心地の良い場所 −ZERO− 
12。 



 帰宅した槙瀬は、出迎えた昭洋の顔を見るなり眉をひそめた。
「――何かあったのか?」
「えっ……」
 槙瀬はすぐには答えず、促すように昭洋の肩に手をかけたので、ひとまずダイニングに移動する。
 昭洋がテーブルにつくと、ジャケットを脱いだ槙瀬は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、正面に腰掛けた。昭洋の前には、槙瀬が帰ってくる前に淹れた飲みかけのコーヒーがある。
「それで、どうして困惑したような顔をしてるんだ」
 槙瀬の言葉に、昭洋はちらりと笑みをこぼす。
「そんな顔……してますか?」
「ついでに言うなら、俺に相談しようかどうしようか迷っている、といったところか」
 敵わないなと思いながら、昭洋は唇に苦い笑みを刻んだ。
「……今日、ぼくの携帯に電話があったんです」
「今度は誰からだ」
「それが――」
 高畠の名を出そうとして、寸前で昭洋は口ごもる。槙瀬の反応を見たくないというより、高畠の名を口にしたときの、昭洋自身の動揺を槙瀬に知られたくなかった。
 何より、高畠と話して心が揺れたことを知られたくない。
「会社の、人事からです……。ぼくの辞表が受理されたと言われました。これでようやく、会社をきちんと辞められたんです。一応、関係部署には連絡を入れて、きちんと確認は取りますけど、でも……」
「肩の荷が一つ下りたな」
 昭洋は上目遣いに槙瀬を見つめる。不安な気持ちをそのままぶつけた。
「本当に、そう思いますか?」
「電話をかけてきた相手は、どう言っていた」
「……ぼくのことを、うちの会社とは関係のない人間だ、と……」
「一見冷たいように聞こえるが、お前を気遣っているようにも聞こえるな」
 反射的に姿勢を正した昭洋だが、槙瀬から向けられる眼差しを真正面から受け止めることはできなかった。
「人事部のほうも、ぼくの扱いがはっきりして、清々したでしょう。数日置きに、ぼくの退職の件で、ぼくの代理人だという人から問い合わせの電話がかかってきたり、会社に直接、訪ねてきたりしたんですから、落ち着かなかったと思いますよ」
 槙瀬は、外に出られない昭洋に代わり、ある人物を代理人に仕立て上げ、昭洋が今言ったようなことをさせていたようだ。
 その、昭洋の代理人となっていた人物というのが、前に事務所で顔を合わせた三人の男のうちの一人だと教えられ、少し不安になった。昭洋の記憶では、やけに迫力のある面相をした男だったという印象があったからだ。応対した人事部の社員は、さぞかし緊張しただろう。
 もっとも会社が、昭洋や、昭洋の代理人に対してどんな感情を抱こうが、もう関係ない。とりあえず昭洋は、会社とは無関係の人間になってしまったのだ。
「あとは、書類関係の手続きだけだな。これは会社に出かけなくてもいいから、大した問題にはならない」
「ええ……」
「なのに、釈然としない顔をしているな」
 槙瀬の指摘に、昭洋は苦笑を浮かべる。
「あんな会社でも、ぼくが望んで入ったところで、数年とはいえ給料をもらっていたんで、なんというか、緊張の糸が切れたというか――」
「寂しい、か?」
 さすがだなと思いながら、昭洋は曖昧に頷く。昭洋には自覚はないが、きっと人は、今の昭洋の心を占める感情をそう表現するのだろう。
「……槙瀬さんは、ぼくより、ぼくのことがわかってますね」
「過大評価だな、それは」
「ぼくは、他人だけじゃなく、自分の気持ちにも鈍いみたいで……」
 軽く息をついて槙瀬が立ち上がり、昭洋の傍らにやってきたかと思うと、ポンッと頭に大きな手がのせられた。
「お前は鈍いんじゃない。今は、呆然としているんだ。ここのところずっと自分を煩わせていた問題が急に片付いて。しかもその煩わせていたものは、少し前までお前が身を置いていた場所だ。どんな人間だって、こんな状況に放り込まれたら反応に困る」
 頭にかかった温かな手の感触がくすぐったくて、優しかった。嫌なことばかりが立て続けにあった中で、この感触を与えてくれる槙瀬に出会えたことだけは、感謝したい。
「――……大丈夫です。数日もすれば、元気になりますから」
「だったら俺も早いうちに、抱えた仕事を片付ける目処をつけないとな」
