と束縛と


- 第34話(3) -


 八月最後の日だった。
 和彦はウィンドーを覗き込むようにして、外の様子をうかがう。クリニックからの帰宅途中なのだが、日が暮れてから急に天候が崩れ、とうとうどしゃ降りの雨となっている。
『――雨すごいね』
 電話の相手である千尋の言葉に、見えるはずもないのに和彦は頷く。
「ああ。クリニックを閉める頃に降り出したから、よかったといえばよかったが……。お前は、本宅にいるのか?」
 珍しく、午後からずっとね。先生が仕事休みだったら、どこかに一緒に出かけたかったのにさ』
「この暑い中、どこに出かけるつもりだったんだ」
『いろいろあるよ。まずは、映画なんてどう? あと、秋物も並んでるから、服を買いに行くとかさ』
 ここのところ、千尋と気楽な気分で出かける機会もなかったので、素直にいいなと思ってしまう。
「お前の予定が合うなら、クリニックが休みの日に出かけるか。ぼくも、買いたいものがあるし」
『予定なんて、合わせるよっ。じゃあ、来週の日曜は?』
「ぼくのほうは、今は予定が入ってないから大丈夫」
『だったら俺、じいちゃんに、その日は絶対に先生に予定を入れないように言っておくから』
 総和会会長の孫だからこその発言だなと、和彦は密かに苦笑を洩らす。今の守光に、こんなことを面を向かって言えるのは、おそらく千尋ぐらいだろう。賢吾ですら、長嶺組組長という立場から気安く口にはできないはずだ。
「あまり強引な頼み方はするなよ」
 柔らかな口調で窘めた和彦は、ここで異変に気づく。大雨のため、普段以上に慎重な運転を続けていた車が、前触れもなく加速したのだ。それに伴い、前に座っている護衛の男たちが目に見えて緊張する。
「どうかしたんですか?」
 和彦が問いかけると、助手席に座っている男が硬い声で答える。
「車の通りが少ない道に入ってから、急に後続車が車間を詰めてきたんです。どうも、動きが不自然で」
 和彦がおそるおそる振り返ると、確かにすぐ背後を走る車があった。それでなくてもどしゃ降りの雨の中、この車間の近さは異常だった。何より、住宅街のさほど広くない車道を、スピードを上げて二台の車が走るのは、危険としかいいようがない。
『先生、何かあった?』
 電話越しにもこちらの緊迫感が伝わったのか、ここまでのどこか甘えた口調から一変して、千尋が鋭い声を発する。和彦は背後を気にしつつ、状況を説明しようとした。
「後ろを走っている車の様子が、おかしいみたいなんだ」
『おかしいって……』
「それが――」
 次の瞬間、後続車のヘッドライトの光が不自然な動きをする。何事かと和彦が目を見開いたときには、スピードを上げた車が強引に並走してきた。ハンドルを握る男が鋭く舌打ちし、ブレーキを踏む。和彦の体はシートに押し付けられたが、今度は、横からの強い衝撃に襲われた。
 何もかも一瞬だった。前に座る男たちの体が大きく揺れると同時にエアバッグが作動し、和彦自身もシートの上で体を振り回されそうになる。シートベルトが強く肩に食い込み、衝撃と痛みに声を上げる。
 強張った息をぎこちなく吐き出したときには、車は停止しており、助手席に座っていた男がこちらを見て必死の形相で声をかけてくる。突然のことに呆然としていた和彦だが、ハッと我に返る。
「佐伯先生っ、大丈夫ですかっ?」
 もう一度男に呼びかけられ、状況が掴めないままぎこちなく頷く。ハンドルを握っていた男が、ウィンドーが割れ、全体に歪んだドアに体当たりを繰り返して、強引に外に出る。激しい雨音に重なって、男の怒声が響き渡る。
 一体何が起こったのか――。
 ようやく身じろいだ拍子に、指先に硬い感触が触れる。ドキリとして視線を向けると、シートの上に落とした携帯電話だった。
