と束縛と


- 第36話(1) -


 三連休に入る前日、和彦の予定は非常に慌しいものとなった。
 平日であるため、当然のように日中はクリニックでの仕事をこなしたのだが、こんな日に限って、どうしても今日診てほしいと急な予約が入ったため、時間の調整に四苦八苦することになったのだ。おかげで、最後の患者を見送ったとき、診療時間を三十分ほど過ぎていた。
 そこから、連休に入る前ということで、スタッフにはいつもより念入りに清掃を行ってもらう傍ら、和彦は休み明けの業務の準備を整えておく。
 和彦の場合、他人の予定に振り回されることが多いため、万が一を考えておく必要がある。例えば休み明け、きちんと出勤できるとは限らないのだ。
 自分の手帳に必要なことを書き込みながら、意識しないまま和彦は眉をひそめる。休み明けが平穏無事であることを願うのはもちろんだが、何より重要なのは、連休中、自分が無難に過ごせるかどうかだ。
 すでにもう不安しか感じない――とは、口が裂けても言いたくないが、やはり不安だ。
 スタッフたちが帰ると、和彦は即座に戸締りなどを確認して回り、アタッシェケースを掴んでクリニックをあとにする。
 ビルを出ると、大通りとは逆方向へと向かって、ほとんど小走りで移動する。息が上がりかけたところで傍らにスッと車が停まり、和彦は素早く乗り込んだ。
 シートベルトを締めながら隣に目をやると、朝、和彦が運び込んでおいたボストンバッグだけではなく、見覚えのないガーメントバッグもある。
「……これ、ダークスーツが入っているのかな……」
 思わず呟いた和彦に応じたのは、ハンドルを握る長嶺組の組員だ。
「いえ、普通のスーツです。あちら――清道会からの要望だそうで、堅苦しい席ではないからということで。時間がなかったため、さすがにオーダーメイドというわけにはいきませんが、先生に似合いそうだとおっしゃられて、組長自ら選ばれたものです」
 そうなのか、と和彦は口中で洩らす。慌しい思いをしたのは、どうやら自分だけではないらしく、和彦を送り出す長嶺組も、いろいろと準備に追われたようだ。
 シートに身を預け、すっかり日が落ちるのが早くなった外の景色を眺めていると、ここ最近のうちに自分の身に起きたことが、遠い昔のことのように思えてくる。
 鷹津が姿を消してから、和彦自身は周囲から気遣われ、ただクリニックと自宅を往復するだけの、ある意味平穏ともいえる日々を過ごしている。その時間が、和彦の気持ちを落ち着かせてくれてはいたのだが、一方で、臆病といえるほど鋭敏だった感覚が鈍くなっていくような、焦燥感を生み出しつつあった。
 今回の御堂からの申し出は、何かしらのきっかけになる予感があった。自分を守るためにこもっていた殻から、抜け出せる勇気が持てるかもしれないと。
 途中、適当な店で夕食を済ませて、一時間以上車を走らせている間に、外はすっかり闇に包まれる。最初はつけられていた冷房はいつの間にか切られていたが、それに気づかなかったということは、気温が下がってきているのかもしれない。
 もうそろそろ秋を感じ始める頃だなと、落ち着いた佇まいを見せる町並みを眺めている和彦に、組員が声をかけてきた。
「――先生、もうすぐ到着します」
 車のライトが照らした先に、人影が立っていた。ゆったりとしたパンツにカーディガンという、いかにも寛いだ服装がまず目につき、次に、印象的な特徴がはっきりと見て取れた。息を呑むほど秀麗な顔立ちと、灰色がかった髪だ。
 車から降りた和彦は挨拶をしてから、辺りを見回す。御堂ほどの人物が、無防備に外で一人で立っているとは思えなかったのだ。御堂は声を洩らして笑った。
「一人だよ。それでなくても仕事終わりで疲れている君を、気疲れさせるわけにはいかないからね。清道会の人間は、出迎えて、挨拶したがっていたけど、面倒だろ?」
