と束縛と


- 第37話(3) -


 三田村と並んで映画を観ながら、実は和彦は内容をまったく追えていなかった。身近に三田村を感じながら考えることは、優しい〈オトコ〉に対しても、ずいぶん隠し事をしてしまったということだけだ。
 映画館を出たあとの予定は特に決めていなかったため、駐車場に向かいながら三田村が物言いたげな視線を投げかけてくる。仕方なく和彦から水を向けた。
「三田村は、どこか寄りたいところはないのか? 普段は仕事が忙しいから、自分のためにゆっくり買い物する時間もないだろ。今日は、どこだってつき合う」
「俺は別に……。先生の行きたいところを言ってくれればいい」
 どんな答えが返ってくるか予想はついていた。あまりしつこく聞いても三田村を困らせるだけだと思い、和彦は頭を巡らせる。
 切羽詰まった状況だったとはいえ、鷹津と二人きりで街中を移動したときのことが脳裏を過らないといえば、ウソになる。こうして三田村と出かけて、思い出の上書きをしたいわけではない。ただ、バランスは取っておきたいという想いはあった。
「それじゃ――」
 和彦はちらりと、三田村が着ているワイシャツとネクタイに目をやる。三田村のものだけを選ぶと言っても遠慮するのは見えているので、自分のものも一緒に買いたいと切り出そうとしたとき、今度は、電源を入れたばかりの三田村の携帯電話が鳴り始めた。
 互いに顔を見合わせて、淡い苦笑を交わし合う。
「ぼくとあんたは、人気者だな……」
 自嘲と冗談交じりの和彦の呟きに、三田村は何か言いたそうな顔をする。
「ほら、大事な電話じゃないのか」
「あっ、ああ」
 電話に出た三田村は、すでに引き締まった表情をしていた。目上の者からの電話だと察した和彦は、咄嗟に賢吾からかと思ったが、すぐに違うとわかる。三田村がこう言葉を発したからだ。
「それは、早いうちに手を打ったほうがいいな……」
 電話の内容を耳に入れないよう意識を逸らすため、辺りに目を向けていた。
 通りを行き交う人たちの格好は、すっかり秋の訪れを感じさせるものとなっていた。確かにまだ、汗ばむほど気温が高い日もあるが、それでも空は高くなり、吹く風はひんやりとしている。このぐらいの時期が一番過ごしやすくて、気の向くままに出かけるのには最適だ。
 かつては、一人でふらりとドライブに出かけていたものだが――。
 少しだけ懐かしい気分に浸っていると、軽く肩を叩かれて振り返る。三田村が、困ったような顔で立っていた。瞬時に状況を察した和彦は、笑みを浮かべて問いかける。
「もしかして、仕事が入ったのか?」
「いや、仕事は仕事なんだが……」
 和彦は、この瞬間に襲われた感情が表情に出ないよう努めながら、軽い口調で応じる。
「気にせず行ってくれ。いつもは、ぼくが仕事で呼び出されているんだから、たまにはこんなこともあるだろう。あっ、ここで別れるにしても、組の人間に迎えに来てもらわないといけないのか。ぼくは別に、一人でタクシーに乗ってもいいけど――」
「先生、そう先走らないでくれ。仕事といっても、城東会の事務所に顔を出して、若頭と少し相談事をするだけなんだ。すぐに済む」
 三田村の説明を受け、和彦は頭の中で簡単な組織図を描く。長嶺組に数人いる若頭は、それぞれが組を持っている。その組においての肩書きは、組長となる。長嶺組から名を与えられ、縄張りを任され、各々の裁量によって利益を得て、その中から、長嶺組に上納金を納めているのだ。
 長嶺組の傘下組織はいくつもあるが、若頭たちが仕切る組は特別だ。直轄ということで、何においても優遇され、長嶺組内の執行部の一員として名を連ねている。
 和彦が知る限り、長嶺組以外の組では、若頭は一人しか置いていない。それが普通の形なのだと、賢吾は教えてくれた。あえて普通ではない形を取っているのは、長嶺組が血統主義を貫いている結果なのだという。長嶺組を背負えるのは、長嶺の姓を持ち、血を受け継いでいる男だけだ。
 そんな組に忠義を尽くす組員たちに報いるために、複数の若頭を置き、組を持たせ、長嶺組の庇護下において大事にする。自分たちが長嶺組を盛り立てているという意識を組員に持たせ、組同士の結びつきをより強固にするためにも、必要な存在なのだ。
 三田村は、そんな特別な組を任されている若頭の補佐を務めている。いくら、賢吾の側近としての役割も負っているとはいえ、本来であれば、和彦の都合で振り回していい男ではない。
