と束縛と


- 第36話(4) -


 ひどい脱力感に苛まれながら和彦は、なんとか体の向きを変えると、隣に横たわっている玲を見る。
 しなやかな手足を投げ出してはいるものの、和彦のようにぐったりしているというより、充足感に満ち満ちているという様子で、これが一回り以上の年齢差というものなのだろうなと、妙に納得させられる。
 息も絶え絶えという状態からようやくわずかに回復し、和彦は口を開く。
「夜が明けたら、夢は終わりだ。朝、ダイニングで顔を合わせても、何もなかったふりをするんだ」
「――……佐伯さん、冷静ですね」
 そう言って玲もごろりと寝返りを打ち、体の正面をこちらに向ける。胸元に散る愛撫の痕跡を目の当たりにして、まだ上気している頬がさらに熱くなる。自分がやったこととはいえ、大胆なことをしたものだと自省する。一方の玲は、和彦の体に残るものを見て、表情を和らげた。
 体温が感じられるほど身を寄せ、和彦の肌に指先を這わせてくる。
 まだ、夜が明けるには早い――。和彦は自分に言い聞かせながら、そっと玲の頭を引き寄せる。玲は素直に胸元に顔を埋めてきた。
「君が着ていた浴衣、いつの間にか体の下に敷き込んでいて、汚してしまったんだ。朝のうちに洗濯するから、すまないが今夜は、Tシャツでも着て休んでくれ。……ああ、シーツも洗わないと」
「体も拭かないと。とりあえず後で、俺が濡らしたタオルを持ってきます。俺より、佐伯さんのほうが大変だと思うし……」
 玲の手が腰から背へと回され、さらに下へと移動する。好奇心の強い指が、熱を持って疼いている部分をまさぐってきた。簡単な後始末はしたものの、触れられると、玲が残した精が奥から滴り出てくる。
 情欲の嵐が去り、和彦の気持ちは落ち着きを取り戻しているが、玲は違うようだ。何かの拍子にまた猛々しさを取り戻しそうな激しさを、肌に触れる息遣いや指先から感じる。
「玲くん」
 声をかけると、玲が顔を上げる。和彦は後ろ髪を撫でながら、優しく唇を重ねる。すぐに玲が口づけに応え、唇を吸い返してきた。激しく求めてこようとする玲を、和彦はなだめる。丹念に上唇と下唇を交互に吸い上げ、舌先で歯列をくすぐり、おとなしくなってきたところで、褒美のように上あごの裏を舐めてやる。
「……ずるいな、こんなキスされたら、佐伯さんに強引なことをできなくなる」
 ようやく唇を離すと、ため息交じりに玲がぼやく。それがひどく子供っぽくて、和彦は声を洩らして笑った。
「それは勘弁してほしいな。ぼくは腕力はないし、荒っぽいことはさっぱりだから。絶対、君のほうが強い」
「わかってます。だから、この部屋に忍び込んで佐伯さんに覆い被さったとき、抵抗されたら、強引にでも事に及ぼうと考えていました」
「怖いな……」
「でも、しなくてよかったです。あなたに嫌われたくありませんから。ああ、でも、夜這いするような奴は、やっぱり嫌われるかな」
 間近から強い眼差しを向けられ、和彦は静かに息を呑む。無自覚なのか、眼差しだけで人を従わせようとする、物騒な男特有の傲慢さがあった。ただそれは、和彦の生活にはあまりに馴染んだもので、好ましいとすら感じる。
「嫌ったりしない。君は、手荒なことなんてしなかったんだし」
「じゃあ、これを言ったら、俺を嫌うかもしれませんね……」
 似合わない暗い表情を浮かべた玲が再び和彦の胸元に顔を埋めると、くぐもった声で続けた。
「こっちに来る前、父さんに言われたんです。いい〈オンナ〉がいたら、可愛がってもらえと。……佐伯さんの正体がわかってから、俺はずっと下心がありました。下衆な意味で、佐伯さんに気に入られようとしていました」
「可愛がってもらうために?」
 玲が額を強く胸に押し当ててくる。和彦は頭を撫でながら、龍造の顔を思い描く。やはり、食えない男なのだなと実感していた。
 自分と玲を近づけることに深い意味はあるのだろうかと考えるが、そもそも和彦は、龍造という男をよく知らないし、伊勢崎組や北辰連合会という組織についても同様だ。情報がない限り、推測は無意味だ。
 もしかすると組織云々は関係なく、玲のオンナに対する執着を知ったうえで、龍造がただ煽ったという可能性もある。なんといっても息子の前で、平気で御堂を抱いていたような男だ。賢吾のように独自の常識を持っていると考えていい。
 黙り込んだ和彦が怒ったとでも思ったのか、もぞりと身じろいだ玲が上目遣いに見上げてくる。笑いかけた和彦は、玲の背を抱き寄せた。
「嫌われるというなら、こちらかもしれない。……昨日も話したけど、御堂さんが誘ってくれたのは、ぼくが塞ぎ込んでいたからなんだ。ぼくにとって特別な人間が、側からいなくなって、連絡も取れない。自分でも意外なぐらい、そのことがショックで……」
 それだけではなく、俊哉と交わした会話も、和彦の胸を重く塞いでいる。他言するなと釘を刺されたことが、まるで遅効性の毒のようにじわじわと精神を侵食してくるのだ。
「一緒に行動していて、ときどきつらそうな顔をしていましたね、佐伯さん」
「いままで、べったりした関係でもなかったのに、何かの拍子に思い出して、ああ、これが、胸に穴が空いたという状態なのかなって。君と出歩きながら、その感覚を紛らわせようとしていた」
「……その特別な人間って、佐伯さんにとって、どういう意味で特別なんですか?」
 難しい質問だなと、和彦は答えに困る。鷹津とは恋人同士ではなかったし、胸が苦しくなるような想いを寄せていたわけでもない。ただ、特殊な生活の中で、少なからず和彦の支えとなってくれ、情も交わした。
 とにかく、特別な人間――男だったのだ。
「いざ言葉にしようとすると、困るな。どう表現すればいいのか……」
「だったら、好きということでいいんじゃないですか。特別嫌いな人間がいなくなっても、あんなふうにつらそうな顔はしないと思います」
「……なんだか今は、君のほうが年上みたいだ。すっかり人生相談をしている気分になった」
「なら、人生相談の締めとして、言っておきます。どんな理由があったとしても、俺は佐伯さんを嫌いになったりはしません。むしろ俺は、弱っている佐伯さんにつけ込んだと言えるのかも」
 そんなことないよと、柔らかな口調で応じた和彦は、玲の背にてのひらを這わせる。ふと思いついたことを口にしていた。