 なんとも返事がしにくいことを言われ、和彦は曖昧な笑みで返す。これまでも親しげに話しかけてくれていた御堂だが、今夜は特に口調も表情も穏やかで、だからこそ和彦は戸惑う。正直、御堂とどう接すればいいのか、まだ模索中だ。
「とにかく入って。そろそろ夜は肌寒くなってきた」
 そう言って御堂が門戸を開け、中に入るよう促す。和彦は、荷物を持った組員とともに玄関に続く露地を歩きながら、視線を上げる。
 周囲に建ち並ぶ家々の中でも、一際目を惹く立派な建物だった。古くはあるのだが、よく手入れされていて趣がある。それはどうやら、ちらりとしか見えなかったが庭も同じようだ。
 玄関で組員と別れると、さっそく部屋へと案内してもらうことにする。荷物は、和彦のバッグだけではなく、手土産などもあるのだが、当然のように御堂が運んでくれるため、恐縮しながら後ろをついていく。
「ここは、わたしの実家なんだ」
 よく磨かれた廊下を歩きながら、御堂が切り出す。やはり足音を立てずに歩くのだなと、変なところに感心していた和彦は、数瞬の間を置いて目を丸くする。
 御堂の寛いだ服装や、自分たち以外に人の気配が感じられないことから、何かある家だとは思っていたが、御堂の実家だというのは予想外だった。
「ご覧のとおり、広さだけが取り得の古い家なんだが、家族はいないから、遠慮はいらない。ホテルか旅館を取ろうかとも思ったんだが、清道会に予約を任せると、同じ建物内に、招待されたあちこちの組の関係者がうろつく事態になりかねない。わたしとしても、人目を気にせず、君とゆっくり話したかったんだ」
「お気遣いはありがたいですけど、本当に、いいんですか? 長年つき合いがあるとか、親しい友人というならともかく、ぼくは御堂さんと知り合ったばかりなのに、連休の間、滞在させてもらうなんて……」
「賢吾の大事な人というだけで、十分信頼に値する。それに、わたしとしては、君ともう友人のつもりだったんだが」
 肩越しに振り返った御堂から悪戯っぽく笑いかけられる。それで和彦は、いくぶん肩から力を抜くことができた。
 案内されたのは、広々としたきれいな和室だった。
「この部屋を使ってくれ。もし使い勝手が悪いようなら、他にいくらでも部屋はあるから、遠慮なく移ってくれていいから」
「いえ、そんな……」
 もごもごと口ごもった和彦だが、一旦部屋に荷物を置き、案内を続ける御堂について歩きながら、思いきって尋ねてみた。
「御堂さんは、ここで一人で生活されているんですか? ホテルを転々としているとおっしゃっていたような……」
「いや、今は別に部屋を借りて、そこで寝起きしている。ここは、総和会総本部にしても本部にしても、通うには遠い。清道会の事務所の一つが近くにあって、万が一にも何かあったときは駆けつけてくれるから、君を泊める間は、その点ではありがたいんだが……、まあ、はっきり言って、持て余している家だよ。実家ではあるけど、親もいないし、継いでくれる身内もいないし」
 普段の管理は清道会に頼んでおり、御堂自身はごくたまに覗きにくるだけなのだと聞いて、和彦は嫌でも、自分の実家へと思いを巡らせる。実家はきっと英俊が継ぐことになり、和彦が気にかける必要はないだろう。それどころか英俊は、和彦を実家から遠ざけたがるかもしれない。
 年齢差や、家族との関係の違いもあり、御堂とは実家に対する想いはきっと比較はできないだろうなと、自虐的に和彦は考えていた。
「仕事に復帰したことだし、いい機会だから、ここは処分しようかと思っている。君を泊めるのは、処分前のささやかな思い出作りのようなものだよ。一人で泊まるには、ここはあまりに広すぎる」
 御堂の言葉にハッとする。
「処分、ですか?」
「清道会の組長が買い取ると言ってくれてね。会長から何か言ってくれたんだろう。わたしも、隊を立て直すのにいろいろと入り用だから、ありがたい話だよ」