 寸前まで自分が何をやっていたのか思い出し、のろのろと携帯電話を取り上げると、狂ったように和彦の名を呼び続ける、千尋の声が聞こえた。


 ベッドに仰向けで横たわった和彦は、大きなため息をついて、慎重に右腕を持ち上げてみる。少し前まで肩の痛みが気になっていたのだが、今はそうでもない。さきほど鏡で見たが、肌にうっすらと赤みが残っているだけだったので、湿布を貼るほどではないという判断は間違っていなかったようだ。念のため病院に行くよう勧められたが断った。
 痛みが薄れると同時に、自分の身に起こったことに現実味が失われていくようで、それが和彦には不気味だった。
 ホテルの一室に身を落ち着けてから簡単な報告を受けたが、和彦たちが乗る総和会の車に、別の車が故意にぶつかってきたと断言していた。車の運転席側の側面はひどい有様ではあったが、護衛の男たちはかすり傷を負った程度で、そこだけはよかったというべきなのだろう。
 尋常でない出来事があったにも関わらず、総和会の男たちの動きは迅速だった。速やかに代わりの車が呼ばれ、和彦だけがその車に乗って現場を立ち去ったのだが、そのあと、警察を呼んで処理したとは到底思えなかった。
 どしゃ降りの雨の中、車の外にいた男たちは、ずぶ濡れになりながら明らかに殺気立っており、あんなぎらついた目をして警官と相対すれば、さらに面倒な事態になるのは目に見えている。
 先生は何も心配しなくていいと言われたが、自分が乗っている車があんな目に遭い、安穏とした気持ちでいられるはずがない。頭の中は疑問符が飛び交っていた。
 車をぶつけてきたのはどこの誰なのかということはもちろん、今夜はこのホテルで休むよう言われた理由も、時間の経過とともに気になってくる。
 本部までは、もう少しだったのだ。歩いてさえ行けた距離だ。なのに、わざわざ離れたホテルへと連れて来られた。おそらく隣か前の客室も、総和会によって押さえられているはずだ。護衛の手間を考えても、ホテルの部屋を取った利点が見えてこない。
 もう一度ため息をつこうとしたとき、部屋の外で慌しい気配がする。また何か起こったのかと、反射的に飛び起きたと同時に、ドアがノックされた。和彦はベッドの上で動けず、じっと息を潜める。すると、ナイトテーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。相手は千尋だ。
『――先生、ドア開けて』
 電話に出ると、開口一番にそう言われて面食らう。再びドアがノックされ、ようやく和彦はベッドから下りた。
 念のためドアスコープを覗いて、ドアの前に千尋が立っているのを確認する。ドアを開けると同時に千尋が押し入り、和彦をきつく抱き締めてきた。
「よかったっ……。本当に無事だった」
 呻くように千尋が洩らした言葉に、和彦は目を丸くしたあと、小さく笑みをこぼす。千尋の背後に目を向けると、護衛としてついてきたのだろう。廊下に長嶺組の組員たちが立っている。和彦が頷くと、ドアが閉められた。
「……大丈夫だと言っただろ。どうして来たんだ」
 茶色の髪をくしゃくしゃと撫で回しながら和彦が言うと、不安そうに千尋が見つめてくる。
「迷惑だった?」
「そうじゃないけど、お前まで来ると、なんだか大事になったみたいで……」
「大事だよっ。先生が襲われたんだから」
 千尋が声を荒らげたことより、放たれた言葉のほうに衝撃を受けた。
「ぼくが……、襲われた?」
「そうだよ。ここに来るまでに、総和会から状況の説明があったけど、総和会も長嶺組も、見解は一致してる」
 寸前まで不安げに和彦を見つめていた千尋だが、こう告げるときの目は完全に据わっていた。どす黒い感情の炎に触れた気がして和彦が顔を強張らせると、千尋が安心させるように笑いかけてくる。
「先生、何か食った?」
「いや……、落ち着かなくて、それどころじゃなくて」
