と束縛と


- 第37話(4) -


 施術を終えて処置室を出た和彦は、マスクを外しながら待合室へと向かい、壁の時計を見上げる。いつもなら、とっくに昼の休憩に入っている時間だ。
 午後からもしっかり予約が入っており、昼食をとりに外に出る時間はないようだった。暇すぎるのも困るが、忙しい日が続くのも考えものだ。
 もう一人医者がいれば、クリニック全体の仕事もスムーズに回せるのだが――。
 ときおりそんなことをふっと考えるが、クリニックの規模からして、今が最適な状態なのかもしれない。派手な宣伝も打たず、口コミだけで、とりあえず経営はできており、大きなトラブルにも見舞われていない。
 変に目立って、税務署に目をつけられるのが何より困る。少し芽生えてきた欲を、和彦はそう自分に言い聞かせて抑え込む。
 処置室にはまだ患者が残っており、施術後のケアをスタッフから受けている。まだ三十分はかかるなと計算しながら、電話番以外のスタッフには、先に休憩に入るよう告げる。ついでに、コンビニで適当にパンを買ってきてほしいと頼んだ。
 和彦は慌ただしく診察室に入ると、パソコンで患者のカルテを更新する。次回の来院日時を予約カードに記入し、今日の施術内容と明細を打ち出してから、ようやくほっと息をつく。これで、和彦の午前中の仕事は終わりだ。
 デスクの引き出しを開けて、いつもの習慣として何気なく携帯電話をチェックする。すると、賢吾からの着信履歴があった。こちらが仕事中だとわかっていながら、わざわざ連絡を寄越してくるということは、一刻も早く直接話がしたいということだ。
 診察室に自分しかいないということもあり、早速和彦は電話をかける。なんとなくだが、賢吾の用件には見当がついていた。
『――ようやく休憩に入ったのか?』
 昼間の診察室で、電話越しとはいえ、賢吾のバリトンを聞くというのもなんだか新鮮だ。べったりとイスの背もたれに体を預けていた和彦だが、つい反射的に背筋を伸ばす。
「まあ、そんなところだ」
『繁盛してけっこうなことだ』
「……クリニックの出資者が、他人事のように言うな。それで、なんの用だ?」
『三田村から聞いた』
 賢吾が急に声のトーンを変える。まじめな話をするつもりなのだと素早く察した和彦は、結局、仮眠室へと移動した。
「聞いたって、何を?」
『城東会の館野顧問のことだ。きついことを言われたらしいな』
 和彦はため息をつくと同時に、やはり、と思った。
『三田村を責めるな。先生との約束を守ること以上に、先生の気苦労を少しでも減らすことを、あいつは優先したんだ』
「それは……、わかっている。でも、三田村の組での立場が――」
『そっちは心配するな。俺のほうで館野顧問には、上手く根回しをしておく。あの人は、オヤジの代から、うるさ型として必要とされてきた存在だ。何かしら言わずにはいられなかったんだろう。気にするな』
「……それを言うために、わざわざ昼間に連絡してきたのか?」
『いや、俺がむしろ心配しているのは、三田村が報告してきた、先生に関するもう一つのことだ』
 心当たりはあった。だからこそ和彦は、三田村の気遣いを、このときばかりは恨まずにはいられない。
『うなされていたそうだな。怖い夢を見たとかで』
「それは……、心配されるようなことじゃない。三田村が大げさに報告したんだろう」
『尋常な様子じゃなかったと言っていたが。――俺にしている隠し事と、何か関係あるのか?』
 えっ、と声を洩らしてから、和彦は黙り込む。やはり自分は隠し事が下手だと痛感する瞬間だった。必死に隠しているからこそ、ふいを突かれると、そこで思考が停止する。咄嗟に誤魔化すこともできない。
『鷹津がいなくなったことで、少し不安定になっているのかと思ったが、どうやらそれだけじゃないようだ。それこそ薄皮を剥くように、先生の心を傷つけずに、丁寧に丸裸にしていこうとしたが、どうしたって最後の一枚が取り除けないもどかしさを感じていたんだ。色っぽい隠し事じゃない。そういう艶は、先生は全部顔に出るからな』
「……なんでそんなに、ぼくのことがわかるんだ、あんた」
 電話の向こうから低い笑い声が聞こえてくる。和彦が暗に隠し事の存在を認めたことを、怒ってはいないようだった。
『野暮な質問をするな。〈お前〉に惚れているからに決まってるだろ。それと、俺が嫉妬深いからだ』
「だからって……」
『――鎌をかけただけだ。基本的に善良な先生は、すぐに引っかかる』
