と束縛と


- 第33話(1) -


 畳んだ自分の服を抱え、和彦は小さく唸り声を洩らす。守光から与えられている客間は、すっかりもう和彦の自室という様相だ。
 自宅マンションから必要に応じて服などを持ってきてもらっているためだが、客人らしく、遠慮しつつ部屋を使っているつもりだったのだ。なのに昨日、これを使ってくださいと、とうとう衣類用の収納ケースが客間に運び込まれてしまった。
 勘繰りたくはないが、『和彦のために』と言いながら、これから本格的に家具が配置されていくのではないかと、つい身構えてしまう。
「……少し、マンションに持って帰ろうかな……」
 せっかくクリニックが休みになるのだし、と声に出さずに続ける。
 世間はいよいよ、盆休みに突入する。多忙な生活を送っている和彦としては、堂々とクリニックを閉められる行事は歓迎したいところだが、ゆっくりできると素直に喜べるほど能天気ではない。これまでの経験で、休日を自由に過ごせた試しがないのだ。
 明日から約一週間、クリニックを閉めることになるが、どれぐらい休日として過ごせるだろうかと、すでにもう戦々恐々としている。
 できることならマンションに戻り、のんびりと寛ぎたいところだが、そういう希望すら、まだ守光に切り出せないでいた。
 一人になりたいと思いつつ、一人になるのが少し怖いという気持ちも和彦にはあった。
 数日前の鷹津との狂おしい行為を思い返した途端、胸の奥が妖しくざわつく。鷹津の腕の中で肉欲の獣に成り果てたときの高揚感は忘れ難い。同時に、鷹津の強引さに屈服させられた自身の浅ましさを、痛感もさせられる。
 鷹津との間にあったことを誰かに知られたらと考えると、寒気がする。賢吾にもさんざん指摘されてきたが、和彦は隠し事には向かない性格だ。特に、特別な関係を持つ男のことについては。
 長嶺の男は怖い――と、心の中でひっそりと呟いたとき、客間の外で騒々しい足音が聞こえてくる。和彦が知る限り、こんなににぎやかな気配を立てる人間は一人しかいない。ぎょっとすると同時に襖が開き、慌しく千尋が飛び込んできた。
「――先生、海に行こうっ」
 夏休みを待ちわびていた小学生かと思いつつ、和彦は胸元に手をやる。驚きすぎて、心臓の鼓動が痛いほど速くなっているのだ。
 目の前に座った千尋が、まるで主人の反応を待つ人懐こい犬のような眼差しで見つめてくる。なんとか動揺を鎮めた和彦は、抑えた声音で問いかけた。
「今からか?」
「違う、違う、明後日から出かけるんだよ」
 どちらにしても急な話だ。事態がよく呑み込めなくて眉をひそめると、和彦の戸惑いを察してくれたらしく、千尋は目を輝かせながら、弾んだ口調で説明を始めた。
「総和会の初代会長の法要があるんだ。でっかい寺で執り行うんだけど、今回は俺、オヤジに同行して出席することが決まってさ。で、法要のあとも行事があって、宿を取ることになってる」
「……宿の近くに、海があるのか?」
「すぐ側。前の法要のときは、オヤジやじいちゃんが法要に行って、ガキだった俺はそれを待っている間、泳いでたんだ」
 へえ、と声を洩らした和彦だが、すぐにあることに気づいて指摘する。
「泳ぐって、子供の頃ならともかく、お前は今は、ダメだろ」
 最初は意味がわからない様子で小首を傾げていた千尋だが、十秒ほどかけて、自分の体の状態を思い出したようだ。愕然とした表情で洩らした。
「あっ、俺、刺青……」
「大事なことを忘れるな。まだ入れている最中に、塩水になんて浸かったら大変だぞ。怪我しているのと同じ状態なんだからな」
 心底残念そうな顔をしている千尋を見ていると、可哀想にはなってくるが、何もかも覚悟して刺青を入れているのであれば、海水浴ができないことぐらい、大した問題にはならないはずだ。
 和彦は、千尋の頬を手荒く撫でてやる。
「そう、がっかりするな。この先、海に行く機会はあるだろうし、泳げなくても、足をつけるぐらいはできるだろ。ほら、砂浜で砂遊びもできるぞ」
