心地の良い場所 −ZERO− 
15。 



 ひんやりとした風に頬を撫でられるとともに、煙草の匂いに鼻腔をくすぐられる。うつ伏せの状態で、眠っていたというより、 猛烈な気だるさを味わっていた昭洋は、ゆっくりと目を開いた。
 自分に与えられている部屋ではなく、槙瀬が普段使ってい る部屋で横になっているのだが、残り香にしては煙草の匂いが強い。それに、どこから風が入ってきているのか――。
 昭洋 は重い頭をなんとか持ち上げ、ゆっくりと室内を見回す。いつの間に帰ってきたのか、ベランダに面した窓を開け、畳の上に座り 込んだ槙瀬が外の景色を眺めていた。唇には煙草を挟んでおり、その煙が風に乗って流れてきていたのだ。
 槙瀬は、昭洋が 起きたことに気づいていないらしく、ただ静かな表情で外を見つめ続けていた。本当は景色など目に入っておらず、もっと遠い何 かを見ているのかもしれない。槙瀬の表情は、そう思わせるだけの憂いのようなものを含んでいた。
 外は明るく、太陽はま だ高い位置にあるようだ。朝、薬を呑んで横になった昭洋だが、体に残る気だるさと眠気から、それほど時間が経っていな いようだと見当をつける。気を抜くと、またすぐに思考が活動をやめてしまいそうだ。
 たまらず頭を振ると、ようやく槙瀬 が気づいてこちらを見る。
「寒かったか?」
 開口一番の問いかけに、昭洋は目を丸くしてから唇をわずかに綻ばせる。 まっさきに自分のことを気遣ってくれたことが嬉しかった。
「平気だよ」
 答えてから、昭洋はゆっくりと体を起こす。
「寝てていいぞ。事務所を出る用があったから、そのついでに、ちょっと様子を見に帰ってきただけだから」
「うん……。 でも、すぐに仕事に戻るんなら、それまで起きてる。――今、何時?」
「ちょうど昼だ。腹が減ってるなら、何か買ってくる が」
 首を横に振った昭洋は、這うようにして槙瀬の元まで行き、両足を投げ出すようにして座る。これだけ動くだけでも頭 がクラクラして、一人で座っていられない。
 ふらつく昭洋は肩を抱き寄せられ、促されるまま槙瀬の肩に頭をのせた。
 体を寄せ合ったところで何を話すでもなかったが、ぼんやりと外の景色を眺めているうちに、なんとなく槙瀬の指を握っていた。 このときになって昭洋は、槙瀬が昼間のうちにこうして顔を出してくれたことを、自分が喜んでいるのだと知った。
 もしか すると槙瀬は、昭洋が眠っていて知らないだけで、毎日こうして暇を見つけては様子を見に帰ってきていたのかもしれない。
「……初めてこの部屋に来たとき、こんな状態で槙瀬さんと外の景色を見ることになるなんて、思いもしなかった」
 ぼんや りとしながら昭洋が呟くと、槙瀬に手を握り返された。
「そうだな。お前をここに連れてきたときは、何も知らせないつもり だった」
「思い通りにいかないのが、人生ってやつ?」
「俺は、好き勝手にやってきたから、自業自得だ」
 槙瀬か ら、そんな自虐的な言葉を聞きたかったわけではない。昭洋が感情の高ぶりのままに手酷い言葉をぶつけることがあるが、その昭 洋が落ち着いているときは、槙瀬は自分自身を貶めるようなことを口にする。絶えず自分を責めることが、まるで義務であるかの ように。
 そんな槙瀬に対して昭洋は、苛立ちと同情、奇妙に捻れた愛情を覚えるのだ。
 だが今は、槙瀬を責める言葉 を聞きたくもないし、言いたくもなかった。薬の効力に囚われすぎている昭洋の思考は、重い言葉を受け止められるほどクリアで はない。
 押し寄せてくる眠気を耐えるため、槙瀬の肩に額をすり寄せる。
「眠いなら、横になれ」
「子守唄を唄っ てくれるなら、素直に寝てあげるよ……」