「……隊を持つって、大変なんですね」
 口にして、なんとも凡庸な感想だなと反省した和彦に、御堂は笑いながら頷いた。
「そう、大変なんだ。自分でもどうして足を洗わなかったのか、不思議だ。だけど、いざ復帰してみると、ここにしか自分の居場所はないと思える。因果なものだよ、極道って生き物は」
 和彦は、横目でちらりと御堂をうかがう。この人は、賢吾たちと同じ極道であるが、同時に、オンナという生き物でもあるのだと、唐突に思い出していた。かつて見た御堂の艶かしい姿が脳裏に蘇りそうになり、慌てて頭から追い払う。
 御堂に広い家の主な部屋をだいたい案内してもらってから、最初に通された部屋へと戻る。置かれた座布団に腰を下ろすと、明日の予定について打ち合わせを行う。
 御堂の説明では、清道会会長の傘寿を祝うために、身内だけではなく、昵懇にしている組織などからも人が集まるのだという。
 賢吾の名代として送り出されたわりに、詳細をまったくといっていいほど教えられていない和彦は、顔を強張らせながら、心の中では賢吾を責めてもいた。話を聞く限り、やはりどうしても思い出すのは、かつて出席した、総和会の花見会の席でのことだ。あのとき味わった緊張感は、思い出すだけで胃が絞めつけられる。
 めでたい席だからこそ、やはり自分などが顔を出していいのだろうかと戸惑う和彦に、御堂は何度も、気楽な集まりだからと繰り返した。実際、御堂たちにとってはそうなのかもしれないが――。
 和彦は困惑の表情を浮かべ続けていたが、御堂には別のものに見えたらしく、今夜はもう難しい話はやめておこうと言ってから、風呂を勧めてくれた。
「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」
「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」
「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」
 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。
「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」
 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。
「――今夜からお世話になります」


 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく、御堂の顔に泥を塗りたくなかったのだ。
 飲み慣れた薬なので、効き目についてはよく把握している。緩やかな眠気がやってきて、朝までぐっすり眠れるし、いままで特に具合が悪くなることはなかった。――いままでは。
 咳き込んで寝返りを打った和彦は、意識がぼんやりとした状態で真っ暗な天井を見上げる。不快さで目が覚めた。
 猛烈な眠気に促され、次の瞬間には意識を手放してしまいそうなのに、強烈な喉の渇きがそれを許してくれない。
 初めて訪れた場所で、しかも、ひどく緊張したまま横になったせいだろうかと考えながら、頭上に手を伸ばす。枕元のライトをつけて、ゆっくりと体を起こしたが、途端に頭がふらついた。
 再び布団の上に倒れ込みそうになりながらも、懸命に這い出し、壁にすがりつくようにして立ち上がる。足元が覚束ないうえに、力も入らず、スリッパも履くことができない。仕方なく、裸足のまま暗い廊下に出た。
 意識が朦朧としたまま、壁にもたれかかるようにして歩き出した和彦は、懸命に頭を働かせる。御堂に案内してもらったのに、キッチンがある方向がわからなくなっていた。
「……もう、ダメだ……」
