和彦の予想を上回って、事態は急速に動き始めた。
総和会出資によるクリニック経営の話を承諾した三日後には、午前中のうちに総和会本部へと連れて行かれ、藤倉の立ち会いのもと、膨大な数の書類にサインをさせられたのだ。
長嶺組出資のクリニックを任されることになったときも、同じように書類にサインはしたが、ここまで多くはなかった。
当然の義務とばかりに藤倉は、書類の一枚一枚について説明をしてくれたが、公的なものはほとんどなく、大半が、総和会内で回され、保管される書類だった。
自分を総和会に縛り付けておくための契約書だと、万年筆を握る手を機械的に動かしながら、自虐的に和彦は考える。自分が決断した結果だということは痛いほどわかっているのだ。例え、そうするしかなかったとはいえ。
強い力に身を委ねた先にあるものについて想像力を働かせてみるが、まるで靄がかかったように、何も思い浮かばない。安寧があるとは思えなかった。正体のはっきりしない何かが真っ黒な口を開けて待っているような、漠然とした不安だけは、ひしひしと感じる。当然、重圧も。
「――佐伯先生に、総和会の加入書を書いていただいたときのことが、昨日のように思い出されますよ」
和彦が記入し終えた書類を確認しながら、藤倉が感慨深げに言う。和彦は微苦笑を浮かべていた。そのときのことは、和彦自身、今も鮮明に覚えている。
「あのときは、藤倉さんにはご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、ご迷惑だなんて。我々も少々強引に物事を進めすぎたと、反省したんですよ。なんといっても、佐伯先生はまだ、まったく堅気の方でしたから」
悪気はないのだろうが、今は違うと言外に言われたようなもので、和彦は複雑な表情となる。しかし藤倉はそんな変化に気づいた様子もなく、さらに言葉を続ける。
「その佐伯先生が、今では総和会会長の信頼を得て、出資を受けて事業を始めるまでになられたんですから、すごいことです。しかも、短期間のうちに」
藤倉も当然、和彦と守光がどんな関係にあるのか知っているだろう。そのうえで、嫌悪や侮蔑といった感情を微塵も表に出すことなく、当初の頃のように接してくるのだから、感心するしかなかった。総和会の人間の誰もが、和彦の前ではそうなのだ。
和彦としては救われる部分もあるが、一方で、腹の内を勘繰りたくなる。それは和彦が、自分の立場を卑下したくなる心理の裏返しともいえた。
「……本当にぼくでいいのかと、すごく不安ですが……」
本音を吐露すると、藤倉は芝居がかった満面の笑みを見せた。
「大丈夫ですよ、佐伯先生。総和会が全面的にバックアップしますから、なんの心配もいりません。もちろん、ご迷惑をかけることもありません。佐伯先生が仕事に集中できる環境をご用意いたします」
ウソではないのだろう。今のクリニックですら、長嶺組の協力があって、経営については素人の和彦がなんとかまわせているのだ。総和会の協力ともなると、さらに絶大なものとなるはずだ。
自分が感じる不安がどういう類のものなのか、わざわざ藤倉に説明する気にもなれず、和彦は、お願いしますととりあえず頭を下げておく。
今日済ませておく書類へのサインはこれで終わりだということで、和彦は手早く帰り支度を済ませて、藤倉に伴われて応接室を出る。外には、イスがあるにもかかわらず、護衛の人間二人が直立不動の姿勢で待っていた。本部にいる頃よりさらに鋭い空気を放っているのは、ここが和彦にとって、必ずしも安全な場所ではないことを物語っている。
車による襲撃犯の目星はついているのか、聞いてみたい気はするが、素直に教えてくれるとは思えない。クリニックの件を引き受けたこともあり、闇雲に情報を仕入れたところで、今の自分に処理しきれそうにない。
物事は単純なほうがいい――。和彦は、自分に言い聞かせるように心の中で呟く。