 和彦としては苦笑を洩らすしかないが、次に賢吾が発した言葉に、すぐに表情を引き締めることになる。
『それで、俺に打ち開ける気は?』
 耳元に蘇るのは、俊哉の優しく穏やかな話し声だった。改めて和彦が心に誓うのは、賢吾と自分の父親を接触させてはいけないということだ。
 電話越しとはいえ、臆面もなく惚れていると言い放つ男にも、迷惑はかけたくない――。
「本当に、怖い夢を見ただけなんだ。子供の頃のことを思い出して……」
『だったら、一人寝は心細いだろう。しばらく本宅からクリニックに通ったらどうだ?』
 本当に言いたかったのはこれかと、和彦はそっと苦笑を洩らす。嫌ではないが、甘えてしまうと、そのままズルズルと本宅に住みついてしまいそうな予感がするのだ。
「つい何日か前に、泊まったばかりだ」
『いいじゃねーか。うちはいつでも大歓迎だ』
 誘いとしては魅力的だが、賢吾はなんとしても、和彦が見た〈怖い夢〉の内容を知りたがるだろう。その夢に俊哉が関わり、そこから、胸の奥に澱のように溜まっている不安を読み取られたら、と危惧してしまう。考えすぎかもしれないが、大蛇の化身のような男は、何を見通しても不思議ではない。
 返事に困っていると、ドアの向こうから和彦を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、悪いけど、スタッフに呼ばれてるんだ」
『上手い言い訳だな』
「本当だっ」
 信じたのかどうなのか、賢吾が今度はこんな提案をしてきた。
『怖い夢から守ってくれるかどうかは怪しいが、番犬を派遣してやる』
「……番犬?」
『頼もしい犬だぞ。可愛げもあるし』
 本当なのか冗談なのか、そんなことを言った賢吾は、和彦の返事を聞くことなく一方的に電話を切った。




「――で、お前なのか?」
 腕組みをして立つ和彦の言葉に、千尋が目を丸くする。その表情は人懐こい犬を連想させなくもないが、当然、千尋は犬などではない。
 玄関に千尋が入ると、送ってきた組員が頭を下げてドアを閉める。ここからは二人の時間を、ということらしい。
 いそいそと靴を脱いだ千尋が、釈然としない顔をしている和彦に向けて首を傾げる。
「先生?」
「昨日、お前の父親から電話があって、番犬を派遣してやると言われたんだ。……どうやら、お前のことらしいな」
「番犬……、犬、犬か――」
 独り言を洩らし、一人納得したように千尋が頷く。その様子を眺め、長嶺父子が何か企んでいるのではないかと露骨に疑っていた和彦だが、ふと、先日千尋と車中で交わした会話を思い出す。おかげで、千尋をあれこれと問い詰める気力が一気に失せた。
 約束したのは、和彦が最初なのだ。軽くため息をつくと、千尋を促してリビングへと向かう。
「……どうせ来るなら、クリニックが休みの日にすればよかったのに。そうすれば、明るいうちから出かけることもできただろ。この時間じゃ――、あっ、お前、夕飯は食べたのか?」
「ばっちり。だから、デザート持ってきた」
 そう言って千尋が掲げて見せたのは、ケーキ屋のものらしい紙箱だった。受け取った和彦は、千尋の頭を手荒く撫でる。
「着替えを用意しておくから、シャワーを浴びてこい」
「さっさと食べて帰れって言わないんだ?」
 最近、千尋を邪険に扱いすぎただろうかと、遠慮がちとも卑屈とも取れる発言を聞いて、少しばかり和彦の胸が痛む。千尋の額を軽く小突いて答えた。
「言わない。ぼくの抱き枕になりにきたんだろ?」
 ニヤリと笑った千尋が、わおっ、と芝居がかった声を上げ、軽い足取りでバスルームへと向かった。和彦は、デザートはひとまず冷蔵庫に入れ、千尋の着替えを用意して脱衣所に置く。このとき、カゴに放り込まれているスーツ一式に気づき、ため息をつく。いつも、スーツだけは自分でハンガーに掛けろと注意しているが、気にも留めていないようだ。
 上等なスーツに無様な皺がつくのが許せなくて、結局抱えて出ると、ハンガーにかけてやる。
 今夜はダラダラと本を読んで過ごそうと思っていたので、連絡もなく千尋が押し掛けてきたからといって、特に不都合があるわけではない。ただ、仕事を終えて疲れているところに、さらに体力を使うことになるなと少しだけ思うだけだ。千尋が側にいると、話しているだけで生気を吸い取られていくような気がするのだ。
「いや、若さに圧倒されるのか……」
 独り言を洩らしてから、和彦は苦笑いする。頭の片隅に、千尋よりさらに若い青年の顔が浮かびそうになったが、慌てて打ち消した。