 ズルズルとその場に座り込み、目を閉じそうになる。あまりの眠気で、そもそも自分が部屋を出た目的すら思い出せなくなりそうだ。
 もう一度咳き込み、水が飲みたいという本能のままに這おうとして、すぐにまた動けなくなる。半ば意識を失い――というより、眠り込んでしまっていたが、ふいに肩を掴まれ、軽く揺すられた。
「――大丈夫ですか?」
 聞き覚えのない若く硬い印象の声だった。この家には御堂しかいないはずなのにと、驚きよりも好奇心が意識を刺激する。
 和彦がうっすらと目を開けると、いつの間にか廊下に明かりが点いていた。ふらつく頭をなんとか上げると、浴衣姿の青年が床に膝をつき、和彦の顔を覗き込んでいる。
 青年は、若かった。千尋よりもさらに年下に見え、おそらく十代だ。でも、少年というには幼さは感じない。
 涼しげだが、憂いも感じさせる瞳は黒々としており、意志の強さを表すようなしっかりとした眉も相まって、清廉とした印象を受けた。整っているという表現では足りない、むしろきれいとさえ言っていい顔立ちだが、印象的な両目のおかげで、ひ弱さが完全に打ち消されている。
 初めて会った青年だと確信が持てる。それなのに、どこかで会ったような不思議な感覚にも襲われる。
 これは一体なんだろう――。
 力なく頭をゆらゆらと揺らしながら和彦は考える。再び目を閉じそうになったが、今度は少し強く肩を揺すられる。
「気分、悪いんですか?」
 ぶっきらぼうな話し方だが、不快ではなかった。
「……水、飲みたくて……。どこか、わからなくて……」
「どこか? ああ、キッチンか。でも――」
 青年の顔が急に近づいてきて、息もかかりそうな距離となる。和彦が知る限り、この距離は口づけの前触れだ。しかし、突然目の前に現れた青年がそんなことをするはずもない。
「酔っているのかと思ったんですが、酒の匂いはしませんね」
「えっ……、ああ、薬を……、眠りたくて、安定剤を飲んだから……」
「だったら、おとなしく部屋にいたほうがいいです。ふらふらしていたら、転んで怪我します」
 もっともな忠告だ。和彦は壁にすがりつくようにして立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らない。すると、青年が肩を貸してくれる。浴衣越しに、しなやかな体つきと体温を感じることができた。立ち上がってわかったが、身長は和彦とほぼ変わらないぐらいだ。
 半ば引きずられるようにして歩きながら、この青年は一体何者なのだろうかという疑問が、わずかに働く思考を占める。自分と御堂しかいないはずの家にいるということは、侵入者なのかもしれないが、そのわりには浴衣など着ているし、何より態度が落ち着いている。まるで、この家の一員のように。
「部屋の場所、わかりますか?」
「わからない、けど、障子を開けたまま出てきたから……。それに、電気もついてる」
「だったら、わかるかな……」
 独り言のように呟いた青年に連れられて、和彦は無事に元いた部屋へと戻る。慎重に布団の上に座らされると、そのまま前のめりに突っ伏しそうになったが、すかさず肩を掴まれて支えられる。
「もう少しがんばってください。すぐに水を持ってきますから」
 こくりと頷いた和彦がようやく顔を上げたとき、部屋を出ていく青年の後ろ姿が一瞬見えた。スッと伸びた背筋からうなじのラインに鮮烈な若々しさを感じ、だからこそ、彼のような存在がなぜここにいるのか、やはり気になる。
 そもそも、実在しているのか――。
 ふっと荒唐無稽なことを考えた和彦だが、妙に納得してしまう。歴史のありそうなこの家に、凛々しい面立ちをした青年の幽霊がいたとしても、きっと不思議ではない。
 幽霊なのに怖くないのはありがたいと、座った姿勢のまま崩れ込みそうになりながら、和彦は口元に笑みを湛えていた。ここで、強い力で肩を抱えられ、口元に何か押し当てられる。反射的に唇を開くと、冷たい水がゆっくりと流し込まれてきた。