「大学生になっても、君にはスポーツは続けてほしいな。せっかく、きれいな筋肉がついているんだし」
「もう、鈍りかけてますよ。陸上は続けないかもしれないけど、体は動かし続けたいと思っています。ジムに入ってみようかな」
「運動系のサークルに入ってみるのは?」
「そうですね……。時間があれば、入ってもいいかも――」
 玲が大きくあくびをして、抱きついてくる。つられて和彦もあくびをすると、玲の頭に顔を寄せた。
 性欲を満たしたあとに、即、睡眠欲を満たそうとする自分たちは、まるで動物そのものだなと思いながらも、不思議と罪悪感や嫌悪感とは無縁でいられた。
 自分は、伊勢崎玲という存在に癒してもらったのだなと、ふっとそんな考えが和彦の脳裏を過った。




 よく手入れされた庭と、生活感の象徴のような洗濯物が一体となった光景は、妙に心落ち着く。
 そんなことを考えながら和彦は、縁側に腰掛けてぼんやりとしていた。
「――今日は天気がいいから、すぐに乾くよ」
 前触れもなく背後から声をかけられ、慌てて振り返る。いつの間にか御堂が立っていた。
「すまなかったね、お客さんなのに、洗濯なんてさせてしまって」
「あっ、いえ、連休の間、お世話になったのに、こんなことしかできなくて……。見ていると、御堂さんのほうがなんでも手際がいいですから」
「わたしは、物の片付けだけが、いまいちなんだ。それ以外のことは、まあ一通りね。君もそういうタイプだろう?」
「ぼくは、必要最低限という感じです。今日でお暇するので、少しぐらいお役に立ちたかったんですけど……」
 どぎまぎしながら答える和彦の隣に、御堂も腰掛ける。
「そうか、今日で、君も玲くんも帰るんだな。君とじっくり話すつもりだったのに、なんだかバタバタしてしまって、あまり込み入った話はできなかった。君ら二人が寛いでくれていたようだから、結果的によかったけど」
 ふいに御堂が言葉を切る。和彦は庭を眺めながら、自分の横顔に向けられる視線に気づいていた。
 庭に干した洗濯物は、シーツや浴衣だけではなく、和彦の服も混じっているのだが、それが小細工であることを、おそらく御堂は見抜いている。その証拠に、こんなことを言われた。
「さっき廊下で玲くんと出くわしたけど、朝のジョギングをして戻ってきたところだって言うんだ。なんと言うか、元気だね。君なんて、〈まだ〉ぐったりしているのに」
 危うく、飛び上りそうになった。和彦は困惑しながら、御堂の反応をうかがう。
「あの……」
「彼は、知っていたんだろ。伊勢崎さんが言っていた。自分の武勇伝なんてものは話したことはないが、わたしの――オンナの話はよく聞かせていたと。迷惑な英才教育というべきか、洗脳というべきか。なんにしても、若い子には、毒だ」
 御堂の口元に浮かぶのは、淡い苦笑だった。だが次の瞬間には、身が竦むような怜悧な眼差しを向けられ、和彦は反射的に背筋を伸ばす。
「君にとっても、毒になるかもしれない」
「……玲くんが、ですか?」
「長嶺父子も大概食えないが、伊勢崎父子も、かなりのものだよ」
「それはどういう……。玲くんは、普通の高校生ですよね?」
「今は、かな」
 意味ありげに呟いた御堂が、ポンッと和彦の肩を軽く叩いて立ち上がる。
「さて、玲くんも戻ってきたことだし、朝食にしよう。といっても今朝は、外で食べるつもりなんだけど。――綾瀬さんが、お礼も兼ねて、君たちを誘いたいと言ってね」
 和彦が目を丸くすると、諦めてくれと言いたげに御堂は首を横に振った。
「あの人も忙しい人だし、玲くんも今日の昼にはここを出るから、一緒に食事するとなると、朝食ぐらいしかないんだ。……自分と伊勢崎さんの再会が、殺伐としたものにならなかったのは、君らがいてくれたおかげ、と言いたいんだろう、綾瀬さんは」
 一瞬、複雑そうな表情を見せた御堂に対して、どういう意味かとは問えなかった。
 せっかくの綾瀬からの誘いを断ることもできず、慌ただしく身支度を整えて玄関に向かうと、困惑顔で玲が待っており、和彦と目が合うなり、こうぼやいた。
「俺……、走って戻ってきて、シャワーも浴びてないんですよ。一応着替えて、制汗剤も使ったけど、多分まだ、汗臭いです……」
 笑いかけようとした和彦だが、失敗した。明け方まで包まれていた玲の汗の匂いを思い出し、胸の奥が妖しく疼く。いまさらながら、目の前の〈高校生〉と体を重ねたのだという現実に、戦いていた。
「大丈夫だよ。この距離でも気にならないんだから。それに、煙草臭いとか、酒臭いとかじゃないんだから、健康的だ」
「……男子高校生の醸す男臭さを甘く見ないでくださいね、佐伯さん。体育の後なんて、更衣室の臭さは半端じゃないんですから」
「想像はつくよ。ぼくだって高校生だったときはある」
 砕けた口調で会話を交わしながらも、互いが相手を意識しているのは、強く感じていた。和彦のほうは微妙に視線を逸らそうとするのだが、対照的に玲は、強い眼差しをまっすぐこちらに向けてくる。
 夜が明けたら夢は終わり、何もなかったふりをする――。その約束自体が無理だったのではないかと、すでに和彦は危機感を抱きつつあった。
 もう一度釘を刺しておくべきなのかと逡巡している間に、御堂もやってきて、三人は玄関を出る。
 家の前には、二台の車が待機していた。驚いた和彦と玲は、同じタイミングで御堂を見る。
「あの、これ――」
「綾瀬さんの気遣いだと思って、何も言わず乗ってくれ」
 澄ました顔で言った御堂に追い立てられるようにして、和彦と玲は車の後部座席に乗り込む。御堂は、もう一台の車に乗るのかと思ったが、同じ車の助手席に乗った。
 車が走り出してすぐ、御堂が説明してくれた。
「君らが、厳重な護衛を嫌がっているのはわかっているんだが、さすがに、清道会の組長補佐である綾瀬さんが招待しておきながら、君らに護衛をつけなかったというのは、外聞が悪い。まあ、組の事情だと思って、我慢してほしい。行き帰りのことだけだから」
「神経を使って大変ですね。護衛のこととか、組の事情とか……」
 溜息交じりに玲が言うと、助手席から振り返った御堂が口元を緩める。
「君も、高校を出たら他人事ではなくなるんじゃないか」
「俺ですか……?」
「大学に通いながら、伊勢崎さんの跡を継ぐために、組の仕事を学ぶ予定はないのかい。高校生の間は、地元だから目立つこともできないだろうが、進学でこっちに来るなら、そういう意味では自由にできるだろう」
