と束縛と


- 第36話(3) -


 テーブルに広げた新聞の文字を漫然と目で追っていて、和彦はふと我に返る。さきほどから、内容がまったく頭に入っていないことに気づいたからだ。
 ふっと息を吐くと、新聞を畳んで頬杖をつく。なんとなく落ち着かない気分でダイニングを見回す。整然すぎるほどに片付いているこの場にいるのは、今のところ和彦だけだ。
 朝食は、御堂と二人でとったのだが、その後、御堂は、ゆっくりお茶でも飲んでいてくれと言い置いて、本人はダイニングを出て行った。
 さきほど、ダイニングの前を通りかかった御堂は掃除機を持っていたので、部屋の掃除をしているようだ。和彦も手伝おうとイスから腰を浮かせかけたが、笑顔を浮かべた御堂に、しっかりと首を横に振られてしまった。
 強い人だな、と思う。
 昨日、不本意な形で龍造との行為を見られたあと、そんな必要はないのに和彦に謝罪してくれた。そのうえで、今朝は何事もなかったように接してくるのだ。もし和彦が当事者であったなら、感情がすべて表に出てしまい、とても落ち着いてはいられない。
 経験や、背負った肩書き、精神力の強さまで、何から何まであまりに自分とは違いすぎると、和彦は危うくテーブルに突っ伏しそうになる。どうしても自分を卑下してしまうのは、昨夜の賢吾との電話も起因しているだろう。
 和彦の胸の内すら見透かす男は、優しいのか残酷なのか、とんでもない〈冗談〉を言った。
 そこまでしても、自分の中から鷹津の存在を追い出してしまいたいのだろうかと、電話を切ってから和彦は、賢吾の胸中を推し量らずにはいられなかった。
 いまだに鷹津のことを考えると、胸苦しさに襲われる。こんなことすら、賢吾に対する背信行為に当たるのだろうかと問い質してみたいが、次の瞬間には、大蛇の体で締め上げられる自分の姿を想像する。
「――おはようございます」
 ふいに傍らから声をかけられ、飛び上がるほど驚く。いつの間にか、Tシャツ姿の玲が立っていた。
「寝坊しました。昨夜、目覚ましをセットするの忘れて……」
 決まり悪そうな顔でそう言った玲が、壁にかかった時計を見上げる。寝坊とはいっても、まだ九時になるかならないかだ。
 心の中を読まれたわけでもないのに、和彦は妙な気恥ずかしさを覚えながら、ぎこちなく立ち上がる。
「休みなんだから、気にせずゆっくり寝ればいいのに」
「いえ、でも、今日も出かけるつもりだったし……」
「どこに行きたいか、考えた?」
「まあ……。移動にどれぐらい時間がかかるかわからないので、適当にピックアップしただけですけど」
「どうせ今日は一日フルで使えるんだから、気にしなくていいよ。――運転するの、ぼくじゃないし」
 最後の言葉をぼそりと付け加えると、玲が目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。その表情の一瞬ハッとするような鋭さは、どこか龍造を思わせる。
 ただし――。和彦は片手を伸ばし、玲の少し硬い髪をくしゃくしゃと掻き乱した。
「寝癖ついてる」
 半ば無意識の行動で、跳ねた髪先が可愛いなと思ったときには、手が動いていた。さすがに馴れ馴れしかったと、慌てて手を引こうとしたが、すかさずその手を玲に掴まれた。黒々とした瞳にまっすぐ見つめられ、さすがに怒らせたかと身構えたが、そうではなかった。
「昨日から思ってたんですが、佐伯さんて――」
「……何?」
「指、きれいですね」
 玲の発言に和彦は、呆気に取られたあと、自分でもどうしようもない反応として顔を熱くする。完全に虚をつかれて、無防備な部分を抉られた気がした。
「えっ、と……、あり、がとう、かな?」
「男の人であまり見ないような指だから、つい目で追うんです」
 玲に手を掴まれたまま、まじまじと指を見つめられる。和彦がどんな立場であるか知っていながら、玲に手を振り払われなかったのは、よかったというべきかもしれない。しかしそれでも、この流れは予想外だ。
 玲は人懐こい性質ではないようだが、何かが好奇心を煽ったのかもしれない。それとも、十代特有の距離感なのだろうかと、とりあえず和彦は納得しておく。
「美容外科クリニックに勤め出したとき、世話好きの同僚からアドバイスされたんだ。美意識の高い女性の患者さんが多く来るから、身なりには気をつけろ。特に、手と指の手入れは念入りにしろ、って」
「佐伯さん、美容外科医なんですか」
 そういえば玲には、医者としか言っていなかった。
「興味ある? 君は目鼻口元のバランスはいいし、顔の骨格もきれいだし、まだ成長途中だから、何もしなくていいだろ」
「……さすが、お医者さん。俺の骨格とか観察してたんですか」
「あー、引かないでくれ。君の顔を前に見たことがあるようで、なんか気になってたんだ」
 自分の発言で、思い出した。この家に泊まった日の夜、安定剤でふらふらになった和彦を助けてくれた玲の顔を見て、強烈な既視感に襲われたのだ。過去に玲と出会っている可能性は皆無に近く、単なる錯覚として片付けるべきなのだろうが、何か引っかかる。
「そういえば君も、前からぼくを知っている気がすると――」
 会話を断ち切るように、低い異音が響いた。何事かと、驚いた和彦が周囲を見回すと、申し訳なさそうに玲が頭を掻いた。
「すみません。……俺の腹の音です」
 数秒の間を置いて、和彦は声を上げて笑っていた。おかげで、自分が何を質問しようとしたのか、すっかり忘れてしまった。


 御堂に見送られて出発した車内は、昨日とまったく同じ面子が揃っている。和彦と玲、運転手兼護衛である綾瀬の部下の三人だ。おかげで、堅苦しい空気もなく、気楽に会話を交わせる程度には馴染んでいた。
 玲の要望を受けて、これから一時間ほどドライブだ。
 和彦は、玲がさきほどから触れているスマートフォンの画面を覗き込む。表示されているのは、『お勧め観光スポット』という文字と、さまざまな施設の画像だった。
 和彦の視線に気づいた玲が、照れ隠しなのか、ぎこちない笑みを浮かべる。
「せっかくだから、〈おのぼりさん〉らしいところに行ってみたいなって」
「これ、確かに観光スポットではあるけど、デートスポットも重なってるところがあるよね」
「……本当ですか」
「いいじゃないか。立ち寄ったついでに、クラスの女の子に何か可愛い小物でも買って帰ったら、喜ばれるんじゃないか。……あれっ、高校生って、そういうことしないのかな?」
「すっごくモテる奴は、するかも。残念ながら、俺は――」
 玲は芝居がかった仕種で肩を竦め、首を横に振る。その言葉が本当かどうかはともかく、外見が恵まれているというだけではなく、独特の雰囲気を持つ玲は、高校ではさぞかし目立つだろう。ただし、目立つ理由の一つとして、父親の職業も関わっているのかもしれないが。