 ようやく喉の渇きが治まり、和彦はほっと息を吐き出す。
「ペットボトル、枕元に置いておきますから、足りなかったら飲んでください」
「……ありがとう」
 促されるまま横になった和彦は目を擦ってから、わざわざ布団をかけてくれる青年を見上げながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。
「ぼくは――、前に君に会ったことがある、気がする……」
 青年は軽く目を瞠ったあと、口元に淡い笑みを浮かべた。
「俺は、あなたをずっと前から知っている気がします。でも、会ったことはないです」
「そう、だよな……。でも、本当に、どこかで君を――」
 喉が潤ってしまうと、もう和彦の眠りを妨げるものはない。青年の正体を探りたいのに、あっという間に舌が回らなくなり、目も開けていられなくなる。
 睡魔の波にさらわれて意識を手放すのに、ほんの一分もかからなかった。




 清道会会長は、最近体調を崩し気味なのだという。
 追われるようにして総和会会長の座を退いたあと、極道の世界から完全に身を引こうとしたらしいが、清道会が請う形で、清道会会長の座に復帰した。自身に人徳や人望があったということもあるが、新しく総和会会長となった長嶺守光が巻き起こす嵐の被害を最小限に留めるため、あえて防波堤になったという面が強いのだという。
「防波堤、ですか?」
 パンにバターを塗りながら、和彦は首を傾げる。一方の御堂は、フォークの先でスクランブルエッグを崩して頷く。
 朝食に交わすには少々重たい話題といえるが、清道会を取り巻く状況についてさほど詳しくない和彦としては、事情に通じている御堂とゆっくり話せるのは、今の一時しかないのだ。
「清道会に対して、実はもう影響力はほとんどないんだ、清道会の会長職というのは。名前だけ、肩書きだけ。それでも留まっているのは、総和会前会長の面子を立てている間、長嶺会長も、あまり無体はできないからだ。そんな理由で、第一遊撃隊も存続を許された。わたしは一応、前会長と縁続きだから。権力争いに敗北して会長の座を退いた人間をさらに追い詰めるのは、この世界の道義的に、よろしくない。何より、無駄に敵を作るし、総和会の外に、不和の種があると知らせるようなものだ」
 聞けば聞くほど、長嶺守光という存在は、恐ろしい。御堂は決して、和彦を怖がらせようという意識はないだろう。ただ、事実を淡々と告げているだけだ。
「――面子を立てる存在がいなくなったとき、長嶺会長は本気で牙を剥いてくるかもしれない。今はじわじわと締め付けているだけだが、ね。清道会は、防波堤がなくなったときの生きる道を模索しないといけない。だから今は、小さな力でも結束させようとしている」
「今日のお祝いの席は、いろいろと意味を含んでいるようですね」
「賢吾を招待するというのは清道会の発案で、そのことについて意見を求められたわたしは、賛同してしまったわけだが、ちょっと意地が悪かったかもしれないな。あの男も、なかなかつらい立場にあるとわかっているのに。父親は総和会会長。一方で、長嶺組と清道会とは昔からつき合いがあって、今も仲は悪くはない。そして、敵にも回したくない。そこで賢吾なりの返事が、君というわけだ」
 苦笑いを浮かべた和彦はパンを齧る。守光と御堂の誘いを天秤にかけた結果だというのは、あえて言わなくてもいいだろう。御堂の打算によるものだとしても、そのおかげで、和彦は守光の誘いを無難に断る理由を得られたのだ。
「君も、連休中は予定を入れたがっていたようだから、わたしとしても、心の痛みを感じなくて済む。……この家に、人の気配があるというのは、思っていた以上にいいものだし」