「ごめんね。何か買ってくればよかったんだけど、俺も慌ててたから、そこまで気が回らなくて。さすがに今は部屋を出られないから、ルームサービスを頼むか、うちのに適当に買ってきてもらおうか?」
 正直、食欲はまったくないのだが、何か食べないと千尋が過剰に心配するのは目に見えていたため、組員にコーヒーと軽食を買ってきてもらうことにする。
 イスに腰掛けた和彦は、さっそくさきほどの話の続きを促した。
「どうしてぼくが、襲われるんだ……?」
 千尋は窓際に移動すると、カーテンをわずかに開ける。いまだに雨は降り続いており、それを確認して不快そうに眉をひそめた。
「――襲われた、というのは本当は正確な表現じゃないのかも。うちの連中も言ってたけど、本当に先生をどうこうしたいんなら、車をぶつけて停めたあと、外に引きずり出すなり、車の中に拳銃の弾でも撃ち込めばよかったんだ」
 ゾッとするようなことをさらりと言われ、和彦は総毛立つ。少し考えてみれば、そこまでされなかったことが不思議なのだ。ほとんど抵抗などできない和彦を傷つける――致命傷を負わせることなど、暴力に慣れた人間たちにとっては造作もない。なのに、そうしなかった。
 よほど顔色が変わって見えたのか、千尋が動揺した様子で側にやってくる。
「ごめんね、先生。怖がらせるようなこと言って」
「大丈夫だ。お前が今言ったようなことを心配するのが本当なんだ。ぼくはどこか、他人事のように感じていたから、ちょっと驚いただけだ」
 かまわないから続けてくれと、和彦は強い眼差しで訴える。千尋は真剣な顔をして頷くと、ベッドに腰掛けた。
「脅しだったんじゃないかと思う。先生じゃなくて、じいちゃんに対する。いままで、弱みらしいものがなかったじいちゃんが、先生を側に置いたうえに、総和会の力と金を使って、先生に事業を始めさせそうとしているんだ。誰だって、先生が特別な存在なんだってわかる。……法要のときの、〈あれ〉もあるしさ。実際、どういうことをしたのかはともかく、盃を交わしたという話で、総和会の中は持ちきりだったらしいし」
「……お前のその口ぶりだと、まるで、総和会の中に――」
「外部の組織の可能性がまったくないわけじゃないけど、総和会の誰かの仕業という可能性のほうが、圧倒的に高い。総和会は、そういう組織なんだ。じいちゃんだって、手を汚さずに会長の座についたわけじゃない。それをよく思わない人間は、総和会の中にいくらでもいる。表立って揉めないのは、やっぱりそれだけ、じいちゃんの力が絶大だからだ」
 そんな存在の弱みになりうるかもしれないと、自分は目されているのだ。和彦は、これまで総和会という組織の中で、自分に向けられた男たちの視線を思い返していた。守光を信奉する男たちの目が行き届いているのか、オンナであることで不愉快な思いをしたことはないが、その中に敵意や害意が含まれていたかもしれないのだ。
 本部周辺では現在、この雨にもかかわらず、厳戒態勢が敷かれているという。和彦を本部から遠ざけたのも、不測の事態に備えてのことらしい。
「本部かクリニックにいる先生にはピンとこないだろうけど、夏頃から、総本部とかの空気がちょっとおかしいんだよね。ざわついているというか、浮き足立っているというか」
「どうしてだ?」
「第一遊撃隊の隊長が職務に復帰して、隊自体も活動を再開したから」
 思いがけない形で第一遊撃隊の話題が出て、和彦は目を見開く。
「御堂さんのことか……」
「そういえば先生、御堂さんと会ったことあるんだってね。――先生がどこまで知ってるかはわからないけど、あの人がどうこうというより、あの人を、じいちゃんの抵抗勢力の神輿にしたがってる人間がいるんだよ。筆頭は、清道会かな。とにかく、そういう目論見を抱く側と、警戒する側が、総本部の中で面をつき合わせているから、おかしい空気にもなる、とオヤジが言っていた」
