と束縛と


- 第34話(1) -


 盆休みに入ってから、実質的に体を休められたのは何日だっただろうかと、ぐったりとシートに体を預けた和彦はそんなことを考える。指を折って数えるまでもなかった。
 本来であれば、今日いっぱいは三田村とゆっくり過ごせるはずだったのに、長嶺組を通して総和会から仕事の依頼が入り、朝から出かけることとなった。連れて行かれた先で待っていたのは、顔を変える必要があるという患者だ。
 命に関わる怪我でないのなら、今日でなくてもいいのではないかと、頭の片隅でちらりと思わなくもなかったが、重要な行事を終えてしまった総和会にとっては、盆休み中で美容外科医の体が空いているという程度の認識なのかもしれない。そして和彦は、指名されたら出向くしかないのだ。
 今日はせめて、夕食だけでも三田村と一緒にとりたいと考えていたのだが、半日がかりの施術を終えたところで、仕事に戻るという三田村からのメールを確認した。今、車は長嶺の本宅に向かっている最中だ。
 このまま本宅に泊まることになるか、総和会本部に送り届けられるのか、和彦にはわからない。自宅マンションでのんびり過ごしたいと控えめに希望は出すつもりだが、あまり期待はしていなかった。
 無意識のうちに大きなため息をつきそうになったが、寸前のところで堪える。決して、本宅に行くのが嫌なわけではないのだ。
 現実逃避というわけではないが、三田村と過ごした穏やかな時間の余韻に浸っていると、携帯電話の無粋な着信音が車内に響き渡る。軽く眉をひそめつつ携帯電話を取り出した和彦は、一瞬電源を切りたくなった。しかしそれは、前に座る組員たちが不審がるだけだと思い直し、仕方なく電話に出る。
『――お前今、どこにいる?』
 こちらが声を発する前に、前置きもなく鷹津に問われる。面食らった和彦が口ごもると、苛立ったようにさらに言われた。
『言えないようなところか?』
「……車で移動中だ。今から帰るんだ」
 どこに、とは問われなかった。電話の向こうから、鷹津が思案するような気配が伝わってきて、和彦としても普段とは何かが違う様子が気になる。いや、最近の鷹津は様子がおかしいことばかりだが――。
「何かあったのか……?」
『別に。車で移動中ということは、総和会か長嶺組の人間と一緒ということだな』
「ああ。どうしてそんなことを気にする」
『気にしちゃおかしいか?』
 揶揄するような鷹津の口調に、自分でも不思議なほどカッとした。
「おかしいっ」
 思いがけず大きな声が出てしまい、日ごろは何があっても動じない護衛の組員が、驚いたようにこちらを振り返った。和彦は顔をしかめてから、開き直って会話を続ける。
「わざわざ電話をしてきたぐらいだ。ぼくの行動が気になったんだろ。――何かあったんじゃないのか」
『深読みするな。ただ、総和会初代会長の法要を派手に執り行ったあと、総和会……というより、総和会会長が、らしくない動きをしているから、お前はどうしているか気になっただけだ」
「らしくない動き、って……」
 無意識のうちに声を極限まで潜める。
『――その質問に答えるためには、餌をもらわないとな』
「なっ……」
 和彦が返事に詰まると、憎たらしいことに鷹津は、珍しく爽快な笑い声を上げた。これが本当に鷹津の声かと、咄嗟に疑ったぐらいだ。
『まあ、深刻に捉えるな。何かあれば、きちんと報告してやる。――可愛いオンナのために』
 かけてきたとき同様、挨拶もなく電話は切れた。ふざけるなと、口中で鷹津を罵った和彦だが、それも二言、三言で尽きてしまい、結局、困惑しながら切れた携帯電話を見つめることになる。
 はぐらかされたが、やはり鷹津の様子はおかしい。より正確に表現するなら、何か知っていながら、和彦に隠しているようなのだ。身軽であれば、鷹津のもとに乗り込んで問い詰めるところだが、それは不可能だ。
 仕事後の疲労感に、胸のモヤモヤまで加わり、本宅に到着した和彦を出迎えた賢吾は、顔を見るなりこう言った。
「機嫌が悪そうだな、先生」
「……別に、悪くない」
「せっかく三田村とのんびりしていたのに、残念だったな」
 手招きされ、まっすぐ賢吾の部屋に向かう。先を歩く背を見つめながら、どうせ隠しておくことはできないのだからと、和彦は正直に告げた。
「鷹津からさっき電話があったんだ。……いつも以上に、よくわからないことを言われた。ぼくが、総和会か長嶺組の人間と一緒にいるか確認してきたんだ。理由を聞いても、はぐらかされた。というより、からかわれた」
 守光の『らしくない動き』については、なんとなく言いそびれてしまった。
 部屋に入ると、鷹津の話はここまでだと言いたげに、賢吾に髪を撫でられる。こうして触れられるのは、長嶺の男三人を受け入れた夜以来だった。いつもと変わらない手の感触だが、ひどく意識してしまい、頬が熱くなってくる。
「今日までゆっくり過ごせたか?」
「まあ……。ぼくは、ひたすらゴロゴロしていたけど、世話を焼く三田村は大変だったと思う」