 優しく誠実な男の本来の姿を、唐突に思い知らされる。決して忘れているわけではないのだが、こうして二人で会っているときは、目の前に三田村がいること以外、和彦にとってはさほど重要ではなくなる。
「――先生さえよければ、一緒に来ないか? その分、少し時間を取られるかもしれないが」
「一緒に、って……、城東会の事務所に?」
「応接室で、お茶でも飲んで待ってもらえると、ありがたい」
 どうだろう、と問われ、和彦は視線をさまよわせる。短時間で済む用事のために護衛の組員を呼び出すことを思えば、三田村の提案は合理的だし、何より和彦自身も安全だ。
「ぼくが行って大丈夫なのか……」
 つい不安を口にしたのには、理由がある。和彦は三田村と関係を持ってから、城東会の事務所に顔を出したことはなかった。あくまで賢吾のオンナとして立ち寄ったときは、どの組員もよそよそしくはあったが、丁寧に接してくれたのだ。
 しかし今はどうだろうか――。
 和彦の表情から、何を心配しているか察したらしく、三田村の手がそっと肩にかかる。
「先生は、もっと図太くなってもいいのかもしれない。ときどき、自分の無神経さが、どれだけ先生を傷つけているのか考えて、ぞっとするときがある」
 車の助手席のドアを開けてもらい、和彦は乗り込む。これから事務所に向かうということで、後部座席に座るよう促されるのではないかと思ったが、あくまで三田村は、今は和彦と二人の時間を過ごそうとしているのだ。
 三田村が車を発進させてから、和彦はぼそぼそと洩らす。
「……ぼくが今以上に図太くなったら、きっと誰の手にも負えなくなるだろうな。それで呆れられたら、もう少し静かに過ごせるんだろうか」
「先生は、自分の周囲にいる男たちのことを、まだ甘く見てるな」
 数十秒ほどかけて、三田村の言葉の意味をじっくりと考えたあと、顔をしかめる。和彦が呆れた視線を向けた先で、三田村は口元を緩めていた。


 和彦の前に恭しくお茶を出して、まだ若そうな組員が大仰に頭を下げて応接室を出て行く。顔見知りがいる長嶺組の事務所では、誰かしら話し相手になってくれるのだが、そこまで求めるのは図々しいだろう。
 ふっとため息をついた和彦は、背筋を伸ばしてソファに腰掛けたまま、なんとなく耳を澄ませていた。応接室が静か過ぎて、壁の向こうから微かな物音が聞こえてくるのだ。誰かが廊下を歩きながら、何事か話しているようだが、さすがに会話の内容まではわからない。
 落ち着きなくソファに座り直した和彦は、一人でただ座っているのも間がもたず、外から差し込む陽射しに誘われるように、窓に歩み寄っていた。
 車の通りが少ない裏通りの一角に立つ、三階建ての雑居ビルが、城東会の事務所となっている。和彦が今いる応接室は二階にある。組員たちの一部は一階に詰めているが、主な業務は三階で行われており、三田村も普段は、三階で若頭補佐としての仕事に励んでいる。
 和彦はなんとなく天井を見上げてから、狭い通りに目を向けた。裏の世界に引きずり込まれたばかりで、まだ何もわかっていなかった頃のほうが、堂々と振る舞えていたような気がすると、自虐的に唇を歪める。
 事務所を訪れて三田村と別れてから、応接室に案内されながら、自分に向けられる組員たちの視線を意識していた。
 軽蔑されているか、敵意を向けられているか、あるいは悪意か――。
 城東会の大事な若頭補佐の道を誤らせてしまったという後ろめたさが、事務所に足を踏み入れたことで、いままでになく肩にのしかかってくるようだ。長嶺組や総和会のさまざまな行事に参加しているときは、襲われなかった感覚だ。
 こんなにも弱気になるということは、まだ精神的に安定していないということだろうかと、和彦は自分のてのひらを見つめる。緊張のため、指先が少し冷たくなっていた。
 そんなはずはないと自分に言い聞かせていると、壁の向こうでまた足音がした。少し特徴のある歩き方をしている人だなと思っていると、応接室のドアがノックされた。
「はいっ……」
 反射的に声を上げると、一人の男がゆっくりとした足取りで応接室に入ってきた。
 一目見て、ただの組員ではないだろうと感じた。色の濃いサングラスで顔半分はよくわからないが、年齢はおそらく五十代前半、印象的な禿頭に、小太りとも言える体つきをしている。チノパンツにポロシャツというラフな格好をしてはいるが、そんなことに関係なく、貫禄ある佇まいだ。
