と束縛と


- 第35話(4) -


 三田村が電話を一本かけると、三十分もしないうちに長嶺組の組員たちが部屋にやってきた。
 総和会の人間が一人もいなかったことにわずかに疑問は感じたが、和彦はあれこれと質問できる気力もなく部屋を出て、外に待機していた車に乗り込んだ。
 その間、和彦は一切口を開かなかった。問いかけに対して、頭を微かに動かす程度だったが、よほど疲れきっているように見えたらしく、組員たちから向けられる眼差しは、ひどく痛ましげだった。
 和彦を見つけたことで役目は終わりということか、本宅に着いたとき、三田村の姿はなかった。そのことを寂しいと思う余裕は和彦にはなく、組員に促されるまま中に入る。
 賢吾はまだ戻ってきていないということで、まっすぐ客間へと案内された。甲斐甲斐しく、何かしてほしいことはないかと聞かれたが、和彦は首を横に振り、とにかく一人にしてもらう。
 人目がなくなって改めて、鷹津が警察を辞めていたという事実を噛み締めていた。
 和彦の中で鷹津という男を表す要素の中に、〈悪徳刑事〉というものがある。ヤクザすら脅して利益を享受していたようなどうしようもない男で、和彦も、下卑た物言いや下劣な人間性が嫌いで堪らなかった。それなのに気がつけば、番犬としての鷹津を受け入れ、挙げ句、オンナになるとまで口走っていた。
 流されたと言い訳をするつもりはない。情を交わし続けていくうちに、鷹津は和彦にとって、特別な男になっていたのだ。
 だから今、こうして打ちのめされている。鷹津の決断したことに。
 警察官という職を失った鷹津は、まるで引き換えのように俊哉と手を組み、武器を手に入れた。やろうと思えば、和彦と長嶺組――長嶺の男たちとの繋がりすらも断ち切ることができる、恐ろしい武器だ。
「本当に、バカだ……。選ぶものを、間違っている」
 小さく呟いた和彦は、ふと部屋の隅に視線をやる。着替えが入った紙袋を、組員はきちんと持ってきてくれたのだ。ここで自分の格好を眺める。長嶺の本宅にいて、鷹津が買ってくれた服のままなのは、ひどい背徳行為のように感じられた。
 着替えようと一度は立ち上がった和彦だが、脱力感がひどくて、派手な音を立てて畳の上に座り込む。すると、部屋の外に組員が待機していたらしく、すかさず声をかけられた。
「先生、大丈夫ですか?」
「……ああ。着替えようとして、つまずいただけだ」
 結局、再び客間に入ってきた組員に手伝ってもらい、楽な服に着替える。脱いだばかりの服と、紙袋に入った服は、クリーニングに出すということで抱えて持っていかれた。
 足音が遠ざかったのを確認してから、和彦は畳の上に仰向けで寝転がる。
 しばらくそうしていると、抑えた足音が部屋に近づいてくる。和彦の脳裏に浮かんだイメージは、静かに獲物に忍び寄る大蛇の姿だった。
「――そんなところに転がっていないで、休むなら布団を敷いてもらえ」
 和彦が見上げた先で、賢吾が無表情で立っていた。外から戻ってきたばかりらしく、スーツ姿だ。
 向けられる眼差しの冷ややかさに内心でゾッとしながら、和彦は起き上がろうとする。当然のように手を差し出されたが、気がつかないふりをした。
 賢吾は畳の上に胡坐をかくと、和彦を気遣う言葉をかけるでもなく、すぐに用件を切り出した。
「鷹津は何か言っていたか?」
「何か、って……」
「俺の大事で可愛いオンナをさらって、一日行方をくらました理由だ」
 和彦は力なく首を横に振る。
「様子はおかしいとは思ったが、何も……。警察を辞めたことも、部屋を引き払ったことも、そんなこと、一言も言ってなかった」
 ふいに、初めて聞いた鷹津の趣味の話を思い出す。一気に込み上げてくるものがあり、賢吾の前では感情を抑えるつもりだったというのに、視界が涙でぼやけた。慌てて手の甲で拭うと、眼差し同様、冷ややかな声で賢吾に言われる。
「俺の前で、他の男を想って泣くな」
「……そんなんじゃ、ない……」
 一時的な感情の高ぶりが落ち着くまで、和彦は深呼吸を繰り返し、何度も目を擦る。我ながら子供のようだと思っていると、突然手首を掴まれる。驚いた顔を上げると、賢吾が苦い表情をしていた。
「そんなに感情的なお前の姿は、初めて見たかもしれない。……脅すためにお前を拉致したときも、反対に、三田村のことで俺を脅してきたときも、お前は怖がってはいても、感情的ではなかった。ああ、総和会の加入書を書かせるときは、少し荒れていたな。だが、悲しんではなかった」
 賢吾の指先に涙を拭われ、その感触にまた込み上げてくるものがある。昨日からの出来事と、聞かされたばかりの事実に、感情の乱高下が激しくて、自分でも涙を止めようがないのだ。