「……先生、つき合ってくれる?」
 甘ったれの男らしい眼差しと口調でねだられて、嫌とは言えない。和彦は苦笑を浮かべて頷く。
「それぐらいならつき合うが、総和会の大事な行事じゃないのか? 遊びに行くわけじゃないと、眉をひそめる人もいるんじゃ――」
「それは大丈夫っ」
 ぐいっと身を乗り出してきた千尋の顔が眼前に迫る。反射的に仰け反りそうになったが、しっかりと両手を握られる。
「保養も兼ねて、家族や愛人――恋人を連れて来て、行事のあとに宿でゆっくりする人もいるって話だし。とにかく、法要をしっかり執り行なえれば、問題ないんだよ」
「お前、必死だな……」
「だってさあ、俺、せっかくの夏なのに、夏らしいこと何もしてないんだよ? 去年もそれなりに忙しかったけど、今年ほどじゃなかった。だからせめて、こういうときぐらい、楽しむとまではいかなくても、ゆっくりしたいなあ、って」
「意地悪を言うつもりはないが、ゆっくりしたいなら、ぼくが行かなくてもできるだろ」
「――長嶺の男たちが一堂に会するのに、あんたがいなくてどうする」
 突然、二人の会話に割って入ったのは、いつからそこにいたのか、開いた襖の傍らに立った守光だった。入っていいかと問われて頷くと、守光が二人の傍らに座る。このとき、畳んだ服の山にちらりと視線が向けられ、和彦はさりげなく自分の背後に隠す。
「すみません、片付けている途中だったもので……」
「この部屋も、ずいぶんあんたの私物が増えた。どうにかしないとな」
「クリニックが休みに入ったら、少しマンションに持ち帰ろうかと思っています」
「いや、そういうことではなくて――……、まあ、今はそのことはいい。法要のことだ」
 守光にひたと見つめられ、和彦は背筋を伸ばす。すると守光が、淡い笑みをこぼした。
「堅苦しい話をするわけではないんだ。楽にしてくれないか、先生」
「あっ、はい……」
 そう言われて、和彦は肩からわずかに力を抜く。
「先日、あんたが名簿を見たときに言っただろう。ちょっとした行事があると。それが、総和会が毎回執り行っている初代の法要だ。花見会は、世代を超えた交流会のような側面があるが、法要はあくまで内輪の集まり。花見会のように華やかな行事にはならん。形式にそって粛々と進むだけだ」
 淡々とした口調でここまで話した守光が、次の瞬間、ニヤリと笑った。食えない笑い顔は、雰囲気が賢吾とよく似ている。
「総和会として大事なのは法要だが、長嶺組……長嶺の家にとって大事なのは、そのあとだ」
「あと、ですか?」
「宿を移して、ささやかに休養をとる。今は、わしや賢吾だけじゃなく、長嶺の男として千尋もがんばってくれたからな。家族旅行のようなものだ」
 守光の穏やかな表現に、総和会や長嶺組という組織を知っている和彦としては、困惑するしかない。しかも、その『家族旅行』に、自分も同行するようなのだ。
「――……家族旅行、ですよね?」
「そうだ」
 柔らかな声ながらそう言い切られると、もう何も言えない。長嶺の男が決めてしまったのなら、和彦は逆らうことはできないのだ。
 決して嫌というわけではないが――。
 ちらりと千尋に視線を向けると、にんまりと笑って返される。出かけられるのが楽しみで仕方ないという顔だ。
「……明後日出発なら、急いで準備をしないといけませんね」
 ぽつりと和彦が洩らすと、守光は満足そうな顔をして立ち上がる。
「話は決まった。わしから賢吾に連絡しておこう」
 そう言い置いて客間を出て行き、襖が閉まると同時に和彦は大きく息を吐き出す。ほんの何分か前の予感が的中したことに、いっそ清々しい気分になる。
 そっと苦笑を洩らしかけたが、部屋にまだ千尋が残っていることを思い出した。
「お前は、今日は泊まっていくのか?」
 和彦の問いかけに、千尋が首を横に振る。
「ううん。先生とじいちゃんと一緒にメシ食ったら、帰るよ。法要の打ち合わせや、準備もあるし」
「そうか」