 戸惑う和彦が、なんと声をかけようかと口ごもっていると、男のほうから口火を切った。
「こっちの事務所に顔を出したら、佐伯先生が来ていると聞いたもので、挨拶をしておこうと思ったんだが。かまわないだろうか?」
「もちろんです。……すみません、応接室を使わせていただいて」
「気にしないでくれ。俺は別に客というわけじゃない」
 やはりゆっくりとした足取りで、男は正面のソファに腰掛けた。一拍遅れて、和彦も倣う。
 おそらく初めて会った人物だった。八月の法要では、城東会の人間とも顔を合わせ、挨拶も交わしているが、今目の前にいる男の姿はなかった。八月以前に催された行事の記憶も辿っていると、男はチノパンツのポケットをまさぐり、小さく舌打ちをした。
「すまない。名刺入れを車に置いてきたようだ。――城東会顧問の、館野(たての)だ」
「……佐伯です」
「ようやく、あんたに会えた。一度じっくり、話してみたいと思っていたんだ。うちの組長……、ああ、城東会のな。長嶺組の組長のことは、俺は〈本家〉組長と呼んでいるんだ。で、うちの組長が、あんたのことを褒めていた。何度か、言葉を交わしたことがあるんだろう?」
「ええ。行事のたびに、ご挨拶をさせていただいています」
「会うたびに、驚かされると言っていた。いかにも堅気だった色男が、図太く、したたかに、うちらの世界に染まってきているという意味で。上手く立ち回っているとも言っていた」
 和彦は、館野が〈うちの組長〉と呼ぶ男の姿を、脳裏に思い浮かべる。四十代前半で、ヤクザというより、有能な経営者を思わせる知的な雰囲気を漂わせて、物静かな人物だった。和彦と言葉を交わしても、淡々とした物腰を崩さず、そこから、自分に対するどんな感情も読み取ることはできなかった。
「俺はずっと、長嶺組が預けてくれる若頭たちの相談役を務めてきた。組長としての責務を立派に果たして、ゆくゆくは長嶺組の執行部に身を置くか、総和会に出向くか、極道の世界から身を引くか、行く末はさまざまだ」
 ソファの背もたれにしっかりと身を預けて話す館野は、サングラスのおかげで視線がどこに向いているかまったく見えない。それは和彦をひどく落ち着かない気分にさせる。
「うちの組長は、どんどん上へと行ける人間だと思っている。補佐として仕えている三田村も同様だ。あいつは、人を支えるのに向いている。忠義心があって、誠実で、下の者にも慕われて。何より、本家の覚えもめでたい。俺は、次に三田村の後ろ盾になってやりたいと考えていた」
 ここまで聞いて和彦は、顔を強張らせる。館野が何を言おうとしているのか、ようやくわかってきたのだ。
 館野が、ずいっと身を乗り出してくる。囁くような、しかし威圧感に満ちた声で言われた。
「――そろそろ、三田村を解放してくれないか? あんたにとっては、数いる男の一人だろう。しかし城東会にとっては、若頭補佐はあの男だけだ。いくら本家……長嶺組が許して、うちの組長も何も言わないとはいっても、下に示すべき道理ってものがある。いや、俺が示してほしい道理だな。はっきりいえば、あんたが気に食わない。いくら、使える医者だとしてもだ」
 舌が強張って動かなかった。長嶺組組長という後ろ盾を持っている和彦は、三田村との関係に口出しされたくないと答えたところで許されるだろう。たとえ傲慢であろうとも。
 そんな和彦の傲慢さで三田村を犠牲にするのかと、サングラスに隠れた館野の目はきっと非難しているはずだ。
「ぼくは――……」
 和彦が口を開きかけたとき、壁の向こうで慌ただしい足音がしたかと思うと、応接室のドアがノックされる。応じる間もなく勢いよくドアが開き、いくぶん緊張した面持ちの三田村が姿を見せた。
 一礼して応接室に入った三田村が館野の側まで歩み寄り、もう一度、今度は深々と頭を下げた。
「お疲れ様です、顧問」
「おう、三田村」
 三田村が、ここで何をしているのかと問いたげな眼差しを、館野に向ける。館野は短く笑い声を洩らすと、和彦を指さした。
「事務所に顔を出したら、佐伯先生が来ていると聞いたからな。ちょっと挨拶をさせてもらっていたところだ。まあ、こんないかつい顔と向き合っていても、佐伯先生もおもしろくないだろうから、俺はそろそろ、三階に上がる。組長の体は空いているんだろ?」
「……ええ」
 そうか、と応じて館野が立ち上がる。和彦は顔を強張らせたまま、館野が応接室を出て行く姿を目で追うことすらできなかった。