「あいつは、そんなことを苦に感じたりしないだろ。先生の側にいられりゃ、それでいいんだ。――その一方で、俺や千尋はほったらかしになっていたんだが」
 冗談交じりの当て擦りに、和彦はじろりと賢吾を睨む。
「あんたたちと離れられて、正直、助かったと思ったんだからな。あんなことをして……、体はきつかったし、精神的に動揺していたし。側にいてくれたのが、三田村でよかった」
「そこまで言われると、妬ける」
 魅力的なバリトンを際立たせる囁きに、和彦は一気に身構え、顔を強張らせる。賢吾の本質が大蛇だと知っているだけに、不吉な考えが脳裏を過っていた。賢吾は、和彦が何を危惧したのかわかったらしく、ニヤリと笑った。
「俺は、そこまで狭量じゃないぜ。先生に必要だから、三田村を与えた。あいつのおかげで、先生の精神状態は落ち着いているともいえるしな」
「……嫌な、言い方だ」
「だったら言い方を変えよう。先生から、特別な男を取り上げたりはしない。そう言うと、先生はいくらでも特別な男を作りそうで、それはそれで怖いが」
 いつもであれば、人をなんだと思っているのだと抗議の一つでもするところだが、寸前に鷹津の話題を持ち出してしまったばかりに、変に意識してしまい、何も言えない。
 和彦が黙り込むと、ふっと笑みを浮かべた賢吾があごの下をくすぐってくる。
「呆れているのか? 先生があんまり愛しげに三田村の名を呼ぶから、からかっただけだ」
「あんたが言うと、なんでも冗談に聞こえないんだ。自分の肩書きを考えてくれ」
「そんな俺でも、先生のことになると、単なる男になるということだ」
 艶っぽい流し目を寄越され、危うく和彦は大蛇の毒気にあてられそうになる。なんとなく賢吾から距離を取ろうとしたが、和彦の行動などお見通しだったらしく、腰に腕が回され引き戻された。反射的に賢吾の胸に手を突いたが、間近からじっと目を覗き込まれると、ささやかな抵抗心など潰える。
 首の後ろに手がかかり、ゆっくりと唇が重なってきた。まるで獲物の肉を味見するように、いきなりきつく唇を吸われたあと、甘噛みされた。痛みと心地のよさの紙一重の感覚に、背筋にゾクリと疼きが駆け抜け、和彦の足元が乱れる。一層強く腰を引き寄せられた。
 上唇と下唇を交互に吸われ、噛まれているうちに、不意打ちのように口腔に熱い舌が入り込む。ねっとりと粘膜を舐め回され、上あごの裏を舌先でくすぐられて、和彦は鼻にかかった甘い声を洩らす。
 舌を絡め合いながら唾液を交わしていると、賢吾の手が首の後ろから下りていく。背から腰へと移動した手は、待ちかねていたように、布の上から尻の肉を掴んできた。痛みに小さく呻くと、唇を触れ合わせたまま賢吾が囁いてきた。
「俺たちがしたように、三田村にも、この尻にいっぱい出してもらったか?」
 冗談などではなく、本当に賢吾は嫉妬しているのだと感じた。
 この男が、和彦の奔放な男関係に寛容なのは、いざとなれば、いつでもその男たちから和彦を取り上げられるという自信からくるものだ。これまでも嫉妬心からくるような言動はあったが、それはどこか冗談交じりであり、自身も、楽しんでいるふうでもあった。
 しかし今は、賢吾の余裕の微かな軋みのようなものを感じる。
 なぜか、と自問しながら和彦は、賢吾の頬にてのひらを押し当てる。大蛇の潜む目をじっと覗き込んで答えた。
「三田村とは、していない。……本当に、体がきつかったんだ。長嶺の男たちにとって、〈あれ〉が必要だったんだろうから、文句は言わない。だけど、もう二度と――」
「血の盃は、同じ相手と一度だけ交わすから価値がある。……俺も初めての経験だったが、先生の体のことをもっと気遣うべきだったな。長時間の車の移動も堪えただろ」
 曖昧な返事ではぐらかすと、賢吾が低く笑い声を洩らし、今度は甘やかすように優しく唇を吸い上げてきた。ここでようやく和彦は、賢吾に身を預けることができる。両腕を広い背に回し、てのひらを這わせる。
「――長嶺の男は、血にこだわる。千尋はまだピンときてないだろうが、俺はそうだし、オヤジは特にそうだ。オヤジの上の世代もそうだったらしい。自分の血を受け継がせるということもそうだが、長嶺という家や組の在り方に、血の繋がらない人間まで巻き込む……いや、組み込む、だな」
「物騒な表現だ」
「まったくだ。おかげで、俺もオヤジも妻帯はしたが失敗した。長嶺の家のやり方を、とことん嫌悪されてな。それでも、自分たちの血を継ぐものを残すことはできた。だが、それだけじゃ満足できないんだ。少なくとも俺は、先生の存在を知ってから、先生込みの将来を、夢見ている」
 甘い毒を含んだ台詞に、少なからず和彦の気持ちはくすぐられるが、のぼせ上がるほど無邪気でもなかった。長嶺の男たちの毒を、これまでもたっぷり吸い込んできて、免疫ができつつあった。
「利用する気たっぷりのくせに。あんたが最初にどんな手を使って、ぼくの行き場をなくしたのか、よく覚えているからな。それに、逃げられないよう、何をしたのかも」