 ここで和彦はあることが気になり、自分の前に並ぶ朝食を眺める。見事な手際で御堂が作ってくれたのだが、和彦が何より気になるのは、広い食卓についているのは二人だけで、当然、並んだ朝食も二人分ということだ。つまり、今この家にいるのは二人ということになる。
 今朝、目が覚めてから、和彦はずっと不思議な感覚に陥っていた。とてつもなくリアルな夢を見たと思いながら枕元を見たら、水の入ったペットボトルが置いてあったのだ。つまり、夜更けに自分を助けてくれた青年は、確かに存在していたことになる。
 しかし、御堂はその青年について何も語らず、実際、この場にはいない。
「……やっぱり幽霊……?」
 無意識に声に出して呟き、ありえないと否定しつつも和彦は、おそるおそる御堂を見遣る。青年のことを聞いてみたいが、なんのことかと聞き返されるのが怖い。なんといっても和彦は、この家にあと二泊する予定なのだ。
「まだ時間があるから、着替える前に今日の流れを説明しておこう。とは言っても、仰々しい挨拶をするわけでもないし、祝いの席の間、君の世話をしてくれるよう、ある人にも頼んであるから。君は気楽に飲み食いして、誰か話しかけてきたら、長嶺組長の名代だと正直に答えておけばいい」
「ご面倒をかけます……」
「言っただろう。わたしも、君とゆっくり話したかったんだと。――君もだろうが、わたしも日ごろは忙しいから、こういう機会でもないとね。それに君が相手だと、面子だなんだと取り繕わなくて済む分、楽だ」
 柔らかく微笑む御堂につられて、和彦も笑みを返す。こんな表情を浮かべながら、総和会の第一遊撃隊隊長という肩書きを持っていることに、いまさらながら驚嘆する。
 危うく我が身を振り返りそうになり、寸前のところで堪えた。これから大事な場に赴くというのに、辛気臭い顔はしたくなかった。
 朝食のあと、片付けを手伝った和彦は、再びテーブルにつくと、今日の互いの予定について確認する。
 和彦自身は、祝いの席に出席したあとは特に予定もなく、それこそ連休らしくのびのびと過ごせるのだが、御堂はそうもいかない。清道会の人間ではないとはいえ、清道会と深い関わりがあり、本日の主役である清道会会長とは親戚でもある。おそらく夕方までは拘束されるだろうということで、御堂が家の合鍵を差し出した。
「先に戻ったときのために、これを使ってくれ」
「えっ、あの――」
 和彦が何を言おうとしたのか察したらしく、御堂は緩く首を横に振る。
「大事なお客さんを、外で待たせておくなんてできないからね。それに、何があるかわからない――」
 ため息交じりに御堂が洩らし、なんとなくその様子が気になった和彦は、ついでに謎の青年のことも聞いてしまおうと口を開きかけたが、タイミング悪く携帯電話が鳴る。御堂の携帯電話だ。
 結局、きっかけを失ってしまい、和彦は着替えるために席を立った。


 清道会会長の傘寿の祝いの席が設けられたのは、かつては名士の邸宅だったという立派な日本家屋だった。現在は高級料亭として営業しているそうで、今日は貸切となっている。
 招待客は、鋭い目つきの男たちが多かった。名札をつけているわけではないので、名も肩書きもわからないのだが、さすがに和彦でも勘が働くようになり、堅気かそうでないかぐらいは判別がつく。それでも、清道会会長個人の祝い事ということで、ちらほらと幼い子供や女性の姿もある。おかげで、いくらかアットホームな空気を感じ取れる。
 一階は立食形式となっており、思い思いに飲食できるようになっているが、和彦は行き交う人たちをついつい目で追いかけてしまい、さきほどから何も口にできていない。
 常に自分に言い聞かせているわけではないが、人の顔や、交わされる会話を記憶に留めておこうと意識が働くのだ。
「――秋慈といい、独特の目で極道を眺めるんだな。冷めているような、観察するような、それでいて、ゾクリとするような艶と熱を帯びている」
