寝返りをうった拍子に、前触れもなく目が覚めた。和彦はぼんやりとした意識のまま、ここはどこだろうかと考えていたが、すぐに状況を思い出す。
伏せていた視線を上げると、ベッドの端に鷹津が腰掛けていた。向けられた背は真っ白のバスローブに包まれているが、普段の格好を知っているだけに、鷹津という男に白は似合わないなと、失礼なことを考えていた。そんな自分に気づき、和彦は唇を綻ばせる。
「――……寝ないのか?」
和彦が声をかけると、鷹津がゆっくりと振り返る。手には、缶ビールを持っている。
「まだ、宵の口だ」
時間の感覚が麻痺しており、和彦は瞬きを数回繰り返す。熟睡したような気もするが、ほんのわずかな間、ウトウトしていただけのような気もする。激しい情交に加え、昼間歩き回ったせいもあって、とにかく体はドロドロに疲れきっていた。
ただ、それは苦痛ではなく、どちらかといえば心地よさに近い。頭の先から爪先まで、鷹津に注がれた情愛に満たされているようだ。
「喉、渇いた……」
和彦はのろのろと手を伸ばし、鷹津から缶を受け取ろうとしたが、スッと躱される。
「お前にはルームサービスを頼んでおいた」
そう言って鷹津が立ち上がり、テーブルへと歩み寄る。和彦は再び寝返りを打って仰向けとなったが、その拍子に内奥で蠢く感触があってドキリとする。腰から下にはシーツがかかっているが、見なくても、自分の下肢がどういう状態になっているのかわかった。
ベッドに戻ってきた鷹津は、ワインが注がれたグラスを持っていた。
「……あんたにしては気が利いている」
和彦の言葉に、鷹津は鼻先で笑った。
「俺はいつでも、お前に甲斐甲斐しく尽くしているだろ」
「そうだったか?」
片手を掴んで鷹津に引っ張り起こしてもらうと、受け取ったグラスに口をつける。本当はただの水のほうがありがたかったのだが、せっかく鷹津が頼んでくれたのだから文句はなかった。一気に飲み干すと、鷹津がニヤニヤと笑う。
「ボトルでラッパ飲みしそうな勢いだな」
「だから、喉が渇いてるんだ」
鷹津はワイン瓶ごと持ってきて、恭しい動作でグラスに新たにワインを注いでくれた。
ようやく喉の渇きが治まって大きく息を吐き出すと、鷹津にグラスを取り上げられてベッドに押し倒される。腰を覆っていたシーツを剥ぎ取られ、両足の間に腰が割り込まされた。
見つめ合いながら和彦は、鷹津の頬にてのひらを押し当てる。いまさらながら、まどろむ前に鷹津と交わしたやり取りが、切迫感を伴って和彦の胸を苦しくさせる。
「――……あれは、あんたなりの冗談なのか?」
「あれ?」
「俺と一緒に逃げるか、って……」
「お前としては、本気と冗談、どっちのつもりで頷いたんだ」
和彦は答えに困る。快感に酔わされた状態で決断を迫られても、まともな思考力は働かない。しかし、鷹津はあえてそれを狙って、和彦から返事をもぎ取ったのだ。
和彦は顔を背け、さらに鷹津に問いかけた。
「あんたこそ、どっちなんだ?」
「俺は――本気だ。惚れた相手が、性質の悪い連中に囲われているんだ。なんとしても連れて逃げたいと思うのは、恋する男としては必然だろ」
思いがけないことを言われて、和彦は顔を背けたまま目を見開く。するとあごを掴まれ、正面を向かされた。声を発する前に唇を塞がれ、口腔に舌が押し込まれる。情欲はもう完全に冷めたはずなのに、冷たい舌に口腔をまさぐられているうちに、体の内でポッと小さな火が灯っていた。
和彦は口づけの合間に、鷹津の真意を確かめようとする。
「待っ……、今の言葉、本気で――」
鷹津はわざと聞こえないふりをしているのか、和彦の唇を甘噛みする一方で、着込んでいるバスローブの紐を解き、ぐっと腰を密着させてくる。信じられないことに、鷹津の欲望は熱くなっていた。
「なん、で……」
「俺がお前に欲情すると、おかしいか?」