 数秒ほど、会話に不自然な間が空く。熱心に見つめてくる千尋の眼差しに不穏なものを感じた和彦は、あえて気づかないふりをして、背を向ける。
「バッグに着替えを詰め込まないと。……スーツは一着ぐらい持って行ったほうがいいのかな」
 畳んだ服を手に取ろうとしたとき、突然背後から千尋に抱き締められた。勢いがよすぎたせいで、前のめりに倒れ込みそうになった和彦だが、ぐいっと引き戻される。
「こらっ……」
 振り返ると、千尋の強い眼差しの直撃を受ける。何かが気になっている様子だ。和彦は軽く身を捩って座り直すと、千尋の顔を覗き込んだ。
「どうかしたのか?」
「んー、この部屋に入って、先生の顔を見た瞬間から気になってたんだけど――」
 顔を寄せてきた千尋が、そっと唇を重ねてくる。ふざけているのかと思った和彦は、笑いながら押し退けようとしたが、次の千尋の言葉を聞いて顔を強張らせた。
「先生、なんか艶っぽい。全身から色気が漏れてて、エロい」
 長嶺の男は本当に怖い。和彦が隠そうとしているものを、あっという間に本能で嗅ぎ取ってしまうのだ。
 和彦は、鷹津とのやり取りも行為も、完璧に自分の中に押し込めているつもりだったが、そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。千尋が気づいたぐらいだ。守光など、クリニックから戻ってきた和彦を一目見て、何かがあったと確信した可能性もある。
 それでも、鷹津とのことを知られるわけにはいかなかった。当然、自分から口にするはずもない。
 保身のためもあるが、自分のせいで鷹津が何かを失うのは、やはり嫌なのだ。
「……何かあった?」
 囁きながら千尋がもう一度唇を重ねてくる。和彦は、茶色の髪を優しく指で梳いた。
「何も、と言いたいところだが、ここにいると、いろいろあるから……」
 千尋の眼差しがスッと鋭さを帯びる。その変化を目の当たりにして和彦はドキリとした。
「千尋?」
「先生から目を離すと、危ないんだよな。自覚なく、性質の悪い男を引き寄せて、骨抜きにするから。――もしかして最近は、自覚があったりして」
 口調は冗談っぽくありながら、千尋の表情は真剣だった。こういうときの千尋は、厄介だ。次の行動が予測できず、とんでもない暴走をしそうなのだ。
 和彦の奔放さに対して、嫉妬や独占欲とのつき合い方は上手いと話す千尋は、事実、年齢に見合わない寛大さを示しているといえる。一方で、何かの拍子に激しい感情を発露させることもあるのだ。そうやって千尋は、荒々しい感情のバランスを取っている。とても危うく。
 それを受け止めることは、自分の役割であり、義務ですらあると和彦は考えていた。
「自覚があったら、ぼくを嫌いになるか?」
「悪いオンナ、っていう自覚か……。エロい響き」
 バカ、と一言呟いた和彦は、千尋の頭を軽く小突く。すぐに手を引こうとしたが、その手を千尋に掴まれた。子供が甘えてくるように額と額を合わせてきたかと思うと、頬ずりをされ、首筋に顔が寄せられる。肌に触れる息遣いがくすぐったくて、和彦は小さく笑い声を洩らした。
「子犬にじゃれつかれているみたいだ」
「子犬?」
「……別に、可愛いという意味で言ったんじゃないからな」
 和彦が念を押すと、千尋が唇を尖らせる。あざといほど子供っぽい仕種だが、和彦には効果的だと、千尋はよくわかっているのだろう。
「悪いオンナの周りには、食えない大人の男ばかりだからね。――こういうのも新鮮だろ?」
 間近から強い眼差しを向けられ、一瞬怯みかけた和彦だが、すぐに気を取り直す。千尋の両頬をてのひらで挟み込むようにして優しく撫でた。
「お前は、食えない大人の男になったのか?」
 千尋は考える素振りを見せたものの、すぐにニヤリと笑いかけてくる。
「先生にこうして可愛がってもらえる特権は、まだ手放したくないな」
「別に、可愛がってはない……」
「でも俺のこと、可愛いと思ってるだろ?」
「……そういうことをヌケヌケと口にできる奴は、可愛くない」