 ソファに腰を下ろそうとして、千尋が訪れる寸前まで何をしていたのかと思い出し、書斎へと行く。本棚の整理をしている途中だったのだ。最近は、本を買い込むばかりでまったく処分をしないため、いっそのこと、もう少し大きめの本棚を購入しようかと考えていた。
 床の上に積み重ねた本たちを、本棚のわずかなスペースに押し込んでいると、廊下からパタパタと足音が近づいてくる。
「先生っ」
 勢いよく千尋が書斎に駆け込んでくる。せっかく着替えを用意してやったというのに、下着を穿いただけの姿だ。一体何事だと和彦は目を丸くする。
「……着替えなら出しておいただろ。というか、お前がカラスの行水なのは知ってるけど、さすがに早すぎだろ。きちんと体を洗ったのか?」
「ピッカピカに磨いてきたけど」
 どうだか、と呟いた和彦の側に千尋が歩み寄ってきたかと思うと、いきなり抱き締められた。まだ湿り気を帯びた肌からは、確かに石けんの香りが立ちのぼっている。
「――ここ最近の先生は、ふっとどこかに行っちゃいそうで、怖い……というより、不安」
「何言ってるんだ」
 和彦は、宥めるように千尋の背をさすろうとして、ドキリとした。自分の記憶にある、滑らかで瑞々しい肌の感触ではなかったからだ。ここで、今の千尋の背に何があるのか思い出した。
「ああ、そうか。お披露目してくれるんだったな」
 和彦の言葉を受け、体を離した千尋が背をこちらに向ける。久しぶりに目にした千尋の裸の背には、一面に刺青が彫られていた。和彦がこれまで見てきた男たちの刺青とは違い、鮮やかな色が使われているわけではなく、黒一色で描かれている。しかし、墨の濃淡が使い分けられ、肌本来の色も覗いており、こういう刺青もあるのかと、息を呑む。
「墨を入れたばかりだから、まだ黒々としてるけど、時間が経ってくると、少しずつ色が落ち着いてくるんだ。オヤジみたいな青みがかった色合いが出るのは、何年かかるだろ……」
 刺青の細かい部分に見入っていた和彦だが、ハッと我に返って一歩だけ後ずさる。こうすることで、千尋の背に一体何が彫られているのか、よく見ることができた。
 不思議な獣だ。千尋の肌の色を活かした白い毛と、墨で塗りたくるように彫られた部分が黒い毛として表現され、それが獣の毛並みと柄を巧みに表している。獣は丸い目を見開き、牙を剥き出しにして、何かを威嚇しているようだった。その理由はおそらく、獣の体にたおやかそうな腕を回し、艶めかしい表情で寄り添っている人間を守るためだろう。人一人を背に乗せられそうな大きな体躯は、それが可能だと思わせる力強さを漲らせている。
 和彦の顔が知らず知らずのうちに熱くなってくる。獣に寄り添っているのは女かと思ったが、そうではないと気づいたのだ。はだけた着物の胸元に膨らみはなく、裾が大きく捲れ上がって露わになったふくらはぎから腿のラインは、明らかに女のものではない。
 これは、男だ。そして、男が寄り添っている獣は――。
「……犬、か」
「先生、里見八犬伝って知ってる?」
「中学生のときに読んだ」
「さすが。俺なんて、刺青のモチーフを相談したときに、彫り師の人に言われて初めて読んでみたんだ。で、これだって思ったんだ」
「執念深い犬だよな。初めて読んだときは、怖かった」
 会話を交わしながら和彦は、てのひらでそっと背を撫でる。そこに彫られた犬を可愛がるように。
「でも、一途だ。惚れたお姫様をどうしても自分のものにしたくて、犬の身ですごいことをやった。結果として、手に入れたんだ」
「だからって、お前、この刺青は……」
 千尋がピクリと肩を震わせ、振り返った顔は不安そうな表情を浮かべている。
「――……この刺青、嫌い?」
 その表情から、千尋が何を思ってこの刺青を入れたのか、推測するのは容易い。
「きれいだ。だけどお前、こんなに大きなのを入れたら、体に負担が――」
 言いかけて、やめる。こんなに立派な刺青を入れた今、忠告はすでに無駄であり、ささやかな道徳心を示したい和彦の偽善でしかない。何もかも覚悟したうえで、この刺青を背負うことにした千尋の気持ちを尊重するべきなのだろう。
「本当にきれいだ。ぼくがいままで見てきた刺青とは、色合いも雰囲気も違う。……お前だけの刺青だな」
「見たらわかると思うけど、俺と先生の姿だよ」
 和彦と向き直った千尋が、強い光を放つ目でまっすぐ見つめてくる。怖いほどに純粋で一途な目は、ある意味、凶器だ。和彦の心に深々と突き刺さってくる。言葉ではなく眼差しで、こう訴えてくるのだ。