 窓を開けて外を眺めていると、午前中、館野に言われた言葉がどうしても頭の中を駆け巡る。
 いつかは、誰かに言われてもおかしくない言葉だった。ただ、面と向かってぶつけられると、やはり動揺する。
 和彦の心はざわつき、三田村とのんびりと外で楽しむ気分ではなくなった。結局、少し早めの昼食を済ませたあと、食料などを買い込んでから、いつも二人で過ごしている部屋へと移動した。
「―――先生、何か飲むか?」
 声をかけられて振り返ると、三田村がキッチンに立っていた。すでにもうスーツから、寛ぐための格好へと着替えている。
「ありがとう。でも、今はいい……」
 城東会の事務所を出てから、ほとんど表情を変えることがなかった三田村だが、このときやっと、顔を曇らせた。和彦が沈み込んでいると、当然気づいていたのだ。
 側にやってきた三田村が、静かに窓を閉める。そのまま片腕で抱き寄せられたので、素直に身を預けた。
「顧問に、何か言われたんだろう、先生?」
 ああ、と答えた和彦は、三田村の肩に額を押し当てる。
「あの人には、若い時分から目をかけてもらっていた。若頭補佐の肩書きを得たときも、長嶺組長預かりの身になって、側で働くことになったときも、いつでも、我がことのように喜んでくれた。俺がいつか若頭になったときには、世話をするのが楽しみだとも言ってくれた。だからこそ、先生とのことがあったときは、烈火のごとく怒り狂っていた。それでも、長嶺組長や若頭と話し合って、俺の若頭補佐の役職は解かないと決めてくれたんだ」
「それだけ、あんたを評価しているんだな」
「ありがたいことに。先生との仲を認めないにしても、見ないふりはしてくれるんだと思って、感謝していた」
 ここで三田村は一旦言葉を切ったあと、ひどく優しい声で問うてきた。
「教えてくれないか? 館野さんに、何を言われたのか」
「……嫌だ」
「俺と館野さんの関係を心配しているなら――」
「ぼくはそこまで優しくない。……正直に話して、あんたがその気になったら、困る」
「その気、というのは、俺が先生のオトコをやめるということか?」
 三田村自身が発した言葉の残酷さに、胸をつかれる。和彦がビクリと肩を揺らすと、宥めるように背をさすられた。
「すまなかった。俺が、軽率だった。組のために仕事をしている先生を、責める人間がいるなんて、思いもしなかった」
「責められたわけじゃない。組を……城東会を想う気持ちがあるからこその、当然の要求だったんだ」
「だから、俺はもう必要ないか?」
 パッと顔を上げた和彦は、次の瞬間には、三田村を睨みつけていた。
「そんなこと、絶対に思わないっ……」
「でも、動揺はしただろう? 先生は優しいから、俺の将来を心配してくれた」
 三田村の指に髪を梳かれ、胸が疼く。ハスキーな声での穏やかな言葉を聞いていると、ざわついていた気持ちは現金なほど静まっていく。結局、自分が受けた衝撃はこの程度なのかと思わなくもないが、三田村への信頼の表れともいえるかもしれない。
「さっきも言ったが、ぼくは優しくない。――……浅ましいぐらい、欲望に正直なだけだ。ぼくの〈オトコ〉を解放なんてしたくない、って」
 ふうっと三田村が深く息を吐き出した。
「俺を解放してほしいと言われたのか」
「……長嶺組でのみんなの対応に慣れきっていた。ぼくは、有能な組員の将来を潰しただけじゃなく、あんたの知らないところで、勝手にあんたの命まで危険に晒したこともある。もっと責められても、仕方ない」
「俺の命……? ああ、前に先生が、組長相手に啖呵を切ったときのことか。三田村を殺すなら、順番は自分が先だ、と言ったんだったな。――あとで組長から聞かされたとき、俺の命の半分は先生のものにしようと思ったんだ。何があっても守りたいと……」
 当時の自分の必死さと興奮ぶりを思い出し、そんなに遠い過去のことではないというのに、懐かしい気持ちとなる。あのときからずっと、和彦と三田村は関係を築き続けてきたのだ。
「あんたが欲しくて、必死だった。だから――解放なんてしてやらない。どんなに恨まれても、憎まれても」
 誰に何を言われても――。和彦は心の中でこっそりと付け加える。このとき脳裏に浮かんだのは、館野の顔ではなかった。
 抱き締めてくる三田村の腕の力が強くなる。和彦は、三田村の耳元に唇を寄せて囁いた。
「館野さんとのことは、誰にも言わないでくれ。ぼくが胸に仕舞っておけば済むし、余計な波風は起こしたくない。多分もう……、城東会の事務所に行くこともないだろうし」