「あっ、いかにも定番な土産も買いたいです。普段、世話になっている人たちに配りたいので。あと、部活の後輩たちには、ちょっと変わったものを」
「部活……は、時期的にもう引退してるのか。何に入ってたんだ?」
「陸上です。長距離はさっぱりな、短距離ランナーでした」
「へえ、カッコイイな。ちなみにぼくは、子どもの頃からスポーツは得意じゃなかった」
 わかる、という顔で玲が頷いたので、肘で軽く小突いてから和彦は笑う。こんなに気楽で取り留めない会話を交わしたのはいつ以来だろうかと、つい心の中で数えていた。
 スマートフォンから何げなく視線を上げて、ドキリとする。玲が熱を帯びた眼差しで、じっと和彦を見つめていた。
 ここでやっと、昨日の出来事がまだ尾を引いているのだと察した。
 玲は、父親である龍造と御堂の情交を目の当たりにして、和彦の立場がどんなものであるかも把握している。玲の中ではきっとまだ、〈オンナ〉という単語が生々しく響いているのだろう。
 距離が近すぎたと猛省して、和彦はさりげなくドア側へと体を寄せる。
 できれば電車で移動してみたかったという玲の呟きを聞き流し、車は走り続けた。
 連休中ということもあり、テレビでもよく取り上げられるような観光スポットは、大抵どこも混んでいる。だからこその観光の醍醐味ともいえ、玲は苦にならないようだ。
 タワーにのぼって眺望に目を輝かせ、歴史ある古い神社に立ち寄って感嘆の声を洩らす。ブランドショップが立ち並ぶ通りをぶらりと歩いていると、ショーウィンドーに並ぶ商品よりも、行き交う人たちのほうに興味を惹かれたようだ。
 みんなオシャレだ、とまじめな口調での呟きを耳にしたとき、和彦は顔を背けて必死に笑いを噛み殺す。素直な反応の一つ一つが初々しく、正直、可愛くてたまらない。
 観光を楽しみながら土産を買い込むという目的を、好奇心を満たしつつ着実にこなしていた玲だが、昼食を済ませてから、あるイベントが行われているという場所に向かって移動している最中に様子が変化する。
 居心地悪そうに顔をしかめ、落ち着きなく口元に手をやる。気がついた和彦はそっと声をかけた。
「どうかした?」
 玲が、困った、という顔で和彦を見た。
「……少し、人に酔ったみたいで……」
「ああ、だったら、どこか落ち着いたところで休もうか」
 車に戻るのが一番かもしれないが、駐車場までけっこう歩くことになる。人ごみに酔った玲をさらに移動させるのは酷だろう。
「大丈夫です。吐きそうとか、そこまで大げさなことじゃないんで――」
「無理しなくていいよ。急ぐことはないんだから、ここらでのんびりしたって、別に誰も困らない」
 和彦は辺りをきょろきょろと見回していたが、ふとあることを思い出す。休憩するにはちょうどいい場所が近くにあることを告げると、玲も頷いたので、さっそく移動する。
 向かったのは、有料の植物園だった。
 春だけではなく、紅葉が始まる秋になると、平日であろうが客でにぎわう場所なのだが、今はまだ時季としては少し早いうえに、有料ということもあり、比較的空いているだろうと読んだのだ。
 チケット販売の窓口は、さすがに家族連れや子供たちのグループなどで混み合っていたが、中に入ってしまえば、敷地が広いため、すぐに人は分散して、あまり目につかなくなる。
 のんびり過ごすには、ここはいい穴場なのだと、嬉しそうに教えてくれたのは誰だっただろうか――。
 ふと懐かしい思い出に浸りかけた和彦だが、高校生の隣にいて、それがとてつもなく不埒なことに思え、慌てて頭から追い払う。
「すごいっすね。すぐ目の前を広い道路が通って、車が渋滞しているっていうのに、ここは静かだ」
 土と緑の匂いもすると、玲が犬のように鼻を鳴らす。その姿を和彦が眺めていると、気づいた玲が言い訳めいたことを口にした。
「言っておきますけど、俺の地元、大自然に囲まれて、子供は野山を駆け回っているとか、そういうところじゃないですからね。そこそこ……、部分的には、都会です」
「……何も言ってないよ」
「でも今、すごく微笑ましい目をして、俺のこと見てました」
「可愛いなと思って」
 思わず出た言葉に、和彦は頭を抱えたくなる。いろいろな意味でデリカシーに欠けた発言だったと、謝罪しようとしたが、玲の反応を目の当たりにして、何も言えなくなる。玲は、怒ったように唇をへの字に曲げたが、向けられた横顔が赤くなっていた。
 なぜか二人の歩調は速くなる。
「ごめん……。君を子供扱いしているとかじゃなくて、高校生との会話ってこんな感じなのかって、すごく新鮮で、気が楽というか……」
「――佐伯さん、普段は組の人たちに囲まれて生活してるんですか?」
 玲が質問をしてくれたことに内心でほっとしながら、和彦は頷く。
「そんなところだね。基本は、一人暮らしなんだけど。……君は、ぼくみたいな立場の意味を知っているようだから、すごいことをイメージしているんだろうな」
「まあ……、高校生の想像力をナメないでください」
 玲の言い方がおもしろくて、和彦は、ふふっ、と声を洩らして笑っていた。
「きっと、本当のことを知ったら、引くよ、君は。一年半前までは、ぼくは普通の医者だったんだ。それが、厄介な男たちと知り合って、さんざん振り回されているけど、結局、逃げ出しもせずに、こうやって生活している。打算も事情もあるけど、大事にしてもらっている。こう感じるぼくは、変わっているんだろうな」
「一年半前って、けっこう最近ですね。……俺は、育ってきた環境が環境だから、物心ついたときからヤクザや、その周囲にいる人は見てきました。だから、どういう種類の人かなんとなく見分けられるんです。――佐伯さんは、特別ですね。御堂さんと近いようで、全然違う」
「どんなふうに?」
 玲はその質問には答えず、施設内の地図が印刷されたパンフレットに視線を落とす。
「もうすぐ行くと、池があるそうですよ」
「あっ、うん」
 歩きながら和彦は、さりげなく背後を振り返る。かなり距離を置いて、綾瀬の部下がついてきていた。ここは安全だと判断しての行動のようだ。
 たどり着いたのは、こじんまりとした池だった。もっと公園の奥へ歩いて行くと、かなり大きな池があるのだが、そもそもここを訪れた目的は散策のためではなく、休憩のためだ。
 池の周囲には背の高い草が生い茂り、頭上には、木々から伸びた枝が影を作り出している。おかげで陽射しが遮られ、吹く風がひんやりとして涼しい。
「はあ、気持ちいい……」