 強い眼差しを向けながら、淡々とした口調で告げると、賢吾は悪びれることなくニヤリと笑った。
「先生は、甘い地獄に落としたほうが、本性が露わになると思ったんだ。優しさげで品のある風情のまま、淫奔に男を咥え込んで、骨抜きにしていく。――今いる世界のほうが性に合っていると、心のどこかで感じているんじゃないか?」
「否定したところで、聞く耳なんて持たないくせに」
「おう、ようやく極道の気質がわかってきたようだな」
 和彦は眉をひそめて体を離そうとしたが、賢吾は再び、今度は両手で尻の肉を掴んできた。思わせぶりな手つきで荒々しく揉まれ、最初は身を捩って抗っていた和彦だが、肉に指が食い込むほど強く掴まれたところで、息を詰める。痛いはずなのに、胸の奥で微かな疼きが生まれていた。
 すかさず賢吾に指摘される。
「オンナの顔になってきたぞ、和彦」
「……うる、さい……」
 賢吾に唇を吸われながら、腰を擦りつけられる。賢吾の欲望が高ぶっていることを知り、和彦はうろたえ、視線をさまよわせる。
「おい――」
「総和会から、今夜には先生を、本部に戻すよう言われている。オヤジの奴、すっかり先生の所有権を得たつもりになっているな。宿での〈あれ〉は、俺たち長嶺の男三人と、先生の契りだったはずなのに」
「……ぼくは途中まで、何も聞かされていなかった。盃だとか、契りだとか、あんたたちの理屈は、ぼくには難しすぎる」
「難しい? 単純だろ。先生は、長嶺の男たちの伴侶になった。形式的なものじゃなく、血を注ぎ、情を注ぎ、唯一無二の、大事な存在にしたんだ」
 賢吾の言いたいことは、本当はわかっている。しかし、受け止めるのが怖いのだ。長嶺の男たちが分け与えようとしてくるものは、和彦にはあまりに重い。ただの〈オンナ〉であれば回避できたであろう責任や職務すらも、きっと背負うことになるはずだ。
 和彦が不安に表情を曇らせると、賢吾にそっと髪を撫でられる。
「俺たちにとって、先生の存在の重みが増したということは、必然的に組織にも影響を与える。周囲の接し方が変わるかもしれないが、それはもう、覚悟してくれ。長嶺の男たちの〈オンナ〉は、つまり、そういう存在だってことだ」
 物騒な世界に引きずり込み、あらゆるものを使って雁字搦めにしておいて、挙げ句に覚悟してくれとは、本当に身勝手で傲慢な男だと思いながらも、和彦はやはり、賢吾を恨み、憎むことはできないのだ。この世界の男たちが、打算含みとはいえ自分を大事にしてくれているのは事実で、そこに居心地のよさを見出しているのは、和彦自身だ。
 この居心地のよさが、この先もずっと続くとは限らない。明日にでも残酷な現実が牙を剥くかもしれない。だが――。
「こうやってあんたに囁かれながら、ぼくはいろんなものをどんどん腹に呑み込んでいくんだろうな……」
「これまでも、先生はそうやってオンナっぷりを上げてきた。だから、手離せなくなった」
 耳に唇が押し当てられ、鼓膜を声で嬲られるような感覚に鳥肌が立つ。ビクビクと体を震わせると、賢吾に片手を取られ、両足の中心へと押し当てられる。賢吾の欲望はますます大きくなっていた。
「――夜までまだ間がある。それまで、ここでゆっくりしていけ」
 賢吾にそう命じられ、頭で考えるより先に和彦は頷いていた。


 湯を浴びて和彦が部屋に戻ってくると、待ちかねていた賢吾にすぐに布団の上へと押し倒される。着込んだばかりの浴衣を剥ぎ取られ、どうせ無用だからと下着を穿いていなかったため、何も身につけていない姿をじっくりと観察される。
「凄まじく、いやしらい体だな。俺たちがつけた跡は薄くなっているが、その上から、三田村がつけた跡がくっきりと残っている。そして今から、俺がその上に――」
 肌に残る愛撫の痕跡を指先で辿りながら、賢吾がそんなことを呟く。和彦は、ここ数日の自分の浅ましい生活を思い返し、激しい羞恥から顔を背ける。実は今日も、まさか仕事で呼び出されるとは思っておらず、朝から三田村と、ベッドで睦み合っていたのだ。
「三田村は、お前を丹念に愛してやっているようだ」
 腕の付け根についた鮮やかな鬱血の跡に、賢吾が唇を押し当ててくる。いきなり強く肌を吸い上げられて、和彦は痛みに声を洩らす。こんな愛撫を全身に施されては、せっかく回復した体力を吸い尽くされてしまうと本気で危惧したが、賢吾は自分がつけた跡を満足げに眺めたあと、まだ水気が残る和彦の肌を舌で舐め回し始めた。
「うっ、あぁっ……」
 首筋をベロリと舐め上げられて、熱い疼きが体の奥で湧き起こる。耳の穴まで丹念に舐められ心地よさに身震いしたあと、重なってきた逞しい体に両腕を回してすがりつく。和彦が何を欲しているかよくわかっている男は、もったいぶった手つきで自分が着ている浴衣を脱ぎ落とした。