エレベーターホールまで来たところで、改めて藤倉に礼を言って頭を下げる。藤倉は大仰に手を振った。
「こちらこそ、佐伯先生にはお礼を言わなければなりません。せっかくの休日なのに、ご足労いただき、ありがとうございました。申し訳ないですが、クリニックの候補地を見てもらうため、また休日におつき合いいただくことになると思います。ご負担をかけることになりますが、よろしくお願いします」
また南郷が同行することになるのだろうかと、藤倉の言葉を受け、頭の片隅でちらりと考える。不快さが表情に出そうになったが、なんとか堪えた。
藤倉とそんなやり取りを交わしていると、一基のエレベーターの扉が開いた。和彦はその様子を視界の隅に捉えただけで、誰が降りてきたのかわざわざ確認はしなかったのだが、藤倉や、護衛の男たちは違った。
和彦の前では丁寧なビジネスマンのような物腰を崩さない藤倉が、一瞬、ゾクリとするほど鋭い眼差しを、エレベーターのほうに――エレベーターから降りてきた人物に向けた。何事かと、反射的に視線を向けた和彦は、小さく声を洩らす。
圧倒されるような整然さを保った、ダークグレーのスーツを身につけた一団には見覚えがあった。そして、男たちの中心には、灰色の髪をした長身の男がいる。
御堂だとわかり、和彦は半ば無意識に一歩を踏み出していたが、次の一歩を阻むように、護衛の男たちが壁のように前に立ちはだかる。
「――佐伯先生、こちらに」
藤倉に肩を抱かれ、さりげなく立ち位置を変えられた。御堂たち第一遊撃隊への警戒心を隠そうともしない露骨すぎる行動に、和彦は戸惑う。慌てて振り返り、御堂の姿を目で追いかける。
御堂は、和彦の存在に気づいているはずだが、こちらを一顧だにせず、冷然とした横顔を向けて通り過ぎた。せめて挨拶ぐらいはと思っていただけに、御堂の態度に軽くショックを受ける。
ただ、御堂が総和会内で複雑な立場にあることや、和彦への襲撃に関してのよからぬ憶測があることを含め、二人が接触しないほうがいいと判断しても、仕方がないのかもしれない。御堂は特に、隊を率いている身だ。和彦とは違い、さまざまなことへ気を配らなければならないだろう。
それでも、視線すら合わせてもらえないのは少し寂しいなと、和彦はため息をついてから、藤倉と別れてエレベーターに乗り込む。
地下に降りて車が回ってくるのを待っていると、エレベーターが到着した音がした。さきほどと同じく、護衛の男が露骨に身構えたのを感じ、まさかと思って振り返る。一瞬、御堂かと思ったのだが、そうではなかった。しかし、御堂に近い存在ではあった。
「二神、さん……?」
和彦がおずおずと呼びかけると、護衛の存在など目に入っていないかのように、二神がまっすぐこちらを見つめてくる。圧倒されそうな眼力の強さだが、口元に淡い笑みが浮かんだのを見て、和彦も微笑み返すことができる。
「どうかされましたか?」
「隊長から伝言をことづかってまいりました」
そういえばまだ、御堂にこちらの携帯電話の番号を知らせていなかったことに、いまさら和彦は気づく。
「――佐伯先生にこれから予定がないようでしたら、昼食にお誘いしたいとのことなんですが……」
「行きますっ」
和彦が勢い込んで即答すると、二神は目を丸くしたあと、ありがとうございます、と言って深々と頭を下げた。そこまでされるほどのことではないと、和彦のほうが慌ててしまう。
二神から、簡単な住所と店名の書かれたメモ用紙を渡される。受け取ると、二神はもう一度頭を下げて足早に立ち去った。
「本当に行かれるんですか?」
傍らに立った護衛の男にそう問われ、和彦はなんのためらいもなく頷く。
「行きます。ちょうど、お腹も空きましたから」
物言いたげな視線は向けられたが、ダメだとは言われなかった。あくまで男たちは、和彦を護衛するために行動をともにしているのであり、和彦の行動を制限するためについているわけではない。