何が鷹津を興奮させているのかわからないまま、和彦は内奥を指でまさぐられていた。さんざん広げられ、擦られた場所は、熱を持ち、疼痛を訴えている。それでも、武骨な指で撫でられてから、ヌルリと挿入されると、やはり快感めいたものは生まれる。
「は、あぁっ」
内奥から指を出し入れしながら、鷹津は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「たっぷり注いでやったから、ヌルヌルだな。掻き出してやらなかったから、奥から俺の精液が溢れ出してくる」
両足を抱え上げられたうえに、思いきり左右に広げられる。さんざん愛された部分は、どちらのものとも知れない残滓がこびりつき、まだたっぷりの湿り気を残していた。鷹津は、激しい行為の名残りを愛でているのか、機嫌よさそうに目を細めた。
蜜を含んだように手足が重く、頭もぼうっとしている状態の和彦だが、それでも羞恥を感じることはできる。
「嫌だ。見るな……」
「俺には見る権利がある。俺が、お前をここまでトロトロにした」
鷹津は、愛撫は加えてこない。ひたすら、食い入るように見つめてくる。和彦は羞恥に喘ぎ、弱々しく上体を捩って鷹津の視線から逃れようとするが、しっかり両足を押さえられているため、どうすることもできない。鷹津が愉悦を含んだ声で言った。
「見られるだけで、感じるのか? ひくつき始めたぞ」
「……うる、さいっ……」
「尻から、ダラダラと俺の精液を垂らして言う言葉じゃないな。また、注ぎ込んでほしいだろ」
露骨な言葉で嬲られ、煽られて、和彦は息を喘がせる。鷹津が顔を寄せてきて、戯れのように軽く唇を吸い上げてきたが、それだけで和彦の胸の奥が疼き、尽きたはずの官能の泉が噴き上がる。自分から鷹津の頭を引き寄せて、唇を重ねていた。
「んっ、ふぅ……」
情熱的に唇と舌を貪り合う一方で、鷹津の指が再び内奥の入り口をまさぐり始める。中に指を迎え入れたくて和彦が腰を揺らすと、鷹津に片手を取られ、下肢へと導かれた。半ば強引に触れさせられたのは、自身の内奥の入り口だった。鷹津に言われるまでもなく自覚はあったが、蕩けて潤った部分は、浅ましくひくついている。
「俺が欲しいなら、誰にも見せたことのないような媚態で、俺を誘ってみせろ」
「無理だ……。できない、そんなこと……」
「俺が見たいと言ってもか?」
無理だ、と弱々しく答えた和彦は顔を背けるが、自身の内奥の入り口から指を退けることはできない。耳元で鷹津が笑った息遣いを感じ、羞恥と高揚感から眩暈がした。
和彦の下腹部の陰りをまさぐりながら、鷹津が囁いてくる。
「俺の頼みが聞けないなら、本当にここを剃ってやろうか。俺は、どっちでもいいがな。――あとで、長嶺の男たちが、お前のここを見るたびに、顔をしかめるだけだ」
欲望の根元をそっと擦られて、和彦は息を詰める。さんざん精を搾り取られたはずなのに、微かに高ぶるものがあった。
いつもであれば強引に行為に及んでくる鷹津が、今に限っては様子が違う。じっくりと言葉で嬲りながら、指先や吐息すら武器として使い、和彦を淫らに追い詰めてくる。
両足を抱え直され、鷹津の強い眼差しを受けているうちに、和彦の意識がふっと揺らぐ。理性と呼べるものはとっくに失っており、指先は欲情のままに動いていた。緩くなっている内奥の入り口は、和彦自身の指を嬉々として呑み込み、見境なく締め付けてくる。熱く、柔らかくなっている襞と粘膜がまとわりつき、ぴったりと吸い付いてくる。
初めて及ぶ行為ではないが、自分自身の淫らさを如実に物語っている部分に触れるのは、居たたまれない気持ちになる。同時に、被虐的な悦びも感じるのだ。
鷹津は口元に笑みを湛え、掠れた声で言った。
「自分の指で感じているだろ、お前」