 喉を鳴らし、和彦は背の大蛇にてのひらを這わせる。賢吾が身じろぐたびに、背の大蛇の鱗が蠢く様を想像して、官能が高まる。できることなら、三田村にしたように、背に唇と舌をたっぷり這わせたいが、それは賢吾が許してくれなかった。
 和彦の顔を覗き込み、こんなことを言ったのだ。
「――味わうのは、俺が先だ。お前のいやらしい部分の肉の味を、全部確認しておかないとな」
 唇を塞がれ、引き出された舌を露骨に濡れた音を立てて吸われる。さらに強く歯を立てられたときは、このまま噛み千切られるのではないかと本気で怯えたが、乱暴な口づけの最中に、胸の突起を優しくくすぐられて、呆気なく賢吾のやり方に翻弄される。
 瞬く間に興奮のため硬く凝った突起を、これ見よがしに舌先で弄られて、和彦は細い声を洩らす。乱暴な口づけでしたように、きつく吸い上げ、歯を立ててほしいのに、賢吾はそうはしてくれない。焦らすように左右の突起を軽く吸い上げ、尖りを確認するように舌先でそっと舐めるだけだ。
「はっ……、賢、吾っ……」
「三田村に吸われまくって、こんなに真っ赤に腫らしているくせに、俺にも吸ってほしいのか?」
 意地悪く三田村の名を出して煽られ、和彦は唇を引き結ぶ。そんな和彦の表情を上目遣いで確認した賢吾は、いきなり突起を口腔に含み、激しく吸い始める。さらに、もう片方の突起を強く指先で摘み上げられ、捻られる。和彦は痛みに悲鳴を上げ、賢吾の頭を押しのけようとしたが、反対に肌に強く吸い付かれ、歯を立てられた。
 胸元にいくつもつけられたのは、愛撫の跡という可愛いものではなく、暴力の跡だ。かろうじて血は滲んでいないが、賢吾が内に秘めた残虐性を知るには十分だった。
 ようやく賢吾が顔を上げたとき、和彦は息を喘がせながらぐったりとしていた。痛みに怯えて身を硬くしていると、それだけで体力を消耗する。
 弱々しく賢吾を睨みつけると、薄い笑みで返された。
「――自分が、どんな男のオンナなのか、思い出したか?」
 あごの下をくすぐりながらの賢吾の言葉に、和彦は吐き出すように答える。
「思い出すどころか、忘れたことはない」
 満足げに目を細めた賢吾が、優しく唇を啄ばんでくる。最初は意地になって応じなかった和彦だが、腰と腰を密着させられ、賢吾の熱い欲望を下腹部に擦りつけられているうちに、息が弾み、つい唇を吸い返してしまう。
 賢吾に片手を取られ、力強く脈打つ欲望を握らされる。小さく喘ぎ声をこぼすと、すかさず舌が口腔に入り込み、ここでもう賢吾を拒むことはできなくなっていた。自分からしっかりと賢吾の欲望を握り、緩やかに扱く。すると賢吾の手も、和彦の欲望に触れてきた。まだ反応していないと知ると、苦笑交じりで言われた。
「溜まる暇もないみたいだな。俺たちに搾り取られ、三田村に搾り取られ――」
「下品な言い方をするなっ」
「ふやけるほどしゃぶってやってもいいが、勃たないなら、つらいだけだろう。だったら、後ろの肉を味わうとするか」
 体を起こした賢吾が、羞恥で全身を熱くしている和彦の腿を軽く叩き、傲慢に命令してくる。
「うつぶせになって、尻を突き出せ」
「……何様だ、あんた……」
「お前をオンナにしている男だ。――さあ、早くしろ」
 もう一度腿を叩かれ、仕方なく命令に従う。さすがに尻を突き出せないでいると、賢吾に腰を掴まれ、容赦なく引き寄せられた。
「うっ」
 直に尻の肉を鷲掴まれ、ビクリと腰を震わせる。賢吾の強い視線を感じる部分にも、当然三田村の丹念な愛撫は施されており、まだ微かな疼きが残っていた。
「何度見ても、絶景だな。こうして眺めるお前の尻は」
 本気なのか冗談なのか、感嘆するようにそう洩らした賢吾が、秘裂を指先でまさぐってくる。次の瞬間、ぐっと尻の肉を割り開かれ、露わになった内奥の入り口に柔らかく濡れた感触が触れた。
「ひっ……、ううっ……」
 快感にひどく脆くなっている部分は、大蛇の舌先の動きを歓喜し、容易にひくつく。
「熟れた肉だな」
 独り言のように低く呟いた賢吾は、執拗に内奥の入り口を舐め、蕩けそうに柔らかくなったところで舌先でこじ開けてくる。腰を揺らし、背をしならせて反応しながら和彦は、片手を自分の下肢へと伸ばす。欲望が、ゆっくりと身を起こしていた。
「あっ、あっ……ん、んっ、んうっ」
 内奥に一本の指が挿入され、それだけの刺激で和彦はビクビクと全身を震わせて、軽い絶頂に達していた。
「感じすぎだろ、和彦」
 揶揄するようにそう声をかけてきた賢吾だが、内奥で蠢く指は否応なく和彦の官能を引きずり出し、高めていく。小刻みに出し入れされ、ざわつく襞と粘膜を擦り上げられると、小さな波のように快感が腰から広がる。指が引き抜かれ、そこにまた舌が這わされると、見境なく締め付ける動きをしてしまう。
 次に二本の指を挿入され、再び絶頂に達する。その頃には、反り返った欲望の先端から、透明なしずくをはしたなく滴らせていた。
「いい締まりだ。吸い付いて、奥へ奥へと誘い込もうとしている。三田村と『していない』というのは、本当だったみたいだな」
