心地の良い場所 −ZERO− 
13。 



「何をしているっ」
 怒声とともに、腰に何かが巻きついて強い力で引っ張られる。宙に身を投げ出しかけていた 昭洋の体は簡単に引き戻されたが、反射的に手すりを掴んでいた。
「昭洋っ」
 手すりから強引に手が引き離 されても、なおも昭洋はすがりつこうとする。
「放せっ」
「死ぬつもりかっ」
 背後から きつく抱きすくめられながらの言葉に、一瞬動きを止めた昭洋は、力なくその場に座り込んでいた。
「……ぼくは、 こんな思いをするために、いままで生きてきたのか……」
「昭洋?」
 ベランダのコンクリートに両手をつい て昭洋は肩を震わせる。溢れ出した涙がポタポタと滴り落ち、全身の力が抜けていく。絶望に心を引き裂かれる痛みを 味わうぐらいなら、このまま消えてなくなってしまいたいと願ったが、それは叶わなかった。
 半ば抱きかかえら れるようにして部屋の中に引きずり込まれ、目の前で窓が閉められる。それでも昭洋はベランダに出ようと手を伸ばし たが、引き戻された挙げ句に、投げ出された勢いで畳の上に座り込んでいた。
「しっかりしろっ」
 一喝され、 鋭く頬を打たれた。衝撃に視界が揺れ、顔半分が痺れるような痛みに動けなくなる。その間に、しっかり肩を掴まれて 顔を覗き込まれた。
 槙瀬は、いままで見たこともないような怖い顔をして、荒い呼吸をついていた。昭洋を止め るために、力加減しなかったということだ。
 それだけ昭洋は死に物狂いだった。死に物狂いで、自らの命を絶と うとしていた――。
 また、心に深いヒビが入った音がする。まばたきも忘れて槙瀬の顔に見入りながら、昭洋は 尽きることなく目から涙を溢れさせていた。確実に、自分の中の何かが壊れたと思った。
「何が、あった……」
 槙瀬の声が遠かった。殴られたせいか、本能が、この男のすべてを拒絶しようとしているのか、昭洋にはわから ない。
 最後の望みにかけるように、声を絞り出してこう呟いた。
「――……父、さん……」
 この瞬間、 槙瀬は一切の表情をなくし、凍りついた。反対に昭洋は、涙を流しながら唇を歪めるようにして笑う。
「否定、し ないんですね……。『あれ』を見て、まさかと思ったんですけど」
 昭洋が視線を向けた先には、畳の上に置いた 写真と母子手帳がある。それですべてを把握できたらしく、槙瀬は深いため息をつくと、昭洋同様、脱力したように座 り込んだ。
「……説明が面倒なら、もういいです。過程なんてどうでもいい。大事なのは、たった一つのことだけ です」
 まるで台詞を棒読みするように、昭洋は淡々とした声で言った。
「あなたは――ぼくの父親なんです ね」
 深い苦悩を秘めた目で、槙瀬がじっと見つめてくる。そして、ためらうことなく頷いた。
「そうだ」
 昭洋は涙で濡れた目を乱暴に拭うと、這ってベランダに向かおうとする。すかさず槙瀬に抱き締められた。
「触るなっ。ぼくに触るなっ。……捨てた、くせに……。ぼくの存在なんて、望んでなかったくせに――」
「今は 望んでいるっ。今は、誰よりもお前が大事なんだっ。だから、話を聞いてくれ」
「嫌だっ。何も聞きたくないっ… …。ぼくをずっと、騙していた人の言うことなんて、聞きたく、な、い……」
 なんとか槙瀬の腕の中から逃れよ うとしたが、昭洋の骨を折ってもかまわないといった様子で、腕の力はますます強くなるばかりだ。
 昭洋は子供 のように首を左右に振り、全身で槙瀬を拒絶しようとする。しかしどれだけ暴れても、決して槙瀬は放してくれなかっ た。
 次第に昭洋の抵抗は緩慢になり、息が上がってくる。弱々しい声でこう訴えるしかなかった。
「……死 なせ、て、ください。もう、何もないんです。ぼくをこの世に繋ぎとめてくれるものは。こんな世界、もういたくない ……。いままでだってそうだったけど、ただきっかけがないだけだった。だけど今は――」
 いままで生きてきて、 それほど多くのものを望んではこなかった昭洋が、唯一強く望んだのが、槙瀬との繋がりだった。この人と繋がりたい と強く望み、その結果、確かに繋がってはいた。ただし、最悪の形で。
「なんで、早く教えてくれなかったんです か……。ぼくが、あなたに向ける気持ちを知っていながら、なんでっ……」