 なんのことを言っているのかわからず、昭洋は槙瀬を見上げたまま首を傾げる。そんな昭洋の反応をおもしろがるように、槙瀬は口元を綻ばせた。
「忘れたのか。俺は、お前がいた会社から調査の仕事を請け負っている最中だ」
「あっ……。そう、なんですよね……」
「心配しなくても。来週中には報告書を提出して、そこで一旦契約は切れる。どういった事情があるのか知らないが、向こうの動向が急に慌ただしくなってな。だから俺も、ここ何日かは帰りが遅くなっている」
 槙瀬はわずかな時間を見つけては、この部屋に顔を出してくれるので、あまり気にしていなかったが、確かに槙瀬の帰宅時間そのものは遅くなっている。実際今は、深夜といえる時間だった。
 会社内部でどんな動きがあったのだろうかと、つい考えてしまう。何かあったからこそ、今日の高畠からの電話も納得できる気がした。
 昭洋がこれ以上の厄介事に巻き込まれないよう、手を回してくれたのだとしたら――。
 ふっと昭洋の意識は、目の前にいる槙瀬ではなく、おそらくまだ会社にいるであろう高畠へと飛んでいた。
「――気になるか?」
 いつの間にか槙瀬に顔を覗き込まれ、そんな言葉をかけられる。昭洋は一瞬、ドキリとしていた。槙瀬に、高畠のことを問われたように感じたのだ。
「もう、辞めた会社のことですから……」
 槙瀬は物言いたげに唇を動かしかけてから、顔を反らす。同時に、昭洋の頭にかかっていた手が退けられた。
「……風呂に入ってくる。着替えを出しておいてくれるか」
 そう言い置いて、槙瀬の姿はバスルームへと消えた。


 風呂に入ったあとの槙瀬の態度が気になって仕方なかった。
 昭洋は寝返りを打つと、目を凝らして、閉められた襖をじっと見つめる。そんなはずもないのに、深くゆったりとした槙瀬の息遣いが聞こえてきそうだ。そしてもう片方の耳には、今日――正確にはもう昨日だが、電話越しに聞いた高畠の声が蘇る。
 いままで聞いたことがない、切実で、誠実な声だ。
 昭洋が何かに囚われていると、勘が鋭い槙瀬は感じ取ったのかもしれない。だとしたら、風呂から上がったあと、意識したように昭洋から視線を逸らし、まともに会話を交わしてくれなくなったのもわかる気がした。
 高畠と手を切るという約束を昭洋が破りかけていることに、槙瀬は怒っている。
 やはり、槙瀬に隠し事はしておけない。昭洋は唇を噛むと、覚悟を決めて体を起こし、這って襖の前まで行く。
 深夜の静寂を破らないよう気をつかいながら、慎重に襖を開ける。
 昭洋が使っている部屋よりも、厳重にカーテンを閉め切っている槙瀬の部屋は、さらに闇が深い。なんとか目を凝らし、布団の盛り上がりを確認した昭洋は、手探りで這い寄った。
 掛け布団の端に手が触れた途端、それを察したように低い声で問いかけられる。
「――眠れないのか」
 昭洋はビクリと肩を震わせてから、布団の傍らに座った。どうやって槙瀬に声をかけようと思っていたので、かえって助かったかもしれない。
「起こしましたか?」
「いや……。今夜は目が冴えて、眠れなかったんだ」
 ここで一度、二人は沈黙する。互いに出方をうかがっているようでもあったが、すぐに槙瀬のほうから水を向けてくれた。
「それで、どうした。お前の顔はよく見えないが、思い詰めている感じがする」
 昭洋は小さく笑みをこぼす。
「やっぱり槙瀬さんは、ぼくのことがよくわかってますね」
「多分俺は、わかってほしい、というお前のシグナルに敏感なんだろうな」
「自分の口から言いたくないから、なんでも槙瀬さんに察してもらいたくなるんでしょうね。そのほうが、楽だから」
 ここまで話して、気持ちと、頭の中がやっと整理できたようだった。
 目も暗闇に慣れてきて、仰向けで横になりながら、こちらをじっと見つめている槙瀬の表情もよくわかる。
「……今日の電話、高畠さんからだったんです」
「なんとなく、そうじゃないかと思っていた」
 槙瀬の静かな表情を見ていられず、昭洋は視線を伏せる。そのくせ、支えをほしがるように、掛け布団の上に置かれた槙瀬の手の上に自分の手を重ねていた。
「あの人の言うことすべてを信じるわけじゃないんですが、ぼくのために、動いてくれたみたいです。それで……、風呂に入る前に槙瀬さんが言っていたように、会社のほうで何か動きがあったのかもしれません。具体的なことは何も言われなかったけど、ただ、なんとなく、いつものあの人じゃないみたいで……」
