と束縛と


- 第37話(2) -


 隣に座っている千尋が、大きなため息をつく。ウィンドーのほうに顔を向けていた和彦は、つい顔をしかめていた。
 車に乗り込んでからずっとこの調子で、これが一体何度目のため息なのか、両手の指を使っても足りなくなったところで、和彦は数えるのをやめてしまった。
 一体何が気に食わないのか――と聞くまでもない。わかっているからこそ和彦は、さきほどから千尋のため息に対して、聞こえないふりを続けていた。しかし、千尋も負けていない。こっちを見ろと言わんばかりに、もう一度大きなため息をつく。
 二人のあからさまな意地の張り合いに、車の前列に座っている組員たちが、さきほどから目に見えてハラハラしている。
 これ以上、車中の空気を微妙にしては悪いと、ささやかに大人としての配慮が働いた結果、和彦は横目でじろりと千尋を睨みつけ、片手を伸ばす。日に焼けた引き締まった頬を抓り上げた。
「いででっ」
「お前はさっきからうるさい。言いたいことがあるなら、言葉にしろ」
 和彦が注意をすると、途端に千尋が、恨みがましさたっぷりの視線を向けてきた。
「言っていいの?」
「……よくないけど、これ以上、鬱陶しいため息を聞かされるのは堪らないからな」
 実は聞くまでもないが、和彦に話さないと、千尋も気が済まないのだろう。
 つまり、こういうことだ。ひと月ほど塞ぎ込んでいた和彦がようやく立ち直り、久し振りに本宅に宿泊した日、たまたま千尋は、総和会本部に出向いていた。当初は深夜に帰宅する予定だったらしいが、守光に引き留められ、素直に一泊したそうだ。
「本宅に戻って、さっきまで先生がいたと教えられたときの、俺の気持ちがわかる? オヤジの奴、抜け駆けみたいなことしてさ」
 お前は三連休前に、一人でマンションを訪れた挙げ句、ちゃっかり一泊して帰ったではないか――。
 和彦はそう指摘したくて堪らないが、長嶺の男特有の強引な理屈で返されると、正直面倒だ。それにあのときは、まだ本調子とはいえず、甘えてくる千尋の情熱のすべてを受けとめることはできなかったため、拗ねる気持ちも理解できる。
「――……連絡ぐらいくれてもよかっただろ。そうしたら俺、急いで戻ったのに」
 ぼそぼそと千尋が続け、和彦の心は罪悪感で痛む。賢吾と二人きりで過ごしたことだけではなく、御堂の実家で、玲と関係を持ったことも、罪悪感に拍車をかける。
「連絡しなかったのは、悪かった。だけど、会長に呼ばれて出かけたお前を、ぼくが本宅にいるからという理由だけで、呼び戻せるわけないだろう。お前と会長に気をつかわせることになるぐらいなら、連絡しなくてよかったんだ」
「オヤジとしては、いい厄介払いができたと思ってるだろうけど」
「……そういうことを言うなよ」
 軽く窘めてから、今度は和彦がため息をつく番だった。三世代の長嶺の男たちの中で、やはりどうしても、一番若い千尋の存在が後回しになってしまうのだ。軽んじているわけではないが、和彦を従わせることができるのは誰か、という点で考えると、優先順位はおのずと決まる。
「あまり拗ねるな。近いうちにゆっくり時間を取るから」
「拗ねたくもなるよ。今夜は、先生に見せたいものがあったから――」
 意味ありげに言葉を切った千尋が、再び恨みがましさたっぷりの視線を向けてくる。
 実は今夜、千尋が誘ってくるより先に、和彦を夜遊びに誘った人物がいる。車は今、その人物の元に向かっているのだ。なぜか途中、千尋が車に乗り込んできたのには驚いたが。
「先生がやっと夜遊びできるぐらい元気になったのは、まあ嬉しいけどね」
「……ありがたかったよ。お前も含めて、みんな、ぼくの扱い方を心得てくれていて。おかげで、ゆっくりできた」
「みんな、先生に嫌われたくないからね」
 千尋が一瞬ちらりと、苦い表情を浮かべる。和彦が、自宅とクリニックを往復するだけの生活を送っている間、千尋なりに思うところがあったのだろう。