 このとき和彦は、自分だけが取り残される形で、玲と御堂が共通の言語で唐突に話し始めたような、奇妙な感覚に襲われていた。
 わずかに目を見開き、二人を交互に見遣る。寸前まで、自分の汗臭さを気にしている様子だった玲は、今はひどく大人びた横顔を見せており、御堂は、色素の薄い瞳に冴え冴えとした光を湛えている。
 短く息を吸った玲が、横目で和彦を一瞥したあと、落ち着いた口調で答える。
「――俺は、古臭いヤクザにはなりたくありません。組の仕事にも興味はないですし」
 でも、と玲は言葉を続ける。
「新しい環境で心境の変化があれば、もしかすると、高校生の立場ではできなかったことに、挑戦してみるかもしれません」
「それは、君のお父さんが今、こっちで準備していることと関係がある?」
「あの人、何かしているんですか。てっきり、ホテルの部屋に女の人を連れ込むか、あちこちの店を飲み歩いているのかと思ってました」
「……そうだとしたら、こちらも安心できるけどね。わたしが報告を受けた内容は、ちょっと――、いや、かなり違う」
 そこまで言って御堂が、ようやく和彦を見る。ふっと眼差しが和らぎ、この瞬間、自分だけが取り残されていたような感覚が消え去った。
 何事もなかったように御堂が正面を向く。和彦は困惑しながら、たった今交わされた二人の会話を頭の中で反芻する。具体的なことは何一つわからないが、ただ、ぼんやりと湧き起こるものがあった。
 伊勢崎玲という青年は、本当にただの高校生なのだろうかという疑問が。


 ホテルのレストランでの朝食の味は、正直よくわからなかった。
 同じテーブルについた玲と御堂、そして綾瀬との一見和やかな会話に加わりながら、和彦はさりげなく視線を周囲のテーブルへと向ける。一つのテーブルには、和彦たち三人の移動中からついていた護衛が。別のテーブルには、綾瀬の護衛が座っている。
 いまさら、この状況について何か言うつもりはないのだが、護衛に囲まれている自分の立場については、あれこれと思いを巡らせる。
 酸味の強いオレンジジュースを一口飲んだところで、吸い寄せられるように玲と目が合った。周囲を、特殊な立場にある大人たちに囲まれながらも、玲は落ち着いて見えた。
 地元では護衛はついていないと言っていたが、本当なのだろうかと、今になって疑ってしまう。車内での御堂とのやり取りが、和彦は引っかかっていた。
 玲とは、知り合ってほんの数日――数十時間しか経っていない。それで、玲のことを知った気になったのは、体を重ねたからだ。そんな自分のささやかな驕りを突き崩されたようで、知らず知らずのうちに和彦の頬は熱くなる。
 自戒も込めて、自身に言い聞かせるのは、玲のことはもう知りたくないし、知ってはいけないということだ。
 穏やかな表情で玲に話しかけていた綾瀬が、さりげなく腕時計に視線を落とす。すかさず御堂が声をかけた。
「仕事の時間が近いんでしょう? どうぞ、行ってください。みんな、ほぼ食事は終えていますから、誘っておきながら失礼だ、なんて言いません」
「そう言って、さっさと俺を追い払いたいんだろう」
「そんな薄情なことは思っていませんよ。ただ、気遣っているだけです。いろいろと、忙しいのでしょう?」
 いろいろと、という単語に微妙な含みを感じたのは、和彦だけではなかったようだ。綾瀬は目を眇め、物言いたげな様子で御堂を眺めていたが、ふっと口元を緩めた。
「では、お前の言葉に甘えることにしよう」
 こう言ったあと、綾瀬は慌ただしく立ち上がり、次の瞬間には、護衛の男たちも倣う。綾瀬は、玲の肩に手をかけ、親しげに声をかけたあと、和彦の側までやってきた。思わず立ち上がろうとしたが、その前に、やはり肩に手をかけられた。力を込められたわけでもないのに、それだけで動けなくなる。
 綾瀬が、スッと耳元に顔を寄せ、低くしわがれた声をさらに潜めて言った。
「君も大変だろうが、時間があるときでいい、今後も秋慈の話し相手になってくれ」
 和彦が目を丸くすると、綾瀬は軽く一礼してテーブルを離れた。
「――あの人、なんだって?」
 綾瀬の後ろ姿が見えなくなってから、御堂が微笑を浮かべて問いかけてくる。
「あー、いえ、今後もよろしく、というようなことを……」
「何を頼まれたにせよ、真剣に受け止めなくていいから。君自身が大変な状況で、他人のことまで気にかけていられないだろう」
 どうやら御堂には、綾瀬が何を言ったのか察しはついているようだ。和彦は首を横に振る。
「大変なのは否定しませんが、だからこそ、御堂さんと話ができるのは、ありがたいです。ぼくのほうこそ、話し相手になってくださいと、お願いしたいぐらいです」
「綾瀬さん、そんなことを君に頼んだのか。わたしの話し相手になってほしいと」
 しまったと、和彦は顔をしかめる。
「わたしのほうは、願ったり叶ったりだ。――まあ、〈誰か〉は確実にいい顔はしないだろうが、君が望めば、表立って嫌とは言えないはずだ」
 咄嗟にある人物の顔が思い浮かんだが、あえて名を出すまでもないだろう。
 実家にまで泊めてもらっておきながら、改めて、今後もよろしくお願いしますと挨拶をするのは、妙な感覚だった。
 朝食を終え、そろそろ店を出ようかという雰囲気が漂い始めた頃、和彦は先に席を立ち、一人でレストルームへと向かう。護衛がついてこようとしたが、さすがに断った。
 運よくレストルームには和彦以外、誰もいなかった。洗面台の前に立つと、おそるおそる鏡に映る自分の顔を見る。とりあえず、いつも通りの自分がそこにいると思った。神経を張り詰めてはいたが、気だるさや淫靡な雰囲気を漂わせていては、目も当てられない。目元などに残る疲労感については、仕方がないと思うしかない。
 和彦はため息をつくと、汗ばんだ手を洗う。すると、誰かがレストルームに入ってきた気配がした。何げなく顔を上げて、ドキリとする。鏡越しに、洗面台に歩み寄ってくる玲が見えた。
 慌てて水をとめた和彦は、ハンカチを取り出しながら洗面台の前から退く。
「ぼくは先に出ているから――」
 玲の横を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。ハッとして玲を見ると、ひどく苦しげな顔をしていた。さきほどまで、愛想よく大人たちの会話に加わっていた青年と同一人物とは思えない。