 内奥をぐるりと撫で回されて、指が引き抜かれる。体を仰向けにされ、ようやく反応した欲望を、賢吾の口腔に呑み込まれ、苛められる。根元を指で擦り上げられながら、先端をきつく吸われるのだ。痛みと快感に惑乱し、やめてくれと訴えたが、括れに歯が当てられると、ゾクゾクするような被虐的な刺激に襲われる。
「い、やぁ……、も、う――、ダメ、だっ……」
 和彦が何を訴えようとしているのかわかったらしく、賢吾が口腔から欲望を出す。代わりに、柔らかな膨らみを手荒に揉みしだかれ、とうとう和彦はわずかだが『漏らして』しまう。
 賢吾としては、精を噴き上げるよりも、望んでいた反応だったようだ。濡れた下肢を浴衣で後始末をしたあと、和彦の顔中に唇を押し当ててきた。
「――気づいてるか? 漏らすときのお前は、子供みたいな声を上げるんだ。それが実にいい声で、鳥肌が立つほど興奮する」
 嵐のような快感のあとに訪れた虚脱感にぼうっとしながら、和彦は賢吾の顔を見つめる。詰る声も出せなかった。
 つい一昨日、三田村にも晒してしまった痴態を、今度は賢吾に見せてしまったのだ。自分と三田村の間にあった行為を賢吾が知っているとは思えないが、なんとも複雑な心境になる。
 傍らに横になった賢吾の片腕に抱き寄せられる。和彦は、逞しい肩にのしかかるように彫られた大蛇の巨体の一部に唇を押し当てる。今の行為の報復として噛み付いてもいいのかもしれないが、賢吾自身はともかく、大蛇の体に傷を負わせるのは気が咎める。
 声を洩らして笑った賢吾に手を取られ、再び両足の間へと導かれる。熱いままの欲望を握らされたところで、意図を察する。さきほどの続きをしろと言うのだ。
 やはり腹が立ったので、肩先に噛みついてはみたが、返ってきたのは短い笑い声だった。
 てのひらで欲望を擦り上げながら、ときおり先端を指の腹でくすぐる。余裕たっぷりに見える賢吾だが、快感の高まりによって呼吸が荒くなり、全身の筋肉がときおりぐっと強張る。こんな男の快感を、今は自分が操っているのだという実感は、奇妙な興奮を生み出す。和彦は衝動のまま、自分から賢吾の唇を塞ぎ、口腔に舌を押し込んだ。
 貪り合うような口づけの最中、意外なほど呆気なく、賢吾は和彦の手の中で果てた。だが、行為はこれで終わりではなかった。
 賢吾が、自らの下腹部にも飛び散った精を指先で掬い取り、和彦の内奥の入り口をまさぐってくる。
「あっ」
 戸惑っている間に、蕩けている内奥に指を挿入され、襞と粘膜に精をすり込むように蠢かされる。守光が行った行為の再現だった。いや、守光より先に、こんな行為に及んだ男がいる。
「嫌、だ……。それ、嫌――……」
 和彦は軽く抵抗してみたが、賢吾の指は卑猥に動き続ける。そのうち、肉の愉悦を無視できなくなり、妖しく腰が揺れ始める。
「不思議なもんだな。いつもは、もっとたっぷり、この尻の奥に注ぎ込んでやっているのに。入り口にちょっと擦りつけてやっただけで、こんなに感じるものなのか?」
 言葉による返事は必要なかった。賢吾の指をきつく締め付けてしまい、潤んだ吐息をこぼす。賢吾が、内奥の浅い部分を強く指で押し上げてきて、体が一瞬強張るような快感に襲われていた。
「美味いか? 俺の――は」
 卑猥な言葉をたっぷり耳元に注ぎ込まれ、和彦は全身を貫くような快美さに襲われる。内奥から指を引き抜き、和彦の唇を啄ばみながら、賢吾が下腹部を優しく撫でてくる。
「――あのとき、オヤジが言っていた言葉を覚えているか?」
 ふいに賢吾に問われ、和彦は戸惑う。『あのとき』がいつを指しているかはわかる。ただ、問いかけの意図がわからなかったのだ。
「断片的には……」
「俺は傍らで聞いていて、よく覚えている。俺たちは何もかも納得したうえで、お前にあんなことをしたんだが、そんな俺でもドキリとするようなことを、オヤジはお前に言ったんだ」
 賢吾がぐっと和彦の目を覗き込んでくる。
「お前相手にオヤジは、『子を成す』という表現を使った。もちろん、作ることはできないという前提での話で、おかしいことは言ってない。だが俺はあのとき、オヤジの底の知れない禍々しさみたいなものを垣間見た気がした。どこが、とは聞くなよ。俺自身、なんでこんなことが気になるのか、よくわからねーんだ」
 血が繋がっているからこそ、感じるものがあるのだろう。常に自信に満ち溢れた男が、こんな曖昧なことを口にするのは珍しかった。だからこそ、簡単に聞き流すことはできない。
 普段は意識しないよう努めている、守光に対する、考えの読めない得体の知れなさが、より色濃くなったようだった。
「怖がらせたか?」
 指先でうなじをくすぐりながら賢吾が聞いてくる。和彦は、大蛇が潜む目をじっと見つめ返した。
「ぼくはいつだって、長嶺の男が怖い」
「薄情だな。いつだって、優しく愛してやっているのに」
 賢吾にニヤリと笑いかけられた和彦は、背の刺青にそっと爪を立てた。




 盆休みの最終日、和彦はもっとも会いたくなかった人物と、朝から顔を合わせることになる。