それを聞いた途端、和彦の内奥がきつく収縮する。これ以上鷹津の顔を見ることができず、堪らず目を閉じていたが、だからこそ、鷹津の眼差しをより意識することになる。
「あっ、はあっ、はあぁっ……」
ベッドの上で響くのは、和彦の喘ぎ声と、淫靡な湿った音だけだった。
付け根まで挿入した指をゆっくりと内奥から引き抜くと、ドロリと鷹津の精が垂れ落ちる。腰を震わせながら、再び指を挿入して、内奥を掻き回すように蠢かしているうちに、頭の芯が揺れるような感覚に襲われる。そのまま意識をどこかに連れ去られてしまいそうで、反射的に和彦は目を開いたが、相変わらず鷹津が見つめていた。
目が合うと、まるで愛しいものに触れるように、抱え上げている和彦の膝に唇を押し当ててくる。
「一心に指を動かしているから、俺のことなんて忘れたのかと思ったぞ」
「……秀」
和彦はそう鷹津を呼ぶと、内奥から指を抜き取る。待ちかねていたように、鷹津が高ぶった欲望の先端を内奥の入り口に押し当ててきた。
「今日は、この体位では初めてだったな」
そんなことを話しかけてきながら、ゆっくりと鷹津が腰を進めてくる。和彦は上体を悶えさせながら内奥に逞しいものを呑み込み、必死に締め付ける。
「あっ、あっ、あぁっ――」
内奥深くを重々しく突かれて、頭の先から爪先にまで快美さが行き渡る。和彦はのたうちながら頭上のクッションを必死に握り締め、抱えられた両足を揺らす。
「また、突っ込まれただけで、イッたのか? 尻がビクビクと痙攣してるぞ。――惜しいな。これだけいやらしくて具合がいいのに、美味い蜜だけは垂らさないんだからな。まあ、だからこそ、男たちが必死に精液を注ぎ込んでやりたくなるんだろうが」
言葉で辱められながら、ゆっくりと律動を繰り返される。
「ふっ……、んっ、んっ、んくっ……、うぅっ、いっ……、気持ち、いぃ」
「ああ。だが、あまり飛ばすなよ。もう少し、ゆっくり楽しもうぜ」
鷹津に両手を掴まれてベッドに押さえつけられる。和彦は荒い呼吸を繰り返しながら、すがりつくように鷹津を見上げる。頭がぼうっとしてきて、体中が火照っている。ワインの酔い――とは少し様子が違う気がするが、大した問題ではない。
手をしっかりと握り合うと、鷹津が顔を近づけてくる。そっと唇が重なり、柔らかく吸い上げられてから、和彦は吐息をこぼす。やはり、この男と交わす口づけが好きだと思った。
鷹津の唇が耳に押し当てられ、耳朶に歯が立てられる。和彦は痛みに声を上げたが、鷹津が低く笑い声を洩らして指摘した。
「中、締まったぞ。痛くされるのが好きなのか?」
「そんなわけないだろ。……痛いのは、嫌いだ」
「だったら、俺が相手だからか?」
その問いかけに返事はできなかった。和彦が唇を噛むと、鷹津はもう一度耳朶に歯を立ててきた。同時に、内奥深くで欲望が蠢く。
鷹津の攻めはおそろしく緩慢で、じっくりと時間をかけてくる。和彦は思うさま乱れさせられ、声を上げさせられ、わずかに残っていた体力のすべてを奪い尽くされてしまいそうな、甘い恐怖を覚えるほどだった。
ふっと意識が遠のきかけて、目が空ろになる。鷹津が顔を覗き込み、手荒に頬を撫でてきた。
「まだ寝るなよ」
「……もう、無理だ。疲れて、いるんだ。それに、頭がぼうっとする……」
「だが、お前の体はまだ俺を欲しがっているぞ」
違うと首を横に振ると、それだけで頭がふらつく。
「なんか、おかしい……。何も、考えられなく、なる……」
「――どうやら、効き目は本物らしいな」
唐突な鷹津の言葉に、和彦の思考はすぐには追いつかなかった。何度も目を瞬き、自分を見下ろしてくる男の表情から意図を読み取ろうとする。
鷹津は相変わらず、欲情していた。興奮もしている。なのに、さきほどとは何かが違う。
「……効き目って、なんのことだ?」
「お前に飲ませた一杯目のワインの中に、睡眠薬を溶かしておいた」