「玲くん……?」
「――……佐伯さんの態度が、気になったんです。車の中で、俺と御堂さんが話をしてから、なんとなく、佐伯さんがよそよそしくなったみたいで。それに食事をしている間は、得体が知れないものを見るみたいに、ときどき俺のことを見てました」
 聡い子だなと、内心で驚きながらも和彦は、感情が表に出ないよう努める。
「気のせいだよ。……ちょっと驚いただけだ」
「佐伯さん、ヤクザは嫌いですか?」
「そんなことは言ってないっ」
 思わず声を荒らげた和彦は、すぐに我に返って口元に手をやる。
「……嫌いなんて言う権利はない。ぼくは、そのヤクザの稼ぐ金で生活しているんだから」
「じゃあ、俺のことは嫌いですか?」
 玲に試されていると、一瞬にして悟った。キッと睨みつけ、腕を掴む玲の手を振り払う。
「言っただろう。夜が明けたら、夢は終わりだと。君はあくまで、連休の間、一緒に連れ立ってあちこち行っただけの仲だ。だから、互いの事情に首は突っ込まない。……そのほうが、いい別れ方ができる」
 そう言い置いて和彦は、足早にレストルームを出る。出入り口のすぐ側に護衛の男たちが立っていたため、不意をつかれて面食らい、視線を逸らした先に、御堂が立っていた。和彦は、ちらりと背後を振り返ってから、御堂の元へと行った。
「御堂さん、聞きたいことがあるんですが……」
 声を潜めて話しかけると、灰色の髪を掻き上げて御堂は薄い笑みを浮かべた。
「玲くんとの、車の中での会話のことかな」
「……普通の高校生だとばかり思っていたので、あの物言いが気になって」
 どうしようかと思案するように、御堂が小首を傾げる。
「伊勢崎組が絡む案件は、しばらくは清道会と、第一遊撃隊で独占しておきたかったんだけどね。君に教えるとなると、執念深くて勘がいい誰かも、首を突っ込みたがるだろうな」
「やっぱり玲くんは、組の仕事に関わるつもりなんですか?」
「それはなんとも言えない。あの子自身がどこまで関わる気があるのか、わかっているのは、本人だけだ。わたしも昨夜、気になる報告を受けたばかりなんだ。――おそらく伊勢崎組長は、こちらへの進出を踏まえた動きをしている、と」
「進出って……」
 色素の薄い瞳が、ゾクリとするほど冷徹な光を湛える。その目で一瞥された和彦は、そっと息を呑んだ。
「事業を始めたいということで、物件を探しているそうだ。どうやら動いているのは伊勢崎組の者だけのようで、北辰連合会がどこまで噛んでいるかまでは不明だが。総和会に名を連ねる組が治める縄張りに、得体の知れない外部の組が入り込んできたらどうなるか、なんとなく想像はつくだろう」
「……入り込まれた組は、おもしろくないですね」
「ああ。ただそうだとしても、いきなり手を出して、抗争沙汰にはしない。あくまで話し合いで、平和的に事を運ぶ。一応、そういうことになっている。それに、例えば地方から出てきたばかりの初々しい大学生が、表看板として動いているとなれば、なおさら迂闊なことはできない。組の人間が何より避けたいのは、一般人を巻き込む事態だ。その一般人の父親が、何者であろうとね」
 ここまで聞いて和彦は、あっ、と声を洩らす。玲との会話を思い出していた。
 龍造が息子の進学に関して求めているのは、大学のランクではなく、こちらで大学生という身分を手に入れることだと、玲自身が話していた。それを聞いたとき和彦は、何かありそうだと感じたのだ。
 車中で玲と交わした会話の大半は、他愛ない世間話だ。しかし、綾瀬がわざわざつけてくれた部下が、微笑ましい気持ちで聞き流してくれるとは思えない程度に、和彦は裏の世界に染まっている。綾瀬だけではなく、御堂の耳にも入っていると考えるべきだろう。
 和彦はすべてが腑に落ちたような、妙に清々しい気分で苦笑を洩らしていた。
「――……長嶺父子とのつき合いで、骨身に刻みつけられたと思っていたんですけどね」
「この親にしてこの子ありと?」
 和彦が応じようとしたとき、玲がレストルームから出てくる。軽く周囲を見回してから、まっすぐこちらを見たので、咄嗟に和彦は視線を逸らしていた。


 ホテルでの朝食から戻ってきた和彦は、自分が使っている部屋を簡単に片づけると、やることがなくなってしまう。
 今日、自宅マンションに戻るのだが、総和会からの呼び出しをうまく避けられるよう、連休を目一杯使ってこいと賢吾に言われているため、夕方近くまで御堂の実家に滞在させてもらうことになっている。つまり、それまで暇なのだ。
 散歩にでも出かけたいところだが、そうなると、近くにあるという清道会の事務所から、わざわざ護衛のための組員を呼ぶことになる。その手間を思うと、考えるだけで億劫だ。
 同じ屋根の下にいる御堂は誰かと電話で話し込んでおり、見るからに忙しそうな様子に、とても話し相手になってほしいとは言えない。
 朝食後に聞かされた、伊勢崎父子の動向について気になっているのだが――。
 Tシャツに着替えると、体に残る疲労感に耐えかねて、畳の上をごろりごろりと寝転がっていた和彦だが、覚悟を決めて起き上がる。
 ここに戻ってくる車中では、なんとなく玲と会話が交わせなかった。何事もなかったように、このまま別れてしまうのが無難なのだろうが、それを許せない自分がいる。どうせ、さまざまな感情に責め苛まれるなら、抱えた疑問を少しでも解消しておきたかった。
 和彦自身のためというのもあるが、結果として、長嶺組の――長嶺の血を持つ男たちのためになるのかもしれない。
 和彦は、静かな廊下を通って玲が使っている部屋へと出向く。玲は、帰り仕度をほぼ終えていた。バッグだけではなく、土産物などが詰まった紙袋が四つ並んでいる光景に、思わず笑ってしまう。
「すごい量だな。帰りは飛行機なんだろ」
「御堂さんが、ここから宅配で送ると言ってくれたんで、甘えることにします」
「それがいいよ」
 ここで会話が途切れる。和彦が立ち尽くしたまま次の言葉を迷っていると、畳の上に胡坐をかいて座り込んだ玲が、自分の傍らを手で示した。和彦は引き戸を閉めると、玲の側に座る。
「――もうすぐ君の迎えが来るようだから、最後にきちんと挨拶をしておこうと思ったんだ。ホテルでは、大人げない態度を取ってしまったし」