 大げさに抗議の声を上げた千尋がしがみついてきて、今度こそ和彦は後ろへと倒れ込む。畳んだ服があっただけではなく、千尋が咄嗟に頭を庇ってくれたおかげで痛くはなかったが、そんなことは関係ないと、和彦は声を潜めて怒る。
「お前は少し加減しろっ」
「してる――、というより、する」
 耳元に注ぎ込まれた千尋の言葉は、熱かった。察するものがあって和彦は体を強張らせつつ、襖の向こうの様子をうかがう。すでに夕食の準備が始まっているかもしれない。
「こら、お前、夕飯を食べたら帰るんだろ。おとなしくしてろ」
「おとなしく、甘えてるだけ」
 屁理屈ばかり言うなと、千尋の肩を殴りつける。クスクスと笑い声を洩らしながら千尋が、耳に唇を押し当てながら、和彦が着ているシャツの下に手を忍ばせてきた。
 いとしげに脇腹を撫でられ、和彦は息を詰める。これ以上大胆な行為に出るようなら、本気で髪を引っ張ってやろうと思ったが、どうやら千尋は本当に、甘えるだけのつもりらしい。
 きつく抱き締めてきて、満足げに吐息を洩らす千尋の様子をうかがっているうちに、身構えているのもバカらしくなってくる。和彦は体から力を抜くと、千尋の背に両腕を回した。自分はやはり、千尋に甘すぎるなと思いながら。




 自宅マンションにようやく戻ることができた和彦は、本部から持ち帰った服や本を片付け、迷った挙げ句、ささやかな旅仕度を整えた。
 長嶺の三世代の男たちが揃った旅がどういうものになるか、さっぱり想像がつかない。法要がメインであるし、宿を替えて一泊ずつ滞在するということで、なかなか慌しいものになりそうだ。それでも千尋は海で遊ぶと言い張っているので、それに振り回される自分の姿が今から目に浮かぶ。
 念のためバッグに水着も詰め込んだ和彦は、ゆっくりする間もなく部屋をあとにする。当然外では、総和会の護衛の車が待機していた。
 走り出した車の後部座席で、普段より多い人や車の流れを眺める。せっかくの夏休みを、家族や友人、恋人と過ごす人は多いのだろうなと考えてから、我が身を振り返る。知らず知らずのうちに苦笑が洩れていた。
 自分のことを〈オンナ〉にしている男たちのことを、世間ではどう呼ぶのだろうかと、少しだけ皮肉っぽく、そして自虐的に考えてみた。だからといって和彦は、長嶺の男を憎んだり、恨んでいるわけではない。執着され、庇護されるということは、一種の麻薬だ。苦しい反面、とても心地いいし、安堵感すら覚えるようになる。
 まるで夏の陽射しだ――。 
 和彦はウィンドーに顔を寄せ、食い入るように外を見つめる。残念ながらスモークフィルム越しでは、どんなに強烈な陽射しも遮られてしまう。
 ふと和彦は、ほんの数日前に味わった汗ばむほど熱い抱擁を思い出し、次に、こう心の中で呟いていた。
 鷹津は今ごろ、何をしているだろうか、と。
 ハッと我に返り、シートの上で身じろぐ。鷹津のことを気にかけた自分に驚いていた。
 番犬として刑事の鷹津を利用し、必要に応じて体を与えるうちに情を通わせるようにはなっていたが、それでも離れてしまえば、心の隅に収納できるだけの冷静さ――分別があった。しかし今の和彦は、ごく自然に、まるで長嶺の男たちを想うように、鷹津を想った。
〈オンナ〉という言葉の威力だろうかと、和彦は密かに慄然とする。鷹津とのやり取りが、いまさらながら耳元に蘇っていた。
 マンションから本部に向かう途中、こまごまとした買い物を済ませるつもりだったが、そんな気分ではなくなっていた。
 黙り込んだままの和彦を乗せ、 車は静かに総和会本部のアプローチを通り、駐車場へと入る。いつもより停まっている車の数が多いのは、明日の法要と関係があるのかもしれない。準備や警備などのため、今日出発する関係者もいるだろう。
 ドアが開けられ、車を降りた和彦の傍らから、すかさず手が差し出される。
「バッグをお持ちします」
「いえ、大丈夫です。重くないですから」