鷹津の言葉が、毒のようにじわじわと和彦の意識に効いてくる。
「すぐに寝入られると困るから、量を少し減らしてな。……なかなか色っぽいもんだな。眠気でトロンとした目になる様は」
不穏なことを言われているという認識はできた。和彦は本能的な怯えから体に力を入れようとするが、まったく言うことを聞かない。薬の効き目はじっくりと現れていた。
鷹津は、寸前まで異変を悟らせまいと、和彦の興奮を煽り、再び淫らな行為に及んだのだ。
「なんのために、そんなこと……」
「暴れられると困るんだ。これからお前には、ある人物と電話で話してもらう」
そう言って鷹津がクッションの下に手を突っ込み、携帯電話を取り出す。こんなところに携帯電話を入れた覚えはないので、和彦がウトウトしている間に、鷹津が準備を整えていたのだろう。
鷹津は手早くどこかに電話をかけてから、和彦の耳元に当てる。咄嗟に顔を背けようとしたが、強引に唇を塞がれて阻まれる。さらに、下肢は繋がったままなのだ。和彦は呻き声を洩らして拒もうとしたが、このとき、呼出し音が途切れる。
電話の向こうから聞こえてきた声に、一気に肌が粟立った。
『――ずいぶん待たせる。おかげで、会食をキャンセルすることになった。それで、本当に息子の声を聞かせてくれるんだろうね、鷹津くん』
柔らかく深みのある、耳当たりのいい声だった。しかし、声の主をよく知っている和彦はどうしても、氷同士がぶつかるような冷たい響きが、声から滲み出ていると感じるのだ。
「父、さん……」
思わず呟きを洩らすと、すかさず鷹津は携帯電話を取り上げて操作したあと、傍らに放り出した。自分も電話の会話を聞くために、スピーカーに切り替えたようだ。
『久しぶりだな、和彦。お前の現状については、鷹津くんからすべて教えてもらった。英俊がずいぶんがんばって、お前の消息を調べて、結局徒労に終わったと思っていたんだが……。正直、こうしてお前の声を聞くまでは、鷹津くんのことはまったく信用していなかった』
和彦は顔を強張らせたまま鷹津を見上げる。鷹津は、和彦の動揺すら愛でるように見つめてくる。体中の血が凍りつきそうになっている和彦とは対照的に、鷹津は高ぶったままだった。内奥深くに収まっている欲望は力強く脈打ち、強引にでも和彦の官能を揺さぶろうとしてくる。
そんな鷹津が、今は堪らなく怖かった。
「……嫌だ……。離して、くれ……」
鷹津は何も言わず緩く腰を動かし始める。電話の向こうの俊哉に悟られまいと、和彦は声を押し殺しながら必死に逃れようとするが、睡眠薬の効き目はどんどん和彦の体と意識を侵食していく。
『お前に言いたいことはいろいろあるが、今はやめておこう。ただ、これだけは言っておく。――お前をずっと自由にはさせていたが、お前を手放すつもりは、まったくない。わたしそっくりの、大事で可愛い息子だからな。この言葉がウソでないことは、お前自身、よくわかっているだろう?』
電話から聞こえてくる俊哉の言葉が恐ろしかった。必死に記憶の片隅に追いやってきた光景が生々しく蘇り、当時、自分が抱いた感情すらも、思い出してしまう。
唇を戦慄かせ、呼吸すらも止めてしまいそうになっていると、和彦の異変に気づいた鷹津が、強く頬を撫でてくる。それでは足りないと思ったのか、内奥を強く突き上げてきた。
和彦は我に返り、うろたえる。意識を、電話の向こうにいる俊哉に向ければいいのか、目の前の鷹津に向ければいいのか、混乱していた。
「今は、やめてくれ。父さんに――」
何をしているか悟られてしまう、と言いたかったが、鷹津は酷薄な笑みを浮かべた。
「安心しろ。お前の父親は全部知っている。お前が長嶺の男たちのオンナになっていることも、俺とも寝ていることも。直接会って話したが、さすが、切れ者大物官僚……いや、お前の父親だな。顔色一つ変えなかった」