 ようやく和彦が切り出すと、玲はほっとしたように顔を綻ばせた。
「変だと言われるかもしれませんけど、嬉しかったです。佐伯さんが、俺のことでムキになってくれて」
「それは……、変だ」
 玲は短く声を上げて笑う。子供扱いしていたわけではないが、玲が怒るか、拗ねているのではないかと覚悟していただけに、笑顔を見せられるのは予想外過ぎた。
「連休中、君と一緒で楽しかった。本当に、いい息抜きができた。ありがと――」
 前触れもなく、玲が畳に片手を突いたかと思うと、いきなりこちらに向かって身を乗り出してくる。和彦は驚きのあまり、まったく動けなかった。玲が、息もかかる距離まで顔を寄せ、今度は寂しげな表情となる。
「……本当に、何もなかったように振る舞うんですね。やっぱりこういうところで、経験の差が出るのかな。佐伯さんは平気そうな顔をしてるけど、俺は……つらくて堪らない、です」
 ハッと我に返った和彦は立ち上がろうとしたが、その前に玲にしがみつかれて、二人一緒に畳の上に倒れ込む。わけがわからないまま身を捩ろうとしたが、のしかかってきたしなやかな体は意外な強靭さと強引さを見せ、和彦は押さえつけられていた。
「玲くんっ……」
「本当に、俺のほうが強いみたいですね」
 気負った様子もなく玲がこんなことを言い、和彦はムキになって反論する。
「君に怪我をさせられないから、手加減しているんだからな。だいたい、ふざけているにしても、やりすぎだ」
「ふざけてないです。あなたに触れたいんです。もっと」
 玲にきつく抱き締められて、一瞬息が詰まる。上目遣いに見つめてくる玲の眼差しは熱っぽく、切迫感に満ちていた。
「……夜が明けたら、夢は終わりだ。何度も言わせないでくれ。……本当に、君には申し訳ないことをした。子供に、自分勝手な理屈を押し付けた。ぼくはどうかしていた」
「そんな言い方しないでください。まるで、悪いことをしたみたいに」
「悪いことだよ。悪い大人たちが君に吹き込んだことは全部、忘れるんだ。君は受験勉強をして、大学に合格して、普通の大学生に――」
 ふっと言葉を切った和彦は、玲の目を覗き込む。
「君は、組の仕事に関わるのか? ヤクザになるのか?」
 玲が怖いほど真剣な顔となり、上体を起こす。ただし、腰の上にしっかりと乗られたため、抜け出すことはできない。
「本当のことを話さなかったら、佐伯さん、春まで俺のことを、少しは気にかけていてくれますよね」
「……いや。この家で別れたら、思い出さない。きっともう、ぼくと君が会うこともないだろうし」
「佐伯さんはともかく、俺はどこにでも行けますし、誰とでも会えます。なんといっても、普通の大学生になる予定ですから」
 やはり、組長の息子というものは食えないと、和彦は苦々しく思う。脅されているのかもしれないが、玲の口調は切実で、悪意とは無縁に思える。それどころか――。
 和彦は軽くため息をつくと、伸ばした片手で玲の頬を撫でる。それだけで玲は、心地よさそうに目を細めた。
「もう、気は済んだだろう。君は夢の中で〈オンナ〉に触れて、好奇心は満たされたはずだ。現実的に考えたら、ぼくは、君より一回り以上も年上の男だ。しかも、面倒な事情をたっぷり抱えている。脅すわけじゃないが、ぼくの背後にいるのは、怖い男と組織ばかりだ」
「俺のこと、心配してくれているんですね」
「都合よく受け止めるなっ。ぼくがっ……、これ以上の面倒は嫌なんだ」
「父さんが言ってました。特別なオンナには、面倒くさい環境や事情がつきものだって。だけどそれが、オンナを守る檻になるとも」
 玲の発言を聞いた和彦は、前に御堂が、本物の檻に閉じ込められた経験があると仄めかしていたのを思い出す。誰がそんなことをしたのか、なんとなく察しがついた。
「俺はまだガキなんで、大人や組織の難しいことはわからないですし、考えたくないです。受験生だし」
「……便利な言い訳だな」
「便利だから、今のうちに使っておかないと、もったいないなって……」
 悪びれない玲の物言いに、つい和彦は、ふふっ、と声を洩らして笑ってしまう。慌てて表情を取り繕おうとしたが、もう遅い。和彦が本気で怒っているわけではないと瞬時に理解したらしく、玲が再び覆い被さってきた。
「おい、こらっ、退くんだ」
 和彦は窘めるが、すでに玲の目の色は変わっている。
「玲、くん……」
「オンナじゃなく、あなたを抱きたい。佐伯和彦という、一回り以上年上の男の人を」
 玲の囁きが体の内に入り込む。繊細で感じやすい部分をくすぐられたようで、和彦は甘い眩暈に襲われていた。
 昨夜、さんざん身をもって実感していたはずなのに、改めて思い知らされる。高校生とはいっても、自分に覆い被さっているのは紛れもなく、若くしなやかな体と心を持った青年――男なのだ。
「ダメ、だ。もう、君とは――」
「嫌です。したいです、あなたと。また、あなたの中に入りたいです」
 困らせないでくれと言う和彦の声は、自分でもわかるほど弱々しかった。
 これ以上の言葉は必要ないとばかりに玲が唇を重ねてくる。昨夜とは比較にならないほどの大胆さで激しく唇を吸ってきたかと思うと、口腔に舌を捻じ込んでこようとする。余裕がなく、覚えたばかりの行為をひたすら行おうとする玲にいじらしさすら感じ、そうなると、もう和彦はダメだった。
 決して、同情したわけではない。玲がぶつけてくる情熱と情欲に、和彦の官能が刺激されたのだ。
 意識しないまま玲の腕に手をかける。拒むためではなく、受け入れるために。和彦の変化に気づいた玲が動きを止める。
「……悪い子だな」
 そっと和彦が洩らすと、玲はちらりと笑みを見せ、次の瞬間には引き締まった表情となった。
 Tシャツの下に遠慮がちに手が入り込んできたが、和彦が制止しないとわかると、大胆に捲り上げる。
「あっ……」
 電気をつける必要もないほど、外からの陽射しが差し込んでくる室内は明るい。昨夜、ささやかなライトの明かりの下で残された愛撫の跡を、こんな形で、残した本人に見られるのは、ひどく羞恥心を刺激される。同時に、被虐的な愉悦も。
 和彦は顔を背け、震えを帯びた息を吐き出す。玲から向けられる眼差しは、まるで愛撫そのものだ。直接触れられているわけでもないのに、胸元を撫で回されているような錯覚を覚える。