 昭洋の冗談に、槙瀬が短く声を洩らして笑う。どういう意味か、荒っぽい手つき で頭を撫でられた。
 こういう空気は嫌ではなかった。何も知らないまま出会った頃の堅苦しい空気でもなく、一方的な片思 いで苦しみ、槙瀬を意識している頃の空気でもない。だからといって、体を重ねたあとの気だるく、罪悪感と不安に苛まれる空気 でもない。
 こういう空気が、父と子の間に流れる空気なのだろうかと、漠然と昭洋は想像してみる。もちろん、昭洋の中に 正解など存在しないのだが。
 今すぐ、この空気を手放してしまうのは、あまりに惜しい気がした。
 昭洋は、緩慢にな っている思考を懸命に働かせ、槙瀬との会話を続けようとする。
「――ぼく、ずっと気になってたことがあるんだ」
「な んだ」
「なんで、調査事務所なのか。うちの会社……ぼくが働いていた会社とつき合いがあるぐらいなら、けっこう信用があ るということだろ。つまり、それだけキャリアが長いのかなって」
 ああ、と声を洩らした槙瀬は別に隠すつもりはないのか、 あっさり話してくれた。
「いろいろと仕事をしているうちに、大手の調査事務所に居ついたんだ。足を使う仕事は嫌いじゃな かったし、世間を裏側から眺めるのは、捻くれた性格の俺には合っていると感じたからな。実際、その通りだった。……ただ俺は、 団体に所属することには不向きだったみたいで、仕事のやり方を覚えたら、独立して、下請けになった」
「優秀な調査員?」
「言われた以上のことはしない、欲は出さない――。そういう調査員、だった。いろんな人間を見てきたから、自分の仕事に 最低限の決め事を持っていた。これだけは守ろうと」
 スウッと一瞬意識が遠のきかける。間近で聞き続ける槙瀬の声が心地 よかった。さきほどの冗談ではないが、このまま何か話してもらいながら眠りたいぐらいだ。
 それでも昭洋は懸命に目を擦 り、槙瀬の話を聞くことに集中しようとする。そんな昭洋を見て、槙瀬は柔らかな苦笑を浮かべる。
「そこまでして必死に聞 くような話じゃないぞ」
「いいから……。話が聞きたいんだ。ぼくは、槙瀬さんのこと、何も知らないから」
 肩を抱き 寄せていた槙瀬の手が、頬にかかる。昭洋はその手を取り、自ら頬をすり寄せた。
「――……まさか、この歳になって、その 決め事を破ることになるとはな」
「ぼくのこと?」
「お前のせいだと言っているわけじゃない。ただ、ふっと目がくらん だんだ。調査のことをきっかけに、お前に近づけるかもしれないと思って。……言われた以上のことはしない。欲は出さない……。 俺はたった二つの決め事を、大人になったお前を目にした途端、同時に破った」
 槙瀬の声は淡々としているが、心の内にど れだけの苦渋や後悔が渦巻いているのかと思うと、昭洋の胸は苦しくなってくる。
 昭洋が槙瀬に与えている苦しみが反射し、 結局は昭洋自身にも返ってきて、そんな昭洋の苦しみを感じ取って、槙瀬はさらに苦しむことになるのだろう。
 これが望み のはずだったのだ。槙瀬を苦しめて、傷つけて、縛りつけて――。
 自分はこの先ずっと、苦しむ槙瀬を見つめていけるのだ ろうかと、昭洋の中に疑問が湧き起こる。その疑問の答えは、もう出ているようなものだった。
 槙瀬も愚かだが、何より自 分自身の愚かさに、今すぐこの場から消えてなくなりたかった。昭洋の視線は、吸い寄せられるように外の景色ではなく、もっと 近い、目の前のベランダへと向けられる。
 昭洋がどこを見ているのか気づいたのか、頬に触れていた槙瀬の片手に両目を覆 われた。
