
「……槙瀬さんは、言いたいんですか? ぼくに、知ってほしいんですか?」
  槙瀬は軽く目を見開いたあと、口元に淡い笑みを刻んだ。ひどく自嘲気味で、痛々しい笑みだった。
「俺は卑怯な人間だから、知るのはもう少し先になってほしいと思っている。できれば、お前と俺、会社の件が片付いてから」
「なら、それまで待っています。……その間、ぼくと一緒にいて、守ってくれると約束してくれるなら」
「それは、約束するまでもない。俺の中では、当然のことだ」
  この瞬間、たまらなく槙瀬に抱き締めてほしいと思った。胸の奥に広がる不安は相変わらずで、少しでも楽にしてもらいたかった。
  だが、昭洋以上に苦しそうに見える今の槙瀬に、わがままは言えなかった。それぐらいの分別は、盲目的に槙瀬を想っている昭洋にもある。




  ベランダの手すりに腕をかけた昭洋は、ぼんやりと外の景色を眺める。
  さすがに、毎日の大半を部屋の中で過ごす生活に危機感にも似たものを覚え始めていた。状況は何も変わらないまま、槙瀬との関係だけが複雑になっていき、昭洋の生活のすべてが、たった一人の男で占められていく。
  それはある意味、昭洋が望んだことではあるのだが、槙瀬に依存したまま、その槙瀬が昭洋に何かを隠したまま一緒にいることは、決して安寧とした生活とはいえない。
  次第に自分が、そんな生活に倦みながらも浸りきってしまいそうで、だからこそ危機感を抱いてしまう。
  この状況からなんとか抜け出したいと思うが、反面、抱えた問題が片付くことで、槙瀬から一体どんなことを告げられるのか怖くもある。
  昭洋はため息をついて部屋に戻ると、自分のバッグの下に隠しておいた薄い雑誌を取り出す。槙瀬とともに出かけたコンビニで、隙を見て、他の雑誌に紛れ込ませるようにして買った求人誌だ。
  生活費の大半は槙瀬に面倒を看てもらい、昭洋自身、多少の貯えがあるので、すぐに生活に困るということはない。
  将来のことを考えなくては、という意識から、なんとなく手に取ってみたのだが、冷静に考えてみると、会社をきちんと辞めていないうえに、そもそも一人で外出もできない状況では、アルバイトすら無理なのだ。
  あれこれ考えるだけで何もできないままだと、そのうち精神的におかしくなりそうだった。うな垂れるようにして昭洋がもう一度ため息をついたとき、携帯電話が鳴った。
  槙瀬の部屋に身を寄せるようになってから、発信先がわかる電話にしか出ないようにしている。最初のうちは無言電話などがかかってきて、ときには恫喝の言葉が留守電に残されていたりしていたのだ。
  心配した同僚たちからも電話はかかってきていたが、昭洋と話すことで迷惑がかかるかもしれないと思い、心苦しくはあるが無視していた。
  つい数日前に藤島から連絡があったばかりで、またかかってくるとは思えない。誰だろうかと警戒しながら携帯電話を取り上げた昭洋だが、表示されている名を見た途端、動揺して携帯電話を落としてしまう。
「――……なんで……」
  呟いたまま動けないでいると、一度着信音がやむ。しかしすぐにまたかかってきて、今度は延々と鳴り続ける。
  電源を切ってしまえばいいのに、なんだか着信音に哀願されているような気がして、怖ず怖ずと手を伸ばした昭洋は、無意識に速くなった呼吸を繰り返しながら電話に出ていた。
「もし、もし……」
『――やっぱり出てくれたな、昭洋』
  嫌というほど耳に馴染み、懐かしさすら感じさせる声の主は、高畠だった。一方で新鮮さも感じたのは、名を呼ばれたからだ。
  高畠はいつから、自分のことを名で呼ぶようになったのだろうかと、ふと考えてしまう。
  次の瞬間、マンションの自室で襲われたことを思い出し、昭洋の背筋に冷たいものが駆け抜ける。同時に、奇妙な安堵感も覚えていた。こんな男でも、昭洋にとっては槙瀬以外に、濃密な繋がりを持つ唯一の相手なのだ。
「……何か、ご用ですか」
『怪我はよくなったか』
  自分のペースで会話を進めようとするところは相変わらずだ。しかしそんなところにも、昭洋は懐かしさを刺激される。
  高畠に対して嫌悪を抱くならともかく、こんな気持ちになるのはなぜだろうかと考えたら、もしかすると今、自分は人恋しいのかもしれないと思った。
  昭洋は、槙瀬への後ろめたさを感じつつも、電話を切れなかった。
「なんとか傷は塞がりました。……あなたに負わされた捻挫も」
『それはよかった。捻挫で済んだか。あのときは力加減を忘れていたから、もしかすると骨をやったかもしれないと心配してたんだ』
  高畠の言葉に、いまさら怒りも湧かない。ただ昭洋は、少しばかりの意趣返しをした。
「あなたのほうこそ、大丈夫なんですか。――槙瀬さんに手酷くやられていたでしょう」
『後頭部にでかいコブができて、何日かは、仰向けで寝るのに難儀したぞ』
  つい笑いそうになった昭洋だが、寸前で堪える。いままでも高畠と笑い合えるような関係ではなかったが、今は特にそういう状況ではなかった。