そんな当然のことに、今この瞬間、やっと気づいた。
御堂に指定された店は、少し道が入り組んだ場所にある、雰囲気のいい料亭だった。ただ、昼時だというのに、客は和彦たち以外にいない。
先に訪れた和彦は、自分が店を間違えたのではないかとうろたえたが、店主らしい男に案内されて、個室の一つへと入る。客だけではなく、どうやら店員もいないようだと気づいたが、その理由を、あとからやってきた御堂が教えてくれた。
「今日は本当は、営業は夕方からなんだよ。店主とは、昔からの知り合いでね、静かに食事をしたいときは、たまにこうしてわがままを聞いてもらっているんだ」
「……ぼくが同席しても、よかったのでしょうか……」
「誘ったのはわたしだよ」
悪戯っぽく御堂が笑う。それでいくぶん緊張が解れ、和彦もそっと笑みをこぼす。
実は、御堂がこの店を訪れたとき、別室に待機していた総和会の護衛たちと、御堂が連れて来た数人の第一遊撃隊の隊員たちが顔を合わせた瞬間、目に見えて険悪な空気を放ったのだ。まさに、一触即発というやつだ。
傍で見ていた和彦のほうが顔色を失ってしまい、男たちの怒声を聞いた瞬間には卒倒しかねない状況だったのだが、御堂が、静かな、しかし威厳に満ちた口調で窘め、男たちに冷静さを取り戻させた。今は、互いに距離を取りつつも、静かに待機している。
すでに膳を頼んであるということで、改めて正面から視線を交わし合う。御堂の色素の薄い瞳と、年齢不詳の端麗な美貌を眺めていた和彦は、唐突に、ある光景が脳裏に蘇り、一人動揺する。
前回、御堂と会ったのは、思いがけない形でだった。この御堂が、男に――清道会の組長補佐である綾瀬という偉丈夫に組み敷かれ、乱れている姿を、和彦はしっかりと見てしまったのだ。〈会った〉という表現は相応しくないのだろうが、御堂も見られることを承知していたという話なので、奇妙ではあるが、互いの存在を認識していたことになる。
つい最近の出来事なのだが、今日までにいろいろとありすぎて、時間の感覚が狂ってしまう。
「何から話そうか。君とは、あれを話したい、これを話したいと、いろいろ考えていたんだが、いざこうして向き合うと、わたしたちの間にあるのは野暮な事柄ばかりだと、しみじみ思ってしまう」
「本当に、砕けた話題をと思っても、悩んでしまいますね」
ここで二人は笑みを交し合う。御堂と親しくなったと言うつもりはないが、少なくとも初めて会ってお茶を飲んだときよりは、互いの距離が近くなったようだ。
和彦の緊張がいくらか解れたと感じたのか、タイミングを見計らっていたように御堂が切り出す。
「――君はとうとう、総和会の人間になったんだね」
和彦は曖昧な表情となっていた。
「そう、みたいです……」
「あの長嶺会長に見込まれてしまうと、否とは言えないだろう。いかに息子といえど、賢吾も口出しはできなかっただろうし、なかなかつらい選択だったんじゃないか?」
御堂は、何を、どこまで知っているのだろうかと、正直戸惑う。すべてを打ち明けてしまえば楽なのだろうが、それは果たして正しい行為なのだろうかとも思ってしまうのだ。御堂と守光、そして南郷との間に因縁があることは、大まかではあるが把握している。そんな両者の間に、自分が争いの火種を起こしてしまうことを、和彦は何より恐れていた。
御堂の色素の薄い瞳が、じっとこちらを見つめてくる。射竦められそうな迫力に和彦が息を呑んでいると、御堂がふっと眼差しを和らげた。
「……君は、頭がいい。いや、よすぎるぐらいか。だから、あれこれと考えて、自分が身動きが取れなくなる。関わる男が多い分、さまざまな事情を斟酌してしまうんだろう。そして、自分が何もかも呑み込んでしまえば、男たちに余計な気遣いをさせなくて済む――と考えるんじゃないか?」
「いえ、ぼくはそんな……」