「――……苦しむなら、一緒だ。だけど、一人だけ楽になろうなんて思うな。お前がいなくなっても、俺は絶対楽に はならない。むしろ、苦しみが増すだけだ。しかもその苦しみを、俺は一人で背負わないといけない」
「槙瀬さん……」
「お前と俺の間で、苦しみは愛情そのものだ。お前は俺に、自分の愛情だけを押し付けていなくなる気か?」
 昭洋は震えを 帯びた息を吐き出し、おそるおそる尋ねた。
「あんな、歪んだ愛情でも……?」
「最初に、お前に歪んだ愛情を向けたの は俺だ。そもそも俺には、まともなのか歪なのか、愛情をそんなふうに判断する基準も、権利もない。ただ、相手がお前だから応 えた」
 頼むから、と呻くように槙瀬は言葉を続けた。
「俺だけを残していかないでくれ。理屈はどうでもいい。俺はお 前に、しっかり地面に足をつけて生きていてほしい。ずっと側にいてほしいなんて贅沢は言わないから――」
 ゆっくりと両 目から手が退けられたとき、昭洋の視界はぼやけていた。涙が溢れ出し、槙瀬の指に拭われる。たまらず昭洋は槙瀬にしがみつい た。
「ぼくが、槙瀬さんに対してどんなひどいことを考えているか、知らないくせにっ……」
「知ろうが知るまいが、関 係ない。俺はお前と一緒にいたいんだ」
 惜しみなくかけられる槙瀬の言葉が、心に痛かった。そんなふうに言ってもらえる ような存在ではないのだと、主張したかった。
 できなかったのは、強烈な眠気に襲われたからだ。眠気をさらに促すように、 槙瀬に頭や背を撫でられ、もう昭洋は抗えなかった。
「……お前は何も考えず、眠ればいい。俺がそうしてほしいんだ」
 もっと槙瀬と話したかったが、すでに昭洋は唇を動かすどころか、瞼を開けることすらできなかった。




 また夜が来てしまった――。
 昭洋は閉じていた瞼をゆっくりと開き、枕元のライトでぼんやりと照らされる天井を見上げ る。すると槙瀬に顔を覗き込まれ、前髪を掻き上げられた。
 夜になると、病的なほどに槙瀬の体温が恋しくなり、禁忌を重 ねるだけだとわかっていながら、その衝動に歯止めが止められない。
 重ねた素肌の心地よさに吐息を洩らしながら、昭洋は 両腕を槙瀬の背に回し、熱くなっている肌をてのひらでまさぐる。
 毎夜、槙瀬は昭洋の求めに応じて体に触れ、キスを与え てくれる。そうすることで昭洋の精神が落ち着くとわかったからだ。
 一度体を重ねてしまえば、あとは何度関係を持とうが 同じことかと思っていたが、毎夜知る槙瀬の体の感触も体温も汗の匂いも、すべてが昭洋にとっては衝撃的で、禁忌を犯している という事実を、心と体に刻みつけていた。だけど、やめられない。
「あっ……」
 すっかり慎みを失っている部分に、再 び槙瀬の指が挿入され、ゆっくりと出し入れされる。小さく吐息をこぼしながら昭洋は、槙瀬と唇を吸い合う。すでに昭洋の体の 扱い方を覚えてしまった槙瀬の指は、的確に感じる場所を探り当て、指の腹で擦りながら押し上げてくる。
「うっ、あぁっ― ―」
 敷布団の上でビクビクと体を震わせながら喉を反らすと、槙瀬の唇に柔らかく吸われる。喉元に丹念に唇が這わされ、 首筋を舐められ、昭洋は甘えるような声を洩らしていた。
 欲しい場所に、欲しい愛撫が与えられるのは、ひどく気持ちよか った。
 ただ槙瀬の愛撫は、子供が寂しがらないよう、大人が絶えず新しいおもちゃを与えているようであり、愛撫に感じる 昭洋は、大人に気をつかって喜ぶふりをしている子供のようでもある。何かを保ち続けようと、昭洋も槙瀬も必死なのだ。
  体を起こした槙瀬のもう片方の手が、さきほどから透明な涙をこぼしている昭洋のものにかかり、括れを擦られる。昭洋はのろの ろと手を伸ばし、その槙瀬の手を止める。
「それ、いいから……、今日は、中に欲しい……」