 ここでドアがノックされ、千尋が素早く反応する。和彦に座っているよう言って、気配を殺してドアのほうへと向かった。どうやら長嶺組の組員だったらしく、戻ってきた千尋の手には、袋とカップがあった。
 礼を言って受け取った和彦はさっそくコーヒーを啜り、ほっと吐息を洩らす。千尋がテーブルに頬杖をつき、そんな和彦を優しい眼差しで見つめてくるので、なんだか気恥ずかしくなってくる。
「……なんだ?」
「先生に怪我がなくてよかったと思って。電話越しに先生の悲鳴が聞こえてきたときは、大げさじゃなく、心臓が止まるかと思った」
 和彦は片手を伸ばすと、もう一度千尋の髪を手荒く掻き乱した。
 ひとまず胃に何か入れるのが先だということで、サンドイッチを食べていた和彦だが、あることがどうしても気になり、つい千尋にこう問うていた。
「今回のことで、御堂さんの立場が悪くなったりするのか……?」
「そう、あからさまなことにはならないんじゃないかな。実行犯もわかっていない、証拠もない状況で、特定の人物を処断するのは、リスクが高い。そもそも、俺がガキの頃から御堂さんを知っているせいかもしれないけど、あの人、そういうことに関わるタイプじゃないんだよ。ヤクザというより、どちらかというと、先生に近いかな。怖いことは怖いけどね」
 和彦は内心安堵する。自分だけが御堂をそう思っているわけではないのだ。しかし、千尋の言葉には続きがあった。
「誰が犯人にせよ、俺たちの大事な先生を危険な目に遭わせたんだ。タダじゃ済ませない。――と、俺が言ったところで迫力に欠けるよね。だけど、じいちゃんは本当にやるよ。普段は穏やかそうに見えるけどさ、いざとなると、目的のためなら手段を選ばない人なんだ。総和会の中が荒れようが、必要だと思えば、なんでもやるよ」
 怖い思いをしたのは自分だが、和彦は半ば本気で、車を襲ってきた人物に同情していた。もし、身柄を押さえられたとき、どんな目に遭わされるのか想像もつかない。千尋が言うように脅し目的だったのだとしたら、その対価として、守光の怒りを一身に受けるのは、割りに合わないと思うのだ。
 優しさからそんなことを思うのではない。自分が騒動の原因になっているかもしれないということに、困惑しているが故だ。
「……怖いな……」
 ぽつりと洩らすと、その言葉をどう解釈したのか、今度は千尋が和彦の髪を撫でてきた。
「大丈夫。俺、今夜はここに泊まるよ。ちょうどベッドも二つあるし」
「何言ってるんだ。ぼくが襲撃を受けたかもしれないんだろ。そんなぼくと、長嶺組の大事な跡目を同じ部屋に泊まらせるなんて、できるはずがない。お前がどうしてもと言い張るなら、ぼくから組長に連絡するぞ」
「残念。オヤジは行事に顔を出していて、電話は通じないよ。先生のことも、まだ耳に入ってないかもしれない。オヤジがいない以上、先生のことで指示を出せるのは俺。その俺が、先生の側にいたいんだから――」
「ますます、ここに泊めるわけにはいかないっ。何があるかわからないんだから、早く本宅に戻れっ。いざとなれば、会長に連絡するぞ」
 千尋が拗ねたように唇を尖らせたので、和彦は奥の手を使うしかなかった。
 大きくため息をつき、視線を伏せる。力ない声でこう訴えた。
「――……一人になって、落ち着きたいんだ。今のぼくは、お前にまで気をつかえる余裕はない。ぼくを心配するなら、お前はお前の身の安全を考えてくれ。それと、お前を支えている人たちのことも。お前一人の身じゃないんだぞ」
「それは先生だって同じだろ……。でも、一人になりたいという気持ちはわかる。先生の心配が減るというんなら、今晩は帰る」
 素直な千尋を騙したような罪悪感の痛みを押し隠して、和彦は小さく頷いた。