 和彦は、抓ったばかりの千尋の頬を、今度は優しく撫でる。
「さっき言った、見せたいものってなんだ?」
「それは今度、じっくりお披露目ってことで。気になるなら、早く時間取ってね」
 この発言で察した和彦が答えを口にしようとしたとき、千尋が前方を指さす。長嶺組が管理している雑居ビルが見えていた。あのビルの最上階に暮らすのは、華やかな美貌と怪しい素性を持つ青年実業家である、秦だ。そして、和彦の遊び相手でもある。
「――心配だよなー」
 ビルを睨みつけながら、千尋が洩らす。
「何がだ?」
「先生を、〈あいつ〉に会わせるの」
 千尋が言わんとしていることを察した和彦は、微苦笑を浮かべる。
 前回、秦と会っていた最中に、和彦は鷹津に連れ去られた。その後、秦は秦で、総和会や長嶺組から追及されて大変だっただろうと容易に想像がつくが、当人と電話で話した限りでは、相変わらずのように思えた。慎重に言葉を選びながら、和彦は秦から情報を得ようとしたのだが、こちらの思惑などあっさり見破られ、一緒に飲まないかと誘われた。そして現状に至るというわけだ。
「……総和会から、秦の扱いについて、チクチク言われたらしい」
「誰が、誰に?」
 和彦が小首を傾げると、千尋はやや呆れた表情を見せた。
「オヤジが、じいちゃんに。先生を危険な目に遭わせたとか、素性の知れない奴を先生に近づけるなとか。いろいろ。だけどオヤジが、それはこちらの事情だから心配無用、って突っぱねた。俺も正直、じいちゃんの意見に賛成だけど。オヤジなりに何か企んでいるんだろうなー」
 物言いたげな眼差しを千尋から向けられ、和彦は慌てて念を押しておく。
「ぼくは、何も知らない。組の仕事に関しては、お前のほうが詳しいんじゃないのか」
「まだまだだよ。オヤジは今は、とにかく俺の顔を組の外に向けて売るのが先だって。組のことは、幹部たちが仕切っているしさ。歴史だけはある組だから、跡目育成のシステムはきっちり出来上がってるんだよ」
「そのおかげかな。最近、お前がしっかりしてきたように見える。……やっぱり、血と環境は大事だな」
 千尋の髪をそっと指先で梳いてから、車を車道脇に停めてもらって降りる。千尋は、背後からついてきていた別の車に乗り換えて、和彦に向かって軽く手を振ってきた。
 秦の部屋を訪ねると、まっさきに顔を出したのは中嶋だった。和彦の顔を見るなり、安堵したように笑顔を見せる。
「よかった。いつも通りの先生ですね」
「……心配をかけてすまなかった。一応、元気は元気だったんだ」
 促されて部屋に上がると、相変わらず艶やかな存在感を放つ秦がグラスの準備をしていた。和彦と目が合うなり、柔らかな声で言われた。
「――いらっしゃい、先生」


 秦と中嶋が気をつかっているのは、肌で感じていた。普段から、長嶺の男たちのオンナである和彦に対して、扱いは丁寧ではあるのだが、今夜はその姿勢がさらに顕著だ。
 賢吾あたりから、何か注文をつけられたのだろうか。
 グラスに残っているワインを飲み干した和彦は、大蛇の化身のような男の顔をちらりと思い出す。次に頭に浮かんだのは、数日前の、甘い――甘ったるい賢吾との行為だった。
 微笑を浮かべた秦がこちらを見ていることに気づき、慌てて淫靡な記憶を頭から追い払う。
「……なんだ?」
 誤魔化すように和彦が問いかけると、秦はワイン瓶を取り上げる。今夜は少し飲みすぎかなと思いつつも、グラスを差し出さずにはいられない。
「誘いに乗っていただけて、嬉しいと思って。何か言われませんでしたか? わたしと会うことに対して」
「まあ……、長嶺組はともかく、総和会のほうは少しピリピリしているようだ」
 答えながら和彦は、水割りを作っている中嶋に目を向ける。さきほどから、和彦や秦の世話ばかりしており、本人はまったく飲んでいない。水割りも、秦のためだ。
「そうでしょうね。あの組織からしたら、わたしは得体の知れない存在だ。できることなら、さっさと先生の側から排除してしまいたいでしょう」