「……いいのか?」
「うん」
 槙瀬からの愛撫は毎夜のことだが、体を繋ぐのは数日おきだった。昭洋がだるさのあまり、行為を受け付けられな いこともあるし、翌日の仕事の都合で槙瀬があまり無理できないということもある。互いにそれとなく事情を察することができる 程度には、体の関係は深くなっていた。
 昭洋は自らうつ伏せとなると、背に槙瀬の重みがかかり、首筋や肩に慰撫するよう な愛撫が与えられる。腰を抱え上げられ、背や腰に唇が押し当てられながら、内奥を指で念入りに解される。
「あっ、くうっ ……ん」
 枕に口元を押し当て、声を押し殺す。ようやく、綻ばされた場所に熱く硬い感触が押し当てられ、昭洋の背筋にゾ クゾクするような疼きが駆け抜けた。
 肉の愉悦に対する期待と、苦痛に対する怯え、嫌悪感に罪悪感に――槙瀬が反応して くれていることへの安堵感。すべてがない交ぜになって、昭洋を高ぶらせる。
 ゆっくりと槙瀬のものが押し入ってくる。昭 洋は呻き声を洩らしながらシーツを握り締め、確実に槙瀬と繋がっていく感覚を味わう。
 昭洋を気遣うように腰を撫でられ、 欲望が萎えていないか確かめるように両足の間に片手を差し込まれ、高ぶりの形をなぞられる。思わず腰を揺らすと、緩やかに内 奥を突き上げられた。
「あっ、あっ、父、さ――」
 こんなときでしか、昭洋は槙瀬を『父さん』とは呼ばない。今とな っては、皮肉で呼んでいるのか、恋しくて呼んでいるのか、昭洋自身にも判断はつかなかった。確かなのは、体を重ねているとき 以外では、決して槙瀬をそう呼べないということだ。
 腰を掴まれ、このときだけは激しく揺さぶられて繋がりが深くなる。 内奥に槙瀬の欲望のすべてを受け入れ、昭洋は息を喘がせる。そのたびに槙瀬のものをきつく締め付け、同時に、自分が受け入れ たものの存在を強く意識もさせられる。
 昭洋のものは、緩やかな律動に合わせて槙瀬の手によって上下に擦られ、ときおり 先端を指の腹でヌルヌルと撫でられる。
「うっ、あぁ……。い、から……。触ら、ないで……」
 昭洋は槙瀬の手を押し 退けようとするが、このとき内奥をぐうっと突き上げられ、思わず槙瀬の腕を強く掴む。
「あっ、んあっ。と、さ――。父さ ん」
 さらに腰を引き寄せられ、二人はこれ以上なくしっかりと繋がる。間欠的に声を上げる昭洋の後ろ髪を、手荒な手つき で槙瀬に撫でられたが、思いがけずその感触は、どんな愛撫よりも心地よかった。
 昭洋が上げる声と、槙瀬の荒い息遣いが 重なる。そうなってやっと、律動によって生み出される快感に昭洋は身を委ねられるようになる。
 槙瀬の腕の中にいるこの 瞬間は、何も考えなくて済む――。
 これまでなら、この感覚が押し寄せてきたとき、昭洋は恍惚として考えることを放棄し てしまうのだが、今夜に限って、それができなかった。まるで、効力の強い薬を呑みすぎて、体がその薬に慣れてしまったかのよ うに。
 体は快感を追い求めていながら、心がこの状況からの逃げ道を求めていた。
 昨日の昼間、槙瀬と交わしたや り取りのせいかもしれない。あのときの会話がずっと、昭洋の心に重石のように残っていた。
 苦しみが愛情だと槙瀬の口か ら言わしめて、何を得たいのかわからなくなっていた。
 自分を捨てた〈父親〉への報復は、もう果たせた。一緒に堕ちてし まったのだ。なのに満たされない昭洋は、どうしても何もない世界への逃避に誘われる。
 そんな昭洋に対して槙瀬は、残し ていかないでくれと言った。一緒にいたいとも言ってくれた。贖罪にせよ、同情にせよ、昭洋はあのとき確かに、槙瀬から愛情を 感じたのだ。