「――申し訳ありません、佐伯先生。せっかくのお休みなのに、つき合わせることになってしまって」
 藤倉の言葉に、ぎこちない笑みを浮かべた和彦は首を横に振る。
「いえ……。ぼくは普段は仕事がありますから、仕方ありません。ただ、ぼくに同行してもらいたいところがあるというのは……」
「堅苦しく考えないでください。まあ、ちょっとしたドライブだと思っていただければけっこうです」
 ドライブ、と口中で反芻した和彦は、目の前にある岩のように頑丈そうな背を一瞥する。和彦の冷めた視線を感じたわけではないだろうが、前触れもなく南郷が肩越しに振り返った。
 朝から面倒に巻き込まれていると、正直、心の中では思っていた。
 総和会本部に戻ったのは前夜で、守光と他愛ない会話を交わしてすぐに客間に入り、そのまま休んだのだが、今朝になって守光から、今日は藤倉につき合ってやってほしいと言われたのだ。長嶺の男たちが、詳しい事情を説明しないのはいつものことなので、さほど気にもかけなかったが――。
 玄関先で、藤倉と南郷が並んで立った姿を見たときから、脳内で警報が響き渡っていた。駐車場に移動するまでの間、具合が悪いからといって引き返せないものかと、まるで子供のようなことを考えていたが、実行に移せるはずもなく、藤倉とともに車の後部座席に乗り込む。
 今日の組み合わせは、本当に異例だった。ハンドルを握るのは藤倉の部下だという男で、なぜか南郷が、当然のような顔をして助手席に座っている。前方を走っているのは第二遊撃隊の車で、後方は文書室の車ということで、ちょっとした大名行列だ。
「佐伯先生を連れ出すわけですから、護衛なしというわけにはいきません」
 よほど和彦が居心地悪そうな顔をしていたらしく、藤倉が愛想よく笑いながらそんなことを言った。
「……ドライブ、ですよね?」
「ドライブの途中、ちょっと見ていただくものがありますが、まあ、堅苦しく考えないでください」
 そう言われてますます不安になるが、走行中の車から飛び降りるわけにもいかない。南郷だけなら警戒してもし足りないことはないが、藤倉も一緒ということで、その点については安心してもいいだろう。
 和彦は覚悟を決めると、ようやくシートに体を預ける。すると、気をつかった藤倉が話題を振ってくる。
「本部での生活には慣れましたか、佐伯先生?」
「ええ、まあ……。申し訳ないぐらい、よくしていただいています」
「会長は先生のことを大変気に入っておられて、まだまだし足りないとおっしゃってましたよ。もっと甘えてもらってもいいんだが、とも」
「とんでもないっ」
 ムキになって否定したあと、和彦は声を抑えて付け加える。
「本当に、十分よくしていただいていますから……」
「会長としても、お医者さんが側に控えていると安心するのでしょう。工事のほうも急がせて――」
「――藤倉さん」
 急に南郷が振り返り、藤倉に向かって首を横に振る。藤倉は、あっ、と声を上げたあと、苦笑いを浮かべた。
「ああ、まだお伝えしていないんですか」
「会長なりにタイミングを見計らっているんでしょう」
「なるほど。わたしなどが余計なことを言うべきじゃありませんでしたね」
 意味ありげな二人のやり取りを聞いて、和彦はまたシートから体を起こすことになる。明らかに和彦に関わりのあることなのに、どうやら教えてはくれないらしい。
 南郷がこちらを見て、唇の端に笑みらしきものを刻んだ。
「隠し事ばかりするな、と言いたげな顔だ、先生」
「……いえ」
「心配しなくても、これから先、あんたが知りたがることはたいていのことは教えてやれる。さしあたりまずは、このドライブの目的だな」
 車は一時間近く走り続けたあと、あるショッピングセンターの駐車場へと入る。まさか、この面子でのんびりショッピングということは考えられないので、ここでドライブの目的が判明するのだろう。和彦は、藤倉と並んで歩き、南郷と隊員たちは、少し距離を空けてついてくる。
 駐車場を出て数分ほど歩いたところで、藤倉はあるビルの前で足を止めた。正面玄関の閉じた自動ドアの前に不動産屋の札がかかっており、中はガランとしている。
「――ここがまず、見学する物件の一つ目になります。ショッピングセンターの近くということで、人や車の通りが多いですね。前は、代々続く整形外科医院だったそうで、確かに建物は少し古い。ただ、場所はいいので、デベロッパーも早めの契約を望んでいます」
 淀みなく説明を始めた藤倉に面食らう。一体何事かと思ったが、少し考えれば、嫌でも答えは見えてきた。和彦はおそるおそる空き地を眺めてから、藤倉に確認をする。
「もしかしてここに、総和会のクリニックを……?」
「あくまで候補の一つですが。それと、総和会のクリニックというより、佐伯先生のためのクリニックと考えてください。もっとも、長嶺組のクリニック同様、名義上の経営者は別人となりますし、院長も同様です。何があっても、佐伯先生の名が表に出ることはありません」