和彦が、自分の現状を実家に知られたくなかったのは、家族に迷惑をかけたくないという気持ちは当然だが、何より、佐伯家――俊哉が、長嶺の男たちを敵として認識することを恐れていたからだ。何もかも知られたとき、自分の扱いについて無難な解決がなされることはありえないと、和彦はよくわかっている。
佐伯家と接触するのは自分一人で、万が一にも、長嶺組や総和会の存在は一切匂わせてはいけないと考えていたが、和彦の希望は楽観的であり、悠長だったのだろう。
思いがけない人物に、先手を打たれてしまった。
「……どうして、あんたがそんなことを……」
鷹津は一瞬苦しげに顔をしかめたあと、携帯電話をちらりと見遣った。
「先に、自分の父親との話を済ませろ」
和彦はのろのろと片手を伸ばし、携帯電話を切ろうとしたが、あっさり鷹津に取り上げられる。
「話せよ。もうすぐ、口が回らなくなるぞ。久しぶりだろう。父親と話すのは」
「ぼくは――」
『長嶺守光と聞いて、懐かしい気持ちになった。あの男と関わりを持つとは、なかなか因縁めいたものを感じたな。どれだけ捜そうが、見つからないはずだと感心した。総和会や長嶺組の庇護下にいてはな……。しかも、交渉事をするには、これ以上なく厄介な相手だ』
そう言う俊哉の声は、ひたすら柔らかだった。不始末という一言では到底収まらない状況にいる和彦に対して、怒りも苛立ちも感じている様子はない。物心ついた頃から、俊哉はこうなのだ。息子に関心がないからこそ寛容であり、それが過ぎて、冷淡である。
しかし、さきほど俊哉が言った『大事で可愛い息子』という表現もまた、本人にとっては偽らざる本心だろう。
俊哉にとって和彦とは、血が繋がっているという理由以外でも、〈特別〉な存在なのだ。
『お前の居場所がわかったから、すぐに奪い返すというわけにはいかない。そう、単純な話ではないからな。あの男――化け狐は、取引相手としては誠実で有能だが……、ふん、少々欲深い。さすがのわたしも、慎重にならざるをえない』
睡眠薬で鈍くなっている和彦の意識を、何かが一瞬、鋭く刺した。それがなんであるか考えようにも、強烈な眠気に押し流され、自分が何を気にしたのかすらもわからなくなる。そんな和彦に、俊哉は核心を突くような質問をぶつけてきた。
『〈そちら〉ではずいぶん大事にされているようだが、お前は、元の生活に戻りたくないか? 佐伯家の次男坊として、気楽にふわふわと生活して、ときどき、佐伯家の人間としての義務を果たす生活だ。それなりに気に入っていただろう』
「ぼくは――……」
和彦が即答しなかったことが、俊哉にとっては何よりもの答えになっていたようだった。柔らかな声をいくぶん低め、まるで子供を窘めるような口調で言った。
『優しくしてくれて、餌をくれるなら、相手がヤクザでもいいか? 犬猫ならそれでもいいだろうが、お前は佐伯家の人間だ。髪一本、爪の一欠片でも他人に自由にさせるな。お前は、わたしの言うことにのみ従っていればいい――と、言いたいところだが、肝心のお前が長嶺守光のもとにいるなら、どうしようもない。今のところは』
意識を必死に留めようとするが、ふっと意識が揺らいで堪らず目を閉じる。すかさず鷹津に軽く頬を叩かれ、再び内奥を突き上げられる。普通であれば、とっくに欲望は萎えてしまい、行為そのものを苦痛に感じるはずなのに、睡眠薬の効き目は正常な思考力さえ抑えつける。
それとも、異常すぎる状況に、和彦の本能が精神を保つために、なんらかの働きをしているのかもしれない。
「うっ、あぁ……」
欲望が萎えないというなら、鷹津は、和彦以上だった。内奥でますます熱く猛り、今にも爆ぜそうなほど膨らんでいる。ゆっくりと大きく腰を動かされ、掠れた悲鳴を上げさせられる。