 昭洋の心に重石が残ったのは、愛しているからこそ、槙瀬を苦しめたくないという想いに気づいたからだ。
 一緒にいたいけど、きっと一緒にはいられない。
 シーツに頬を擦りつけた昭洋の目から、涙が溢れ出る。そのことに 気づいたのか、動きを止めた槙瀬の指に涙を拭われた。
「つらいか?」
「……ううん。気持ち、いい……」
 涙を拭 った槙瀬の指を取り、唇を押し当てる。もう一度槙瀬に後ろ髪を撫でられ、律動が再開されると、昭洋は声を洩らしながらシーツ を握り直した。
 快感に逃げ込もうとした昭洋の目に、部屋の隅に置いたものが入る。それは、存在すら忘れかけていた昭洋 の携帯電話だった。槙瀬の部屋のコンセントを使って充電していたのだが、ここ何日かは、さまざまなことがありすぎて放置した ままだ。
 もう必要ないと思っていたのだが――。
 昭洋はゆっくりと目を閉じると、腰を掴む槙瀬の片手を取り、自分 の両足の間に導く。すぐに強い愛撫を与えられ、歓喜の声を上げて槙瀬の動きに応えていた。




 朝食を食べたあと布団に戻った昭洋は、錠剤シートを手の中で弄びながら、眼差しはずっと窓の外に向けていた。
「――水 を持ってきてやろうか」
 背後から槙瀬に声をかけられ、振り返った昭洋は頷く。すぐに槙瀬がキッチンに立ち、昭洋は薬を 一錠、てのひらにのせる。槙瀬から水の入ったグラスを受け取って喉に流し込むと、傍らに膝をついた槙瀬にすかさずグラスと錠 剤シートを取り上げられた。
 今朝の昭洋の様子から何かしら感じているのか、いつになく槙瀬は過保護で、昭洋の側から離 れようとはしない。
 頭を撫でられ、さすがに昭洋は苦笑を浮かべた。
「今朝はやけに、ぼくを子供扱いするんだね」
「……そうだな。今朝のお前は、妙に目が離せない」
「体がだるいだけだよ。昨夜……、ああだったし」
 行為のこ とを匂わせると、何も言わず槙瀬に頭を引き寄せられた。昭洋は槙瀬の背に腕を回しながら、さりげなく気づかれないよう、片手 に隠し持ったものを敷布団の下へと押し込んだ。
「今日は事務所に来ないか?」
 思いがけない言葉に、昭洋は目を丸く する。思わず体を強張らせてしまったが、その反応を槙瀬に知られてしまったのではないかと、気が気でない。
「だって……、 もう、薬を呑んだよ」
「事務所に来て何かしろというわけじゃない。今日は客が来る予定はないから、ソファに横になってい ればいい。ここから事務所に着く頃には、ちょうど薬も効いてくるだろうし」
 昭洋はちらりと笑みを浮かべ、槙瀬の唇に自 分の唇を押し当てた。
「前に事務所で会った人たちが急にやってきたら、ぼくのことをなんて説明する気? 知り合い、息子、 ……愛人。仕事をするでもなく、ソファで不自然に熟睡してるぼくを見たら、絶対変に思うはずだ」
「そういうことに立ち入 ってくるような連中じゃない」
「――今は、槙瀬さん以外の人間と会いたくないし、会いそうな場所にはいきたくないっ」
 癇癪を起こした子供のように強い口調で言うと、槙瀬は表情を曇らせながらも引き下がった。わかった、と答えて敷布団の 上に座り込み、当然のように昭洋は体を寄せて抱き締めてもらう。その状態でぽつり、ぽつりと話した。
「槙瀬さん、疲れる だろう? こんなぼくと一緒にいて……」
「普通に子供を育てていたら、親の苦労なんてこんなものじゃなかっただろううな。 昔、お前のおばあちゃんから、電話で聞いたことがある。お前はとにかく、手がかからなかったと。赤ん坊のときは夜泣きをほと んどしなかったし、同じ歳のどの子よりもオムツを外すのが早かったとか。一人で遊ぶのが好きだったとも言ってたな」
「何、 おばあちゃんから、そんなことまで聞かされてたんだ」