 何か言いたげな顔の護衛に対して、和彦は微笑で返す。そのまま歩き出したが、すぐにある光景が視界に入り、結局足を止めていた。
 車のトランクを開け、そこから段ボールを下ろしている男がいるのだが、背格好になんとなく見覚えがあった。相手のほうも和彦に気づいたのか、体を屈めた姿勢でこちらを見た拍子に目が合った。強い陽射しの下では眩しく見える白いワイシャツを着た二神だ。
「――暑いですね」
 先に二神のほうから声をかけてくれたので、和彦は遠慮しつつも歩み寄る。
「今日はこの駐車場、車が多いですね」
「明日の準備がありますから。今から向こう――法要を執り行う寺に向かう車もありますよ。あくまでひっそりと、ということにはなっていますが、やはり総和会のお歴々が出席するわけですから、万全を期するためにも、人手がかかりますよ」
 ここで二神が、和彦が手に持つバッグに目を留めた。
「佐伯先生も、これから出発ですか?」
「いえ。ぼくは明日発ちます。……よくわからないまま、同行することになって」
「ああ、そういえば今回は、長嶺のお三方が揃って出席されると聞きました」
「……まあ、そういうことです」
 なんの説明にもなっていない一言だが、それでも察してくれたらしく、二神は控えめな笑みを浮かべた。顔立ちから受ける鋭い印象とは裏腹に、二神の語り口調も物腰も柔らかだ。もしかすると和彦を怯えさせないようにと、気をつかってくれているのかもしれない。
 ただ、御堂にも同じような接し方をしていたなと、何げなく思ったところで、自分の鼓動が急激に速くなっていくのを感じた。御堂と綾瀬の淫らで濃厚な行為の最中、二神の名が出たことを、和彦はしっかり覚えていた。
 懸命に頭から追い払おうとしつつも、あのとき咄嗟に脳裏を過った疑問が、今また蘇る。
 二神は、御堂と体の関係があるのだろうか。
「佐伯先生?」
 訝しげに二神に呼ばれ、和彦はうろたえる。頭を下げて立ち去ろうとしたが、その前に救いの神――というにはいろいろと気まずい相手が現れた。
「――傍から見ると、佐伯くんを恫喝しているようだぞ、二神」
 凛とした声が、駐車場のアスファルトに照り返す陽射しの熱さを、一瞬忘れさせる。和彦は動揺と困惑を必死に胸の内に押し隠し、声の主である御堂に会釈する。返ってきたのは、涼しげな微笑だ。
 御堂と目が合うと、顔が熱くなるのを抑えられなかった。もちろん熱気でのぼせたわけではない。意識したおかげで視線までさまよわせることになり、動揺を悟られることになる。
「佐伯先生?」
 和彦の異変に気づいた二神が気遣わしげに眉をひそめる。それが申し訳なくて、ますます動揺しそうになったところで、すぐ側までやってきた御堂にそっと肩を抱かれた。
「佐伯くん、これから時間はあるかな」
「えっ……、あっ、はい。ぼくは予定はないので、大丈夫です」
 御堂はわずかに目を細めてから、指先で二神を呼び、何事か耳打ちした。
 和彦の見ている前で素早く打ち合わせを終えてしまうと、状況がよく呑み込めないまま和彦は、持っていたバッグを、御堂が伴っていた隊員らしき男に預けた。それから、御堂と二人で車に乗り込む。運転はもちろん、二神だ。
 今日も御堂の護衛は厳重で、和彦たちが乗った車が走り出すと、ぴたりと背後から、もう一台の車がついてくる。
 振り返ってそれを確認した和彦は、緊張しつつシートに身を預ける。自分がついてきてよかったのだろうかと、いまさらながら戸惑っていた。
「……御堂さんは、何か用があったんじゃないですか?」
 おずおずと問いかけた和彦に対して、隣に座っている御堂が意味ありげな流し目を寄越してくる。
「用というほどのものではないよ。うちの隊は、法要の警備には加わらないからね。ひとまず夏の間に、隊としてきちんと体裁を整えて動けるよういろいろ準備をしているけど、動くのは、隊員や清道会の人間だ。隊長のわたしはこの通り、のんびりしたものだ」
「清道会……」
 綾瀬の顔と、低くしわがれた声を思い出し、つい視線を伏せる。生々しい光景が脳裡に蘇りそうになったが、御堂からの問いかけで意識を引き戻された。