電話の向こうではどんな顔をしているのかは予測もつかないが、少なくとも俊哉の声の調子は変わらなかった。
『あの男との交渉には、万全を期したい。忌々しいが、お前の身はその準備が整うまで、総和会と長嶺組に預けておこう。お前は従順な〈オンナ〉でいて、何も知らないふりをしていろ。わたしと話したことは、絶対に誰にも悟られるな。交渉がこじれる恐れがある。――用があれば、いつでも連絡してこい』
そこで電話が切れ、鷹津はすぐに携帯電話の電源自体を切った。和彦が物言いたげな表情をすると、鷹津から皮肉に満ちた笑みを向けられた。
「俺の携帯の留守電に、総和会や長嶺組からの脅しのメッセージばかり吹き込まれていた。連中、血眼になって俺を捜しているみたいだな」
「……当たり前だ。あんた、頭がおかしくなったんじゃないか……」
和彦は、鷹津の頬を殴りつけようと懸命に手を伸ばしたが、途中で力なく落ちる。鷹津は悠々と唇を塞いできた。
荒々しく唇を貪り、口腔を舌でまさぐりながら、律動を続ける。和彦は両手を投げ出したまま、されるがままになるしかない。
「これはこれで、やみつきになりそうだな。具合のいい人形を抱いているみたいだ」
性質の悪い冗談を窘めることもできず、和彦は何度も瞬きを繰り返し、必死に鷹津を見つめる。すでにもう焦点を定めることすら難しい。
和彦の意識が限界まできていると察したらしく、ふいに表情を改めて鷹津が話し始めた。
「――いいか、よく頭に叩き込んでおけ。さっき、お前の父親も言ったことだ。俺が間を取り持ったことも含めて、誰にも、父親と話したことは他言するな。お前はあくまで、血迷った刑事に一時誘拐されて、体を自由にされたことにしろ。それが、お前のためだ」
「それだと、あんただけが、恨まれることになる……」
和彦の耳元で鷹津が短く声を洩らして笑う。
「さっき、電話をかける前に言った言葉にウソはない。惚れた相手を、性質の悪い連中のもとから連れて逃げたいんだ。だが、それは俺一人じゃ無理だ。だから、お前の父親と手を組むことにした。……いろいろとやってくれたからな。俺は少しばかり、総和会にはムカついている」
「……何を、されたんだ?」
「お前は知らなくていい」
聞きたいことはいくらでもあるが、それを鷹津は許してくれない。和彦をきつく抱き締め、乱暴に内奥を突き上げてきたかと思うと、ふいに動きを止めた。
精を注ぎ込まれたことはわかったが、体は、快感を認識することはできない。必死に眠気に抗おうとした和彦だが、鷹津に髪を撫でられたところで、意識が完全に途切れた。
異常な喉の渇きで目が覚めた和彦は、小さく呻き声を洩らして緩く頭を振る。すっきりしない目覚めはたまにあることだが、頭の芯に靄がかかったようで、喉の渇きよりもそれが不快だった。それに、体がひどくだるい。
自分の身に何が起こったのだろうかと考えたのは、ほんのわずかな間だった。
和彦は目を見開くと、じっとしていられず緩慢な動作ながらも起き上がる。分厚いカーテンの隙間からわずかに差し込む陽射しの明るさは、朝であることを示している。
ふらつく頭を懸命に支えながら、慎重に辺りを見回す。ベッドの上にはもちろん、室内のどこにも鷹津の姿はなかった。数瞬ためらってから、そっと呼びかける。
「――……秀?」
返ってくる声はなく、空虚な静けさだけが和彦を包み込む。裸であることも関係あるのだろうが、急に寒気を感じて大きく身震いをする。
唐突に、恐ろしい現実が一気に和彦に襲いかかってきた。鷹津が今どこにいるのか気になり、連絡をしようと考えたが、その携帯電話を昨日、鷹津に取り上げられた。しかし、何げなくナイトテーブルに視線を向けると、和彦の携帯電話が置いてある。鷹津はきちんと返してくれたのだ。
おそるおそる携帯電話を手にはしたものの、電源を入れることはできなかった。入れた途端、電話がかかってくるような気がしたからだ。きっと、残された留守電の数は凄まじいことになっているはずだ。