「これ全部、俺がつけたんですね。こんなにはっきりと、キスマークを――」
 指先が胸元を滑り、それだけで和彦の呼吸が弾む。さらに玲が胸元に唇を押し当ててきたとき、じんわりと肌に伝わってくる熱さに、小さく声を上げていた。それが若い情熱を煽ったらしく、強引にTシャツを脱がされた挙げ句、パンツにも手がかかる。
 反射的に玲の手を押し退けようとした和彦だが、物言いたげに見つめ返されて、それ以上のことはできなかった。
「――この家で、俺と佐伯さんのことを咎められる人は、いないですよね」
 きっと今、玲の脳裏にあるのは、自分の父親と御堂が畳の上で絡み合っていた光景なのだろう。悪い大人たちが、玲を刺激し、煽って、急速に成長させてしまった。
 もちろん、その悪い大人の一人は、和彦だ。
 玲にされるがままとなり、何も身につけていない体を畳の上で曝け出す。体をまさぐる玲の手は汗ばみ、燃えそうなほど熱かった。そして和彦自身の体も、熱を帯び始める。
 玲は、昨夜の自分の愛撫を辿るように、和彦の肌に唇を押し当て、強く吸い上げる。すると、より鮮やかな鬱血が残る。さりげなく玲の指先が、胸のある部分を掠めた。
「あっ」
 和彦が声を上げると、玲が見上げてくる。和彦の反応を確かめるように、もう一度、硬く凝った胸の突起を指先でくすぐる。今度はピクリと胸を震わせると、玲は満を持したように突起を口腔に含んだ。
「あっ、あぁっ――……」
 熱く濡れた感触に包まれ、いきなり痛いほど強く吸われる。だが、和彦の胸に広がったのは、小さな快感の波だった。もう片方の突起は指の腹で押し潰すように弄られ、摘み上げられる。
 ようやく顔を上げた玲が、真っ赤に色づき、先端を尖らせている突起を満足げに見下ろす。
「……ここも、気持ちいいんですね。すみません。昨夜は気づかなくて」
 高校生にまじめな口調でこんなことを言われると、どんな卑猥な言葉を囁かれるよりも恥ずかしい。うろたえて返事もできない和彦に対して、玲はふっと目元を和らげた。
「今の顔、可愛いです」
「なっ……に、言ってるんだっ……。この状況で、人をからかうな」
「からかってないです。本当に――」
 誘惑に抗えないように、玲が再び突起に吸いつき、今度はそっと歯を立ててくる。甘噛みされて、ジンと胸が疼いた。
 夢中で愛撫しているようで、玲はしっかりと和彦の反応をうかがっている。優しく舌先でくすぐりながら、ときおり乱暴に吸い上げ、さらに歯列を軽く擦りつけてきて、和彦がどのタイミングで切ない声を上げるか知ると、執拗に同じ愛撫を繰り返すのだ。
「――昨夜より、余裕がある」
 玲の少し硬い髪を撫でながら和彦は呟く。顔を上げた玲が、すかさず唇に吸いついてきた。
「俺、ですか?」
「君以外、誰がいる」
「全然、余裕なんてないです。もう、こんなになってますから……」
 唇を触れ合せながら玲が身じろぎ、何をしているのかと思ったとき、和彦の両足の間にぐっと押しつけられたのは、高ぶった欲望だった。
 和彦は視線をさまよわせつつ、こう言わずにはいられなかった。
「すごいな、十代っていうのは。……なんか、怖くなってきた」
「でも、いいですよね?」
 すでにもう、慣れた手つきで玲の指が秘裂に這わされ、容易に内奥の入り口を探り当てる。昨夜の激しく濃密な情交の余韻は、まだしっかりとその部分に残っている。形だけの慎みを取り戻すこともできず、まだ柔らかく蕩け、熱を帯びて疼いているのだ。
 玲の指に擦り上げられ、和彦は細い声を洩らす。興奮したように玲が喉を鳴らし、上体を起こした。膝に手がかかり、何を求められているのか察した和彦は、自ら両足を抱えるようにして曲げて左右に開く。身を貫くような激しい羞恥は、屈辱感ではなく、官能を煽る媚薬となった。
 和彦の生々しい男の部分を見ても、昨夜同様、玲は怯むことはなかった。それどころか、黒々とした瞳に宿る情欲の火が、一際大きくなったかもしれない。
「……昨夜、俺はここに――」
 玲が独り言のように洩らしながら、指を濡らさないまま内奥に押し込んできた。引き攣れるような痛みはなかった。その理由を、玲が口にする。
「よかった……。中、柔らかいままだ。それに奥は、ヌルヌルしてますね。いっぱい出しましたから、俺」
 半ば強引に二本の指が付け根まで挿入される。さんざん広げられ、擦り上げられた内奥は、簡単に官能の扉を開き、侵入者を嬉々として迎え入れ――咥え込む。
「んっ、あっ、あっ……ん」
 朝の慌ただしい中、御堂や玲に悟られないよう、情交の後始末を行うのは大変だった。汚れたものを洗濯する間、ゆっくりとシャワーを浴びる時間があるはずもなく、最低限の身支度を取り繕うことしかできなかったのだ。内奥に残されたものを自分で掻き出しはしたが、もちろん完璧ではない。
 玲の指が内奥から出し入れされ、唾液を施すまでもなく、奥に残った残滓によって襞と粘膜は湿りを帯びてまとわりつき、吸いつく。
 和彦は腰を揺らし、息を喘がせる。玲が見ている前で、欲望がゆっくりと身を起こし、先端をしっとりと濡らしていた。
「やっぱり、エロいな、あなたは。ずっと、こうして見ていたい……」
 内奥から指が引き抜かれ、浅ましくひくつく。その様子すら、すべて玲に見られる。
「……佐伯さんの今の姿、スマホで撮っていいですか?」
 再び、内奥に指が挿入される。それだけで肉の悦びが湧き起こり、吐息を震わせた和彦は、玲の発言を理解するのに十秒ほど時間を要した。
 ハッと我に返り、目を見開く。
「バカっ、何を言い出すんだ。高校生のうちから、ロクでもないものを観て、影響を受けてるんじゃないかっ……」
「俺、春まで佐伯さんと会えません。いくら、目に焼き付けておいても、記憶は絶対に薄れます。だから、映像として残しておきたいんです。いつでも眺められるように」
 玲は本気で言っていた。だからこそ、困るのだ。和彦はこれまでに浅ましい姿を撮られた経験はあるが、はっきり言って、トラウマになるほど嫌な記憶となっている。玲本人に悪意はなくても、それ以外の人間が悪意を持って利用する可能性はいくらでもある。
「ダメだ。……恥ずかしい、から……」
 本当の理由は、玲には言えない。しかし、今すぐではなくても、玲なら察するはずだった。
「こんなに、きれいなのに――」