 掴まれた腕に、ぐっと槙瀬の指が食 い込む。昭洋が涙で濡れた目で見上げると、ようやく腕の中から解放された。すぐに昭洋は槙瀬から離れた。あんなに 焦がれた槙瀬の温かさが、今は何よりも忌々しく、気持ち悪かった。
 体を引きずるようにして移動して、写真と 母子手帳に近づく。手に取ると、また涙が溢れ出してきた。
「――お前のおばあちゃんが、送ってきたんだ。おば あちゃんたちの家に引き取られてから一度も、お前に会いに行くどころか、連絡さえ寄越さなかった俺に対して。父親 としての最後のチャンスをくれたんだろうな。自分に息子がいることを覚えているのか、と電話で罵倒された」
  そんなやり取りがあったことなど、もちろん昭洋は知らないし、祖父母も素振りにも出さなかった。
「……まだ首 も据わっていなかった頃のお前しか知らなかっただけに、その写真を見たときは、衝撃を受けた。俺の子は、もうこん なに大きくなっていたのかってな。もっとも、その写真が手元に届いたとき、お前はもう、二年生になっていたはずだ。 そして、俺が初めてお前を遠目から見たときには、四年生……」
「ぼくに、会いに来たことがあるんですか」
「会いに、じゃない。見に行ったんだ。たまたま近くを通りかかったとき、たまたまお前の通っていた小学校で運動会 をしていた。そしてたまたま、俺は時間があった」
 槙瀬は正直だと思った。昭洋と会うための努力をしてこなか ったと、言っているようなものなのだ。
「体操服に、大きく名前を書いてあってくれて助かった。おかげで、お前 だとわかったんだ。そうじゃなかったから、きっとわからなかった。今なら……、離婚した頃の母親によく似ているか ら、顔を見ただけでわかるだろうがな」
 小学生の昭洋を見て以来、数年に一度だけ、様子をうかがいに行ってい たと槙瀬は言った。ただ、それだけだ。どんな生活を送って、どんな進路を希望しているか、そういったことは一切知 ろうとしなかったらしい。
 あくまで遠目に眺めるだけの息子。それが槙瀬にとっての、昭洋という存在のすべて だったのだ。
「……お前が何事もなく生きていけるなら、それでいいと思っていた。ロクでもない父親のことなん て、記憶の隅にでも残らないほうが幸せだ。だから一生、お前の人生に関わらないつもりだった」
「なのになんで、 今回のことでぼくに声をかけてきたんですか。あのとき、あなたが話しかけてこなければ、多分ぼくたちは、会社の中 ですれ違っても、知り合うことはなかった」
「――……あのときが、俺がお前の力になれる、最初で最後のチャン スだと思ったからだ」
 昭洋は、母子手帳を思い切り槙瀬に投げつけ、睨みつける。
「ぼくを捨てた罪滅ぼし でしょうっ? いや、それですらない。ぼくの力になったつもりで、自分の罪悪感を薄めたかっただけだっ」
 槙 瀬は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。ただ、母子手帳の表紙を指先で撫でていた。いままでも、ときおり母子 手帳を眺めながらそうしていたと、容易に想像させられる姿で、物悲しさが漂っている。
「なんで、その母子手帳 ……、姓が〈塚本〉なんですか。あなたと結婚していたんなら、母さんの姓はまだ、〈槙瀬〉だったはずじゃ……」
 今となってはどうでもいいことかもしれないが、このときの昭洋はむしょうに気になった。母親は過去のことを 話したがらないため、もう尋ねられるのは槙瀬しかいない。
 その槙瀬は、暗い表情で教えてくれた。
「多分、 お前が生まれてから離婚したと言われてきたんだろうが、そうじゃない。お前が母さんのお腹の中にいるときに、俺た ちは離婚した。そのときは、妊娠していたことはわからなかったんだ。別れた直後にわかって……、俺たちは、形だけ は一緒に暮らすことになった。お前の母さんが精神的に不安定になっていて、体調が心配だったんだ」
「そして生 まれてから、厄介者のぼくを認知もせずに、祖父母に押し付けたんですね。その母子手帳と一緒に」
「――そうだ」
 学生だった槙瀬と母親は、ママゴトのような夫婦生活をほんの一瞬、楽しんだだけだった。その結果、背負うこ ととなった問題を、何一つ自分たちで片付けようとしなかったのだ。