総和会か長嶺組に、無事であることと、居場所をすぐに知らせるべきなのだろうが、手が動かない。
裏の世界に戻る自分の姿が、頭に思い描けなかった。俊哉と話したことで図らずも、かつての自分の生活が蘇り、現状との落差に戸惑う。どちらの生活がより幸せだったか、満たされていたか、比べるつもりはない。ただ、体に馴染んでいる感覚というものがある。
こんな状態では、とてもではないが総和会や長嶺組の男たちとは会えなかった。きっと、怯えてしまう。そして、異変を悟られてしまう。
睡眠薬による強烈な眠気の中に晒されていた和彦だが、鷹津から受けた忠告はしっかりと覚えていた。
電話越しとはいえ和彦が俊哉と接触したこと、俊哉と鷹津が繋がっていることを、誰にも知られてはいけない――。
和彦は落ち着きなく再び辺りを見回してから、そろそろとベッドから下りる。途端に、鷹津との行為の残滓が内奥から溢れ出してきた。
うろたえた和彦は、裸のまま逃げるようにバスルームに駆け込むと、時間をかけてシャワーを浴びる。鷹津の痕跡を少しでも洗い流してしまいたいというより、全身を湯で叩かれながら、混乱した頭をすっきりとさせたかったのだ。
バスルームから出て、のぼせたような状態のまま髪を乾かしたあと、ためらった挙げ句、鷹津が買ってくれた服を着込む。
このときになっても、いまだにどうするべきか決断が下せなかった。だからといって部屋にこもっているわけにもいかず、とりあえずチェックアウトを済ませる。
ホテルを出たものの、精力的に移動できる気力も体力もないため、すぐに近くのカフェに入った和彦は、途方に暮れる。
見知らぬ世界に放り出されたような心細さを感じていた。今の自分は、どこにも属しておらず、誰も守ってはくれないのだと、ふとそんな気がしたのだ。
実際は、総和会でも長嶺組でも、連絡をすればすぐに迎えにきてくれるはずなのに。しかし、携帯電話の電源を入れる踏ん切りすらつかない。
自分はあの世界に戻れるのだろうかと、つい考えてしまう。そもそも、戻るべき世界なのだろうか、とも。
グラグラと気持ちが揺れ続けている。まだ、鷹津の腕の中にいるようだった。
連れて逃げてやると言った男の腕の中に――。
決断を先延ばしし続けているうちにどんどん時間は過ぎていく。日曜日ということもあって一際にぎわう街中にあって、一人でぼんやりとできる場所は意外と限られる。
インターネットカフェやカラオケボックスに立ち寄ることも考えたが、そういう場所には男たちの監視の目が行き届いているように思え、近づくことすらできなかった。
見えない何かに追われるように移動を繰り返し、何度となく携帯電話を手にしながら、和彦は自分が逃げ場を失っていく感覚を強くしていた。
本当はわかっているのだ。誰も自分を傷つけないだろうし、受け入れてくれるであろうことは。むしろ、本来であれば何よりも心の拠り所になるはずの実家のほうが、和彦にとってつらい場所になるはずだ。
それでも誰にも助けを求められないのは、和彦が身の内に抱えた罪悪感ゆえだ。
鷹津は、和彦にとって特別な男になった。その鷹津は、結果として和彦を裏切った。その事実を、時間をかけてようやく噛み締める。
鷹津の行動は、和彦だけではなく、総和会や長嶺組を危険に晒すことになる。和彦が他言しなければ、さらに危険は増すだろう。
替えの服が入った紙袋を提げたまま、和彦はふいに立ち止まる。足が震えていた。突きつけられた選択肢の重さに、その場に崩れ込んでしまいそうだった。
もうこれ以上は耐えられないと、救いを求めるように周囲を見回してから、なんとかタクシーを停めて乗り込む。行き先を問われて一瞬言葉に詰まったが、咄嗟にある住所を告げる。