「今も、わたしと長嶺会長たちの関係について、いろいろと考えたはずだ」
なぜだか叱られている気分になり、意識しないまま和彦は視線を伏せる。
「責めているわけじゃないんだ。君にとっては不幸でしかないだろうが、君のその性質のおかげで、こちら側の世界で生きている男たちの何人かは、喜んでいる。君を繋ぎとめておく手段は、多いに越したことはない。つまりそれだけ、君の価値は増しているということだ。誰も彼も、君を手放したくなくて、仕方ない」
御堂の言葉の最後を聞いた途端、和彦はゾクリとして身震いする。守光に言われた言葉を思い出したのだ。
『わしの望みは一つだ。あんたが、心底欲しい。どんな手を使ってでも――』
あれは求愛などという生易しいものではなく、呪詛だ。総和会会長の立場にある人物からあんな言葉を囁かれたら、逆らうことはできない。ただ、受け入れるだけだ。
そっと視線を戻すと、御堂は真剣な顔をしていた。和やかな雰囲気の中で食事を、という様子ではない。ようやくながら和彦は、こうして二人きりで個室にいる理由を察し始めていた。
「――……御堂さんは、何か知っているのですか?」
「何か、とは?」
和彦は口ごもる。そこに膳が運ばれてくる。彩り豊富な料理に、いつもであれば上機嫌で箸を進めるところだが、今は少し胸の辺りが重い。しかし食べないわけにもいかず、お茶で口を湿らせてから、料理に箸を伸ばした。
和彦が料理に口をつけるのを待ってから、会話が再開される。
「わたしが君にしてあげられるのは、南郷たちが君の耳にあまり入れたくない、総和会内で密かに言われている下種の勘繰りの類だよ」
「……やっぱり、ぼくの耳に入らないようにしているんですね」
「できることなら、仕事以外では、君を部屋に閉じ込めておきたいと考えているんじゃないか。皮肉だが、今、総和会に身を置いている君を、総和会の穢れに触れさせたくないんだろう。刺激が強すぎるから」
和彦のもとに届く情報は、守光や南郷によって取捨選択されている。前々から感じてはいたことなので、いまさら衝撃を受けたりはしない。
和彦は、囁くような声で御堂に言った。
「教えてください。御堂さんが知っていることを」
「刺激が強いうえに、毒を含んでいるかもしれないよ?」
かまわないと、和彦は頷く。御堂に促され、再び箸を動かす。
「――君の乗っている車が襲われた件で、何か説明はあったかい?」
「いえ……。心配しなくていいとだけ」
「犯人について、調べているかどうかすらも教えられていないというわけか」
目線を伏せて肯定すると、どういう意味か御堂が唇の端を動かす。なんとなく嘲りの表情に見えた。
襲撃された件で、和彦に一番情報をもたらしてくれたのは、千尋だ。全体の状況が見えない和彦に、総和会内部の者による犯行の可能性を示唆したのだ。そのとき千尋の口から名が出たのは、今目の前にいる御堂だった。
もちろん、御堂の犯行だと決めつけていたのではなく、御堂を利用したがっている勢力があると言っていたのだ。その勢力の筆頭が、御堂とは浅からぬ縁のある組織、清道会だ。
「そのうち……というか、さすがに誰かが君に教えるかもしれないが、君を襲った主犯格として、清道会の名が挙がっている。綾瀬さんがいる組だ」
和彦が驚かなかったことに、御堂は納得したように頷き、艶やかな笑みを見せた。
「そうか。もう知っているようだね」
「すみません……」
「どうして君が謝る。総和会にいれば、誰もが薄々考えることだ。わたしが復帰して、血気に逸った誰かが独断で暴走した結果だとしても、責めを負うのは組そのものだ。実際、早いうちから長嶺会長は、檄文を出した。自分の〈オンナ〉であり、長嶺組長からの大事な預かりものでもある君が命の危険に晒されて、憤激していることを。そこに、まるで、特定の組織を想起させるような文章もつけてね」