 陽射しの強さもあって、軽く眩暈がした。盆の慌しさのせいにするつもりはないが、守光から言われていた新しいクリニック経営について、ひとまず考えるのは後回しにしていたのだ。だが、いくら和彦が返事を先延ばしにしようが、総和会は――守光は着実に動いていた。
 新しいクリニックの候補地を和彦に見学させるというのは、これは一種の恫喝だ。もう事態は進み出しており、あとは和彦の承諾の返事一つなのだと、嫌でも現実を突きつけてくる。
「通勤に少し時間がかかりすぎると思われるかもしれませんが、先生が常勤する必要はありませんし、必要な書類などは、うちの者がお届けにまいります。何日かに一度、顔を出していただければいいというのが、こちらの考えですが、それについては、具体的な決定があってから、おいおい考えましょう」
 和彦のために資料はすでに用意してあると言って、藤倉は小脇に抱えた分厚いファイルを捲り始める。その姿を、和彦は複雑な心境で見つめる。クリニック経営を任されているとはいえ、あくまで美容外科医でしかない和彦は、コンサルタントや税理士などのアドバイスによって、なんとか最低限の義務を果たして切り盛りしているに過ぎない。
 総和会も、腕利きのコンサルタントをすでに雇っているかもしれず、そうなると和彦の意見などほとんど必要とはしていないはずだ。それでも、こうして和彦を連れ出し、意見を尊重しようという姿勢を示すのだ。
 昨晩の賢吾との会話がふいに蘇り、暑いはずなのに、肌がざっと粟立つ。ジャケットの上から腕を擦ろうとして、離れた場所に立つ南郷と目が合った。和彦は露骨に視線を逸らし、ビルを見据えた。


 珍しく車に酔いそうになり、移動の途中、コンビニの駐車場で車を停めてもらう。ペットボトルのお茶を飲んでもすぐに気分がよくなる気がせず、一旦車を降りる。
 冷房の効いた車内に比べると、不快指数が一気に上がるような気温と湿度の高さだが、今の和彦にとっては、むしろこちらのほうが気持ちがいい。大きく息を吐き出すと、再びペットボトルに口をつける。
 視界の隅では、同じく車を降りた南郷と藤倉が何か相談してから、すぐに離れる。藤倉は携帯電話で話し始め、一方の南郷は、もう一台の車から降りてきた男と今度は話し始めた。
「あんたの調子がよくなるまで、ここで休憩だ」
 男と別れ、和彦の側までやってきた南郷が声をかけてくる。
「……すみません」
「気にしなくていい。あんたを連れ回しているのは、こっちだからな。大事になる前に申告してもらったほうが、いろいろと気をつかえる」
 南郷に言われると妙な言葉だと思ったが、顔には出さないでおく。
 和彦はさりげなく距離を取ろうとしたが、当然のように南郷はついてきて、駐車場の隅に置かれたベンチに並んで腰掛けることになる。二人きりなら、いくらでも素っ気ない態度が取れるが、今日はそうではない。南郷の部下たちの前で、南郷本人の面子を潰すマネはしたくなかった。
「夏バテじゃないのか。今ですら、忙しいと思っているかもしれないが、これからますます忙しくなるぞ、あんた。しっかり食って、体力をつけておかないと」
「……新しいクリニックのことを言っているのなら、ぼくはまだ引き受けると決めたわけじゃないので……」
 断れると思っているのかと言いたげに、南郷は薄笑いを浮かべた。一瞬ムキになりかけた和彦だが、ギリギリのところで堪える。
「総和会から大事にされる代わりに、思い通りにいかなくなることが、いくつか出てくるだろう。こうやって、休みの日に外に引っ張り出されるとか」
「それは、長嶺組でも似たような状況なので……」
「――大事な男と引き離されるなんてことも、あるかもな」
 和彦は、弾かれたように立ち上がり、南郷を睨みつける。誰のことを指しているのか、即座にわかったのだ。南郷は憎たらしいほど落ち着いていた。
「あんたと三田村さんがどれだけ熱い仲かってのは、俺もよく知ってる。オヤジさんも一応容認はしているようだが、それは、これまでの話だ。あんたは、長嶺の男たちだけじゃなく、総和会にとって大事な人になりつつある。あんたのために、総和会の人間が命を張るようになるんだ」
 背もたれに腕をかけ、南郷がじっと見上げてくる。立っている和彦のほうが目線の位置は高いのに、向けられる眼差しの迫力に、見えない手で頭を押さえつけられそうだった。
「そんなあんたと、長嶺組傘下の城東会若頭補佐という肩書きを持っているとはいえ一介の組員とじゃ、釣り合いが取れない――と考える奴も出てくるだろう。総和会ってのは、とにかくプライドの高い連中が揃っているんだ。総和会が一番、その中で、うちの組が一番、とな。オヤジさんは、あくまで総和会の人だ。そんな人がオンナにしているあんたを、長嶺組の組員ごときが好きにしているんだ、おもしろくないかもな」
「だったらあなたは、『ごとき』じゃないんですか」
 南郷は、歯を剥き出すようにして笑った。