 槙瀬は自嘲気味な口調で、槙瀬にとって、 それ以上に昭洋にとって苦痛な過去を話し続ける。
 これが他人事であれば、なんと無責任だと怒りもできただろ う。だが、当事者である昭洋は、事実が積み重ねられるたびに心をザクザクと切り裂かれ、血の代わりに涙を流してい た。
 自分が両親から捨てられた存在であることは、子供の頃からわかっている。なのにこんなにもショックなの は、槙瀬の口から語られているからだ。
 深く繋がることを求めていた相手は、昔、昭洋と家族としての繋がりを 絶っていたのだ。
 畳に両手をついた昭洋は、嗚咽を洩らし、肩を震わせる。言葉を重ねるだけ、自分が惨めにな っていくようだった。そんな自分に最後の一押しをするように、槙瀬に問いかける。
「どうして、ぼくが求めた行 為を、拒まなかったんですか……。本当のことを言えば、それで済む話だったのに……」
「――お前は、母さんと 本当によく似ている。顔立ちも、情の強さも、警戒心が強い反面、心を開いた相手には、こちらが不安になるほどなん でも委ねてくる無防備さも。何より、繊細なところも」
 記憶にある母親の言動を思い出し、昭洋は、槙瀬が何を 言おうとしているか察した。
「あの人……昔から扱いが難しかったんですね。感情の波が激しくて、精神的に不安 定で、まるで、最近のぼくそのものだ。自分で感情のコントロールができないんです」
「お前と一緒にいて、すぐ に、お前の母親と一緒にいた頃の感覚が蘇った。だから本能でわかった。きっと、『父親』の俺では、お前を支えてや れない。お前もそれを望まない」
 槙瀬が言うとおりだった。会社の騒動の渦中にあるとき、突然、目の前に『父 親』が現れたとしても、昭洋は絶対に受け入れないし、それ以前に認めはしなかった。その時点で、槙瀬との関係は終 わっていたはずだ。
 だからといって、槙瀬が正しいとは認めたくない。
「どんな気持ちから、実の息子とあ んなことをしたんですか? 贖罪、同情、義務感、好奇心、それとも、感情なんて必要なかった――」
「……愛情 だ。そう、俺は思いたい」
 カッとした昭洋は、這って槙瀬の元に戻ると、拳で肩や胸を殴りつける。
「ふざ けるなっ。ぼくを捨てたくせにっ。子供の頃のぼくを、ただ遠目から眺めていただけのくせにっ。なんでっ……、大人 になって、何もかも理解できるようになったぼくの目の前に現れたっ。おかげで、大人のぼくは、厄介な感情で苦しま なきゃいけない……」
 泣き叫びながら昭洋は訴え、何度も槙瀬の肩を殴る。次第に力が抜けてきて、殴りつけて いた肩に顔を埋めて泣きじゃくっていた。そんな昭洋を、槙瀬は両腕で抱き締める。
「――……どんなに詰られよ うが、お前が愛しいんだ。これが息子に対する愛情というものなのか、親の資格をとっくになくした俺にはわからない。 ただ、愛しいという感情だけは、はっきりしている。俺は、お前を守りたいし、支えたいんだ」
「勝手なことばか り言うなっ」
「わかっているっ。だけど、お前を放っておけなかった。お前がいいように利用されて、ボロボロに 傷ついていくところは、見ていられなかった……。俺と、お前の母さんのせいだとわかっているが、自分にも、この世 界にも執着していないように見えたお前は、何かの拍子に、簡単に生きていることを捨てる。俺はどんな手を使ってで も、お前を引き止めておきたかった。今も、その気持ちに変わりはない」
「……どっちにしろ、ぼくはボロボロに なる運命だったんだ。早いか遅いかの違いで……」
 槙瀬の腕の力が強くなる。これが父親の腕だと思うと、言い ようのない嫌悪感と吐き気を覚えるが、一方で、この感触が心地いいと感じる自分もいる。
 それだけ、槙瀬に対 する想いが深く、求めていたということだ。少し前まで、槙瀬にこんなふうに抱き締められるだけで、たまらなく嬉し かったのだ。
 昭洋は決して、槙瀬に対して父性など求めていなかった。本当に純粋に、恋愛感情の対象としてし か、見ていなかった。目に見えない血の繋がりを感じたから、急速に槙瀬に惹かれたなどとは思わないし、信じたくな かった。
 激しい憎悪と嫌悪を孕んでも、狂おしいほど槙瀬が好きだという気持ちだけは、変わらない。絶望に打 ちのめされながらも。