「――佐伯くんは、行くんだろう?」
「あっ……、はい。いえ、法要のほうではなく、近くの宿まで。長嶺会長や千尋に誘われたんです。宿でゆっくりしていればいいと言われていますが、本当にそうできるかどうか……」
「長嶺の男たちのお守は大変だろう」
 迂闊に返事もできず和彦が口ごもると、御堂は軽やかな笑い声を洩らした。
「素直な反応だなあ」
「……相手が相手なので、意に沿わない返事をすると、機嫌を損ねてしまうんじゃないかと心配になるんです」
「君が逆らったところで、怒る男たちでもないだろう。むしろ必死に、君の機嫌を取ろうとするんじゃないか。まあ、千尋はわからないな。あの子は、よくも悪くも直情的だ」
 御堂の口ぶりが気になって尋ねてみると、賢吾とつき合いが長いだけあって、千尋が生まれた頃から知っているのだという。
「今の姿からは信じられないだろうけど、女の子みたいに可愛かったんだ。だから過保護に育てられて、こんな繊細な子が長嶺組を継げるんだろうかと心配していたけど、カエルの子は――いや、大蛇の子は、やっぱりその資質を持ってる」
 そんなことを話している間も車は走り続ける。御堂に対しては無条件の信頼を寄せつつある和彦だが、さすがにどこに向かっているのか、ふと気になる。意識しないままウィンドーの外へとちらりと目をやると、さりげなく御堂が切り出した。
「わたしが泊まっているホテルに向かっているんだ。着替えを取りに行くついでに、いい機会だから君とゆっくり二人で話してみたいと思って。――君も、わたしに聞きたいことがあるだろう」
 和彦は目を丸くしたあと、こくりと頷く。よかった、と御堂が洩らした。
「いままで住んでいた家を引き払って、ホテル暮らしをしているんだ。しばらく本部に詰めることになるから、その間はホテルを転々として、落ち着いた頃に、いい物件があれば移るつもりだ。清道会も物件探しを手伝ってくれるようだし、なんとかなるだろう」
「清道会の会長さんと御堂さんは、親類だと聞きました」
「もう一人の親のようなものだね。実は着替えを取りに行くのも、盆の間、会長の家に厄介になるためなんだ」
 そこに綾瀬もいるのだろうかと、つい気になってしまう。すると御堂は、和彦の疑問を読み取ったかのように目配せしてきた。おそらく、運転をする二神に悟らせないためだ。和彦は小さく頷いて返すと、何事もなかったように再び外へと目をやった。
 シティホテルに到着すると、二神ともう一人の男に伴われて、御堂が宿泊している部屋に向かう。
 広々としたダブルルームは、なかなか物が多かった。部屋の備品ではなく、御堂の私物が。総和会の遊撃隊の隊長ともなると、手近なところにあらゆるものを揃えて、万が一のときに備えているのかもしれない――と好意的に解釈してみた和彦だが、御堂はあっさりこう言った。
「――わたしは片付けが下手なんだ。とりあえず物を運び込んで、いざ必要になったら、二神に探してもらう。わたしが触ると、物が遭難するからね」
 御堂から頼りにされている二神は、速やかにルームサービスを頼んでいた。
「それでは、わたしはこれで失礼します。一階ラウンジにおりますから、部屋を出られる前に携帯を鳴らしてください。すぐに迎えにまいります」
 手早くテーブルの上を片付けた二神は、一礼して部屋を出ていった。すべての所作にソツがないと、和彦が感心していると、御堂に呼ばれ、窓際のテーブルセットを示される。
 御堂と向き合う形でイスに腰掛けたが、正面から秀麗な顔に見つめられると、やはりどうしても緊張する。いや、目のやり場に困る。
「悪趣味なものを見てしまって、わたしの前でどういう顔をすればいいのかわからない、という感じだ」
 からかうように御堂に言われ、和彦はムキになって否定する。
「そんなこと思ってませんっ。悪趣味なんて……」
 御堂と綾瀬の性行為を見て、生々しくて艶めかしいとは思ったが、嫌悪的なものは一切感じなかった。もし感じたとすれば、それは和彦自身の存在を否定することにも繋がる。