 精神的にも肉体的にも疲弊しているのだが、この夜はまったく眠れる気がしなかった。
 テレビのニュース番組を漫然と眺めてから、電源を切る。千尋の話を聞いたせいだろうが、ホテルの一室に身を置いていると、外では凄まじい嵐が吹き荒れていながら、自分だけが何も知らずぼんやりしているのではないかと、焦燥感のようなものが生まれる。
 ベッドに横になろうとして気が変わり、部屋に備えつけの冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとしたが、結局、冷たいお茶を選んでいた。
 グラスにお茶を注いでいると、ナイトテーブルの上に置いた携帯電話が鳴る。今は誰かと話すのはひどく億劫だと思ったが、表示された相手の名を確認すると、無視するわけにはいかない。
『――起きていたか』
 夜更けであろうが、普段の落ち着きも艶もまったく失っていない賢吾の声は、今の和彦には少々刺激が強すぎた。行儀が悪いと思いつつも、ベッドに転がって話すことにする。
「気が高ぶって、眠れないんだ」
『どうしても眠りたいというなら、うちのに安定剤を持っていかせる』
「……いい。無理して眠っても、夢見が悪そうだ」
『よほど怖い思いをしたんだな。千尋から報告を受けて、先生に怪我がなかっただけじゃなく、ずいぶん落ち着いているように見えたと聞いて、少しほっとしていたんだが』
 まるで子供をあやすような優しい口調に、和彦は気恥ずかしさに襲われる。意味なく寝返りを打っていた。
『すまなかったな。できることなら、ホテルの部屋に先生を一人になんてせずに、本宅で保護したかったんだが、肝心の俺が本宅を離れている。総和会相手に交渉事をさせるには、千尋にはまだちょっとばかり荷が重い』
「ぼくの身柄について、長嶺の男たちだけで電話で相談を済ませるというわけにはいかないんだな」
『総和会の護衛がついていての、今回の襲撃だ。うちでは危ないので、長嶺組にお任せします、というわけにはいかねーんだ。面子の問題でな。それと、内輪の事情で』
 さきほどの千尋の話を思い出し、和彦はそっと眉をひそめる。
「本当に、御堂さんの立場が悪くなったりは……」
『秋慈は、劇薬だ。迂闊には触れない。それどころか、総和会の中に置くだけで、人と思惑が蠢く。本人の意思に関係なくな。――先生に似ていると思わないか?』
 和彦はため息をつくと、もう一度寝返りを打つ。賢吾が言おうとしていることは、理解できた。和彦もまた、本人の意思とは関係のないところで男たちの情と思惑に翻弄され、気がつけば、雁字搦めだ。
 しかし、和彦と御堂は決定的に違うものがあった。抗う力があるか否かということだ。意志の強さともいうべきかもしれない。
「……ぼくは、流されているだけだ。痛い思いをしたくないから、最初はあんたに身を任せた。自分の隊を率いている御堂さんと似ているなんて言ったら、失礼だ」
『いつになく自虐的だな、先生。やっぱり、動揺しているな』
「あんなことがあったのに、あんたも千尋も、難しい話をするからだ。……物事は、単純なのがいい。敵か味方か、信頼できるか否か。実行犯は誰か――」
 それもそうだと、賢吾が低い笑い声を洩らす。
『だったら、これだけは断言しておく。秋慈は、俺の大事で可愛いオンナを、絶対に傷つけたりはしない。もし、先生を傷つけようという計画がちらりとでもあいつの耳に入ったら、あいつは手段を選ぶことなく、計画を叩き潰す。そういう男だ』
 御堂について、そこまで言い切られるというのも、複雑な心境だ。正確に表現するなら、嫉妬だ。御堂と直接会って話すことで、この感情を自分の中で上手く処理できたと思っていたが、甘かったようだ。それとも、今という状況のせいだろうか。
「……信頼、しているんだな」