「別にぼくは、今も悲しんではない。ただ、いろいろあって、疲れてるんだ。感情の箍が外れて……。今は、誰にも会いたくないし、話したくもない……」
 あとで安定剤を持ってきてやると言われ、和彦は素直に頷く。そんな和彦のこめかみに、賢吾がそっと唇を押し当てた。
「すまないが、もう少しだけ嫉妬に狂った男の戯言につき合ってくれ。昨日、お前が鷹津に連れ去られたと報告を受けてから、ずっと総和会――オヤジと連絡を取り合っていて、さすがの俺も少し疲れた」
 ああ、と和彦は深い吐息を洩らす。賢吾も怖いが、それ以上に怖い存在が、総和会本部で待っているのだ。
「一日だ。たった一日、お前の行方がわからなくなっただけで、組も総和会も大騒ぎだ。……俺の想定を超えて、お前の存在は特別になっちまった」
「それは……」
 自分が望んだことではないと言いたかったが、今となっては無駄な抗弁だろう。現実に和彦は、二つの組織と深く関わりを持っており、その二つの組織の頂点に立つ男たちと、深い仲になっている。
「それは俺たちだけじゃなく、鷹津にとっても同じだ。人でなしが、人を想うようになると、簡単に狂う。嫌な縁のせいで、俺はそれなりに、あの男を知っているつもりで、ある程度は飼い慣らせると思った。実際、最初はそこそこ上手くいっていたしな。お前が鷹津を、情で飼い慣らした。……想定が狂ったのは、総和会のせいだ」
 和彦は濡れた目でじっと賢吾を見つめる。賢吾は誰を思ったのか、一瞬不快そうに眉をひそめた。
「――ツテを頼って探ってもらったが、どうやら県警のほうに、鷹津について密告があったらしい。総和会と不適切な関わりを持っている、とな。あいつは前科持ちだ。そういう噂が流れただけで、身動きが取りづらくなる。事実、関わりを持っているわけだし。ただ、組織犯罪を取り締まる側にいる鷹津という男は、取り締まられる側にとっては使い勝手がいい。持ちつ持たれつという関係だからな。好きこのんでその関係を壊す利点がない。少なくとも、俺には」
「密告したのは、もしかして……」
「オヤジか南郷の指示だろう。鷹津はお前にとっては番犬だが、それ以外の者にとっては狂犬だ。しかも公権力を持ったな。だからこそ、総和会としてはなんとかしたかったはずだ。だが、どうにも腑に落ちないことがある」
「……何がだ」
「警察にいられなくなったにしても、鷹津が姿を消す道理がわからねーんだ。肩書きを失って、総和会からの本格的な攻撃を恐れたか? いや、あの男はそんなに柔じゃない。なんといっても、蛇蝎の片割れだ。恐ろしく執念深くて、毒を持つ、嫌な生き物だ」
 何か知っているだろうと、まるで威嚇するように賢吾が見据えてくる。
 和彦はゆっくりと瞬きを繰り返したあと、もう一度手の甲で涙を拭う。急速に心が強張っていくようだった。気持ちが高ぶり、乱れることに、和彦自身の心が疲弊し、自衛手段を取ったようだ。
 さすがに異変に気づいたらしく、賢吾がさらに目元を険しくして頬に触れてこようとした。
「和彦?」
 普段なら考えられないような素っ気なさで、和彦は賢吾の手を払い除ける。次の瞬間には、大蛇の憤怒を覚悟して身を竦めたが、賢吾は静かに息を吐き出した。
「飼い犬に手を噛まれるとは、今みたいな心境を言うんだろうな。……鷹津は、お前をたっぷり愛してくれたか?」
 この状況で言うべきことではないと、よく理解していながら、和彦は打ち明けずにはいられなかった。
「……少し前に鷹津に、自分のオンナになれと言われた。それでぼくは、承諾した。あんたとぼくのような関係じゃなく、あくまで言葉遊びのようなものだとわかっていたけど、でも、楽しんだし、興奮した。多分、鷹津も」
 絶対に悟られてはいけない秘密を抱えているからこそ、もう一つの鷹津との秘密を打ち明ける。これは明らかに保身ゆえの行動だが、自分を卑怯だとか最低だとか卑下するつもりはなかった。
 和彦の、実家に対する想いは複雑だ。〈佐伯家〉から自由になりたいという気持ちの一方で、〈俊哉〉の支配下から逃れられないという気持ちがある。和彦と俊哉の父子関係は実に特殊なのだ。だからこそ俊哉は、和彦が裏の世界で身を潜め、物騒な男たちに守られている状況を知ったところで、容易に諦めはしないだろう。
 心のどこかでささやかな希望を持ってはいたが、昨日の電話で聞いて、その希望は砕けてしまった。
「鷹津に心を許したぼくを責めたいなら、そうすればいい。だけど、今日は勘弁してくれ。とても、疲れてるんだ。何も考えたくない……」