「そうはいっても、君はぼくの、数少ない友人だ。下手なことをして、ぼくがヘソを曲げたら厄介だと思っている……かもしれない」
「中嶋のところの隊長さんあたりは、苦々しい顔をしているかもしれませんね」
 南郷の存在を仄めかされ、和彦は首を傾げる。南郷と秦との結び付きがピンとこなかったのだが、困惑していると、苦笑交じりで中嶋が教えてくれた。
「南郷さんが、秦さんの事情聴取をしたんですよ。鷹津さんとグルになって、先生を拉致させたんじゃないかと疑っていたらしくて」
 和彦はゆっくりと目を見開く。
「南郷さん自ら?」
「みたいですよ。俺もあとで聞かされて、驚きました。もっとも、当然かもしれませんね。俺は、秦さんの関係者ですから。つまり、鷹津さんとも通じていると疑われても、不思議じゃありません」
「……ぼくの知らないところで、迷惑をかけっぱなしだったみたいだ」
「おや、迷惑なんて。被害者は先生でしょう」
 冗談めかしてはいるが中嶋の鋭い指摘に、和彦は顔を強張らせる。自分の、鷹津に対する気持ちを見透かされたようだった。
 いや、一部の人間は、和彦が強引に鷹津と行動を共にさせられたわけではないと、察しているのだ。しかし、長嶺の男たちにとって大事な〈オンナ〉が、丸一日、行方不明となった事実に変わりはない。その事実が何より重要なのだ。
 自分は被害者どころか、鷹津の共犯者だ。
 苦々しさを噛み締めながら和彦は、自身に言い聞かせる。物騒な男たちに守られる日常生活を取り戻しながらも、まるで棘が刺さっているかのようにときおり痛みを発するのは、俊哉の存在だ。
 接触したことを口外しないのは誰のためなのか、すでにもう和彦にもわからなくなっていた。今の生活を失いたくないと思う一方で、沈黙を続けることは、長嶺の男たちを危険に晒す。だが話してしまえば、鷹津に対する追跡は厳しさを増すかもしれない。
 思索の迷路に入り込みそうになったところで、中嶋が立ち上がった気配にハッとする。
「ツマミがなくなってきたんで、持ってきますね」
 空いた皿を手に中嶋の姿がキッチンに消えると、一度はグラスに視線を落とした和彦だが、すぐにうかがうように秦を見る。物言いたげな和彦の様子にとっくに気づいていたらしく、首を傾げて笑いかけられた。
「中嶋がいると聞きにくいことがあるんでしょう、先生」
「……察しがいいな」
「あいつはあいつで、聞いた以上、総和会に報告せざるをえなくなりますから、わざと席を外したんだと思いますよ」
 そういうことかと、ちらりとキッチンのほうを見遣る。
 ためらったのはわずかな間で、和彦は声を抑えて秦に尋ねた。
「――鷹津から、何か聞いてないのか?」
「何か、とは……」
「なんでも。どうして、あんな行動を取ったのか。警察を辞めてどうするのか。……どこに行くのか」
 秦は小さく首を横に振る。
「皆さんから聞かれましたが、わたしは何も。そもそも、大事なことを打ち明けてもらえるほど、わたしは鷹津さんに信用されてはいませんでしたから」
「でも、仲はよさそうに見えた……」
 和彦の率直な感想に、秦はなんとも複雑そうな笑みを見せた。
「鷹津さんには、よくタダ酒を集られました。いつも不機嫌で、他人を一切信用してなくて、そのくせ、他人を利用する気満々で。世間一般では、〈嫌な人間〉と呼ばれるでしょうね。だけどわたしは、そういう鷹津さんをけっこう気に入ってましたよ」
「……故人を偲んでいるような言い方だな」
 冗談を言ったつもりはないのだが、秦は声を上げて笑う。
「鷹津さんは大丈夫ですよ。あの人は、殺しても死なない。――何を使ってでも、自分の身を守る。そして、目的を果たす」
 目的、と和彦は声に出さずに呟く。秦がじっと自分を見つめていることに気づき、ドキリとした。
「やっぱり……、何か知っているんじゃないか?」