えっ、と声を洩らした和彦は、そのまま絶句する。和彦が知る守光と、あまりに様子が違うと感じたからだ。守光はむしろ、和彦が襲撃されたということを最大限に利用した。総和会という組織深くに、和彦を取り込んだのだ。
ある可能性がちらりと頭を掠めた瞬間、総毛立つような感覚に襲われる。ブルリと身震いした和彦を、御堂は冷静な――冷徹ともいえる目で見つめていた。
「君はやっぱり頭がいい。ある可能性に、気づいたんだね」
和彦は頷かなかった。認めてしまえば、守光とこれまでのように向き合えないと思ったからだ。聡い守光は、和彦の些細な機微すら見抜いてしまい、総和会という組織の奥にさらに取り込もうとしてくるかもしれない。
「君が襲われたという事実は、こういってはなんだが、使い勝手がいいんだ。肝心の君は怪我がなく、襲ったほうも、車を停めることに成功しておきながら、なぜか君に一切手出しはしなかった。あとに残ったのは、総和会の外部ではなく、内部の者による犯行の可能性が高い、という不確実な話だけだ。そこで長嶺会長はどう動くか――」
守光は、対外的には総和会を磐石の組織へと育て上げたが、内部に限っては、すべてが安泰というわけではない。敵すらも呑み込んでいる巨大な組織は、ある意味、不安定ともいえた。だからこそ守光はさらに完璧を目指し、精力的に動き続けている。
「今回の件で、得をした人間がいる。もちろん、君ではない。綾瀬さん――清道会でも、それ以外の、長嶺会長の抵抗勢力でもない。そう。組織改革のさらなる口実を得た、長嶺会長自身だよ」
御堂の言う〈毒〉とは、猜疑心のことだ。
和彦は自分でも顔が青ざめていくのがわかった。
「これまでの総和会は、十一の組が名を連ねているということもあって、一応は合議制的な部分が強かったんだ。だけどそれは、長嶺会長の代になってから、少しずつ変わってきている。あの人が目指しているのは……、会長権限による独裁かもしれない」
ここまで話して、御堂は優雅な動作でお茶を啜る。和彦が箸を置いたのを見て、怜悧な微笑を浮かべた。見惚れるほど美しい表情だが、よく研がれた刃のような鋭さがある。
「親切なふりをして、わたしは君に毒を吹き込んだ。君はきっと、長嶺会長に対して怯えを抱くだろう。そして、長嶺会長は気づく。君に余計なことを吹き込んだ人間がいて、それは、今日食事をともにしたわたしだ、と。気に障って仕方ないだろうね。復帰を認めたばかりだというのに、もう動き出したかと」
自分は男たちの思惑と力に翻弄されるしかないのだと、痛感していた。守光が言う、強い力に身を委ねるとは、言い換えるなら、こういうことだ。和彦の知らないところで、和彦は利用されている。教えてくれるだけ、御堂は〈親切〉なのだろう。
「……賢吾さんに対して、ぼくはよく言っていたんです。ヤクザの言うことなんて、信じられないと」
「そうだね。わたしもヤクザだから、信じないほうがいい。今言ったことは、なんの確証もない。ただの憶測というやつだ。もしかすると君を襲ったのは、総和会の外の人間で、長嶺会長は必死に犯人を捜させているかもしれない。君は、信じたいことを信じればいいし、そうできないなら、何も信じなくてもいい」
曖昧な返事をした和彦は、純粋な疑問から、御堂にこう尋ねていた。
「どうして今日、ぼくを誘ってくださったのですか? 長嶺会長や南郷さんにもっと目をつけられることになるのに……」
「牽制の意味もあったけど、君は放っておけない。わたしの長年の友人の大事な人だし、何より、昔のわたしの姿と重なる。そんなわたしの目に、君が頑丈な檻の中で窒息しかかっているように見えたんだ。みんな、君が大事すぎて、逃げ出さないよう、ただただ檻だけを立派にしていく。閉じ込められる君のことはお構いなしだ」
「わかる、ものなんですね……」
「わたしも一時、文字通り、檻に閉じ込められていたことがあるから」