 突然、低くしわがれた声をかけられ、ビクリと肩を揺らした和彦は傍らを見る。立っていたのは、清道会組長補佐である綾瀬だった。ダークスーツに包まれた立派な体躯の迫力に圧倒されながら、そっと頭を下げる。
「さきほどは、ありがとうございました」
 和彦の言葉に、綾瀬が首を横に振る。快活な笑顔を向けてくれたが、その拍子に、綾瀬の頬に残る深い皺のような傷跡が歪んだ。
 さきほど和彦は、二階の座敷にいる清道会会長に挨拶をさせてもらったのだが、緊張で何もかもぎこちない和彦をフォローしてくれたのが、同じ座敷に控えていた綾瀬だった。もちろんその席には、御堂もいた。
「君の面倒を見てくれと、頼まれていたからな」
「御堂さんですね……」
「あいつは今日は、会長の側から離れられない。その代わりというわけだ。清道会の中では、君はあまり存在を知られていないから、どんなアヤをつけられるかわかったものじゃない――とのことだ」
「……すみません。綾瀬さんのような方が、ぼくなんかのために」
 とんでもない、と言いながら、綾瀬がグラスを差し出してくる。中身がオレンジジュースであることにほっとして、和彦は口をつけた。
「君は、清道会と長嶺組の絆の証だ。うちの組の者たちは、長嶺組長の配慮に感謝している。だから用心棒ぐらい、お安い御用だ。……ああ、いや、決して危険があるというわけではないから」
 身内の集まりという気楽さもあるのか、総和会本部で会ったときよりも綾瀬の物腰は穏やかに思えた。初対面のときから、荒々しさや凶暴性は一切うかがわせない人物だっただけに、和彦の中ではなお一層印象のよさが増す。
 一方で、どうしても脳裏に蘇る光景があった。御堂を激しく抱いていた綾瀬の姿と、右の肩から腕にかけて彫られた鳳凰の刺青だ。
 隣に立っているのは、〈オンナ〉を抱いている男なのだと、やけに生々しい表現が頭に浮かび、そんな自分にうろたえる。
「頃合いを見計らって送っていくから、それまで楽に過ごしてくれ。酒もあるし、料理もなかなか美味い。――人間観察も好きなだけできるだろう」
 和彦は声を洩らして笑いながらも、そんなに人をじろじろと見ていただろうかと、内心心配になってくる。
「何か食いたいなら、うちのに運ばせてこよう――」
「ああ、いえっ……、緊張しているせいか、お腹は空いていないので」
「だったら甘いものは? さっき女子供が、嬉しそうに食っていた」
 あまり遠慮するのも悪いと思い、和彦は頷く。このとき視界の端では、こちらにやってくる男の姿を捉えていた。手にはグラスを持っており、機嫌よさそうなにこやかな表情を浮かべている。ただ、一目見て、綾瀬と同類だとわかる空気があった。ただの筋者というだけではなく、組織の中で何かしら重い責任を担っている男特有の凄みがあるのだ。
 年齢は五十代後半から六十代前半ぐらい。自分の父親と同じぐらいの歳だろうかと考えた和彦は、次の瞬間には、不吉なものを呼び込んでしまいそうなことを考えてしまったと、自戒した。
 黒に近いシックな色合いのスーツを着込んだ男は、この場に集まっている誰よりもずいぶんオシャレに見えた。
 胸元にポケットチーフが覗き、きれいに撫でつけられているかと思った髪は、後ろで一つに束ねられている。日焼けした肌は艶々としており、日ごろスポーツでもしているのかもしれない。特別身長が高いというわけではないが、スーツの上からでも、体が引き締まっているのがわかるぐらいだ。
 個性的でアクの強い男たちと日ごろから顔を合わせていると自負している和彦だが、この男もかなりのものだと、半ば感嘆しながら眺める。
 和彦の視線に気づいたらしく、綾瀬も同じ方向を見て、小さく声を洩らした。
「伊勢崎(いせざき)さん……」
 男は、綾瀬の前まで来て、親しげに声をかけてきた。
「元気そうだな、綾瀬。今は組長補佐だったか。ずいぶん出世したな」