「――あなたはいい。自分が抱えた罪悪感をぼくにぶつけて、ぼくを助けて、救われた気持 ちになって。だけど、ぼくは……、ぼくは、どうすればいい? ぼくは……少しも救われないっ」
 槙瀬の腕の中 から出ると、もう一度ベランダに向かおうとしたが、伸ばされた片腕に阻まれた。寸前までの苦しげな表情とは一変 して、厳しい顔つきで槙瀬が言った。
「何があっても、お前を死なせたりしない。俺をとことん憎みながら、それ でも生きるしかないんだ。……お前を生かせるためなら、俺はなんでもする」
 お前を守りたいんだと、呻くよう に言われ、昭洋は体から力を抜いた。目を開いていながら、何も見えていなかった。意識がどこかに飛んでいったのか もしれない。
 一気に押し寄せてきた感情の波を、ヒビが入って軋んでいた昭洋の心は受け止めきれなかったのだ。
 自分の心が砕け散る音を、昭洋は呆然としたまま聞いていた。




 槙瀬は、自ら命を絶とう とする昭洋に対しては容赦なかった。
 キッチンで隙を見て包丁を探そうとすれば、すかさずすべて処分され、喉 を突くおそれがあるボールペンの類すら、見えないところに隠された。
 ベルトや、スウェットパンツの紐すらも、 取り除かれる徹底ぶりだ。
 ただ、そうする以外では、槙瀬は優しかった。まるでガラス細工でも扱うように、昭 洋の世話を焼いてくれた。死のうとする以外、何もしようとしないのだから、仕方ないかもしれない。
 このまま の状態でいたら、槙瀬はずっと、側にいて優しくしてくれるのだろうか――。
 体を横向きにした昭洋は、ぼんや りとそんなことを考えながら、布団の傍らに座っている槙瀬の背を見上げていた。昭洋が片時も目を離せないため、槙 瀬はこの二日間、事務所に行くこともできず、買い物すら誰かに頼んで行ってもらっていた。
 ただ、ずっと一緒 にいて、こんなに側にいながら、槙瀬との間には見えない距離が存在していた。
 昭洋の中では、槙瀬に対する愛 しさと憎しみが行き来し、その感情の揺れに翻弄される。不安定になっている精神には、つらかった。
 苦しむ昭 洋を見かねたように槙瀬は、明日、病院に連れて行くと言った。精神安定剤でも睡眠薬でも、昭洋の精神を休めるため には何かしらの薬が必要だと判断したのだ。
 昭洋と似たような気質を持っていたという母親と槙瀬の生活も、案 外こんな感じだったのかもしれない。そう考えた途端、昭洋の胸に広がったのは、母親に対する怒りではなく、明確な 嫉妬だった。
 自分の度し難さに、吐き気がする。昭洋は小さく身じろぎ、枕に頬を擦りつけた。すると、微かな 物音に気づいた槙瀬が、開いていた本を閉じて振り返った。昭洋の顔を見るなり、表情が曇る。
「……苦しいのか ?」
 そんな言葉がかけられると同時に、片手が伸ばされて髪を掻き上げられ、目元を拭われた。自覚がないまま 涙を流していたらしい。
「もう、手首の紐を解いて……。暴れる元気もないから」
 昭洋の言葉に、槙瀬は手 首を縛っていた紐をすぐに解いた。
 朝方、ベランダに出ようとしたところを止められ、槙瀬と揉み合いになった 挙げ句に、昭洋が自分の手首の肉を噛み切ろうとしたため、後ろ手で縛られることになったのだ。息を荒らげ、全身の 毛を逆立てたような興奮状態の昭洋を、槙瀬はしばらく、ただ抱き締めてくれていた。
 気持ちが落ち着く前に、 過呼吸で意識が飛んでしまったらしく、気がついたときには手首を縛められたまま、布団に寝かされていたというわけ だ。
 仰向けとなった昭洋は手足を伸ばす。涙を流しすぎたせいで、頭が痛くて熱っぽかった。押し寄せてくるの は、体が溶けてしまいそうな脱力感と絶望感だ。
 槙瀬との本当の関係を知って失ったものはあまりに大きくて、 ぽっかりと胸に空いた穴にどんなものを詰め込んで埋め合わせればいいのか、昭洋にはわからなかった。槙瀬に対する 憎しみだけでは、圧倒的に足りない。
 そもそも自分は、槙瀬を憎んでいるのだろうか――。
 ぼんやりと天 井を見上げる昭洋の髪を、槙瀬がもう一度掻き上げてくる。ふっと視線を槙瀬の顔に向けながら、昭洋はのろのろと片 手を伸ばした。
「――……ぼくと、あなたの位置だ」