「何も。それに、もし仮にわたしが何か知っていたとしても、先生は聞かないほうがいいでしょう。優しい先生は、隠し事が下手だ」
 すでに隠し事をしているとは、口が裂けても言えない。ここで中嶋が、ハムとチーズを皿にのせて戻ってくる。
「二人でどんな話をしていたんですか? ずいぶん楽しそうでしたけど」
 中嶋の言葉に、思わず和彦は秦と顔を見合わせる。
「……鷹津の思い出話を……」
「クセの強い人でしたね。俺はあまり、直接話す機会はありませんでしたが。でも、秦さんとはよく飲んでいたみたいですよ。たまに鷹津さんに頼み事もしていたみたいですし」
「飲み代として、ちょっとした仕事を頼んでいたんです」
「なんだ。タダ酒の代金はしっかり受け取っていたんじゃないか」
 そんな会話を交わしていると、中嶋の携帯電話が鳴る。座ったばかりだというのに中嶋は、携帯電話の表示を確認してすぐにまた立ち上がる。仕事の電話だと言って一旦部屋を出て行ったが、三十秒もしないうちに戻ってきた。
「すみません、うちの若い奴が近くまで来ているみたいなんで、少し出てきます。すぐに戻りますから、食器とか、そのままにしておいてください」
 片手を上げて応じたのは秦だった。玄関のドアが閉まる音がして、和彦はため息交じりにこぼす。
「忙しいみたいだ。……無理させたのかもな。ぼくの夜遊びのためにつき合わせたのだとしたら」
「――喜んでますよ。わたしも、中嶋も。塞ぎ込んでいた先生が、やっと立ち直ってくれたんですから。そして、夜遊びを始めた先生の様子に、総和会や長嶺組の皆さんも安心する。いいことづくめですよ」
 とんでもない詭弁だなと苦笑を洩らした和彦だが、秦のほうはまじめな表情を崩さない。それがなんだかおかしくて、とうとう声を上げて笑っていた。自覚もないまま酔ってしまったのかもしれない。
 顔が熱くなってきて、おしぼりを頬に当てていると、秦が立ち上がり、窓を開けた。入り込んでくる風は、涼しいというより冷たいほどだが、それが心地いい。
「先生」
 ふいに秦に呼ばれる。視線を向けた先で秦は、窓の外を見ていた。手招きされ、何事かと思いながら和彦も窓に近づく。
 何も言わず秦が指をさしたほうを見ると、車道を挟んだ向かいのビルの前に、男が二人立っていた。一人は中嶋だ。もう一人は――。
「前に、会ったことがある。確か、中嶋くんが面倒を見ている子だろ?」
 第二遊撃隊は隊員以外に、隊員たちが手足として使う若者たちを囲っている。中嶋は、若者の何人かを面倒を見ており、彼はそのうちの一人だ。
 夜ということで、顔の造作まではっきりとは見えないが、立ち姿や髪型から判別はできる。若いながらもおそろしく鋭い空気を持っていたことが印象的で、なんとなくだが顔も記憶に残っていた。
 中嶋と青年は向き合って何か話している。すらりとした中嶋よりさらに上背があり、精悍そうな体つきをした青年だが、ときおり慎重に周囲を見回す姿は、神経質なものを感じさせる。
 有能で、飼い主に対して忠実な犬だなと、ふと和彦は思った。まるで中嶋を、危険から守ろうとしているかのようだ。
「――中嶋は、彼と寝ているそうです」
 和彦の隣に立った秦が、淡々とした口調で言う。最初は、何を言われたのか理解できなかった和彦だが、数回、頭の中で反芻してから、驚きで目を見開く。
「はあっ?」
 和彦の反応に、秦は口元をわずかに緩める。
「いい反応ですね、先生」
「びっくりしたんだ。……今言ったこと、冗談、なのか?」
「本当ですよ。中嶋が教えてくれたんです。腹に据えかねる出来事があって、そのとき側にいたのが、彼だったと」
「……言葉は悪いが、憂さ晴らしで寝たというのか」
「そう単純でもないでしょう。あいつは、自分が男であることと、男と寝ていることに、自分の中で折り合いをつけて、バランスを取りたがる。その結果が、先生とのセックスです。そんなあいつが、わたしや先生以外の男とセックスしているということは、理由があるんですよ」