 自分から逃げたら許さない、と。
「先生のことだからきっと、この先、もし自分に飽きたらどうするんだと言いたいだろうけど、そんなこと心配しなくていいよ。俺はずっと決めている。今は、じいちゃんとオヤジのものでもある先生を、将来絶対、俺だけのものに……オンナにするって」
「心配って……、お前、自惚れるな」
 和彦の言葉に、一拍置いて破顔した千尋だが、すぐに挑発的な表情を浮かべる。甘えるように和彦を見つめてきながら、やはり甘い声でねだってきた。
「先生、オヤジにやっていたように、俺にもして。――ずっと、オヤジが羨ましかったんだ」
 人懐こい犬っころを装いながら、千尋は忠実な番犬でいるつもりなど毛頭ないのだろう。獰猛で、目的のためなら手段を選ばない怖い獣を、望んで背負ったのだ。自分が和彦に向ける執着心や独占欲を表現するのに相応しいと考えたのかもしれない。
 何度目かとなる長嶺の男の怖さを思い知り、和彦はゾクリと身を震わせる。しかし、頬をすり寄せてくる千尋を、愛しいとも思うのだ。
 和彦は、わずかに上擦った声で答えた。
「――……ああ」


 ベッドの上に座り込み、千尋の背にじっくりとてのひらを這わせる。針で丹念に肌を刺したあと、傷が塞がりはしたものの、これまでとは明らかに状態は違っている。滑らかだった肌はざらつき、少し硬くなっている。年月を重ねていくうちに落ち着いてくるだろうが、元の瑞々しく滑らかな肌を知っているだけに、どうしても和彦は痛々しさを感じるのだ。
 しなやかで、まぶしいほどの若々しさを発していた後ろ姿を懐かしみ、惜しみながら、和彦は何度も千尋の背を撫でる。
 刺青を入れたことも、千尋なりの成長なのだろう。そう自分に言い聞かせ、納得する。
「先生……」
 切なげな声で千尋に呼ばれ、ちらりと笑みをこぼした和彦は背に唇を押し当てる。賢吾にしているように、背に――刺青に唇を這わせていく。
 気性の荒い犬を手懐けているような不思議な気持ちとなるが、その犬に寄り添う男に触れるのは、正直気恥かしい。千尋の口から和彦自身だと言われてしまっては、まるで自分を愛撫するかのような倒錯した後ろめたさすら覚えるのだ。
 これまで刺青に触れてきた男たちは、和彦と知り合う以前に極道となり、刺青を入れた。だが千尋は違う。極道としての道を歩み始めたときも、刺青を入れると決断したときも、少なからず和彦の存在が影響している。
「……ぼくは、お前の一途さを怖く感じるときがある」
 背に唇を押し当てながら和彦が洩らすと、微かに千尋の体が震える。どうやら笑ったらしい。
「俺が先生一筋だって、伝わってるんだ」
「まあ……。本当に、どうしてぼくなんだと、呆れるときもあるが」
「一目惚れで好きになって、そこからますます好きになってる最中」
 余計なことを言わなければよかったと、明け透けすぎる返事に顔を熱くしながら、和彦は刺青を舌先でなぞる。ピクリと千尋が背をしならせ、小さく声を洩らす。
「くすぐったい……」
「やめるか?」
「ううん。くすぐったいけど、気持ち、いい」
 触れている千尋の体が、じわじわと熱を帯び始める。その反応に感化され、和彦も胸の奥で熱いものがゾロリと蠢くのを感じていた。
 千尋の脇腹をそっと撫で上げると、いきなり手を掴まれる。導かれたのは、両足の間だった。下着の上から触れた千尋の欲望は、すでに熱くなりかけている。焦らすようにてのひらで撫でさすってやると、すぐに千尋が音を上げた。
「先生、意地悪しないでよっ……」
「してないだろ。お前に余裕がないだけだ」
 そう応じながら和彦はそっと笑みを浮かべると、千尋の背骨のラインに沿って舌先で舐め上げる。千尋が上擦った声を上げ、もどかしげに体を揺する。素直な反応に、和彦も静かに興奮の高まりを覚えた。
 千尋の背に体を寄せると、和彦は本格的な愛撫を加えることにする。下着の中で窮屈そうにしている欲望を外に引き出し、てのひらでしっかりと握り込んでやる。このとき、千尋がどんな顔をしたのか見ることはできないが、弾んだ息遣いを聞くことはできる。
「先生――……」
「お前の希望だろう。ぼくが、組長にしていたようにしてほしい、って」
「……いつもこんないやらしいこと、オヤジにしてやってるんだ。これは、想像以上――」
 顔を上げた和彦は、千尋の首の付け根に軽く噛みついてやる。不自然に言葉を切った千尋が身震いしたかと思うと、次の瞬間には振り返り、しがみついてくる。二人仲良く、ベッドの上でひっくり返っていた。