「……恥ずかしい、というのも表現としてどうかと思いますが、ただ、自分の姿を、客観視したような……、妙な感覚です」
「佐伯くんは、本当に素直だ。――賢吾から、だいたいのことは教えてもらっただろう。そうしてほしいと、わたしから頼んだことではあるんだが」
 一瞬顔を強張らせてから、和彦は肯定する。
「御堂さんはどうしてぼくに、あの光景を見せたんですか」
「明け透けな表現をさせてもらうけど、自分が男たちの慰み者になっている一方で、優男のわたしなんかが、総和会で肩書きを得て、南郷と渡り合っている――と、きっと思ったんだろうなと、連絡所での別れ際の君の顔を見て感じた。……違うかな?」
 何もかも見透かされているなと、逃げ出したくなるような羞恥と惨めさを覚える。
「……そこまでひどいことは思いませんでしたけど、似たようなことは……」
 満足げに口元を緩めた御堂は背もたれに深く体を預け、足を組む。
「落ち込んだ様子の君を見て、猛烈に腹が立ったんだ。君に対してじゃないよ。君を取り巻く男たちに対してだ。順風満帆だった君の人生を奪って押し付けたのが、この表情かと」
「そんなにひどい顔をしてましたか」
 和彦は思わず自分の顔に触れる。隠し事は下手だが、喜怒哀楽の大部分を胸の内に押し込めるのは得意だと、密かに自負していたのだ。御堂は返事をしなかったが、色素の薄い瞳にあるのは冷たい怒りだった。
 誰でもなく、自分のために怒ってくれているのかと、和彦は正直不思議だった。御堂とはほんの何日か前に知り合って、片手の指で足りるほどしか会っていないのだ。
 そのうちの一回は――。
「いろいろと狂っているこの世界だが、それでも生きている人間には、それぞれ権利を主張しているものがあるし、主張したいが故に、足掻いている者がいる。わたしも同じだ。この世界で主張したいからこそ、みっともなくまた足掻き始めた」
「みっともないなんて……」
「わたしは外面がいいから勘違いされることがあるが、人並みの欲もあるし、ドロドロとした感情に塗れている。そんな人間でもいいという連中が、わたしを支えてくれている。だから、堂々としていられる」
 部屋のドアがノックされ、御堂が優雅な動作で立ち上がり、足音も立てずに向かう。二神が頼んでいたルームサービスが届いたようだ。
 御堂が手ずからカップにコーヒーを注ぎ、和彦の前に置いた。ミルクをわずかに垂らし、コーヒーに緩やかに溶けていく光景を見つめながら、和彦はぽつりと洩らした。
「――……ぼくが、この世界で主張したい権利はなんでしょう」
「君の胸の内はわからない。だけどわたしの目から見て、主張しなくてもすでに与えられているものがある。傲慢で自分勝手な男たちによって」
 和彦が首を傾げると、御堂は苦々しげに言った。
「愛されて、大事にされて、そうされて当然であるということ。君に認められている唯一の権利はそれだと、わたしは思う」
「唯一、ですか」
「それしかないということは、弱みであり、強みだ。選択肢がなかったにせよ、君はしたたかにしなやかに、この世界で生きている。男たちの情も打算も呑み込んで」
 買い被りだと、自嘲気味に唇を歪めて、和彦は首を横に振る。
「この先もある権利とは限らないです」
「飽きられると?」
「まあ……」
「なら、そのときがくるとして、その瞬間に君は何になっているかだよ。組織にとって切るに切れない重要な存在になっているか、たった一人の人間のものになっているか。――わたしは、誰のオンナでもなくなって、総和会の人間になった。だから綾瀬さんとは対等だ」
 ふっと口元に笑みを湛え、御堂は窓のほうへと顔を向ける。非の打ちどころのない横顔に、つい和彦は見惚れる。話を聞いているうちにずいぶん気持ちが和らぎ、こんな質問をぶつけていた。
「……御堂さんは、自分の過去をどう思っていますか」
 こちらに向き直った御堂は一声唸り、灰色の髪に指を差し込んだ。