「あまりカッカとすると、倒れるぞ、先生。気分が悪いんだろ」
「……あなたが、人の神経を逆撫でするからでしょう」
「可愛い男のためなら、いくらでも感情的になるか?」
 これ以上南郷と話していても、一方的に翻弄されるだけだと自分に言い聞かせ、和彦は踵を返す。歩き出してすぐ、南郷のこんな言葉が聞こえてきた。
「あんたと三田村さんが、アパートの一室にこもりきっているという報告を受けて、あんたたちの関係に難癖をつけるなら、こんな感じだろうかと、考えたんだ。これぐらいでムキになっていたら、何も守れないぞ、先生」
 危うく出かかった、余計なお世話だという一言を、和彦はぐっと呑み込む。
 南郷とのやり取りは、胸に抱えていた漠然とした不安を見事に抉り出していた。総和会や守光と関係を深めていく中で、三田村との関係はこのままでいられるのかと、心のどこかで思っていたのだ。
 あの部屋で二人きりで過ごす時間が心地よかったからこそ、その不安を直視せざるをえなかった。失いたくないからこそ、守らなければならない。
 誰から――。
 その自問に対する答えを、結局和彦は出さなかった。


 南郷から、和彦が夏バテ気味だと進言があったのか、その日の夕食には、和彦の分だけ料理の品数が多かった。しかも、精がつくと言われる食材を使ったものばかり。
 あの男なりに、和彦のことに気をつかっているというのは本当なのだろう。だが、あまりに無遠慮で、無神経すぎる。わざと和彦の反感を煽り、その反応を楽しんでいるのだ。
 意識しないまま箸を持つ手を止めていたらしく、正面の席につく守光に声をかけられた。
「何か嫌いなものでも出ているかね」
 ハッとした和彦は慌てて首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。……食事にずいぶん気をつかってもらっているなと思ったものですから」
「あんたには何より体を大事にしてもらわんといけないからな。食べたいものがあれば、遠慮なく吾川に言うといい」
「体は平気です。今日はたまたま車に酔っただけなので」
 ここで新しいクリニックについて守光から触れるかと内心身構えたが、意外なほどあっさりと受け流された。
 守光が目を細めるようにして、じっと和彦を見つめる。
「わしらが連れ回したせいで、この何日かで、すっかり日に焼けたな、先生」
 和彦は思わず自分の腕を眺める。言われてみればという程度だが、例年に比べれば、確かに少し日焼けした。
「いつになく夏を堪能した気がします。海でも泳げましたし」
「千尋も、泳げはしなかったが、ずいぶん楽しかったようだ。あんたと一緒だったというのが、何よりだったんだろう」
「かなりはしゃいでいて、海で水遊びをしているときは、ヒヤヒヤしました」
 楽しげに声を上げて守光が笑う。
 こうして向き合って食事をしていると、不思議な感覚に襲われる。ほんの数日前、和彦は長嶺の男たちと交わり、最後に精を注ぎ込んできたのが守光だった。淫靡で背徳的な行為だったはずなのに、一方で厳粛な雰囲気が漂っていたのは、守光の存在があったからだ。
 総和会の頂点に立つ男が加わったことで、あの行為は儀式として成り立った。和彦と長嶺の男たちの関係をより深く、濃密に結びつけた。
 目の前の人物との関係が、また変わってしまったのだと、唐突に認識させられる。それは、羞恥であったり、戸惑いを生み出し、これまでの守光に対する畏怖に加えて、さまざまな感情で和彦の心を揺さぶる。
 守光と目が合い、ドキリとした和彦は咄嗟にこう切り出した。
「――そういえば、古いご友人には会われたのですか?」
 一瞬、守光の目に鋭い光が宿ったような気がした。しかし次の瞬間には、柔和な眼差しとなって頷く。
「お互い、歳を取って、若い頃に比べて立場もずいぶん変わったが、会えばやはり、昔と同じだよ。そうそう人間、中身は変わらんということか」
「ぼくにはまだまだわからない感覚ですね」
「今からだよ。まだ三十歳そこそこなら、人のつき合いは劇的に広がるし、深まる。あんたにとって信用できる人間を見つけておくことだ。ただし、信用と信頼は、別物だ。これを見誤ると、手痛い目に遭わないとも限らない」
「……それは、経験からですか?」
「経験からでしか、わしはものを語れんよ」
 長嶺組の組長を経て、さらに大きな組織である総和会を動かしている人物の発言は、重みがあった。和彦などがうかがい知ることができない経験があっただろう。守光の経験を聞きたがる者はいくらでもいるだろうが、和彦は違った。化け狐が身を潜める一層深い闇を覗き見ることが、怖いのだ。
 もうすぐ、その深い闇に取り込まれてしまうというのに。









Copyright(C) 2015 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



第33話[04]  titosokubakuto  第34話[02]