「千尋っ、暴れるなっ」
「興奮したんだから、仕方ないよっ。なんか今なら、上半身裸でマンションの周りをマラソンできそう」
 通報されるぞと、半ば本気で和彦が忠告すると、体の上に乗り上がってきた千尋が顔を覗き込んでくる。いつも以上に切れ上がった両目は強い光を宿し、荒い息遣いを繰り返している。
「――刺青入れたからって、急に大人の男になるわけじゃないけどさ。でも、変わっていく俺の側に、先生がいてくれた。これからも、いてくれるよね?」
「お前、顔怖い。……口説かれてるというより、脅されてるみたいだ」
「先生が頷いてくれないなら、脅すよ」
 じゃれついてくる犬っころのようだった青年は、絶妙のタイミングで本性を露わにしてくる。目的のためなら手段を選ばないという、怖い男の本性だ。
 和彦は片手を伸ばして、手荒く千尋の頬を撫でる。
「やっぱり長嶺の男たちはよく似てる。ぼくから欲しい返事をもぎ取ろうとするんだ」
「そのほうが、先生にとっても楽でしょ?」
 千尋の指摘の鋭さに微苦笑が洩れる。鋭いところも、長嶺の男らしい。
 ベッドの上で抱き合いながら激しく濃厚な口づけを交わす。すでにもう興奮を抑えきれなくなっている千尋がもどかしげに下着を脱ぎ捨て、高ぶった欲望を和彦の腿に擦りつけてくる。着ているトレーナーをたくし上げられ、露わになった胸元に噛みつく勢いで吸いつかれる。
 痛い、と危うく声が出そうになったが、必死な様子の千尋を見ていると、行為を止めるようなことは言えなかった。代わりに、囁くような声でせがむ。
「千尋、服、脱がせてくれ」
 すぐに千尋に勢いよくトレーナーを脱がされ、パンツと下着も引き下ろされる。剥き出しになった腿にまた欲望を擦りつけられたので、和彦は妙に微笑ましい気分を味わいながら、千尋の下肢に手を伸ばす。
「舐めてやろうか?」
 うん、と素直に頷く千尋が可愛い。しかし、そう思えたのはわずかな間だ。体の位置を入れ替えようとして身じろぎかけたときには、和彦は両腕を掴まれて引っ張り起こされる。何事かと戸惑っている間に、千尋がいそいそとクッションを重ね、そこにもたれかかった。そして、まるで和彦を招くように足を開く。
 中身はともかく、見た目はしなやかな体躯を持つ端整な顔立ちの青年だ。一連の動作に、不覚にも和彦は見惚れてしまった。
 ニヤリと笑った千尋が、開いた両足の間で起き上がった自分の欲望を指さす。
「――先生」
 和彦は露骨に顔をしかめて見せた。
「普通に横になればいいだろ……」
「この姿勢だと、先生の顔がよく見えると思って」
「……悪趣味だな」
「スケベと言ってもらいたいなー」
 千尋の片手が後頭部にかかり、やや強引に両足の間へと導かれる。上目遣いに千尋を睨んだ和彦だが、突きつけられた欲望の先端にそっと舌を這わせる。同時に、引き締まった腹部にてのひらを押し当てた。舌先の動きに合わせるように、筋肉がぐっと硬くなる。
 執拗に先端を舌先で攻めてから、括れを唇で締め付ける。柔らかく舌をまとわりつかせるように蠢かせると、もどかしげに千尋が腰を揺らし、くしゃりと髪を掻き乱された。
 一度欲望を口腔から出し、根本からじっくりと舐め上げる。すでにもう千尋の息遣いが荒くなっている。ちらりと視線を上げると、熱っぽい眼差しでじっと見つめられていた。急に羞恥心を刺激された和彦は慌てて頭の位置を動かし、少しでも表情を見られまいとしたが、すかさずあごの下に千尋の手がかかる。
「先生、ダメだよ。顔が見えない」
 話すことができないので、眼差しで訴えようとしたが、どこかうっとりとした笑みを千尋から向けられ、行為を途中でやめられなくなる。
 やはり自分は千尋に甘いと、いまさらながら和彦は痛感していた。
 指の輪で欲望の根本から扱いてやりながら、ゆっくりと口腔深くまで呑み込んでいく。すぐには動かず、ただ粘膜で包み込み、柔らかく締め付ける。それだけの愛撫でも、素直な千尋の欲望は瞬く間に育ち、力強く脈打ち始める。和彦は、あえて大胆に湿った音を立てながら頭を上下させ、口腔から欲望を出し入れする。
「……先生、すげー、いやらしい……」
 感嘆したようにそう呟いた千尋に前髪を掻き上げられ、頬を撫でられた。
 このまま口腔で精を受け止めるつもりだったが、愛撫の途中で千尋に止められた。濡れた唇を指先で拭われたかと思うと、今度は口腔に二本の指を押し込まれ、和彦はちらりと千尋を一瞥してから、指を吸う。