 機嫌を損ねた様子もなく、名残惜しげにそんなことを言った玲が、覆い被さってくる。和彦は、両腕でしっかりと抱きとめた。
「……昨日から思っていたけど、君は末恐ろしいな」
 和彦の言葉に、玲がちらりと笑む。
「俺、ヤクザになりそうに見えますか?」
「そういうことじゃなくて……、すごいタラシに、なりそうだ」
 瞬く間に笑みを消した玲が唇を塞いできながら、もどかしげに腰を動かし、内奥の入り口に熱く硬い感触を押し当ててきた。先端を擦りつけられたかと思うと、一気に挿入された。
 それでなくても敏感になっている襞と粘膜を強く擦り上げられ、電流にも似た快感が繋がった部分から這い上がっていく。和彦は玲にしがみつきながら、ビクビクと腰を震わせていた。
 内奥の感触を堪能するように、玲はすぐには動かなかった。おかげで和彦も、内奥で息づく逞しい感触をじっくりと感じることができる。二人は荒い呼吸を繰り返しながら、さらに繋がりたいとばかりに、唇を吸い合い、舌先を擦りつけ合う。
「――好きです、あなたのこと」
 ようやく緩やかな律動を刻み始めたところで、唐突に玲が告白してきた。畳の上ですっかり蕩けていた和彦は、汗が浮かんだ凛々しい顔を撫でる。
「ありがとう……」
「……本気にしてないですね。それとも、高校生がセックスを覚えたばかりでのぼせ上がっている、と思ってますか?」
「真剣に受け止められない程度には、ぼくは経験を積んでる。今だって、同時に何人もの男と関係を持ってる。君の好意は、ぼくにはもったいなさすぎる」
「でも、俺の好意なんだから、誰に押し付けようが、かまわないですよね」
 気の迷いだとか、錯覚だとか、まさに今玲が言ったように、のぼせ上がっているだけとか、忠告の言葉はいくらでも頭に浮かぶ。だが、一心に見つめてくる玲の眼差しがあまりに心地よくて、和彦はずるい大人にならざるをえない。つまり、返事を避けたのだ。
 顔を背けると、首筋に唇が這わされる。内奥深くを一度だけ突き上げられ、全身が震えた。もう一度突き上げられて、甘ったるい悦びの声を上げる。歓喜する内奥がきつく収縮し、欲望を逃すまいと締め付ける。玲が耳元で苦しげに洩らした。
「すげー、気持ち、いい……」
 玲が、単調な律動によって生み出される快感に夢中になり、そんな玲に和彦も引きずられる。
「あっ、あっ、あうっ……、くっ、うぅっ」
 突き上げられるたびに和彦の背が畳と擦れる。それに気づいた玲が背に両腕を回して庇ってくれる。示された気遣いに口元を緩めた和彦だが、間断なく内奥深くを攻められて、すぐにその余裕もなくなる。
 室内に、二人の荒い息使いと、淫靡な湿った音が響く。まるで追い立てられるように快感を貪っていた。
 玲の引き締まった下腹部に擦り上げられて、和彦の欲望が精を迸らせる。それを、内奥の反応によって知ったらしく、玲が囁いてきた。
「よかった、イッてくれたんですね」
 ゾクリと甘美な震えが走り、和彦は上擦った声を洩らす。耳元で玲がため息交じりに続けた。
「……やっぱり、少しだけでも、スマホで撮っておきたかった。せめて、声だけでも」
「何、言って――」
「今の声、すごく可愛かったから……」
 一方的に動揺させられるのが悔しくて、玲のうなじから髪の付け根にかけて指でまさぐる。思っていた以上に効果的だったらしく、玲が呻き声を洩らした。疾駆を続けている獣のように力を漲らせていた体が震え、一気に弛緩する。
 内奥深くに精を注ぎ込まれていた。和彦は熱い体を抱き締め、満たされる感覚に恍惚とする。もしかすると、軽い絶頂に達していたかもしれない。
「――春までです。春まで、俺のことを覚えていてください」
 体を繋げたままぼそぼそと玲が言う。和彦は気だるい仕草で玲の頭を撫でながら応じた。
「春からは?」
「俺が、あなたの前に現れます。そうしたら、あなたに忘れられるかもしれないと、不安になる必要もなくなります。……地元に戻ったら、受験勉強がんばらないと」
「君が、ただの大学生として、ぼくの目の前に現れるなら、進学祝いぐらいはしたいけど――……」
 和彦は、玲の両目を覗き込む。印象的な黒々とした瞳は、奥に潜む存在を一切うかがわせない。ごく普通の高校生である証明か、この年齢にして、巧みに本性を隠しているのか。
「……ぼくの信条があるんだ。今のような生活を送るようになってから、体に否応なく叩き込まれたものだけど」
「なんですか?」
「ヤクザの言うことは信用するな」
 玲は目を丸くしたあと、清々しい笑顔を浮かべた。その笑顔の意味を、体を離したあとも和彦は尋ねることはできなかった。


 玄関に荷物を運んだ和彦は、その足でダイニングに向かう。御堂がコーヒーを淹れてくれていたのだ。
「一人いなくなっただけで、ずいぶん寂しくなったね」
 イスに腰掛けた和彦の前にカップを置き、御堂がそんなことを言う。一足先に出発した玲のことを指しているのだ。
 わずかに心臓の鼓動が速くなるのを自覚しながら、和彦は頷く。
「そうですね。ずいぶん存在感のあった子ですから、余計、そう感じます」
「彼は君に懐いていたけど、連絡は取り合うのかい?」
「……いえ。彼はともかく、ぼくのほうはいろいろと複雑なので、もし迷惑をかけたら申し訳なくて。だから――」
 不思議と和彦と玲の間では、携帯電話の番号やメールアドレスを交換しようという話題すら出なかった。
『春まで』と玲は言った。二人の関係が今日で途切れてしまったのかどうか、わかるのは約半年後だ。
「君まで帰ってしまったら、わたしは寂しくて堪らない。昔は、人の出入りが多すぎて、よくも悪くも落ち着かない家だったからね。まあ、今回で、最後の思い出は作れたと思うよ」
 ここでなんとなく二人は顔を見合わせ、示し合せたように複雑な表情となっていた。和彦の脳裏に浮かんだのは、高校生である玲との大胆でふしだらな一連の行為だが、御堂は――。
「伊勢崎さんが、玲くんを連れて押しかけてきたときに、予感めいたものはあったから、いまさら驚きも怒りもしないんだけど、さすがに、君と玲くんに〈あれ〉を見られたのは、予想外だった」
 御堂から、すべてを見通したような静かな眼差しを向けられ、和彦は慌ててカップに口をつける。鋭い御堂なら、さきほどまで和彦と玲が体を重ねていたことに、気づいているだろう。和彦としても、隠し通せるとは思っていなかった。