とんでもないことをさらりと言われ、数秒の間を置いて和彦は目を見開く。御堂は淡く苦笑した。
「オンナに執着するヤクザは、行動が似るんだろうか」
「……ぼくは、さすがに本物の檻に入れられたことはありません」
「まだね」
不吉な一言を呟いたあと、御堂は料理を口に運ぶ。和彦が一人で動揺していると、たっぷりの間を置いてから、御堂はようやく欲しい言葉を言ってくれた。
「冗談だよ」
とりあえずその言葉に安堵して、和彦はようやく、食事を再開することができた。
自宅マンションに着いた和彦は、部屋に入って完全に一人になったところで、大きく息を吐き出す。久しぶりに味わう解放感に、ここがやはり自分の家なのだと強く実感していた。
御堂と別れたあと、聞かされた話の内容から思うところがあった和彦は、どうしても総和会本部に戻る気にはなれず、護衛の男たちにこう主張していた。
このまま自宅マンションに向かい、一泊して過ごすと。
今日はすでに、御堂と食事をすることで、自分の主張を押し通した。いつもであれば、これ以上はわがままは言えないと、周囲の勧めに従うところだ。しかし和彦は引かなかった。結局、男たちはどこかに連絡を取ったあと、やむなくといった様子で承諾した。
靴を脱ごうとした和彦は、ふと気になってドアレンズを覗く。ここまで送り届けてくれた護衛の男たちの姿は、すでにドアの前にはなかった。
ふらふらと部屋に入ると、まず何をしようかと考えてから、とりあえず風呂に入ることにした。
湯を溜めている間に着替えを用意して、気に入っている入浴剤をバスタブに放り込む。
さっそく湯に浸かった和彦は、バスタブの縁に頭を預けて目を閉じた。
まだ昼間といえる時間帯なのだが、今日は大変だったと思い返す。総本部で何枚もの書類にサインをして、総和会との繋がりがまた深く、強くなったことを噛み締めたあと、御堂たち第一遊撃隊と出くわした。
御堂と二人きりで食事をして、〈毒〉を注ぎ込まれた和彦の心は、波立っている。
「檻……か」
和彦はぽつりと呟くと、湯に深く身を沈める。今の和彦をがんじがらめにするのは、目に見える檻ではなく、男たちの情であり、思惑だ。それですら、十分に行動を制限され、息苦しさを覚えるというのに、本物の檻などに入れられたとしたら、自分はどうなるか。
湯に浸かっているというのに、和彦の肌がザッと粟立つ。オンナに対する独占欲や執着心はそこまで行き着くものなのかと、空恐ろしさを覚える。その一方で、胸の奥で官能のうねりが生じていた。
檻に閉じ込められた御堂の姿を想像して、それがいつしか、自分の姿へと入れ替わる。檻の外にいる男は――。
ハッと我に返った和彦は、妄想を振り払うように水音を立てる。
体を洗ってバスルームから出ると、もうすでに何もする気力が残っておらず、服を着込んでから寝室へと向かう。どうせ明日まで誰にも会わないのだからと、濡れた髪のままベッドに転がった。
「疲れた……」
しみじみと洩らしてから手足を伸ばす。眠るつもりはなかったのだが、気が緩んだ途端、ヒタヒタと眠気がやってくる。
一人の空間で、何をするのも自由だと思うと、もう瞼を開けていられない。少しだけだからと自分に言い聞かせながら、和彦は意識を手放した。
髪を撫でる優しい感触に、つい口元が緩む。昼寝からの目覚め方としては理想的だと思ったが、意識がはっきりしてくるに従って、そんな場合ではないことに気づく。
部屋に一人でいたはずなのに、誰かがいるのだ。もっとも、その〈誰か〉はごく限られているが。
ゆっくりと目を開けると、枕元に賢吾が腰掛けていた。
「どうして……」
和彦が発した声は、寝起きのせいで掠れていた。軽く咳き込むと、賢吾が大仰に眉をひそめる。
「風邪か、先生?」
「……違う。――ぼくがここにいると、総和会から連絡があったのか?」
「あそこの連中は、先生の行動を逐次教えてくれるほど、親切じゃねーよ」
「だったら……、あっ」