 千尋の指が蠢く。愛撫をしていたつもりが、反対に口腔の粘膜を丹念に撫で回され、ゾクゾクするような肉欲の疼きを感じた。舌を柔らかく指で挟まれたあと、上あごの裏を擦られて、鼻にかかった声を洩らしていた。千尋が愉悦を覚えたように目を細める。ハッとするほどその表情が色気を帯びており、なぜか和彦はうろたえてしまう。反射的に頭を引いていた。
「先生?」
 口腔から指が抜き取られると同時に、和彦は慌てて体を起こし、広いベッドの隅へと移動しようとしたが、堂々とした犬の刺青を背負った青年――男は見逃してくれるほど甘くはない。あっさり背後から飛びかかられた挙げ句、腰を突き出した扇情的な格好を取らされていた。
「――次は、先生の番ね」
 千尋に尻の肉を鷲掴まれ、和彦は声を上げる。
「おいっ……」
「じっとしてて。すぐに気持ちよくしてあげるから」
 思いきり双丘を割り開かれ、何をされるか察して身を捩ろうとしたが、次の瞬間、ぴしゃりと尻を叩かれた。このとき和彦の全身を貫いたのは痛みではなく、強烈な疼きだった。
 熱い吐息が尻に触れ、鳥肌が立ちそうになる。
「千、尋っ……」
 柔らかく湿った感触が、いきなり内奥の入り口で蠢き始める。和彦は激しく羞恥を刺激され、千尋にこんなことをさせているという罪悪感にも似た感情に襲われるが、同時に、抗いがたい愉悦も生み出していた。
「はっ、あっ、あぁっ」
 執拗に内奥の入り口を舌先を舐められ、くすぐられ、少しずつ下肢から力が抜けていく。堪らず和彦が腰を揺らすと、もう一度千尋に尻を叩かれて、笑いを含んだ声で言われた。
「恥ずかしがるけど、すごく好きだよね、舐められるの。先生のここ、もう真っ赤になって、ヒクヒクしてる。快感に弱い、先生そのものだ。だから可愛いし、大好き」
 舌先がわずかに内奥に押し込まれてきて、浅ましくひくつかせてしまう。そこに、一本の指がやや強引に挿入された。
「んんっ」
 和彦は鼻にかかった甘い呻き声を洩らす。すぐに指が引き抜かれ、代わって舌が入り込む。油断ならない千尋の手が前に這わされ、柔らかな膨らみを優しい手つきで揉まれる。父親譲りの器用な指にあっという間に弱みを探り当てられた瞬間、和彦はビクリと背をしならせていた。
 指先で弄ばれ、刺激を与えられる。さんざん弱みを嬲られたあと、今度はやや乱暴な手つきで柔らかな膨らみを揉みしだかれて、和彦は立て続けに甲高い声を上げていた。
 腰が溶けてしまうと思ったところに、再び内奥に指を挿入される。今度は二本の指を出し入れされながら、発情し始めたばかりの襞と粘膜を擦り上げられる。ぐるりと内奥を撫で回されたかと思うと、浅い部分をまさぐられ、指の腹で強く押し上げられたときには、痺れるような法悦に軽い眩暈に襲われる。
「――先生、入れるね」
 和彦が全身を戦慄かせる頃になって、千尋がひそっと囁きかけてくる。振り返ってだらしない顔を晒せるはずもなく、和彦は布団に顔をうずめたまま頷く。すっかり汗ばんだ背を、燃えそうに熱くなっているてのひらでさらりと撫でられた。
「あっ……ん」
 念入りな愛撫で緩んだ内奥の入り口に欲望の先端が擦りつけられる。硬い感触がヌルリと挿入されてくる感触に、和彦の内奥は歓喜し、激しく収縮していた。
「すごい、悦んでる?」
 弾んだ息遣いで千尋に問われたが、答えられるはずもない。和彦は必死に声を堪えようとしたが、容赦なく背後から突き上げられて、唇を引き結ぶ間もなかった。
「うあっ、あっ、はっ……、ああっ」
 腰を掴まれ、内奥深くまで欲望を捻じ込まれる。下腹部に広がる重苦しさは、甘さと切なさを伴った感覚へとじわじわと変化していく。自分でもわかるほど、愛しげに千尋の欲望を締め付けていた。
 大きく息を吐き出した千尋が一度動きを止め、両手で和彦の体をまさぐってくる。開いた両足の間に片手が差し込まれ、反り返って震える欲望を扱かれると、ビクビクと腰が震える。透明なしずくを滴らせる先端を爪の先で弄られて、甲高い声で鳴いてしまう。
「……先生、気持ちいいんでしょ。中、締まりまくってる」
 内奥の収縮を確かめるように、千尋が緩く律動する。しかし、不意打ちで奥深くを抉るように突かれて、全身に快美さが駆け抜ける。絶頂を迎え、精を迸らせていた。
「ひっ、あぁっ――」
 次の瞬間、ズルリと内奥から千尋の欲望が引き抜かれ、それでなくても脆くなっている襞と粘膜を強く擦り上げられる。充血してひくつく淫らな肉の洞を、千尋が食い入るように見つめていると、振り返らずともわかった。その証拠に、感嘆したように千尋が言葉を洩らす。