「せめて、うちの若頭に相談はしておきたいんだが……」
「ダメだ。ぼくとあんたの関係が、城東会の中に不和をもたらす可能性があると、思われたくない」
 それに今はこれ以上、心配の種を抱えたくないというのが正直なところだった。実害を被ったというならともかく、和彦はこうして三田村の腕の中にいて、惜しみなく情熱的で優しい言葉を注がれている。三田村との関係で、さらに何か求めようとするのは、欲深いというより、罪深いというべきだろう。
「難しいことは考えたくない……。忙しいあんたが時間を作ってくれて、この部屋でこうして会えているんだから」
「先生……」
 三田村の声が切ない響きを帯び、甘い疼きが背筋を駆け抜ける。和彦は後ろ髪を撫でられながら、間近から三田村の顔を見つめる。ゆっくりと三田村の顔が近づき、唇が重なる。たったそれだけで、和彦の意識は舞い上がる。
 夢中で唇を吸い合い、舌先で相手をまさぐり、焦らすように緩やかに絡めていく。自ら求めて、三田村の舌を口腔に誘い込んだ和彦は、甘えるように吸いつく。露骨な表現だが、自分の〈オトコ〉をじっくりと味わいたいと、強く願っていた。
 息を喘がせながら和彦は一度唇を離し、三田村のあごにうっすらと残る傷跡に、いつものように舌を這わせる。すると三田村の唇に舌を挟むように捉えられていた。激しく舌を吸われ、軽く歯を立てられると、鼻にかかった声が洩れる。
 背に三田村のてのひらが押し当てられ、シャツ越しに高い体温を感じる。堪らず和彦も、すがりつくように三田村の背に両腕を回していた。Tシャツの上から、鍛えられた逞しい体をまさぐり、まだ姿を隠している猛々しい虎の姿を想像して、情欲が高まる。
 言葉もなく、乱れた足取りでベッドへと移動し、倒れ込む。思う様強く抱き合い、もう一度濃厚な口づけを交わしている最中、三田村が片手を伸ばし、ベッドの傍らのナイトテーブルの引き出しを開けた。そこに何が仕舞われているか、当然和彦は知っている。
 荒い息を吐き出した三田村が、食い入るように和彦を見下ろしてくる。ついさきほどまで、優しさに満ちた眼差しを向けてくれていた男はもういない。今は、狂おしいほどの情欲を湛えた目をしていた。それが和彦には嬉しい。
「三田村……」
 熱い体に、官能を刺激される。和彦はTシャツの下に両手を忍び込ませ、引き締まった脇腹を撫でる。わずかに体を震わせた三田村は苦しげに目を細めたあと、和彦の唇を吸い上げてきた。差し出した舌を妖しく絡ませ合い、唾液を交わす。
 下肢が密着し、三田村の欲望の高ぶりを感じる。早く欲しい、と率直に和彦は思った。
 それが表情に出たらしく、三田村に指摘された。
「今、欲しい、という顔をしたな、先生」
「ああ……。欲しい。ぼくのオトコを――味わいたい」
 次の瞬間、体を起こした三田村に、荒々しく下肢を剥かれる。さらに、チューブから出した潤滑剤をたっぷり指に取り、尻の間をまさぐられる。
「うっ……」
 潤滑剤の冷たさに和彦は声を洩らす。半ば強引に内奥に指を挿入され、潤滑剤を塗り込められる。
 ぐちゅぐちゅと露骨な音を立てながら指を出し入れされ、余裕のない動きに、最初は息を詰めていた和彦だが、内奥をぐるりと撫で回された瞬間、鳥肌が立つような感覚に襲われる。短く息を吐き出すと、和彦の変化に気づいたのか、三田村は円を描くように指を動かし始めた。
「はっ……、あっ、あっ」
 温められた潤滑剤がトロリと内奥の入り口から垂れる。三田村はもう一度潤滑剤を指に取って、内奥に簡単に塗り込むと、スウェットパンツの下から欲望を引き出した。
 物欲しげにひくつく内奥の入り口に熱く硬いものが擦りつけられ、それだけで呼吸が弾む。
「三田村っ――」
 内奥の入り口をこじ開けるようにして、欲望が押し込まれてくる。太い部分を一気に呑み込まされたが、和彦は下腹部に力を入れ、自ら望んで強く締め付ける。三田村は苦しげに眉をひそめながら、ゆっくりと腰を突き上げてきた。
 異物感と痛みがじわりと腰の辺りに広がるが、慣れ親しんだその感覚を和彦は恐れていない。官能の扉が開き、肉の悦びが湧き起こる前触れだと思うと、苦痛すら愛しい。
 内奥の浅い部分を何度も擦られるたびに、和彦は間欠的に声を上げる。たっぷり施された潤滑剤が淫靡な湿った音を立て、扇情的な気持ちを煽られていた。
「うあっ、はっ、あぁっ。三田村、早、くっ……」