 秦は不思議な男だと、今になって思い知らされる。中嶋と青年を見つめる眼差しが、とても優しいのだ。不気味なほどに。和彦は、頭に浮かんだ疑問を率直にぶつけた。
「君は……、嫉妬したりしないのか?」
「しないどころか、嫉妬深いですよ、わたしは」
「そんなふうには見えない」
 心外だと言わんばかりに秦は肩を竦める。感嘆するほどの美貌と、艶やかな雰囲気を持つ男の芝居がかった仕草に、和彦は苛立たしさを覚える。あまりに余裕に満ちた態度に、秦の中で中嶋の存在は軽いものなのではないかと疑ったためだが、その認識はすぐに改めることになる。
 秦は口元に笑みを湛えたまま、じっと二人を見つめて――いや、観察していた。
「おれが中嶋の恋人だという自負と自信がなければ、そうですね……、あの彼が見ている前で、中嶋を犯してしまうぐらいには、嫉妬で狂ってしまえる自信がありますよ。でかい組織の中で虚勢を張ってがんばっているあいつを、あの忠犬のような彼の前で、女扱い――いや、雌扱いしてやるんです」
 普段と変わらない口調で紡がれた言葉は、あまりに破廉恥で刺激的だ。和彦が何も言えないでいると、秦は色気を含んだ流し目を寄越してきた。
「引かないでください、先生。冗談ですよ」
「……少しだけ、地が出ていたな。『おれ』って……。秦静馬は、実は怖い男なんだな」
「内緒ですよ」
 唇の前に人さし指を立てた秦を、いくぶん呆れて見遣りながら、和彦は頷く。
「人の恋路に巻き込まれるほど迷惑で厄介なことはないと、前に君らから教わった」
 二人が見ていると気づいた様子もなく、中嶋と青年が別れる。ここで和彦は秦に腕を引かれ、顔を引っ込める。すぐに窓が閉められた。
 とんでもないことを知らされたおかげで、正直、中嶋の顔をまともに見られる自信がなかった。きっと挙動不審になるだろうなと思っていると、秦がソファの上に置いた紙袋を和彦に差し出してきた。
「先生に会ったら、これをお渡ししようと思っていたんです」
「なんだ?」
「出してみてください」
 ラグの上に座り込んだ和彦は、紙袋に入っているサイズの違う二つの箱を取り出す。まず一つの箱を開けると、大きめのマグカップが収まっていた。和彦は顔を上げると、さきほど怖い発言をしていた男は、優しく笑いかけてくる。
「先生の好みに合うかどうかはわかりませんが、受け取ってください」
「そういえば、買い物の途中で連れ出されたんだったな……」
 鷹津が突然、雑貨屋に現れたときのことを思い出し、和彦はほろ苦い感情を味わう。
 感傷を抑えつけるように、マグカップを箱に仕舞う。
「ありがとう。ちょうど、これぐらい大きめのものが欲しかったんだ。あっ、だったら、こっちの箱は――」
 もう一つの箱も開けている最中に、中嶋が部屋に戻ってくる。和彦が手にした箱を見て、興味をそそられたように側にやってくる。
「それ、秦さんがやけに大事そうに保管していたんですよ。中身はなんですか?」
 和彦は、さきほど見た中嶋と青年の姿を必死に頭の中から追い払い、箱から取り出したものを見せる。透明なフレームで覆われた温湿度計で、インテリア小物として見てもオシャレなものだ。
「……すごく、いい。さすが、雑貨屋のオーナー。ぼくなんかとは、センスが違うな」
「先生の部屋に飾るんですから、気合いを入れて選びましたよ」
 顔が強張りかけたが、上手く誤魔化せたはずだ。マグカップも温湿度計も、総和会本部で和彦にあてがわれた部屋に飾るつもりで探していたのだ。もっとも今、そんなことをわざわざ説明する必要はない。
 ただ、いつかはあの部屋に戻らなければいけないのだと思うと、酔いで浮かれていた気持ちが少し沈みそうになった。
「先生?」
 中嶋の手が肩にかかる。和彦はなんでもないと首を横に振る。
「久しぶりに楽しく飲んだから、酔いの回りが早かったみたいだ。……明日も仕事があるから、この辺りでお暇させてもらうよ」