「俺の形に広がって、いやらしい。でも、可愛い。ヒクヒクと震えながら、ゆっくりと閉じようとしてる。どうせすぐに、俺がまた広げちゃうのに」
 こうやって、と千尋の欲望が再び内奥に挿入されてくる。一息に深くしっかりと繋がると、絶頂の余韻から覚めていない和彦を背後から揺さぶってくる。そのたびに内奥深くを力強く突かれ、間断なく快感の波に襲われる。
「千尋っ……、少し、待ってくれ……」
「ダメだよ。先生、こんなに気持ちよさそうなのに、止まったらもったいないよ。俺も、気持ちいいし」
 暴走しているようで、千尋は快感をコントロールしていた。自分が達しそうになると律動を緩め、代わって和彦の体をまさぐって愛撫してくる。和彦にだけ、絶えず快感を送り込んでくるのだ。
 胸元を撫でられ、触れられないまま硬く凝った突起を探り当てられる。指の腹で軽く擦られただけで、うつ伏せの体を波打たせるほど感じてしまう。千尋が嬉しそうに言った。
「あとでいっぱい舐めて、吸って、噛んであげる。今はこれで我慢してね、先生」
 胸の突起を指で挟まれ、抓るように刺激される。痛みはあるが、手荒い愛撫の心地よさが勝っていた。和彦が喉を鳴らして反応すると、もう片方の突起も同じ愛撫を施される。
 内奥で千尋の欲望が蠢く。いや、蠢いているのは和彦の内奥のほうだ。さきほどから淫らな蠕動を繰り返し、若い欲望を貪り続けている。
 そんな和彦を攻め立てながら、思い出したように千尋が切り出した。
「――先生、俺のために刺青入れてよ」
 和彦は、突然耳に飛び込んできた情熱的な――ある意味物騒とも言える言葉に、完全に虚をつかれた。
「えっ……」
「小さくていいし、ずっと先でもいいから。俺だけは特別って意味で、何か肌に彫ってほしい」
「……刺青は、絶対入れない」
「俺の頼みでも?」
 背骨のラインに沿って指先が這わされ、ゾクリと体が疼く。千尋の口調は、甘ったれの青年のものではなく、己が持つ力を自覚した筋者のそれだった。
「だったら、ぼくの頼みは無視するつもりか? 賢吾――お前の父親にも同じことを言われたけど、ぼくは承諾しなかった。……ここでお前の頼みに頷いたら、あとできっと同じことを、嫌でもお前の父親に約束させられる」
「それは困る、かも……」
 千尋にしっかりと腰を抱き寄せられて、内奥深くを強く突かれる。間欠的に声を上げながら和彦は、腰に回された千尋の腕に爪を立てた。内奥で、千尋の欲望はこれ以上なく大きく膨らんでいた。
「はあっ……、このまま、先生のこと抱き殺しちゃいそう。好きすぎて、堪らないっ。独占できないのが、ムカつくのに、すげー興奮するんだ」
 苛立ちともどかしさをぶつけるように千尋が激しい律動を始め、和彦は体を前後に揺さぶられる。嵐に巻き込まれたと感じたのは、わずかな間だった。
「あっ、あぁっ――」
 熱い奔流が和彦の中で生まれる。千尋が注ぎ込んでくるたっぷりの精を受け止めながら、和彦は愉悦に喉を鳴らす。体だけではなく心も、千尋からぶつけられる狂おしいほどの想いに反応し、歓喜していた。


 事後のけだるさに身を委ねながら和彦は、汗で湿った千尋の髪を飽きることなく撫でてやる。千尋は心地よさそうに目を細め、非常に満足げだ。
 情熱と情欲が暴発したかのように、千尋は際限なく和彦を求めてきた。こうなると止める術はなく、好き勝手に貪られることとなったのだが、呆れはしても、嫌ではなかった。全身で愛情を表現してくる千尋に、ときおり怖さは覚えはするものの、それ以上に愛しさを抱いている。
 人懐こい犬っころのふりをしながら、本質はしたたかでしなやかな獣だとわかっていながら――。
 和彦は、千尋の頭を抱き寄せると、片手を背へと這わせる。ブルッと千尋が身を震わせた。
「――いままでと、変わった気がする」
 ぼそりと千尋が洩らし、和彦は顔を覗き込む。すかさず唇を吸われた。
「何がだ?」
「先生が、俺を撫でる手つき。きちんと、一人前の男として認識してもらえてるっていうか……」
「刺青入れたぐらいで、一人前扱いなんてできるか。甘ったれの犬っころが」
「でも、もうガキだとは思ってないだろ。俺のこと」
 挑発的な上目遣いで見つめられ、和彦は返事に詰まる。そんなことはない、とは言えなかったのだ。