 三田村の腕に強く爪を立ててせがむと、内奥に含まされていた欲望が引き抜かれる。浅ましくひくつく内奥の入り口を、じっくりと三田村が見つめてきて、その眼差しにすら和彦は反応してしまう。狂おしい情欲に突き動かされるように身をくねらせ、腰を揺らしていた。
 しかし三田村は焦らすつもりなのか、和彦が着ているシャツのボタンを外し始める。そんなことはあとでいいと、もどかしい気持ちで三田村の手を押し退けようとすると、宥めるように優しい声で呼ばれた。
「先生、暴れられると、ボタンが外せない」
「そんなの、あとで――」
 シャツの下から現れた胸の突起に、三田村が唇を寄せる。舌先で軽く突かれただけで全身を貫くような快美さに襲われて、和彦は身を震わせていた。
「三田村っ」
 三田村が上目遣いに和彦の反応をうかがいながら、突起を柔らかく吸い上げる。さらに内奥には再び欲望を含ませてきた。ただし、浅く。
「あっ、あっ、三田村、早くしてくれっ……」
「どっちを?」
 抑えた声音で三田村に問われる。焦らすように、胸の左右の突起を交互に舌先で転がされ、唇でくすぐられて、和彦の呼吸が弾む。同時に、内奥に含まされた欲望を必死に締め付けていた。
「んんっ」
 三田村の片手が、すっかり身を起こした和彦の欲望にかかる。優しく擦り上げられて、鼻にかかった呻き声を洩らす。体中で三田村を求めていた。とにかく触れてもらいたい。何より、熱い肉で、体の奥を穿ってほしくて堪らない。
「もう濡れてきた、先生」
 あっという間に反り返った欲望の括れを、指の輪で何度か締め付けられてから、先端を撫でられる。ヌルヌルとした感触は、三田村の言葉がウソではないことを物語っている。
 体中のあちこちに快感の種火を灯されて、和彦は熱い吐息をこぼす。片手を伸ばして三田村の頬を撫でると、無言の求めがわかったらしく、覆い被さってきて唇を吸われる。もう離さないとばかりに和彦は、懸命に両腕を広い背に回してしがみついた。
「ふあぁっ」
 太く逞しい欲望に、内奥をじっくりと押し広げられる。発情した襞と粘膜を強く擦り上げられて、気も遠くなるような疼きが背筋を駆け抜ける。奥深くまで欲望を挿入されたとき、和彦はビクビクと全身を震わせながら、絶頂に達していた。三田村は軽く腰を揺すったあと、ぐうっと内奥深くを抉るように突いてくる。堪らず和彦は悦びの声を上げる。
「あっ……ん、い、い……。三田村、それ、好き――」
「ああ。奥が痙攣してる。先生が感じている証拠だ」
 歓喜に震えているという内奥の一点を、三田村はじっくりと何度も突き上げ、和彦の体を内側から蕩けさせていく。律動のたびに、繋がった部分から大きく音が洩れ、そこに、和彦の喘ぎ声も加わる。内奥から溢れ出す潤滑剤は、自らが生み出した悦びの蜜ではないかと錯覚するほど、気持ちよかった。
 蠢く熱い欲望にも喜びを与えようと、内奥が淫らな蠕動を繰り返す。すると、三田村の荒い息が唇に触れた。
「――……すまない、先生、もうもたない……」
「あ、あ。早く、三田村」
 答えた次の瞬間、一度だけ乱暴に内奥を突き上げられ、その衝撃に和彦の意識が揺らぐ。深い肉の悦びに浸りながら、内奥で三田村の欲望が力強く脈打つのを感じていた。精を注ぎ込まれ、細い声を上げる。
 少しの間、二人は抱き合ったままじっとしていた。交歓の余韻に浸り、脱力感すら心地いい。もちろん、まだ繋がったままだ。
 内奥深くに収まっている存在を、意識しながら締め付ける。率直に、〈これ〉をまだ欲しいと思っている自分の欲深さに、妙な表現だが安堵していた。鷹津との一件があって以降、気持ちの安定のために他の男たちを遠ざけて、そうかと思えば、出会ったばかりの高校生と体を重ねた。
 長嶺の男たちの〈オンナ〉としての自分は変わっていないことは確認した。では、〈オトコ〉に対してはどうなのか、心のどこかで和彦は不安だったのだ。
 この男の前で、自分はもっと浅ましく、淫らな生き物になれると確信した途端、和彦は喘ぐように吐息をこぼす。すっかり汗で湿った三田村のTシャツをさらに捲り上げ、背をまさぐろうとしたが、その前に手を掴まれて、ベッドに押さえつけられた。
「あっ、三田村っ……」
 緩く腰を動かされ、内奥から欲望が出し入れされる。そのたびに、潤滑剤だけではなく、注ぎ込まれたばかりの精が溢れ出してくる。和彦は控えめに声を上げながら、三田村とてのひら同士を重ね、しっかりと指を絡める。見上げる眼差しで訴えると、言葉に出す必要もなく、三田村は唇を塞いでくれた。