「いくら手がかからないといっても、子供一人を育てるのは、大変な はずだ。ここまで大きくな――……」
 槙瀬に髪や頬を撫でられながらの言葉に、昭洋は唐突な反発を覚える。祖父母がどん な思いで自分を育ててくれたか、ただ気まぐれに昭洋の成長を眺めるだけだった槙瀬にわかるはずがないのだ。
 槙瀬に対す る気持ちが純粋な愛情だけではないのだと、強く意識させられる瞬間だった。槙瀬が父親だとしても、盲目的にひたすら愛してし まえたほうが、まだ楽だ。そうでないから、昭洋は苦しい。
 込み上げてきた強い感情は強引に呑み込む。舌に感じた苦さは、 求めて与えられた槙瀬とのキスで麻痺させた。
 槙瀬の抱擁とキスに浸りながらも昭洋は、時間を計っていた。いつもなら、 どれぐらいの時間が経って、強烈な眠気が襲ってくるかを――。
 柔らかく槙瀬の舌を吸ってから、肩に顔を埋める。そんな 昭洋の背を、槙瀬は何度もさすってくれる。
「……そろそろ横になれ。起きているのがつらくなってきたんだろ」
 昭洋 は小さく頷き、槙瀬に支えられながら横になり、体に布団をかけてもらう。枕に頭を落ち着けると、すかさず前髪を掻き上げられ、 頭を撫でられる。思わず昭洋は微苦笑を洩らしていた。
「本当に、今朝は過保護だ、槙瀬さん」
「嫌か?」
 昭洋は 布団を口元まで引き上げて、ぼそぼそと応じた。
「嫌、じゃないから……戸惑う。ぼくは本当は、槙瀬さんを父親としてだけ 見たいのかもしれないって、気になるんだ。それに、時間をもっと昔に戻してほしいとも思ってしまう。そうだな……、例えば槙 瀬さんが、小学生だったぼくの運動会を見ていたときに。何かの偶然で、ぼくが槙瀬さんが気づいて、槙瀬さんが父親だと名乗っ てくれたら、何もかも変わっていたかもしれない。ぎこちない感じで、槙瀬さんはぼくの父親として振る舞ってくれたのかなって ……」
 いまさら言っても仕方ないけど、と付け加えると、唇を引き結んだ槙瀬に頭を撫でられる。
 目を閉じた昭洋は、 優しいその感触を受け入れ続けていたが、三十分ほどすると、槙瀬が静かに出かける準備を始めるのを感じた。昭洋は息を潜め、 寝入ったふりをしながら、槙瀬が出かけるのを待つ。
 ふいに槙瀬が枕元にやってきたときはドキリとしたが、もう一度昭洋 の頭を撫でて、部屋を出ていった。少しの間を置いて、玄関のドアが開閉され、外から鍵がかけられた音がする。それでも昭洋は、 しばらく身じろぎすらせず、全身の神経を尖らせていた。
 ようやく体を起こすと、まず敷布団の下をまさぐり、薬を取り出 す。呑んだふりをして、槙瀬の目から隠したのだ。
 昭洋は部屋の外の様子を絶えずうかがいながら布団から抜け出し、壁際 に置いた自分の携帯電話を取り上げる。充電をしなくても、かろうじてバッテリーの残量は残っているようだった。
 気がつ けば、心臓が痛いほど鼓動が速くなっていた。指先も微かに震えている。昭洋は大きく息を吐き出すと、携帯電話に残っている着 信履歴から電話をかけた。
 心のどこかで、相手に電話に出てほしくないと思っていた。そして、どんな気の迷いだったのだ ろうかと、自分を叱責したかった。
 だが現実は、昭洋に対して少しだけ甘かった。
 携帯電話の向こうから届いた声に、 胸が締め付けられる。数秒の間を置いてから、昭洋は低い声で用件を告げた。
「――……高畠さん、頼みがあります。これか ら、あなたのところに行っていいですか……?」
 高畠は、昭洋に対して過剰なほど甘かった。






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