「そうだな。顔色が最悪だ」
 賢吾が頬に触れてこようとしたが、途中で手を止める。和彦は顔を伏せた。
「布団を敷かせるよう言って、ついでに、安定剤も持ってこさせる。飲んで、さっさと横になれ。――総和会のことは、当分気にするな」
 顔を伏せたまま和彦は微かに頷く。厳しい追及を受けなかったことに安堵する余裕すらなかった。
 静かに襖が閉められて再び一人になった途端、まるで自分自身を安心させるかのように考える。
 俊哉が意味ありげに言った、準備が必要だという発言は、今すぐ総和会や長嶺組を相手に事を荒立てる気はないと判断していいだろう。
 いくらか時間が稼げる間に、自分に何ができるか考えなければならない。情を注いで大事にしてくれる男たちに手が及ばないようできるかということが最優先だが、できることなら、鷹津の消息も知りたい。
「――……最低だ、ぼくは……」
 いまさらながら自分の多情さを心の中で罵り、和彦は小さくため息をこぼした。




 ラテックス手袋をゴミ袋に放り込んだ和彦は、すっかり強張ってしまった眉間を指の腹で押さえる。機嫌は確かによくないが、光量が十分でない場所でずっと目を凝らして縫合を行っていたため、気がつけば険しい顔になっていた。
「お疲れ様でした、先生」
 治療に立ち合っていた組員に声をかけられ、ああ、と短く応じる。すっかり和彦の手順を覚えたらしく、すかさずメモ用紙とボールペンが差し出される。受け取ると、必要なことを手早く書いていく。
 メモ用紙を破り取って組員に手渡してから、手術衣を脱いだ和彦は、患者の男をちらりと振り返る。顔半分を覆うようにガーゼを貼った男は、悄然とした様子でイスに腰掛けていた。他の組の組員と乱闘になり、その最中に顔を切りつけられたそうだ。
 和彦がここに到着したときは、妙な薬でも飲んでいるのかと思うような興奮状態だったが、無造作な手つきで縫合を始めたときには、人が変わったようにおとなしくなり、とうとう今のような状態となった。
 首を傾げつつ部屋を出た和彦に、同行してきた組員が苦笑交じりに話しかけてきた。
「切りつけてきた連中よりも、無表情で皮膚を縫い合わせる先生のほうが怖かったんでしょうね」
「……絶対、刃物を向けてくる人間のほうが怖いと思うんだが……」
「先生の背後にいる、どなたかの影も見えていたのかもしれません」
 なるほど、と和彦は口中で呟く。
 建物を出ると、待機していた長嶺組の車に乗り込む。シートに体を預けた途端に一気に疲労感が押し寄せてきて、心の底からのため息が出た。
 クリニックの仕事を終えてから、送迎の車に乗り込んだところで、至急診てもらいたい患者がいると言われて連れてこられたのだ。組の仕事をこなすのは久しぶりで、自分にとっての日常が戻ってきたような、複雑な感覚に陥る。
 鷹津による騒動があってからおよそ半月が経ったが、和彦の身はいまだに長嶺組の預かりとなっていた。その間、総和会からの接触はなく、和彦から一度だけ、騒動を詫びるために守光に連絡を取ったきりだ。それですべてが終わったと思えるはずもなく、男たちは血眼になって鷹津を捜しているだろう。もしかすると、すでに身柄を押さえているかもしれない。
 なんにしても、今の和彦はすべての事情や情報から、我が身を遠ざけていた。何も知りたくないと、耳を塞ぎ、目を閉じているのだ。そうやって、精神の安定を図っている。
 途中でコンビニに寄ってもらい、ささやかな夕食や飲み物を買い込む。店を出た和彦が提げた袋を見て、組員は一瞬物言いたげな顔をしたものの、結局は何も言わずに後部座席のドアを開けてくれた。
 賢吾はどうやら組員たちに、今は和彦の好きにさせるよう言っているようだった。その証拠に、車は本宅に寄ることなく、まっすぐ自宅マンションへと向かう。和彦の身に何か起これば、本宅で寝泊まりさせるのが常だったが、今回ばかりはそれが和彦の精神を圧迫すると、皆、感じているのだ。
 和彦がマンションで一人で過ごすことについて、いまだに何も言われない。
 部屋に帰りついたときには、何もする気力が起きなくて、着替えてベッドに潜り込みたい衝動に駆られたが、明日はクリニックが休みだということで、なんとか思い直す。
 手早くシャワーを済ませて出ると、いくらか気持ちもマシになり、簡単な夕食を済ませた。
 和彦はペットボトルを手に書斎に入る。イスに腰掛け、二台の携帯電話をデスクに並べて置いたが、そのうちの一台を手に取った。