「ああ、じゃあ、外で待っている護衛の人に、ここまで迎えに来てもらいましょう。途中で転びでもしたら大変だ」
 それは大げさだと言いたかったが、中嶋は自分の携帯電話を取り出し、てきぱきと連絡を取り始める。さすが、長嶺組と総和会公認の和彦の〈遊び相手〉だけあって、手慣れている。
 皮肉ではなく、長嶺賢吾という男は、オンナのために立派な檻を作り上げているのだと、まるで他人事のように和彦は感心していた。


 夜遊びから戻ってきて、手早くシャワーを浴びたあと、書斎へと向かう。眠くて堪らないのだが、ベッドに潜り込む前にやっておくことがあった。
 和彦は膝を抱えるようにしてイスに座ると、携帯電話を手に取る。里見との連絡で使っているもので、今夜もメールが届いていた。いつものように簡潔な返信をしておこうとして、ふっと魔が差したように、佐伯家の様子を問う文面を打ち込んでいた。
 ただし、そのメールを送ることはなかった。我に返り、自分が何かに操られていたのではないかと、急に空恐ろしさを感じたのだ。慌てて内容を消去して、携帯電話を置く。
 直視を避けたところで、いつかは直面しなければならないのは、佐伯家――俊哉のことだ。すでにもう、和彦の居場所は知られており、いつ俊哉が行動を起こしても不思議ではない。それに、『準備が整うまで』という発言も気になる。
 できることなら、長嶺の男たちを巻き込まず、あくまで父子間の問題として対応したいが、不可能だろう。
 和彦を除いた佐伯家と、長嶺家の男たちは、覇気も野心もありすぎる。
 ふいに不安感に襲われ、大きく身を震わせる。精神状態が落ち着いてくると、ベッドの上での鷹津の仕打ちを冷静に辿ることができるようになっていた。当然、その最中の俊哉との電話でのやり取りも。
 睡眠薬で意識が朦朧としていたせいか、ところどころ記憶が霞みがかったようになっている。その霞みの中に、とても大事なことが隠れているようで、和彦の神経をチクチクと刺激してくる。
 確かに、俊哉は言ったのだ。さりげなく、しかし針のように鋭い何かを――。
 頭が重くなってきて、堪え切れず大きくため息をつく。和彦は抱えた膝にあごをのせると、もう一台の携帯電話を手にした。
 帰り際、中嶋がそっと耳打ちしてきた言葉を思い出し、じわりと胸の奥が熱くなる。切迫しかけていた気持ちが、あっという間に楽になった。
『先生がいなくなったと知らされて、秦さんのもとに駆け付けた三田村さんの剣幕は、凄まじかったそうですよ。あの人に何かあったら、長嶺組長がなんと言おうが、お前と鷹津を殺す、と言ったみたいです。先生は大変な人に想われていると、秦さんが苦笑いしていました』
 三田村から寄せられる想いは、空気のようだ。身近にあって当然で、なくなることを疑ってもいない。ときおり意識して、ほっとして、そしてまた忙しい日常の中、存在を意識することはなくなる。
 和彦は鷹津を想って涙を流した。そんな和彦を抱き締めて、三田村は何を思ったのだろうか。
 ここのところずっと、三田村と電話ですら話していない。和彦の精神状態が落ち着くまで、男たちは息を潜めるように接触を絶ってくれていたが、それももう終わりだ。何事もなかったように長嶺の男たちと会い、今夜は、秦と中嶋と夜遊びもした。
 和彦はいつもの自分を取り戻したのだ。
 だから――三田村の声を聞きたい。何より、会いたい。




 エレベーターから降りて和彦の視界にまっさきに飛び込んできたのは、エントランスの隅に立つ、地味な色合いのスーツを着た男の姿だった。
 ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような顔で、じっと外を見つめている。静かだが鋭い眼差しは、のんびりと景色を眺めているわけではない。怪しげな人物がうろついていないか、警戒しているのだ。
 和彦は気配を殺して近づいてみたが、とっくに気づいていたらしく、ふっと表情を和らげてこちらを見た。