 吐息を洩らした和彦は髪を掻き上げる。額に浮かんだ汗をハンカチで拭っていると、池にかかった橋の中央で玲が身を乗り出し、じっと何か見ている。気になったので、和彦も隣に並んで同じく身を乗り出す。亀がゆっくりと泳いでいた。
 のどかな光景に笑みをこぼす。何げなく横を見ると、玲は池ではなく、じっと和彦を見つめていた。腕を取られ、軽く引っ張られる。
「池の向こう側に、ベンチがあるそうですよ」
 玲に促されて池を周り込むように移動すると、ベンチが三脚並んでいた。しかし、和彦と玲以外に人の姿はない。
 腰掛けた途端、玲が大きく息を吐き、持っているバッグからペットボトルを取り出して口をつける。
「――俺、子供の頃から、父さんに聞かされていたんです。オンナの話を」
 唐突に玲が話し始めて驚いた和彦だが、さきほどの会話の続きなのだと気づき、小さく頷く。
「最初は、よくわかってなかったんですけど、繰り返し聞かされているうちに、ああ、そういうことか、って。父さん、愛人は何人もいるんです。だけどこれは、特別な人の話で、忘れられない……別れられないんだとわかったら、俺、どんどん興味が湧いてきたんです」
「御堂さんのことだね。……会ってみて、どうだった?」
「不思議な感じでした。これが、父さんのオンナなのかと、変な話、ちょっと感動すらしました」
 生々しい内容のはずなのに、玲の口調があまりに自然なので、和彦のほうも羞恥心や罪悪感を刺激されずに済む。
「御堂さんに初めて会ったその日の夜に、廊下で寝ている佐伯さんにも会って、まず最初に、なんとなく似ている二人だなと思ったんです。男の人なのに、ちょっとドキリとするような独特の雰囲気があって。御堂さんは、優しいような、柔らかいような印象を受けたと思ったら、次の瞬間には、鋭くて、ヒヤリとする冷たさを感じました。この人やっぱり、父さんと同じ種類の人だなと思ったんですが、佐伯さんは――」
「……ぼくは?」
「幽霊かと思いました」
 和彦は首を傾げる。玲は、くっくと声を洩らして笑った。
「だって、夜中の廊下に、男の人が座ってぐったりしてるんですよ? 俺、ビクビクしながら声かけたんですから」
「けっこう平然としているように感じたけど、それは悪かった……」
「――俺が想像していたオンナは、御堂さんじゃなく、佐伯さんそのままでした。御堂さんはやっぱり筋者で、俺の想像の中にあるオンナの印象は、そうじゃない。そういうことも関係しているのかもしれません。だから、前から知っている気がする、なんて言ったんです。びっくりして、思わず」
 夜、玲に助けられたときに交わした会話はよく覚えている。一方の玲も、それは同じようだった。
「佐伯さんも、あのとき言いましたよね。前に俺に会ったことがあるって。それは……、どういう意味ですか?」
 まっすぐ見つめられ、密かに和彦はうろたえる。黒々とした玲の瞳は、威圧的というわけではないが、迫力がある。まるで、剥き出しの感情をぶつけられているようで、後ろ暗さを多大に抱えた大人としては、怯んでしまう。
 和彦は頭上で揺れる枝を見上げた。
「よく……、わからないんだ。薬でぼうっとしていたせいもあるけど、本当にどこかで会った気がして……、だけど、君と初対面だったのは確かで――……。うーん、思い出せない。ごめん」
「でも、不思議ですよね。二人揃って、初対面だけど、知っている気がする、会ったことがある気がする、というのも。なんか、運命めいているかも」
 慌ててベンチに座り直した和彦は、反射的に周囲に目を向ける。これまでのやり取りを誰かに聞かれていたのではないかと心配したのだが、背の高い草に隠れているベンチに、池を周り込んでまで座りに来る人はいない。それに綾瀬の部下の姿も見えなかった。
「……そうか、最近の高校生は、知り合ったばかりの相手にも、明け透けになんでも言えるんだな。世代間ギャップを感じる」
「言うほど、年齢は離れてないでしょう」
 和彦はつい苦笑する。
「ぼくをいくつだと思ってるんだ。君とは、一回り以上違う。けっこうな年齢差だよ」
「大人、ですね」
「中身の成長はともかく、外見だけは歳を取っていくね」
「――……経験も段違いだ」
 ぽつりと呟いた玲が、ベンチにペットボトルを置く。何げなくその動作を目で追っていると、ふいに玲がこちらに身を乗り出した。一体何事かと思ったときには、玲の顔が眼前に迫っていた。
 唇に、少しかさついた感触が触れ、一度離れてすぐに今度は強く押し当てられる。
 ようやく状況を理解した和彦が目を見開くと、玲は困ったような複雑な笑みを浮かべていた。
「佐伯さん、無防備ですね」
 そしてもう一度、玲の顔が近づいてくる。唇が重なり、そっと吸われる。すぐには反応できなかった和彦だが、我に返って玲の肩を押す。意外なほどあっさりと玲は身を引いた。
 咄嗟に言葉が出なかった。和彦は、唐突に目の前に、得体の知れない生き物が現れたような心境で、まじまじと玲を凝視する。
 ようやく呼吸を整えて発した声は、情けないが、わずかに上擦っていた。
「どういう、つもりだ……? さすがに今の高校生の間でも、こんな冗談は流行ってないだろ」
「興味があるんです」
 きっぱりと玲に断言され、大人である和彦のほうが動揺する。少し頭が混乱したが、玲がこんなことをした理由らしきものは、すぐに思い当たった。
「……昨日、君のお父さんと御堂さんのあんな姿を見たから、毒されたんだろ」
「というより、火がついたんだと思います」
「火?」
「俺、ずっと触れてみたかったんです。オンナに。あの父さんが臆面もなく、『惚れていた』と言い切っていたのは、御堂さんというオンナでした。俺は、俺の想像の中にいたオンナにずっと触れたかった――」
 玲が本気で言っていることは、向けられる眼差しや表情を見ていればわかる。だからこそ和彦は、困惑する。
 ため息をつくと、玲との間に一人分のスペースを空けて座り直し、苦々しい口調で諭した。
「やっぱり君は、毒されたんだ。ぼくも含めた、悪い男たちが放つ毒気に……。あと半年ちょっとで、楽しい大学生活を始めて、人間関係だってどんどん広がっていく。そうしたら、本当にキスしたいと思う相手にも出会える。そのときになって、血迷って三十男にあんなことするんじゃなかったと後悔するはずだ」
「しません」
 この頑固さは子供特有のものなのだろうかと、和彦は腹が立つより、微笑ましさを感じる。つい口元が緩みそうになったが、それどころではないと、なんとか表情を引き締める。
「――……ぼくは、君の想像の中にいるオンナじゃない。現実に存在していて、怖い男たちと寝ているし、守ってもらっている。お互い厄介な立場にいるし、何より高校生の君と関わりを持つのは、面倒だ」