 すかさず綾瀬が深々と頭を下げて挨拶をしたが、顔を上げたとき、綾瀬の顔に浮かんでいたのは、隠しきれない苦々しさだった。
「……遠くからお越しくださいまして、ありがとうございます」
「ずいぶん世話になった人の祝い事だ。しっかり顔を見て祝いたくてな。めでたい理由でもないと、こっちに出てくるきっかけにならないぐらい、すっかり不義理をしちまった」
「会長にはもうお会いになられたんですか?」
「いや、少し前に来たところだ。一階で懐かしい顔がいくつかあったから、つい話し込んでな」
 綾瀬が『伊勢崎』と呼んだ男は、朗らかな様子で話す。ただし、両目に宿る鋭さと力強さは異様で、体内に満ちた力が迸り出ているようだ。綾瀬に比べて体格は標準的ではあるが、放つ気迫は互角――というより、男が上回っているかもしれない。
 綾瀬と肩を並べて立っていた和彦は、意識しないまま半歩後ずさる。立ち入ってはいけない空気を二人から感じたせいだが、目敏く気づいた男――伊勢崎がこちらを見て、とんでもないことを言った。
「――ずいぶん毛色の変わった別嬪を連れてるが、綾瀬、お前の〈オンナ〉か?」
「滅相もない。ただ、大事な客人です。清道会にとっても、俺にとっても、……秋慈にとっても」
 じっと見つめてくる伊勢崎の眼差しは、明らかに和彦を値踏みしていた。自分のすべてを見透かされてしまいそうな危惧を抱き、和彦は早口に名乗ったあと、こう告げた。
「お二人で話したいこともあるでしょうから、ぼくは庭のほうを見てきます」
 頭を下げ、逃げるようにしてその場を離れる。単なる方便だったのだが、二人がまだ自分を見ていると知り、やむなく庭へと出る。
 建物同様、立派な日本庭園だった。植えられた木々の枝はよく手入れされており、鮮やかな緑の葉をつけている。紅葉の時季にはまだ早いようだ。
 水音が耳に届き、池があるのだと知った和彦は誘われるように歩き出す。庭に出ている客は自分ぐらいかと思ったが、小さな池のほとりに立つ人の姿があった。
 所在なく立っている様子に、建物の中は居心地が悪かったのかなと想像してしまう。それは和彦も同じで、こんなところで仲間を見つけたと、唇を緩めたとき、こちらの気配に気づいたようにその人物が振り返った。
「えっ」
 和彦は声を洩らす。御堂の家で、夜中、自分に水を飲ませてくれた青年だった。今は、いかにも着慣れていないスーツ姿ではあるが、スッと伸びた背筋からうなじのラインにも、記憶を刺激される。間違いなかった。
「どうして、君がここに――」
 青年の側まで歩み寄り、声をかける。間近で見て改めて、やはり若いなと思う。そして、前にもどこかで会ったことがあるとも。
 青年が口を開きかけたとき、突然、声が上がった。
「おい、玲(れい)、こっちに来い」
 その声に反応して、青年が面倒臭そうに唇をへの字に曲げる。
「……でかい声出すなよ、恥ずかしいな」
 ぼそりと小声で応じて青年が歩き出したので、なんとなく和彦もついて行く。向かった先に待っていたのは、綾瀬と伊勢崎だった。
 伊勢崎は、乱暴に青年の肩を抱き寄せると、綾瀬と和彦に向けてこう言った。
「俺の息子の、玲だ」
 和彦以上に驚いた表情を見せて、綾瀬が呟く。
「もう、こんなに大きくなったんですか……」
「今、高校三年だ。誰に似たんだか、愛想がなくて生意気でな。だが、俺と違って頭がいい。こいつの母親がいい大学を出ていたから、そっちの血だろう」
 和彦はただ混乱していた。御堂の家で会った青年とここでまた会ったこともだが、そもそも肝心なことがわからない。
 綾瀬が敬語で話しかけ、〈オンナ〉のことを気安く口にする伊勢崎という男は、一体何者なのかということだ。









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