「――今朝は風が少し冷たい」
 開口一番の三田村の言葉に、和彦はにっこりと笑む。久しぶりに間近で聞いたハスキーな声に、耳の奥がくすぐられる。
「もう十月だからな……。この間、海で泳いだような感覚なのに」
「先生がマフラーを巻くようになるまで、あっという間だろうな」
「……ぼくは別に巻かなくてもいいんだが、周りが言うから、巻いていたんだ。そんなに、寒々しそうに見えていたのかな」
「みんな、先生に風邪をひかせたら大変だと、気が気じゃなかったんだ。――俺も」
 囁くようにさりげなく、言葉が付け加えられる。和彦がじっと見つめると、三田村は居心地悪そうに肩をすくめ、顔を背けた。らしくないことを言ってしまった、と三田村の心の声が聞こえてきそうな仕種だ。
 和彦は必死に笑いを押し殺し、三田村の腕に手をかける。
「行こう、三田村。映画に間に合わない」
 土日を一緒に過ごしたいという電話越しの和彦のわがままに、三田村は即答した。先生の望み通りに、と。
 三田村と顔を合わせるまで、実は和彦は緊張していた。これまでのように、自分に対して三田村が、優しい眼差しを向けてくれるか心配だったからだ。しかし、杞憂に終わった。
 複雑な想いを抱えているはずの三田村は、それを表に出すようなことはしない。そんな男の誠実さに、和彦は二日間をかけて報いるつもりだった。
 三田村と並んで歩きながら駐車場に向かっていると、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴る。映画館に入る前に電源を切っておかなければと思いながら、誰からの電話かと確認した瞬間、顔が強張っていた。
「先生?」
 足を止めた三田村が不審げに眉をひそめる。一気に顔色が変わったと、和彦自身、自覚はあった。
「……長嶺、会長からだ」
 そう呟いてから、短く息を吐いて電話に出た。
「もしもし――……」
『今、大丈夫かね、先生』
 挨拶もそこそこに、守光は本題を切り出した。
『今日と明日はクリニックは休みだろう。久しぶりに、こちらで過ごせないかと思ったんだ』
「こちらで、って……、本部でですか?」
『あんたに味わってもらいたいと、美味い店も見つけてある。昼は、そこに行こう』
 否という返事は聞かないとばかりに守光が、穏やかな口調ながら予定を話し始める。和彦は動揺しながら、半ば無意識に三田村の腕を掴んでいた。
「あの……、今日と明日はちょっと……」
『予定があるかね?』
「……はい」
『わしの誘いより優先するほどの予定とは――』
 賢吾によく似た太く艶のある声が、わずかに怖い響きを帯びる。
『あんたに会いたいのは、この間言った、相談したいことがあるからなんだが』
「本当に、申し訳ありません。休み明けに、必ずお伺いします。ですから……」
 見えない重圧に押し潰されそうになり、呼吸が速くなる。それでもなんとか断りの言葉を口にすると、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。
『年甲斐もなく、あんたに意地悪をしたな。すまなかった、先生。気にせず、楽しんでくれ。ただし――あんたと相談したいことがあるのは本当だ。それも、なるべく早く。休み明けは、わしのほうで予定があるから、また連絡すると思うが、かまわんかね?』
「はい、それはもちろん」
 なんとか電話を終え、ぎこちなく肩から力を抜く。気遣うような三田村の眼差しに、小さく笑いかけた。
「行こうか、三田村」
「先生……、今日は――」
「決めているんだ。今日と明日は、何があっても、ぼくの〈オトコ〉と一緒に過ごすって」
 三田村はもう何も言わず、肩にそっと手をかけてきた。その感触に気持ちが高ぶり、涙が滲んだ目を見られないよう、和彦は顔を伏せた。









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