 表面上、鷹津の件では驚くほど理性的な反応を見せていた賢吾だが、激しい嫉妬心をうかがわせる出来事があった。本宅に一泊した翌朝、和彦は自分の携帯電話を見ていて気がついたが、いつの間にか、アドレスから鷹津の名が消去されていたのだ。
 確かに、部屋を解約し、携帯電話すらも繋がらなくなったため、残しておくべき情報はない。しかし、名すら残しておくことを許さないと、賢吾は行動で示した。
 もしかすると、和彦の中にある鷹津の記憶すら、できることなら消去したいと考えているのかもしれない。
 ため息をつきそうになった和彦だが、それは賢吾に対する背信行為のように思え、寸前のところで堪えた。
 もう一台の携帯電話を取り上げると、メールが届いている。こちらの携帯電話は里見との連絡専用に使っているもので、そうなると当然、送り主は決まっている。
 俊哉と電話で話して以来、里見からの連絡には一層神経質になっているのだが、今のところ、俊哉の話題が出ることはない。和彦と接触したことを、俊哉は里見に知らせていないのかもしれないが、こればかりは、機械を通した文面だけでは推測できない。だからといって、電話をかけてまで確認しようとは思わなかった。
 自分のせいで、鷹津は職を失ったと和彦は思っている。同じような状況に、里見が陥らないとは限らないのだ。
 里見の当たり障りのない内容のメールに、簡潔な返信をする。里見にとっては内容よりも、和彦から反応が返ってくること自体が、大事なのだそうだ。
 周囲の男たちから注がれる配慮という名の優しさが、和彦の胸を苦しくさせる。
 今夜も安定剤を飲んで休まなければいけないなと、ぼんやりと考える。そんな和彦の耳に、インターホンの音が届いた。
 ありえないとわかっていながら、一瞬、鷹津ではないかと思ったが、即座にその可能性を否定する。このマンションの周囲を、長嶺組だけではなく、総和会が見張っているかもしれないのだ。あの男が迂闊に近づくはずがない。
 もう一度、遠慮がちにインターホンが鳴らされる。和彦はほぼ相手を確信してインターホンに出た。


 ベッドの上で、クッションにもたれかかって本を読んでいると、静かにドアが開き、人が部屋に入ってきた気配がした。和彦は視線を上げないまま問いかける。
「シャワーを浴びたか?」
「うん……」
「きちんと体と頭を洗ったんだろな。お前はいつもカラスの行水だからな」
 千尋がもそもそとベッドに上がり、和彦の隣に遠慮がちに身を滑り込ませる。肩先に千尋の高い体温が伝わってきて、同時に、石けんの香りが鼻先を掠めた。ちらりと視線を向けると、シャワーを浴びて熱いのか、Tシャツに短パン姿だ。夜ともなると少し肌寒さを感じるようになったが、さすがに千尋には関係ないようだ。
 千尋がこの部屋を訪れるのはいつ以来だろうかと、和彦は頭の片隅で計算する。
 和彦が人を寄せ付けなくなり、仕事以外ではマンションにこもっていると知らされて、タイミングをうかがっていたのだろう。千尋は差し入れのケーキを携えてやってきた。
 賢吾ですら部屋には入れていないため、当然のように千尋も追い返そうとしたのだ。だが、和彦の様子を知りたかっただけで、一緒にケーキを食べたらすぐに帰ると、らしくなく言葉を選びながら話す千尋を見ていると、とてもではないが邪険にはできなかった。こんなときでも、やはり千尋には甘くなる。
 結局、ケーキを食べたあと、もう遅いから泊まって帰れと言ってしまい、和彦は本を読むふりをしつつ、なんとなく自己嫌悪に陥いる。
 およそ半月の間、男たちとの接触を避けておきながら、こうして千尋が傍らにいると、自分が人寂しさを抱えていたのだと痛感したからだ。鷹津の心配をしながら、一方で他の男たちの存在を恋しがっている自分を、浅ましいと思う。その浅ましさを、誰にも知られたくないとも思う。
 和彦の横顔から感じるものがあったのか、千尋が人懐こい犬のように、肩先に額をすり寄せてきた。
「はあ……、先生の感触と匂いだ……」
「大げさだな」
「……大げさじゃないよ。どれだけ先生の顔を見てなかったと思うんだよ」
 恨みがましい声で言われた和彦は、前回、千尋と会ったときのことを思い返す。和彦が車で襲撃を受けた直後に、わざわざ心配してホテルの部屋まで駆けつけてくれたのだ。その前は、法要に託けた、ささやかな保養旅行だった。ただどちらも、人目を気にせず二人きりでゆっくりと、というわけにはいかなかった。
「忙しくて、お前とのんびりすることがなくなったな、そういえば……」
「俺も忙しいけど、先生はそれ以上だ。――先生を必要とする男が、それだけたくさんいる、ということだよね」
 皮肉、という口ぶりではないが、千尋の言葉につい苦い顔となる。