和彦は、ここが自分に与えられた檻のようなものであることを思い出す。じろりと賢吾を睨みつけた。
「盗聴器、まだ仕掛けたままなのか……」
「どんなときでも、先生の安全には気を配らないとな」
「ものは言いようだな、まったく」
「そう言うな。先生がここにいると連絡を受けたとき、たまたま移動の途中だったから、顔だけでも見たくて、こうして寄ったんだ。会えたんだから、盗聴器さまさまだろ」
「……本当に、ものは言いようだな」
そう言って掻き上げた髪は、すっかり乾いていた。眠気はすっかりどこかに行き、心地よい充足感が手足の先まで行き渡っている。そう長い時間眠っていたわけではないが、よほどリラックスできたのだろうなと、自分の状態に和彦は複雑な心境となる。
体を起こすと、和彦の頭を見た賢吾が笑いを噛み殺したような顔をした。
「髪を乾かさないまま寝たな、先生。頭がひどいことになってるぞ」
和彦は慌てて髪を撫でる。
「いいんだ。どうせ今日はもう、誰にも会わないし」
「ということは、今日はここに泊まるのか」
この表現は変だと、互いに気づいて視線を交わす。本来は、ここが和彦の住居で、総和会本部には客として滞在している立場なのだ。それが今では、まったく逆となっている。
「これまで散々、先生に偉そうなことを言っておきながら、オヤジに対してまったく盾になれなくて、すまないな」
和彦の髪を撫でながら、苦々しい声で賢吾が言う。和彦はちらりと笑みをこぼした。
「選んだのはぼく自身だ。……この世界で生きていくために、多分、必要なことなんだろう。窒息しそうな重圧を感じるけど、単なる〈オンナ〉では、きっとあんたたちの側にはいられない。ぼくは、自分の身を守りたいんだ。怖い思いも、痛い思いもしたくないから、強い力に身を委ねる」
「……先生にそこまで言わせても、俺たちは――俺はやっぱり、先生に逃げられることを恐れてる。どんな手を使ってでも、こいつだけは絶対にどこにも行かせないと、あれこれ考えちまうんだ」
賢吾に肩を抱き寄せられ、和彦は素直に身を預ける。
「逃げることなんてできるんだろうか……」
ぽつりと和彦が洩らすと、後ろ髪を掴まれて賢吾に顔を覗き込まれる。大蛇が潜む目は、ゾクリとするほど冷たい光を湛えていた。
「逃げたいのか?」
恫喝するような問いかけから滲み出ているのは、和彦を絞め殺しかねないほどの、強い独占欲と執着心だった。我ながら度し難いと思うが、和彦は身が震えるような興奮を覚え、賢吾の頬にてのひらを押し当てる。髪を掴む手がふっと緩んだ。
「――……ぼくは、あんたたちの血肉になるそうだ。そうなったら、逃げようがないな」
「オヤジが言ったのか?」
「ああ」
「俺たちが、先生を食うのか……」
こんなふうに、と賢吾が耳元に顔を寄せ、耳朶に軽く噛みついてくる。熱い疼きが背筋を駆け抜けて、和彦は小さく声を上げていた。
「いつもは、俺たちのほうが、先生に肉を食われているのにな」
耳元でもたらされるバリトンの響きに和彦は、官能を刺激されるより先に、記憶を刺激された。
「……父子だけあって、同じようなことを言うんだな」
「大したオンナだ。父子に同じような台詞を言われたなんて、さらりと告白するんだからな」
自分の失言に気づいた和彦はうろたえ、身を捩ろうとするが、賢吾にしっかりと抱き締められる。
「じっとしてろ。あまり時間がねーんだから、先生の感触を堪能させろ」
「さんざん堪能してきただろ、いままで……」
「まだまだ足りねーな」
心地よさそうに賢吾が洩らした吐息に、気持ちがくすぐられる。一人になりたくてここに戻ってきたはずなのに、今は、賢吾と一緒にいられることが、何よりもほっとできる。
和彦はゆっくりと目を閉じると、賢吾の背にそっと両腕を回した。
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