「それが気になっているのか?」
 淡々とした口調での槙瀬の問いかけは、昭洋の胸に鋭く突き刺さる。無意識のうちに槙瀬の手をきつく握り締めていた。
「そうじゃないんです。ただ、会社を辞めたあとになって、面倒なことに巻き込まれたくないだけです。もう、会社のゴタゴタで嫌な思いはしたくありません。あの人のことでも」
 それは昭洋の本心ではあるが、すべてではない。ただ槙瀬は、昭洋を追い詰めるようなことはせず、質問を変えてくれる。
「他に何か言っていなかったか?」
「もう絶対、会社に近づくなと。それと、もうしばらくは身を隠しておいたほうがいいとも言ってました」
「……それは、俺も同意見だな。慎重に動いて損はないはずだ。それに、お前が電話で、高畠から異変を感じたというのも引っかかる」
「ぼくの直感なんて、当てにはならないと思いますけど……」
 握っていた槙瀬の手が抜き取られ、今度は昭洋の手が強く握り締められる。
「話して、すっきりしたか?」
 昭洋は軽く目を見開いてから、槙瀬の顔をまじまじと見つめる。
 本当は、まだ大事なことを話していなかった。高畠から、もう一度会いたいと言われたことだ。高畠は冗談にしてしまったが、それでも昭洋は、槙瀬には言えなかった。
 単なる冗談まで、わざわざ報告しなくていい。昭洋は、抱えた罪悪感を誤魔化すように、自分にそう言い聞かせる。
 そうしないと、高畠からの言葉を受けて昭洋の気持ちが揺れたことを、聡い槙瀬にきっと悟られてしまう。
 もう、高畠とは関わらない。関わる必要がない。今の昭洋には、槙瀬がいてくれるのだから――。
 突然、狂おしい感情が込み上げてきて、たまらなくなった昭洋は布団の横に転がる。
「おい――」
「少しの間、ここにいさせてください」
 感情の高ぶりとともに、体が熱くなっていた。その熱が、ひんやりとした畳に吸い取られていく。しかしそれ以上に、昭洋の中で生まれる熱は高い。
「そんなとこで寝ていたら、風邪ひくぞ」
 上体を起こした槙瀬の手が肩にかかり、軽く揺さぶられる。
「大丈夫です。寒くなったら、自分の布団に戻りますから」
「そうは言うがな……」
 ため息交じりに洩らした槙瀬に、腕を掴まれて布団に引き込まれていた。
「せめて、布団に包まっていろ。俺は向こうで煙草を吸ってくる――」
 槙瀬が立ち上がろうとしたが、その前に昭洋が腰にしがみつく。少しの間、布団の上で軽く揉み合うことになったが、手荒なことができない槙瀬が、子供のような頑迷さを発揮した昭洋に勝てるはずもない。
 結局、諦めた槙瀬が体から力を抜き、枕元に置いた煙草に手を伸ばそうとする。
「……寝煙草はやめたほうがいいですよ」
 忠告に対するささやかな仕返しなのか、槙瀬の手にくしゃくしゃと髪を掻き乱され、昭洋は声を洩らして笑う。
 だがそれも、わずかな間で、昭洋は髪に触れる槙瀬の手を取り、軽く引っ張る。昭洋の、言葉にしない求めがわかったのか、槙瀬も横になり、片腕で頭を抱き寄せてくれた。
 速くなっていく自分の鼓動を感じながら、昭洋は不安を口にした。
「今の生活が変わるのが、怖いんです。会社のことが片付いたら、ぼくはここにはいられなくなります。そうしたら、槙瀬さんとの関係も終わりそうな気がして……」
「だが、このままでいるよりは、遥かにいい。新しい住処に、新しい仕事と新しい人間関係を、お前は手に入れるんだ。すべてを仕切り直せる」
「何もかも仕切り直せたとして、ぼくと槙瀬さんとの関係だけは変わらないと、約束してくれますか?」
「――お前が大丈夫だと思える日まで、見守っている」
「そんな言い方しないでくださいっ」
 昭洋が思わず声を荒らげると、槙瀬は柔らかな苦笑を浮かべる。腕枕をしてくれているほうの手で、後ろ髪を撫でられた。
「お前は、激しいな。見た目はおとなしそうだし、実際性格もおとなしいんだが、ときどき、俺が気圧されるほどの激しさを見せる」
「それも、槙瀬さんの知っている人と同じですか?」
 昭洋は槙瀬の頬にてのひらを押し当てながら、さらに体を寄せる。息もかかるほど間近にある槙瀬の顔を見つめる。
「いや……。本当はそうだったのかもしれないが、そんな面を見る前に別れてしまった。だから、今となってはわからない」
「そう、ですか――」