 舌を絡め合いながら、内奥をゆっくりと突き上げられる。和彦はもう一度深い場所を抉ってほしくて、逞しい腰に大胆に両足を絡めて引き寄せていた。しかしここで、ふいに三田村の動きが止まる。
「――先生、聞きたいことがある」
 苦しげな声で三田村に切り出され、穏やかな快感の波に浸っていた和彦は、夢から覚めたような状態となる。
 ぼんやりと三田村を見上げ、そっと首を傾げた。
「三田村……?」
「俺のことを、嫉妬深い男だと詰ってくれてもいい。だが、確かめずにはいられないんだ」
「あんたがそこまで言うんなら、大事なことなんだな」
「少なくとも、俺にとっては」
 食い入るように見つめてくる三田村の真剣な表情から、漠然と察するものがあった。和彦は、囁くような声で問いかけた。
「……鷹津のことか?」
 痛みを感じたように三田村が眉をひそめ、それが答えとなっていた。
「先生が鷹津に連れ去られたと聞いたとき、俺は、もう二度と先生に会えないんじゃないかと絶望しかけていた。鷹津は事前に準備をしていた。つまり、覚悟を決めていたということだ。だが、あいつは先生を解放した。……意味がわからない。いや、何か意味があるからこその行動だろう」
「それは――、組長たちにも何度も言ったが、鷹津が何を思ってあんなことをしたのか、ぼくにはわからない。ただ連れ回されて、ホテルに一泊しただけだ」
「一緒に逃げようと言われなかったか?」
 三田村に対して、いくつもの隠し事はできなかった。
「言われた」
 和彦は、快感に酔わされていたとはいえ、鷹津のその誘いに頷いた。いまさらながら罪悪感に気持ちが揺れかけたが、三田村の唇が耳元に這わされ、その感触に気を取られる。
「――でも、先生はこうして、俺の側にいてくれている。先生とあいつとの間にどんなやり取りがあったのか、根掘り葉掘り聞くつもりはない。俺には、今こうしている瞬間が、何より大事だ。先生を抱いているのは鷹津じゃなく、俺だということが」
 誠実で優しい男が示す独占欲は、控えめではあるが、静かな情熱を確かに感じさせる。今はこの男だけを見つめて感じていたいと、強く和彦は願う。すると三田村が、不安そうに顔を覗き込んできた。
「先生、気を悪くしていないか?」
「まさか。……でも、あんたのせいで、自分がますます傲慢な人間になっていくのが怖い。たくさんの男と関係を持っているのに、それでもあんたが想ってくれて。いつか、呆れられて、大事なオトコもなくしてしまうかもしれない」
「なんの心配もいらない。俺は、先生から要らないと言われても、離れるつもりはない。それこそ執念深すぎて、先生のほうが、呆れるかもしれないな」
 三田村の言葉に心底ほっとする。長嶺の男たちのことを言えない。和彦は、欲しい返事を三田村からもぎ取ったのだ。
「……三田村、背中、撫でたい」
 甘えるように訴えると、握り合っていた手を離して三田村が上体を起こす。勢いよくTシャツを脱ぎ捨ててから、和彦のシャツも脱がせてくれた。
 重なってきた熱い体にしがみつき、思う存分、三田村の背に両手を這わせる。猛々しい虎を宥めるためではなく、駆り立てるために。
 最初は和彦の好きなようにさせてくれた三田村だが、ふいに顔を近づけてくる。反射的に和彦が目を閉じると、こめかみに唇が押し当てられた。閉じた瞼の上にも吐息が触れ、ゾクリと体の奥が疼く。内奥に呑み込んだままの欲望を締め付けると、三田村が軽く腰を揺すった。
「あっ、あっ……」
 情欲の火がじわじわと再燃し、内奥が再び蠕動を始める。それを待っていたように、三田村がゆっくりと律動を刻み始める。
「いっ……、い。気持ち、いい――」
「ああ、俺も……」
 激しさよりも、こうして繋がっている時間が少しでも長く続くようにと、三田村の動きは慎重だった。反対に和彦のほうが箍が外れてしまい、容赦なく三田村の背に爪を立て、自ら腰を揺すり、快感を貪ろうとする。
 三田村が欲しいという衝動もあるが、もう一つ、無視できないものが自分の胸に巣食っていることを、不承不承ながら和彦は認めていた。
 脳裏に、守光や南郷の顔がちらつく。そのたびに、不穏という言葉をどうしても連想してしまう。
 自分のせいで、三田村に今以上に迷惑がかかったら――。
 和彦がパッと目を開けると、見下ろしてくる三田村の視線とぶつかった。
「――つらいか、先生?」
「いや……、どうしてだ」