『それもあるが、俺はあいつの性格がわかっている。――昔からのつき合いだから、秋慈はよく知っているんだ。俺がキレると、どれだけ面倒で厄介なことになるか。それに自分が巻き込まれることもな。だからそうならないよう、手を回す。つまり、そういうことだ』
 とりあえず納得はできる答えだったが、和彦は別のことが気になり、つい呟いていた。
「あんたでも、キレることがあるのか……」
『蛇の怒りは冷たくて陰湿だ。みっともないから、先生には見せたくねーな』
「ぼくも……、そんな怖いもの、見たくないな」
 物騒な大蛇を背負う男相手にこんなことを言えるのも、オンナの特権なのだろうなと、和彦は密かに苦笑を洩らす。
 ここで賢吾が、電話の向こうで誰かと抑えた声音で話すのが聞こえた。こんな時間だというのに、まだ周囲に人がいるようだ。
「仕事中だったのか」
『先生が気にするな。俺がどうしても、先生の声だけでも聞いて安心しておきたかったんだ』
 この瞬間、胸の奥から強い衝動が湧き起こり、和彦は早口にこう告げた。
「もう安心しただろ。切るからな」
 慌てて電話を切って起き上がると、グラスに注いだお茶を一気に飲み干す。
 ごく自然に、賢吾の顔が見たいと願った自分に、ひどくうろたえていた。それと同時に、心細さを自覚する。
 少し前まで当然のように享受していた、怖い大蛇に守られる安堵感が恋しかった。


 翌朝、うつ伏せの姿勢で目を覚ました和彦は、起き上がろうとして顔をしかめる。肩だけでなく、体のあちこちが軋むように痛んだからだ。原因は考えるまでもなく、昨夜の車の衝突のせいだ。動けないほど痛みがひどいわけではなく、筋肉痛のようなものだ。
 和彦はベッドに腰掛けると、慎重に首を動かし、次に腕を持ち上げてみる。それから立ち上がってみて、軽く腰を捻ってから、ゆっくりとした足取りで室内を歩いた。やはりシートベルトが食い込んだ肩が一番ひどいようだが、それでも仕事に支障が出るほどではない。
 とりあえず顔を洗おうと洗面所に入った和彦は、鏡に映る自分の顔を見て、うんざりする。明け方近くまで目が冴えていたため覚悟はしていたのだが、ひどい顔色だった。目も充血して、濃い隈までできている。これでは、事情を知らない人間にまで、何かあったと悟られる。
 いまさらどうしようもないので、冷たい水で顔を洗ったあと、両頬を軽く叩いていくらか血の気を戻そうとしたが、ここで和彦はやっと、自分の格好を見下ろす。昨夜は手早くシャワーを浴びたあと、バスローブだけを着込んで休んだのだ。
 すぐに部屋に戻って着替えようとしたが、昨日と同じワイシャツに袖を通す気になれず、動きを止める。結局、バスローブ姿でベッドに腰掛けた。
 何かと気遣いが行き届いている総和会や長嶺組が、和彦が必要とするものを予測して、昨夜のうちに揃えるのは造作もなかっただろうが、おそらくその気遣いは、和彦を一晩、そっとしておくことに費やされたのだろう。
 その証拠に、ベッドに腰掛けて五分もしないうちに携帯電話が鳴り、総和会の人間から、これから着替えを持って行くと告げられた。
 着替えを受け取るとき、朝食をどうするかと聞かれた。ホテル内のレストランで済ませるか、出勤途中にどこか店に立ち寄るかということだったが、まったく食欲がなかったので、どちらも断った。だったらせめて、オレンジジュースぐらい飲んではと勧められたので、それには頷いた。
 新しいワイシャツを着込み、身支度を整える。外に護衛を待たせているので、もうのんびりもできず、慌しく出勤の準備をしていると、なぜか、部屋のドアが開く音がした。
 全身の毛が逆立つような恐怖を感じた和彦は、その場から動くこともできず、侵入者に無防備に身を晒す。
 のっそりと姿を現したのは、部屋のカードキーを手にした南郷だった。一瞬、激高のあまり、どうしてそんなものを持っているのかと詰問しそうになったが、ハッとする。この部屋はツインルームで、カードキーはもう一枚あるのだ。