 玲が顔を伏せたので、言い過ぎただろうかと内心気が気でなかったが、いかにも健やかに育ってきた玲の将来を思うと、これでいいのだと和彦は自分に言い聞かせる。
 このとき脳裏を過ぎったのは、鷹津の存在だった。あの男は、健やかとは対極にいる存在ではあったが、和彦と深い関わりを持ったことで、結果として警察官という身分を失った。何もかも自分のせいだというのは傲慢な自惚れになるかもしれないが、それでも、高校生の将来を慮ることぐらいは許されるはずだ。
「……また、つらそうな顔していますね」
 黙り込んだ和彦が気になったのか、顔を上げた玲に指摘される。和彦は眉間にシワを寄せると、玲の肩を軽く小突いた。
「気分がマシになったんなら、もう少しだけ奥に行ってみようか。せっかく入園料を払ったんだし」
 頷いた玲とともに橋のほうへと戻ると、ずっと待っていたらしい、綾瀬の部下が所在なさげに池を覗き込んでいた。
 並木道を歩きながら、和彦は表面上は冷静を装っていたが、心はずっと波立っている。知り合ったばかりの男子高校生の言動に、完全に翻弄されていた。
 さきほどの出来事はなかったことにならないだろうかと、懸命に願っている和彦の隣で、玲がさらりと切り出した。
「佐伯さん、もう一度キスさせてください」
 かろうじて無表情を保ち、淡々と和彦は応じる。
「……君は下手だから、嫌だ」
「下手だったのは、勘弁してください。――初めてだったんで」
 ぎょっとした和彦は、ムキになって説教をしていた。
「大事にしないかっ。思い出だろ? 一生記憶に残るものじゃないかっ。……今の高校生はそんな考え方はしないなんて、言うなよ」
「大事にします。それに思い出にしたいから、もう一度させてください」
「頭を冷やせ。ぼくは、君に深入りするつもりはないし、責任も持てない。そういう話がしたいなら、ぼくはもう帰る」
 玲の顔を見ることなく早口に告げると、来た道を引き返す。背後から玲がついてくる気配を感じ、最初は無視していたが、結局、歩調を緩めて並んで歩くことになる。
「――……次は、どこに行きたいんだ?」
 和彦がぼそりと問いかけると、玲はいくぶんほっとしたように表情を和らげた。


 戻ってきた和彦の顔を見るなり、御堂は破顔した。
「疲れ果てた、という顔だね。二人でたっぷり楽しんできたかい?」
 他意はないのだろうが、なんとも複雑な心境に陥る問いかけに、曖昧に返事をしながら和彦は振り返る。土産が詰まった紙袋を両手に持った玲が立っていた。そんな玲の姿を見て、御堂は声を上げる。
「たくさん買ったなあ。それ全部、お土産?」
「少しだけ自分のものもありますが。……父さんが、あちこちに面倒かけているんで。そういうことに気が回る性格じゃないから、俺が買っておかないと」
「一人息子がそれだけしっかりしてるんだから、伊勢崎さんも期待するはずだ」
 いろいろと、と意味ありげに洩らした御堂に、和彦は首を傾げる。
 三人は一旦ダイニングへと移動したが、玲は自分が使っている部屋に荷物を置きに向かい、その後ろ姿を見送ってから和彦はイスに腰掛けた。
 思わずため息をつくと、再び御堂に言われた。
「今日は疲れただろう。君らがどこにいるかは、清道会経由でわたしにもときどき報告が入っていたんだが、今日一日で、精力的にあちこち観光したようだね」
「まあ……、今日はよく歩いたというか。観光地巡りなんて、かえってぼくも新鮮で、楽しかったですけど」
「それ以上に彼も楽しんだだろう。佐伯くんがいてくれてよかったよ。そうでなかったら、いかつい護衛だけを引き連れて、出歩くことになっていたはずだから」
「……いい子でしたよ。千尋と年齢が近いし、環境も境遇も似たようなところがあるようですけど、やっぱり、タイプは全然違いますね」
「どちらも、可愛く見えても、あの父親たちの息子だからね。将来はどうなるやら」
『あの父親たち』をよく知っている御堂の発言に、少しだけ和彦の首筋が寒くなった。
「怖いこと言わないでください……」
「おや、千尋はともかく、玲くんにも何か片鱗は感じた?」
「基本的に物静かで素直な子ですが、迫力がありますよ。……少し押しが強いというか」
「本能的に嗅ぎ取るのかな。自分のわがままを聞き入れてくれる相手かどうか。君は、優しいから」
 裏の世界で生きている男から優しさを指摘されるのは、喜ばしいことではない。付け入る隙があると言われているようなものだ。和彦はさまざまな男たちと接してきて、それを学習した。
 和彦が複雑な表情を浮かべていると、玲が戻ってくる。すると御堂が、イスの背もたれにかけていた上着を手に立ち上がった。
「さて、わたしはちょっと夕飯の買い出しに行ってくるから、二人で留守番を頼むよ」
「あっ、じゃあ、ぼくも荷物持ちに――」
「歩き回って疲れたんだろう? いいよ、清道会が車と人を出してくれるから、君らは休んでいて。あっ、もうすぐ、手伝いの組員たちが来るから、そのときは玄関を開けてやってくれないかな」
 御堂が慌しく出かけていき、和彦は玄関で見送る。引き戸が閉まってから背後を振り返ると、玲が立っていた。和彦はあえて言葉はかけず、傍らを通り過ぎるときに、ぽんっと軽く肩を叩く。
 洗面所で手を洗おうとしたが、何げなく正面の鏡を見て驚く。玲がついてきていた。本能的に、マズイと思った。
 和彦は手も洗わないまま慌てて洗面所を出ようとしたが、玲が立ちはだかる。さらには肩を掴まれ、壁際に押しやられていた。
 言葉もなかった。玲の顔が近づき、そっと唇が重ねられる。熱い吐息が肌に触れ、和彦の背筋にゾクリと甘美な震えが走った。
 逃げ出すことは簡単で、鋭い声を発しただけで、玲はすぐに身を引くだろうと確信が持てた。しかし、できなかった。こんなに面倒で厄介な存在と深入りするべきではないと、頭では理解しているのに、本能が抗う。
 自分が抱えた人恋しさはこんなにも深刻だったのかと、和彦は衝撃を受けた。それとも、初対面でありながら、どこかで会ったことがあると感じた瞬間に、とてつもない結びつきを玲と持ってしまったのかもしれない。
「……バカじゃないか、君は。一回り以上も年上の男と、こんなこと――」
「年齢は関係ないです。多分、佐伯さんが、俺の二回り年上だったとしても、したい、です」
 ハッ、と荒い息を吐き出した玲が、今度は強く唇を押し当ててくる。和彦がされるがままになっていると、ぎこちなく唇を吸い始めた。ゆるゆると両腕が体に回され、次の瞬間には思い切ったように抱き締められる。このとき、玲の汗の匂いに包まれた。
 上唇と下唇を交互に吸ってから、玲が囁くような声で言った。
「わからないんで、リードしてください」