 ここでふと、今この家にいるのは、過去にオンナだった男と、現在オンナである男の二人だけなのだなと実感する。
 本来秘匿とすべき事柄すら、御堂にだけは打ち明けたい心境となっていた。
「御堂さん、ぼくは、玲くんと――」
「伊勢崎さんと初めて関係を持ったのは、わたしが高校生のときだった」
 突然の御堂からの告白に、動揺した和彦はカップを置く。
「えっ……」
「二十年以上経って、その伊勢崎さんの高校生の息子が、君に惹かれて関係を持つというのも、不思議な縁のようなものを感じる。伊勢崎さんは今回、わたしと彼を引き合わせるのが目的のようだったけど、君もいると知って、何も企まないとは思えない。物件を探していた件といい、おとなしくはしていられない性分なんだよ、あの人は」
 それを聞いた和彦は、よほど不安そうな顔をしていたらしく、御堂は口調を柔らかくする。
「玲くんが、すべて伊勢崎さんの意向を受けて動いたとは思えない。伊勢崎組がこちらで何か始めるつもりだとしても、君と彼の出会いはまったくの偶然だ。他人からは、連休中、同じ家で寝泊まりしただけの繋がりとしか思われない。実際、どんなものだったかは、当人たちしかわからないんだし。……高校三年生ともなれば、案外物事を深く考えているし、一方で、大人が戸惑うほど無鉄砲で情熱的だ。わたしも、彼ぐらいの年齢のときはそうだった。だから、伊勢崎さんを受け入れた」
 機会があればじっくりと、御堂と伊勢崎の出会いから、関係を持つまで、そこに綾瀬が加わり、二人の男の〈オンナ〉になった経緯を聞いてみたかった。何より興味があるのは、現在に至るまでの御堂の心の変化だ。
 和彦はまだ、男たちの事情に翻弄されている最中であるため、自身の状況も気持ちすらも、俯瞰(ふかん)して見ることはできない。いつかは、御堂のように達観した口調で語れる日が来るのか、ただ知りたかった。
「――……何年経とうが、男たちの事情に振り回される立場は変わらない。多少、力を持ったつもりになっても、わたしは、綾瀬さんや伊勢崎さんは拒めない。憎たらしくて堪らない時期もあったが、それも結局は情の一つだ。変わらないんじゃなく、変わりたくないのかもしれないな。打算もあったが、大事にされたから」
「ぼくも、大事にはされています。でも、いつかはそんなときも終わりが来ると――、来てほしいと思うときもあって。でも、現実にそうなったとき、ほっとするよりも、自分が傷つくのが目に見えるんです……」
「いつか、を恐れ続けるぐらいなら、自分で早々に終わらせてしまおう。そう考えることは? 前に君、自分が飽きられるときが来ることを、覚悟しているような話しぶりだったよね」
 御堂の指摘にドキリとした。咄嗟に和彦の脳裏に浮かんだのは、父親である俊哉の顔だ。俊哉であれば、今のような生活を終わらせる手段を、きっと講じることができる。
 和彦はわずかに間を置いてから、首を横に振った。
「自分で終わらせるというのは、考えるのも怖いです。……ぼくも、情はあるんです。自分から切り捨てられない程度には」
「君は優しいね。順風満帆だった人生を奪われたというのに」
「優しくないですよ。ただ、ずるいだけです」
「それならわたしは、君よりもっとずるいよ。いや、狡猾というべきかな」
 どういう意味かと、和彦は首を傾げる。御堂は鋭い笑みを浮かべると、内緒話をするように声を潜めた。
「わたしは、君と玲くんがこの家にいる間に見聞きしたこと、感じたことは、誰にも報告しない。ただ、楽しそうに過ごしていたと報告するだけだ。どうするかは、賢吾への対応は君次第だ。何を報告して、何を報告しないか、自分で決めるといい」
「どうして……」
「賢吾は友人だが、あの長嶺守光の息子でもある。狡猾と言ったのは、そんな賢吾を利用してやろうという気持ちが、わたしの中にはあるからだ。もちろん、賢吾のオンナである君も。もっとも賢吾は、それを承知のうえで、君を送り出した。君が襲撃を受けた件で、少しばかり清道会に向けられる目が厳しくなっていたんだが、当人が祝いの席に出てくれたというのは、君自身が思っているより、感謝している人間は多い。わたしも、ね」
 男たちに大事に守られているだけの和彦とは違い、総和会の中で隊を動かす立場にある御堂は、さまざまなものを背負っている。守るべきものがあり、果たすべき義理があり、貫きたい意地があり――。
 そんな御堂に対して、やはり和彦は嫉妬めいた感情を抱くのだ。自分にはない強さを持つ男として。〈オンナ〉として男に抱かれていながら、この違いはなんなのだろうかと考えて、それ自体が恐れ多いなと、密かに自嘲の笑みを洩らす。
「――君は、自分という人間を過小評価している」
 ふいに御堂に言われ、無意識に伏せていた視線を上げる。ひどく優しい表情を向けられ、和彦はドキリとした。
「あの……?」
「わたしが見ている限り、佐伯和彦という人間は、驚くほどタフでしたたかだ。何より、愛情深い。誰に対しても。わたしが君ぐらいの歳に欲しかったものばかりを、君は持っている」
 自虐的な気持ちになった自分を、御堂は慰めてくれているのだろうかと、まっさきに和彦はそう思った。戸惑っていると、御堂は軽く肩を竦めて立ち上がった。
「……と、こんなことを言って、わたしは君を丸め込もうとしているかもしれない。わたしも、食えない極道の一人だからね」
「ぼくを丸め込むのは、簡単ですよ。すでにもう、御堂さんのことを信用していますから。それで、ぼくが手酷い目に遭わされるというなら、多分諦めがつくと思います」
 苦笑を洩らした和彦をまじまじと見つめてから、御堂は側へとやってくる。何事かと思って見上げると、ふいに頬にてのひらが押し当てられた。
「御堂さん?」
「君の周囲にいる男たちが、君を放っておけない本当の理由がわかった気がする。タフでしたたかだが、君は危うい。自暴自棄というんじゃなく、なんというか……、自分に執着していない。そんな君に、男たちは執着する」
 不思議だねと、御堂は言葉を続けた。そのたった一言が、驚くほどすんなりと胸の奥に入り込み、ほのかな熱を持つ。
 和彦は顔を綻ばせながら、そうですねと応じた。









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