 和彦が睨みつけると、南郷は痛痒を感じた様子もなく涼しげに笑った。
「その様子だと、出勤するつもりのようだな、先生」
「……どうして、勝手に入ってくるんですか」
「着替えを受け取ったあと、ドアガードをしなかっただろ。無用心だ」
「そういうことを言っているんじゃなくて――」
「勝手に入ってきたのが気に食わないなら、昨夜のうちに、同じ部屋で泊まっていたほうがよかったか? そうしてもよかったんだが、繊細なあんたのことだ。気が休まらないだろうと思って、遠慮したんだが」
 これまで、寝込みを襲われる形で南郷にされた行為が蘇り、和彦は身を震わせる。何もかも見透かしたように南郷が見つめてくる。その視線から逃れるように顔を背け、出勤の準備をする。
「今日はクリニックを休んでおとなしくしていてもらいたい、というのが、本音だ」
「予約が入っているので無理です。ぼくに怪我もないですし、おとなしくしている理由がありません」
「あんたが狙われたというのは、けっこうな理由だろ」
「それは……、ぼくにはわかりません。総和会の車に、たまたまぼくが乗っていただけなのかもしれませんし」
 和彦の空しい抗弁を、南郷は鼻先で笑った。
「本当にそう思うか、先生?」
 南郷との会話は、いつでも神経がささくれ立つ。和彦は、もう話す気はないと、唇を引き結ぶ。
 早く南郷との二人きりの空間から逃げ出そうと、アタッシェケースと、着替えの入ったバッグを手にしたとき、和彦の携帯電話が鳴った。無視するわけにもいかず、荷物を置いて携帯電話を取り出す。次の瞬間、激しく動揺していた。
 よりによってこのタイミングで電話をかけてきたのは、鷹津だった。鷹津は、長嶺組や総和会の動きに聡い。おそらく、何かあったと気づき、和彦に探りを入れるつもりなのだろう。
 南郷を目の前にして、鷹津からの電話に出るわけにはいかない。和彦は半ば反射的に、携帯電話の電源を切っていた。その行為が、南郷の不審感を煽るだけだとわかっていながら。
 案の定、笑みを消した南郷が、和彦との距離を詰めてきた。
「――誰からの電話だ」
「南郷さんには関係ないでしょう」
 和彦は後ろ手に携帯電話を隠しながら後退ろうとしたが、南郷に腕を掴まれて阻まれる。
「あんたの今の態度、俺に知られたらマズイ相手だな。そうなると、相手は限られそうだが……」
 軽く揉み合いとなり、南郷のもう片方の手が肩にかかる。ちょうど、痛めているほうの肩だった。和彦は悲鳴に近い声を上げ、驚いたように南郷がパッと手を離す。
「そう力を入れたつもりはないが……、もしかして、肩を痛めてるのか、先生?」
 和彦は答えず、ただきつい眼差しを向ける。南郷は不愉快そうに唇を歪めた。
「そういうことは、早めに言ってもらわないと。なんといっても、大事な身だ」
「……大したことはありません」
「それは、医者に診せてから判断することだ。自分も医者だ、という発言はなしだ。たった今、あんたは俺に隠し事をした。俺から早く離れたくて、あんたはいくらでもウソをつく」
 和彦に早く準備をするよう告げて、南郷はスマートフォンを取り出した。何か調べている様子だったが、和彦がぎこちなくジャケットに袖を通したところで、顔を上げた。
「ホテルの近くに整形外科があるようだ。出勤前に、そこで検査をしてもらうぞ」
 さすがの和彦も、ここで意地を張るのは得策ではないとわかる。仕方なく頷くと、南郷は満足げな表情を浮かべたあと、和彦が携帯電話を滑り込ませたジャケットのポケットあたりに、意味ありげに視線を投げかけてきた。









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