「……気に病まなくていいよ、刺青のことは。俺が必要だと思ったから入れた。先生のために、なんて恩着せがましい気持ちはないんだ。長嶺の男の一人として、オヤジやじいちゃんと張り合うのに必要だから、そうした。決意を背負ったんだから、気合いが入るよ」
「すっかり、極道の男の口ぶりだ」
「まあ当分は、先生に甘やかされる犬っころではいるけどね。これは、俺だけの役得」
 刺青を背負って言うようなことかと思いながら、和彦は口元を緩める。
 少しの間、ベッドの上でしどけなく絡み合い、気だるく淫らな雰囲気を堪能していたが、先に体力が回復した千尋が再び挑んでこようとしたので、和彦は半ば本気で拒絶する。本当に抱き殺されかねないと危惧したのだ。
 唇を尖らせた子供のように拗ねた素振りを見せて、千尋がもそりと起き上がる。
「仕方ないなー。先生がそこまで言うなら、我慢する」
「こっちが悪いような言い方をするな。……明日、仕事に行けなくなったら困る。泊まってもいいから、もうおとなしくしていろ」
 渋々頷いた千尋が、気を取り直したように提案してきた。
「先生、風呂入ろう」
 本当に元気だなと思いながら和彦は、いつもの癖で千尋の頭を手荒く撫でる。
「ぼくはまだ動けないから、お前だけ先にシャワーを浴びてこい……」
「二人でゆっくり入ろうよ。俺が全部やってあげるから」
「……それはちょっと、魅力的な提案だな」
「じゃあ、すぐにお湯溜めてくるっ」
 締まりのない笑顔を見せた千尋がベッドを飛び出して行こうとしたので、慌てて腕を掴んで引き止める。
「下着ぐらい穿いていけっ」
「えー、どうせすぐ脱ぐじゃん……」
 ぶつぶつ言いながらも、ベッドの端に腰掛けた千尋が、床に落ちた下着を拾い上げようとする。わずかに上体を起こして、まだ目に新鮮に映る刺青に見入っていた和彦だが、あることが気になり、何げなく尋ねた。
「なあ、刺青を入れたら、組か長嶺の家で、祝い事みたいなことはするのか?」
 下着を掴んだまま、不思議そうな顔で千尋が振り返る。
「祝ってもらえるのかな?」
「……ぼくに聞くなよ。いや、お前の家は行事ごとはいろいろしっかりやっているから、これはどうなのかと気になっただけだ」
「うーん、大っぴらにはしないよね。組員同士ならさ、気安く話すかもしれないし、体を見せることもあるだろうけど。俺が知る限り、じいちゃんとオヤジが背中にあるものを披露したなんて話は聞いたことないかなー。そもそも、ごく限られた組員か、特別な相手以外は知らないと思うよ。俺たちの体にどんな刺青が入っているかなんて。それどころか、入っていること自体、どれぐらいの人間が知ってるか。俺も、特別な人にしか見せるつもりないし」
 ここで千尋が意味ありげにニヤニヤと笑う。
「じいちゃんとオヤジの刺青って、それぞれの気質がよく出てるだろ? 日ごろ長嶺の男たちを、食えない古狐だとか、蛇みたいに陰湿な野郎だなんて、陰口叩いている奴らは、まさかそのまんまのものが、背中に堂々と彫ってあるなんて、思いもしないだろうね」
「――……よくまあ、そんな命知らずなことを楽しそうに口にできるな、お前」
 苦笑を洩らしかけた和彦の脳裏を、鋭く刺すものがあった。反射的に起き上がると、半ば無意識のうちに千尋の腕に手をかける。
「先生?」
「お前にこんなことを聞かせると気を悪くするかもしれないが……、会長は、滅多に肌を見せないんだ」
 和彦が言わんとしていることを察したらしく、ちらりと複雑な表情を見せて千尋が頷く。
「先生を抱くとき?」
「だから感じるんだ。会長にとって刺青を見せるということは、特別な行為なんだと」
「つまり先生が、『特別な相手』ってことだろ」
 和彦はこのときには、一か月以上も自分の神経をチクチクと刺激し続けていたものの正体がわかっていた。
 睡眠薬で朦朧とした意識で、電話越しに俊哉のその言葉を聞いたとき、まっさきに感じたのは、なぜ知っているのか、という率直な疑問だった。それが強烈な眠気で押し流され、記憶は霞みがかったように曖昧になった。
 あのとき和彦が引っかかったのは、俊哉が放った『化け狐』という言葉だったのだ。
 守光の背に棲む、九本の尾を持つ毒々しい黄金色の狐の姿は、和彦の目にしっかりと焼き付いている。あれを見て、ただの狐と表現する人間はいない。直接目にした者こそが、言える言葉だ。
 俊哉はいつ、守光の背にあるものを見たのか――。
 和彦は恐ろしい可能性に気づき、口元を手で覆っていた。









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