「いまさらどうして、電話なんてかけてきたんですか」
『あんなことがあったあと、すぐにかけたところで、お前は出てくれなかっただろう。今だって、どうしてお前が出てくれたのか、不思議なぐらいだ。相手が俺だとわからなかったわけじゃないだろう? 会社の人間に聞いたら、お前の携帯にかけても繋がらないと言っていたんだから。……相手を選んで電話に出ている、と自惚れていいのか?』
「……そういう言い方、しないでください。ぼくは別に、あなただから出たわけじゃ……」
  高畠に、揺れる気持ちを見透かされているようで、苦しくなってくる。ただ、言い方を変えるなら、言葉にしなくても高畠は、昭洋の気持ちを察してくれるということだ。悔しいことに。
『わたしはお前をさんざん振り回して好き勝手に扱ってきたが、手を上げることだけはしないつもりだった。そういう性癖もなかったからな。あのときは、頭に血が上ってどうかしていた』
  思いがけない高畠の言葉に、息を詰めた昭洋は電話の向こうの気配をうかがう。高畠が、誰かに言わされているのではないかと疑ったのだ。
「高畠さん、何かあったんですか……」
『わたしがこんな殊勝なことを言うとおかしいか?』
「おかしいです」
『即答だな』
  高畠がおかしそうに言い、昭洋としては、どう反応していいのかわからず、戸惑うだけだ。
  やはり、何かおかしい。少なくとも昭洋が知っている高畠ではなかった。落ち着いた話し方は変わらないが、どこか投げ遣りな印象を受けるのだ。もしかすると、疲れているのかもしれない。
  以前、藤島からされた忠告を思い出す。昭洋は、高畠から逃げたと同時に、会社の事情からも逃げ出したのだ。
「……会社で、何かあったんですか?」
『例えば』
「委員会のことで、外部の組織から指摘を受けた、とか……」
  高畠は軽く鼻を鳴らす。
『お前の情報源は藤島氏か。公取委の動きについては、まだ一般の社員の耳には入ってないからな』
「ということは、まだ?」
『――お前にはもう関係のないことだ』
  唐突な高畠の言葉に、昭洋は眉をひそめる。意味がわかりかねたのだ。
「高畠、さん……?」
『お前はもう、会社の事情に縛られる必要がなくなったんだ』
「それは――」
『お前が出した辞表を受理させた』
  えっ、と声を洩らしたあと、言葉がすぐに出てこなかった。昭洋の戸惑いを感じたのか、高畠は言葉を続ける。
『これでお前は、うちの会社とは関係のない人間だ。二度と襲われることのないよう、手も回しておいた。いや、釘を刺したというべきか』
  昭洋は軽く混乱しながらも、事態の変化を認識する。
  槙瀬に動いてもらいながら、それでも会社は昭洋が辞めることを認めなかったが、なぜか突然、それが認められたのだ。しかも、高畠の働きかけで。
『ただし、もう絶対、会社に近づくな。それと念のため、もうしばらくは身を隠しておいたほうがいい』
「……ど、して、ですか……。何があったんですか……。あなたが、何かしたんですか?」
『お前に迷惑がかからないよう、最大の努力はしたつもりだ』
「そうじゃないんですっ。――……ぼくのために、動いてくれたんですか?」
『そうだと言ったら、どうする』
「どうするって……」
  ふいに高畠が吐息を洩らすように低く笑い、ドキリとしてしまう。
『お前のために動いたと言ったら、わたしの頼みを聞いてくれるか?』
  昭洋の鼓動は、いつの間にか速くなっていた。携帯電話を持つ手が汗ばみ、体が熱い。これまで行き詰っていた状況が開けたことによる戸惑いや驚き以上に、意外な報告をもたらしてきた高畠そのものに対して、勝手に体が反応してしまうのだ。
「どんな頼みですか」
『――もう一度だけわたしと会ってくれ。二人きりで』
  こう囁いてきた高畠の声は、いままで聞いたことがないほど切実で、誠実だった。昭洋の気持ちが激しく揺さぶられたほどだ。
  自分に怪我をさせた男の誘いなど、即座に断ってしまえばいい。わかっていながら、何も言えない。今の高畠は、突き放せなかった。
  声も出せないまま空しく唇を動かしていると、高畠に揶揄するように言われた。
『冗談だ。……珍しいな。わたしの誘いには、いつもとりあえず逆らってみるお前なのに』
「逆らいたくなるようなことばかり、言うからですよ」
『ふん。とにかく、会社のことは気にするな。お前は、再就職先のことでも心配しろ。それと――何か気になることがあれば、この携帯にかけてこい』
  こちらの返事を待つことなく、一方的に電話は切られた。
  高畠の様子がどこかおかしいと思いながら、昭洋ものろのろと電話を切る。
  状況の変化に思考が切り替えられず、声から伝わってきた高畠の異変に、気持ちが切り替えられない。
  昭洋は携帯電話を握り締めたまま、しばらく動けなかった。




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