 尊大というべきか、悪びれていないというべきか、和彦がじっと見つめても、玲は怯むことなく見つめ返してくる。度胸があるなと思っていると、知らず知らずのうちに口元が緩んでしまい、すかさず玲が唇に吸い付いた。
 情熱の伝え方もわかっていない初心な口づけに、和彦の心は急速に解れていく。気がつけば、玲の頬にてのひらを押し当て、唇を吸い返していた。
 和彦は、濃厚で官能的な口づけを玲に与える。まだ誰の口づけの癖も知らない青年に、さまざまな男たちと口づけを交わしてきた自分が触れることに、神聖なものを穢すような罪悪感とともに、高ぶりも感じる。
 一度だけだと自分に言い訳しながら、玲の口腔に舌を侵入させ、歯列をくすぐり、感じやすい粘膜を舐めていく。最初は戸惑っている様子の玲だったが、強張っていた舌がおずおずと動き、微笑ましく思いながら和彦は、舌先を触れ合わせる。
 ちろりと玲の舌を舐めてやると、しなやかな体がビクリと震える。嫌悪からのものではく、快感によるものだとわかったのは、抱き締めてくる腕の力が強くなったからだ。
「もっと……、もっとしたい、です」
 唇を触れ合わせながら玲が言い、ごく自然な流れで二人は舌先を擦りつけ合ってから、緩やかに絡めていく。唾液が交じり合い、吐息が重なる。玲は、和彦との口づけに抵抗がないようだった。そのことに危機感を覚えるべきなのだろうが、正直和彦は安堵していた。いや、嬉しかったのかもしれない。
 微かに濡れた音を立てながら、玲の舌を優しく吸い、自分の口腔に誘い込む。和彦のマネをするように玲の舌が蠢き始めた。されるに任せながら、初めて見たときから惹かれていた玲の背にてのひらを這わせる。
 まっすぐ伸びたきれいな背筋を何度も撫で、清廉さがそのまま現れているようなうなじを指先でくすぐる。同時に、玲の舌を甘噛みする。玲の反応は素直で、再び体を震わせた。
 際限なく口づけを続けてしまいそうで、和彦はなんとか頭を引く。追いすがってきた玲の口元をてのひらで覆った。
「ここまでだ」
「……嫌です。まだ、続けたいです」
「思い出にはなっただろ。ほら、清道会の人が来るから、君は部屋に入っていろ。その顔じゃ――」
 二人揃って唇を赤く腫らして、人前に出るわけにはいかない。和彦が言おうとしていることを理解したらしく、玲はあからさまに残念そうな顔で一旦体を離したが、次の瞬間、思い直したようにまた和彦を抱き締めてくる。
 体を締め付ける腕の感触に、心臓の鼓動が大きく跳ねる。ズルリと音を立てて、自分の中にある感情の塊が玲に引き寄せられたのを、このとき確かに和彦は感じていた。


 枕元のライトの明かりが、ぼんやりと天井を照らす。布団に横たわった和彦は、きれいな木目をじっと見上げていたが、両足の熱が気になって、結局起き上がる。
 今日は歩き過ぎたせいで、足の裏が熱をもっている。ふくらはぎは少し痛かった。和彦はパジャマのパンツの上から足を丁寧に揉みながら、鷹津と街をさまよった日のことを思い出す。ずいぶん遠い日の出来事のように思えるが、まだ一か月も経っていないのだ。
 その間、自分は――。
 夕方、玲と交わした口づけが蘇り、布団に突っ伏したくなる。羞恥からではなく、どうしようもない罪悪感からだ。
 夕食は、和彦たち三人以外に、準備を手伝ってくれた清道会の組員たちも加わって、ずいぶんにぎやかなものとなったのだが、和彦は、なんでも見通してしまいそうな御堂の色素の薄い瞳が、非難の色を浮かべるのではないかと気が気でなかった。その点玲は、何事もなかったように堂々としていた。
 あの一度の口づけで気が済んだというなら、素直に安堵しておくべきなのだろうが、一回り以上年下の青年に翻弄されたようで、いい歳をした大人としては落ち込みたくなる。
 明日には、自分が生活している場所へと帰ってしまうが、連休中にずいぶん思い出を作ったといえる。口づけもまた、思い出の一つだ。それ以上でも以下でもなく、誰も知ることのない秘密となる。抱えた罪悪感すらも。
 再び布団に仰向けで横たわると、片足ずつ持ち上げて動かしてみる。このときになって、今夜は賢吾に連絡をしなかったことを思い出した。こんなことで怒る男ではないが、嫌になるほどの勘のよさを発揮して、和彦に何かあったのだろうと予想はしているだろう。
 どうせ明日戻るのだから、問題はないはずだと自分に言い聞かせているうちに、和彦は体に布団もかけないまま、ウトウトし始めていた。
 今日は当然、安定剤は飲んでいない。そんなものが必要ないほど、体は疲れ切っていて、疲労感は穏やかな睡魔を引き寄せる。
 違和感は、さりげなくやってきた。風が吹くはずもないのに、髪が揺れた気がした。それに、頬を柔らかく撫でる感触もあった。和彦が深くゆっくりと息を吐き出すと、唇を何かに軽くくすぐられる。
 この状況には覚えがあった。横になる和彦に〈誰か〉が忍び寄り、顔には薄布が掛けられるか、目隠しをされるのだ。そして、いいように体を貪られる。
 いままで痛めつけられるような手酷い目に遭ったことはないため、恐怖感は薄いが、本能的な怯えからは逃れられない。
 なぜ御堂の家で、と自問しているうちに、パジャマの上着のボタンを外されていく。胸元が露わになり、ひんやりとした空気に触れた。
 閉じた瞼を通して、見下ろされているのがわかった。そして、和彦が目を開けるのを待っていることも。
 眠ったふりを続けるという選択肢は、不思議なほど和彦の中にはなかった。胸の内に芽生えた確信に、突き動かされていた。
 目を開けると、思いがけず近い距離に玲の顔があった。枕元のライトの明かりに照らされて、黒々とした瞳は濡れたような艶を帯びており、向けられる眼差しは熱っぽい。
 あのときは、こんなふうに自分を見つめてはいなかった――。
 ふとそんなことを思ったあと、和彦はようやく声を発した。
「ああ……、やっぱりそうだ。君は、似ているんだ。だからぼくは、前に君に会ったことがあるような気がしたんだ」
「俺は、誰に似ているんですか?」
 一瞬のためらいがないわけではなかったが、まだ夢の中にいるような心地よさが、和彦の心の枷を軽くする。
「……ぼくをオンナにしている人に、初めて抱かれたとき、部屋に、若武者の掛け軸がかかっていた。ぼくに似ていると言われたけど、自分ではまったくそんなふうに思えなかったんだ。ぼくとはあまりに違う。若く、凛々しいきれいな顔立ちをして。本当に君によく似ている。一目見て、惹かれた」
「掛け軸の若武者に? それとも――」
 ハッと我に返った和彦は、ここでやっと肝心なことを玲に尋ねる。
「君はどうして、この部屋に……?」