「苦いような、甘いような、複雑な感じだ。――大事に愛してくれたと思うよ。二人とも、わたしより遥かに大人だったから。いろんなことを教えてもらった。打算的なことを言うなら、あらゆる面で後ろ盾にもなってもらっている。君が見たとおり、今でもセックスできるぐらいだから、否定したい過去ではない」
 ニヤリと笑いかけられ、和彦のほうがうろたえてしまう。
「それに嫌いではない。オンナであった自分は。ただ……、君のほうは、わたしよりずっと大変だ。賢吾から聞いたけど、長嶺の三人以外とも――」
「ぼくは淫奔なんです。束縛も執着もしない相手と気まぐれに、気軽に寝てきて――、それが今はこの状態です。束縛されて、執着されて……。嫌いじゃない、という表現では足りません。きっとぼくは、そうされることが好きなんです」
「ふふ。いいことを聞いた。賢吾や千尋が聞いたら喜ぶだろうな」
 和彦が慌てて腰を浮かせようとすると、御堂は片手を振った。
「冗談だよ。これは〈オンナ〉同士の秘密だ」
 なかなか際どい冗談だなと、和彦はぎこちない笑みをこぼしたが、次の瞬間には小さくため息をつき、コーヒーカップに口をつける。
〈オンナ〉というのは、単なる言葉でしかない。どこか言葉遊びのような、そこに込められた淫靡な響きに妖しく胸を疼かせ、体を開く媚薬のようなものだ。だが、その単なる言葉が、どんどん和彦の中だけではなく、周囲の男たちにとっても重みを増し、まるで囚われているようだ。
 このままでは危険だと、和彦自身、頭ではわかっている。しかしもう、その立場を捨て去った自分の姿が想像できなくなっている。日々を重ねるごとに、そういう生き物になっているのだ。
 答えの見えない思索に耽っていると、聞き覚えのない着信音が響く。御堂の携帯電話が鳴っているのだ。携帯電話を操作した御堂は、一切の表情を消してメールを読む。普段、少なくとも和彦の前では柔らかな表情を見せている御堂だが、どちらの表情がより御堂という人間の本質を表しているのだろうかと、ぼんやりと和彦は考える。
 もしかすると、綾瀬の下で浮かべていた悦びの表情が――と、艶めかしい場面が脳裏に蘇りそうになったが、寸前のところで御堂と目が合い、我に返った。
「本部にいる、うちの隊員からだ。君を連れ回さないでくれと、第二遊撃隊から苦情があったそうだ。何様のつもりなんだろうね。――南郷は」
 和彦は微かに肩を揺らす。どうしても南郷の名には無反応ではいられない。御堂はスッと目を細め、いくらか声を潜めて言った。
「君は、南郷が見た目通りの、粗野で野蛮な男だとは思っていないだろう。長嶺会長に目をかけられ、着実に力をつけている。総和会の中でも独特の存在感を放っていて、いくつかの組とも関わりを深くしているらしい。……総和会の中で何を目指しているのか、わたしは気になるんだ」
 御堂の迫力に圧されて返事もできず、ただ瞬きを繰り返す。御堂はふっと眼差しを緩めた。
「余計なことまで言いすぎた。君に毒を吹き込んでいるようなものだな」
「……毒なら、もうたっぷり吸い込んでます」
 自虐的な和彦の呟きを耳にして、御堂は一瞬物言いたげな顔をしたが、何事もなかったようにコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「君はゆっくりコーヒーを飲んでいてくれ。わたしはその間に、さっさと荷物をまとめるから」
 はい、と返事をした和彦は、コーヒーを飲むふりをしながら、部屋を行き来する御堂の姿を目で追いかける。
 御堂はたくさん話してくれたが、和彦が本当に知りたいのは、二人の男のオンナであった頃、毎日何を考えていたのかということだった。そして、オンナでいることをやめたきっかけも――。
 知ってどうするのかという自身への問いかけは、今はやめておいた。









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