「どういう意味だ?」
「ぼくは深い底に沈んで、あ なたはそんなぼくを、上から見下ろしている……。気まぐれに手を差し伸べてくるけど、きっとぼくには届かない。ぼ くはただ、沈むだけだ。それをまた、あなたが見下ろしている」
 槙瀬の頬に触れようとする寸前、指先をきつく 握り締められる。呻くように槙瀬が言った。
「俺は、いまさら沈む余地すらない。完全に、堕ちてしまっている。 赤ん坊だったお前を、一度も抱き上げることなく手放した時点でな」
「……槙瀬さんが堕ちた場所はどこ? ぼく が沈んでいるのは、多分地獄だ。苦しみしかない場所だ……」
「昭洋――」
 胸にぽっかりと空いた穴に、ふ っと熱風が吹き込んだ錯覚を覚えた。よくも悪くも、その感覚は昭洋に気力を呼び起こさせた。同時に、あさましくて おぞましい企みも。
 槙瀬を、自分に縛り付けるための最悪の方法を、昭洋は思いついていた。それは執着である 一方で、槙瀬にこの先、幸せなど味わわせないという報復の意味も含んだものだ。
「槙瀬さん……」
 返事の 代わりに槙瀬がそっと目を細める。昭洋は数日ぶりに槙瀬に笑いかけた。
「キスして」
 指先を握る手に、わ ずかに力が込められる。あまり表情を見せない槙瀬なりの、動揺の表れだと思うと、昭洋の中に残酷な衝動がますます 湧き起こる。
「もう……そういうことはやめておいたほうがいい。いままでとは、違う」
「でも、したい」
「ダメだ。お前が傷つくだけだ。俺もつらい……」
「これまでと同じだよ。ただ、ぼくが事実を知っただけで、 それ以外は何も変わってない。槙瀬さんなんて、何もかも知っていたのに、ぼくにいろいろしてくれたじゃないか」
 槙瀬はまばたきもしないまま、昭洋を凝視してくる。昭洋が得体の知れない生き物に変わったとでも思っている のかもしれない。
 昭洋自身、自分が混沌とした感情に呑み込まれ、よくわからない人間になったと感じているの だ。ただ、何もかも投げ遣りに――自分の命すらどうでもよくなっている精神状態の器としては、ちょうどいいのかも しれない。
 昭洋はゆっくりと顔を背け、槙瀬を追い詰めるようなことを言った。
「――舌を噛み切って死ね たらラッキーだ。ぼくにとっても、槙瀬さんにとっても」
 次の瞬間、片手を布団の上に押し付けられ、あごを掴 まれて槙瀬のほうを向かされた。
 鋭い視線に怯むことなく、昭洋もきつい眼差しを槙瀬に向ける。
「ぼくは、 本気だから。こんな体も心も、命だって、なんの価値も感じない。だけど……ぼくをこの世に繋ぎとめたいなら、見 せてほしい。槙瀬さんの気持ちを」
「……試して、いるのか?」
「誰のせいだよ。ぼくを、こんなにしたのは」
 憎しみを込めて言い放ちながらも、昭洋の目から再び涙がこぼれ落ちる。痛ましげに一瞬顔を歪めた槙瀬が、こ めかみを伝い落ちる涙をてのひらで撫でるようにして拭いながら、顔を近づけてくる。
 啄ばむように唇を優しく 吸われ、小さく吐息を洩らした昭洋は両腕を槙瀬の背に回す。すると槙瀬が慎重に覆い被さってきて、深く唇が重なっ た。
 槙瀬が自分の父親だという事実が頭を過るたびに、嫌悪感から槙瀬を押し退けたくなる。その嫌悪感をねじ 伏せてキスに没頭していると、倒錯した興奮と官能が昭洋を支配し始めるのだ。
 罪悪感や嫌悪感から逃れるため に、脳内が生み出した錯覚かもしれないが、昭洋が酔うには十分すぎるほどの甘美さだった。
 絡めていた舌を解 き、喘ぎながら昭洋はせがんだ。
「一緒の場所に堕ちたい……。それともまた、〈あんた〉はぼくを見捨てる?  遠くから、苦しむぼくをただ眺める?」
「……何を言っているのか、わかっているのか」
「ぼくはずっと、繋 がりたかった。――槙瀬さんと」
 苦しむだけだと槙瀬が洩らし、それでもいいと昭洋が答える。
「血の繋が りよりもずっとリアルに、父親と息子だってことを実感させてくれるよ。その苦しみが」
 壊れた昭洋の心は、一 途なぐらい槙瀬だけを求めていた。
 槙瀬は返事の代わりにもう一度キスを与えてくれながら、昭洋の体に触れて きた。






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