 それに、今の自分の格好だ。和彦は慌てて体を起こそうとしたが、玲の肩が手にかかり、動けない。玲は体重をかけないよう気遣いながらも、和彦の体の上にしっかりと馬乗りになっていた。
「欲が出ました。父さんがしていたように、俺も――、オンナを抱きたいです」
 大胆な告白に、今の状況も重なって、怒りを感じるべきなのかもしれないが、まず和彦は戸惑う。夕方交わした口づけで、自分が玲を煽ってしまったという自覚もあった。その自覚は、罪悪感とも呼べる。
 これは、やはり年下である千尋と初めて口づけを交わし、体の関係を持ったときですら、抱かなかった感情だ。そもそも千尋との出会いは、あくまで後腐れのない享楽的なものから始まり、複雑な事情も、厄介な男たちの存在も、当時の和彦は一切関知していなかった。
 今、体の上にいる青年は、個人としては普通の高校生かもしれないが、少なくともオンナの存在を把握している。それどころか、毒され、魅了されていると言ってもいい。
 玲の父親である龍造は、どれほど〈オンナ〉を魅力的に語っていたのかと、内心で詰っていた。刺激が強すぎて、未成年に語っていい存在ではないはずなのだ。
「……ダメ、だ……。それは、ダメだ。君は、これ以上ぼくに関わるべきじゃない。ぼくをオンナにしているのは、怖い男たちだ。君の父親の立場も考えたら、ぼくと君の手に負えない事態になる」
「関係ないです。俺には、父さんの立場なんて。今、俺の目の前には、あなたしかいない」
「子供のような屁理屈を言うなっ」
 声を荒らげたところで、玲がその子供であることを思い出す。未成年どころか、あと半年で卒業とはいえ、高校生だ。しかし、当の〈子供〉は、強い眼差しでこう言い切った。
「子供じゃないです」
 強引に玲が唇を重ねてきて、歯列を舌先でこじ開けられる。覚えたばかりの口づけを、玲はたどたどしく再現していた。
 和彦は玲の肩を押し退けようとしたが、浴衣越しに高い体温を感じて怯む。自分を威圧しているのが、掛け軸に画かれた若武者ではなく、しなやかな筋肉に覆われた熱い体を持つ青年だと、改めて実感していた。
「やめてくれ……。早く、退いて――」
 首筋に忙しく唇が這わされながら、パジャマの上着を肩から下ろされ脱がされていく。熱く荒い息遣いが肌にあたり、何かが目覚めてしまいそうな危惧を抱いた和彦は、玲の頭を押し退けようとする。このとき、てのひらで触れた硬く短い髪の感触にドキリとした。
 玲に触れるたびに、ほんの数十時間前に知り合ったばかりの存在なのだと思い知らされる。そしてその存在に、熱烈に求められているのだとも。
 和彦の躊躇がわかったらしく、玲がまた口づけを求めてくる。唇を吸われ、口腔に舌を押し込まれ、和彦はそっと舌先を触れ合わせていた。
 間近から瞳を見つめ返しているうちに、警戒心が解けていく。もともと、玲個人を恐れているわけではない。厄介なのはむしろ、和彦や玲を取り巻く男たちや組織の事情だ。しかし今、この部屋には、その和彦と玲しかいない。
「――ぼくは今、夢を見ているんだ」
 口づけの合間に和彦が洩らすと、玲が意志の強そうな眉をひそめる。
「掛け軸に画かれていた若武者が、寝室に忍び込んできた夢だ。だから朝になって目が覚めたら、夢は終わる。……何もなかったんだ」
 玲は察しがよかった。和彦の言葉を受けて、こう答えた。
「だったら俺は、ずっと想像していたオンナに触れている夢を見ているんですね」
 和彦が微苦笑で返すと、玲はきゅっと唇を引き結び、本格的にパジャマを脱がしにかかる。手首の辺りで上着が引っかかったので、和彦は軽く身を捩って協力したが、さすがにズボンと下着に手がかかったときはうろたえる。それでも拒まなかったのは、男の部分を直視して、玲の頭が冷えることを期待したからだ。
 しかし、何も身につけていない和彦を見下ろしても、玲の熱を帯びた眼差しが揺らぐことはない。
「大人の男の人の体なんですね。当たり前だけど……」
 玲のてのひらが遠慮がちに体に這わされる。自分の頭の中にあるオンナの姿を確かめているように思え、和彦はとりあえずされるがままになる。
 まったく経験したことのない触れられ方に、心臓の鼓動が速くなっていく。愛撫とはまったく違うからこそ、玲の手の動きを意識してしまう。
 飽きることなく和彦の体をてのひらで撫で続けていた玲が、ふと思い出したように顔を寄せてくる。何を求めているのか即座に察した和彦は、玲の首の後ろに手をかけ、口づけを受け入れた。
 唇を吸い合い、舌先を擦りつけ合ってから、互いの口腔をまさぐる。露骨に濡れた音を立てながら舌を絡め合うようになった頃、和彦は片手を玲の腰の辺りに這わせ、指先で探り当てた帯を解いた。玲が帯を抜き取り、浴衣を脱ぎ落とす。
 すがりつくように玲が抱きついてきたので、和彦は両腕で受け止めながら、厳かな気持ちで熱く滑らかな肌にてのひらを這わせた。すると玲がまるで何かに急き立てられるように、もどかしげに下着を引き下ろしながら、腰を密着させてきた。
「――……君、やっぱりおかしい」
 今にも破裂しそうなほど高ぶった欲望を擦りつけられ、和彦は小声で洩らす。玲が笑ったような気配がしたが、表情を確かめることはできなかった。和彦の体を撫で回したあとで、新たな興味に移ったらしく、さっそく実行に移したのだ。
 肩に強く吸い付いた玲が顔を上げる。どうやら、肌に跡が残るか確かめたらしい。
 微かに濡れた音をさせながら、強弱をつけ、ときにはそっと歯を立てられて、肩だけではなく、腕の内側や胸元、脇腹へと吸い付かれる。最初はくすぐったさに声を堪えていた和彦だが、いつの間にか息が弾み、肌に触れる硬い歯の感触にゾクリとするような疼きを感じるようになっていた。
 玲が、肌に残った鬱血の跡を満足げに眺める。
「これ、キスマーク……、初めてつけました」
「嬉しそうだな」
 和彦は、玲の髪に手荒く指を差し込む。何かの儀式のようにまた口づけを求めてきたので、今度は玲の好きなようにさせる。口腔に入り込んできた舌に隈なく舐め回され、流し込まれる唾液を喉を鳴らして飲んでやると、興奮したように強く腰をすり寄せてきた。
「……入れたい、です」
 口づけの合間に、苦しげな声で玲が言う。一瞬、このまま続けていいのだろうかと逡巡したが、玲の放つ熱に和彦も感化されていた。頭の片隅では、賢吾から言われた言葉も響いている。
 これは、浮気ではない。遊びでもない。ただ、夢を見ているだけだ――。
 玲が両足の間へと手を伸ばそうとしたので、和彦は制止する。
「準備はぼくがやる。……爪で傷つけられるのが怖いから……」
「じゃあ、見てます」
 真剣な顔で言われると、返事に困る。和彦は微妙に玲から視線を逸らして、体を起こすよう言った。