「そういうのは……、もう疲れた。他人の事情を斟酌して、振り回されて、ビクビクして。……ぼくは、疲れたんだ」
「――俺とこうしていることも?」
 ハッとした和彦は反射的に本を閉じ、傍らを見る。千尋が強い光を湛えた目で、じっと見つめていた。ただ、表情そのものは、知らない場所で放り出された子供のように不安げで、頼りない。
 この表情が演技だという気はないが、必要なときに和彦の心を効果的に揺らす術を、千尋は心得ている。甘ったれに見える青年も、立派に物騒な男の一人なのだ。
 和彦は本をベッドヘッドの上に置くと、千尋の生乾きの髪に指を絡める。
「お前、きちんと髪を乾かさなかったな」
「少しでも早く、先生の側に行きたかったから」
 臆面もなくこういうことを言える素直さが少し羨ましいと、和彦はわずかに唇を緩め、千尋の頭を引き寄せる。すると、胸元に顔を伏せて千尋が言った。
「――……先生、鷹津のことが好きなの?」
 和彦は、千尋の頭を撫でようとした手を止める。
「よく、わからない……。鷹津のことは嫌な男だと思っていたし、話していても、素直に会話を楽しむことなんてなかったし……。でも、その嫌な男なりに、ぼくに情を注いでくれたし、大事にしてくれた。言葉は悪かったけど、ぼくのことを心配してくれていたんだ」
「俺も――俺たちも、そうだよ。先生のことは大事にしてる。もちろん、言葉で表せないぐらい、大好きだ。だからこそ、どこにも行かせない」
 目を丸くした和彦は、千尋のつむじを見下ろしていたが、ようやく声を発することができる。
「そうだな……」
 千尋を抱き締めると、もぞもぞと身じろいで和彦の胸に強く顔を擦りつけてくる。パジャマの布越しに、千尋の吐息の熱がじんわりと伝わってきた。
 おとなしくしている千尋を可愛いとは思うが、その正体は、何かの拍子に暴れ出す獣だ。シャワーを浴びたばかりだということを抜きにしても、抱き締めている体が戦くほど熱くなり始めていることに、和彦はとっくに気づいていた。
 今のうちにベッドから蹴り出してしまおうかと、なかなかひどいことを考えているうちに、千尋がさらに身じろぎ、とうとう和彦の両足の上に乗り上がってくる。これでは蹴り出すことはおろか、自分が逃げ出すこともできなくなる。
「……千尋、こんな時間にじゃれ合うつもりはないからな。ぼくは、疲れてるんだ」
「いいよ。俺が勝手にじゃれるから」
「お前……」
 千尋を押し退けようとしたが、しっかりと抱きつかれる。本気で抗う気にもなれず、好きにさせておくことにする。
 和彦は手慰みに茶色の髪を撫でながら、ここのところ気になっていたことをさりげなく問いかけた。
「総和会には、出入りしているのか?」
 胸元に顔を埋めたまま千尋は頷く。
「出入りというか、先生のことがあってから一回だけ、本部に顔を出しただけだよ。……先生のことを気にかけていた。みんな、知ってるんだよ。先生は普段はマイペースで、精神的にけっこうタフな人だけど、何かの拍子にすごく塞ぎ込むってこと。だから今は、遠巻きに様子をうかがってる」
「でもお前は、こうして部屋に押しかけてきた」
「完全に放っておかれるのは嫌なんじゃないかと思って」
 自分が抱えていた人恋しさをズバリと指摘されたようで、和彦は言葉もなく千尋の髪を掻き乱す。
「――先生が何を気にしているかはわかっている。鷹津の行方だよね」
「悪い報告なら、聞きたくない」
「だったら安心して。見つかってないよ」
 安堵の吐息をつこうとした和彦だが、寸前のところで堪える。千尋が息を潜め、自分の反応をうかがっていると、なんとなく感じ取ったからだ。
「オヤジは何も言わないし、鷹津を本気で捜そうとはしてないみたいだ。その分、総和会……というより、第二遊撃隊がムキになっているようだけど。それでも、鷹津はまだ見つかってない。さすが、ヤクザを取り締まっていただけあるよ。俺たちの人捜しのやり方も把握してるんだろうな」
 話す千尋の息遣いがますます熱を帯びてきたと思ったら、いつの間にかパジャマの上着の前を開かれていた。
 てのひらが脇腹から胸元にかけて這い回り、鼻先が擦りつけられる。大きな犬に甘えられているようだと、微笑ましい気持ちになるはずもなく、和彦は真剣な表情で千尋の話に耳を傾ける。
 男たちを遠ざけていた後ろめたさがあるため、鷹津の消息について尋ねることもできなかったので、もたらされる情報はどんなものでも貴重だ。
「……俺、先生が鷹津にさらわれたと聞かされたとき、本気であの男を殺してやりたいと思った。〈俺の〉先生を、どこかに連れ去るなんて、絶対に許せない。もし、先生に怪我なんてさせてたら――」