 槙瀬の口から、他の人との関係をうかがわせる言葉は聞きたくなかった。だから昭洋は、槙瀬の唇に自分の唇を擦りつけ、啄ばむ。
 キスの合間に、切実な願いを口にした。
「ぼくは、あなたともっと繋がりたいんです。子供をあやすように、一方的に与えられるだけの関係じゃ嫌です。ぼくだって、槙瀬さんに与えたいっ……」
「俺はもう、与えられている。望むとすれば、お前にとっての安寧とした生活だけだ。それを俺が、お前に与えられればと思う」
「……そんな言い方じゃ、わかりません」
 激しい苛立ちをぶつけたくもあるが、昭洋が槙瀬に対してできるのは、ただ必死にしがみつくだけだった。そんな昭洋の背を、やはり槙瀬はあやすように撫でてくれる。
 そして槙瀬が、昭洋に言い聞かせるというより、独白するようにこんなことを言った。
「――……言わなくてもわかってほしいと願うことなら、俺にもある……。近いうちに俺は、それを自分の口から言わないといけない。避けられるものなら避けたいが、避け続けた結果が今のこの状況だ。巡り巡ってお前と出会ったんなら、もう避けようがないということだ。俺は、背負った大きな罪を購わないといけない」
「何を、言ってるんですか……。ぼくが関係あることはわかるのに、槙瀬さんが何を言っているのか、全然わからないんです……」
「もうすぐわかる。俺が、話す」
 痛いほどきつく抱き締められ、昭洋はそれ以上何も言えなかった。昭洋以上に、槙瀬が痛みを感じているように思えたからだ。




 この日の昭洋は、何かに憑かれたように、朝から掃除をしていた。
 槙瀬を送り出したあと、洗いものを片付けたところから始まり、キッチンやガス台をきれいに磨いてから、ダイニングの床を丁寧に拭く。洗濯の傍ら、風呂場も隅から隅まで洗い上げる。
 二人が寝起きのために使っている二部屋にも掃除機をかけながら、昭洋はぼんやりと自分の行動を分析していた。
 そのうち出ていかなくてはならないこの部屋から、自分の痕跡を消す一方で、これ以上なくきれいに掃除することで、自分がここにいたという痕跡を刻みつけているのだ。
 冷静に行動しているようだが、実際のところは、感情が麻痺していた。ここ数日、体を動かしている自分と、物事を考える自分がまるで分離しているようで、日常生活のすべてに現実味が伴っていない。どこか、夢の中にいるような感覚だ。
 今日はある意味、区切りの日だった。
 槙瀬が会社に報告書を提出し、そこで調査の契約を終了するのだ。契約の継続を望まれているらしいが、槙瀬は断るそうだ。
 調査の仕事で初めて不義理をした、と槙瀬がぽつりと洩らしたことがあったが、もしかすると会社からは、昭洋の身元調査か、行方を捜すよう言われていたのかもしれない。
 なんにしても槙瀬は、昭洋を今日まで守り通してくれ、近いうちにいつか訪れる別れの日まで、やはり守り通してくれるだろう。
 急に切ない気持ちが込み上げてきて、掃除機を片付けた姿勢のまま昭洋は動きを止める。涙が出そうになったが、それはなんとか堪えた。今から泣いていては、本当にこの部屋を出ていくときにはどうなってしまうか、自分でも予想がつかない。
 姿勢を戻すと、次は何をしようかと辺りを見回す。そんな昭洋の目に飛び込んできたのは、ダイニングの隅に置かれた大きな紙袋だった。槙瀬が、クリーニングに出すものをまとめて入れてあるのだ。
 男にしては几帳面な槙瀬だが、洗濯物やクリーニングに出すものについては意外に無頓着な性質らしく、ある程度溜め込むまで放っておく。今はまだ、昭洋がここに住んでいるから毎日洗濯をしているが――。
 いつの間にこんなに溜め込んでいたのだろうと、紙袋の中を覗き込んで昭洋はそっと笑みをこぼす。
 このときふと、まだどこかに溜め込んでいるのではないかと思い、槙瀬の部屋に入る。いつもドアを開けたままで、槙瀬本人からも好きに使っていいと言われているので、昭洋は遠慮なく部屋のあちこちを探して回り、最後に洋服タンスを開ける。
 槙瀬の匂いだと、開けた途端思った。染み込んだ煙草の匂いと、槙瀬自身が持つ匂いが、スーツを吊ってある洋服タンス内に満ちている。
 槙瀬への想いから胸苦しさを覚え、昭洋はスーツの一着をそっと撫でる。今この瞬間、たまらなく槙瀬に抱き締めてもらいたかった。