 下肢に向けられる強い視線を意識しながら、自ら片足を折り曲げ、膝を抱えるような姿勢を取った和彦は、指を唾液で濡らしてから、両足の間に手を伸ばす。
 触れるまでもなく、欲望は形を変えて熱くなっていた。自分の愛撫の成果を、玲はどんなふうに見ているのだろうかと考えながら、秘裂をまさぐり、内奥の入り口を探り当てる。
 唾液で湿らせて、頑なな窄まりでしかない場所を慎重に解していく。くすぐるように撫で擦り、爪の先から少しずつ含ませていき、ここでまたたっぷりの唾液を施して、指の侵入を深くしていく。
 玲は瞬きもせず、食い入るように和彦の行為を見つめ続けていた。あからさまに男の部分を見せつけているというのに、興奮が冷める様子は一切なく、それどころか、一層高ぶっているようだ。
「んっ……」
 無意識の行動なのか、玲の手が抱えた膝にかかる。さらに足を広げさせられていた。
 和彦は、玲が間近で見つめている前で、指の数を増やし、付け根まで挿入していた。発情した襞と粘膜が見境なく指に絡みつき、内奥全体がひくついている。
 玲に手を取られて、内奥から指を引き抜かれる。両足の間に性急に腰が割り込まされたかと思うと、戦くほど熱く硬い感触が内奥の入り口に押し当てられた。
「ま、だ……、まだ早い――」
「でも、俺もう、我慢できません。……すみません」
 殊勝に謝罪しながらも、玲が強引に腰を進めてくる。内奥の入り口がこじ開けられようとしたが、解れているとは言いがたく、なかなか思うようには欲望を受け入れない。
 痛いのは嫌だなと思って和彦が見上げていると、玲は黙々と自分の欲望に唾液をなすりつけてから、再び腰を進めてきた。
「あっ、あうっ、うっ」
 唾液の滑りを借りて、欲望の先端が内奥に押し入ってくる。途端に玲が眉をひそめ、唇を引き結んだ。和彦は片手を伸ばして玲の頬を撫でながら、優しい声で助言する。
「大丈夫だから、ゆっくり入れるんだ。もっと深くまできたら、多分、君も楽になるから」
 和彦の内奥は、侵入者を見境なく締め付ける。玲はまだ快感を味わえてはいないだろう。
 玲が緩く腰を突き上げながら、少しずつ侵入を深くしていく。和彦は浅い呼吸を繰り返し、なるべく下腹部に力を入れないよう努める。内奥の圧迫感と異物感が増していき、馴染みのある感覚に安堵する。
 何度か出し入れを繰り返し、内奥の肉を押し広げていく。玲なりに、和彦に苦痛を与えまいと努力しているのが伝わってきて、じわりと胸の奥が温かくなる。
「んうっ」
 切羽詰った声を上げたのは玲だった。内奥に欲望を根元まで埋め込むと、和彦の胸元に倒れ込んでくる。熱くなった体からはすでに汗が噴き出し、濡れている。
 繋がっているせいもあり、玲の力強い鼓動がこちらにまで伝わってくるようだった。一回り以上も年下の青年の生命力をこんな形で感じて、繋がった部分が疼く。
 しがみついてくる玲の背を何度も撫でながら、和彦は低く囁く。
「もう少し待ってくれ。中が柔らかくなって、具合がよくなる」
 顔を覗き込んできた玲が笑った。
「――エロいな、あなた。すごく」
 ここで唇を重ね、貪るように唇と舌を吸い合う。短い間に、玲の口づけはどんどん和彦好みのものへと変化していた。
 差し出した舌先を擦りつけ合い、唾液を交わす。それから舌を絡め合いながら、和彦は腰を揺らす。内奥で息づく熱い欲望の存在を強く意識して、吐息を洩らしていた。玲がぎこちなく欲望を動かし、やはり吐息を洩らす。
「本当だ。中、柔らかくなってきました。でも、締まってます」
「痛くない?」
 和彦は息を詰め、内奥を収縮させる。玲が呻き声を洩らし、欲望が小刻みに震えた。
「気持ちいい……。すげー、いい。腰が溶けそうです」
 玲が腰を揺すり、和彦は小さく喘ぐ。意外にがっしりしている腰に両腕を回して抱き寄せると、玲は呻き声を洩らす。
 あっ、と和彦が声を洩らしたときには、玲は内奥で達していた。
 ビクビクと震える欲望の蠢きに、和彦は快感にも似た愛しさを感じる。相手が誰であろうが、自分が快感を与えられたと強く実感できるこの瞬間は、好きだった。
 ポタポタと汗を滴らせながら玲が顔を寄せ、切実な声で訴えてくる。
「まだ……、あなたの中に、いたい……」
「いいよ。ぼくもまだ、君に中にいてほしい」
 玲の回復力は目覚しく、抱き合って呼吸を整えている間に、内奥で瞬く間に欲望が力を取り戻していく。
 ぐっと腰を押し付けられ、和彦は鳴いた。
「あっ、あっ、い、い――……。硬いの、奥まで、きてる……」
「本当に、エロいな、あなたは……」
 抱き合ったまま、玲が腰だけを動かして律動を始める。もう、和彦が助言するまでもなく、どう動けばいいのか、本能――というより欲情によって理解したのだ。
 きつい収縮を繰り返すばかりだった内奥の動きが変わったことに、玲は気づいただろう。
 物欲しげに淫らな蠕動を始め、熱く濡れた襞と粘膜が、激しく動く欲望に愛しげにまとわりつき、吸い付く。そこを擦り上げられるたびに、さざなみのように肉の悦びが生まれ、和彦の全身へと広がっていくのだ。
「はあっ……、んっ、んぅっ、ふっ……」
 このままでは自分だけが一方的に悦びを享受してしまうと、甘い危惧を抱いた和彦に、玲が生まじめな声でねだってきた。
「――後ろから、いいですか? あなたの全部を見ておきたい」
「初めてだっていうのに、探究心旺盛だな」
 和彦は、玲の要望を叶えるため、一度繋がりを解いてうつ伏せとなる。腰をわずかに上げた拍子に、さきほど注ぎ込まれた玲の精が内奥から滴り落ちた。
 玲の手に腰や尻を撫でられ、濡れた内腿もまさぐられる。和彦がゆっくりと息を吐いていると、いきなり背後から押し入られて、堪え切れずに声を上げる。
「あうぅっ」
 内奥深くまで欲望を捩じ込まれる。この体位は、よりはっきりと欲望の形を感じ取り、顔が見えないからこそ、相手の手の動きや息遣いに敏感になる。
 腰を掴まれて深く繋がると、玲が大きく息を吐き出した。
「……思った通りだ……。後ろからも、いい」
 和彦がわずかに身を捩って玲を振り返ろうとしたところで、背を撫で上げられ、ゾクリとした。
 無防備な姿を晒しているという事実が、被虐的な愉悦を生み出す。背をしならせると、その動きに誘われたように、背後から緩やかに内奥を突かれ、和彦は控えめに声を上げる。
 多淫な襞と粘膜を擦り上げられ、自分でもどうかと思うほど、異常に高ぶり、感じていた。玲の欲望をしっかりと咥え込んで締め付けながら、浅ましく腰を揺らすと、内奥を抉るようにぐうっと突かれる。
「あっ、うっ、うっ……」