「今にも泣き出しそうな顔をしているから」
 三田村の唇が目元に押し当てられ、和彦は小さく喘ぐ。
「……できることなら、もう二度と、先生が泣く姿は見たくない。子供が泣いているようで、痛々しかった」
 うん、と頷いた和彦は、三田村の肩にそっと歯を立てる。それが急激な欲情の高まりを生んだのか、大きく身震いをした三田村が、乱暴に腰を突き上げてくる。和彦は鼻にかかった呻き声を洩らすと、もう一度、今度は強く三田村の肩に噛み付いた。


 三田村の情愛に満たされた充足感と気だるさに、和彦は深く息を吐き出す。横向きにした体を背後から抱き締めてくれる三田村の腕の感触と体温が心地よかった。
「……先生、腹は空かないか?」
 耳元に唇を寄せ、ハスキーな声が囁いてくる。くすぐったくて笑い声を洩らした和彦は、半分寝ぼけた状態で答えた。
「ぼくはまだ平気だ。気にせず、先に食べてくれ」
「いや、俺もあとでいい」
 三田村のゆっくりとした息遣いを感じながら、ウトウトとまどろむ。現実と夢の境が曖昧になり、眠っていながら起きているような感覚に陥る。
 ここ最近目にしたさまざまな情景が、まるでスライド上映されるように、取り留めもなく頭の中を通りすぎていく。眠りたいのに、覗き込んでしまう。疎ましくて頭を振ったつもりだが、たっぷり蜜を含んだように体は重い。夢の中で夢を見ているような、不思議な感じだ。
 いつの間にか情景は、和彦の記憶にないものに変わっていた。いや、唐突に古い記憶に飛んだのだ。
 傷んだ部屋の光景と、けたたましい蝉の声。懐かしい、とまず率直に思ったあと、ざらついた感触に頭の中を掻き回されているような、ひどく不快な気分になった。
 これは和彦にとって、嫌な記憶なのだ。
 見たくないし、新たな記憶として上書きしたくない。夢の中で和彦は抗うが、見えない力に抑えつけられ、顔を背けることはできない。
 泣き出しそうになる和彦に、傍らから声がかけられる。三田村のハスキーな声ではなかった。穏やかで優しく、しかし、ぞっとするような冷たさを秘めた声――。
 父親である俊哉の声だ。
『――これは、父さんとお前だけの秘密だ。誰にも言うな。いい子なら、父さんとの約束は守れるな?』
 自分がなんと答えたのか、和彦には思い出せなかった。古い記憶は、まるで虫が食ったように、ところどころに穴が開き、欠落している。
 とにかく、俊哉の望む答えだったらしく、抱き上げられた。間近で見た俊哉は笑っていた。幼心に、その表情に安堵した記憶はあるが、大人である今の和彦にとっては、ただ不安を掻き立てられる。俊哉のこの表情は、あまりに〈不穏〉だ。
 ビクッと大きく体が震え、急に息苦しくなる。切迫した感情の嵐に呑み込まれそうになり、夢の中でもがいていた。
「先生っ」
 強く肩を掴まれるとともに、鋭い口調で呼ばれる。ハッとした和彦は、自分の顔を覗き込む三田村に気づいた。
 顔を強張らせ、瞬きもしないまま、ひたすら三田村を見上げる。深い闇の底に沈み込む寸前で、救いの手に引き上げられた気分だった。一方の三田村は、即座に和彦の異変に気づいた。
「先生、ゆっくり息をするんだ。それに、瞬きも」
 険しい顔をした三田村に軽く頬を叩かれ、大きく息を吸い込む。その拍子に瞬きを数回繰り返すと、ようやく三田村はほっとした表情となった。
 すぐには状況が理解できず、和彦は困惑する。
「ぼくは、どうしたんだ……?」
「……眠っていたと思ったら、急に呻き出した。不自然に体を強張らせて」
 三田村の言葉に、ぎこちなく苦笑を洩らす。
「寝ぼけていたんだな」
「――目を開けたままだった。どこを見ているのかわからない目をして、瞬きもしていなかったんだ」
 こんなことは初めてだと、三田村は続けた。ただ気遣わしげな眼差しを向けられ、和彦はのろのろと額に手をやる。寸前まで見ていた夢――記憶を辿ろうとしてやめた。
「怖い夢を見たんだ……」
「どんな夢だ?」
「……内容は覚えてないけど、とにかく、怖い夢……」
 そう答えた次の瞬間、和彦は込み上げてきた苦々しさをぐっと堪える。三田村にまた隠し事をしてしまったという、罪悪感の苦さだ。
 三田村の指が、汗で湿った髪をそっと梳いてくる。和彦はおずおずと体の力を抜くと、深呼吸をする。そして、三田村の手を掴むと、自分から頬をすり寄せた。









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