 本当に自分はこの部屋から出ていけるのかと、昭洋には疑問だった。
 こんなにも槙瀬に依存しきっていて、いまさら一人に戻れるのか――。
 また涙が出そうになり、唇を噛む。昭洋にも、自分が精神的に不安定になっていると、嫌というほど自覚はあった。だからこそ、感情に大きな波を作りたくない。
「あっ」
 手をかけたスーツのジャケットが、ハンガーから滑り落ちる。屈み込んだ昭洋は拾い上げようとしたが、このとき洋服タンスの下部に、まるで隠すように置かれた小さな箱に気づいた。
 貴重品を仕舞ってあるのかと思い、咄嗟に手を引いたが、別に盗むつもりはないのだからと、自分に言い訳しながら再び手を伸ばしていた。
 箱を取り上げて、意外な軽さに驚いた。昭洋は箱を抱えて畳の上に座り込むと、やや緊張しながら箱を開ける。
 出てきたのは、二通の洋封筒だった。封はしておらず、何度も開閉したのか、封筒全体がくたびれている。それでも、槙瀬がこの二通の洋封筒の中身を大事にしているのは、よく伝わってきた。
 槙瀬のプライベートにここまで踏み込んでいいのだろうかと迷いながらも、槙瀬が大事にしているものだからこそ知りたいという衝動は止められなかった。
 いつの間にか、心臓が痛いほど鼓動が速くなっている。昭洋は大きく息を吐き出すと、二通の洋封筒のうち、薄いほうの一通を開いた。
 中に入っていたのは、一枚の写真だった。その写真を目にした昭洋は、数瞬の間、自分が見たものが信じられなかった。
 写真を畳の上に置いてから、震える指でもう一通の洋封筒を取り上げる。こちらは、少し厚みがあり、その分だけ、中身を見ることで受ける衝撃も大きい予感がした。
 そして、予感は当たった。
「なん、で――……」
 洋封筒の中に入っていたのは、手帳だった。ただの手帳ではない。可愛らしいキャラクターが印刷された、母子手帳だ。
 その母子手帳の表紙に、昭洋と、母親の名が書かれている。
 こんなものがあったことを、昭洋は知らなかった。離婚した母親は育児を放棄し、昭洋を自分の両親に押し付けて出ていったしまったような女だ。もし、母子手帳を保管しているとすれば、それは、昭洋を育ててくれた祖父母だろう。
 昭洋は初めて、自分の母子手帳に目を通す。予防接種や検診などの記録だけでなく、成長の様子が日記のように残されている。この字は、亡くなった祖母のものだ。母親に代わって、ずっとつけていてくれたのだ。
 しかし今の昭洋には、祖父母が注いでくれた愛情を感じ取る余裕はなかった。心が軋み、壊れかけている。
 もう一度、写真に視線を落とす。写真に写っているのは、昭洋だった。同じ写真が、祖父母の家にあるアルバムに収まっている。
 小学校の入学式当日に、嬉しそうな表情で祖父が家の前で撮ってくれたもので、六歳の昭洋一人が、はにかんだ笑顔を浮かべて写っていた。
 写真と母子手帳を並べて眺めながら、昭洋は動けなかった。ただ、心に深いヒビが入っていく残酷な音を聞いていた。
 すべてが、わかってしまったのだ。おそらく槙瀬が、昭洋に話したがっていたことを。
 写真は、昭洋の身元調査をするために入手したという言い訳ができるかもしれない。だが母子手帳は決定的だ。こんなに几帳面に書き込まれた大事なものを、祖父母が安易に手放すはずがない。特別な相手でもない限り。
 重く痛い推測を何度も噛み締めていくうちに、昭洋の目から涙が溢れ出ていた。悲しいわけでも、悔しいわけでも、怒っているわけでもない。
 ひたすら絶望していた。
「――……槙瀬さんは、ぼくの、父親……」
 推測は、声に出した途端に、事実となる。否定できるだけのものを持たないのだから仕方ない。
 唇が震え、歯が鳴る。体の奥から込み上げてきたのは、全身の血が凍りつくような生理的嫌悪感だった。
「ぼくは、何をした……? 血の繋がった男と――ぼくを捨てた男と、何を……」
 昭洋はふらりと立ち上がると、覚束ない足取りでベランダに出ていた。
 完全に心が壊れてしまう前に願うことは、今いる世界から、消えてしまいたいということだった。大事なものがなくなってしまった、価値のない世界だ。
 なんのためらいもなく、昭洋はベランダの手すりに手をかけ、身を乗り出した。




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