 背に玲が覆い被さってきて、ちろりと肌を舐められる。背後からきつく抱き締められながら、次にうなじに唇が押し当てられた。荒い息遣いが耳朶に触れ、和彦は甲高い声を上げる。
 玲が夢中で腰を動かしているとわかる。内奥から欲望を出し入れされ、ぐちゅっ、ぐちゅっと淫靡な音を立てて濡れた粘膜が擦れ合い、その音が、一層欲情を煽り立てる。
「んっ、んんっ、あっ、あっ、玲、く……」
「その声も、いい――。んっ、また、出していいですか……? 出したい」
 中に、と掠れた声で囁かれ、鳥肌が立った。
 誘い込むように玲の欲望を締め付ける。内奥深くに、二度目の精を受け止めていた。
 玲の額が背にぐりぐりと押し当てられ、和彦は息を喘がせながらも笑ってしまう。
 玲は今度は、和彦の背に愛撫の痕跡を残し始める。肌にときおりチクリと走る小さな刺激だけではなく、微かに聞こえる濡れた音に鼓膜を刺激され、和彦は自分の両足の間にそっと片手を這わせる。まだ一度も絶頂を迎えてはいないが、中からの刺激に反応していないわけではなく、十分に熱くなり、反り返っていた。
「はっ……ん、ふっ、は、あぁ――……」
 玲の愛撫を受けながら、自らを慰めようとしたが、ふいに内奥から欲望が引き抜かれ、背から玲が退く。肩を掴まれて、なんとなく意図を察した和彦が仰向けとなると、勢いよくしがみつかれた。
 汗で濡れた体をぴったりと重ね、擦りつけ合う。和彦は、いまだに力強さを漲らせている体をてのひらで愛撫する。しなかやな筋肉を覆う肌の感触も心地よかった。
「こうしていると、よくわかる。本当に、きれいな体だ。……たまに考えるんだ。君たちぐらいのとき、ぼくはこんなふうに、圧倒されるぐらい眩しい存在だったんだろうか、って」
「君たち?」
 和彦は自分の失言に気づいたが、うろたえたりはしなかった。玲が知ろうと思えば、明日にでも耳に入ることだ。
「ぼくをオンナにしている一人が、君とそう歳が違わない」
「――……犬っころみたいな奴。昨日、そんなこと言ってましたね」
 和彦は返事の代わりに、玲の頭を撫でる。すると、痛いほどきつく抱き締められた。
 まさか、と思ったが、玲はまだ満足していなかった。和彦の体に触れながら欲望が高ぶるのを待ち、隙あらばまた内奥に押し入ってこようとしてくる。さすがに体力の回復が追いつかないと、下肢を絡ませながらの静かな攻防を繰り返していた和彦だが、玲の情熱に圧倒され、煽られていた。
「今度はぼくが、君の体に触れたいな……」
 そう求めると、初めて恥じらいらしき表情を見せた玲がおとなしくなる。和彦は微笑ましい気持ちになりながら、遠慮なく十代の体に乗り上がり、触れさせてもらう。
 暴走しそうになる玲の情欲をときおり宥めてやりながら、日焼けした肌に丹念に唇と舌を這わせ、愛撫の心地よさを教える。
「……連休明け、体育の授業はある?」
「ある、けど、かまわないです。体調不良とか言って、ズル休みします」
「それは、良心が咎めるな――」
 いまさら、と和彦は心の中で付け加える。すると玲が、芽生えかけた罪悪感を打ち消すようなことを言った。
「少しでも長く、佐伯さんの存在を残しておきたいから、思いきりつけてください。……キスマーク」
 末恐ろしい高校生だなと思いながら、ちらりと笑った和彦は玲の胸元に唇を押し当てる。舌先でくすぐり、柔らかく肌を吸い上げ、確認しながら小さな鬱血を残していく。
 引き締まった腹部から胸元に舌を這わせてから、自分がされたように腕の内側に吸い付く。軽く歯を立てると、玲がビクリと身を震わせた。
 切ない声で呼ばれ、口づけを交わす。腰を抱き寄せられ、擦りつけられたので、男を甘やかしたいという和彦の本能が疼く。舌を絡ませながら、手探りで玲の欲望を掴むと、精を溢れさせる内奥に呑み込んでいく。玲の息遣いが弾み、同時に、内奥深くまで受け入れた欲望が震えた。
 体を繋げる快感を知ったばかりの玲を驚かせないよう、ゆっくりと腰を動かす。心地よさそうに玲が目を細め、掠れた声を上げた。
 欲望を柔らかく締め付けながら和彦は、全身を使って玲を甘やかし、愛していく。玲は驚くほど柔軟に、貪欲に、快楽に馴染んでいく。もっと、もっとと欲していく。和彦の腰に両手をかけ、自らぎこちなく突き上げるようにして、律動を刻み始めていた。
「あっ、あっ、い、ぃ……」
 玲の眼差しが、律動に合わせて揺れる和彦の欲望へと向けられていた。反り返ったものは、先端から止めどなく透明なしずくを垂らしている。
「佐伯さんがイクところ、見たいです。まだ一度も、イッてないですよね。俺ばかり気持ちよくなって、申し訳ないです」
 玲の手が欲望にかかりそうになったが、和彦は柔らかく拒む。その代わり、自身のてのひらで包み込んだ。
「んっ……」
 欲望を扱き始めると、意識しないまま内奥を収縮させる。玲の欲望がゆっくりと膨らんでいくのを感じながら、そっと腰を上げ、すぐにまた下ろす。玲は、自分が何をやるべきか思い出したらしく、再び和彦の腰を掴んで、自ら動き始めた。
 間欠的に喘ぎ声をこぼしていた和彦だが、激しさを増す玲の動きにバランスを保てなくなり、たまらず片手を布団に突く。
「あうっ」
 一際大きく下から突き上げられた拍子に、初めて絶頂を迎える。迸り出た精が、玲の腹部から胸元にかけて飛び散り、きれいな体を汚してしまったと思った途端、和彦は身を貫くような快美さに襲われた。玲も何かを感じたらしく、前のめりとなった和彦をきつく抱き締めながら、なおも内奥を突き上げてくる。
「あっ、うっ、あぁっ……。少し、待ってくれ……。玲くんっ、玲、くっ――」
「ダメですよ。こんなに、気持ちよさそうな、顔してるのに……。俺も、気持ちいいっ……」
 玲の上で、和彦は恥知らずなほど歓喜の声を上げ、身悶えていた。そんな和彦を逃すまいと、玲の両腕はしっかりと巻きついてきて、何より内奥には、深くまで熱い楔を打ち込んでくる。
 玲の欲望の形に、馴染んでいきそうだった。浅ましく内奥が蠢き、締まり、淫らな襞と粘膜が狂乱しながら、力強く脈打つ欲望に絡みつく。
 体力のすべてを搾り出すかのように、玲の攻めは激しく、執拗だった。腰にかかっていた手は、ついには手荒く尻の肉を鷲掴み、ここまで見せていなかった玲の猛々しさを感じて、和彦の身をゾクゾクするような歓喜が貫く。
 三度目の精を内奥で受け止めたとき、和彦はこのまま体が溶けてなくなってしまうのではないかと思うほど、気力も体力も消耗しきっていた。
 そして、久しぶりの感覚を味わう。
 指先から髪の先まで、男の情愛に満たされたという感覚を。









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