「千尋、怖いことを言わないでくれ。まだ、刺激の強い話は聞きたくないんだ」
「鷹津が行方不明になってショックだから?」
 和彦は答えず、千尋の髪を撫で続ける。千尋にしても追及してくるわけではなく、何事もなかったように和彦の胸元に甘えてくる。
 何度も唇を押し当て、舌を這わせたあと、肌を強く吸い上げた。千尋は、自分がつけた鬱血の跡を食い入るように見つめたあと、同じ行為を繰り返す。まるで、和彦が自分のものであると確認しているような行為だった。
 これが今の千尋にできる精一杯の所有欲の表し方なのだと思うと、ずっと強張っていた心を、羽毛のような柔らかな感触でくすぐられた気がした。
 自分は度し難いほど欲深い人間だと、和彦は強く実感する。男たちから求められることに対して、底なしに貪欲だ。
 一緒に逃げるかとまで言った鷹津が、警察を辞めたうえに消息不明となり、そこに俊哉の接触も重なって呆然とし、怯えてもいながら、千尋から求められることで、拠り所を得たような気持ちになるのだ。
 現金なものだと自嘲しながらも、心の中に閉じ込めていた情愛がトロリと溢れ出してくる。
 そんな自分を恥じた和彦は、千尋の肩を押し退けようとしたが、ムキになったように肌に吸い付かれる。
「千尋っ……」
「ダメだよ。先生は、俺のオンナなんだから、俺が求めるんなら、応えてくれないと。それに――」
 千尋の舌先が、尖りを見せ始めた胸の突起をチロチロとくすぐってくる。微かに生まれた疼きに、和彦は息を詰めた。
「先生も嫌がってない」
「……突き飛ばす元気がないんだ」
「いいよ、俺が元気にしてあげる」
 自惚れるなと、力ない声で呟いた和彦は、千尋を突き飛ばす代わりに、手荒に髪を掻き乱してやる。子供っぽい仕種で首を竦めた千尋が、次の瞬間には鋭い表情を浮かべ、上目遣いに和彦の反応をうかがいながら、再び胸の突起に吸い付いてきた。
「あっ……」
 凝った突起を執拗に舌先で弄ってから、そっと歯を立ててくる。もう片方の突起は指先で擦り、摘まみ、抓り上げてきた。かと思えば、幼子のように一心に吸い上げ、和彦は痛みに声を上げるが、それでも千尋は離れない。
 ビクビクと胸元を震わせ、押し退けようとして千尋の肩に手を置いたものの、必死になっている様子を間近で見て、強張った息を吐き出す。千尋の背を優しく撫でさすってやった。
「お前は、ぼくのツボを心得てるよ……」
 苦笑交じりに和彦が呟くと、千尋がやっと突起から唇を離す。
「それはまあ、先生とは通じ合ってるからね」
「そうなのか?」
 和彦の問いかけに、千尋は笑いもせず、両目に強い光を宿して上目遣いに見つめてくる。隠し事をしている後ろめたさのため、怯んだ和彦は顔を背けた。めげない千尋は胸と胸を合わせるようにして、ぴったりと身を寄せてくる。
 相手が小さな子供なら、よしよしと抱き締めてやるところだが、実際は、千尋は大きな体の青年で、和彦はクッションとしなやかな筋肉の壁に挟まれる形となる。顔をしかめつつ横目でうかがうと、すぐ側に千尋の顔がある。和彦が相手をしてくれるのを、ひたすら待っているのだ。
 他の男たちが、いわゆる大人の配慮で和彦を見守っている中、千尋だけは別だ。これが自分のやり方だといわんばかりに、和彦の視界に入り、懐に潜り込んでくる。
 さきほど自分が言った言葉ではないが、よく和彦のツボを心得ていた。
「――……お前に見つめられすぎて、穴が開きそうだ……」
 そう洩らした和彦は、正面から千尋を見つめ返す。千尋は、今度は額と額を合わせてきた。
「それができるなら、先生の心に穴を開けたい。中に、秘密が詰まってるんだろ。俺にも、オヤジにも言えない秘密が。それと、これまでいろんな男に抱いてきた、好きって気持ちとか」
「ああ、そんなもので、ぼくの中はいっぱいだ。……嫌いになるか? それとも、軽蔑する――」
「すげー、ゾクゾクする。いつかは、そんな先生の中を、俺のことだけでいっぱいにするんだと思ったらさ」
「……何げに自信家だよな、お前」
「長嶺の男だから」
 これは冗談として笑っていいのだろうかと逡巡しているうちに、千尋の息遣いが唇にかかる。我慢しきれなくなったのか、強引に唇を塞がれた。痛いほどきつく唇を吸われてから、口腔に舌が押し入ってくる。和彦は宥めるように優しく吸い上げ、舌先を擦りつけ合う。
 しかし、千尋は興奮を煽られたように、和彦の体を強くクッションに押し付け、のしかかってこようとしてくる。堪らず口づけの合間に訴えていた。
「がっつくなっ。ぼくは逃げないからっ」