誰もいないと確信があったわけではなく、賭けのようなものだったが、タクシーがその場所についたとき、辺りの様子は普段と変わらないように見えた。普通の人たちが往来する、穏やかな日常的な光景が繰り広げられる場所。そんな中に建つ、まだ新しいアパート。
不自然な場所に停まる車や、こちらをうかがう人の姿がないことを視界の隅で確かめながら、和彦は足を引きずるようにしてアパートの、三田村が借りている部屋へと向かった。
三田村から受け取っていた合カギを使って部屋に入ると、ようやく一心地つけた。同時に、三田村の存在を強く感じさせる空間に、胸が苦しくもなる。
和彦はベッドの足元に座り込み、膝を抱えて顔を埋める。疲弊しきって、もう何も考えたくなかった。
どれぐらいの時間同じ姿勢でいたか、突然、玄関のドアが乱暴に開く音がした。カギをかけるのを忘れていたのだ。
一体誰だろうかと、和彦は顔を上げる。しかし、警戒は数秒と持たなかった。部屋に飛び込んできたのが、この部屋の借り主だったからだ。
「……三田村」
和彦が小さく声を発すると、三田村が側までやってきて、同じく床に座り込む。次の瞬間、引き寄せられてきつく抱き締められた。
「よかったっ……」
腕に込められた力強さと、呻くように洩らされた三田村の声に、ぐっと胸が詰まった。そこに、昨日からの出来事も加わり、あっという間に目から涙が溢れ出る。何度も三田村を呼びながら背にしがみついていた。
「すまない、連絡しなくて――」
「謝らないでくれっ……。俺は、先生が手の届かないところに行かなかったというだけで、嬉しいんだ。しかも、この部屋にいてくれた」
三田村は、昨日、和彦が鷹津に連れ去られたという連絡を受けてから、数時間置きにここを訪れていたのだという。
「鷹津に連れられて、どこか遠くに行った可能性が高いとわかっていても、もしかしたらという思いが捨てられなかった」
三田村の口ぶりから、やはり大変な事態になっていたのだとうかがい知ることができる。誰よりも先に三田村と会えたことに心底安堵はするが、もう、時間稼ぎはできない。
三田村は優しく誠実な男ではあるが、長嶺組の組員なのだ。当然の義務として、和彦が見つかったことを組に報告するだろう。
「――……みんな、心配していたか?」
「当たり前だろう。大事な先生が突然連れ去られて、居場所がわからなくなったんだ。……秦から組に連絡が入らなければ、俺たちは今日になっても、事態を把握できていなかったかもしれない」
秦の名を聞き、和彦はハッとする。三田村の顔を覗き込むと、なぜか驚いたような表情をされた。そして、優しい手つきで目元を拭われる。
「秦が、責められたりはしていないか……? 今回のことは、ぼくが迂闊だったから起こったことで、誰も悪くないんだ」
「大丈夫だ。先生は何も心配しなくていい。――悪いのは、鷹津だ」
珍しく厳しい口調で三田村が断言する。力強い腕の中で一度は安心しきっていた和彦だが、不安の影が胸に忍び寄る。
何か、とてつもなく嫌な予感がした。
「鷹津と、連絡が取れたのか? 何か言っていたのか?」
いや、と三田村は首を横に振る。
「鷹津の携帯は電源が切られたままだ。もしかすると今日にでも解約するつもりかもしれない」
「……どうしてそう思うんだ……」
「マンションの部屋が引き払われていた。昨日調べてわかったが、もう半月も前に。それに――」
「それに……?」
瞬きをした拍子に、涙が一粒、目からこぼれ落ちた。三田村は和彦の頭を抱き締めながら、淡々と告げた。
「鷹津は三日前の日付けで、警察を辞めていた。あいつは今、完全に消息がわからなくなっている」
和彦は悲鳴を上げる代わりに、心の中で鷹津を呼んでいた。
秀、と。
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