「でも、誰かに連れ去られるかもしれないじゃん」
 咄嗟に返事ができなかったことで、完全に千尋に火がついた。和彦の足の上からやっと退いたかと思うと、次の瞬間にはその和彦の足を掴んで引っ張ったのだ。
「うわっ」
 ベッドの上で体を引きずられた和彦は、仰向けで横たわった状態となる。すかさず千尋が覆い被さってきて、抱きついてきた。和彦は声を上げ、なんとか抜け出そうともがき、両手足をばたつかせるが、千尋はがっちりと押さえ込んでくる。
 あっという間に和彦の息は上がり、悠然と見下ろしてくる千尋を睨めつける。
「……ぼくと、プロレスごっこでもしたいのか?」
「じゃれてるだけ。好きだよね、先生。俺をでっかい犬っころ扱いして甘やかすの。……今は、男を甘やかすより、犬っころを甘やかすほうが気が楽だと思ってさ」
 千尋が胸にしがみついてきたので、反射的にしなやかな体に両腕を回す。鼻を鳴らした千尋が、ペロリと首筋を舐めてきた。さらにもう一度舐められて、和彦は小さく笑みをこぼす。
「くすぐったい」
「じゃあ、もっと舐めてあげる」
 千尋の舌先が肌を滑り、さりげなくパジャマの上着を脱がされていく。それに気づいた和彦が声を上げようとしたとき、剥き出しになった肩先に軽く噛みつかれた。
「――……本当に犬だ」
 千尋の髪を掻き乱しながら、ベッドの上で抱き合い転がる。ときおり思い出したように千尋が顔を上げ、戯れのような口づけを交わす。すぐに夢中になった千尋が、和彦をベッドに押さえつけてこようとするが、柔らかな口調で窘める。
「じゃれてるだけ、だろ?」
「そうだけど……、少しぐらい過剰なスキンシップになっても……」
「なんなら、空いている部屋で寝るか? マットぐらいは敷いてやるから」
 千尋が大仰に首を横に振り、和彦の肩に額を押し当てる。
「……我慢します」
 和彦は微苦笑を洩らすと、反対に千尋をベッドに押さえつけて、その上に乗り上がる。驚いたように千尋が目を丸くした。
「先生……?」
「お前が言ったんだろ。ぼくが、甘やかすのが好きだって」
 短パンの上から、千尋の両足の中心をまさぐる。さきほどから気づいていたが、欲望が硬くなっていた。
 直に触れると、千尋が息を詰める。和彦はTシャツをたくし上げ、千尋の胸元に指先を這わせながら、外に引き出した欲望をそっと握り締める。緩く扱いただけで、千尋は小さく声を洩らした。
 素直な反応に、意識しないまま和彦は表情を和らげる。それを見た千尋が、拗ねたように呟いた。
「先生、笑ってる」
「お前が可愛いからな。素直で、健やかだ」
 欲望を握った手を動かしながら、引き締まった腹部に唇を押し当てると、ビクビクと千尋の腰が震える。かまわず和彦は、腹部から胸にかけて舌先を這わせ、ときには強く肌を吸い上げる。手の中で、千尋の欲望が熱く大きくなり、力強く脈打ち始めた。
 括れを優しく擦り、先端はさらに繊細に撫でてやる。千尋は、和彦に身を任せる気になったのか、両手をベッドに投げ出し、大きく深い呼吸を繰り返す。
 和彦は、自分がされたように、千尋の胸の突起に丹念な愛撫を施す。強く吸ってから甘噛みしたときには、切なげな声を上げ、同時に欲望が一層大きくなる。
 逞しくなった欲望の根元を指の輪で締め付け、すぐに緩め、また締め付ける。先端からトロリと透明なしずくが垂れ落ちたので、和彦は指先で掬い取り、先端に塗り込める。
「せん、せ……、すげー、いい。気持ち、いい――」
 喘ぐ千尋の唇を、そっと啄ばむ。上唇と下唇に交互に触れ、舌先でなぞってやると、千尋のほうから和彦の唇に吸い付いてきたが、頭を引いて焦らす。千尋が泣き出しそうな顔で見上げてきた。和彦は欲望を扱く手の動きを速める。
「先生、もう出る、から……。先生の中に、入れたい」
「今夜はダメだ」
「――……鷹津とのセックスの記憶が薄れるから?」
 和彦は答えなかった。自覚はなかったが、指摘されて初めて、そうなのだろうかと思ったからだ。
 千尋がしがみついてきて、低い呻き声を洩らしながら和彦の手で果てた。




 クリニックからの帰りの車中、組員からこれから本宅に向かうと告げられたとき、和彦は心の中で嘆息した。
 総和会や長嶺組が、自分を放置しておく状況がいつまでも続くはずがないとわかっていただけに、いよいよか、というのが、正直な感想だ。明後日から九月の連休に入るため、何かあるかもしれないと予感めいたものもあったのだ。
 本宅に着くと、すぐに賢吾の部屋へと案内された。
 座椅子に座っている賢吾に薄い笑みを向けられ、気圧されて足が竦む。
「どうした、座らないのか?」
 賢吾に声をかけられて、ぎこちなく返事をした和彦は向かいの座椅子についたが、無遠慮な視線に晒されて居心地が悪い。
「――千尋や、先生の世話をしている組の者から聞いてはいたが、落ち着いてはいるようだな。少なくとも、メシはきちんと食って、睡眠もとっているようだし」
「心配をかけて悪かった……」
「ああ、心配した。だからといって俺が構えば、先生は頑なになるだろうと思ってな。オヤジがしゃしゃり出てくると、なおさらだ。俺は自分のオヤジが、あんなに心配性だったとはいままで知らなかった」
 賢吾の口ぶりからして、守光とのやり取りで苦労していることがうかがえる。
 何を切り出されるのかと身構える和彦を、賢吾がじっと見つめてくる。和彦が半月以上かけて精神の安定を図っている間、大蛇の化身のような男も何か思うところがあったのか、佇まいは非常に静かだった。
「今日は、鷹津の件で先生を呼んだわけじゃない。あいつはいまだ、行方不明だ。完璧に、姿を隠した。第二遊撃隊が、地面に鼻先を擦りつける勢いで痕跡を追っているようだが、鷹津のほうが上手だろうな」
「……そうか」
 乾いた声で和彦は応じる。動揺を読み取られまいとしてのことだが、賢吾は唇の端にちらりと笑みらしきものを浮かべて、すぐに本題を切り出した。
「先生、明後日からの連休の予定はあるのか?」
 いきなり何を言い出すのかと、和彦は眉をひそめる。和彦の生活を管理しているのは、目の前の男なのだ。
「別に、何も……。部屋にこもって過ごすつもりだった」
「だろうな。そうだと思って、どこかに連れ出してやろうと考えていたんだが――」
「なんだ?」
「オヤジが、総和会の行事で先生を呼びたいと言っていた」
 和彦は顔を強張らせたまま、何も言えない。守光の目的が即座に理解できたからだ。当然、賢吾もわかっている。
「まあ、理由をつけて、先生を本部に呼び戻したいんだろう。鷹津に連れ去られた件では、先生に責はないとは言っても、総和会として聞きたいこともあるだろうしな。そういうわけで、先生に伺いを立ててくれと言われた」
 和彦としては、本部に顔を出せる心理状態ではなかった。一方で、このままではいけないこともわかっている。
 和彦が黙り込んでしまうと、笑いを含んだ声で賢吾が続けた。
「さて、俺のもとに実はもう一人、先生の連休中の予定を尋ねてきた人間がいる。ここのところ立て続けに起きた騒動で、先生が塞ぎ込んでいると知って、気分転換に誘いたいそうだ。泊まりで」
「一体誰が……」
「――秋慈だ」
 思いがけない名が出て、和彦は呆気に取られる。
「秋慈は秋慈で事情があってな。清道会絡みの、あくまで身内の集まりに呼ばれたから、第一遊撃隊の連中を引き連れていっては少々物騒だ。総和会会長の目もあるからな。どんな揚げ足を取られるかわかったもんじゃないと考えたんだろう。その点先生なら、権力の誇示にはならない。それどころか融和の象徴だ。関わるどの組織も人間も、皆が、傷一つつけまいと、先生を守る。それと、これはうちの組の事情だが、実は俺は、その清道会の集まりに招待を受けている。紹介したい人間がいるからと」
「だったら、あんたも一緒に?」
「いや、秋慈からの情報だが、その紹介したい人間というのが、厄介でな。だからといって、長いつき合いのある清道会の招待を無碍にもできない」
 だから――、と言葉を切り、賢吾が意味ありげに目を眇める。それで、言いたいことは理解した。和彦が出向くことで、賢吾は名代を立てたことにもなるのだ。しかもその和彦は長嶺組の組員ではないため、総和会の目を恐れることもない。理屈では。
「オヤジにも秋慈にも、返事は待ってもらっている。選択肢は、二つに一つだ。先生は、どうしたい?」
 部屋で一人で過ごすことは許さないと、言外に告げられたようなものだ。
「……行かないと、ダメなのか……」
「一人で感傷に浸る時間はたっぷりやったつもりだ。次は、話を聞いてもらったらどうだ。できれば、先生が抱え込んだものに共感してもらえるような奴に」
「それって――」
 和彦はまじまじと賢吾を見つめる。賢吾が誰を指しているのかは明らかだった。
 本宅を訪ねると、鷹津の件で責められるとばかり思っていたが、どうやら違ったようだ。少なくともまだ今は、和彦の気持ちを解きほぐすのが先だと考えているのだ。
 和彦が結論を口にすると、賢吾はすぐに携帯電話を取り出し、〈誰か〉に連絡を取り始めた。









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